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指パッチンのやりすぎで骨折したり、ピップのCMダダンの振付でお馴染み、ポール牧の出身地。<br />地理/歴史的には、天塩川河口という立地に基づき、興味深い変異を遂げます。

ポール牧だけじゃない。天塩川河口:天塩町

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2023/08/23 - 2023/08/23

60位(同エリア63件中)

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gianiさん

この旅行記スケジュールを元に

指パッチンのやりすぎで骨折したり、ピップのCMダダンの振付でお馴染み、ポール牧の出身地。
地理/歴史的には、天塩川河口という立地に基づき、興味深い変異を遂げます。

旅行の満足度
5.0

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  • 丘側に走る国道沿いの道の駅。<br />品揃えが良いです。

    丘側に走る国道沿いの道の駅。
    品揃えが良いです。

    道の駅 てしお 道の駅

  • 海側の市街へ歩くと、レンガ倉庫跡が。<br />一応JAのスーパーです。

    海側の市街へ歩くと、レンガ倉庫跡が。
    一応JAのスーパーです。

  • 道北の幹線ルートを外れているので、ひなびた町です。<br />飲食店もほとんどスポット登録されていません。<br />多分一生に一度訪れるだけでもレア体験。<br />againは奇跡かと思われます。

    道北の幹線ルートを外れているので、ひなびた町です。
    飲食店もほとんどスポット登録されていません。
    多分一生に一度訪れるだけでもレア体験。
    againは奇跡かと思われます。

  • 超おすすめの資料館。<br />ぜひ訪れるべき展示内容。日本海側では、増毛と此処です。現物では、旧花田家番屋の3つです。<br />1951年に町役場として竣工、1989年に資料館としてオープン。風化した内容ではなく、パネル等も随時更新されパワーアップしている秀逸な展示内容です。空調もトイレも最新で快適です。<br />

    超おすすめの資料館。
    ぜひ訪れるべき展示内容。日本海側では、増毛と此処です。現物では、旧花田家番屋の3つです。
    1951年に町役場として竣工、1989年に資料館としてオープン。風化した内容ではなく、パネル等も随時更新されパワーアップしている秀逸な展示内容です。空調もトイレも最新で快適です。

    天塩川歴史資料館 美術館・博物館

    良い by gianiさん
  • まずは、人類史前の話。<br />サロベツ原野等は、海の底でした。海進で見るも無残な道北の地図です。

    まずは、人類史前の話。
    サロベツ原野等は、海の底でした。海進で見るも無残な道北の地図です。

  • 現在の地形<br />地盤の隆起に伴い、海岸線に沿って崖が形成されています。海岸段丘です。<br />天塩川河口部は川の流れよりも日本海の沿岸流(北→南方向)が卓越し、河口部10kmは日本海に並行して流れます。

    現在の地形
    地盤の隆起に伴い、海岸線に沿って崖が形成されています。海岸段丘です。
    天塩川河口部は川の流れよりも日本海の沿岸流(北→南方向)が卓越し、河口部10kmは日本海に並行して流れます。

  • 海岸段丘面には、北→南に吹く卓越風によって砂丘が形成されています。<br />岩盤と堆積層の境目には、泥炭層が形成されています。ということは、ミクロ視点では、植物の茂った堆積層が沈降(水没)した時期があり、有機物が分解されずに炭化した経緯があるとわかります。後述する炭田開発の背景です。

    海岸段丘面には、北→南に吹く卓越風によって砂丘が形成されています。
    岩盤と堆積層の境目には、泥炭層が形成されています。ということは、ミクロ視点では、植物の茂った堆積層が沈降(水没)した時期があり、有機物が分解されずに炭化した経緯があるとわかります。後述する炭田開発の背景です。

  • 人類史(北海道)<br />寒冷で、熱帯原産の稲の栽培ができない北海道では、稲作を特徴とする弥生時代は存在しません。代わりに続縄文/擦文/アイヌ文化が開き、土地に即した文化が伝来します。<br />※交易は盛んで、北海道全体の遺跡からは、大陸のものやサンゴや亜熱帯性の貝殻等が発掘され、弥生人に負けない交易を誇っていたことがわかります。

    人類史(北海道)
    寒冷で、熱帯原産の稲の栽培ができない北海道では、稲作を特徴とする弥生時代は存在しません。代わりに続縄文/擦文/アイヌ文化が開き、土地に即した文化が伝来します。
    ※交易は盛んで、北海道全体の遺跡からは、大陸のものやサンゴや亜熱帯性の貝殻等が発掘され、弥生人に負けない交易を誇っていたことがわかります。

  • 遺跡分布図<br />縄文遺跡は、天塩川を遡ったところに分布します。縄文海進の影響(現在よりも温暖)で、現在よりも海岸線が後退していた名残です。擦文文化以降は、海岸線沿いの遺跡が卓越します。

    遺跡分布図
    縄文遺跡は、天塩川を遡ったところに分布します。縄文海進の影響(現在よりも温暖)で、現在よりも海岸線が後退していた名残です。擦文文化以降は、海岸線沿いの遺跡が卓越します。

  • いざ現地へ。<br />川口遺跡は、3世紀(続縄文)以降の住居が230基発見された遺跡銀座。

    いざ現地へ。
    川口遺跡は、3世紀(続縄文)以降の住居が230基発見された遺跡銀座。

    天塩町川口遺跡風景林 名所・史跡

  • 海寄りの海岸砂丘に位置し、現在は国有防風林になっています。

    海寄りの海岸砂丘に位置し、現在は国有防風林になっています。

  • 現地には、擦文文化時代(9c~)の竪穴式住居が再現されています。

    現地には、擦文文化時代(9c~)の竪穴式住居が再現されています。

  • 内部<br />中央に囲炉裏があります。

    内部
    中央に囲炉裏があります。

  • 地面を掘り込んだ住居です。

    地面を掘り込んだ住居です。

  • 擦文文化<br />本州では飛鳥~鎌倉時代に相当する時代区分。写真左のように、へらで土器の表面に刻まれた擦文が由来で、本州で奈良~平安前期に一般的だった土器様式が伝来したもの。地域毎に伝来/衰退した時期が異なります。<br />漁撈(鮭鱒)に携わる季節は海沿いに暮らし、狩猟季は川を遡った地点に暮らす生活サイクル。幾分農業も行い、鉄器も伝来していました。

    擦文文化
    本州では飛鳥~鎌倉時代に相当する時代区分。写真左のように、へらで土器の表面に刻まれた擦文が由来で、本州で奈良~平安前期に一般的だった土器様式が伝来したもの。地域毎に伝来/衰退した時期が異なります。
    漁撈(鮭鱒)に携わる季節は海沿いに暮らし、狩猟季は川を遡った地点に暮らす生活サイクル。幾分農業も行い、鉄器も伝来していました。

  • アイヌ文化<br />北海道の擦文文化と樺太/千島伝来のオホーツク文化がミックスした状態から、室町時代に相当する時期にアイヌ文化が取って代わります。変遷の経緯は、未だに解明されていません。アイヌ語で、簗を意味するテセウという地名で呼ばれます。

    アイヌ文化
    北海道の擦文文化と樺太/千島伝来のオホーツク文化がミックスした状態から、室町時代に相当する時期にアイヌ文化が取って代わります。変遷の経緯は、未だに解明されていません。アイヌ語で、簗を意味するテセウという地名で呼ばれます。

  • コタン(集落)<br />川沿いの小高い丘に3-5軒ほどで形成。川は鮭の産卵場に位置し、後背地は沢深い山で、狩猟や有用な植物が獲れるというのが典型的条件。<br />チャシ(砦)<br />コタンの近くの小高い丘陵に形成。祭場も兼ねる。<br />道<br />川沿いの自然堤防等を活用。特に天塩川と石狩川(北海道の2大大河)を繋ぐ道は幹線で、現在の国道12/40号線等にも踏襲。オホーツク海側へは、名寄川等を活用。

    コタン(集落)
    川沿いの小高い丘に3-5軒ほどで形成。川は鮭の産卵場に位置し、後背地は沢深い山で、狩猟や有用な植物が獲れるというのが典型的条件。
    チャシ(砦)
    コタンの近くの小高い丘陵に形成。祭場も兼ねる。

    川沿いの自然堤防等を活用。特に天塩川と石狩川(北海道の2大大河)を繋ぐ道は幹線で、現在の国道12/40号線等にも踏襲。オホーツク海側へは、名寄川等を活用。

  • 稲作に適さないとはいえ、漁撈/狩猟/採取を組み合わせた定住生活を営みました。

    稲作に適さないとはいえ、漁撈/狩猟/採取を組み合わせた定住生活を営みました。

  • アイヌは、3つの文化に分かれます。<br />津軽海峡を挟んで和人とのかかわりが深かった渡党、太平洋側の日ノ本(日が昇る/東側の意味)、樺太や大陸とのかかわりが深い唐子で、天塩川流域は唐子に属します。大陸との交流は山丹貿易と呼ばれ、宗谷/余市が貿易港でした。

    アイヌは、3つの文化に分かれます。
    津軽海峡を挟んで和人とのかかわりが深かった渡党、太平洋側の日ノ本(日が昇る/東側の意味)、樺太や大陸とのかかわりが深い唐子で、天塩川流域は唐子に属します。大陸との交流は山丹貿易と呼ばれ、宗谷/余市が貿易港でした。

  • 和人交易の進出<br />渡党地域に松前藩が成立し、蝦夷地全体の支配を幕府から許されます。米が穫れないので、石高は0ですが、藩主は家臣に田畑の代わりに主な漁場(場所)を領地として与えました(商場知行制)。家臣はアイヌと商取引を行うことで収入を得ました。<br />天塩場所は慶長年間(1596-1615)に開設され、知行主は松前景広/内記/貢といった藩主一族が占めました。

    和人交易の進出
    渡党地域に松前藩が成立し、蝦夷地全体の支配を幕府から許されます。米が穫れないので、石高は0ですが、藩主は家臣に田畑の代わりに主な漁場(場所)を領地として与えました(商場知行制)。家臣はアイヌと商取引を行うことで収入を得ました。
    天塩場所は慶長年間(1596-1615)に開設され、知行主は松前景広/内記/貢といった藩主一族が占めました。

  • 17世紀のアイヌ勢力図<br />唐子は、余市アイヌ(八郎右衛門)の勢力下でした。本拠地の余市に怱大将が居住し、天塩/宗谷/利尻を重要拠点としました。<br />天塩場所では、鮭/鱒/鰊/鮫/鮑/鱈/鹿革/熊皮/鷲羽を産物としました。<br />※日本海側でも増毛は、石狩アイヌの勢力下です。

    17世紀のアイヌ勢力図
    唐子は、余市アイヌ(八郎右衛門)の勢力下でした。本拠地の余市に怱大将が居住し、天塩/宗谷/利尻を重要拠点としました。
    天塩場所では、鮭/鱒/鰊/鮫/鮑/鱈/鹿革/熊皮/鷲羽を産物としました。
    ※日本海側でも増毛は、石狩アイヌの勢力下です。

  • 商人の進出(1669-)<br />日ノ本のシャクシャイン蜂起をきっかけに、松前藩は場所請負制度を施行します。従来の武士-アイヌ直取引から、交易のプロである商人に請け負わせるシステムです。従来は市を設けて交易するシンプルなものでしたが、請負商人は漁を取り仕切ってアイヌを船員として雇い、加工所を設置してアイヌに従事させました。労働条件は、概して酷なものでした。商魂たくましいシステムの導入で、和人によるアイヌ支配に拍車がかかります。天塩は北前船の貿易港かつ利尻に薪を供給する地点となります。<br />アイヌの自主性は損なわれ、大陸交易は消滅し和人交易にとって代わります。

    商人の進出(1669-)
    日ノ本のシャクシャイン蜂起をきっかけに、松前藩は場所請負制度を施行します。従来の武士-アイヌ直取引から、交易のプロである商人に請け負わせるシステムです。従来は市を設けて交易するシンプルなものでしたが、請負商人は漁を取り仕切ってアイヌを船員として雇い、加工所を設置してアイヌに従事させました。労働条件は、概して酷なものでした。商魂たくましいシステムの導入で、和人によるアイヌ支配に拍車がかかります。天塩は北前船の貿易港かつ利尻に薪を供給する地点となります。
    アイヌの自主性は損なわれ、大陸交易は消滅し和人交易にとって代わります。

  • 江戸後期の天塩場所<br />石狩川に次ぐ大河天塩本流と支流沿いが商圏で、旭川北側の分水嶺にまで及びます。栖原格兵衛(世襲名)は1786年以降明治維新まで場所を請け負い、蜆や昆布なども加えられました。利益追求のために労働は過酷を極め、伝染病が蔓延しました。天塩川流域には1786年に200程あったコタン(集落)が、1857年には46に減少します。<br />

    江戸後期の天塩場所
    石狩川に次ぐ大河天塩本流と支流沿いが商圏で、旭川北側の分水嶺にまで及びます。栖原格兵衛(世襲名)は1786年以降明治維新まで場所を請け負い、蜆や昆布なども加えられました。利益追求のために労働は過酷を極め、伝染病が蔓延しました。天塩川流域には1786年に200程あったコタン(集落)が、1857年には46に減少します。

  • 厳島神社<br />栖原格兵衛は、1804年に弁財天を祀ります。弁財天は治水と財宝を司る仏教神で、神仏習合で厳島神社の祭神宗像伸と同一視されています。<br />というわけで、沿岸の各場所には弁財天のお堂→厳島神社に発展した神社が多いです。

    厳島神社
    栖原格兵衛は、1804年に弁財天を祀ります。弁財天は治水と財宝を司る仏教神で、神仏習合で厳島神社の祭神宗像伸と同一視されています。
    というわけで、沿岸の各場所には弁財天のお堂→厳島神社に発展した神社が多いです。

  • 川口遺跡の向かいに位置し、現在は公園として整備されています。

    川口遺跡の向かいに位置し、現在は公園として整備されています。

    厳島公園 公園・植物園

  • 幕末にかけての支配<br />ロシアの南下政策に松前藩が対応しきれなくなり、1807-21年まで幕府の直轄地になります。ペリーの再来航に伴い、1855年に再び幕府直轄地になります。翌年以降東北6藩に警備を割り当て、その見返りとして蝦夷に領地も与えます。<br />庄内藩はスッツ(寿都)~アツタ(厚田)を警備を行う見返りに、アツタ~テシホ(天塩)を1859年に拝領します。<br />※ただし増毛は、秋田藩の飛び地。

    幕末にかけての支配
    ロシアの南下政策に松前藩が対応しきれなくなり、1807-21年まで幕府の直轄地になります。ペリーの再来航に伴い、1855年に再び幕府直轄地になります。翌年以降東北6藩に警備を割り当て、その見返りとして蝦夷に領地も与えます。
    庄内藩はスッツ(寿都)~アツタ(厚田)を警備を行う見返りに、アツタ~テシホ(天塩)を1859年に拝領します。
    ※ただし増毛は、秋田藩の飛び地。

  • 奥羽6藩の中で、拝領地経営に最も力を入れたのが庄内藩です。1861年以降に武士と農民を送り込みましたが、大政奉還(1868)で水戸藩領になったために引き揚げます。<br />※天塩~オホーツク海側は秋田藩拝領地ですが、より厳しい土地ゆえに、運営拠点/ドル箱の地として増毛も拝領しました。

    奥羽6藩の中で、拝領地経営に最も力を入れたのが庄内藩です。1861年以降に武士と農民を送り込みましたが、大政奉還(1868)で水戸藩領になったために引き揚げます。
    ※天塩~オホーツク海側は秋田藩拝領地ですが、より厳しい土地ゆえに、運営拠点/ドル箱の地として増毛も拝領しました。

  • 幕末の天塩場所<br />原半兵衛安宅は、1860-63年の足掛け4年間(実質2年半)代官として場所を取り仕切りました。その際に描いたものです。自給自足の厳しい生活です。

    幕末の天塩場所
    原半兵衛安宅は、1860-63年の足掛け4年間(実質2年半)代官として場所を取り仕切りました。その際に描いたものです。自給自足の厳しい生活です。

  • 庄内藩の天塩場所に関する資料<br />運上所には47名がいたと記載されています。生きて帰る保証はなく、単身赴任です。上記の原も家督を継がない次男坊というのも、シビアな現実を反映しています。彼は、任期を終えた翌年には41歳で病死(早死)しています。<br />警備兵は南から順に浜増毛303名、留萌32名、天塩16名でした。

    庄内藩の天塩場所に関する資料
    運上所には47名がいたと記載されています。生きて帰る保証はなく、単身赴任です。上記の原も家督を継がない次男坊というのも、シビアな現実を反映しています。彼は、任期を終えた翌年には41歳で病死(早死)しています。
    警備兵は南から順に浜増毛303名、留萌32名、天塩16名でした。

  • 明治以降<br />蝦夷地は北海道になり、天塩村は天塩郡の中心となり、現在(天塩町)に至ります。<br />明治9年に郵便局開設、明治13年に天塩村が誕生します。写真は、往時の町長室を再現したもの。

    明治以降
    蝦夷地は北海道になり、天塩村は天塩郡の中心となり、現在(天塩町)に至ります。
    明治9年に郵便局開設、明治13年に天塩村が誕生します。写真は、往時の町長室を再現したもの。

  • 漁業<br />沿岸には産卵のために鮭や鰊が回遊し、漁法の進化により収穫量も上がりました。昭和20年代までの基幹産業で、乱獲により30年代に回遊が止まりました。<br />建網で産卵のために回遊した群れを根こそぎ獲る漁法がメインでした。<br />※現在はピーク時の1/100の漁獲量です。鰊の進路を妨げる形で刺網を立てて獲る個人事業主向けの漁法が継承されています。以前より網の目を大きくして、成長過程の鰊はスルーさせて持続可能な資源になることを目指しています。

    漁業
    沿岸には産卵のために鮭や鰊が回遊し、漁法の進化により収穫量も上がりました。昭和20年代までの基幹産業で、乱獲により30年代に回遊が止まりました。
    建網で産卵のために回遊した群れを根こそぎ獲る漁法がメインでした。
    ※現在はピーク時の1/100の漁獲量です。鰊の進路を妨げる形で刺網を立てて獲る個人事業主向けの漁法が継承されています。以前より網の目を大きくして、成長過程の鰊はスルーさせて持続可能な資源になることを目指しています。

  • 鰊は食用よりも肥料としての価値が大きく、化学肥料が普及するまで近代日本の農業(商品作物栽培)を支える屋台骨でした。漁獲地で肥料に加工されました。<br />北前船の寄港地として、天塩港は繁栄します。<br />

    鰊は食用よりも肥料としての価値が大きく、化学肥料が普及するまで近代日本の農業(商品作物栽培)を支える屋台骨でした。漁獲地で肥料に加工されました。
    北前船の寄港地として、天塩港は繁栄します。

  • 和人による天塩川探検<br />本格的なものは、北海道の名付け親である松浦武四郎が1857年によるもので、幕府御用でした。<br />明治5年には政府事業で佐藤正克が越年で探検を行い、アイヌの戸籍/鉱物調査/入植地の選定を行い、流域アイヌの伝統的生活終焉の序章となりました。

    和人による天塩川探検
    本格的なものは、北海道の名付け親である松浦武四郎が1857年によるもので、幕府御用でした。
    明治5年には政府事業で佐藤正克が越年で探検を行い、アイヌの戸籍/鉱物調査/入植地の選定を行い、流域アイヌの伝統的生活終焉の序章となりました。

  • 林業/製材<br />江戸時代は薪を利尻島へ供給する程度でしたが、1897年の北海道国有未開地処分法をきっかけに天塩川流域の原生林の伐採が本格化し、天塩材の名前のブランド品として取引されました。筏を組んで川を下り、天塩港沖に停泊する大型船に積んで全国へ出荷されました。

    林業/製材
    江戸時代は薪を利尻島へ供給する程度でしたが、1897年の北海道国有未開地処分法をきっかけに天塩川流域の原生林の伐採が本格化し、天塩材の名前のブランド品として取引されました。筏を組んで川を下り、天塩港沖に停泊する大型船に積んで全国へ出荷されました。

  • 天塩川流域の開発と水運<br />1900年には美深まで定期航路を開設、貨客運搬船は「長門丸」(写真1/2の模型)と名づけられます。以降、河川の航行船は一律に長門船と呼ばれます。

    天塩川流域の開発と水運
    1900年には美深まで定期航路を開設、貨客運搬船は「長門丸」(写真1/2の模型)と名づけられます。以降、河川の航行船は一律に長門船と呼ばれます。

  • ひらた船と呼ばれる形式で、浅い川底も航行できるように船底が平面です。積み荷がメインで、端っこには船員の生活スペースが付属します。天塩からは米/味噌/酒等を、天塩へは薪や農産物を運びました。<br />薪は利尻/天売/焼尻といった日本海沖の島へ運ばれました。

    ひらた船と呼ばれる形式で、浅い川底も航行できるように船底が平面です。積み荷がメインで、端っこには船員の生活スペースが付属します。天塩からは米/味噌/酒等を、天塩へは薪や農産物を運びました。
    薪は利尻/天売/焼尻といった日本海沖の島へ運ばれました。

  • 造船業<br />川船/磯船の需要が高まり、原材料の材木も揃うので、造船業が栄えました。船大工のノウハウは家大工とは全く異なり、道具も全く違うものでした。

    造船業
    川船/磯船の需要が高まり、原材料の材木も揃うので、造船業が栄えました。船大工のノウハウは家大工とは全く異なり、道具も全く違うものでした。

  • 天塩の繁栄<br />海産物や天塩川流域の材木集積地集積地として発展し、西日本と交易する北前船の中継港という立ち位置が天塩繁栄の原動力です。造船等の地域需要を満たし、増毛以北の港としては最大規模でした。北前船は江戸時代から航行し、季節風と海流を利用した帆船でした。

    天塩の繁栄
    海産物や天塩川流域の材木集積地集積地として発展し、西日本と交易する北前船の中継港という立ち位置が天塩繁栄の原動力です。造船等の地域需要を満たし、増毛以北の港としては最大規模でした。北前船は江戸時代から航行し、季節風と海流を利用した帆船でした。

  • 明治に入って日本海側の窓口は、余市から小樽(札幌の外港)へシフトします。1899年には政府指定航路が小樽~利尻島まで運行し、生活物資を運びました。トップ2は米と酒です。天塩町は、現在も稲作のできない気候です。物資だけでなく、最新文化が北海道の玄関口小樽から天塩へもたらされました。木材は、天塩から直接本州へ運ばれました。<br />

    明治に入って日本海側の窓口は、余市から小樽(札幌の外港)へシフトします。1899年には政府指定航路が小樽~利尻島まで運行し、生活物資を運びました。トップ2は米と酒です。天塩町は、現在も稲作のできない気候です。物資だけでなく、最新文化が北海道の玄関口小樽から天塩へもたらされました。木材は、天塩から直接本州へ運ばれました。

  • 北海道国有未開地処分法施行の翌98年以降、天塩町でも原野の開拓がはじまります。明治31-40年にかけて22の団体が入植します。出身は北陸と東北がメインで、道内の再移動も多いです。信教の自由と布教を兼ねて、真宗大谷派といった宗教移民もありました。<br />※昭和時代ですが、ポール牧の父親も山形県から移住し、天塩国道沿いに曹洞宗道開寺を開基しています。

    北海道国有未開地処分法施行の翌98年以降、天塩町でも原野の開拓がはじまります。明治31-40年にかけて22の団体が入植します。出身は北陸と東北がメインで、道内の再移動も多いです。信教の自由と布教を兼ねて、真宗大谷派といった宗教移民もありました。
    ※昭和時代ですが、ポール牧の父親も山形県から移住し、天塩国道沿いに曹洞宗道開寺を開基しています。

  • 原野の笹を刈り、木を切り倒して開墾しました。掘立小屋で生活し、過酷な労働と衛生環境の悪さで、多くの人が命を失います。

    原野の笹を刈り、木を切り倒して開墾しました。掘立小屋で生活し、過酷な労働と衛生環境の悪さで、多くの人が命を失います。

  • 換金性の良い商品作物の栽培が好まれ、当初は菜種や麦が好まれました。<br />第一次世界大戦後は、豆ブームに伴い豆類、澱粉加工用の馬鈴薯、軍需に応える燕麦などが栽培されました。

    換金性の良い商品作物の栽培が好まれ、当初は菜種や麦が好まれました。
    第一次世界大戦後は、豆ブームに伴い豆類、澱粉加工用の馬鈴薯、軍需に応える燕麦などが栽培されました。

  • 開墾には、木の切り株や石や岩などを掘り起こして取り除き、土を起こして耕せるレベルまで柔らかくする作業が含まれます。写真のハロー(砕土機やプラウ(鋤)といった西洋式農具は、昭和初期には国産の改良製品が広く普及し、馬が曳いて耕耘や砕土を行いました。

    開墾には、木の切り株や石や岩などを掘り起こして取り除き、土を起こして耕せるレベルまで柔らかくする作業が含まれます。写真のハロー(砕土機やプラウ(鋤)といった西洋式農具は、昭和初期には国産の改良製品が広く普及し、馬が曳いて耕耘や砕土を行いました。

  • 実際の様子。<br />写真下のように、人力+鍬ではなく、カルチベーターを馬に曳かせて畑を耕すなど、効率的な農作業が普及します。

    実際の様子。
    写真下のように、人力+鍬ではなく、カルチベーターを馬に曳かせて畑を耕すなど、効率的な農作業が普及します。

  • 福島農機具製作所<br />プラウの修理から始まり、自ら改良して道内で広く普及した製造メーカーです。ポール牧の実家のある雄信内集落に位置します。

    福島農機具製作所
    プラウの修理から始まり、自ら改良して道内で広く普及した製造メーカーです。ポール牧の実家のある雄信内集落に位置します。

  • 自給自足のための作物から換金作物へとシフトし、住居にも手間をかける余裕が出てきます。人々は、出身地の神社の神様を祀って、加護を願います。

    自給自足のための作物から換金作物へとシフトし、住居にも手間をかける余裕が出てきます。人々は、出身地の神社の神様を祀って、加護を願います。

  • 農耕や運搬に馬や牛は必須で、特に馬は家族同様の扱いを受けます。仏教に基づく牛馬頭観音の分布密度の高さも特徴です。

    農耕や運搬に馬や牛は必須で、特に馬は家族同様の扱いを受けます。仏教に基づく牛馬頭観音の分布密度の高さも特徴です。

  • 山稼ぎ<br />農家は畑から上がる収入だけでは生活できず、冬季は山稼ぎと呼ばれる樹木伐採業に従事しました。いわゆる出稼ぎです。零下20度以下になる過酷な環境で伐採加工運搬等を行い、山に建設された飯場で寝泊まりしました。

    山稼ぎ
    農家は畑から上がる収入だけでは生活できず、冬季は山稼ぎと呼ばれる樹木伐採業に従事しました。いわゆる出稼ぎです。零下20度以下になる過酷な環境で伐採加工運搬等を行い、山に建設された飯場で寝泊まりしました。

  • 北海道開拓の村に移設された飯場。窓もなく、凍死しない程度の設備だったとわかります。

    北海道開拓の村に移設された飯場。窓もなく、凍死しない程度の設備だったとわかります。

  • 内部の様子。<br />天塩材は、開拓民の労苦の結晶です。<br />貧しさから抜け出すために天塩の農民は教育を重視し、開拓地には学校が建設され子弟が学びました。

    内部の様子。
    天塩材は、開拓民の労苦の結晶です。
    貧しさから抜け出すために天塩の農民は教育を重視し、開拓地には学校が建設され子弟が学びました。

  • 街の暮らし<br />郡の中心として官公庁を始め、様々な施設が集まりました。特に劇場/料亭といった施設も充実しました。各宗派の寺院や教会もありました。一晩中街の灯りや停泊船の光で照らされる町でした。

    街の暮らし
    郡の中心として官公庁を始め、様々な施設が集まりました。特に劇場/料亭といった施設も充実しました。各宗派の寺院や教会もありました。一晩中街の灯りや停泊船の光で照らされる町でした。

  • 交通変遷<br />1926年に宗谷本線が稚内まで開通、1935年に天塩線(羽幌線)が開通し、流通は鉄道へシフトします。同じ時期にエンジン付き船舶が普及し、帆船の北前船はあっという間に廃れ、天塩港は衰退します。

    交通変遷
    1926年に宗谷本線が稚内まで開通、1935年に天塩線(羽幌線)が開通し、流通は鉄道へシフトします。同じ時期にエンジン付き船舶が普及し、帆船の北前船はあっという間に廃れ、天塩港は衰退します。

  • 戦後<br />鰊漁で漁港は健在でした。1951年築のレンガ建築の町役場庁舎からも繁栄が伺えます。1950年代後半に鰊が来なくなり、斜陽化します。農業は、冷涼な気候に適した酪農業にシフトします。1987年に国鉄羽幌線も廃止され、公共交通は沿岸バスに引き継がれ、現在に至ります。

    戦後
    鰊漁で漁港は健在でした。1951年築のレンガ建築の町役場庁舎からも繁栄が伺えます。1950年代後半に鰊が来なくなり、斜陽化します。農業は、冷涼な気候に適した酪農業にシフトします。1987年に国鉄羽幌線も廃止され、公共交通は沿岸バスに引き継がれ、現在に至ります。

  • 天塩川<br />川口遺跡付近。全長256kmは、信濃/利根/石狩川(268km)に次ぐ第4位。河口部の10kmは、日本海に沿って流れます。

    天塩川
    川口遺跡付近。全長256kmは、信濃/利根/石狩川(268km)に次ぐ第4位。河口部の10kmは、日本海に沿って流れます。

    天塩川 自然・景勝地

  • 鹿の足跡も。

    鹿の足跡も。

  • ハマナス

    ハマナス

  • 河口部は河川公園として整備されています。<br />流域面積は5590km3で第10位、石狩川の約1/3です。

    河口部は河川公園として整備されています。
    流域面積は5590km3で第10位、石狩川の約1/3です。

    天塩川河川公園 公園・植物園

  • 市街地は、古き良き姿が残ります。<br /><br />次の旅行記↓<br />https://4travel.jp/travelogue/11847997

    市街地は、古き良き姿が残ります。

    次の旅行記↓
    https://4travel.jp/travelogue/11847997

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