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3月6日は二十四節気の「啓蟄」に当たります。そんな折、コロナ禍のお籠から解放してくれるきっかけを各地から届けられる「梅便り」が提供してくれました。<br />さて、何処へ行こうかと悩みましたが、2024年はおそらくNHK大河ドラマ『光る君へ』の影響でごった返していると読み、紫式部所縁の石山寺に決めました。「梅つくし」の最中ですが、「桜まいり」に比べれば人出もシュリンクしているだろうとの希望的観測が見事的中!おかげでゆっくり境内を散策することができました。<br />今回レポするのは、プロローグとなる石山寺へのアプローチで出会った一期一会です。旧東海道筋に佇む鄙びた商家や夕照で知られる瀬田の唐橋、丘の上に聳える住友活機園など盛りだくさんです。<br />

早春賦 近江 石山①石山寺へのアプローチ

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2023/03/06 - 2023/03/06

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

3月6日は二十四節気の「啓蟄」に当たります。そんな折、コロナ禍のお籠から解放してくれるきっかけを各地から届けられる「梅便り」が提供してくれました。
さて、何処へ行こうかと悩みましたが、2024年はおそらくNHK大河ドラマ『光る君へ』の影響でごった返していると読み、紫式部所縁の石山寺に決めました。「梅つくし」の最中ですが、「桜まいり」に比べれば人出もシュリンクしているだろうとの希望的観測が見事的中!おかげでゆっくり境内を散策することができました。
今回レポするのは、プロローグとなる石山寺へのアプローチで出会った一期一会です。旧東海道筋に佇む鄙びた商家や夕照で知られる瀬田の唐橋、丘の上に聳える住友活機園など盛りだくさんです。

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
JRローカル 私鉄

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  • JR西日本「石山」駅・京阪「石山」駅<br />石山寺へは大阪からのアクセスならJRが至便です。JR大阪駅から新快速電車を利用すれば、JR石山駅へは45分程で到着します。JR石山駅は東海道本線の駅に当たりますが、「琵琶湖線」の愛称区間に含まれています。<br />因みに琵琶湖線は、JR西日本が管轄する東海道本線のうち、滋賀県米原市の米原駅から京都府京都市下京区の京都駅までの区間、および北陸本線のうち米原駅から滋賀県長浜市の長浜駅までの区間に付けられた愛称です。

    JR西日本「石山」駅・京阪「石山」駅
    石山寺へは大阪からのアクセスならJRが至便です。JR大阪駅から新快速電車を利用すれば、JR石山駅へは45分程で到着します。JR石山駅は東海道本線の駅に当たりますが、「琵琶湖線」の愛称区間に含まれています。
    因みに琵琶湖線は、JR西日本が管轄する東海道本線のうち、滋賀県米原市の米原駅から京都府京都市下京区の京都駅までの区間、および北陸本線のうち米原駅から滋賀県長浜市の長浜駅までの区間に付けられた愛称です。

  • 京阪「唐橋前」駅<br />石山寺へはJR石山駅から京阪 石山坂本線に乗り換えて2区間の乗車です。乗車時間は5分程です。電車は約10分間隔で運行されています。<br />まず目指すのは瀬田の唐橋です。京阪 唐橋前駅が最寄り駅ですが、JR石山駅から1km程のため徒歩圏内でもあります。

    京阪「唐橋前」駅
    石山寺へはJR石山駅から京阪 石山坂本線に乗り換えて2区間の乗車です。乗車時間は5分程です。電車は約10分間隔で運行されています。
    まず目指すのは瀬田の唐橋です。京阪 唐橋前駅が最寄り駅ですが、JR石山駅から1km程のため徒歩圏内でもあります。

  • 旧家<br />京阪 唐橋前駅の北側にある踏切を渡って東へ進みます。<br />江戸時代から続いている旧東海道(県道104号石山停車場線)沿いにある連子格子の佇まいの旧家です。<br />石山停車場線は大津市石山停車場を起点に大津市唐橋西詰交点に至る0.9kmの一般県道です。

    旧家
    京阪 唐橋前駅の北側にある踏切を渡って東へ進みます。
    江戸時代から続いている旧東海道(県道104号石山停車場線)沿いにある連子格子の佇まいの旧家です。
    石山停車場線は大津市石山停車場を起点に大津市唐橋西詰交点に至る0.9kmの一般県道です。

  • 旧家<br />近江の町屋様式の典型となる軒下のベンガラ(酸化第二鉄)格子が粋な味わいを魅せてくれます。ベンガラ塗は日本古来の塗装法であり、湖東や湖南の伝統的な建物に見られます。「バッタン床机(折り畳み式の縁台)」に「格子窓」、「出格子」に「虫籠窓」、「卯建」に「軒裏の白漆器塗り」とどれをとっても旧東海道筋の風情をこよなく湛えています。

    旧家
    近江の町屋様式の典型となる軒下のベンガラ(酸化第二鉄)格子が粋な味わいを魅せてくれます。ベンガラ塗は日本古来の塗装法であり、湖東や湖南の伝統的な建物に見られます。「バッタン床机(折り畳み式の縁台)」に「格子窓」、「出格子」に「虫籠窓」、「卯建」に「軒裏の白漆器塗り」とどれをとっても旧東海道筋の風情をこよなく湛えています。

  • 旧家<br />屋根は少し丸みを帯びて優し気な「むくり屋根」です。<br />旧東海道筋ということもあり、大名行列を上から見下ろすことへの遠慮から棟を低くするよう気配りし、そのための工夫から生まれた形態です。

    旧家
    屋根は少し丸みを帯びて優し気な「むくり屋根」です。
    旧東海道筋ということもあり、大名行列を上から見下ろすことへの遠慮から棟を低くするよう気配りし、そのための工夫から生まれた形態です。

  • 旧家<br />現在は空き地になってるところが多いのですが、往時この辺りは旅人目当てに様々なものを売る店が軒を連ねていたであろうことは想像に難くありません。<br />瀬田川は琵琶湖の南端から流れ出る唯一の川であり、京都府では宇治川、大阪府で淀川と名を変えて大阪湾へ注ぎます。また、奈良と北陸諸国を結ぶ交通路でもあり、奈良時代には東大寺造営の用材も瀬田川で漕運されたと伝えます。瀬田川西岸は石山津と呼ばれ、奈良時代には奈良の外港として重要な港町でした。<br />「瀬田」の地名は、古来「勢多・勢田・世多」など様々な表記が長く併用して使われ続けてきましたが、1889(明治22)年に「瀬田」に統一されました。古代の勢多郷は近江国府の所在地でもあり、また、東海道・東山道両道が通る事からも国内最大の大駅である勢田駅(勢多馬家)が置かれていた所です。

    旧家
    現在は空き地になってるところが多いのですが、往時この辺りは旅人目当てに様々なものを売る店が軒を連ねていたであろうことは想像に難くありません。
    瀬田川は琵琶湖の南端から流れ出る唯一の川であり、京都府では宇治川、大阪府で淀川と名を変えて大阪湾へ注ぎます。また、奈良と北陸諸国を結ぶ交通路でもあり、奈良時代には東大寺造営の用材も瀬田川で漕運されたと伝えます。瀬田川西岸は石山津と呼ばれ、奈良時代には奈良の外港として重要な港町でした。
    「瀬田」の地名は、古来「勢多・勢田・世多」など様々な表記が長く併用して使われ続けてきましたが、1889(明治22)年に「瀬田」に統一されました。古代の勢多郷は近江国府の所在地でもあり、また、東海道・東山道両道が通る事からも国内最大の大駅である勢田駅(勢多馬家)が置かれていた所です。

  • 旧家<br />瀬田の唐橋西詰にも旧家が2軒軒を連ねています。<br />

    旧家
    瀬田の唐橋西詰にも旧家が2軒軒を連ねています。

  • 旧家<br />こちらもベンガラ塗に格子戸のある佇まいです。<br />2階の窓に這わせた高欄は老舗旅館を彷彿とさせます。

    旧家
    こちらもベンガラ塗に格子戸のある佇まいです。
    2階の窓に這わせた高欄は老舗旅館を彷彿とさせます。

  • 旧家<br />一見、3軒かと思わせますが、左側は2階の屋根の高さを違えているもののひとつの棟となっています。<br />

    旧家
    一見、3軒かと思わせますが、左側は2階の屋根の高さを違えているもののひとつの棟となっています。

  • 旧家<br />ここはベンガラ塗に同居する渋い「黒漆喰」が特徴です。<br />黒漆喰は「江戸黒」などとも呼ばれ、純白の漆喰に墨や松を燃やして作る松煙、油煙などの煤を入れて黒く仕上げる工法で、数ある左官工法の中でも非常に難しい仕上げ方法とされます。<br />一般的には黒漆喰固押さえの「ずい黒」や「黒磨き」などの工法があり、ここのように「ずい黒」は光らせない壁で、「黒磨き」は鏡面のように光らせる仕上げです。

    旧家
    ここはベンガラ塗に同居する渋い「黒漆喰」が特徴です。
    黒漆喰は「江戸黒」などとも呼ばれ、純白の漆喰に墨や松を燃やして作る松煙、油煙などの煤を入れて黒く仕上げる工法で、数ある左官工法の中でも非常に難しい仕上げ方法とされます。
    一般的には黒漆喰固押さえの「ずい黒」や「黒磨き」などの工法があり、ここのように「ずい黒」は光らせない壁で、「黒磨き」は鏡面のように光らせる仕上げです。

  • 旧家<br />レトロな建物には「油」と記された看板が吊り下げられており、かつては1808(文化7)年創業の老舗油屋だそうです。

    旧家
    レトロな建物には「油」と記された看板が吊り下げられており、かつては1808(文化7)年創業の老舗油屋だそうです。

  • 旧家<br />この辺りは正式な宿場町ではありませんでしたが、旧東海道の大津宿や膳所藩の城下へと通じる事から、それに準じる街道町として発展していたようで、往時から町場として公認されていたそうです。<br />「瀬田の唐橋」と呼ばれ始めた時期は定かではなく、橋の形によるものと思われる俗称ですが、やがてそれが定着して地名にもなりました。瀬田唐橋西詰の唐橋町は、1967(昭和42)年まで石山鳥居川を冠していた各町が改称した町名です。<br />因みに「鳥居川」の名称は、別保の若宮八幡、または御霊神社の鳥居に由来するそうです。東海道五十三次の正式な宿場町ではないものの、大名のための休憩所や庶民向けの旅籠、茶店が並び、セタシジミの佃煮などが売られていたようです、1813(文化10)年には、大津宿から鳥居川、寺辺、神領、橋本の4村に「宿泊客が取られて困る」と幕府へ訴えがあったそうです。

    旧家
    この辺りは正式な宿場町ではありませんでしたが、旧東海道の大津宿や膳所藩の城下へと通じる事から、それに準じる街道町として発展していたようで、往時から町場として公認されていたそうです。
    「瀬田の唐橋」と呼ばれ始めた時期は定かではなく、橋の形によるものと思われる俗称ですが、やがてそれが定着して地名にもなりました。瀬田唐橋西詰の唐橋町は、1967(昭和42)年まで石山鳥居川を冠していた各町が改称した町名です。
    因みに「鳥居川」の名称は、別保の若宮八幡、または御霊神社の鳥居に由来するそうです。東海道五十三次の正式な宿場町ではないものの、大名のための休憩所や庶民向けの旅籠、茶店が並び、セタシジミの佃煮などが売られていたようです、1813(文化10)年には、大津宿から鳥居川、寺辺、神領、橋本の4村に「宿泊客が取られて困る」と幕府へ訴えがあったそうです。

  • 太田瓦店<br />県道を挟んで反対側には太田瓦店があります。<br />

    太田瓦店
    県道を挟んで反対側には太田瓦店があります。

  • 太田瓦店<br />ベンガラ格子の前には鬼瓦や飾り瓦の類が目白押しです。

    太田瓦店
    ベンガラ格子の前には鬼瓦や飾り瓦の類が目白押しです。

  • 太田瓦店<br />鴟尾を載せた棟瓦です。<br />水の神「龍」をモチーフにした作品のようです。

    太田瓦店
    鴟尾を載せた棟瓦です。
    水の神「龍」をモチーフにした作品のようです。

  • 太田瓦店<br />巨大な鬼瓦の説明書きには次のようにあります。<br />「此の鬼瓦は、愛知県愛西市勝幡町塩畑2645 福應寺の本堂、大棟の鬼瓦です。鬼瓦の構造は、10個の組み合わせでひとつの鬼瓦となります。高さ1m97cm、巾2m30cm、厚さ68cm、総重量430kg。お相撲さんが、手を広げると同じ位になります。」

    太田瓦店
    巨大な鬼瓦の説明書きには次のようにあります。
    「此の鬼瓦は、愛知県愛西市勝幡町塩畑2645 福應寺の本堂、大棟の鬼瓦です。鬼瓦の構造は、10個の組み合わせでひとつの鬼瓦となります。高さ1m97cm、巾2m30cm、厚さ68cm、総重量430kg。お相撲さんが、手を広げると同じ位になります。」

  • 太田瓦店<br />このようなエキセントリックなデザインの作品もあります。

    太田瓦店
    このようなエキセントリックなデザインの作品もあります。

  • 太田瓦店<br />「鏡を持つ天女」でしょうか?<br />大正時代の作品のようです。

    太田瓦店
    「鏡を持つ天女」でしょうか?
    大正時代の作品のようです。

  • 太田瓦店<br />「龍」は水神であることから、龍をモチーフとした瓦は火除けとして用いられています。

    太田瓦店
    「龍」は水神であることから、龍をモチーフとした瓦は火除けとして用いられています。

  • 太田瓦店<br />『松鷹図』は安土桃山時代頃から好まれてよく描かれた画題です。<br />戦国から江戸時代にかけての武士中心の時代には、特に「力強さ」と「生命力」がイメージ的に好ましかったことから、「松」は生命力の象徴、「鷹」は力強さの象徴として、掛け軸や襖によく描かれたそうです。

    太田瓦店
    『松鷹図』は安土桃山時代頃から好まれてよく描かれた画題です。
    戦国から江戸時代にかけての武士中心の時代には、特に「力強さ」と「生命力」がイメージ的に好ましかったことから、「松」は生命力の象徴、「鷹」は力強さの象徴として、掛け軸や襖によく描かれたそうです。

  • 太田瓦店<br />「瓦ギャラリー」と言っても過言ではありません。<br />一見の価値ありです!

    太田瓦店
    「瓦ギャラリー」と言っても過言ではありません。
    一見の価値ありです!

  • 料理旅館 唐橋<br />名橋「瀬田の唐橋」や清流「瀬田川」を庭園に臨む、鄙びた風情を湛えた川畔の宿です。<br />

    料理旅館 唐橋
    名橋「瀬田の唐橋」や清流「瀬田川」を庭園に臨む、鄙びた風情を湛えた川畔の宿です。

  • 料理旅館 唐橋<br />玄関先にある梅です。

    料理旅館 唐橋
    玄関先にある梅です。

  • 「橋姫竜神」の祠<br />「橋姫」と言えば宇治が有名ですが瀬田の唐橋にもおられます。料理旅館「唐橋」の敷地内の玄関先に祠が鎮座しています。古来、天災人災から人々を守り反映の守護神として祭祀しており、また、千古より清き大川 瀬田川の日本における歴史的な唐橋で道行く人々を守り続けている龍神だそうです。<br />さて、橋姫と言えば有名なのが「人柱伝説」です。築城や豊作祈願などに際し、朝一番に橋を渡った人を人柱としたとする伝説が各地にあるだけでなく、架橋の難工事を前に人柱を立てた伝説も少なくありません。<br />一方、治水的に鑑みれば、琵琶湖には約460本の河川が流入しますが、流出は人工の琵琶湖疎水を除くとこの瀬田川だけです。洪水になれば琵琶湖の水位が下がらず、この周辺は浸水被害に悩まされた地域だそうです。<br />平安時代以前は、橋姫とは「水の神」であり、説明されているように橋の袂で橋を護る美しい女神だったようです。橋の東詰には勢田橋龍宮秀郷社、地元では「龍王さま」と呼ばれる小さなお宮があります。龍王宮は水府の神乙姫、また橋姫の社とも称され、瀬田の橋姫こと大神霊龍王を祀り、古来瀬田川には龍神が坐していると伝わります。かつては橋そのものを社とし、唐橋中央に特殊な橋杭が打ち込んであり、是を龍神の御霊代としていたそうです。

    「橋姫竜神」の祠
    「橋姫」と言えば宇治が有名ですが瀬田の唐橋にもおられます。料理旅館「唐橋」の敷地内の玄関先に祠が鎮座しています。古来、天災人災から人々を守り反映の守護神として祭祀しており、また、千古より清き大川 瀬田川の日本における歴史的な唐橋で道行く人々を守り続けている龍神だそうです。
    さて、橋姫と言えば有名なのが「人柱伝説」です。築城や豊作祈願などに際し、朝一番に橋を渡った人を人柱としたとする伝説が各地にあるだけでなく、架橋の難工事を前に人柱を立てた伝説も少なくありません。
    一方、治水的に鑑みれば、琵琶湖には約460本の河川が流入しますが、流出は人工の琵琶湖疎水を除くとこの瀬田川だけです。洪水になれば琵琶湖の水位が下がらず、この周辺は浸水被害に悩まされた地域だそうです。
    平安時代以前は、橋姫とは「水の神」であり、説明されているように橋の袂で橋を護る美しい女神だったようです。橋の東詰には勢田橋龍宮秀郷社、地元では「龍王さま」と呼ばれる小さなお宮があります。龍王宮は水府の神乙姫、また橋姫の社とも称され、瀬田の橋姫こと大神霊龍王を祀り、古来瀬田川には龍神が坐していると伝わります。かつては橋そのものを社とし、唐橋中央に特殊な橋杭が打ち込んであり、是を龍神の御霊代としていたそうです。

  • 「橋姫竜神」の祠<br />「橋姫伝説」は、中世から近世になるにつれ、恐ろしい伝説へと変貌を遂げます。それはどうやら人柱の風習とも関連しているようです。<br />『今昔物語』には「瀬田の橋姫」なる話があります。紀遠助(きのとおすけ)が都の東三条殿の勤めを終えて美濃に帰る途中、瀬田の橋で女から「美濃の収(おさめ)の橋にいる女にこの小箱を渡して欲しい」と頼まれました。<br />その時、「この箱の中は絶対に見ないで!」と忠告されました。美濃に着くと遠助は忙しさにかまけ、暫くの間、箱を渡さずにいました。ところが遠助の留守中に妻がその箱を開けてしまったのです。箱には抉り抜いた眼球と男根が入っていました。遠助は、慌てて橋の袂へ走り、女に箱を渡しました。しかし、箱を開けた事が女にバレてしまいました。遠助は、家に逃げ帰りましたが、暫くして原因不明の死に至りました。物語は触れていませんが、箱の中身はきっと橋姫の愛した男性の物だったのでしょう。

    「橋姫竜神」の祠
    「橋姫伝説」は、中世から近世になるにつれ、恐ろしい伝説へと変貌を遂げます。それはどうやら人柱の風習とも関連しているようです。
    『今昔物語』には「瀬田の橋姫」なる話があります。紀遠助(きのとおすけ)が都の東三条殿の勤めを終えて美濃に帰る途中、瀬田の橋で女から「美濃の収(おさめ)の橋にいる女にこの小箱を渡して欲しい」と頼まれました。
    その時、「この箱の中は絶対に見ないで!」と忠告されました。美濃に着くと遠助は忙しさにかまけ、暫くの間、箱を渡さずにいました。ところが遠助の留守中に妻がその箱を開けてしまったのです。箱には抉り抜いた眼球と男根が入っていました。遠助は、慌てて橋の袂へ走り、女に箱を渡しました。しかし、箱を開けた事が女にバレてしまいました。遠助は、家に逃げ帰りましたが、暫くして原因不明の死に至りました。物語は触れていませんが、箱の中身はきっと橋姫の愛した男性の物だったのでしょう。

  • 車石<br />祠の右横、橋の袂に「車石」がひとつ転がっているのも頷けます。<br />江戸時代には、大津港に荷揚げされた米などの物資は牛車によって東海道を京都まで運ばれました。しかし往時の街道は土道だったため、雨が降れば牛車の車輪が泥道に埋まり、思うように進めませんでした。そこで今から約200年前、京都の心学者 脇坂義道が車輪がぬかるみに嵌らないよう、大津~京都間の3里に両輪の幅に合わせて2列に花崗岩を敷く一大土木工事を施工しました。やがてその敷石は、頻繁な牛車の通行で擦り減り、U字型の凹みが残されました。その石を「車石」と呼んでいます。こうした車石は、街道沿いの随所に遺されており、江戸時代の卓越した街道政策を今に伝える貴重な文化財となっています。

    車石
    祠の右横、橋の袂に「車石」がひとつ転がっているのも頷けます。
    江戸時代には、大津港に荷揚げされた米などの物資は牛車によって東海道を京都まで運ばれました。しかし往時の街道は土道だったため、雨が降れば牛車の車輪が泥道に埋まり、思うように進めませんでした。そこで今から約200年前、京都の心学者 脇坂義道が車輪がぬかるみに嵌らないよう、大津~京都間の3里に両輪の幅に合わせて2列に花崗岩を敷く一大土木工事を施工しました。やがてその敷石は、頻繁な牛車の通行で擦り減り、U字型の凹みが残されました。その石を「車石」と呼んでいます。こうした車石は、街道沿いの随所に遺されており、江戸時代の卓越した街道政策を今に伝える貴重な文化財となっています。

  • 瀬田の唐橋<br />小橋・大橋ともに太鼓橋であり、緩いアンジュレーションがあるため、欄干の下にはこのように塩化ナトリウム(融雪剤)の袋が置かれています。<br />瀬田川に架かる全長約224m(大橋約172m、小橋約52m)に及ぶ旧東海道の橋です。現在の橋は1979(昭和54)年に架け替えられたものですが、穏やかな反りや様々な年代の擬宝珠などは往時の姿を偲ばせます。<br />古来「唐橋を制する者は、天下を制す」と言われ、坂上田村麻呂は石山寺を伏し拝み、瀬田の長橋を打ち渡って東国へ向かいました。また、壬申の乱や治承・寿永の乱(源平合戦)、建部の戦など数多の合戦の舞台となり、その度に焼き落とされてきました。また、上洛の夢を果たせなかった武田信玄が「瀬田の唐橋に我が軍旗を立てよ」と遺言しています。更には、『日本書紀』の壬申の乱(672年)の記事に瀬田橋の名が初見されるなど、「日本の道100選」や「日本3古橋」の一つに数えられる他、京都 宇治橋や山崎橋と共に「日本三名橋・日本三大橋」の一つです。因みに、1889(明治22)年までは瀬田川に架かる唯一の橋でした。これは、瀬田橋を徳川幕府の管理下に置き、他の橋を架けることを禁じることで交通の要所を押さえるための政策でした。<br />橋名は、古くは「瀬田橋」もしくは「勢多橋」とされますが、何故「唐橋」と呼ぶのかは、「中国伝来の技術で架けたため」や「信長が架けた橋が欄干を設けた中国風だったため」、「元々は藤の蔓を絡めた橋で『搦橋(からみばし)』と呼ばれており、『からみ橋』→『から橋』に転訛」など諸説ありますが、『日本書紀』に「瀬田橋」の名が初見されることから信長説は後付と窺えます。<br />唐橋は名神 瀬田西ICにも近く車の往来が激しく、昔も今も交通の要衝を担っています。また、近江八景の一つ「瀬田の夕照(せきしょう)」が見られる橋としても有名です。

    瀬田の唐橋
    小橋・大橋ともに太鼓橋であり、緩いアンジュレーションがあるため、欄干の下にはこのように塩化ナトリウム(融雪剤)の袋が置かれています。
    瀬田川に架かる全長約224m(大橋約172m、小橋約52m)に及ぶ旧東海道の橋です。現在の橋は1979(昭和54)年に架け替えられたものですが、穏やかな反りや様々な年代の擬宝珠などは往時の姿を偲ばせます。
    古来「唐橋を制する者は、天下を制す」と言われ、坂上田村麻呂は石山寺を伏し拝み、瀬田の長橋を打ち渡って東国へ向かいました。また、壬申の乱や治承・寿永の乱(源平合戦)、建部の戦など数多の合戦の舞台となり、その度に焼き落とされてきました。また、上洛の夢を果たせなかった武田信玄が「瀬田の唐橋に我が軍旗を立てよ」と遺言しています。更には、『日本書紀』の壬申の乱(672年)の記事に瀬田橋の名が初見されるなど、「日本の道100選」や「日本3古橋」の一つに数えられる他、京都 宇治橋や山崎橋と共に「日本三名橋・日本三大橋」の一つです。因みに、1889(明治22)年までは瀬田川に架かる唯一の橋でした。これは、瀬田橋を徳川幕府の管理下に置き、他の橋を架けることを禁じることで交通の要所を押さえるための政策でした。
    橋名は、古くは「瀬田橋」もしくは「勢多橋」とされますが、何故「唐橋」と呼ぶのかは、「中国伝来の技術で架けたため」や「信長が架けた橋が欄干を設けた中国風だったため」、「元々は藤の蔓を絡めた橋で『搦橋(からみばし)』と呼ばれており、『からみ橋』→『から橋』に転訛」など諸説ありますが、『日本書紀』に「瀬田橋」の名が初見されることから信長説は後付と窺えます。
    唐橋は名神 瀬田西ICにも近く車の往来が激しく、昔も今も交通の要衝を担っています。また、近江八景の一つ「瀬田の夕照(せきしょう)」が見られる橋としても有名です。

  • 瀬田の唐橋<br />『今昔物語』には瀬田の唐橋で起きた奇譚が収められています。<br />東国から京に上る途上、瀬田橋辺りに来ると陽が沈み始めたため、旅人はあばら家に宿を借りることにした。世が更けた頃、人もいないのに部屋の隅に置かれた大きな鞍櫃がゴソゴソと音をたてて蓋が持ち上がった。もしや、ここには鬼が居て誰も住まなくなったのか…と恐くなり、這うようにして馬に鞭を置いて逃げ出すと、大きな奇声と共に鬼が恐ろしい形相で旅人を追ってくるではありませんか。これは馬でも逃げ切れそうもないと悟った旅人は、瀬田橋の袂で馬を降り、橋下の柱の陰に身を潜めてやり過ごそうとしました。どうか助かりますようにと祈る旅人の頭の上で鬼が「どこにいる!」と何度も叫んでいます。やがて上手く隠れられたと安堵していると、「下におりますよ!」と息をひそませている旅人の下から声がしました。その声は旅人の足元の水面からでした。

    瀬田の唐橋
    『今昔物語』には瀬田の唐橋で起きた奇譚が収められています。
    東国から京に上る途上、瀬田橋辺りに来ると陽が沈み始めたため、旅人はあばら家に宿を借りることにした。世が更けた頃、人もいないのに部屋の隅に置かれた大きな鞍櫃がゴソゴソと音をたてて蓋が持ち上がった。もしや、ここには鬼が居て誰も住まなくなったのか…と恐くなり、這うようにして馬に鞭を置いて逃げ出すと、大きな奇声と共に鬼が恐ろしい形相で旅人を追ってくるではありませんか。これは馬でも逃げ切れそうもないと悟った旅人は、瀬田橋の袂で馬を降り、橋下の柱の陰に身を潜めてやり過ごそうとしました。どうか助かりますようにと祈る旅人の頭の上で鬼が「どこにいる!」と何度も叫んでいます。やがて上手く隠れられたと安堵していると、「下におりますよ!」と息をひそませている旅人の下から声がしました。その声は旅人の足元の水面からでした。

  • 瀬田の唐橋<br />瀬田橋は『平家物語』や『十六夜日記』などの東海道下りの文学に登場します。また、芭蕉は「五月雨に かくれぬものや 勢多の橋」と詠んでいます。更に、「急がば回れ」という諺は、室町時代の連歌師 柴屋軒宗長の短歌「もののふの 矢橋(やばせ)の船は 速けれど 急がば回れ 瀬田の長橋」に由来します。かつて東海道にて京都へ行くには、近道となる「矢橋海路」よりも距離的に遠回りな瀬田唐橋を選ぶ方が安全で確実でした。それは琵琶湖に吹き降ろす「比叡おろし」がなせる業です。その確実性をもって、遠回りする方が吉という意味合いから諺が生まれました。<br />橋が架けられた年代は不詳ですが、橋脚の木材の年輪年代測定により7世紀中~末期とされ、近江 大津宮遷都の時代と推定されています。尚、橋を現在地に移して架け直したのが織田信長で、瀬田城主 山岡景隆が架橋奉行を務め、この時に現在見られる中洲を挟んだ大橋と小橋の形式になりました。その唐橋が焼け落とされたのは「本能寺の変」の時でした。信長を討った明智光秀が安土城に籠城しようとしたため、景隆は唐橋と瀬田城を焼いて阻止しました。その後、橋は光秀によって修復されますが、こうした妨害行為により安土進行が数日遅れ、新政権整備の時間が無くなったことで天下取りになれなかったと伝わります。

    瀬田の唐橋
    瀬田橋は『平家物語』や『十六夜日記』などの東海道下りの文学に登場します。また、芭蕉は「五月雨に かくれぬものや 勢多の橋」と詠んでいます。更に、「急がば回れ」という諺は、室町時代の連歌師 柴屋軒宗長の短歌「もののふの 矢橋(やばせ)の船は 速けれど 急がば回れ 瀬田の長橋」に由来します。かつて東海道にて京都へ行くには、近道となる「矢橋海路」よりも距離的に遠回りな瀬田唐橋を選ぶ方が安全で確実でした。それは琵琶湖に吹き降ろす「比叡おろし」がなせる業です。その確実性をもって、遠回りする方が吉という意味合いから諺が生まれました。
    橋が架けられた年代は不詳ですが、橋脚の木材の年輪年代測定により7世紀中~末期とされ、近江 大津宮遷都の時代と推定されています。尚、橋を現在地に移して架け直したのが織田信長で、瀬田城主 山岡景隆が架橋奉行を務め、この時に現在見られる中洲を挟んだ大橋と小橋の形式になりました。その唐橋が焼け落とされたのは「本能寺の変」の時でした。信長を討った明智光秀が安土城に籠城しようとしたため、景隆は唐橋と瀬田城を焼いて阻止しました。その後、橋は光秀によって修復されますが、こうした妨害行為により安土進行が数日遅れ、新政権整備の時間が無くなったことで天下取りになれなかったと伝わります。

  • 瀬田の唐橋<br />北側に架かるのは国道1号線の「瀬田川大橋」、その先がJR東海道線のアーチ橋です。その遥か先には奥比良山系が冠雪しています。<br />国道1号線で思い出すのは、大学生の時にロード・ワンデリングと称して大学のある三重県津市上浜町から京都三条大橋まで約100kmを1昼夜(22時間)で踏破したことです。ワンダーフォーゲル部の有志4人が意気投合したのですが、あの頃は「おバカ」をしてたなとつくづく思います。有り余るエネルギーを何かにぶつけなければという強迫観念にも似た衝動行為だったと記憶しています。しかし、あの時にしかできなかった貴重な体験だったと、今では懐かしくさえ思います。<br />午前9時に大学をスタートし、鈴鹿峠を越え、関から国道1号線に入り、三条大橋に辿り着いたのが翌朝の午前7時。休憩後、歩き始める時の自分の足でないようなぎこちない感覚と激痛はその後の人生で体験したことのないものでした。

    瀬田の唐橋
    北側に架かるのは国道1号線の「瀬田川大橋」、その先がJR東海道線のアーチ橋です。その遥か先には奥比良山系が冠雪しています。
    国道1号線で思い出すのは、大学生の時にロード・ワンデリングと称して大学のある三重県津市上浜町から京都三条大橋まで約100kmを1昼夜(22時間)で踏破したことです。ワンダーフォーゲル部の有志4人が意気投合したのですが、あの頃は「おバカ」をしてたなとつくづく思います。有り余るエネルギーを何かにぶつけなければという強迫観念にも似た衝動行為だったと記憶しています。しかし、あの時にしかできなかった貴重な体験だったと、今では懐かしくさえ思います。
    午前9時に大学をスタートし、鈴鹿峠を越え、関から国道1号線に入り、三条大橋に辿り着いたのが翌朝の午前7時。休憩後、歩き始める時の自分の足でないようなぎこちない感覚と激痛はその後の人生で体験したことのないものでした。

  • 瀬田の唐橋<br />欄干の擬宝珠は代々引き継がれているそうですが、こちらは1979(昭和54)年に架け替えられた時に新たに制作されたもののようです。<br />『御伽草子』の「伏屋の物語」にも瀬田の唐橋が登場します。<br />にほひの姫君は7歳で母を失った。継母は姫君の死を願い、姫君は14歳の時、継母から依頼された武士の手によって琵琶湖に沈められた。しかし亡母の霊が亀と化して現れ、姫君を甲羅に乗せて無事に瀬田の橋まで運びました。その後、姫君は少将(後に関白)と結ばれ、北の政所と呼ばれ男児3人女児1人を授かりました。継母は手を合わせて姫君に詫びたそうです。<br />『石山寺縁起絵巻』第5巻第3段にも瀬田川に因む霊験譚があります。<br />ある年のこと、東国の人が訴訟のため京都に上った。裁判に勝ち院宣を手にした帰途、瀬田の唐橋に差し掛かった時、川の色のよさに供の下人が見とれて大事な院宣を川に落としてしまった。巻物は、あれよあれよという間に浮き沈みしながら流れ去ってしまった。悲壮な思いの東国人たちが石山寺に参籠して観音さまのお告げを願ったところ、その夜、観音さまが夢に現れ、「宇治川の漁師に尋ねよ」と告げられた。<br />夜が明け一行が宇治川を下って魚市場に駆け参じると、珍しく大きな鯉が捕れたと人だかりができている。東国人がその鯉を買い求めて腹を裂くと、胃袋の中から院宣が無事に出てきたという。

    瀬田の唐橋
    欄干の擬宝珠は代々引き継がれているそうですが、こちらは1979(昭和54)年に架け替えられた時に新たに制作されたもののようです。
    『御伽草子』の「伏屋の物語」にも瀬田の唐橋が登場します。
    にほひの姫君は7歳で母を失った。継母は姫君の死を願い、姫君は14歳の時、継母から依頼された武士の手によって琵琶湖に沈められた。しかし亡母の霊が亀と化して現れ、姫君を甲羅に乗せて無事に瀬田の橋まで運びました。その後、姫君は少将(後に関白)と結ばれ、北の政所と呼ばれ男児3人女児1人を授かりました。継母は手を合わせて姫君に詫びたそうです。
    『石山寺縁起絵巻』第5巻第3段にも瀬田川に因む霊験譚があります。
    ある年のこと、東国の人が訴訟のため京都に上った。裁判に勝ち院宣を手にした帰途、瀬田の唐橋に差し掛かった時、川の色のよさに供の下人が見とれて大事な院宣を川に落としてしまった。巻物は、あれよあれよという間に浮き沈みしながら流れ去ってしまった。悲壮な思いの東国人たちが石山寺に参籠して観音さまのお告げを願ったところ、その夜、観音さまが夢に現れ、「宇治川の漁師に尋ねよ」と告げられた。
    夜が明け一行が宇治川を下って魚市場に駆け参じると、珍しく大きな鯉が捕れたと人だかりができている。東国人がその鯉を買い求めて腹を裂くと、胃袋の中から院宣が無事に出てきたという。

  • 『藤原秀郷の百足退治』勝川春亭画(1818~20年頃)<br />瀬田の唐橋にはムカデ退治の伝説があり、南北朝時代から伝わる『御伽草子』の「俵藤太物語」には次のようにあります。<br />ある日、藤原北家の流れを汲む平安時代中期の武将 藤原秀郷(俵藤太)が瀬田橋を渡ろうとすると、そこに大蛇が横たわっていた。人々は恐れて通れずにいたが、豪胆な秀郷は大蛇を踏み付けて渡った。するとその晩、秀郷の宿を若い女が訪ねて来て、「私は琵琶湖に棲む龍神の一族で、大蛇に化けてあなたのような勇敢な武将を探していました。実は、川底の魚を食い散らす三上山の大ムカデに困っています。どうか討ち取ってもらえないでしょうか?」と懇願するのだった。<br />夕暮れになると三上山を7巻半する巨大ムカデが下りてきた。弓の名手 秀郷が1矢、2矢と放つも矢はムカデの鱗に弾かれた。それでも恐れることなく、「ムカデは人のツバキを嫌う」と言いながら3射目の矢尻を舌で舐め、南無八幡大菩薩と唱えて矢を放った。すると矢はムカデの左眼を射抜き、討ち果たすことができた。<br />ムカデ退治のお礼にと龍神の乙姫から金銀財宝や俵を貰ったことから、以後「俵藤太」と呼ばれるようになり、礼品のひとつの釣鐘を三井寺に寄進したものが「三井の晩鐘」と伝わります。また、秀郷が所用したと伝わる太刀「蜈蚣切(むかできり)」は伊勢神宮に奉納されています。<br />この伝説には、三上山を拠点に製鉄業を営んでいた「山の民」を屈服させた背景が垣間見られます。三上山は古くから鉄や銅などの鉱脈が走る地とされ、山師の間では鉄の鉱脈を黒百足、銅の鉱脈を赤百足と呼ばれました。また、「?射る」は「鋳る」に通じるとの考察もあり、ムカデは鍛冶神「クベーラ=毘沙門天」の使者や鉱山の神ともされます。更には、製鉄や鋳造時には環境有害物質が排出されるため、その点もムカデの持つ毒のイメージと重なったと窺えます。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://bijutsutecho.com/magazine/news/exhibition/24698/pictures/4

    『藤原秀郷の百足退治』勝川春亭画(1818~20年頃)
    瀬田の唐橋にはムカデ退治の伝説があり、南北朝時代から伝わる『御伽草子』の「俵藤太物語」には次のようにあります。
    ある日、藤原北家の流れを汲む平安時代中期の武将 藤原秀郷(俵藤太)が瀬田橋を渡ろうとすると、そこに大蛇が横たわっていた。人々は恐れて通れずにいたが、豪胆な秀郷は大蛇を踏み付けて渡った。するとその晩、秀郷の宿を若い女が訪ねて来て、「私は琵琶湖に棲む龍神の一族で、大蛇に化けてあなたのような勇敢な武将を探していました。実は、川底の魚を食い散らす三上山の大ムカデに困っています。どうか討ち取ってもらえないでしょうか?」と懇願するのだった。
    夕暮れになると三上山を7巻半する巨大ムカデが下りてきた。弓の名手 秀郷が1矢、2矢と放つも矢はムカデの鱗に弾かれた。それでも恐れることなく、「ムカデは人のツバキを嫌う」と言いながら3射目の矢尻を舌で舐め、南無八幡大菩薩と唱えて矢を放った。すると矢はムカデの左眼を射抜き、討ち果たすことができた。
    ムカデ退治のお礼にと龍神の乙姫から金銀財宝や俵を貰ったことから、以後「俵藤太」と呼ばれるようになり、礼品のひとつの釣鐘を三井寺に寄進したものが「三井の晩鐘」と伝わります。また、秀郷が所用したと伝わる太刀「蜈蚣切(むかできり)」は伊勢神宮に奉納されています。
    この伝説には、三上山を拠点に製鉄業を営んでいた「山の民」を屈服させた背景が垣間見られます。三上山は古くから鉄や銅などの鉱脈が走る地とされ、山師の間では鉄の鉱脈を黒百足、銅の鉱脈を赤百足と呼ばれました。また、「?射る」は「鋳る」に通じるとの考察もあり、ムカデは鍛冶神「クベーラ=毘沙門天」の使者や鉱山の神ともされます。更には、製鉄や鋳造時には環境有害物質が排出されるため、その点もムカデの持つ毒のイメージと重なったと窺えます。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://bijutsutecho.com/magazine/news/exhibition/24698/pictures/4

  • 『湖水渡りの図』歌川国久(1866年)<br />俗にいう「明智光秀の三日天下」の謎を解き明かす古文書が2020年に石山寺の塔頭 法輪院の蔵から発見されました。文書整理をしていた鷲尾遍隆 石山寺座主が鷲尾龍華 法輪院住職と共に見つけたそうです。石山寺の塔頭 世尊院の僧侶も務めた山岡家の由緒や系図を纏めた『山岡景以(かげこれ)舎系図』がそれです。景以は瀬田城城主 山岡景隆の7男。豊臣秀次の側近となるも、秀次の自害後は秀吉に仕えました。1592(文禄元)年、秀吉の家臣時代に書き記し、やがて徳川家光の命で幕府主導により編纂された『寛永諸家系図伝』の史料として書写されたものです。<br />そこには、本能寺の変の直後、明智軍と織田軍が琵琶湖の湖上で「船戦」をしたと記されています。明智軍を率いたのは明智秀満(左馬助)。瀬田城城主だった父 山岡景隆の活躍を記録した箇所に、秀満は「弥平次」の名で登場します。<br />坂本城への道を塞がれ、大津の打出浜から愛馬に跨ったまま柳ヶ崎まで琵琶湖を泳ぎ渡り、坂本城ヘ帰還したという「湖水渡り」の武勇伝で知られる秀満ですが、関連史料は少なく貴重な発見となりました。秀満は光秀の女婿や従兄弟との説があり、「明智五宿老」と呼ばれた重臣のひとりです。本能寺の変では先陣となり、光秀が羽柴秀吉に敗れた「天下分け目」の山崎の合戦後、光秀の居城 坂本城で自害したと伝わります。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.touken-world-ukiyoe.jp/mushae/art0014100/

    『湖水渡りの図』歌川国久(1866年)
    俗にいう「明智光秀の三日天下」の謎を解き明かす古文書が2020年に石山寺の塔頭 法輪院の蔵から発見されました。文書整理をしていた鷲尾遍隆 石山寺座主が鷲尾龍華 法輪院住職と共に見つけたそうです。石山寺の塔頭 世尊院の僧侶も務めた山岡家の由緒や系図を纏めた『山岡景以(かげこれ)舎系図』がそれです。景以は瀬田城城主 山岡景隆の7男。豊臣秀次の側近となるも、秀次の自害後は秀吉に仕えました。1592(文禄元)年、秀吉の家臣時代に書き記し、やがて徳川家光の命で幕府主導により編纂された『寛永諸家系図伝』の史料として書写されたものです。
    そこには、本能寺の変の直後、明智軍と織田軍が琵琶湖の湖上で「船戦」をしたと記されています。明智軍を率いたのは明智秀満(左馬助)。瀬田城城主だった父 山岡景隆の活躍を記録した箇所に、秀満は「弥平次」の名で登場します。
    坂本城への道を塞がれ、大津の打出浜から愛馬に跨ったまま柳ヶ崎まで琵琶湖を泳ぎ渡り、坂本城ヘ帰還したという「湖水渡り」の武勇伝で知られる秀満ですが、関連史料は少なく貴重な発見となりました。秀満は光秀の女婿や従兄弟との説があり、「明智五宿老」と呼ばれた重臣のひとりです。本能寺の変では先陣となり、光秀が羽柴秀吉に敗れた「天下分け目」の山崎の合戦後、光秀の居城 坂本城で自害したと伝わります。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.touken-world-ukiyoe.jp/mushae/art0014100/

  • 『山岡景以舎系図』<br />要約すると、「1582年6月、本能寺の変で信長を討った後、安土城に向かう明智軍に対し、山岡景隆が瀬田橋を焼いて陸上ルートを遮断。その時、明智水軍を率いて水上ルートから船に乗って強行突破を試みたのが明智弥平次、つまり秀満でした。しかし湖上で船戦となるも山岡水軍が秀満の家来らを打ち負かし、湖上からの進軍も阻んだ」と記されています。<br />景隆が瀬田橋を焼いて進軍を阻止したことは『信長公記』に記されていますが、明智軍を秀満が率いたことや船合戦になったとの記録はこれが初見です。<br />さて、何故この「船戦」が光秀の「三日天下」の要因となったのでしょうか?<br />信長を討った後、光秀は信長の居城 安土城に籠城して天下布武を号令する計画でした。そうしなければ、朝廷も世間も光秀を「ポスト信長」と認めないからです。しかし、対岸の安土城へ向かうには瀬田川に唯一架られた瀬田橋を渡らねばなりません。ところが、山岡景隆は信長への忠義を守って橋を焼き落とし、光秀の進軍を阻みました。この時、光秀の長男 光慶は景隆の妹を嫁に迎える矢先であったとの説もあり、景隆の裏切り行為は光秀には「青天の霹靂」だったことでしょう。<br />光秀は直ぐに橋の補修を命じるも、3日のロスが生じ、安土入城は6月5日になりました。翌6日、羽柴秀吉は素早く陣払いし、備中高松城から「中国大返し」を始めました。結果としてこの3日の停滞がその後重くのしかかりました。細川忠興(娘婿)ですら安土入城に手間取った舅を「ポスト信長」とは認めず、また周囲の武将を説得する時間もなくなり、やがて見放されて孤立無援となったのです。<br />古文書によると、明智氏も山岡氏も共に水軍を擁していたようです。しかし次善の策で進めた海上ルートでも山岡水軍に阻まれて安土へ兵を送ることが叶わず、橋の修復をひたすら待つしか手がなかったのです。もしこの船合戦で明智水軍が勝利していたら、歴史は大きく変わっていたかもしれません。皮肉にも光秀には「急がば回れ」は仇となってしまったようです。<br />尚、秀満の「湖水渡り」の武勇伝もこの船合戦の様子が伝説に繋がったとも考えられます。一つの古文書の発見により様々な可能性が浮上してくるのが歴史の醍醐味と言えます。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.asahi.com/articles/ASN666Q81N62PTJB00B.html

    『山岡景以舎系図』
    要約すると、「1582年6月、本能寺の変で信長を討った後、安土城に向かう明智軍に対し、山岡景隆が瀬田橋を焼いて陸上ルートを遮断。その時、明智水軍を率いて水上ルートから船に乗って強行突破を試みたのが明智弥平次、つまり秀満でした。しかし湖上で船戦となるも山岡水軍が秀満の家来らを打ち負かし、湖上からの進軍も阻んだ」と記されています。
    景隆が瀬田橋を焼いて進軍を阻止したことは『信長公記』に記されていますが、明智軍を秀満が率いたことや船合戦になったとの記録はこれが初見です。
    さて、何故この「船戦」が光秀の「三日天下」の要因となったのでしょうか?
    信長を討った後、光秀は信長の居城 安土城に籠城して天下布武を号令する計画でした。そうしなければ、朝廷も世間も光秀を「ポスト信長」と認めないからです。しかし、対岸の安土城へ向かうには瀬田川に唯一架られた瀬田橋を渡らねばなりません。ところが、山岡景隆は信長への忠義を守って橋を焼き落とし、光秀の進軍を阻みました。この時、光秀の長男 光慶は景隆の妹を嫁に迎える矢先であったとの説もあり、景隆の裏切り行為は光秀には「青天の霹靂」だったことでしょう。
    光秀は直ぐに橋の補修を命じるも、3日のロスが生じ、安土入城は6月5日になりました。翌6日、羽柴秀吉は素早く陣払いし、備中高松城から「中国大返し」を始めました。結果としてこの3日の停滞がその後重くのしかかりました。細川忠興(娘婿)ですら安土入城に手間取った舅を「ポスト信長」とは認めず、また周囲の武将を説得する時間もなくなり、やがて見放されて孤立無援となったのです。
    古文書によると、明智氏も山岡氏も共に水軍を擁していたようです。しかし次善の策で進めた海上ルートでも山岡水軍に阻まれて安土へ兵を送ることが叶わず、橋の修復をひたすら待つしか手がなかったのです。もしこの船合戦で明智水軍が勝利していたら、歴史は大きく変わっていたかもしれません。皮肉にも光秀には「急がば回れ」は仇となってしまったようです。
    尚、秀満の「湖水渡り」の武勇伝もこの船合戦の様子が伝説に繋がったとも考えられます。一つの古文書の発見により様々な可能性が浮上してくるのが歴史の醍醐味と言えます。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.asahi.com/articles/ASN666Q81N62PTJB00B.html

  • 京阪 唐橋前駅<br />次に目指すのは小高い丘に建つ「住友活機園」です。<br />駅のホームから眺めるとこんな感じで洋館が見られます。<br />

    京阪 唐橋前駅
    次に目指すのは小高い丘に建つ「住友活機園」です。
    駅のホームから眺めるとこんな感じで洋館が見られます。

  • 京阪 唐橋前駅<br />ズームアップするとこんな感じになります。<br />玄関のある正面は南向きですので、ここからは裏(北)面を見ていることになります。<br />また、手前の屋根が邪魔して2階建ての2階部分しか見ることはできません。

    京阪 唐橋前駅
    ズームアップするとこんな感じになります。
    玄関のある正面は南向きですので、ここからは裏(北)面を見ていることになります。
    また、手前の屋根が邪魔して2階建ての2階部分しか見ることはできません。

  • 鳥居川御霊神社<br />社務所の上にチョコンと「住友活機園」の洋館が顔を出しています。

    鳥居川御霊神社
    社務所の上にチョコンと「住友活機園」の洋館が顔を出しています。

  • 鳥居川御霊神社<br />ここから眺めると屋根の棟に並んだ「猪の目」瓦がはっきりと判ります。<br />空洞部がハートの形をしています。<br />因みに瓦は全て「京瓦」を用いており、京都深草の寺本甚兵衛製だそうです。<br />その左右にある突起物は避雷針と思われます。

    鳥居川御霊神社
    ここから眺めると屋根の棟に並んだ「猪の目」瓦がはっきりと判ります。
    空洞部がハートの形をしています。
    因みに瓦は全て「京瓦」を用いており、京都深草の寺本甚兵衛製だそうです。
    その左右にある突起物は避雷針と思われます。

  • 鳥居川御霊神社<br />期せずして住友活機園を眺められる場所を求めて鳥居川御霊神社へと迷い込んでしまいました。ふと見ると、拝殿・本殿への石段の左にある二の鳥居には「大友宮」と記された扁額が懸けられています。<br />鳥居川御霊神社の創祀年代と由緒は不詳ですが、社伝によると、壬申の乱最後の決戦場となった「勢多橋の戦い」で敗れた大友皇子(弘文天皇)が自害した場所とされ、皇子の子である大友与多王によって乱の3年後の675(白鳳4)年に大友宮または御霊宮が創建されたと伝えます。それ故、祭神は弘文天皇です。<br />因みに、この地で傷の手当てをしただけで、志賀の都が遠望できる粟津の茶臼山こそが崩御された場所だとの説もあります。尚、大津市には「御霊神社」が3社あり、ここ以外に北大路1丁目と大江6丁目にあります。また、「園城寺旅行記」にも記した通り、弘文天皇御陵は園城寺近くの皇子山にあります。<br />数多の戦いの舞台となった瀬田の唐橋近くに鎮座するため、幾度も戦火に見舞われており、創建に関する古文書は残されていません。大津宮で即位したと推測されるが明証がないため歴代天皇に加えられなかった大友皇子でしたが、1870(明治3)年に弘文天皇と追諡されました。また、御陵選定地の候補地に挙げられたことから膳所藩の崇敬を受け神領田を寄進されており、本殿や境内社 奥神社前の高麗門等は膳所藩の寄進や旧膳所城本丸黒門を移築しており、膳所藩との強い結び付きがあります。因みに与多王は、紹運録(1426年)の天皇家系図に大友皇子の子として記載されている人物です。

    鳥居川御霊神社
    期せずして住友活機園を眺められる場所を求めて鳥居川御霊神社へと迷い込んでしまいました。ふと見ると、拝殿・本殿への石段の左にある二の鳥居には「大友宮」と記された扁額が懸けられています。
    鳥居川御霊神社の創祀年代と由緒は不詳ですが、社伝によると、壬申の乱最後の決戦場となった「勢多橋の戦い」で敗れた大友皇子(弘文天皇)が自害した場所とされ、皇子の子である大友与多王によって乱の3年後の675(白鳳4)年に大友宮または御霊宮が創建されたと伝えます。それ故、祭神は弘文天皇です。
    因みに、この地で傷の手当てをしただけで、志賀の都が遠望できる粟津の茶臼山こそが崩御された場所だとの説もあります。尚、大津市には「御霊神社」が3社あり、ここ以外に北大路1丁目と大江6丁目にあります。また、「園城寺旅行記」にも記した通り、弘文天皇御陵は園城寺近くの皇子山にあります。
    数多の戦いの舞台となった瀬田の唐橋近くに鎮座するため、幾度も戦火に見舞われており、創建に関する古文書は残されていません。大津宮で即位したと推測されるが明証がないため歴代天皇に加えられなかった大友皇子でしたが、1870(明治3)年に弘文天皇と追諡されました。また、御陵選定地の候補地に挙げられたことから膳所藩の崇敬を受け神領田を寄進されており、本殿や境内社 奥神社前の高麗門等は膳所藩の寄進や旧膳所城本丸黒門を移築しており、膳所藩との強い結び付きがあります。因みに与多王は、紹運録(1426年)の天皇家系図に大友皇子の子として記載されている人物です。

  • 鳥居川御霊神社<br />二の鳥居の背後には膳所城より移築された立派な高麗門があり、本殿脇門となっています。<br />好事家の間で有名なのは、この膳所城の移築城門として残った膳所城本丸黒門です。明治時代の廃城令により、この地に移築されたものです。<br />高麗門とは、2本の本柱の上に切妻の屋根を架け、背後の控え柱の上にもそれと直交する小屋根を架ける形式の門で、城や役所などの権威的建築によく用いられました。

    鳥居川御霊神社
    二の鳥居の背後には膳所城より移築された立派な高麗門があり、本殿脇門となっています。
    好事家の間で有名なのは、この膳所城の移築城門として残った膳所城本丸黒門です。明治時代の廃城令により、この地に移築されたものです。
    高麗門とは、2本の本柱の上に切妻の屋根を架け、背後の控え柱の上にもそれと直交する小屋根を架ける形式の門で、城や役所などの権威的建築によく用いられました。

  • 鳥居川御霊神社<br />この小祠が末社 奥神社でしょうか?<br />乱に敗れた大友皇子の足取りを『日本書紀』は「天武元年(672年)7月 、是に大友皇子、走(にげ)て入る所無し。乃ち還りて山前(やまさき)に隠れ、自ら縊(くびくく)る。」と記しています。この「山前」が何処かは不明ですが、鳥居川御霊神社の社伝によると、大友皇子が命を絶った「隠れ山」が御霊神社の裏山であると伝えます。

    鳥居川御霊神社
    この小祠が末社 奥神社でしょうか?
    乱に敗れた大友皇子の足取りを『日本書紀』は「天武元年(672年)7月 、是に大友皇子、走(にげ)て入る所無し。乃ち還りて山前(やまさき)に隠れ、自ら縊(くびくく)る。」と記しています。この「山前」が何処かは不明ですが、鳥居川御霊神社の社伝によると、大友皇子が命を絶った「隠れ山」が御霊神社の裏山であると伝えます。

  • 鳥居川御霊神社<br />期せずして裏山に登った目的は住友活機園のベスト・ビューポイントを探すためです。しかし、大津市指定の保護樹林になっているだけあり、残念ながら樹木の枝が邪魔して満足な写真は撮れません。<br />ただし、西面の屋根には採光用のジェットドーマーが設けられていることが判ります。採光に加え、天井高を確保し、屋根裏空間を大きく広げるのに適したドーマーです。

    鳥居川御霊神社
    期せずして裏山に登った目的は住友活機園のベスト・ビューポイントを探すためです。しかし、大津市指定の保護樹林になっているだけあり、残念ながら樹木の枝が邪魔して満足な写真は撮れません。
    ただし、西面の屋根には採光用のジェットドーマーが設けられていることが判ります。採光に加え、天井高を確保し、屋根裏空間を大きく広げるのに適したドーマーです。

  • 住友活機園(重文)<br />こちらは神社近くの駐車場から撮影したものです。背丈は短くなりますが、ほぼ同程度の写真が撮れます。<br /><br />瀬田川の畔、琵琶湖を遠望する小高い丘の上に鎮座し、洋館・和館など6棟の建屋と茶室、四阿などの付属施設及び庭園で構成されています。1904(明治37)年、近代住友の基礎を築いた第2代総理事 伊庭貞剛(ていごう)翁が隠棲するための住居として一級ものの銘木・良材を選りすぐって建設され、没後にその子孫により旧住友本社に寄付されました。尚、1922年に南西角に新座敷を増築しています。<br />洋館・和館ともに意匠の完成度が高いことと、明治時代後期の大邸宅の姿を今に伝えていることが評価され、2002年に重文の指定を受けています。屋根瓦1枚、ガラス1枚に至るまで竣工当時のままだそうです。<br />因みに「活機」は、翁自身が名付けており、禅宗の思想で「俗世を離れながらも人情の機微に通じる」との意味があります。

    住友活機園(重文)
    こちらは神社近くの駐車場から撮影したものです。背丈は短くなりますが、ほぼ同程度の写真が撮れます。

    瀬田川の畔、琵琶湖を遠望する小高い丘の上に鎮座し、洋館・和館など6棟の建屋と茶室、四阿などの付属施設及び庭園で構成されています。1904(明治37)年、近代住友の基礎を築いた第2代総理事 伊庭貞剛(ていごう)翁が隠棲するための住居として一級ものの銘木・良材を選りすぐって建設され、没後にその子孫により旧住友本社に寄付されました。尚、1922年に南西角に新座敷を増築しています。
    洋館・和館ともに意匠の完成度が高いことと、明治時代後期の大邸宅の姿を今に伝えていることが評価され、2002年に重文の指定を受けています。屋根瓦1枚、ガラス1枚に至るまで竣工当時のままだそうです。
    因みに「活機」は、翁自身が名付けており、禅宗の思想で「俗世を離れながらも人情の機微に通じる」との意味があります。

  • 住友活機園<br />路地を入った所からは、唐橋前駅から見たのとほぼ同じ構図で望めます。<br /><br />自然の森を彷彿とさせる約2500坪にも及ぶ広大な庭に、大阪府立図書館の設計で知られる「野口孫市」の手がけた洋館と、新居浜の旧広瀬邸で知られる伝説の数寄屋の名匠「八木甚兵衛(2代目)」の最高傑作とされる数寄屋風の和館が併立しています。両者にとっても代表作とも評され、その究極のシンプルさは施主と建築家の目指した「美の到達点」とも称されます。活機園を建てる時、貞剛が望んだのは只ひとつ、清楚でありたいという事だったそうです。それ故、近代の建築の見所のひとつでもある「煌びやかな意匠」は控え目に配されており、あくまでも終の住処として日常的に暮らすのを主眼としたシンプルな意匠で統一されています。<br />洋館は、中世以降の北欧州に多く見られる瀟洒なハーフ・ティンバー様式を基調とし、往時の最先端のデザインであるアールヌーヴォー調の意匠と和のテイストを効果的に組合わせて品格を整えています。<br />尚、内部は、階段の勾配や敷居の高さ、サンルーム等に時代を先取りしたバリアフリーの考え方が採用されているそうです。<br />敷地面積は元々は15000坪程あったそうですが、名神高速道路や新幹線などの用地に提供し、現在は約1/7となっています。また、建物の坪単価は1000万円と言われるそうですが、それだけ希少価値のある木材が使っていると言うことのようです。

    住友活機園
    路地を入った所からは、唐橋前駅から見たのとほぼ同じ構図で望めます。

    自然の森を彷彿とさせる約2500坪にも及ぶ広大な庭に、大阪府立図書館の設計で知られる「野口孫市」の手がけた洋館と、新居浜の旧広瀬邸で知られる伝説の数寄屋の名匠「八木甚兵衛(2代目)」の最高傑作とされる数寄屋風の和館が併立しています。両者にとっても代表作とも評され、その究極のシンプルさは施主と建築家の目指した「美の到達点」とも称されます。活機園を建てる時、貞剛が望んだのは只ひとつ、清楚でありたいという事だったそうです。それ故、近代の建築の見所のひとつでもある「煌びやかな意匠」は控え目に配されており、あくまでも終の住処として日常的に暮らすのを主眼としたシンプルな意匠で統一されています。
    洋館は、中世以降の北欧州に多く見られる瀟洒なハーフ・ティンバー様式を基調とし、往時の最先端のデザインであるアールヌーヴォー調の意匠と和のテイストを効果的に組合わせて品格を整えています。
    尚、内部は、階段の勾配や敷居の高さ、サンルーム等に時代を先取りしたバリアフリーの考え方が採用されているそうです。
    敷地面積は元々は15000坪程あったそうですが、名神高速道路や新幹線などの用地に提供し、現在は約1/7となっています。また、建物の坪単価は1000万円と言われるそうですが、それだけ希少価値のある木材が使っていると言うことのようです。

  • 住友活機園<br />直下からは洋館の東面が望めます。<br />樹木で見え難いのですが、洋館東の1階外側は神戸異人館「うろこの館」を彷彿とさせます。これは「木製シングル張り」と言い、通称「ウロコ壁」と呼ばれ、一枚一枚うろこ状のサワラの木板を貼り付けたものです。柿渋を防腐剤として塗装しているため、とても丈夫だそうです。<br />また、洋館2階東面に張り出したバルコニーの欄干の意匠は和風の「卍崩し」を凝らしてます。

    住友活機園
    直下からは洋館の東面が望めます。
    樹木で見え難いのですが、洋館東の1階外側は神戸異人館「うろこの館」を彷彿とさせます。これは「木製シングル張り」と言い、通称「ウロコ壁」と呼ばれ、一枚一枚うろこ状のサワラの木板を貼り付けたものです。柿渋を防腐剤として塗装しているため、とても丈夫だそうです。
    また、洋館2階東面に張り出したバルコニーの欄干の意匠は和風の「卍崩し」を凝らしてます。

  • 住友活機園<br />門前まで来ると古刹を彷彿とさせる風情ある石段が出迎えてくれます。<br />石段のアプローチには「瀬田の虎石」が多用されています。水石界においては、瀬田川石は加茂川石、佐治川石と並び3大銘石とされています。その瀬田川石の中でもとりわけ名高いのが「虎石」です。虎石は、黄色のチャート質と黒の粘板岩質とが交互に重なり、虎柄に見える事からそう呼ばれます。

    住友活機園
    門前まで来ると古刹を彷彿とさせる風情ある石段が出迎えてくれます。
    石段のアプローチには「瀬田の虎石」が多用されています。水石界においては、瀬田川石は加茂川石、佐治川石と並び3大銘石とされています。その瀬田川石の中でもとりわけ名高いのが「虎石」です。虎石は、黄色のチャート質と黒の粘板岩質とが交互に重なり、虎柄に見える事からそう呼ばれます。

  • 住友活機園<br />伊庭貞剛は1847(弘化4)年に近江国西宿村(現 近江八幡市)に生まれました。「旧広瀬邸」の住友初代総理事 広瀬宰平の甥です。剣道道場に通い、勤皇思想を学び、1868(明治元)年には京都御所禁衛隊に属しました。?その後、司法省検事や裁判所判事などを歴任し、33歳で裁判官を辞して宰平の勧めで住友に入社しました。<br />入社してすぐに頭角を現し、やがて住友銀行(現 三井住友銀行)や住友伸銅場(住友金属・重工・軽金属の前身)、別子鉱業所山林課(住友林業の前身)などを設立し、住友グループの礎を築き上げ、1900(明治3)年に宰平の後継として2代目 総理事に就任しました。<br />そして1904年に「事業の進歩発達に最も害するものは、青年の過失ではなくして、老人の跋扈である」と58歳の若さで潔く引退し、終の住処として生まれ故郷の大津 石山の小高い丘の上に造営されたのが住友活機園です。その後、80歳で亡くなるまでこの地で余生を過ごしました。

    住友活機園
    伊庭貞剛は1847(弘化4)年に近江国西宿村(現 近江八幡市)に生まれました。「旧広瀬邸」の住友初代総理事 広瀬宰平の甥です。剣道道場に通い、勤皇思想を学び、1868(明治元)年には京都御所禁衛隊に属しました。?その後、司法省検事や裁判所判事などを歴任し、33歳で裁判官を辞して宰平の勧めで住友に入社しました。
    入社してすぐに頭角を現し、やがて住友銀行(現 三井住友銀行)や住友伸銅場(住友金属・重工・軽金属の前身)、別子鉱業所山林課(住友林業の前身)などを設立し、住友グループの礎を築き上げ、1900(明治3)年に宰平の後継として2代目 総理事に就任しました。
    そして1904年に「事業の進歩発達に最も害するものは、青年の過失ではなくして、老人の跋扈である」と58歳の若さで潔く引退し、終の住処として生まれ故郷の大津 石山の小高い丘の上に造営されたのが住友活機園です。その後、80歳で亡くなるまでこの地で余生を過ごしました。

  • 住友活機園<br />正門は1間棟門で、切妻造、桟瓦葺です。<br />なかなかドラマチックな正門へのアプローチです。

    住友活機園
    正門は1間棟門で、切妻造、桟瓦葺です。
    なかなかドラマチックな正門へのアプローチです。

  • 住友活機園<br />こちらは北西面にある勝手口でしょうか?

    住友活機園
    こちらは北西面にある勝手口でしょうか?

  • 住友活機園<br />勝手口にそれとなく石が置かれていますが、この虎模様は間違いなく「瀬田の虎石」です!

    住友活機園
    勝手口にそれとなく石が置かれていますが、この虎模様は間違いなく「瀬田の虎石」です!

  • 住友活機園<br />大きな蔵が2棟連なっているのが判ります。<br />手前が西蔵、奥が東蔵です。

    住友活機園
    大きな蔵が2棟連なっているのが判ります。
    手前が西蔵、奥が東蔵です。

  • 住友活機園<br />西面にある裏門から撮った写真です。<br />自動車が出入りできる場所がきっとあるはずだと思っていましたが、西側の高台に大きな門があります。<br />

    住友活機園
    西面にある裏門から撮った写真です。
    自動車が出入りできる場所がきっとあるはずだと思っていましたが、西側の高台に大きな門があります。

  • 住友活機園<br />奥が洋館、手前の平屋が和館と新座敷になります。<br />新座敷の庭には「複数の石をセメントで固めた沓脱石(くつぬぎいし)」があるそうです。因みにこれは、京都の名庭師 小川治兵衛(植治)の庭園でよく見られる意匠です。新座敷増築の際に何らかの関わりがあったのかもしれません。<br />と言うのは、貞剛翁が植治を庭園に招いた時の有名なエピソードがあるからです。翁が植治に庭園について意見を求めた際、植治は「100年後・200年後に名庭園の仲間入りをする庭園です」と返したそうです。

    住友活機園
    奥が洋館、手前の平屋が和館と新座敷になります。
    新座敷の庭には「複数の石をセメントで固めた沓脱石(くつぬぎいし)」があるそうです。因みにこれは、京都の名庭師 小川治兵衛(植治)の庭園でよく見られる意匠です。新座敷増築の際に何らかの関わりがあったのかもしれません。
    と言うのは、貞剛翁が植治を庭園に招いた時の有名なエピソードがあるからです。翁が植治に庭園について意見を求めた際、植治は「100年後・200年後に名庭園の仲間入りをする庭園です」と返したそうです。

  • 住友活機園<br />居並ぶ数寄屋構造の屋根の複雑怪奇さには、ただただ脱帽あるのみです。伝説の数寄屋の名匠「八木甚兵衛(2代目)」の最高傑作と言われるだけのことはあります。<br />使われている瓦は京都深草の寺本甚兵衛製です。伏見城築城の折、播州や河内などから召集された瓦職人らが、質の良い粘土がとれる深草の地に窯を開いたことが深草瓦の始まりであり、元禄年間に創業した京瓦の老舗です。<br />因みに「京瓦」の定義は、京都の土地で、京都の粘土を使い、京都で取れる燃料で、そして京都で伝承されてきた技術でつくる瓦です。

    住友活機園
    居並ぶ数寄屋構造の屋根の複雑怪奇さには、ただただ脱帽あるのみです。伝説の数寄屋の名匠「八木甚兵衛(2代目)」の最高傑作と言われるだけのことはあります。
    使われている瓦は京都深草の寺本甚兵衛製です。伏見城築城の折、播州や河内などから召集された瓦職人らが、質の良い粘土がとれる深草の地に窯を開いたことが深草瓦の始まりであり、元禄年間に創業した京瓦の老舗です。
    因みに「京瓦」の定義は、京都の土地で、京都の粘土を使い、京都で取れる燃料で、そして京都で伝承されてきた技術でつくる瓦です。

  • 住友活機園<br />右手に見えるのが1922(大正11)年に増設された新座敷です。

    住友活機園
    右手に見えるのが1922(大正11)年に増設された新座敷です。

  • 住友活機園<br />こちらは茶室の銅板屋根です。<br />住友活機園は、年に1回、特別公開が春に催されます。<br />往復はがきを送っての抽選のようです。<br />詳細は次のサイトの「特別公開のご案内」を参照してください。<br />https://www.sumitomokakkien.com/

    住友活機園
    こちらは茶室の銅板屋根です。
    住友活機園は、年に1回、特別公開が春に催されます。
    往復はがきを送っての抽選のようです。
    詳細は次のサイトの「特別公開のご案内」を参照してください。
    https://www.sumitomokakkien.com/

  • 住友活機園<br />茶室は新座敷と併せて増設されました。 <br />新座敷・茶室共に設計は伊庭貞剛の次男 伊庭簡一が担いました。<br /><br />この続きは、早春賦 近江 石山②石山寺 門前・東大門・塔頭でお届けいたします。

    住友活機園
    茶室は新座敷と併せて増設されました。
    新座敷・茶室共に設計は伊庭貞剛の次男 伊庭簡一が担いました。

    この続きは、早春賦 近江 石山②石山寺 門前・東大門・塔頭でお届けいたします。

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