2023/04/02 - 2023/04/02
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gianiさん
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佐賀と柳川/久留米の中間に位置する大川市。
若津港は久留米藩領で、明治中頃は博多・若松を凌ぐ九州第一の港でした。
現在は長閑なエリアがなぜ栄えたのか、探っていきます。
日本第二の暴れ川、筑後川の治水史を扱った、知る人ぞ知る資料館も訪れます。
- 旅行の満足度
- 5.0
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始まりは、2005年に佐賀市に編入された旧諸富町。
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筑後川に目を向けると、旧国鉄佐賀線の線路が残っています。
佐賀福岡両県を最初に結んだ橋で、1935年に開通。分割民営化時にはJRに引き継がれずに廃止されました。 -
直ぐ近くには、秦の始皇帝の命を受けて仙薬を探した徐福が蓬莱山の形をした金立山を目指して上陸した地点。
徐福上陸地 名所・史跡
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そんな歴史が詰まったエリア。
上流の中島を経由して道路橋が架かったのは1955年以降です。
国鉄の鉄橋は、筑後川の分流諸富川が合流し、その先で早江津川が分流する手前に建設されました。 -
橋沿いには、観光ステーションが。
物産コーナーには、地物(有明海固有種)の切り身や刺身が地元価格で普通に売られています。クーラーボックス必須です。橋の駅ドロンパ 道の駅
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筑後川昇開橋は、遊歩道として整備されています。
佐賀県側の諸富駅跡から歩いてみます。筑後川昇開橋 名所・史跡
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佐賀線の駅があった諸富港と対岸の若津港を結ぶルートは大川口と呼ばれ、長らく渡し舟が唯一の交通手段でした。渡し賃は、人5円、自転車10円、オート三輪以上は100円でした。1955年に少し上流に諸富橋、中島、大川橋という道路が開通し、1957年に役割を終えました。
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橋には、次の停車駅を表示した国鉄時代の遺物が。
なんだか不思議な気持ちです。 -
鉄道史:馬鉄
佐賀と柳川を結ぶ線路は、1904年に開通した佐賀軌道。1891年に佐賀と現在橋の駅のある渡し場跡まで一直線の諸富国道が開通。その路上に敷設された線路で、動力は馬でした。1927年に廃止され、6人乗りバスの運行に切り替えられました。 -
1935年には、渡し舟を介さない国鉄佐賀線が開通。筑後川を全長507mの鉄橋で結びました。話はそこで終わらず、、、
橋の中央部には全長24mの可動部があり、23mも垂直移動します。大型船も航行する筑後川ゆえの事情です。 -
下流に目を移すと、早津江川が分岐しています。左端は、花宗川の水門です。
船舶運航会社との協定で、踏切のように列車が通過するとき以外は可動橋を上昇させることになっていました。 -
可動部の手前にチェーンが張られ、歩行者が通れないようにしています。
現在は、昇降しないと通行できないような大型船は航行していません。時代の流れです。 -
停止線越しに撮影。
パンフレットの写真ではPR用に23m思いっきり上昇していますが、経費節減のため、観光用に毎時に数m稼働させるだけです。昇降の操作をする詰所があります。 -
三重津海軍所で学んだリベット締め。
ドリルで締める単純なものではないと知って、見る目が変わります。 -
対岸の筑後若津駅跡に到着。数百mの歩行で、肥前から筑後へ移動しました。
久留米藩が1751年に若津港を整備しました。
筑後川流域の筑後平野は、九州一の穀倉地帯。若津港は筑紫平野の米が集積する港として諸国の船が集まり、大いに繁栄しました。大坂堂島の米会所の米価情報は、旗振り場をリレーしてリアルタイムで若津まで伝達しました。筑後若津駅 名所・史跡
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深川家
佐賀藩の豪商古賀家の長男として生まれた嘉一郎は、米問屋深川家の株を買って独立。1871年に藩がなくなると、対岸の若津に進出し、佐賀藩の船を買い取って廻船業も始めて成功。三井物産が最初に取り扱ったのは、三池炭と深川家の米でした。1880年には大蔵省常平局6つ目の蔵所が設置され、米価調整の要となった。郵便局もごく早期に開設し、為替や電信が整備されました。
1885年には若津~大阪が政府命令航路に指定されます。同年には造船業も手掛け、汽船・造船・地所を基幹とする財閥を形成します。写真は若津の深川家別邸と深川汽船の大東丸(86m,2056t)。 -
佐賀県側から撮影した若津港
右から左まで、すべて深川造船所の建物です。当時は九州一の港で、2位博多と3位若松を足しても若津には及びませんでした。
江戸時代から物流のメインは米・酒、次いで久留米の櫨、八女の茶なども含まれます。上流部からは小舟で若津まで運びました。 -
若津造船所ドライドックを拡大。
三重津海軍所のノウハウが生かされ、潮位差を活用。1300t級まで入渠可能で、客先には海軍も含まれました。跡地は、大川昇開橋温泉になっています。大川昇開橋温泉 食堂 グルメ・レストラン
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デ・レーケ導流堤
筑後川の中央分離帯。1887年着工、90年竣工。若津のネックは、有明海の干満差。満潮時は逆流し、堆積物も運んでくるので、川底が少しづつ埋まってしまいます。三重津海軍所では吉と出た干満差の困った一面です。河口までの6kmを断続的に仕切って、堆積作用を抑える目的で建設されました。写真は、導流堤の始部。導流堤 名所・史跡
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国策の導流堤により、若津に寄港できる船は大型化しました。若津は、大工事の価値がある港だったということです。導流堤着工の翌年(1888)には、海底ならぬ河底ケーブルが開通。佐賀~若津間の通信網が強化されます。
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深川造船所は、蒸気船以外にも、蒸気機関車、客車、貨車も製造し、鉄道界にも貢献します。写真は祐徳稲荷神社へ参拝客を運んだ鉄道の機関車。
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深川造船所は、三井三池炭鉱や八幡製鉄所の運用に必要な船舶の納入や、三池港若松港の浚渫作業を請け負うなど、日本の産業化を支えていました。写真は、第一次世界大戦中の船舶需要で好調な時期の本社。手前から事務所、教育棟、研究棟、25tクレーン。
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三潴(みずま)銀行本店
商業の街に金融は必須。大川口には9つの金融機関が立地。そのうちの一つが残ります。1909年築。内部は休館です。三潴銀行記念館 美術館・博物館
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窓もレトロです。
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その後
日清日露戦争以降、日本は朝鮮半島や満州とのかかわりが深くなり、大陸に面した博多や若松etc.が勢いを盛り返していました。第一次世界大戦終了に伴う急激な不況のあおりを受け、深川財閥は1925年に姿を消します。
写真は深川造船所を買い取った今村製作所。若松車輌に名前を変え、21世紀まで存続しました。 -
水門
矢部川に端を発する花宗川(人工水路)が筑後川に注ぐ地点にあります。
有明海と筑後川の水の逆流を防ぐために水門が設置されています。
今は水位が低いので、開放しています。 -
柳川は干潮時や大雨時に水が逆流する水害に弱い環境。縦横無尽に水路を巡らせて滞留させたり、潮位差を利用した自動開閉の堰などで囲んで、城下町を守りました。花宗川は、城下町手前で分岐し、城下町を避けるバイパス排水路を兼ねた用水路です。
現在の水門は2002年に完成。
柳川と江戸時代の水利施設の旅行記↓
https://4travel.jp/travelogue/11735102 -
干潮時の花宗川は、こんな感じ。
水門の横には、国交省の河川管理事務所があり、1階部分が「筑後川交流館はなむね」として、一般公開されています。こういう素晴らしい施設が、4トラベルにスポットに登録されていないのは、残念極まりないです。
ちなみに正式名称は、国土交通省九州地方整備局筑後川河川事務所大川出張所です(笑)。 -
筑後川
全長143km流域面積2860平方km(佐賀県よりも広い)で、共に九州一の河川です。大分熊本福岡佐賀4県を通過します。地図で分かるように、博多湾へ注ぐ御笠川との分水界は水平です。 -
別名・由来
筑紫次郎とも呼ばれ、坂東太郎(利根川)、吉野三郎(吉野川)で三大暴れ川を構成。他にも、洪水後は一夜にして水浸しになることから「一夜川」とも。筑前筑後の境界を流れることから筑間川、シンプルに大川、各藩の境界線なので御境川とも呼ばれます。
※筑前筑後両藩で名前を争いましたが、1636年に老中の前で筑前藩の家老が「筑後川は…」と口を滑らせ、評決が出たといわれています。 -
暴れ川たる所以の一つは、流域の降雨特性。
梅雨と台風のウエイトが大きく、6-9月に大きく偏ります。
上流域は大分福岡県境まで、中流域は巨瀬川合流地点まで、その先は下流域です。 -
水運
上流の天領日田は杉や米の産地で、筑後川の舟運は盛んでした。若津港からは、大坂への海運に接続しました。ダム建設をきっかけに終了します。
渡し舟:江戸幕府の防衛政策を反映して積極的に橋は架けられず、62か所に渡し舟がありました。下田の渡しは、1994年まで存続。筑後川昇開橋 名所・史跡
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筏流し
日田で伐採された杉は28×4mの筏に組んで(1枚)、筏師によって荒瀬(筑後国境・福岡県境)まで流されました。荒瀬では4枚を1組に組み替えて、材木問屋のある鐘ヶ江(道海島の対岸)を経て若津・榎津まで運ばれました。夜明ダム建設でthe end. -
大川市:家具の街
1751年の若津開港より造船業が盛んになり、船大工が多く在籍しました。深川造船所閉鎖後は家具職人に転向し、大川市は家具の街として知られるに至ります。 -
★治水★
天下の暴れ川筑紫次郎を手名付ける(治水)ために、流域の各藩は苦労しました。筑後川が藩の境界線を兼ねたために、対岸の藩との争いも絶えませんでした(後述)。
堤防
河川に築く壁。当時の堤防は意図的に切れ目を作り、洪水時に水を逃がす葭堤というものでした。農地には洪水時に避難する高台(水屋・写真中央下)や集落全体を堤防で囲む輪中(中流域)を設けました。
耕地が水浸しになる反面、上流から肥沃な土が供給されるメリットもあります。 -
荒籠(あらこ・写真上)
堤防から川中へ向けて石垣を築いた構造。下流部の宝満川合流部分~若津にかけて分布。荒籠で跳ね返った流れが対岸を削るので、両岸の藩の争いの元だった。低河底(船が航行できる水深を維持する)、水汲み場や埠頭、干潟造成等の用途もあった。
水撥ね:川の中に向かって突き出すように石を積み上げたもので(写真下段右)、水の勢いを対岸へそらす。石垣を組む荒籠よりも原始的な構造。 -
捷(しょう)水路
蛇行部分を直線化(ショートカット)する工事で、筑後川では8か所が確認されています。新しく掘られた部分は、河床が削られないよう石やコンクリートで床固します。最も古いものは、1606-19年に柳川藩主田中吉政が行った長門石捷水路です。藩政時代には、道海島捷水路・浮島捷水路も建設されます。昭和中期には、巨瀬(こせ)川捷水路も建設されます。 -
4大捷水路
昭和初期に建設された坂口(S2-7)・天建寺(S2-14)・小森野(S3-10)・金島(S7-24)捷水路を指します。流路が合計9km短縮されました。 -
排水ポンプ(内水対策)
台風や梅雨の集中豪雨時に、流域の冠水を防ぐ設備。降水を強制的に筑後川へ排水します。29か所に設置されています。堤防の完備や流路の直線化で、河川の排水能力が向上したことが大前提です。 -
導流堤
河口部は河川が押し流す力が弱く、有明海の潟(ガタ)土の堆積が問題でした。若津港の低河底が命題となり、河口~若津港の航路を確保するために6.5kmの導流堤が建設されました。
導流堤で流路を狭めることで水流を強め、自然の川の流れだけで水深を維持できます。現在も低河底を維持しています。 -
有明粘土層の軟弱地盤という問題を克服するために、国土の多くが軟弱なオランダからデ・レーケを設計士として招聘しました。軟弱地盤に対応する粗朶沈床というオランダ伝統の技術が用いられ、現在も壊れずに現役です。
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粗朶沈床
写真右下のように、雑木の枝(軽くて丈夫)を束ねたものを川の流れに平行・直角と交互に7層分作ります。それを川に沈めてその上に沈下石を載せて、重しにします。こうしてできた基礎部分の上に、石等を積み重ねます。 -
実際に発掘された粗朶沈床部分。
水中では酸素が遮断されるため、品質が保持されました。
導流堤の完成で、2000t級の船舶も乗り入れるようになりました。 -
★利水★
大きく農業(灌漑)と工業・上水(水道)用水に分かれます。
井堰(取水口)
川幅の一部を堰き止め、灌漑用水を取得します。川よりも標高の高い土地への誘水や取水量の管理が容易になります。流水速度を落とす等の治水効果も兼ねます。
諸藩は、大石(1674久留米藩)・山田(1664福岡藩,1790改修)・恵利(1712久留米藩)の三大堰をはじめとする井堰を設けます。とりわけ山田堰は、230年前の設備が現在も運用される土木工学上の傑作です。 -
筑後川古図(1819)
各藩の立会いの下で、公儀役人が作成した河川図。流域に様々な治水・利水施設が築かれていることがわかります。対岸は別の藩の領地のため、争いが絶えませんでした。取水口の設置位置や取水量を巡って今も昔も地区ごとのバトルがありますが、藩毎の利害も関わります。
もっとエグいのが治水。17世紀初頭に佐賀藩が洪水対策で右岸に安武堤防を築いて荒籠や水撥ねを設置すると、対岸が脆くなります。久留米藩は直ちに千栗堤防を築いて、今度は安武堤防が損害を受ける…。自分の藩の利権だけを考えて、やられたらやり返すの応酬が流域で頻発しました。 -
水道水
筑後川水系に隣接する福岡平野(福岡都市圏)へ水道用の水を提供するために、全長25kmの福岡導水を建設。最大で、毎秒約3立方mを送水可能。きっかけは1978年の福岡市の大渇水。他にも佐賀平野や矢部川水系にも供給してます。
ダム
専ら福岡都市圏への水供給が目的で、水害対策や揚水発電は二次的なものです。 -
宮入貝(住血吸虫病)
治水には、寄生虫対策も。明治までは、原因不明の奇病でした。
住血吸虫の幼虫は、水路の淀みに生息する宮入貝に寄生し、成虫になると人に寄生すべく上陸して、就寝時等に露出した皮膚から侵入し寄生します。撲滅キャンペーンのおかげで、2000年に流域での撲滅を宣言。 -
低湿地・干拓地
海抜5mの等高線(赤色)が、筑後川河口から26kmのJR鹿児島本線鉄道協まで伸びています。海水が入り込む汽水域は河口より29kmでしたが、福岡導水用の筑後大堰の完成に伴い23kmまで後退しています。現在の低地は、大化の改新以降に水路を掘って地道に排水したり、堤防で仕切って干潟を排水した干拓地より成ります。
※隣接する柳川市の標高は0‐3.5m、有明海の潮位差は最大6mです。 -
クリーク(水路)
汽水域(下流域)では、クリーク(細い水路)が縦横に走っており、水を滞留させる(モタセ)貯水池としての役割を果たします。渇水期(利水)と、河川の増水時や逆流時(治水)に効果を発揮します。写真のように原始のものが不規則なのは、干潟の澪筋(干潮時に残る水路)をそのまま掘り進んだからといわれます。河川とは水門で仕切られます。 -
アオ(真水)取水
満潮時に河川が逆流する現象を利用して、クリークに真水を引くウルトラC技。有明海から大量の海水が遡上しますが、塩水より淡水は比重が軽いので、水面の表面に浮き上がります。水門の上の部分だけ開放して、上澄みの淡水のみクリークへ流すテクニックです。取水口は、干潮時の水面よりも高いところに設置します。藩政時代に干拓によって耕地が増大したために、クリークの滞留水だけでは足りなくなったことから考案されました。 -
★水害★
万全を期しても、災害は防ぎきれません。
高潮
一番怖いのは、有明海方向から台風が到来することです。月に一度の大潮の日と重なれば、リスク倍増です。1980年の台風13号では、高潮による大規模な被害を与えました。交流館前の花宗川水門も、上記の災害をきっかけに建設されました。 -
大洪水
明治以降でも1889年、1921年に大洪水が発生しています。殊に1953年の大洪水は、水色の地域で氾濫し、佐賀市も久留米市も水浸しになりました。現在の治水計画の元になる災害です。 -
冠水した西鉄小森野橋
一面大海原と思いきや、筑後川です。橋は3つにちぎれ、真ん中には取り残された人が。救助された後、流されて下流の国鉄橋梁に衝突して粉砕します。 -
屋上から写真撮影
右端に見えるのが、ドライドック跡の大川昇開橋温泉。残念ながら、コロナ禍1年目の春に閉館。筑紫次郎の凄まじさを学んでからの景観は、これまた感慨深いです。 -
筑後川と有明海の恵み
エツ(カタクチイワシ科)
有明海沿岸と筑後川の感潮域に生息。産卵は筑後川でのみ行う。5-7月に河口から20kmほど遡上して産卵。稚魚は10月まで川で生活する。刺身が絶品。
ムツゴロウ(ハゼ科)
有明海沿岸に生息。泥干潟に巣穴を作り、潮が引くと干潟表面の藻類を食べる。縄張りをもつ。煮付けにすると美味しい(個人的見解)。
※動物王国で有名な畑正憲氏は、学研時代の風体がムツゴロウに似ていたことが由来。 -
エツ流網
産卵期の漁に用います。高さ2.5m未満、長さ200m未満の幕状で、川を横断するように網を張る。 -
以降は、佐賀県立博物館の展示です。
ムツ釣り
サーフボードのような押板に押桶と一緒に乗っかり、干潟を滑走します。獲物の6m手前まで近づき、釣竿を獲物の少し先へ落とします。収穫物は押桶へ入れます。 -
押板と押桶
佐賀県では、親しみを込めて潟スキーと呼んでいます。
板鍬(奥)
干潟を掘って獲物を探し、ムツゴロウなどを手づかみで捕獲します。 -
ムツ釣り
先端が鉤状になっています。竿で引っ掛けて釣る漁法もあります。 -
タカッポ
干潟のムツゴロウの巣に差し込み急襲、捕獲します。
干潮満潮様々な漁法があるとわかります。 -
実際の光景
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ワラスボ(ハゼ科)
有明海奥部に生息。軟泥干潟に巣を作り、潮が満ちると泳ぎだして貝やエビを食べる。ウナギと同じ大きさだが、鋭い歯がある。刺身が一番おいしい。
※エツ・ムツゴロウ・ワラスボは有明海固有種というのは国内限定で、主に東アジアに分布する。
シオマネキ(スナガニ科)
静岡以西の太平洋側に生息。泥干潟や葭原に巣を作る。オスは片方のハサミが巨大で、ハサミを振る姿(メスの気を引く・他のオスを威嚇)が潮を招いているように見える。 -
ワラスボ掻き
押板に乗って生息孔を見つけると、スボ掻きを突き刺し、体の前方から後方へ向かって掻き上げます。ワラスボは、先端の鉤に引っ掛かって引き上げられ、押桶へ。 -
円座
藁製の座布団で、押板で座る際に使用しました。 -
ワラスボ掻き
5本が展示。先端が短くU字に曲がり(鉤状)、引っ掛けられる構造になっています。真ん中のものは、先端の鉤が2本になっています。 -
ウミタケねじ
干潟に潜む二枚貝のウミタケ(海茸)を獲る道具です。生息孔にサシオイを差し込み、把手を回すと水管が鉄棒に絡みつき、それを引き上げます。
刺身もおいしいですが、干物にすると濃厚な味わいです。 -
サシオイ
T字型。 -
ウナギ掻き
鉤状の刃が竹竿の先端に数本ついています。水に差し入れ、潟の中を掻いてウナギを引っ掛けます。船の上から差し入れることもあります。ウナギは名物でしたが、今はほぼ絶滅しています。 -
ウナギ掻き
一番上のムツ釣りとほぼ同じ構造です。 -
ウナギバサミ
干潟に潜むウナギを鋏状の道具で引き上げます。刃ではなく突起になっています。 -
左 ニギリ:干潟の中のウナギを手で捕獲するための道具。ナックルのような形状。
下 ウナギヌキ:干潟の中のウナギを、先端に突き刺して捕獲します。
中央 ムツ釣り針:先述のムツ釣り竿から垂らした釣糸の先端に付けるフック。 -
ウナギ筌(うけ)
竹を編んで作られた円筒形の仕掛け。ミミズ、田螺、蜆等をミンチにして餌として入れて、川底に沈めておびき寄せ、生け捕りにする。川エビ、手長エビ、蟹漁にも使用可能。河口付近で使用。 -
ウナギテボ
ウナギ筌に準じます。河口部では仕掛け漁、干潟では積極的に狩る漁と違いが出ます。 -
ウナギ釣り
下流部では、釣竿でウナギを釣りました。専用の釣り針を使用し、エサは乳カニの身を使用します。 -
矢部川堤防の決壊
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水門手前の花宗川
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すっかり陽が傾いています。
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大川橋を渡って、佐賀駅へ向かいます。
次の旅行記↓
https://4travel.jp/travelogue/11822237
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