2023/05/26 - 2023/05/26
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ばねおさん
カミーユ・クローデル美術館のあるノジャン・シュル・セーヌNogent-sur-Seine は、パリから南東に約100km、東駅から電車で約1時間ほどにある小さな街。昨年11月にも一度訪れたのだが、あいにくと美術館の休館日にあたっていた。
カミーユ・クローデルが両親、弟妹とノジャン・シュル・セーヌに住んだのは12歳からの3年間だけだったが、この地で彫刻家アルフレッド・ブーシェ( Alfred Boucher ) に才能を認められ、その勧めに従ってその後パリへ移住することになった。いわば彼女の生涯を決定づけた運命の土地だ。
やがてパリでカミーユの作品を見たロダンを驚嘆させ、ロダンの助手となり愛人へとなっていくのだが、10年間続いた二人の関係は破局し、カミーユは精神のバランスを失い生活が破綻していく。
幼い頃からカミーユの才能に気づき、最大の理解者であり保護者であった父親が亡くなると、その8日後にカミーユは母親と弟ポールによって精神病院に送り込まれる。
以来30年間、退院可との医師からの連絡にも、病院から出してほしいとのカミーユの再三の訴えにも家族は耳を傾けることなく、飢餓に近い栄養失調状態でカミーユは亡くなった。
死の知らせがあっても駆けつける家族もないままに、親族に埋葬されなかった遺体は集団墓地に葬られた。
30年間の収容生活中に母親と妹のルイーズが面会に訪れることは一度もなく、外交官として活躍し、同時にフランスを代表する詩人、作家となった弟ポール・クローデルだけが僅かに10数回の訪問をしている。
彫刻家カミーユ・クローデルの存在は、美術界、とりわけ彫刻の分野では知られてはいたものの、その名が世間に広く認知されたのは、1988年に公開された映画『カミーユ・クローデル』からであると言われている。
弟ポール・クローデルの孫娘であるレーヌ・マリー・パリ Reine-Marie-Parisの書いたカミーユの評伝が映画脚本の元になっていて、レーヌ・マリー・パリはカミーユの研究者としての地位を確立し、世界中のカミーユ関連のイベントに登場するようになった。
その一方で、カミーユの遺した彫刻の原型を用いて鋳造を繰り返し、そのオリジナリティの妥当性をめぐって裁判にも発展している。
人生の半ばで制作を中断したカミーユの作品は約90点しか遺されていない。
1952年にポール・クローデルがロダン美術館に寄贈した4点以外のカミーユの遺品としての作品は、2008年から2017年にかけて、妹ルイーズ、弟ポールの遺族から売却されている。
オークション会社のクリスティーズによれば、2017年に妹ルイーズの保有していた20点がオークションに委託され360万ユーロ(レート換算で当時約4億6千万円)で落札されている。
又、カミーユの作品のこれまでの最高落札は2013年のロンドンでの『La valse』のブロンズ像で、510万ポンド(レート換算で当時約7億8千万円)であるという。
これらの作品の多くがカミーユ・クローデル美術館に収蔵されたことは喜ばしいとも言えるが、悲惨なカミーユの後半生を思うと何ともやりきれない気持ちになる。カミーユが可愛がり信頼を寄せていた弟ポール・クローデルが偉大な存在であれば尚更である。
ポールの孫娘レーヌ・マリー・シャペル・パリの言葉。
ー 祖父はカミーユの死の後、生涯ずっと大きな罪悪感を抱えていました。彼は自分がすべきことをしていなかったと思っていました。ー
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 鉄道 徒歩
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昨年11月に来た時は今にも雨が降り出しそうな暗い空だったが、この日は明るい青空にセーヌ川の上流にある原発の白い水蒸気が鮮やかに浮かんでいた。
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カミーユ・クローデル美術館の手前に観光案内所があるので、近隣の地図でも入手しようと立ち寄ったところ閉鎖されていた。4月から近くのセーヌ川に係留されている船に移転した旨の案内書きがあった。
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その先にある「ポール・デュボア - アルフレッド・ブーシェ美術館 (Musée Paul-Dubois-Alfred Boucher)」。
今回は、カミーユの才能を高く評価し、最初の指導者であったブーシェの作品もじっくり鑑賞するつもりでいたのだが、作品は全てカミーユ・クローデル美術館に移設されていて、案内表示が以前のまま残されているだけであった。 -
かっての「ポール・デュボア - アルフレッド・ブーシェ美術館」。
デュボアとブーシェの尽力で立ち上げ、市立美術館としてあったものだが、今では少し先にカミーユ・クローデル美術館と名を改めて再発足したということになる。 -
旧美術館のある庭園には入ることができるが、美術館のあった建物は公開されておらず、将来の再オープンに向けて目下準備中であるという。
写真は、庭園に掲げられていた「花の町村」のプレート。 -
カミーユの一家が1876年から1879年まで3年間住んだ住居跡がカミーユ・クローデル美術館になっている。
一家は、財務の役人である父親と裕福な家庭の出身である母親、2歳下の妹ルイーズと4歳下の弟ポールの5人家族であった。
クローデル家はここからWassy-sur-Blaisenに転居した後、仕事のある父親を除いて1881年にパリに移住している。 -
カミーユ・クローデル美術館の前庭アプローチ。
入館中は他の見学者を一人も見かけなかったが、観覧を終えて出るときに30人ほどの団体がやってきた。 -
美術館の説明書によれば、フランス彫刻の黄金期を形成するマリウス・ラミュMarius Romus(1805-1888) からポール・デュボア Paul Dubois(1829-1905)とアルフレッド・ブーシェAlfred Boucher(1850-1934) に至るまでの44人の彫刻家の作品300点以上が収蔵され、約200点が展示されている。この内、カミーユの作品は45点となっている。
カミーユの作品で残されているのは約90点と見られているので、ほぼ半数がここに集まったことになる。 -
ブーシェの勧めとカミーユの強い希望、それを受け入れた父親の深い理解によって、1881年、母親とカミーユ、妹ルイーズ、弟ポールの家族4人はパリに移住した。
当時は、国立美術学校Beaux-Arts をはじめ、ほとんどの美術学校は女性に門を閉ざしていたが、女性の入学を認める例外的な美術学校コラロッシ l'Académie Colarossi にカミーユは通った。
(写真は1930年代までコラロッシのあったパリ、グランド・ショミエール通りRue de la Grande Chaumièreの建物。
余談だが、モディリアーニとジャンヌが出会ったのもこの学校で、隣はゴーギャンとモディリアーニのアトリエがあった建物になる。) -
カミーユは、美術学校コラロッシに通うと同時に若い英国人女性たちと共同でアトリエを借りて制作に励むようになった。
ブーシェは週に一度、定期的に共同アトリエに顔を出して、必要な指導や助言を加えていった。
写真は共同アトリエがあったノートルダム・デ・シャン Notredame-des-Champs 通りの建物。
この数軒先にクローデル一家は住んでいた。 -
この共同アトリエでのカミーユの制作風景が写真で残されている。
右にみえるのは、共にロダンの工房に入った英国女性のジェーシー・リプスコム Jessie Lipscomb。
二人は緊密な友情で結ばれていたが、ロダンとの関係を深めていくカミーユに忠告したリプスコムとはロダンとの愛の破局後は遠ざかっていった。 -
後年、リプスコムは精神病院に収容されていたカミーユを2回訪ねている。
1929年の2回目の面会の際に、リプスコムに同行した夫が撮った写真がカミーユの生前最後の姿を伝えるものとなった。 -
さて、カミーユ・クローデル美術館の最初の展示室に入ってまず目を引くのは、ブールデル Antoine Bourdelle(1861年 - 1929年)の作品だ。
ブールデルは15年間もロダンの下で働き、ロダン作品のほとんどの下彫りを行い、とりわけ石の扱いはロダンを上回る技量であったといわれている。
ロダンを継ぐフランス近代彫刻の偉大な位置を確立しつつ、ロダンとは異なる自分の道を創り出していった。 -
パリのブールデル美術館からの寄託作品が何点か置かれていた。
ブールデル作『 Auguste Rodin au travail 作業中のロダン』(1909)
ブロンズ 1967年鋳造(No.7)
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カミーユの才能を認め、彫刻の道を進むことを強く助言したブーシェの作品を見ていきたい。
ブーシェ作『Jeune fille lisant 読書をする女の子』カミーユへ(1880年頃)
<2008年にレーヌ・マリー・パリからの寄贈>
ブーシェはカミーユたちのパリの共同アトリエを定期的に訪問して制作活動に助言を与えていたが、1882年の秋にフィレンツェに行くことになった。
自分が去った後も誰かが若い新人たちをフォローする必要があるだろうと考えたブーシェは親しい友人のロダンに後事を託していった。 -
ブーシェ作『Ballerina ou La Danseuse espagnole バレリーナまたはスペインのダンサー』(1884)ブロンズ(鋳造No.2)
ブーシェがイタリアへ行くことなく、カミーユの指導を続けていたらどうだっただろう。
誰が指導者であったとしても、カミーユは自分の才能を大きく開花させたに違いない。ただ、いずれロダンとの出会いがあったとしても、愛人となりロダンの子を中絶し、ロダンの内妻ローズを挟んで二人の関係が絡れる事態も、精神のバランスを失い制作活動をやめることもなかったのではなかろうか。 -
ブーシェ『 A la terre 大地へ 』(1891年頃)
労働という新しいテーマをモチーフにした作品。
芸術家を育てるという点においてブーシェの功績は極めて大きい。
ブーシェは1900年のパリ万博で大賞を受賞しているが、万博で使われたパビリオンを買い取り、モンパルナス近くに貧しい芸術家たちのためのアトリエ住宅として建て直した。 -
ブーシェの建てた「La Ruche ラ・リューシュ(蜂の巣) 」と呼ばれる八角形の特徴ある建物を中心とする集合アトリエには、のちに世界に名を知られる多くの芸術家が集まった。
とりわけ1920年代のエコール・ド・パリを代表する画家・彫刻家が創造に励んだ場所として有名になった。
ラ・リューシュは、今では史跡として保存管理されているが、現在でもアトリエとして活動が続いている。 -
ブーシェと並んで当時を代表する彫刻家のひとりであったポール・デュボア Paul Dubois (1829-1905)の作品『Chanteur florentin du XVe siècle 15世紀のフィレンツの歌手』(1865)
デュボアの作品といえばジャンヌ・ダルク像がよく知られている。 -
デュボア『La Charite 慈愛』(1876年)
柔らかく優雅な人物の表現がポール・デュボアの特徴と言えるだろう。 -
オルセー美術館に展示されているデュボアの作品(2022.03撮影)
『Bingen et Costenoble』 ブロンズ 1905年鋳造
叙情性のある自然主義的な作品。 -
こちらはアレクサンドル・ファルギエール Alexandre Falguière (1831年 - 1900年)の作品。『Diane chasseresse 狩りをするダイアナ』(1884)
ブーシェが集合アトリエ住宅 「La Ruche」を建てたように、ファルギエールもモンパルナス駅近くに万博の廃材を利用したアトリエ長屋「Cité Falguière シテ・ファルギエール」を建てて、外国から来た貧しい芸術家たちに制作の場を提供した。
フジタをはじめ数多くの日本人芸術家も恩恵を受けたシテ・ファルギエールだが、 ラ・リューシュと異なり1960年代の都市開発の波を受けて今ではほとんどその姿をとどめていない。
彫刻家としてはその名が忘れられている観があるファルギエールだが、ロダンとの間での有名なエピソードがある。
ロダンの制作したバルザック像があまりにもヘンテコであるとして注文主の文学者協会が受け取りを拒否し、ファルギエールに再依頼した。
これを受けてファルギエールは坐像のバルザック像を作成した。
そしてファルギエール曰く、「俺はロダンのバルザックを座らせただけだよ」。
この一件で、ロダンとファルギエールが仲違いした訳でもなく、その後、お互いに胸像を作りあっている。 -
カミーユ・クローデル美術館の窓から見える周辺の家並み。
カミーユは4歳下の弟ポールを可愛がり、ポールをモデルに胸像を2回制作している。(京都の関西日仏学館にはカミーユ作のポール・クローデルの胸像(ブロンズ)が置かれている)
ポールはパリで学業を修め、首席で外交官試験を通り、米国を振り出しに世界各国に赴任した。日本にも大使として5年余滞在した。
カミーユの影響から発したのか、中国、日本などの東洋文化にも造詣が深く、詩人としても高い評価を受け、20世紀フランス文学を代表する作家の一人となった。
今日でもカミーユ・クローデルを紹介するにあたって、ポール・クローデルの姉という表現がよく用いられている。 -
作品「シロクマ」がとても有名なフランソワ・ポンポン François Pompon (1855-1933)の小作品も展示されていた。
ポンポンはロダンの工房でカミーユと一緒に働いただけでなく、後年、カミーユの制作の技術的手助けをするなどしている。
画家のアンリ・ルソーがパリ植物園の温室で熱帯植物を観察したことと似通う話だが、ポンポンは動物たちの生態を見るためにパリ植物園にある動物園に通ったという。
日本では群馬の館林美術館がポンポンの一大コレクションを擁している。
ただ、100点以上収集した作品のうち、34点が作者の死後鋳造であったことが判明して公開展示できなくなったため、再現されたアトリエに参考展示されているという。
ポンポンが自分の死後の鋳造を禁じていたためであるが、彫刻にはオリジナルとコピーの問題が常に付き纏う。 -
ロダン『Bacchantes enlacées』(1898年以前)
ポンポンの例に対して、ロダンは死後鋳造を可としたため、ロダン美術館は贈与された原型を用いて鋳造作品を次々と生産し、今やロダン作品は世界中に行き渡っている。
単純にいえば、彫刻は原型があれば鋳造して数を増やすことが可能なので、カミーユ作品の場合も相続人たちの複製濫造が裁判で争われた。
作品のオリジナリテイを考える場合、どこまで鋳造が許されるのかは大きな課題だ。
どこかで線を引かなければなるまいという訳で、現在は12体までというのがフランスでのオリジナル規定となっている。
以下、カミーユのブロンズ作品は、分かる範囲で鋳造年と番号、さらに併せて購入履歴も記してみた。 -
美術館2階の中程から奥にかけてのスペースがカミーユの世界になっている。
カミーユ・クローデル『 La Vieille Hélène, ou Buste de vieille femme 老エレーヌあるいは老婦人 』(1881-1882)テラコッタ
<2008年にレーヌ・マリー・パリから購入>
ロダンに出会う前の17、8才頃の作品のひとつで、これと弟ポールをモデルにした『若きローマ人』をみてロダンは驚嘆したという。 -
カミーユは気質、気性、感性においてロダンといわば相似形であったという解釈がある。
しかし、表現においてはどうだろうか。
ロダンとカミーユの同じ題名の作品『Femme accroupie 蹲る女』
こちらがロダンの表現(1881-1882頃)
<パリ ロダン美術館からの長期貸与> -
こちらはカミーユの『Femme accroupie』(1884-1885)
<2008年にレーヌ・マリー・パリから購入>
このロダンとカミーユの作品を並べると、二人の特質がとてもよく分かるような気がする。
ロダンを抜きにしてカミーユを語ることはできないが、ロダンにとらわれすぎるとカミーユの世界が見えてこない。
ロダンの影響があったことは否定できないが、優れた芸術家はお互いに影響しあうものだ。 -
ムードンのロダン美術館 (2016年撮影)
内妻ローザと別れる意思のないロダンと、結婚を望んでいたカミーユとの相剋は解決のすべもなく、彫刻家としてのカミーユの社会的認知も絡み合って破局へと進んでいった。
1893年以降はロダンはカミーユとの関係から逃れるようにパリ近郊のムードンへ移り住むようになった。 -
ムードンにある「地獄の門」の巨大な石膏像 (2016年撮影)
建築といっても良いくらいの作品だ。
カミーユと出会う2年前、ロダンはパリの装飾美術館の扉を国から受注し、次第に構想を膨らませていったが、その実現には多大な時間と有能な助手を必要とした。
結局、「扉」は「門」に変じてしまったが、さらに『カレーの市民』も受注した状況では、とてもひとりの作業で行えるものではなく、精緻な作業をカミーユに任せることになった。
形式的には助手であるが、実質的には共同制作者であり、モデル人物の配置などもカミーユの着想に負うところがあった。 -
カミーユ作『Auguste Rodin』(1884-1885年頃)
<2008年 Philippe Cressent からの購入>
ロダンは作品の制作をカミーユに委ねるところがあったとはいえ、署名はあくまで自分であり、カミーユを弟子以上の存在として公認することはなかった。
1895年にはカミーユは国から作品制作の依頼を受けたものの、鋳造をめぐる話が紛糾し、カミーユの望む方向には進まなかった。カミーユは影響力のあるロダンが邪魔をしていると思い込むようになった。 -
カミーユ作『L'Abandon 放棄 』(1886年頃)
Eugène Blot ウジェーヌ・ブロによる1905年の鋳造(n°2)
<2008年にレーヌ・マリー・パリから購入>
美術取引商のEugène Blot ウジェーヌ・ブロは、カミーユの支援を行い代理人としても大いに活動した人物で、カミーユから石膏型からの複製権を得て作品鋳造を行っている。
このバージョンは、1888年にサロン・デ・アーティスト・フランセで『Sakuntala サクンタラ(シャクンタラ)』のタイトルで展示され、賞を得た作品からわずかに手が加えられているという。 -
カミーユ・クローデル『Sakuntala 』(1888)
多くの部分を欠損したオリジナルの石膏から作成されている
<2008年にレーヌ・マリー・パリ からの購入>
カミーユの評伝を書いたポール・クローデルの孫娘レーヌ・マリー・パリは、カミーユの死亡時に5歳であった。一度も会ったこともない大叔母の存在を世に広めた功績がある反面、遺されていた石膏型を用いて鋳造を繰り返し販売するなどして刑事裁判にもなっている。 -
カミーユ作『Buste de Femme, portrait probable de Madame Claudel 女性の胸像、おそらくはクローデル夫人』(1888~1890頃)
1887年にパリ、ポールロワイヤル31番地のバルコニーで撮った家族写真が残っていて、写っている母親はまさにこの像そのものである。写真を撮った日は妹ルイーズの婚約日で、家族が集まった際に撮影したものとみられる。
母親は芸術にはまったく関心がなく、彫刻は女の行う仕事ではないとカミーユの志望には強く反対し続け、自分と同じ名をつけた妹のルイーズを偏愛した。 -
クローデル一家がパリで一時住んでいたポールロワイヤル31番地の建物入り口に掲げられているプレート。
「1886年から1892年まで作家ポール・クローデルと彫刻家カミーユ・クローデルが住んでいた」とだけ記されている。 -
ロダン作『 L'Éternelle Idole 永遠の偶像 』(1889年頃)
<ロダン美術館からの寄託>
ロダン彫刻にみられる物語性、文学性という傾向からみても、あるいはカミーユの「Sakuntala 」もしくは「L'Abandon」と比較してみても、色々と読み解かれる作品の一つ。
私流に言わせていただければ、「愛」の解釈、表現がロダンとカミーユでは大いに異なっている。 -
カミーユ作『 La Petite Chantelaine ラ・プティット・シャトレーヌ(小さな女城主)』(1892-1893)
<2008年にレーヌ・シャペル・パリ から購入>
この胸像の最初の石膏バージョンは、1894年にブリュッセルで「La Contemplation」というタイトルで展示された後、パリのサロン(Salon de la Société nationale des beaux-arts) で『 Portrait d'une petite Châtelaine』という名前で展示されている。
カミーユは石膏、ブロンズ、大理石でプティット・シャトレーヌのいくつかのバージョンを作成している。 -
カミーユ作『 La Valse ワルツ 』(1893年)
手前は1896年以前にレタッチされた作品。
<いずれも2008年にレーヌ・マリー・パリから購入>
これも、いくつかのバージョンがある作品群。
当初、裸体の男女の姿で制作したが、男女が裸体で踊る姿は受け入れられないと、展示審査で拒否され、裸体は変化しない本質を表す、というカミーユの主張は聞き入れられなかった。
この作品からロダンとの熱情的な関係、あるいは音楽家クロード・ドビッシーとの恋愛を重ねて解釈する人もいる。ただ、ドビッシーとは親交があったが、それ以上のことは何も証明されていない。
真偽は不明だが、ドビッシーはこのシリーズ作品の一つを買取り、ピアノの側にずっと置いていたという。 -
カミーユ作『 L'Implorante ou Imploration 懇願または懇願する女性』(1894年頃)ブロンズ Eugène Blotによる鋳造( n°5、1905年)
<2007年に一般販売で購入>
ロダンとの関係が破局が決定的になった頃の作品であるが故に、実生活の状況をまるで反映しているかのような解説が多いのだが... -
ロダン作『 L'Eternel Printemps 永遠の春 』(1894年)
<パリ ロダン美術館よりの長期貸与>
こちらもカミーユとの関係に作品で呼応したかのような表現である、との解釈が多い。
二人ともそんなに単純に実生活を作品の形にしたのだろうか? -
カミーユ作『Profonde Pensee 深き考え』(1898)
1900年のパリ万博に出品した作品のひとつ。
ウジェーヌ・ブロによる鋳造( n°5、1905年)
<2008年、Phillipe Cressentから購入>
当時、カミーユの作品を高く評価する批評家もいたが、「ロダンの優秀な弟子」として、自分の作品にロダンの影響を読み取ろうとするだけの世間にカミーユは強く反発した。
ロダンが巨大であればあるほど、カミーユは影の存在としかみなされず、女性であるが故に非難され、報われない男性優位の社会の仕組みを苛立ちを持って戦っていた。 -
カミーユ作『 Reve au coin du feu 炉端の夢 』(1899年頃)
ブロンズと大理石の組み合わせ ウジェーヌ・ブロ1905年鋳造
<2008年にレーヌ・マリー・パリから購入>
1911年頃から、カミーユの精神的、身体的状態は悪化し、ロダンが自分の作品を盗みにくるとの思いに駆られ、1912年には大量の作品を壊すなどの行為に及んでいる。 -
カミーユ作『L’Aurore オーロラ』(1900年頃)
ウジェーヌ・ブロによる鋳造 1908年
<2008年にレーヌ・マリー・パリから購入>
プティット・シャトレーヌのシリーズ作品の中の最後のバージョン。
豊かな髪を強調した女の子の視線は空に向かい、何をみているのだろう。
ウジェーヌ・ブロは、カミーユからL’Aurore の石膏を取得し、1908年から6つのブロンズコピーを制作した。
カミーユ・クローデル美術館には、使用されたブロンズモデルリーダーと、緑青のブロンズバージョンも展示されている。 -
鑑賞を終えて美術館を出た時にはランチタイムはとうに過ぎていた。
パリのように昼食時間をすぎても食事ができる店などなく、空腹を抱えながら街をウロウロして、パン屋を見つけて簡単なサンドイッチを作ってもらった。
飲み物も買い、すぐ近くのセーヌの岸辺に出てひとりピクニックとなった。
静かな水面に白鳥のつがいがのんびりと浮かんでいた。
穏やかな日差しの下で、静かなこの景観が何よりのごちそうになった。 -
カミーユが1889年1月から一人で最後に住んでいたパリ、サンルイ島の建物 (19 quai de Bourbon)。
父親が亡くなって8日後の1913年3月10日、カミーユは母と弟ポールの意向で精神病院に収容された。
当日、抵抗するカミーユは無理やり病院車に押し込まれて搬送されていったという。
その後、南部の病院に転医し、30年間収容されたままで亡くなった。
この間、カミーユからの嘆願も、退院可能であるとの病院からの連絡も受け入れず、母親は病院に留めおくようにだけ答えた。
母親も妹も一度も面会に訪れることなく、僅かにカミーユが愛した弟ポールだけが10数回訪れた。外交官として米国、中国、日本、南米、東欧と海外に身を置くことが多かったにせよ、30年間に10数回の訪問とは姉の弟に対する愛と信頼に応えるにはあまりにも酷い。
カミーユが弟ポールに宛てた1927年3月の手紙は悲痛だ。
「非人間的な孤独の中で14年間私は自由を求めて叫んでいる。ここは私のいるべき場所ではない 」
彼女の文章には精神的な障害を感じさせるようなものはなく、置かれている環境から出してほしい、その上で新しい作品に取り掛かりたいという切実な訴えがあるばかりだ。
この同じ時期にポールは歴史的に由緒ある城を買取り、自らの居住する場所の一つとしている。そのつもりがあれば、カミーユを精神病院から出して、必要な援助を与えることは、さほど難しいことではなかったはずなのだが,,, -
サンルイ島の建物入り口に掲げられているプレートの言葉は意味深長だ。
「 彫刻家 カミーユ・クローデル
この日付は芸術家の最後の日であり
長く閉ざされた夜の始まりの日である 」
カミーユが精神病院入院中に彫刻と向き合わなかったことを、彼女の精神状態や創作意欲の喪失と捉えて見る向きもある。
しかし、カミーユは「ここで制作をすることは、自分の置かれている環境を認めてしまうことになる」として自分の考えを貫いた。
戦時中の食糧制限下にあったにせよ、十分な食糧を与えられず栄養失調とほぼ飢餓状態で衰弱していったカミーユは1943年10月19日、近親者の誰も立ち会わぬ中で息を引き取った。
その衰弱していく様子は、亡くなる一年前から何度も病院からポールに伝えられていた。亡くなった後も、引き取り手のない遺体は集団墓地に葬られた。
1960年代になって、ポール・クローデルの息子であるピエール・クローデルが偉大な芸術家に相応しい埋葬であるべきだと考えて改葬を試みたが、集団墓地に投げ込まれた遺体を突き止めるのことは不可能だった。
ポールの孫娘レーヌ・マリー・シャペル・パリの言葉がわずかな慰めになるだろうか。
ー 祖父ポール・クローデルは、カミーユの死後、生涯ずっと大きな罪悪感を抱えていました。彼は自分がすべきことをしていなかったと思っていました。ー -
パリ15区、メトロ12号線のファルギエール駅上に「 カミーユ・クローデル広場 Place Camille-Claudel 」がある。
すぐ先にロダンのアトリエがあったヴォジラール通り(Rue de Vaugirard)が横に通り、シェルシェ・ミディ通り(Rue du Cherche Midi) の終点とファルギエール通り(Rue Falguière) の始点が交差する小さな三角地帯だ。ブールデルの旧アトリエであったブールデル美術館もごく近い。
ふたつのベンチが置かれているこの広場には桜が2本あって、毎年時期が来ると豊かな八重の花を見せてくれる。
以前、この近くに住んでいた頃に、よくこのベンチを利用した。
今でもここを通ると、少し腰掛けていこうという気持ちにさせてくれる場所だ。
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