2023/04/03 - 2023/04/07
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akitaineさん
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百済の王都を訪ねる歴史ツアーに参加してきました。
百済といえば、日本と仏教やその他文化の交流があった国ですが、意外と詳細わかっていないのではないかと思っていました。百済観音などの仏教美術と、僧の行基や複数の貴族などが百済系の方であり、古墳~飛鳥・奈良時代に日本の文化社会形成に関わってきたという認識くらい。
今回、専門の研究者が同行して百済の3つの王都を訪ねることとなり、いくぶん理解が深まりました。
百済ってどんな国だったのか?日本との関わりは?
時代の流れに従い、王都が南下していき660年滅亡した百済をまとめてみました。
今回は、後期 泗沘(扶余)・益山時代(538年~660年)です。
【百済の時代区分】
前期 漢城(ソウル)時代 ?~475年
中期 熊津(公州)時代 475年~538年
後期 泗沘(扶余)時代 538年~660年
【行程】
4月3日(月)関空-金浦国際空港ー風納土城ー石村洞古墳群 ソウル泊
4月4日(火)夢村土城ー漢城百済博物館ーロッテタワー(公州へ移動)ー武寧王陵と王陵園(宋山里古墳群)ー国立公州博物館ー大通寺跡ー公州泊
4月5日(水)公山城ー公州新官洞古墳群ー公州大学博物館(扶餘へ移動)ー扶蘇山城ー国立扶餘博物館ー軍守里城址ー扶餘泊
4月6日(木)王興寺址ー定林寺址ー陵山里古墳群ー王宮里遺跡・百済王宮博物館ー帝釈寺址ー弥勒寺址・国立益山博物館(ソウルへ移動)ソウル泊
4月7日(金)漢城百済博物館(2回目)ー国立中央博物館ー金浦国際空港ー関空
- 旅行の満足度
- 5.0
- 交通手段
- 観光バス
- 航空会社
- アシアナ航空
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
-
午前に公州見学を終え、最後の都・泗沘(扶余)に移動しました。
熊津が,漢城を逃れ暫定的に作った都であるのに対し、泗沘は、計画的に定めた都であり、熊津時代から準備を進めて建設された都と言われています。
錦江沿いに公州から30㎞ほど下流の扶余にあります。写真のように川に面した扶蘇山城です。川の名前も白馬江という名前に変わります。
山そのものが城域でした。いくつもの城壁がめぐらされ、守りを固めています。
百済時代に城になりましたが、その後の統一新羅~朝鮮時代までに作られた城壁が残っています。
百済陥落のときは、多くの女官が、崖から川に身を投げたとか。(伝説)
白馬江の下流、黄海に注ぐ地域が白村江。663年日本が百済再興軍と共に、唐・新羅連合軍と戦った地があります。惨敗しましたが。(史実) -
軍庫址。
発掘により、李朝時代の建物が出てきましたが、礎石の多くは百済時代の穀物倉庫址。李朝時代に兵舎として使われたと推測されます。 -
百済時代からあったとされる・迎日楼。
王がここで太陽を眺めながら国事や日課を計画したと言われています。
建物がしっかりしており近世に立て直ししたもの。
屋根が跳ね上がり、軽快さが出ています。
扶蘇山城は、午前の公山城より規模が大きく城壁や遺構がたくさん残っていました。ちょっとした山登りでした。 -
扶蘇山城の次は、国立扶余博物館に行きました。
百済も時代を下ると文化は円熟し、様々なすばらしい美術品を見ることできました。 -
入口に入ると吹き抜けの円形広場があります。
その中心に大きな石槽が置かれています。高さ1.3mくらいでしょうか。
「扶余石槽」と書かれ、石をくりぬいて水を溜めたと考えられています。
王宮で使われていたらしい。
石には唐が百済を平定したと書かれています。(百済滅亡660年)
私たちが訪問したときは夕方でしたが、館内の宝物をストーリーとして紹介するプロジェクションマッピングが石槽から天井にかけて映し出されました。
百済の歴史にからむ宝物の数々、そして最後に国宝の百済金銅大香炉が登場し、香炉に描かれている楽師や龍、そして頂上に鳳凰が舞い降りるパフォーマンスはすばらしかった。 -
泗沘百済を代表するといっていい美術品は、何といってもこの百済金銅大香炉ではないでしょうか。国宝です。
まばゆい黄金色。高さ61.8㎝、重さ11.85㎏。
1993年12月、陵山里寺址で発見されました。古墳のある陵山里の隣にある寺址なので、当然王室関連のものと思われます。
形が見事。龍形台座部は龍(神聖な山岳へ導く想像動物=地上と天上を結ぶ)が体をくねらせ天空を仰ぎ香炉身の蓮華の茎を咥える。蓮華装飾の炉身は半円形の器形で24枚蓮花が3段配置、葉一枚一枚に不死鳥や魚、鹿、鶴に彫刻、万物が蓮花から誕生=仏教世界観を表現。蓬莱山で74峰(峰々間に香煙穴)の蓋部は、漢の博山香炉由来の理想山水を背景に不死の神仙と想像動物42匹(虎・鹿・鰐・翼魚)や植物、笛・琵琶・太鼓・簫・琴演奏5人楽師、武人像・馬や象に乗る・読書する等17人物が峰の間に浮彫。最上部で翼広げ如意珠を嘴首で抱く鳳凰(天からの使者=天帝の世界)が降り立ち、その胴体は空洞でその中から香煙が出る。6C百済人精神世界の芸術を凝集しています。
もう、オーラ半端ないです。 -
仏教美術もたくさん展示されていました。
金剛観音菩薩立像。扶余出土。 -
鬼面。
魔除けのようなものでしょう。デザインが美しい。怖い中にもユーモラスな雰囲気もある。
百済人のセンスを感じます。 -
これは、便器。奥にあるのは虎子といわれています。
排泄する入れ物もおしゃれに作られています。
王様や身分の高い人たちだけでしょうが。
こんな感じで多くの美術品、文化遺物に圧倒されました。 -
翌日4/6(木)も雨。傘を差しながら遺跡巡りです。
扶余の街中にあり、百済時代の石塔が残る定林寺に行きました。
創建は、6世紀中頃かとされています。
百済の寺院形式は、塔・金堂・講堂が一直線に並び、周囲に回廊があります。百済形式と呼ばれています。
日本の大阪にある四天王寺(593年造営開始)が同じく伽藍が一直線にならぶ様式です。日本における最も古い様式の一つとされています。百済が滅びる前ですから当然影響を受けているでしょう。
(最近の調査で、百済の伽藍配置は一直線に並ぶと同時に、講堂と金堂の横の回廊に左右付属建物が発見されており(用途不明)、単純な一直線ではないらしい。しかし日本の仏教は百済から移入されたものが多いので、その影響は大きいと思う) -
発掘され、台座調査を経て創建当時のものとされた石塔。
石でありながら優美な雰囲気があります。昨日の迎日楼もそうですが、屋根が少し跳ね上がり、軽快な雰囲気を作っています。百済風といいましょうか。
初層には「大唐平百済国碑銘」とあり、百済滅亡の年660年に記されたことがわかります。当時の唐の総司令官の名や、新羅の将軍の名など克明に描かれています。
昨日見た国立扶余博物館の石槽にも唐が平定されていたことが刻まれていましたが、こちらのほうが石が柔らかいのか、詳細な記述となっています。 -
次は陵山里古墳群と陵山里寺址です。
園内にあった空からの写真。右端が古墳エリアで左側に大きく四角い土が見えているところが陵山里寺址です。 -
古墳エリアは内部の公開はしていませんでした。
内部の装飾も美しいようです。
ここを見学したとき、次の目的地に行くため、時間が限られており、古墳は遠目だけでパスし、大急ぎで寺址のみ見学。広い敷地を走ったよ。 -
寺院址のエリアにやってきました。
こちらも中門・塔・金堂・講堂が一直線にならぶ典型的な百済様式です。
後期百済の時代になり、扶余には羅城(古代都市全体tを囲む壁のようなもの)が造られるようになり、町を守っていました。左の小高い丘はきれいな線を描いていますが、これが羅城址で陵山里古墳群と陵山里寺址は、羅城のすぐ外に造られています。 -
羅城の址を示す図です。
赤い線が羅城址。陵山里古墳群は、赤線の右側(羅城のすぐ外)に造られました。 -
寺院を奥のほうから見ます。
右奥に小高い山が見えますが、羅城は山の左裾まで造られました。
香炉が発見されたのは、写真手前右のあたりの工房と思われる建物。
660年百済滅亡時に工房の井戸に投込まれたと思われます。
発見当時の様子を再現した、泥水に浸かったレプリカもありました。 -
ここで、昨日見た国宝・百済金銅大香炉が1993年12月に発見されました。
工房と思われる建物の中、写真のように泥水に浸かり、蓋部と台座胴部が離れた状態で発見されました。 -
さて、この日のランチは、益山市内に移動した後、市内レストランで焼きサバ定食をいただきました。益山は黄海に近い。大ぶりの半干しして2枚に開いたサバが、ジュウジュウに焼かれてやってまいりました。今回の食事は、現地旅行社のアレンジなので、その地ならではのものをいただけました。焼肉だけでは面白くありませんね。
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いつものように、たくさんの副菜がつけられています。これだけでも9種類。それ以外にバイキングコーナーがあり、好きに取ることができました。昼時、地元の多くの人で賑わっていました。
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百済後期の都は扶余にありましたが、扶余からさらに40㎞南にある益山にも王の離宮があります。ここを第4の都とするか議論が分かれていますが、都というほど、王宮以外の官庁や人の住居が見つかっていないので、今のところ、離宮とする意見が多いのが現状です。
離宮とされる王宮里にやってまいりました。
小高い丘になっています。寺院址とその裏に王宮址があります。
唯一残っている五重の石塔。 -
石塔から発掘された宝物です。
如来立像や純金板に陽刻された金剛経19枚。(百済王宮博物館) -
石塔の背後は、もう少し小高くなっており、ここが王宮址とされています。
苑池址も発掘され王宮址として残っているのはこの苑池だけです。 -
面白い?のは、丘の頂上をさらに進み、やや下ったところに発見されたトイレ。奥にある建物です。3mほどの穴を掘り、板をかけて用を足します。
その先にあるガラスで覆われた長い廊下のようなものは、排泄物を緩やかなな傾斜でゆっくり下流に押し流す遺構です。
写真には撮らなかったのですが、小屋の中で実際に用を足す宮廷人の人形がリアルだった~。 -
次に王宮里址の隣にある百済王宮博物館に行きました。
現場を見てきた、トイレ小屋の穴の様子。
かなり深くて落ちたら危険。 -
益山の王宮里は、第30代王・武王(在位600-641)が建設しました。
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王宮と石塔の配置模型。(百済王宮博物館)
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お釜など生活用品も出土しています。
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王宮里址と百済王宮博物館を後にして、本日最大の見どころ、弥勒寺址と国立益山博物館にまいりました。
今残るのは、奥にある石塔(西塔・国宝)と手前の幢竿支柱のみです。東塔は存在しますが再現されたものです。
幢竿支柱は、仏教用具である幢竿(はたざお)を取りつける支柱のこと。新羅時代のものと思われます。
今回韓国に来て、はじめてみました。
催し物をするときに掲げたそうです。 -
弥勒寺は、古代において最大な寺域があったとされるお寺で、武王によって創建されました。
百済様式の伽藍は、塔・金堂・講堂が一直線になっている形式が典型的ですが、弥勒寺は、門・塔・金堂が3列に並び、奥に講堂があるという特異な形式でした。(三塔三金堂の三院形式)
一直線が3列と考えれば百済様式といえますか。
写真は、弥勒寺址の隣にある国立益山博物館にあった模型。
中心の塔は九重の木造で、西と東の塔は石塔でした。 -
今はない中心にあった木塔を再現したものが博物館入り口に設置されていました。
普段見る塔は三重とか五重なのに、九重の塔なんて豪快です。 -
もう一度石塔の現場に戻ります。
韓国最大の石塔といわれ、崩壊が進んでいたため、1915年にコンクリートで補修され、崩壊が止まっていたが、安定性のため、2002年から本格的な解体修理が行われました。
2009年にやっと下部まで解体作業が進み、塔の中央の心礎石を持ち上げたところ、そこには舎利孔があり、宝物と共に碑文も見つかったのです!約1400年眠っていた品々です。
碑文によれば、石塔は、百済王后が王の安寧や衆生とともに仏道を成すことができますように、といった願いが書かれてありました。
ちなみに王后は、百済貴族の佐平の沙乇積徳の娘であることが判明しました。
佐平という名は、日本書記にも記され日本とも関わりがあったと思われます。 -
塔の1階部分。
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塔の南西におかれている石像。飛鳥地方にある猿石に似ている。
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心礎石を開いた当時の状況を再現したもの。
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心礎石の中にあった宝物
ガラスの瓶と宝石類。 -
心礎石の中にあった宝物
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心礎石の中にあった宝物。
王后が心込めて入れたのではないでしょうか。 -
心礎石の中にあった宝物
王后の祈願であるせいか、女性らしい装飾品が多いです。単純なシンメトリーではないデザインが今でも通用しそうです。
その他、館内の係員の方の解説で、刺繍した布も発見され、そのデザインが、日本にある阿武山古墳の被葬者の冠のデザインと同じだったそうです。
阿武山古墳(大阪府茨木市)は、藤原鎌足(614-669)の墓ではないかと言われています。時代的にもその少し前に弥勒寺が建立(639年)されているので、整合します。 -
益山帝釈寺址で発見された仏頭。弥勒寺以外の益山地域の遺物も多く展示されていました。
アタマ一杯になりながら国立益山博物館を後にして、ソウルに戻りました。
翌日は、初日に行った漢城百済博物館と国立中央博物館を見学。
なぜ漢城百済博物館に再度行ったかというと、4月7日から特別展「伽耶と百済ー大伽耶ー」が始まったからです。今回は、伽耶地方は行っていませんので、次回訪問したいと言うツアーご一行の希望があったためです。
日本の土台が作られた飛鳥から奈良の時代と百済との国際関係を感じられた旅でした。精緻な工芸品が多く、文化度の高さに感動しました。これらの精緻な文化は日本へも大いに影響を与えたことでしょう。
いや、歴史の事実を考えると百済と日本は高官を相互派遣したり、貴族の一員になったり、滅亡後は多くの人が日本に逃れてきたということを考えると、友好国以上の親戚に近い関係だったのではないでしょうか。
滅亡しましたが、その命脈は日本に引き継がれたと言っては言い過ぎかな??
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この旅行記へのコメント (3)
-
- mom Kさん 2023/10/06 20:54:28
- 百済に魅かれて
- akitaineさん、こんばんは、初めまして。何とか扶余の情報をと探し続けて、たどり着きました。この地名も安東つながりで初めて知り、ここにも行かれてはと本サイトトラベラーさんからのアドバイスです。で、調べてみたら、百済!白村江の戦いや滅亡時、近江の方へ集団移住など点々の知識。仏像などから優しいイメージの百済びと。訪れてみたいと思います。全て旅立ち1週間前に得た情報。
貴日記が素晴らしい案内書になりました。ありがとうございます。
- akitaineさん からの返信 2023/10/07 10:20:20
- RE: 百済に魅かれて
- mom K さん
私の記事がお役にたてばうれしいです。百済をテーマにしたツアーに参加しました。新羅や朝鮮王朝とも違う百済らしさを感じた旅でした。各博物館はとても充実していました。是非足を運んでください。
-
- masaさん 2023/05/23 10:38:04
- 百済王都巡り 完結編
- 百済三部作拝読いたしました。
歴史・時間の縦軸と各遺跡・遺物の横軸を多数の写真とコメントの中に、整然と納められた技量・博識に圧倒されました。もう「旅行記」をはるかに超えた学術書簡と
思いました。「鯖の塩焼き」に思わずホット癒されましたが。他はレベル高過ぎでした。
総括の「百済と倭国の関係は、親戚のようなかも」の緩めのコメントに同感です。
多々勉強させて頂きありがとうございました。
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