2022/11/01 - 2022/12/05
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kawausoimokoさん
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人生の再生を目指して、「お気に入り」と再会し「初めまして」に出会うために、ロンドン、パリ、ヘント&ブルージュ、デン・ハーグ、アムステルダムを35日で巡りました。
旅の29日目は、アムステルダム国立美術館を訪れます。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 100万円以上
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 航空会社
- ANA
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
2022年11月29日(火):(Day29)
旅の29日目は、アムステルダム国立美術館を訪れます。
美術館を朝一番の午前9時で予約しています。
未だ暗く濃い霧の中、アムステルダム中央駅からトラムに乗ります。 -
ダイヤモンド博物館 Diamant Museum Amsterdam
トラム停留所 Museumpleinで降りたのは私一人で、通りに人影はありません。
向かいにあるダイヤモンド博物館だけは灯りがついていましたが、辺りの建物は真っ暗です。
濃い霧の向こうから、コック隊長が率いる自警団が現れそうな雰囲気です。 -
ミュージアム広場も濃い霧に包まれて、まるで別世界に迷い込んだようです。
-
美術館の庭園もひっそりとしています。
-
霧のアムステルダム国立美術館
アムステルダム中央駅も設計したピエール・カイパースによって設計されたそうです。
美術館と駅は確かに感じが似てますね。 -
アムステルダム国立美術館 ミュージアムトンネル
本館中央を貫く道路はミュージアムトンネルと呼ばれ、ミュージアム広場側とシンゲル運河側を結ぶ公道で、一日に1万3000台を超える自転車が行き交うそうです。
自転車は猛スピードなので、なかなか油断できません。 -
アムステルダム国立美術館 Rijksmuseum
この美術館は、1800年にオランダ総督ルブランがデン・ハーグのハウステンボス宮殿に200点余の絵画を展示したのが始まりだそうです。
ナポレオン侵攻後の1808年、国王ルイ・ボナパルト(ナポレオンの弟)の命によりコレクションはアムステルダムの王宮へと移設され、フランスに持ち去られずに残っていたオラニエ公ウィレム五世の所蔵品を中心とした225点の絵画と、アムステルダム市が持っていたレンブラントの「夜警」や「布地商組合の見本調査官たち」を含む7点の絵画を中心として、王立美術館として公開されました。
ナポレオンが失脚すると、コレクションはアムステルダム市内の王立美術研究所トリップ邸へと移設され、その後、デン・ハーグのマウリッツハイス王立美術館とハールレムの美術館の三か所に分けて保管されました。
1885年に現在地であるミュージアム広場にこの美術館が建設され、分散していたコレクションが再集結して、アムステルダム国立美術館としてオープンしました。
その後、2004年より大規模な改修が行われ、2013年にリニューアルオープンしたそうです。 -
夜警(フランス・バニング・コック隊長とウィレム・ファン・ライテンブルフ副隊長の市民隊): レンブラント・ファン・レイン , 1642年
名誉の間に設けられたガラス囲いの中で、作品の修復作業が行われています。
最初に掲げられていた火縄銃手組合集会所から、アムステルダム市役所に移された際にこの作品から切り取られてしまった三方の端は、今回AIで再現描写されて一時公開されたそうですが、この時にはありませんでした。
修復により、画面全体がより明るくなっているようですが、それでも、やっぱり、私には、夜の場面(夜警)に見えてしまいます。(´?`; )
隊長と副隊長、そして、マスコットと言われる女性(どう見ても妻サスキアにしか見えない)の3人にスポットライトが当たっているようなキアロスクーロを際立たせるためには、画面全体が薄暗いことが必要だったためなのでしょうか?
この作品が描かれた17世紀のアムステルダムでは、個人の肖像画だけでなく、集団肖像画も自警団、評議会、ギルドなど多くの市民団体で人気がありました。
火縄銃手組合の市民隊も、集会所の新ホールに隊別に集団肖像画を掲げることを決定し、6人の画家に注文しました。
フランス・バニング・コック隊長の隊は、レンブラントが描くことになり、隊長とウィレム・ファン・ライテンブルフ副隊長を含め、16人の隊員が描かれることを希望しました。
隊長と副隊長は最も高額で、各人は描かれる位置によって値付けされた金額100ギルダー(およそ100~150万円)前後をレンブラントに支払うことになったそうです。
この頃の集団肖像画は、描かれる人物がそれぞれ対価を支払うのが通例だったため、人物は公平で正確、衣服は社会的地位が明確になるように描かれることが求められました。
その結果として、静的にずらーッと並んだ記念撮影のような単純な構図が多く用いられていました。
しかし、レンブラントはそれまでの常識を覆しました。
隊長が左手を上げて副隊長に出動を命じ、隊がまさに動き出そうとする瞬間を、架空の人物まで登場させて、舞台の一場面のようにドラマチックに描きました。
銃に火薬を詰める隊員、銃を構える隊員、鼓手はドラムを打ち鳴らし、後ろでは旗手が隊旗を掲げ、一斉に人々が動き始めようとしています。
描かれた人物は3人を除いていずれも体の一部分しか描かれておらず、各隊員はそれぞれ多様な表情で、異なった方向に体を向けています。
そのため、この絵が完成すると、描かれたメンバーたちの何人かは支払いをしないとクレームをつけますが、大きく描かれた人が多めに支払うことで落着したそうです。
この絵の主人公で、後にアムステルダム市長になった温厚な性格のコック隊長は、この絵を大層気に入り、水彩画で複製を制作させて自宅に飾りました。
IMBO(実は私は、昔からこの絵を観ると、巧みな構図と劇的なキアロスクーロ、そして、それぞれの人物のバリエーション豊かな精緻な描き込みにはいたく感心しているのですが、同時に人物の表情には何か違和感を感じています。
彼らの表情はどこか虚ろに見えてしまい、これから誇らしく出発する風景にはとても見えず、レンブラントは何か別の意図を込めたように思えてしまうのですが・・・?)
この頃のレンブラントは、アムステルダムで既に高い評価を得ており、工房で弟子達と共に絵画を量産して経済的に大成功し、更に、裕福な家の娘である妻サスキアの多額の持参金で金銭的に恵まれたことにより「注文主の求めるままに描くことに嫌気がさし、自身の求める芸術性を追求し始めた」と言われています。
レンブラントにとってこの絵は人生のターニングポイントであったらしく、この絵の完成と同じ年に妻サスキアは病気で亡くなり、その後、レブラントの人生は暗転して、私生活ではトラブルが続き、経済的にも破綻してしまったそうです。 -
ルーロフ・ビッカー隊の肖像 : バルトロメウス・ファン・デル・ヘルスト, 1639年
アムステルダム第8地区の市民隊の集団肖像画です。
ルーロフ・ビッカー隊長と副官ジャン・ミシェルズ・ブラウによって指揮された総勢30人もの市民隊と画家自身が描かれています。
バルトロメウスは、ハールレムでレンブラントと同時期に人気の肖像画家で、顔、服装、小物などをできるだけ公平・正確に描きました。
当時、集団肖像画と言えば、これが定番だったのでしょう。 -
僧衣のティトス : レンブラント・ファン・レイン , 1660年
青白い顔以外は、様々なトーンの茶色で描かれています。
茶色の明暗・ハイライト・色調だけで僧衣の質感まで描き出しており、大変地味ですが、お気に入りの作品です。
息子のティトスは、妻サスキアと同じ結核に罹患していたそうで、レンブラントの死の前年に27歳で早死にしたそうです。 -
アムステルダムの織物商組合の見本調査官たち:レンブラント・ファン・レイン , 1662年
「夜警」から20年後、レンブラントが織物商組合の見本調査官たちを描いた作品です。
織物商組合は、組合で売買される高級織物であるベーズ織りの品質管理のため、見本調査官(鑑定官)を1年任期で選出し、週3回の鑑定会を開いて織物見本に鑑定結果を刻印し、織物のグレードを保証したそうです。
1661年度の見本調査官たちは、記念の集団画像を鑑定会が開かれる組合のスタールホフに掲げることにし、レンブラントに制作を依頼しました。
この時のレンブラントは破産後で生活は困窮していたようですが、彼が描く絵画への高い評価は維持されていたようです。
レンブラントがこの絵のために一人一人描いたデッサンが2枚残っているそうです。
彼は、平凡な構図のデッサンから何度も描きなおして、まるで「鑑定会の場に、不意に誰かが入室してきたので、話し合いを中断して一斉にこちらを見た瞬間」のようなドラマ性を持たせた絵画に仕上げました。 -
ユダヤの花嫁: レンブラント・ファン・レイン , 1665~1669年の間
レンブラント最晩年の作品で、例によって、この作品の解釈には題名を含めて諸説あるようです。
私にとっては、黄金色と赤の色調の美しさと細部の見事な描写、そして、静謐で幾分物悲しさを感じさせる、お気に入り作品です。 -
小径:ヨハネス・フェルメール , 1658-1659年の間
フェルメールの風景画だと断定されているのは、現在のところ、この作品と「デルフト眺望」の二つだけだそうです。
この作品は「デルフト眺望」の前に描かれており、デルフトに実際に存在した建物を描いたようです。
両作品は、空や建物の壁面の描写などにおいて、似ている部分が多いと思います。 -
牛乳を注ぐ女:ヨハネス・フェルメール, 1658~1661年の間
フェルメールの作品中、最もお気に入りの作品です。
この作品の解釈は、勤勉な女性を描いたものから隠喩を用いた官能表現まで様々あるようですが、私にとっては、「これ以上、何も足さない、何も引かない、完成された世界」が感じられる絵画で、それが感じられるのは、この作品とヤン・ファン・エイク「アルノルフィーニ夫妻の肖像」です。( ^)o(^ )
この作品の持ち主は、フェルメールのパトロンであったピーテル・クラースゾーン・ファン・ライフェンがフェルメールから直接購入したのが最初とされており、ファン・ライフェンの死後、1696年に相続人によって他のフェルメールの作品と一緒にオークションにかけられ、この作品は175ギルダーで落札されたそうです。
1765年にはこの作品は再びオークションにかけられ、1560ギルダーで落札されました。
その後、何人もの持ち主を経て、最終的に1908年にアムステルダム国立美術館がこの作品を含む39点を一括で75万ギルダーで購入し、この作品自体は55万ギルダーとされたそうです。
作品購入に際しては、オランダ政府と1883年にオランダの美術愛好家が美術品の購入を援助するために設立したレンブラント協会が、アムステルダム国立美術館に資金援助しました。
絵画購入にオランダ政府が公的資金を注入するのは前代未聞のことで、世論は賛否分かれたそうです。 -
恋文:ヨハネス・フェルメール, 1669~1670年の間
手紙、女主人公の黄色ガウン、真珠のネックレス、メイドの青いスカートは、フェルメールの作品に良く登場しますね。
手前の部屋から奥の部屋の人物を覗き見るという構図は、同時代のピーテル・デ・ホーホの作品を参考にしていると言われており、二人はライバルだったはずですが・・・?
この時代は、画家同士のパクリは当たり前だったという記述もあり、実際、お互いに似たような構図の作品があります。
この作品も小物が多く、連想されるアレゴリーも豊富ですね。 -
陽気な酒飲み : フランス・ハルス , 1628-1630年の間
この屈託のない明るさ、生き生きとして生命感溢れる力強さ!
ヤン・ファン・エイクの対極とも言える、細部をそぎ落とした計算された大胆さ!
注文制作ではなく、彼が心赴くままに描いたからこそ、こんな絵画が描けたのでしょうか? -
カイパース図書館 Cuypers Library
この美術館の設計者であるカイパースが、建物の外観と図書室内部の統一性を持たせるため、図書室のインテリアまで自身でデザインしたそうです。
オランダ最大の美術史本の蔵書を誇っているとのことで、膨大な量の書籍がびっしりと並べられており、圧巻です。
世界で最も美しい図書館の一つと言われているのも、頷けます。 -
ドールハウス
ドイツで子女の教育用に始まったとされるドールハウスは、オランダでも古くから貴族と裕福な商人の子女のために、主に観賞用として製作されました。
ドールハウスとその中の置物は、建築家・画家・彫刻家・棚の職人・銀細工師・籠の職人・吹きガラスの職人等々が注文主の好みを反映しながら製作しました。
16~17世紀の全盛期のアムステルダムの富裕層は絵画をはじめ,家具,磁器の収集に熱心で、東インド会社の交易品である中国や日本で製作された高価な磁器をドールハウスの食器棚に飾ったそうです。 -
若い女性(子供)のお部屋でしょうか?
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de Bijenkorf 老舗デパート
オランダで唯一購入したかったPillow Spray(枕にシュットするアロマスプレイ)を求めて、最近はめったに訪れないデパートへ行きました。(終活断捨離中のため)
ついでに5FのRestaurant The Kitchenで、お気に入りの小エビのコロッケとサーモンソテーを頂きましたが、リーズナブルプライスで美味しかったです。
大体どこの国でもデパートのお食事処は、おばさんの強い味方です。(^O^)
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