
2023/08/22 - 2023/08/22
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gianiさん
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苫前郡の中心地で、離島への基地。
でも地域では後発の歴史の浅い町。
先住民も居なかった不毛の地です。
現在は、ミュージアムと海の幸に囲まれた魅力的な町でした。
- 旅行の満足度
- 5.0
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鮭鱒の漁小屋が栖原に築かれました。島嶼部(焼尻/天売島)の方が、漁場として早くから開発されました。
本土の開発が始まったのは、1880年代後半からです。 -
町はずれにある資料館。
10-16時開館と、幾分短め。
スタッフも、突然の来客に不意を突かれた感じでした(笑)。
年間来場者数が気になります。羽幌町郷土資料館 美術館・博物館
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略史
羽幌川と築別川が流れ、日本海側ルート上に位置します。両河川の渡守としてアイヌが詰めている程度でした。
以降は、和人の進出史です。和人は、17世紀半ば(明暦年間)以降に砂金採取のために松前藩が進出しました。
島嶼部(焼尻/天売島)の方が漁場として早くから開発され、本土の開発が始まったのは1880年代後半からです。 -
地名の由来
アイヌ語のハボロベツもしくはハブルが由来との説があります。和人は羽幌の漢字を当てました。当時の羽幌川は幅が55mほどで、流域の保水力がないので夏の降雨時に氾濫しました。
羽幌の町章は、外周の上半分=ハ、中心=ホ、外周全体=ロです。中心部は基幹産業の黒ダイヤ(石炭案山子)/米/鱗(漁業)を表します。外周は町の円満もシンボライズしています。島嶼部も町域です。 -
漁業
基幹産業で最古は、漁業です。1746年に沖合の焼尻島で鰊漁が始まりました。
1786年には、栖原角兵衛が焼尻/天売島および天塩で場所(漁場)を経営します。
漁期だけでなく、通年で生活するようになったのは1874年の天売島です。
1894年に苫前村漁協羽幌支所が開設され、1901年に羽幌漁協として独立。 -
組織的漁業(捕鯨)
1886年(M.19)に元加賀藩士斎藤知一が漁船4艘/漁夫24名を伴って、羽幌で捕鯨を始めます。同年に帝国水産が捕鯨事務所を羽幌川北岸に設け、まもなく斎藤が主管に就任します。斎藤は内灘村(現石川県内灘町)から船13艘/漁夫150名を出稼ぎ漁師として受け入れます。捕鯨は1901年まで続きます。 -
組織的漁業(鰊漁)
1886年(M.19)に青森県人が羽幌で鰊漁を始め、87年に内灘村から留萌へ移住した島元四郎右衛門が88年に羽幌へ移住して刺網漁を導入します。ライバルの多い南部(留萌)から新天地を求めた背景があります。出稼ぎ者は、毎年500名ほどに及び、内灘村がメインだったので加賀衆と呼ばれます。
※歴史的経緯を踏まえ、羽幌町と内灘町は姉妹都市関係です。 -
鰊は産卵のために沿岸に回遊します。まず雄が藻場(柔らかい海藻が密生する場所)に精液をばらまき、海面が乳白色になります。そこへ雌が産卵、受精卵は海藻に着床します。産卵期(4,5月)=漁期です。鰊の別名は、春告魚です。
出稼ぎ衆は3月下旬に到着し、網繕い/投網地点で土俵-浮の据付等の下準備を行います。
アイヌの漁法は、タモ網(掬い網)で必要な分だけ獲るエコなものでした。 -
刺網漁
海面が乳白色になると、そこが産卵スポット。帯状の網を地面に刺して、鰊の進路を塞ぐ形で設置します。突進する鰊のエラや背びれが網目に引っ掛かって一網打尽という理屈です。最もシンプルな漁法で、家族経営でも対応できるスケールです。
※魚種毎に、網の位置(習性)や網目の大きさを変える漁法です。 -
網をピンと張るために、網の上部には浮き(左:あば、右:ダブ)を設置します。
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鰊漁は、タイミングが命。白濁するのを見るや、各漁師が一斉に刺し網を張ります。回収する際に誰が刺した網かはっきりさせるために、あばには所有者を特定する札が架けられます。上の写真のように、あばに直接記載することもあったようです。
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水揚げの様子。
海での網の回収で渋滞し、網にかかった魚が多すぎて破れたり、重すぎて回収できなかったりというハプニングも度々起きたそうです。 -
建網(定置網漁)
沖で寝泊まりする漁師から群来の前触れが報告されると、起こし船で網を張ります。鰊の進路を垣網で遮って、垣網の延長線上(沖方向)にある袋網へ誘導します。袋網は二艘の起こし船に挟まれて、ポジションを維持します。船頭は網の中に障り糸を垂らし、手先に伝わる感覚で、網を引き揚げるタイミングを見計らいます。 -
袋網から枠船の網に鰊を移し替え、浅瀬まで運びます。浅瀬で汲み船の船倉に移し替えて、陸揚げします。
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沖合には、生鰊を直接買い付けるツブ買船が停泊しています。
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生魚として卸すのはごくわずかで、ほとんどは加工して製品にします。
鰊つぶし
水揚げ後数日乾燥させると、数の子は固く、ほかの部分は柔らかくなります。このタイミングで解体します。三枚におろし、数の子/白子/残りかすに分かれます。 -
鰊の身は、2週間かけてゆっくり乾燥させ、身欠き鰊(保存食)として出荷されます。
浜で身を干す光景は、春の風物詩です。
数の子も乾燥させて出荷します。白子は、乾燥後肥料として出荷します。 -
骨の部分や「残りかす」はすべて集められ、鉄釜で煮詰めます。鰊は、余すところなく活用されます。
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煮詰めたものを角胴(鰊締め胴)に流し、圧搾します。
搾られた液体から油を抽出し、照明用の油として出荷します。 -
搾りかすは鰊粕と呼ばれ、タマ切りと呼ばれる大きな包丁で裁断し、いぶりと呼ばれる粉砕機に入れて、レバーを回して柔らかくします。
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粕干し
浜で鰊粕を乾かして、肥料として出荷します。鰊の大半は、食用(数の子/身欠き)よりも肥料として出荷される量が圧倒的でした。高栄養価ゆえに、日本全国の商品作物栽培を支えた屋台骨です。 -
左:タマ切り
右:粕俵(浜に敷いて、鰊粕を乾燥させた)
中:突鍬(粕俵に敷いた鰊粕を均して平らにした) -
漁獲量
ノウハウがいる大規模な建て網漁の普及で明治41年まで右肩上がりです。大正6年をボトムにどん底まで落ち込みます。不漁に伴う負債増で出稼ぎ衆は地元へ戻れなくなり、羽幌へ定住しました。
昭和9年には24、000tの最高記録を樹立し、急激に低下します。終戦に掛けて幾分回復するも、昭和33年を最期に皆無に陥ります。 -
現在は、沿岸漁業から沖合漁業にシフトしています。
北のにしん屋さん グルメ・レストラン
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風情を誘う店名ですが、売りは甘えび。
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羽幌町は、甘えびを推しています。
甘えびファクトリー蝦名漁業部 グルメ・レストラン
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こちらは、クーラーボックスかクール便を活用したいお店。
常温商品は、おしゃれなイタリアン系が多いです。 -
開拓と農業
1896年に羽幌の官有林が開放されたのを機に、入植がはじまります。原生林を開拓開墾することが、農業の第一段階でした。北陸をメインに400戸が入植します。 -
開拓小屋
入植初日は、笹と木で設営した仮小屋で寝泊まりし、翌日以降、地割から始めて開拓小屋を建てました。骨格は木材、壁や屋根は莚と笹、窓は無し、扉の代わりに莚を掛けました。床は笹の上に莚を敷きました。井戸掘りも併行しました。室内は、木の皮を垂らして「部屋割り」しました。
農作物の収穫に伴い、床は笹から籾殻に進化します。寒冷地ゆえに井戸も台所も室内で、排煙設備がないので炊事を始めると煙が充満するありさまでした。寝具のヘリは水分が氷結しました。
10年程経つと小屋から家に代わり、床も板敷きに莚を敷くまでに向上。嫁を迎える際は、奮発して薄縁(畳表製の御座)を手に入れたそうです。 -
ハロー(底面)
草木を取り除いた後、底面に鋭鉄をはめたハローを馬に曳かせて、砕土を行いました。人の背丈を軽く超える熊笹を焼き払ったおかげで、肥料無しで菜種/豆/馬鈴薯といった商品作物が良く育ち、掘立小屋暮らしから家を建てられるまでに改善します。1918年には帝国製麻の工場が進出し、亜麻栽培もおこなわれました。 -
水田への転作
耕作年数が進むと連作障害が深刻になり、水田へ転換する農家も増えました。1894年以降、林市次郎は稲作を試み、1910~12年に客土/灌漑の伴う土地改良を行って、水田に転換しました。現在まで、地域では珍しい米処です。1966年には羽幌ダムが完成し、水源が充実します。 -
石炭採掘
1874年の地質調査で石炭層の存在が指摘され、後に1.5~4.5mの炭層が確認されました。1897年に1万トン採掘されたのをきっかけに、発展しました。1918年には、鈴木商店が系列の神戸製鋼用に30鉱区を取得、1940年に築別坑操業開始、1941年に国鉄に接続する鉄道を開通させました。戦争中は人員不足で、思うように生産が伸びませんでした。
※鈴木商店は1927年に倒産し、太陽曹達を経て羽幌炭砿鉄道が事業を継続します。 -
1947年には上羽幌坑、48年には羽幌本坑が操業開始し、長壁式採掘や機械化によって採掘/選炭/運送能力が向上し、49年には年間10万トンを達成します。卸先は、道内の国鉄をメインに家庭用燃料というスタイルでした。
その後、1951年には50万トン、1956年にはスエズ動乱も手伝って100万トンを達成します。竪坑/斜坑のベルトコンベア化/全国で2番目のスライシング採炭法導入(自走枠等の大掛かりな機械導入)/留萌港の整備費の半額負担といったたゆまぬ企業努力で、中小坑の雄として知られます。
得意先も、東電/中電/関電等の本州がメインになりました。 -
生活
羽幌炭砿の繁栄は、企業スポーツにも反映します。
スキージャンプは、羽幌飛行隊の名で大活躍を筆頭に、バレー/野球部も全国大会で活躍します。
3つの堅坑沿いに、12,456名(築別6200/羽幌3700/上羽幌2600)が生活しました。 -
閉山
1962以降の政府のエネルギー転換政策や坑内火災/水脈問題等も重なり、1970年に閉山/鉄道廃止。12000人以上いた町は廃墟に。 -
羽幌炭
良質炭として知られ、最上種は本州の石炭火力発電所や製菓/精糖メーカーへ、亜炭は家庭用燃料炭として道内を出回ります。熊のマークがローカル。
※石炭は鉱物ですが、狭義では金属ではなく化石燃料なので、石編の砿の字を使用するメーカーが多いです。 -
炭層には天然ガスも存在し、プロパンガス事業も手掛けていました。
炭礦操業時の羽幌町は人口3万人を超えていましたが、今は12,000人程度です。 -
市街地の形成
アイヌ時代も川守(渡守)がいる程度でしたが、最初の和人定住者工藤浅吉も羽幌川渡船場の渡し守として1885年に赴任したのが始まりです。漁期に漁民が滞在する程度でしたが、1885年に漁師の定住がはじまります。1894年に苫前郡羽幌村が誕生し、道庁によって市街地が区画されます。各宗派の説教所、小学校、医院、回漕業者なども誕生します。1896年に農地開拓も始まり400戸が転入、1897年には苫前村(苫前郡の中心)にあった村役場が、羽幌に移動します。 -
1896年には羽幌神社も開設され、村としての体裁も整います。
1901年に現在地に移転しています羽幌神社 寺・神社・教会
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交通史
渡船だった羽幌川も、1895年には南2条通り沿いに架橋(流失)、南本通り沿いに写真の立派な橋が架かります。
定期航路は、1883年に焼尻島/1884年に天売島まで開通しました。
1893/97年には回漕業者(海運業)が開業します。 -
1900年に駅逓が開設、乗合幌馬車が運行されます。
1926年には羽幌橋の鉄筋コンクリート化、1929年には築別川の架橋、バス路線開通、1932年には留萌から国鉄羽幌線が伸張します(1987年廃止)。
現在は、1952年設立の沿岸バスが、地域内と札幌路線を担っています。 -
1910年頃の目抜き通り。
奥に、木造の羽幌橋が見えます。 -
1925年の光景。
羽幌橋より撮影。 -
同上
洋館も写っています。 -
1933年の航空写真
羽幌川が蛇行しています。 -
羽幌川付け替え
ハボロベツは、流出広大な川の意味。港として、田畑の水源として適したものの、一度氾濫すると大惨事です。1943年に北側へ放水路を竣工させ、旧流路は福寿川と呼ばれます。写真は、羽幌橋から下流部を撮影したもの。河口には漁港が建築され、放水路は漁港を避けています。
※羽幌橋を基線に町割り(北●条/南●条)されており、文字通り市街地の真ん中を流れる川です。 -
羽幌橋沿いには、素敵なバラ園が。
ハマナスもバラ科らしく、区画が用意されていました。はぼろバラ園 花見
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隣には、北海道海鳥センターが。海鳥のパラダイス天売島の海鳥について学べます。次回は、ぜひ島嶼部も訪れたいです。
北海道海鳥センター 美術館・博物館
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羽幌橋には、すべてが揃った宿泊施設が。
はぼろ温泉 サンセットプラザ 宿・ホテル
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1階のレストランでは、希少品甘えび餃子入りのカレーをいただけます。
海鮮食彩 二島物語 グルメ・レストラン
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北海道の日本海といえば、蛸ざんぎもマスト。
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露天風呂よりも大浴場が落ち着きます。温泉です。
道の駅 ほっと はぼろ 道の駅
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おまけ
沿岸バスは、本社ターミナルに停車します。
市街地にあり、タクシーも呼べます。ここでの乗降が便利。
待合室もあります。沿岸バスターミナル (本社) 乗り物
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もう一つ、羽幌ターミナルにも停車します。こちらは、廃止された国鉄羽幌駅跡。
広い構内で、運輸部の拠点です。
でも周囲に何もない町はずれです。
間違って降りないようにしましょう。
次の旅行記↓
https://4travel.jp/travelogue/11846999
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