2023/03/03 - 2023/03/03
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gianiさん
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自由都市というと中世ヨーロッパの都市を連想しますが、実は日本にもありました!
なぜ小林綾子さんがPR?
時代順に並んだ地図情報も、要チェックです。
- 旅行の満足度
- 5.0
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酒田の歴史は、歴史資料館で学べます。
展示はワンフロアですが、歴史略年表という配布物は役立ちました。過去のメディアライブラリーもあり、20代の高田万由子さんが三十六人衆の足跡を追う20分ほどの映像は、おすすめの内容です。
712年:4年前に越後国に新設された出羽郡が「出羽国」に昇格。
城輪柵跡は、奈良時代の出羽国府跡とされます。
昭和29年に酒田市域に編入されました。出羽国の産物を都へ届けることが使命でした。
9世紀以降荘園開発が進み、皇室領が多かった。城輪柵跡 名所・史跡
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酒田は商人が造った街。
諸国から集まった商人が地侍を兼ねて、最上川左岸に1000軒ほどの町を築いていたが、1521年に現在の対岸に移動。町を整備し、自治を行う。
写真は最上川。左岸が原始の地(向う酒田)。現在ゴルフ場のある中州を挟んで右岸へ移動した。
最上川沿岸には、米沢・山形・新庄・酒田の町がある。置賜村山最上庄内4地域の主都があり、日本海に面した河口の酒田は、南出羽(山形県)の物流の集積地として栄えた。最上川カントリークラブ ゴルフ場
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新しい街は、旧暦4月の申の日に日本海に夕日が沈む正中線を都市軸として、整然とした区画割がされた。他人の手を借りずに町を築き、自由都市として大名から自治を許された。
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秀吉の統一政権下では、酒田湊(写真)から庄内米を堺へ送り、代わりに(東北では育たない)茶や木綿を受け取った。1592年には過所状(関所通行許可証)を支給され、諸国で自由に商売する特権を得た。
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関ヶ原後に最上家の山形藩57万石が誕生して、酒田の亀ヶ崎城には城代が駐在するも、町人街の自治は続く。最上家は幕府に危険視されて1622年に改易。徳川四天王嫡流の酒井忠勝が鶴岡に入府して、鶴岡藩が誕生。亀ヶ崎には一族を城代として配置する。一国一城令の例外として、城も存続する。
※現在は酒田東高校。忠勝は酒田入府を考えていたが、商人の力が強すぎて鶴岡にしたともいわれる。亀ヶ崎城跡 名所・史跡
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この頃、酒田商人の中でも鐙(あぶみ)屋と加賀屋が躍進する。建物は、現在修復中の鐙屋(写真)。井原西鶴の「日本永代蔵」第2巻でも、鐙屋の繁栄ぶりが描写されている。
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加賀屋は、ドラマおしんの奉公先として登場し、原作者は鐙屋を見学してイメージを練りました。跡地は、市役所・市民会館になっています。
酒井忠勝は入府時に酒田商人を家臣として雇う提案をするも、あっさり断られます。地侍兼商人として、自由都市酒田と共に歩む道を、明治維新まで歩みました。 -
とはいえ、1668年の幕府布告もあって、町人は亀ヶ崎城代配下の酒田町奉行所の管轄になります。完全自治を失ったとはいえ、大きな自由を享受します。
酒田町奉行所跡 名所・史跡
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三十六人衆の形成
山王くらぶには、酒田商人についての興味深い展示があります。
16世紀から武力経済力を併せ持つ酒田商人は「長人」と呼ばれていましたが、江戸時代には三十六人衆と呼ばれる自治組織を作りました。1か月に3名ずつが輪番(3×12=36)で運営されました。三十六人衆御用帳という記録を残して、代々引き継ぎました。実情に合わせて、構成員は入れ替わりました。江戸時代を通して存続したのは10家、96家が入れ替わりました。山王くらぶ 名所・史跡
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徳尼公伝説
金に飽きると、格式と歴史を欲するもの。三十六人衆は、自らのルーツを奥州藤原氏と結びつけました。
1187年に源頼朝に平泉を滅ぼされた際、当主秀衡の妹徳の前は36人の遺臣に守られて酒田に逃れ、尼になって泉流庵を結び余生を送ったという内容。泉流とは平泉から流れて来たことを表し、元々は向う酒田に所在。現在は泉流寺の廟内に祀られています。
※酒井忠勝に仕官を断った際も「武士は二君に仕えず」と返答して、主君は亡き奥州藤原氏だけだと主張しました。三十六人衆で実際に平泉をルーツとするのは、粕谷家だけでした。泉流寺 寺・神社・教会
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西廻航路の開発(1672)
日本海側の北前船文化とセットで登場する言葉ですが、西廻航路が開発された直接の動機は、ズバリ酒田でした。
酒田に集まった最上川流域およそ15万石の天領で産出する米を、大坂や江戸の蔵屋敷に安全かつ大量に輸送できるルート開拓が目的です。天下泰平に伴って人口が激増したことが背景にあります。食糧・経済政策の要として、幕府が主導しました。 -
このプロジェクトを成功させたのが、江戸商人の川村瑞賢(写真)。酒田を起点に日本海を経て関門海峡、瀬戸内海、太平洋を経て、江戸に到達する航路です。
幕府御用船以外もこの航海技術を活用して、酒田三十六人衆も大いに潤いました。酒田港を見下ろす日和山公園に、河村瑞賢像が立っています。
※当初は酒田が起点でしたが、後に秋田・青森・蝦夷地まで拡大しました。 -
寺町
町の北側には寺院が配置され、寺町を形成しました。酒井家は徳川寄りの譜代大名で、会津松平家とともに外様大名を監視します。酒田は、北側に佐竹藩25万石という一大外様大名の領地と隣接していました。 -
河村瑞賢による西廻航路が開発されたとはいえ、航海は毎回命懸け。商人は航海の安全を神仏に祈り、毎回無事に帰港(ときには寄港)すると感謝の意味を込めて寄進を欠かしませんでした。写真は、三十六人衆の一つ本間家の菩提寺。京都から一流の大工を呼んで、豪華な唐門を寄進。
浄福寺 (唐門) 寺・神社・教会
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西廻航路はモノだけでなく、文化も運びます。酒田には、京文化がもたらされます。庄内弁と京ことばの共通性は、その一つ。
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京人形、ひな人形も多く伝わり、17世紀作のものも多く含まれます。本場京都に次ぐコレクションを誇ります。
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本間家の台頭
後に日本一の大地主として名を馳せる本間家は、1686年に本間原光が酒田で新潟屋を開業し、米などを扱います。1707年には三十六人衆に加えられます。
1736年に2代目光寿が田地を買い取り、地主デビューします。1751年には、金融業にも着手し、流通・不動産・金融の三本柱が揃います。
※ルーツは神奈川県愛甲郡。現在も愛甲郡や旧津久井郡では本間姓が多い。 -
本間宗久
光寿の弟で、第3代就任までリリーフ登板。伝説の米相場師。酒田罫線法と呼ばれるテクニカル分析を18世紀に確立。第3代の光丘の怒りを買った時期があって大坂江戸で活動するが、結果的には本間家の庄内米販売に有用な働きをします。 -
中興の祖;第3代:本間光丘
豪商として全国に名を馳せます。「公益精神」を体現し、利益の三分の二は地域に還元することを旨とし、代々の家訓となります。本間庄五郎名義で商業を営む傍ら、藩に対しては本間四郎三郎光丘の名義で、藩政改革を主導します。東北諸藩に大名貸を行うも、低利で対応。米沢藩主上杉鷹山の改革も補佐します。 -
植林事業(1758-)
庄内海岸の季節風は半端なく、海からの強風で砂が内陸部まで運ばれ、絶えず砂漠化と闘っていました。厳しい自然条件ゆえに、羽州街道は人家もまばらで治安上の問題も深刻でした。光丘は藩の許可を得て、自腹(宗久が米相場で儲けた金)で34kmに渉る暴風防砂林を整備しました。ただ造るだけでなく、旅人相手の休憩所等をつくり、植林・維持のための基金を確保しました。現役の松原です。
※河川改修等の公共事業を多く行い、農閑期の雇用創出という救民措置の一面も。 -
防火
庄内地方における秋冬の強風は、積雪を吹き飛ばすほどの威力があります。1976年10月28日に中心地を焼き尽くした酒田の大火を始め、火災のリスクも。
光丘は、類焼を防ぐための空地をつくる、消防団の組織しポンプ車を導入、夕方以降は本間家では火を使わない等、様々な方策を取りました。 -
幕府巡検使の宿舎として旗本2000石相当の屋敷を献上(1768)。
その後下賜され、現在は本間家旧本宅として公開されています。 -
第4代光道は、江戸長崎で書籍を集め始め、公共図書館設立を目指します(1809)。最終的には、1922年の光丘文庫に結実。
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1812年には、丁持ちの冬季失業対策として、別宅を建設。現在の鶴舞園。
現在は11代目だが、戊辰戦争時も藩と領民を支え、明治維新後も多角化へ進まず、灌漑事業、防風防砂林の伸張、農産物の品種改良、小作民の保護など、庄内米を基盤に地域に根差した公益活動に邁進します。有名企業は、傍系の本間ゴルフくらい。 -
続いては、清亀園へ。
本間家に次ぐ大地主、伊藤家の別邸です。現在は市の施設ですが、見学も大歓迎です。清亀園 公園・植物園
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伊藤四郎衛門家の別邸は、広大な庭を有しましたが、現在は小ぶりです。
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さりげなく、林羅山直筆の書が。凄いです。
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北前船で栄えただけあって、庭石は佐渡の赤石など、各地の銘品揃い。
面白いのが、18世紀の李王朝の石仏がある事。
鉄道網と通信網の発達で、昭和に入って北前船は急速に衰退します。
酒田商人は地主として米を掌握したので、終戦まで繁栄しました。 -
酒田湊には、料亭も多く存在しました。
その一つの相馬楼。 -
往時は、芸妓が行き交う路地だったそうです。
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こちらは、旧宇八楼。
現在山王くらぶとして公開。 -
料亭文化が展示されています。
天井が高いユニークな部屋。 -
この部屋、実は、蔵を改装しています。
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部屋ごとに、デザインも違います。
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こちらは、本間家を紹介する部屋。霞が素敵です。
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竹久夢二が好んだ部屋。
3回酒田を訪れていますが、この部屋を指定。理由は、窓から女中の支度する様子が観察できるから。渡欧の際は、酒田の旦那衆が彼の作品を買い取って費用をねん出しました。 -
2階には、100畳を越す大広間も。舞台で芸が行われました。
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料亭の向かいには、カタカナが似合うお店。
ナイトレストラン、グランドスナック、不思議な英語炸裂。 -
山居倉庫
庄内米の保管庫として建設。火災を免れるために最上川の中州に造られました。地盤を3mほど底上げしています。現在はJA管理です。
庄内米はこの蔵を通して出荷することで低品質品を排除し(ブランド保護)、低温貯蔵することで鮮度を維持しました。 -
山居倉庫内のギャラリー。
酒田は、テレビドラマおしんの舞台。
おしんといえば姑のいびりをはじめ、行く処行く処で酷い目にあったイメージですが、、、 -
実家を出て、酒田の加賀屋へ奉公へ出る有名シーン。
酒田の奉公先では、手習いを教えて貰ったり、主人の娘と生涯の友人になったりと、実はとても良くしてもらった土地でした。 -
作者直筆の色紙も。
酒田の人間は、おすんと発音していました。 -
作者が、山形県へ学童疎開した体験が縁です。
そんなわけで、山形には好印象を抱いているみたいです。 -
庄内人形。
おしん:小林綾子、船頭:光石研(意外な事実)、父親:伊東四朗。 -
おまけ
魚市場の横で見つけたお店。
かなりクオリティの高い酒田ラーメンでした。 -
魚出汁の醤油は良い塩梅。
ガッツリ行きたい人は、背脂を加える。選択制なのがうれしいです。
いざ、本間美術館へ↓
https://4travel.jp/travelogue/11815969
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