![北海道でも地味な、留萌振興局管内を路線バスで走破。<br />沿岸バスが発売する「萌えっ子フリー切符」でお得に旅行できます。<br />羽幌線/留萌本線の火が消え、鉄道に見放された地域です。](https://cdn.4travel.jp/img/thumbnails/imk/travelogue_album/11/84/59/650x_11845967.jpg?updated_at=1693350744)
2023/08/22 - 2023/08/22
93位(同エリア171件中)
gianiさん
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北海道でも地味な、留萌振興局管内を路線バスで走破。
沿岸バスが発売する「萌えっ子フリー切符」でお得に旅行できます。
羽幌線/留萌本線の火が消え、鉄道に見放された地域です。
- 旅行の満足度
- 5.0
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旅のはじまりは札幌。
留萌までは、北海道中央バスと沿岸バスが運行しています。
ちなみに羽幌直行便も、沿岸バスが運行しています。中央バス札幌ターミナル 乗り物
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留萌十字街バス停で、ローカルバスへ乗り換えます。
ちょっと市街を散策。 -
留萌振興局所在地ですが、なかなかゴーストな街です。
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山の上には、珍しいSLが。留萌本線/羽幌線用にデゴイチを改造したD61。6両製造、現存するのはここの1両だけです。昭和30年代に改造、最期の新形式です。
見晴公園 公園・植物園
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黄金岬
夕日の名所です。朝の曇天という最低の組み合わせ。黄金岬 (留萌) 自然・景勝地
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柱状節理が見られ、鉱物学的に垂涎のスポットです。
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岬の上には、市営の資料館。
常設展は撮影禁止です。大した内容ではなかったです。
ロビーに貼ってあった大正時代の写真。
留萌支庁の所在地が増毛から留萌へ移ったころで、一番勢いのある時期です。海のふるさと館 美術館・博物館
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数の子生産日本一の留萌市ゆるキャラKAZUMO。
数の子と留萌の合体名。背中の赤ちゃんはワカコ。
25歳、一児の母だそうです。 -
社名からして、1887-1906年の看板。
サッポロビールの星マークは、開拓使時代から継承されています。 -
留萌港
留萌川河口に面します。両岸には太平洋セメントの施設があります。 -
倉庫街が、港らしさを感じさせます。メジャー系では日通など。
羽幌の石炭を本州へ輸送する港として、戦後に岸壁を民間資本で整備しました。 -
沿岸バスに乗車して、国道232号線沿いを走ります。
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花田番屋前バス停で下車。
路線バス (沿岸バス) 乗り物
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目の前は日本海。
にしん文化歴史公園となっています。にしん文化歴史公園 公園・植物園
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向かいには、道の駅があります。
道の駅 おびら鰊番屋 道の駅
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現存する最大の鰊番屋が公開されています。
床面積は40×23mです。旧花田家番屋 名所・史跡
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まずは写真。
往時の鰊番屋。というか、景観が今と大差ないです。 -
鰊漁は季節労働。界隈は奥羽からの出稼ぎ者で賄われました。ヤン衆と呼ばれました。
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作業のはじまりは3月。現地は冬です。
網作りが始まります。雪をかき分け、ぶどう/こくわの蔓が使用されました。 -
鰊漁は、産卵のために海岸に群がる鰊を捕獲するもので、3月下旬から5月にかけてが漁期です。
江戸時代は藩の統制下で行われましたが、明治に操業は自由化され、多くの漁場が開設されました。
漁獲量は、明治30年代がピークです。
旧花田番屋は、1905年築です。 -
建網漁
定置網の一種で、鰊の進路を遮断する形で垣網を敷いて、その先の袋網へ誘導します。最大で200tの魚がかかります。垣網は岸側から沖側へ向けて張り、袋網は沖側に設置します。 -
漁期は船上で寝泊まりし、鰊の群来に即対応できる体制です。
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袋網にかかった鰊を大タモと呼ばれるラケット状の網で、枠船(網を吊るした船)に移し替えます。一回で100㎏ほど掬い上げます。
岸に近づくと、汲み船に移し替え、陸揚げします。 -
沖での様子
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鰊は、汲み船から畚(もっこ)を背負った運び人に移し替えられ、「廊下」と呼ばれる柱と屋根だけの板倉で干します。
数日すると数の子は固くなり、身は柔らかくなって解体が容易になります。 -
畚(もっこ)
背中に20㎏の鰊を背負いました。主に女性が担当します。
渚に停泊する汲み船と陸を結ぶ渡し板は鰊の鱗で滑りやすく、注意が必要です。 -
畚背負いの各人には鑑札(左)があり、1回運搬するたびに万棒(右)と紐付けされ、給与に反映されます。不休で働き、握り飯を頬張りながら作業しました。
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鰊つぶし
廊下で乾燥させた鰊を背骨に沿って、2つに割きます。数の子/白子(精巣)/身/カス(内臓等)に分類されます。 -
こうした作業は、下敷と呼ばれる茣蓙を敷いて行われました。身の部分はえらと口の部分に藁ひもを通して、数日乾燥させ生乾きの状態になります。そこでサバサキリと呼ばれる小刀で裂き、乾物に仕上げられ「身欠きにしん」として出荷されます。山間部の貴重な蛋白源でした。鰊は脂が多いので、内部までゆっくりと乾燥させるのが保存食としてのコツです。
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数の子は、テッコと呼ばれる小さい畚で運ばれ、海水で洗って血などを取り除きます。数日乾燥させると、干し数の子が完成します。
白子やエラは数日乾燥させて、肥料になります。 -
鰊粕(〆粕)
鰊釜で、内臓/骨/ハラス(腹の部分の脂身の多い肉)等を煮込みます。鰊は捨てる部分がありません。
鰊釜は、ヤン衆の風呂釜も兼ねます。 -
釜前ひしゃくで、釜に海水を補充します。
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釜で煮たものを、角胴と呼ばれる型に入れ、圧搾します。この時搾り出た油は、照明用油や石鹼の原料として出荷します。
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角胴に押し込めた鰊粕を玉切り包丁で裁断します。
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裁断したものをイブリに入れてレバーを回し、粉砕します。
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粉砕したものをエビリ棒で莚の上に広げ、天日干しして肥料として出荷します。
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粕干場
建物群と比べて、半端ないスペースです。いかに大漁だったかが偲ばれます。 -
拡大写真
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肥料の代表格は屎尿ですが、西日本で江戸中期以降に大規模栽培された綿花(商品作物)には高栄養価の肥料が必要で、鰊粕は高値で取引されました。東日本では鰯を肥料として出荷していましたが、栄養価は鰊に及ばなかったようです。1880年代以降に満州から輸入された安価な大豆粕も、燐酸成分が不足していました。化学肥料が登場するまで、鰊粕は引く手あまたでした。
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花田家番屋の鰊粕は、大正天皇即位の大嘗祭に使用される米を供給する水田の肥料としても納入されました。
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往時は様々な用途の100棟ほどの建造物で構成されていました。
花田家番屋は、網元花田伝作のものですが、兄の伝七の番屋も隣接しました。 -
番屋とは、出稼ぎ漁師が寝泊まりする簡易宿泊施設です。
ヤン衆は、壁沿いの3段ベッドで寝泊まりしました。隣の寝床との仕切りはありません。1畳ほどのスペースを占有します。 -
天井部分には明かり窓があります。
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中央は共用スペース兼作業場。囲炉裏もあります。奥には、船頭等の個室が。20世紀初頭の建築だけあって、色ガラスをはめた洋風トイレなど時代を感じる建築もありました。
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北欧やロシアの木造建築に通じるものを感じます。
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ここにも鰊番屋?!
実は、道の駅です。2階には展示コーナーもあり、小平町の歴史も学べます。 -
大漁旗がお出迎え。
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先住民のアイヌが生活しており、花田番屋のある鬼鹿地区は、アイヌ語で「雲の上に有る」を意味するヲニシカを漢字に当てたものです。
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小平町の歴史
現在、旧石器時代/縄文時代/擦文文化(平安末期)の遺跡が発見されています。
1714年に和人が弁財天を設置した際には、アイヌが生活していました。
1750年にルルモッペ(現在の留萌市)場所が開設され、鬼鹿もルルモッペ場所の交易圏でした。
※場所:松前藩の各知行地で商人が開設したアイヌとの交易所。寒冷な松前藩では稲作ができないので、家臣にアイヌとの交易権を与えて収入源としました。家臣(武士)は商売の素人なので、商人が交易業務を請け負いました。各場所は、周囲のアイヌ集落と交易しました。 -
1844年に和人の漁場経営(季節操業)が始まり、1860年頃には、通年で生活するようになります。
1922年には乗合自動車、1928年には国鉄羽幌線が伸長します(国鉄民営化に合わせて廃止)。
鰊漁は乱獲で戦後不漁が続き、番屋も閉鎖されます。 -
鰊漁以外には、林業が挙げられます。
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養蚕業も行われました。
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バスで羽幌を目指します。
次の旅行紀↓
https://4travel.jp/travelogue/11847371
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