2023/05/21 - 2023/05/21
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gianiさん
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高知から公共交通1時間半の移動で、到着する山深い世界。
他では味わえない無二の世界を味わえます。
1日かけて楽しめます。
- 旅行の満足度
- 5.0
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土佐くろしお鉄道終点の奈半利駅。
ここから村営バスで、北川村モネの庭へ行きます。奈半利駅 駅
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水の庭では、モネの自宅の庭を再現。
白眉は、太鼓橋です。北川村「モネの庭」マルモッタン 公園・植物園
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モネの自宅の蓮から株分けされた、本家の蓮です。
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パリ近郊よりも温暖な高知では、モネが願っても実現できなかった熱帯性の青い水連の花も咲きます。6月末に開花するそうです。
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モネの絵画と、再現された庭の景観を比較できます。
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北川村は、竹下内閣が給付したふるさと創生1億円を使って特産の柚子を前面に出したテーマパークを計画するも、バブルが弾けて頓挫。役場の若い職員が、モネの庭を再現しては?と提案し、本家へ出張したのが始まりです。
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段取りなしで訪問した何処の馬の骨とも分からぬ若造は、相手にされません。公費出張で収穫なしでは、上司に報告できないと尻に火が付いた状態になり、執念で庭師を押し倒し、コネを作ります。
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庭師からは、忠実な模倣ではなく、北川村の風土に合わせたエッセンスの再現という気付きを得、開園。本家が唯一公認している施設です。若い職員は、現在の村長に。
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造ったは良いが、ずさんな経営とおざなりの管理で寂れるのが、バブル時代にオープンしたテーマパークの共通する末路。
分かりやすい面では、水面に藻などが生えないよう常に庭師が池に入って掃除しています。 -
青い水連など、本家ではできないことも取り入れ、個性と成長を続けています。
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ポピー
白い日傘を持つ女性を同伴するのを、忘れていました(笑)。 -
けっこう遅い時期まで咲いています。
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ボルティゲラの庭
ジヴェルニーに終の棲家を購入した43歳の時に、地中海沿岸のリビエラ地方(イタリア側)を旅行し、この村で多くの作品を生み出しました。 -
わたしもフレンチリビエラを何度もトレッキングしましたが、現地へ迷い込んだのでは?という錯覚に襲われるほどの見事な庭です。
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一応、北川村の景色です。
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大きな池を中心とした回遊式庭園。
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角度ごとに景観が変化します。
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景色は地中海性気候そのものですが、
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日本の伝統的な造園技法を用いています。
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素晴らしい融合です。
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多雨の北川村とは思えない、乾いた景色。
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庭と自然の境界線が曖昧。
完全に同化しています。 -
灌木やハーブ。
オリジナルとは違って、石原の合間に生えていますが、
見事な再創造。まったく違和感ないです。 -
そんな中で、江戸時代から続く北川村の原風景が残るエリアが。
柚子畑です。 -
リヴィエラの小屋には、おしゃれなカフェが。
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様々な花が咲き誇るのも、悪くはないです。
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だいぶ日が高くなり、色合いが濃くなってきました。
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花の庭
いわゆる花園です。 -
西洋種がメイン
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歩いて村の中心へ。
行列のできる人気店。
塩ラーメンは絶品です。個人的には、バターのトッピングがおすすめです。いごっそラーメン店長 グルメ・レストラン
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川を遡ります。
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歩行者用の吊り橋を渡ると、、、
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ザ・山村という世界。
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村のシンボルの柚子園が。
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巻の淵
名前の通り、流れが渦を巻く地元でも良く知られた危険スポット。
水面から20m以上の断崖で、ここからダイビングして何食わぬ顔で帰ってきた中岡慎太郎少年の勇気と豪快さは、今も語り継がれています。 -
幕末土佐の三大偉人
中岡慎太郎のミュージアムがあります。
見ごたえ十分ですが、撮影禁止です。中岡慎太郎館 美術館・博物館
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中岡慎太郎生家
オリジナルの場所に建物が復元されています。
柏木村の庄屋、かつ北川郷の村々を束ねる大庄屋の跡取りとして生まれました。
1838年の出来事です。身分は農民です。中岡慎太郎生家 名所・史跡
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大庄屋の仕事
現在の市町村役場の仕事に加え、郵便局・下級裁判所の業務も担いました。
大庄屋の任命は、藩(の郡代)によるものです。 -
4歳の時に、松林寺の和尚に読み書きの手ほどきを受けました。
松林寺山門跡 名所・史跡
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7歳になると、野友村の漢方医が営む島村塾まで片道90分かけて通いました。
写真は、その道の入り口です。
川沿いの谷間ではなく、山越えの急峻な道のりです。
成績優秀で、14歳で師範(主席兼代理教員)を務めました。 -
1855年、17歳になった慎太郎は、地域の藩役所がある田野の学館へ出張教授していた武市半平太と出会い、政治活動に目覚めます。高知城下で剣術と勉学に励み、江戸へ遊学します。
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大庄屋時代(1858-61)
父が倒れ、大庄屋を継ぐために江戸から帰郷します。
15歳の時に婚約し、前年に書類上結婚していた野友村庄屋娘の兼(かね)との同居生活が始まります。 -
柏木村および北川郷の行政トップとして、村人の厳しい生活と向き合った慎太郎は、村人たちが安心して暮らせてこそ国が成り立つという信念を深めます。遊学前年に村や全国を巻き込んだ安政の大飢饉の経験も活かされます。
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柏木村で柚子栽培を奨励したのは、実は慎太郎です。
当時は塩が高級品。海から離れた山村では、猶更です。安政の大飢饉では、高値の塩を買うことができませんでした。
村人の貴重な蛋白源は川魚でしたが、保存用に塩は欠かせませんでした。 -
柚子は、塩に替わる防腐剤/調味料としての位置づけでした。日陰になる家の裏や山裾といったデッドスペースでも生育します。水田を望めない北川郷で、和蝋燭の原料となるハゼの木と並ぶエースでした。
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勤王の志士時代(1861-67)
武市半平太の土佐勤王党結成に呼応(血盟書には17番目に署名)して故郷を離れ、尊王攘夷運動に邁進します。
大願成就まで妻と家を後にする覚悟を以て、妻へ詠んだ句。 -
それに対して妻が詠んだ和歌。
夫婦の素養が垣間見られます。
我が背=古文では、私の夫の意味。 -
土佐勤王党は、翌年に山内容堂の信任篤い開国論者吉田東洋を暗殺し、その翌(1863)年には容堂の弾圧を受けます。慎太郎も、藩の逮捕対象になります。
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脱藩(1863-)
故郷に迷惑(連罪)をかけないために脱藩して、長州へ亡命します。三条実美/岩倉具視ら五卿の衛士として、各地へ出張して活動する志士たちの連絡将校のような役目を果たします。藩のしがらみを受けない脱藩者の身分ゆえに、危険と引き換えに自由な活動が可能でした。 -
64年の禁門の変を経験して、新しい国づくりの進展に薩長の連合は欠かせないと考え、既に脱藩していた龍馬とタッグを組んで薩長同盟の成立(1866)を実現し、容堂とも和解します。
65-67年に掛けて一連の「時勢論」という論文を土佐へ向けて発表し、国の展望と土佐の役目を説きます。 -
67年には陸援隊のトップとして、諜報や軍務も担います。10月の大政奉還後、12/12に近江屋で龍馬と会談中に刺客に襲われ、29歳7か月の生涯を終えました。
一連の写真は、死の前年に撮影したもので、上が公式、下が写真館の機転で撮られたもの。 -
死後の評価
幕末土佐の3偉人の一人として、竜馬や武市と共に評価されます。同じ志士で、宮内大臣等を歴任した佐川出身の田中光顕の尽力によります。 -
「桃栗3年、柿8年、柚子の大馬鹿18年。」
成果が出るまでに時間がかかるということもあり、柚子植林計画は忘れ去られます。昭和40年代になると、林業の衰退およびダム建設特需の終了で柚子は再評価されます。現在は村おこしのトップに君臨します。
柚子の品質は、第一に200年以上の古木(年数的に自生のみ)、接ぎ木しないもの、一番搾りといった要素が関わります。接ぎ木すると5,6年で実が付き、木の高さを低く抑えられるので、実生ゆずは希少です。 -
実生ゆずのお酒
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先ほどの松林寺は、中岡家の菩提寺になっています。
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中央が妻かねの墓碑、右が慎太郎の遺髪を埋めた石碑です。
※遺体は、客死した京都の護国神社に埋葬されました。 -
中岡慎太郎館前のバス停より、村営バスで奈半利駅へ戻ります。
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