2023/01/17 - 2023/01/17
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kimi shinさん
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頼朝により開かれた鎌倉幕府150年の歴史の中。
頼朝亡き後、執権政治の道筋を示した北条義時、やがて北条家の権力の集中ととも、鎌倉幕府終焉の地東勝寺へ向かっていきます。
ここには北条義時法華堂跡や三浦泰村、大江広元、毛利季光、島津忠久の墓が残りますが、法華堂焼失後の跡地に義時の供養塔を見ることはない。
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 徒歩
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既に掲載した大蔵白旗神社・源 頼朝墓を後にして、そこから1~2分程東に進むと北条義時法華堂跡、三浦泰村、大江広元、毛利季光、島津忠久の墓があります。
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石段両脇に常夜灯が立ち、石段の先の北条義時法華堂跡へ続きます。
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石段脇に笠の曲線が綺麗な常夜灯。
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竿には安政5年(1859)正月に寄進と刻まれ、その上には毛利家の一文字三星の紋が刻まれています。
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石段を上り切ると視界が開け、右側に源頼朝墓で見かけたものと同じ「史跡法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」と記された石標が立っている。
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解説の内容は以下。
「貞王3年(1224)、北条義時の没後、供養のために建てられた墳墓堂(法華堂)の推定地とされ、平成17年(2005)の発掘調査で堂跡の遺構が発見された。
堂は鎌倉時代後期には廃絶したと見られ、背後は宝治合戦で敗れた三浦一族にゆかりがあると伝わり今も供養されている「やぐら」や江戸時代以降に整備された大江広元等の墓所があります。」
吾妻鏡に記されていた北条義時法華堂の位置と、遺構の位置が合致する事から北条義時法華堂と推定されるようです。 -
法華堂(義時の墳墓堂)跡。
現状は礎石が残るなどの遺構は見られませんが遺構調査から分かった柱や縁束の礎石部分に杭が立てられ、屋根に降った雨を流すための溝(雨落ち溝)が白い線で表されています。
頼朝の法華堂跡に比較すると規模は大きかったように見えますが、杭と線だけの跡地から往時の姿を想像する事は出来ません。
正面に見えている二つの石段の先が白旗神社の石標に刻まれていた「大江広元、毛利季光、島津忠久の墓」へ続きます。
鳥居左の山肌には「やぐら」と呼ばれる洞窟の入口が見えます。 -
解説によればここから瓦や土器などが発見され、それらから幾たびか焼失、再建を繰り返し、13世紀末から14世紀初頭には堂は廃絶したと推察されるようです。
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この発掘調査の写真がある事で説得力がありますが、これがなければ今一つ実感が湧かない。
内容は以下。
「平成17年(2005)に行われた発掘調査によって、建物の縁束の礎石、雨落溝、柱を支える礎石が発見され、この場所に一辺が28尺(8.48メートル)のお堂が建っていたことが明らかになりました。
調査では瓦が出土していることから、瓦葺の建物であったと考えられます。
また、一緒に出土したかわらけなどの遺物の年代から、建物は13世紀末から14世紀初頭頃には使われなくなっていたこともわかりました。」
以上の調査結果と歴史文献『吾妻鏡』に書かれた情報から、これらは13世紀初頭に建てられた北条義時法華堂(当時の偉人のための日本式の霊廟のこと)の遺跡だと推定されています。 -
石段左洞窟。
ここは13~15世紀頃の横穴式墳墓で鎌倉幕府の御家人三浦氏が供養されている。 -
宝治元年(1247)に起きた宝治合戦で、北条時頼に攻められた三浦泰村以下276人が頼朝の法華堂に籠り自害したとされ、ここで三浦一族の供養が行われていたと云う。
解説は以下。
「三浦氏が供養されているやぐら
鎌倉幕府の有力御家人であった三浦氏が討たれ、北条家の得宗に権力が集中する機会となった宝治元年(1247年)の宝治合戦において、北条時頼に攻められた三浦泰村以下一族276人は、源頼朝法華堂にこもり、自害したと伝えられています。
源頼朝法華堂があったとされる地とは60mほど離れていますが、ここは自害した三浦氏一族の供養が行われているやぐらです。
やぐらとは?
13~15世紀頃に造られた横穴式の墳墓のこと。鎌倉とその周辺で特に多く見られます。」 -
「やぐら」と呼ばれる洞窟は入口は狭いけれど、内部は左右に広がりがあり、供養塔へは屈まなければ近づけません。
訪れる方は今も絶えることはないようです。
こうしたやぐらは冷遇されたものではなく、平地が限られるような立地では建長寺でも見られるように当時普通の埋葬形式。 -
石段の右に解説があり内容は以下のようなもの。
「近世に造営された3つの墓所
この階段の上には、毛利季光、大江広元、島津忠久の墓所があります。
これらは、元々は古墳時代後期に造られた横穴墓であったものを転用し、江戸時代以降に島津氏及び毛利氏が造営したもの。
左 毛利季光の墓
毛利季光(生年不明~1247没)、鎌倉幕府の御家人で、幕府の創設に貢献した大江広元の第四男で、代々長州藩主となる毛利氏の祖となる人物。
朝廷と幕府が争った承久の乱(1221)で武功を挙げ、幕府の要職である評定衆に就くなど重用されました。しかし、北条氏と三浦氏が争った宝治合戦(1247)で妻の実家である三浦氏に味方し、戦に敗れた三浦氏一族とともに源頼朝の法華堂で自害したと伝わります。
季光の墓所は、大江広元の墓が造営されたのと同じ文政6年(1823)に、毛利斉煕により鶴岡八幡宮の西側(雪ノ下の鶯谷の地)に造営されたが、大正10年(1921)にこの地に移設された。
中央 大江広元の墓
大江広元(生年不明~1225)、鎌倉幕府の政所初代別当を務め幕府の初代将軍源頼朝の側近として鎌倉幕府の創設に貢献した。
公家出身の広元は、鎌倉幕府と京都の公家との間の交渉で活躍し、頼朝の死後も、遺された正室北条政子や第二代執権北条義時とともに幕府の運営を支えた。
広元の墓の左隣の墓にまつられている毛利季光は、大江広元の四男であり、代々長州藩主となる毛利氏の祖となる人物です。
この墓は、その縁から、文政6年(1823)に第10代長州藩主毛利斉煕が造営したものです。
右 島津忠久の墓
島津忠久(生年不明~1227没)、鎌倉幕府の御家人で、代々薩摩藩主となる島津氏の祖にあたる人物。
忠久の祖母が源頼朝の乳母だった縁から頼朝に重用され、平家追討などで活躍し、恩賞の一つとして南九州の島津荘の惣地頭に任ぜられる。
島津家には、忠久が頼朝の庶子であったという説が伝わっており、安永8年(1779)、時の薩摩藩主島津重豪が頼朝墓に近いこの地に忠久の墓を造営」
毛利家の一文字三星紋が入った常夜灯があるのも分かるような気がする。 -
それでは石段を上って行こう。
石段脇に手水鉢があったが、寄進年や文字、家紋などの痕跡は見られなかった。 -
この石段の先に毛利季光、大江広元、島津島津忠久の墓がある。
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石段の先は三つの横穴式墳墓があり、奥から毛利秀光、大江広元、島津忠久の墓が並んでいます。
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右側の島津忠久の墓。
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中央の大江広元の墓。
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左側の毛利秀光の墓。
鎌倉幕府を支えた三氏の墓はこうして残りますが、石標に書かれていた義時の墓は見かけない。 -
上は現地VRから法華堂のCGを現地写真に貼り付けたもの。
瓦葺の方形屋根の堂だったようです。
霊屋としての法華堂は消失を繰り返し荒廃していったようですが、堂の再建はともかく、義時の供養塔ひとつ立てられなかったのだろうか。
頼朝により開かれた鎌倉幕府150年の歴史の中で、頼朝亡き後、執権政治を確立した北条家は権力の集中ととも、鎌倉幕府終焉の地東勝寺へ向かっていきます。
北条義時法華堂跡、三浦泰村、大江広元、毛利季光、島津忠久の墓
所在地 / 神奈川県鎌倉市西御門2-5
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