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百済の王都を訪ねる歴史ツアーに参加してきました。<br />百済といえば、日本と仏教やその他文化の交流があった国ですが、意外と詳細わかっていないのではないかと思っていました。百済観音などの仏教美術と、僧の行基や複数の貴族などが百済系の方であり、古墳~飛鳥・奈良時代に日本の文化社会形成に関わってきたという認識くらい。<br /><br />今回、専門の研究者が同行して百済の3つの王都を訪ねることとなり、いくぶん理解が深まりました。<br />百済ってどんな国だったのか?日本との関わりは?<br />時代の流れに従い、王都が南下していき660年滅亡した百済をまとめてみました。<br />今回は、中期 熊津・ウンジン(公州)時代 475年~538年 です。<br /><br /><br />【百済の時代区分】<br />前期 漢城(ソウル)時代 ?~475年<br />中期 熊津(公州)時代  475年~538年<br />後期 泗沘(扶余)時代  538年~660年<br /><br />【行程】<br />4月3日(月)関空-金浦国際空港ー風納土城ー石村洞古墳群 ソウル泊<br />4月4日(火)夢村土城ー漢城百済博物館ーロッテタワー(公州へ移動)ー武寧王陵と王陵園(宋山里古墳群)ー国立公州博物館ー大通寺跡ー公州泊<br />4月5日(水)公山城ー公州新官洞古墳群ー公州大学博物館(扶餘へ移動)ー扶蘇山城ー国立扶餘博物館ー軍守里城址ー扶餘泊<br />4月6日(木)王興寺址ー定林寺址ー陵山里古墳群ー王宮里遺跡・百済王宮博物館ー帝釈寺址ー弥勒寺址・国立益山博物館(ソウルへ移動)ソウル泊<br />4月7日(金)漢城百済博物館(2回目)ー国立中央博物館ー金浦国際空港ー関空

百済王都をめぐる~三都それぞれの軌跡  熊津(公州)編

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2023/04/03 - 2023/04/07

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akitaine

akitaineさん

百済の王都を訪ねる歴史ツアーに参加してきました。
百済といえば、日本と仏教やその他文化の交流があった国ですが、意外と詳細わかっていないのではないかと思っていました。百済観音などの仏教美術と、僧の行基や複数の貴族などが百済系の方であり、古墳~飛鳥・奈良時代に日本の文化社会形成に関わってきたという認識くらい。

今回、専門の研究者が同行して百済の3つの王都を訪ねることとなり、いくぶん理解が深まりました。
百済ってどんな国だったのか?日本との関わりは?
時代の流れに従い、王都が南下していき660年滅亡した百済をまとめてみました。
今回は、中期 熊津・ウンジン(公州)時代 475年~538年 です。


【百済の時代区分】
前期 漢城(ソウル)時代 ?~475年
中期 熊津(公州)時代  475年~538年
後期 泗沘(扶余)時代  538年~660年

【行程】
4月3日(月)関空-金浦国際空港ー風納土城ー石村洞古墳群 ソウル泊
4月4日(火)夢村土城ー漢城百済博物館ーロッテタワー(公州へ移動)ー武寧王陵と王陵園(宋山里古墳群)ー国立公州博物館ー大通寺跡ー公州泊
4月5日(水)公山城ー公州新官洞古墳群ー公州大学博物館(扶餘へ移動)ー扶蘇山城ー国立扶餘博物館ー軍守里城址ー扶餘泊
4月6日(木)王興寺址ー定林寺址ー陵山里古墳群ー王宮里遺跡・百済王宮博物館ー帝釈寺址ー弥勒寺址・国立益山博物館(ソウルへ移動)ソウル泊
4月7日(金)漢城百済博物館(2回目)ー国立中央博物館ー金浦国際空港ー関空

旅行の満足度
5.0
交通手段
観光バス
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
  • ソウルから高速道路で2時間弱、公州の武寧王陵と王陵園(宋山里古墳群)に到着しました。広い園内に古墳群と武寧王陵から出土した遺物が展示されている博物館があります。<br /><br />ソウルの漢城が475年陥落し、王族が熊津(公州)に逃れ、日本書記によれば、2年後の477年百済再興したとあります。<br />武寧王(在位501-523)は、百済第25代王で中興の祖といわれています。<br /><br />ここがなぜ武寧王の墓であったとわかったか、といえば、墓に墓誌があったからです。墓の主がだれであるか明らかになっているのは武寧王だけです。<br />この地は、以前から百済王族の古墳がある場所として知られていました。<br />1971年以前からあった6号墳古墳の排水工事中、偶然発見されたものでした。古墳と古墳にはさまれ、誰も古墳と気付かなかったため、盗掘も免れました。

    ソウルから高速道路で2時間弱、公州の武寧王陵と王陵園(宋山里古墳群)に到着しました。広い園内に古墳群と武寧王陵から出土した遺物が展示されている博物館があります。

    ソウルの漢城が475年陥落し、王族が熊津(公州)に逃れ、日本書記によれば、2年後の477年百済再興したとあります。
    武寧王(在位501-523)は、百済第25代王で中興の祖といわれています。

    ここがなぜ武寧王の墓であったとわかったか、といえば、墓に墓誌があったからです。墓の主がだれであるか明らかになっているのは武寧王だけです。
    この地は、以前から百済王族の古墳がある場所として知られていました。
    1971年以前からあった6号墳古墳の排水工事中、偶然発見されたものでした。古墳と古墳にはさまれ、誰も古墳と気付かなかったため、盗掘も免れました。

  • 園の入口にある鎮墓獣。<br />本物は、王の棺の前においてありました。<br />なぜか、愛らしい雰囲気です。

    園の入口にある鎮墓獣。
    本物は、王の棺の前においてありました。
    なぜか、愛らしい雰囲気です。

  • まずは、展示館の見学をしました。<br />武寧王(462-523)の彫像です。王としての在位が501年~523年ですので、39歳で即位したことになります。<br /><br />当時、日本と百済の王族や高い地位にある人は相互に人的交流をしていて、武寧王も王族の一員として日本で生まれ、そのまま日本で育った方でした。<br />王にはなるとは思わず日本にいたわけですが、百済本国で争いがおき、王族の血を引く武寧王が呼び戻され、王位についたとのことです。

    まずは、展示館の見学をしました。
    武寧王(462-523)の彫像です。王としての在位が501年~523年ですので、39歳で即位したことになります。

    当時、日本と百済の王族や高い地位にある人は相互に人的交流をしていて、武寧王も王族の一員として日本で生まれ、そのまま日本で育った方でした。
    王にはなるとは思わず日本にいたわけですが、百済本国で争いがおき、王族の血を引く武寧王が呼び戻され、王位についたとのことです。

  • 王墓の入口再現。<br />中国南朝の影響を受けて作られた磚築墳でアーチ型の天井の石室と羨道があります。鎮墓獣が遺体を守っています。

    王墓の入口再現。
    中国南朝の影響を受けて作られた磚築墳でアーチ型の天井の石室と羨道があります。鎮墓獣が遺体を守っています。

  • 磚築墓ですが「磚」はレンガという意味です。レンガを積み重ねアーチ状のドームを形成しています。そのレンガも美しい。蓮の花や五銖銭(古代貨幣)の模様が刻まれています。その壁には油皿置き場、

    磚築墓ですが「磚」はレンガという意味です。レンガを積み重ねアーチ状のドームを形成しています。そのレンガも美しい。蓮の花や五銖銭(古代貨幣)の模様が刻まれています。その壁には油皿置き場、

  • レンガの蓮の花の美しい模様です。<br />左の空洞は、油皿置き場。<br />油で火を焚き、空気をすべて使い真空状態にして酸化を防ぐ仕組みです。<br />

    レンガの蓮の花の美しい模様です。
    左の空洞は、油皿置き場。
    油で火を焚き、空気をすべて使い真空状態にして酸化を防ぐ仕組みです。

  • 高松塚古墳のように、天体信仰があり、青龍・白虎・朱雀・玄武の四神図と天体模様が描かれています。一部不鮮明ですが、四神獣が描かれていることは確認されています。

    高松塚古墳のように、天体信仰があり、青龍・白虎・朱雀・玄武の四神図と天体模様が描かれています。一部不鮮明ですが、四神獣が描かれていることは確認されています。

  • 発見されたときに墓誌があったから明らかになりました。<br />「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、 癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到」と、読み取れます。

    発見されたときに墓誌があったから明らかになりました。
    「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、 癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到」と、読み取れます。

  • 発見当時、副葬品が置かれた現場も再現されていました。<br />丸い柄杓のような形は、火熨斗。古代のアイロンです。<br /><br />これを見て驚きました。<br />日本の高井田山古墳(大阪府柏原市)で発見されたものと同じだったからです。<br />しかし、考えてみれば、百済と日本が相互文化交流し、武寧王は39歳まで日本にいたのですから、似たようなものを持っていてもおかしくないわけですね。<br /><br />と、いうか、当時は国家という意識がどのくらいあったかということです。<br />双方、親戚の国を行き来しているような感覚であったかもしれません。<br />

    発見当時、副葬品が置かれた現場も再現されていました。
    丸い柄杓のような形は、火熨斗。古代のアイロンです。

    これを見て驚きました。
    日本の高井田山古墳(大阪府柏原市)で発見されたものと同じだったからです。
    しかし、考えてみれば、百済と日本が相互文化交流し、武寧王は39歳まで日本にいたのですから、似たようなものを持っていてもおかしくないわけですね。

    と、いうか、当時は国家という意識がどのくらいあったかということです。
    双方、親戚の国を行き来しているような感覚であったかもしれません。

  • 博物館を出ると、裏山が実際の王陵墓になっています。<br />3つの小山の真ん中が武寧王の墓です。

    博物館を出ると、裏山が実際の王陵墓になっています。
    3つの小山の真ん中が武寧王の墓です。

  • 王族の多くの墓があります。横穴口。残念ながら武寧王以外の墓の主は不明です。<br />武寧王陵と王陵園は、熊津百済時代を代表する墓として、2015年ユネスコ世界遺産に登録されました。

    王族の多くの墓があります。横穴口。残念ながら武寧王以外の墓の主は不明です。
    武寧王陵と王陵園は、熊津百済時代を代表する墓として、2015年ユネスコ世界遺産に登録されました。

  • 古墳の上部から公州市内を望みます。

    古墳の上部から公州市内を望みます。

  • 時は、4月4日。園内は桜が満開でした。下にはこれまた満開の雪柳。<br />あまりにきれいだったのでパチリ。<br />韓国滞在中、春の花があちこちで一斉に咲いていました。<br />

    時は、4月4日。園内は桜が満開でした。下にはこれまた満開の雪柳。
    あまりにきれいだったのでパチリ。
    韓国滞在中、春の花があちこちで一斉に咲いていました。

  • 次に、武寧王陵からの出土品や大田・忠南地域の出土品を展示している国立公州博物館に行きました。<br /><br />先ほどから何度も登場している武寧王墓の中にあった鎮墓獣。本物。<br />想像の動物です。イノシシのような、虎のような、しかも頭にトサカがある。百済の人の想像力が形として現れたものです。国宝。

    次に、武寧王陵からの出土品や大田・忠南地域の出土品を展示している国立公州博物館に行きました。

    先ほどから何度も登場している武寧王墓の中にあった鎮墓獣。本物。
    想像の動物です。イノシシのような、虎のような、しかも頭にトサカがある。百済の人の想像力が形として現れたものです。国宝。

  • 奥に置いてあるのは食事セット。<br />王様があの世でもお食事されるように、との配慮でしょう。<br /><br />面白いのは、手前にある銅銭。レンガの模様にもなっている「五銖銭」です。<br />2枚の石板は王と王妃の墓誌。墓誌石の裏面には、土地を買う時の証書として「買地券」の文書形式が書かれています。あの世の墓地を買い取った証明。そのために90枚の鉄製五銖銭が載せられていました。地主が冥土なので「冥券」とも呼ぶそうです。<br />来世への考えが見られます。あの世の主・冥王と律儀に契約しています。<br />王の息子が父王のために墓を作り、お金を払いました。<br /><br />そして、墓誌石の向こうに南を向いて鎮墓獣が立っています。

    奥に置いてあるのは食事セット。
    王様があの世でもお食事されるように、との配慮でしょう。

    面白いのは、手前にある銅銭。レンガの模様にもなっている「五銖銭」です。
    2枚の石板は王と王妃の墓誌。墓誌石の裏面には、土地を買う時の証書として「買地券」の文書形式が書かれています。あの世の墓地を買い取った証明。そのために90枚の鉄製五銖銭が載せられていました。地主が冥土なので「冥券」とも呼ぶそうです。
    来世への考えが見られます。あの世の主・冥王と律儀に契約しています。
    王の息子が父王のために墓を作り、お金を払いました。

    そして、墓誌石の向こうに南を向いて鎮墓獣が立っています。

  • これは、武寧王と王妃の木棺です。<br />コウヤマキ(高野槇)で作られています。<br />コウヤマキは、現地ではとれません。<br />日本から輸入したものと思われます。

    これは、武寧王と王妃の木棺です。
    コウヤマキ(高野槇)で作られています。
    コウヤマキは、現地ではとれません。
    日本から輸入したものと思われます。

  • その他、金の装飾品など国宝が多数展示されていました。<br />これは冠の両側にさす飾りもの。金で眩かった。国宝。

    その他、金の装飾品など国宝が多数展示されていました。
    これは冠の両側にさす飾りもの。金で眩かった。国宝。

  • その他、仏像が多く展示されていました。<br />日本で見る仏像とは、何となく少し違う雰囲気です。<br />比較できて面白かった。

    その他、仏像が多く展示されていました。
    日本で見る仏像とは、何となく少し違う雰囲気です。
    比較できて面白かった。

  • 翌日、4月5日(水)は、あいにくの雨。<br />朝一番に公山城に行きました。<br />かつての熊津百済時代、64年間王宮があった場所とされています。<br />手前が錦江に囲まれ、背後に山を持つお城です。<br /><br />駐車場近くの錦西楼から入ります。1993年に復元されました。<br /><br />公山城は、百済時代以降も要塞の役目を果たし、慶長の役の時代、日本の脅威に対し明国から将軍が援軍としてやってきて民衆を守ったのだそうです。その碑もあります。こんなところにも日本との関わりがあります。

    翌日、4月5日(水)は、あいにくの雨。
    朝一番に公山城に行きました。
    かつての熊津百済時代、64年間王宮があった場所とされています。
    手前が錦江に囲まれ、背後に山を持つお城です。

    駐車場近くの錦西楼から入ります。1993年に復元されました。

    公山城は、百済時代以降も要塞の役目を果たし、慶長の役の時代、日本の脅威に対し明国から将軍が援軍としてやってきて民衆を守ったのだそうです。その碑もあります。こんなところにも日本との関わりがあります。

  • 山の途中で見た鳥・カササギ。カラスの仲間ですが。身体の一部が白と青いきれいな鳥です。体長40㎝ほど。<br />ソウルの公園でも、普通にいました。<br />日本でも九州地方で見られるそうです。九州に住んだことない私は、はじめてみました。<br />16世紀に日本に持ち込まれたとのこと。秀吉時代でしょうか。戦いは悲惨なものですが、文化や生物の交流があり、今に至るまでその影響が相互に見られるのですね。

    山の途中で見た鳥・カササギ。カラスの仲間ですが。身体の一部が白と青いきれいな鳥です。体長40㎝ほど。
    ソウルの公園でも、普通にいました。
    日本でも九州地方で見られるそうです。九州に住んだことない私は、はじめてみました。
    16世紀に日本に持ち込まれたとのこと。秀吉時代でしょうか。戦いは悲惨なものですが、文化や生物の交流があり、今に至るまでその影響が相互に見られるのですね。

  • 背後の山の頂上付近まで登りました。<br />王宮は頂上付近にあったとされ、今も発掘調査中です。<br /><br />この地点は頂上少し手前。貯蔵庫や武器庫があった場所とされています。

    背後の山の頂上付近まで登りました。
    王宮は頂上付近にあったとされ、今も発掘調査中です。

    この地点は頂上少し手前。貯蔵庫や武器庫があった場所とされています。

  • 背後の山の中腹から錦江方面を望みます。<br />川の前にある建物は、拱北楼。公山城の北門になります。川の間を往来する関門として機能していました。<br />ただし、百済時代に建てられたものではなく、1603年朝鮮時代のものです。<br />朝鮮時代の門楼建築の好例とされています。<br /><br />背後に山、手前にぐるっと錦江がある地は、代々要塞としての役割を果たしていたのです。<br />

    背後の山の中腹から錦江方面を望みます。
    川の前にある建物は、拱北楼。公山城の北門になります。川の間を往来する関門として機能していました。
    ただし、百済時代に建てられたものではなく、1603年朝鮮時代のものです。
    朝鮮時代の門楼建築の好例とされています。

    背後に山、手前にぐるっと錦江がある地は、代々要塞としての役割を果たしていたのです。

  • 山頂は、後世の記念碑的建物だけで、王宮の姿はありません。<br />再び坂を下り、公園のような広場にやってきました。

    山頂は、後世の記念碑的建物だけで、王宮の姿はありません。
    再び坂を下り、公園のような広場にやってきました。

  • 山の下では工房と思われる址が見つかっています。<br /><br />

    山の下では工房と思われる址が見つかっています。

  • 拱北楼を川に沿ってみています。

    拱北楼を川に沿ってみています。

  • 川にそって山の斜面が上がる辺りは城壁になっていて、登れます。<br /><br />熊津は、漢城を追われ半ば暫定的に王都が置かれた場所とされていて、公州から30㎞ほど離れた泗沘に538年移転します。<br /><br />午後からは泗沘(扶余)に移動し、最後の都を見学します。<br />(泗沘(扶余)編に続く)

    川にそって山の斜面が上がる辺りは城壁になっていて、登れます。

    熊津は、漢城を追われ半ば暫定的に王都が置かれた場所とされていて、公州から30㎞ほど離れた泗沘に538年移転します。

    午後からは泗沘(扶余)に移動し、最後の都を見学します。
    (泗沘(扶余)編に続く)

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この旅行記へのコメント (1)

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  • masaさん 2023/05/11 18:01:04
    百済三都を巡る
    百済王都巡り拝読致しました。学術的と言うかハイレベルで敬服しております。
    武寧帝が日本(倭国)生まれで呼び戻されて即位の件は、何か現代に通じるような
    思いにかられました。3代位前の大統領で日本生まれの方がいたような?
    年代の538年て「仏教伝来」の年(552年説も)と習ったような。
    ハングル文字制定前の時代で、漢字の記録と言うのも親密感ありますね。

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