2023/03/06 - 2023/03/06
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montsaintmichelさん
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随筆家 白洲正子さんが「沢山見た多宝塔の中で、これが一番美しい」と絶賛された多宝塔は、年代が特定できて建立当初の形態を保ったものとしては国内最古とされ、源頼朝が寄進したものと伝わります。
また、その構造美にも注目です。上重は12本の円柱を円形に配してその上に台輪を組んでおり、四隅の軒の張り出しが深くなります。それ故、軒を支えるために放射状に尾垂木を配し、組物は四手先を用いた複雑な構造をなす姿は圧巻です。
更には、多宝塔に祀られている仏像としては異例な「大日如来像」も興味深いものです。頼朝の念持仏とも伝わり、鎌倉時代の仏師 快慶が法橋や法眼の位に就く以前、つまり無位時代の貴重な作品です。
高台に設けられた「月見亭」は、平安時代後期に後白河上皇の行幸の際、月見を敢行するために建立された「玉座」です。ここからは浮世絵師 歌川広重が描いた名所絵『石山秋月』と同じアングルでの眺望ができます。
本堂にある「源氏の間」の余韻に浸ることで、『源氏物語』や往時の女性の活躍の場などについてあれこれ考える機会を与えてもらえました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- JRローカル 私鉄
-
石山寺公式HPの「境内ご案内」にある絵地図です。
https://www.ishiyamadera.or.jp/guide/precincts
石山寺は多くの平安文学作品に登場します。 参籠した女流作家の共通点は、観光目的ではなく、観音さまに悩みを打ち明け、「夢告」を得るために来ていたことです。
随筆『枕草子』208段は「寺は壺坂…」で始まり、「笠置、法輪、霊山」といった名に続き「石山」を登場させます。また、藤原道綱母も970(天禄元)年に参籠しました。夫の浮気に嫌気がさした経緯が『蜻蛉日記』に吐露されています。『和泉式部日記』15段にも「つれづれもなぐさめむとて、石山に詣でて」とあり、敦道親王との関係が上手くいかず、虚しい気持を慰めるために参籠した様子を描写しています。
更に、菅原孝標女も『更級日記』に、1045(寛徳2)年の38歳の時、後世の往生を願うために参詣したと記しています。9歳の時に父と共に任国 上総国に赴き、13歳で帰京するところから「日記」は始まり、その後の40年を回顧しています。美濃から東近江へ、そして石山寺の麓を通り、逢坂関を越えて京に至りました。「谷川の 流れは雨と 聞こゆれど ほかよりけなる 有明の月」は42歳の頃に石山寺へ再び参籠した折に詠んだ歌です。
加えて、歴史物語『栄花物語』にも東三条院 藤原詮子の石山詣が記されています。詮子は、石山寺がお気に入りで秋季だけでも3度訪れており、この時期までは外出できるほどの病状だったことが窺えます。1001(長保3)年秋の参詣では「藤原摂関家の女主として、まだ倒れるわけにはいかない」と気丈に振舞うも、その冬に40歳で崩御しています。 -
三十八所権現社(重文)
経蔵の近くにひっそりと鎮まる、カールした流造屋根のフォルムが美しい檜皮葺の鎮守社です。このような岩山の上によくぞ建てたものだとつくづく感心させられます。
鳥居もこのように崖の中腹に建てられています。当然ながら、潜るのは困難です。鳥居の直下には蓮如堂が佇みます。
石山寺が観音の慈悲にすがって悩みや苦しさから救われたいと欲する平安貴族の女人を引き付けた理由は、僧兵が幅を利かせる有力寺院と違い、たおやかな印象に魅せられたからとされます。その象徴こそが如意輪観世音菩薩の存在です。
また、女人禁制ではなく、内陣には入れなくても相の間や外陣には入れたため、安心して泊まれたからです。
更には、女性の脚でも京都から舟を併せて1日あれば辿り着けるという地の利もそれに加担したようです。つまり、三拍子揃っていた訳です。 -
三十八所権現社
淀殿による慶長期の境内復興の際に石山寺の鎮守社として創建され、明治時代以前は社の直下にある蓮如堂が拝殿の役割を果たすなど神仏習合の名残が見られます。日本古来の神々と初代 神武天皇から38代 天智天皇までの歴代天皇を祀ることから、一間の間口が通常より広いのが特徴です。
醍醐寺第80代座主 義演の『義演准后日記』には「1602(慶長7)年に落慶供養を行った」と記されています。向拝付の一間社流造、内陣を素木とし、外陣と外観を極彩色で彩った桃山時代様式の神社本殿建築の遺構です。妻入、その突き当りの妻面を壁として閉鎖的空間を構成し、更に本殿側の一間通りを広縁として礼拝空間を構築したのが特徴です。三方に刎高欄付の榑縁(くれえん=縁側)を巡らせ、正面の庇の下に木階7級と浜床を張っています。また、妻飾りを虹梁大瓶束とするなど禅宗様を祈衷した建物でもあり、一部に装飾の極彩色の痕跡も見られます。
古代の磐座信仰を鑑みれば、かつてこの祭祀場に祀られていたのは八百万の神々だったことでしょう。 -
石山寺硅灰石
1922(大正11)年に石山寺の硅灰石が国の天然記念物に指定された理由は、自然科学的にも地表に露出することが極めて稀なホルンフェルスであり、また川畔の平坦地でありながら層状をなして大きく褶曲しているためです。「日本の地質百選」にも選定されています。
こうした地質は侵食され難いため小高い岩山として残り、更に湧水が出れば人々が集まるのは道理です。「ブラタモリ #102 京都 東山編」でも、地表の侵食でホルンフェルス層が頭を出し、侵食され易い花崗岩層が凹んだ結果、残ったのが比叡山と大文字山という説明でした。
因みに、湖東カルデラと呼ばれるコールドロンの存在が知られており、これは約1億年前の阿蘇山と同等あるいはそれ以上の規模の火山が1300mほど陥没して形成されたものです。外輪山は比良山地(釈迦岳以南)~比叡山~大文字山~湖南アルプス~金勝アルプスと比定され、石山寺硅灰石はそのカルデラに位置し、2億数千年前に海底に堆積した古生層の砂岩などが隆起したホルンフェルスとされます。 -
経蔵(重文)
本堂から少し坂道を上った小高い場所に佇み、本堂と同じく硅灰石の岩盤の上に建てられた、切妻造、桟瓦葺、高床式の建物です。
切妻造の高床校倉様式は全国でも類例が少ないそうです。
因みに、正倉院の屋根は寄棟造、唐招提寺の経蔵も寄棟造です。 -
経蔵
頭貫木鼻の意匠や桁、垂木の反り増しから16世紀後期(桃山時代)の建立と比定され、滋賀県最古の校倉造(断面が三角形の横材を組み上げた建築様式)建造物とされます。類例の少ない切妻造の校倉造様式であることから、重文に指定されています。
仏教の経典を納める建物で、かつては『淳祐内供筆聖教(国宝)』や『石山寺一切経』、『校倉聖教』など重要な経典が納められていました。60巻にも及ぶ『淳祐内供筆聖教』は、淳祐が高野山奥ノ院の弘法大師の御廟に赴き、入定された大師の膝に触れたところ、その香気が手に移り、その手で書写した聖教類にも香気が残ったことから『薫聖教』とも呼ばれています。 -
経蔵「安産 腰掛石」
硅灰石が露出している岩盤上に礎石を置いて束柱を立てていますが、一部は硅灰石に直接柱を建てています。床下の岩石は一部が腰掛けられるように窪んでおり、「安産 腰掛石」と呼ばれています。座布団が置かれ、座りながら経蔵の束柱を抱くと安産のご利益を授かるそうです。束柱には腹帯らしきものも巻かれています。
しかし安産祈願の聖地に何故経蔵を建てたのか、釈然としません。しかも高床のため丁度良い塩梅に座れます。往時の時代背景を鑑みると、政治を牛耳る藤原氏「神道」の象徴『日本書紀』に対峙するのが、物部氏「仏教」の『経典』でした。石山寺が反藤原氏の筆頭 聖武天皇の息のかかった拠点であったことから鑑みると、弘法大師とも強く繋がった『経典』が焼き討ちの標的になるのは必然です。故に安産祈願は後付であり、日夜、経典を守る番人が座した場所だったと考えると腑に落ちます。つまり「経典=赤子」と見做し、それらを守護したと考えるのは早計でしょうか!? -
宝篋印塔
経蔵の西側にも2基の宝篋印塔がありますが、詳細は不詳です。 -
紫式部供養塔(三重宝篋印塔:重要美術品)
経蔵の右側には宝篋印塔の笠を3つ重ねた珍しい形をした花崗岩製の層塔があります。初層軸部の4面に舟形を彫り仏像を半肉彫りし、失われた相輪の代わりに五輪塔の空輪と風輪を載せています。
塔高は2.6mあり、無銘ですが様式から鎌倉時代中期の作と比定されています。上層軸部が彫り出されていることから単なる寄せ集めの塔ではなく、国の重要美術品に認定されています。 -
紫式部供養塔
初層軸部は風化で面相や印相ははっきりしませんが、定印の阿弥陀に加え薬壺を持つ薬師があるため顕教四仏と思われます。
初層 正面:阿弥陀如来、左面:弥勒菩薩、背面:薬師如来、右面:釈迦如来。
また、伏鉢が笠石と一石彫成になっているのは珍しい手法です。
紫式部については、「『源氏物語』のような大作を一女性が書けるはずがなく、観音さまが式部に憑依した」という観音菩薩説や「人を惑わせた罪で地獄に堕ちた式部を救済する」という堕落説が根強かったことから、式部供養塔や五輪塔、式部救済供養塔の類いは全国津々浦々に存在します。ただし、「式部救済供養塔」は「小野篁供養塔」とセットであるのが基本ですので、その部類ではないのは確かです。 -
芭蕉の句碑
紫式部供養塔の右横にある円柱石は1849(嘉永2)年建立の「芭蕉の句碑」です。
「あけぼのは まだむらさきに ほととぎす」
この句には「勢田に泊りて、暁石山寺に詣で、かの源氏の間を見て」との前詞を添えています。『源氏物語』の紫式部を念頭に置き、『枕草子』の冒頭にある「春は曙・・・紫だちたる雲の細くたなびきたる」を踏まえた句とされます。また、『芭蕉句選拾遺』には「あけぼのや まだ朔日に ほとゝぎす」との句もあります。
因みに『淡海の芭蕉句碑(下)』によると、碑の筆は江戸時代後期の俳人 桜井梅室であり、碑文から信州筑摩郡の俳人 松風斎梅朗による建立としています。石山寺HPには「松岡斎」と記されていますが、「風」を「岡」と読み違えたものと窺えます。梅朗は梅室の門人であり、両者ともに芭蕉の顕彰碑を随所に建立されています。梅朗の句には「姨捨や 月に見らるゝ 人心」、梅室には「石の戸に いつまで草の 紅葉かな」があります。 -
石山寺硅灰石
石山寺の発展は近江 保良宮遷都の置き土産だったと述べましたが、それを『続日本紀』は「759(天平宝字3)年11月に保良宮を造らしむ」と伝えます。また、遷都の理由にも触れ、「奈良の宮(平城宮)を改めて造るため、暫く移りて近江国保良宮に御します」とあり、藤原仲麻呂が淳仁天皇即位に際して平城京の大改修を計画し、改修する間、保良宮に暫定的に遷都させたと読み取れます。
しかしこれは表向きであり、真の理由は他にありました。往時、日本と新羅は敵対関係にあり、その新羅の後ろ盾が唐でした。そこへ渤海使から仲麻呂に「唐では755年に安史の乱が起こり、玄宗皇帝は成都に難を逃れた」との情報がもたらされ、現状では唐は新羅を支援できないと読み、渤海が北から、日本が東から攻めて新羅を落とす作戦を練りました。そしてこの作戦の実行に当たり、都が平城京では出兵にも渤海との連絡を密にするにも難しく、琵琶湖畔の近江に軍事拠点を移すことが不可欠だったのです。つまり、大津遷都の最たる目的は「新羅攻略」でした。そして、遷都後の国家的な大事業「写経」を営むために白羽の矢が立ったのが石山寺でした。つまり、石山寺は保良宮の鎮護寺との位置付けです。
因みに、琵琶湖北岸の塩津から日本海へは20km、大阪湾へも舟運が可能です。現在の交通感覚なら、新幹線並みの役割を湖や河川が担っていたと窺えます。 -
石山寺硅灰石
その後、石山寺の伽藍が完成する直前の762年5月、突如、都は平城京に戻されました。その発端が僧侶 弓削道鏡を巡る淳仁天皇と孝謙上皇(女帝)の不和でした。上皇は遷都直後に体調を崩し、その病を平癒させたのが道鏡でした。その結果、上皇が道鏡を寵愛するに至り、しかも上皇は道鏡を天皇に据えようと画策したのです。これが世に言う「宇佐八幡のお告げ事件」です。不安を覚えるも藤原仲麻呂は直接上皇に苦言を言えず、天皇を介して道鏡との関係を厳しく叱責すると上皇が逆切れし、政治問題にまで発展。その結果、天皇は平城宮の中宮院へ戻り、上皇は母親 光明皇后が隠棲した法華寺へ移りました。
かくして新羅攻略を推し進めた仲麻呂の策略は水泡に帰しました。一方、天皇を謀議に誘い入れて上皇と道鏡を追放する計画を秘密裏に進めました。しかし、謀反は密告され、孤立した仲は恵美押勝の乱を起こすも一週間であえなくその幕を閉じたのでした。 -
鐘楼(重文)
経蔵の真向かいに佇みます。
東大門と同じく源頼朝の寄進により建立されたと伝わりますが、様式や工法、木材の風触から鎌倉時代後期のものと推定されています。1954(昭和29)年に解体復元工事がなされています。
大きな袴腰が特徴的な鐘楼で、全高11.1m、入母屋造、桧皮葺と下層の末広がりの袴腰底部の上に白漆喰塗の腰下のカーブが流麗で気品が感じられます。組物は屋根軒下、高欄下共に三手先ですが、東大門と同じく尾垂木を用いていません。上層の組物の隅にも拳鼻を付け、隅柱は少し長目にして軒反りを美しく魅せ、間斗束は垂直、組高欄の端の切り方(角度)など古色蒼然とした鐘楼です。 -
鐘楼
上層に吊られた平安時代に鋳造された梵鐘(重文)は、無銘であるものの妙音で知られ、「心願成就の鐘」とも称されて福徳・縁結びの願いは本堂の厨子の扉が開かれることで直接本尊に届くと言われています。鐘の真下に立ち、長く垂れた紐を手前に引いて撞く珍しい構造となっています。ですから、撞いた後に頭上でふくよかな余韻が鳴り続きます。 普段は参詣者は撞くことはできませんが、除夜の鐘と本尊の御開扉年の特別期間は可能です。
鐘高151.2cm、口径88.8cmの梵鐘には、鐘の下端にある駒の爪が簡素で目立たない、竜頭の向きと撞座が直交している、撞座の位置が高い、乳の数が108個ではないなど古式の特徴が見られます。 -
宝篋印塔
鐘楼の脇にも宝篋印塔があります。
『石山寺縁起絵巻』第1巻第3段は、8世紀に石山寺を建立する際、地中から五尺(150cm)の袈裟襷文銅鐸が出土したと伝えます。「仏閣をたてむかために荊棘を切掃て砂石をけつりたいらくるに、五尺の寶鐸をほりいたすまことに知ぬ古仏の聖跡伽藍の旧基なりといふことを」。ただし、現在石山寺に重文として所蔵されている高さ91cmの銅鐸は、11世紀に1km離れた一老坊遺跡で発掘されたもので、『縁起』に登場する物とは異なります。
その銅鐸はほどなく行方不明になったと伝わり、後世に近隣で発掘された銅鐸をその代替品とした可能性が高いと窺えます。いずれにしても弥生時代の祭器である謎多き銅鐸が石山寺の地に埋まっていたのは興味深いところです。この地は古代から奇岩景勝地として知られていたそうであり、その場所を厳選して石山寺を建立したとも考えられます。古来、巨岩などの自然造形を神の依代とする磐座信仰は普遍的に存在し、石山寺創建以前にも古代の祭祀場であったことは想像に難くありません。 -
多宝塔
真言密教の本尊 大日如来坐像を安置しています。本来、多宝塔には多宝如来と釈迦如来が並座して祀られますが、ここでは大日堂の位置付けのようです。
多宝塔は、墨書から鎌倉時代初期の1194(建久5)年の建立とされ、源頼朝の寄進と伝わります。また、年代が特定でき、建立当初の形態を保つ多宝塔としては国内最古かつ最も美しいと称されます。現存最古の多宝塔は金剛寺多宝塔で建立年代は平安時代末期に溯りますが、慶長年間に大修理を受け当初の面影はありません。それに対し石山寺多宝塔は慶長の修理で軒回りが取替えられ小屋組も刷新されましたが、軸部や組物は当初材を残して原形を留めています。総高17.2m、下層部は方形、上層部は円形で屋根には相輪が設けられ、初重に比べ二重が細く、 屋根の反りや軒の深さなど均整の取れた優美な塔です。尚、鎌倉時代の様式を持ち、また究極の構造美を有することから、金剛三昧院多宝塔(和歌山)や慈眼院多宝塔(大阪)と並び「日本三名塔」のひとつに数えられています。
日本の寺社建築は「庇」文化と言われますが、この塔は屋根のせり出しとそれを支える組物との調和に目を瞠ります。白洲正子さんは著書『西国巡礼』の中で「沢山見た多宝塔の中で、これが一番美しい」とストレートに表現されており、当方も同感です。 -
多宝塔
源平の乱において、源頼朝の家臣 中原親能は、和束(京都府相楽郡)で勃発した反乱を鎮圧するに当たり石山寺の毘沙門天に戦勝を祈願し、その成就に感謝して石山寺に勝南院を建立しました。勝南院とは「南に勝つ」という意味であり、「和束」の地が石山の真南に位置したのが寺名の由来です。
『石山寺縁起絵巻』第6巻第1段は「石山寺東大門を出立した時、親能の前に毘沙門天が現れ、そのおかげで反乱を鎮めることができた」と伝えます。頼朝が寄進した東大門には多聞天像が安置されていたそうですが、四天王のうち独尊の場合は「毘沙門天」と見做せることから親能の伝説はこうした背景から脚色されたものと窺えます。 -
多宝塔
中原親能は、2代将軍 頼家の時代に執られた「十三人の合議制」の宿老のひとりでもあり、大江広元の兄です。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では川島潤哉さんが演じていました。一方、NHK朝ドラ「舞いあがれ!」では胡散臭い短歌編集者「リュー北條」役を熱演されていますが、名前にある「北条」は「鎌倉殿」繋がりでしょうか?
また頼朝は、親能の妻であり次女 三幡姫(乙姫)の乳母でもあった亀谷禅尼の請願により、兄 悪源太義平を匿ってくれた謝礼に石山寺に多宝塔を寄進しました。亀谷禅尼は、鎌倉の地で慈善救済や平和の推進を行った叡尊に帰依し、宿房を提供するなどで彼を支援しました。叡尊は蒙古襲来の際、敵国降伏を祈願して神風を起こしたと伝わる真言律宗の僧です。因みに、「悪源太」の「悪」は「武者として力強い」との意味です。 -
多宝塔 本尊 大日如来坐像
本尊 大日如来坐像(重文)は、頼朝の念持仏とも伝わり(綾村宏編『石山寺の信仰と歴史』)、鎌倉時代の仏師 快慶により檜の寄木造で彫られ、像高102cm、玉眼ながら穏やかな表情をなされています。頭部内側に「アン(梵字)=阿弥陀」の銘文があり、快慶が法橋や法眼の位に就く以前、つまり無位時代の貴重な作品で1203年以前のものです。
「智」の象徴となる智拳印を結び、右足を外に結跏趺坐する金剛界式になっています。表面には黒漆を塗り、その上に金箔を貼っていたようですが、すっかり剥がれ落ちてしまっています。因みに、密教の大日如来は顕教の廬舎那仏(東大寺大仏など)に相当する地位のものです。密教思想は東大寺などの華厳思想よりも現世肯定、感覚肯定の色彩が強く、そのため廬舎那仏は通常の如来の姿をしていますが、このように大日如来は王冠を被り、装飾具を着けています。 -
多宝塔
金剛界式大日如来像の代表作には奈良 円成寺の運慶作がありますが、ここの快慶作も見劣りしません。一見左右対称に見えても、実測すると左右で長さが異なることが多々あるそうです。知名度を誇る運慶作ですら左右対称でないのが当たり前とされる中、快慶作は左右対称のものが多く、観る者の琴線に触れると評されます。
内陣を囲う四天柱には金剛界の諸尊や五大尊が42体描かれ、折上小組格天井や廻り縁、長押などには宝相華や極彩色豊かな装飾が施されています。平安時代から鎌倉時代に至る過渡期の仏画として価値が高く、柱絵も重文です。また、内陣の壁画は朗澄律師の筆によるものと推定されています。 -
多宝塔
大日如来像内には源頼朝の髪が納められていたと伝わりますが、現在は失われており真偽は不明です。しかし像内も黒漆塗されていることから、何かが奉納されていたのは確かだそうです。
また、像内にある発願者名と思しき墨書には「尼覚忍」とあり、これは「亀谷禅尼」の法名との説もあります。夫 親能の法名が「寂忍」であることからも可能性は高いと窺えます。もしそうであれば、奉納された髪は、亀谷禅尼が頼朝の次女 三幡姫(乙姫)の乳母であったことから、1199(正治元)年に14歳で他界した三幡姫の黒髪の可能性も否めません。頼朝の入内工作が進行する最中、後鳥羽天皇の妃となる矢先に没しています。死因は高熱による病死とされますが、一説には政治的に利用されることに起因する欝病が高じての死とも、入内がご破算になって得した者による毒殺とも伝わります。『吾妻鏡』によると、乳母夫 中原親能はこの件に責任を感じて出家し、姫の遺体を親能の屋敷内にある「亀谷の墓堂」に葬ったとされます。 -
多宝塔
多宝塔の上重は12本の円柱を円形に配してその上に台輪を組んでおり、必然的に四隅の軒の張り出しは深くなります。それ故、軒を支えるために放射状に尾垂木を配し、組物は通常の三手先ではなく四手先を用いた複雑な構造です。
因みに、軒に吊られた風鐸や相輪も含め、金属製パーツは全て1933(昭和8)年の解体修理時における後補だそうです。尚、2012年に檜皮葺屋根の葺替修理がなされました。 -
多宝塔
放射状に配された尾垂木と四手先の造形美が堪能できます。
石山寺の開基 良弁(689~774年)は奈良時代の華厳宗の僧侶です。後に東大寺の前身となる金鐘寺を聖武天皇より与えられ、その後、東大寺大仏造立の功績により東大寺 初代別当となり、入寂する前年に僧正に任命されています。
鎌倉時代の歴史書『元亨釈書』には「良弁の両親は如意輪観音菩薩に願ってやっと子を授かるが、母親が桑摘みをしていた時に飛来した鷲に赤子(良弁)をさらわれ、それを悲しんだ母親が30年以上も探し歩いた」との逸話が記されています。
母子再開のきっかけには諸説ありますが、観音霊験記の『二月堂良弁杉由来』は「老婆が大杉に貼った手紙により出会えた」と伝えます。我が子を探して奈良を尋ねた母親は、東大寺の良弁は幼い時に鷲にさらわれたとの噂を耳にし、もしやとの思いで二月堂の大杉に我が子を尋ねる手紙を貼りました。一方、良弁は、幼い時に鷲に捕らわれ梢の上で餌食にされる寸前に師の義淵僧正に救われた大杉に、顔も名も知らぬ両親に一目会いたいと日毎祈願していました。
そんな折、良弁は大杉の根元に一通の手紙を見つけました。その貼り主を探し出すと、非人のなりをした薄汚い老婆でした。しかし老婆から、さらわれた赤子に如意輪観音像の入ったお守りを付けておいたと聞き、自分の持つお守りと見比べ、母親であることを確信し、母子は奇跡的な対面を喜び合いました。この伝説を劇化したのが浄瑠璃『二月堂良弁杉の由来』です。 -
多宝塔
宝形の檜皮葺屋根の頂上には相輪を置きますが、多重塔の相輪と違い、水煙や龍舎の代りに四葉や六葉、八葉の花輪を付けています。
多宝塔は石山寺のオリジナル御朱印帳の表紙にも使われており、石山寺のシンボルと窺えます。
大津市歴史博物館HPでは、良弁の出生地を『元亨釈書』に即して大津市南船路とし、氏神八所神社にある五輪塔を「良弁納経の跡」としています。また、南船路では正月の門松に樒を立てる風習があり、これは良弁にあやかって仏式を重んじる行為だと説明しています。
しかし異説もあります。相模国説や折衷説(相模国誕生・近江国移住)、越前国説などもあり、またその俗姓も染谷(屋)氏や漆部氏、百済氏、百済系渡来人説と諸説紛々です。鎌倉市長谷には「染谷太郎太夫時忠邸阯」の石碑があり、時忠については「南都東大寺良弁僧正ノ父」と記されています。相模国国司 染屋時忠は、藤原鎌足の末裔とされ、聖武天皇の時代まで鎌倉で暮らしたと伝わります。また、『大山縁起絵巻』には、高僧 覚明が楠にあった鷲の巣の中に赤子を発見し、不動明王に祈願すると猿が現れて覚明にその子を手渡したと記されています。 その後、東大寺大仏を造立し、再開した両親と共に相模国へ戻り、大山寺を建立したと伝えます。
一方、神奈川県立公文書館紀要第6号掲載の論文は、氏「染屋」については「漆屋」だとし、秦野市北矢名付近を本貫地とした豪族 漆部直伊波を時忠と比定しています。また、『東大寺縁起絵巻』も、良弁は相模国大隅郡漆窪という地の漆部の氏人と記しています。更には、福井県小浜市下根来には「良辨和尚生誕之地」と刻まれた石碑があり、小浜市に伝わる伝説は『元亨釈書』の記述に酷似しています。
いずれにしても、良弁が二月堂にある大杉まで鷲によって運ばれてきたと信じられてきたのは確かです。 -
宝篋印塔
多宝塔の北西に並び立つ2基の宝篋印塔は古くから源頼朝と彼の乳母の亀谷禅尼の供養塔との伝承があります。
頼朝に石山寺の再興を勧め、剃髪後に石山寺に住して「石山の尼」と称したのが亀谷禅尼でした。
この2人のために後世の人々が供養塔を建立したと考えられています。 -
亀谷禅尼の供養塔(重文)
左(西塔:高さ182cm)が亀谷禅尼の供養塔とされ、東(右)塔よりも年代が下がるため重文に指定されています。
紫式部が『源氏物語』を綴った平安時代は、戦争も外圧もなく、社会的にも大きな変化のない天下泰平な時代でした。それ故、女性が活躍できる条件が揃っていたとも換言できます。事実、『源氏物語』が往時の代表作と称されていたことからも、貴族社会における女性の地位は高かったと窺えます。
物語は冒頭からしてショッキングです。主人公「光源氏」は先帝「桐壺帝」の皇子であり、現天皇「朱雀帝」の実弟という設定です。源氏は藤壺の宮という桐壺帝の後の皇后、すなわち義理の母と不倫関係に堕ちます。しかも、源氏と藤壺の宮が密通して生まれた皇子が将来の新天皇「冷泉帝」という、現在ならタブーのストーリー展開です。それなのに往時の人々は異議を唱えもせず、「いとをかし」と読み耽ったのです。
式部の名誉のために申せば、実は恋愛は筋書きに不可欠な要素ではあるのものの、本意はむしろこの世の権勢や恋愛闘争における男女の宿命やそれに耐える心の美しさ、四季折々の風景美、年中行事の在り様、音楽・絵画・書道・和歌等の文化、儒学や陰陽道などの教養等を描写した点にあります。また、放恣な男性と優柔な女性との間の葛藤や一夫多妻制における男女の生き様、無常観から湧き起こる信仰心やその挫折など、いわば人生観を主題にしています。こうした経緯から、極楽浄土の源流のひとつの『往生要集』を説いた源信(「横川の僧都」のモデル)の思想を背景にしたとも窺えます。?鎌倉時代には「仏の教えを説くために書かれた」という解釈も存在し、華やかな人生を送った光源氏の最期を思うと「好色は空しいことなりと戒める書」という訳です。 -
亀谷禅尼の供養塔
上から相輪、笠、塔身、基礎から成り、笠の4隅に花弁型隅飾を持ち、その上下が段型になっています。
また、塔身には4面の線刻月輪内に「ア、アー、アン、アク」の胎蔵界4仏の種子を薬研彫しています。
では何故、こうした不倫を甘受する文化があったかと言えば、『源氏物語』は高貴な女性たちのサロンで生まれた作品であり、これを読むことができたのは一握りの貴族に限られたからです。その貴族文化の中心に据えられたのが「和歌」でした。そしてそのメインテーマが「恋愛」であり、男女分け隔てなく好意を寄せる相手に和歌を送り合うのが常でした。また、往時は恋愛経験が多い人ほど尊敬される風潮さえありました。恋愛が盛んな男女を指す言葉に「色好み」があり、これは現代ではマイナス評価ですが、往時は「恋愛をしっかり愉しんでいる人」としてプラス評価でした。 -
亀谷禅尼の供養塔
笠の段型は、下二段、上六段、隅飾りは二弧輪郭付で内は素面です。
相輪は、下から伏鉢、請花、九輪、請花、宝珠となっており、彫りがとても細やかです。
基礎上端は二段、側面は輪郭を巻き内に形のよい格狭間を形成させています。
日本は未だにユネスコなどから「男尊女卑社会」だと批評されており、また世界統計上でも「男女平等度116位(世界経済フォーラム『世界男女平等ランキング』、2022年)」と先進民主主義国家では劣等生です。しかし、女性が尊重されていた時代も存在しました。その潮目が変わり始めたのは、武士が台頭し始めた頃と考えられています。しかし、文化面では室町時代までは貴族が優位であり、それまでは女性の活躍の場は相当あったものと窺えます。潮目の変化が顕著になったのが江戸時代です。何故、女性の立ち位置が大きく変わったのかは明確ではありませんが、儒学の影響が大きいとされます。儒学には『三従の教え』なるものがあり、「女性は、娘時代は父に従い、妻になれば夫に従い、夫の死後は息子に従うべき」との教えを説いており、男性優位な思想が色濃いからです。こうした影響などにより、女性の地位が徐々に下がっていったものと考えられています。 -
源頼朝の供養塔
右(東塔:高さ147cm)が頼朝の供養塔とされ、この東塔の意匠の特長から蒲生郡日野町蔵王の石工の手によるものと推定されています。
尚、東塔の造立年代は南北朝時代初頭の1336年を遡らないと推定されています。
平安~鎌倉時代は男女の恋愛に対して至っておおらかで寛容でしたし、室町時代にも『源氏物語』は貴族や武士が愛読していました。しかし江戸時代になり女性の権利が軽んじられると、『源氏物語』の評価は一変します。事実、後光明天皇(1633~54年)は「朝廷が衰微したのは、和歌と『源氏物語』が原因」と論じ、『源氏物語』を淫乱の書と決め付け、その類のものを一切読まなかったそうです。このことから、公家諸法度の影響下にあった天皇は儒学の影響を色濃く受けていたことがよく判ります。
恋愛が現在のように四角四面に扱われるようになったのは江戸時代の武家社会やその影響を受けた明治時代以降のようです。「日本は奥ゆかしい文化」だと称されますが、歴史的に見れば恋愛について自由奔放だった時代の方が長かったのかもしれません。 -
源頼朝の供養塔
塔身正面、月輪内に金剛界4仏の種子を薬研彫しています。
笠の段型は、下二段、上六段、隅飾りは二弧輪郭付で内は素面です。
相輪は亀谷禅尼の供養塔に比べ背が低くなっています。
基礎は壇上積式とし、上端は複弁反花、側面は四面とも格狭間を形成し、内に開蓮華文様を刻んでいます。 -
めかくし石(石造宝塔)
鎌倉時代後期の作と伝わる、多宝塔の西側に立つ高さ3.4mの石造宝塔です。よく見ると形が多宝塔を模しています。おそらくこのめかくし石は「石塔」であり、それを建物に具現化したものが多宝塔ということでしょう。白洲正子さんは『西国巡礼』で次のように賞賛しています。「石で造られただけあって、大きな多宝塔に負けないヴォリュームが感じられる」。
駒札には「目かくしして、この石を完全に抱けば祈願成就と云う」と記されています。しかし、とてもひとりで抱ける太さではありません。古くは「父母を亡くした子供が目隠しをし、これをつかまえると死後にあの世で父母に逢える」と伝承されていたそうですから、これが時代を経て転訛したと窺えます。 -
めかくし石
大きく背の低い基礎、やや背の高い円筒形の塔身、隅棟の突帯がない屋根の四注、軒の様子などは鎌倉時代中期に遡る古い特徴です。一方、笠の背が高く屋根の勾配が急でかつ屋根の反転が顕著な点はやや新しい要素とされます。新しい要素を重視した結果、鎌倉時代後期前半、永仁頃(1295年)の造立と推定されています。 -
若宮
多宝塔の傍らに小さな祠が佇みます。2002年建立と新しい祠ですが、駒札には興味深いことが記されています。
「祭神に天照大神を拝し、壬申の乱で亡くなった大友皇子(弘文天皇)を崇めており、古来より寺僧によって『手厚く』『密かに』供養されてきました。三十八所権現社が親神に当ります」。つまり、壬申の乱の敗者 大友皇子の埋葬伝説に絡む祠と窺えます。皇子終焉の地は不詳とされ、瀬田唐橋の周辺には皇子を祀る御霊神社が3つも存在するなど、この周辺には皇子所縁の地が多いのは事実です。伝承によると、この地も皇子が自害したとされる場所のひとつとされ、大友與多王が皇子終焉の地として結んだのが「三十八社五明神社」と伝わります。
瀬田橋は壬申の乱で大友皇子と大海人皇子(天武天皇)が最後の決戦をした場所です。大海人皇子が勝利したため大友皇子は謀反人と見做され、故にその供養は「密かに」行われたのだと読み取れます。また、「手厚く」供養されてきたともあり、この地には皇子を崇める人が多かったことを窺わせます。 -
若宮
大津市歴史博物館HPにある「新宮神社」の説明によると、「現在の石山寺の境内あたりにある『三十八社五明神社』『古宮』が大友皇子の『死地』で、5月5日には新宮神社の神輿が古宮に渡御する」とあります。
また、石山寺公式ブログには、「毎年5月5日に行われる石山祭は、この三十八所権現社の大祭です。新宮神社は、国分の近津尾神社までお参りに行っていた寺辺の人々のため、江戸時代に三十八所権現を勧請して造られました。『新宮』とは、『古宮』である三十八所権現社に対して『新しい宮』という意味です」とあります。
つまり、「三十八社五明神社」「古宮」「三十八所権現社」は同じものの異名です。また、駒札の一節「三十八所権現社が親神に当ります」は、三十八所権現社が祀る天智天皇と若宮が祀る大友皇子の親子関係を示唆していると窺えます。
寺伝による石山寺草創は壬申の乱(672年)から70年以上も後ですが、良弁開基時に皇子の墓がここに存在したという伝承を踏まえての「若宮」建立と窺えます。しかし何故、若宮を建立して大友皇子を祀ったのが2002年なのかは謎のままです。38代までの天皇を祀る三十八所権現社に合祀することは、定義から外れるというのは理解できるのですが…。 -
茶席「芭蕉庵」
月見亭に繋がるように北隣りに佇むのが、松尾芭蕉の名に因んだ茶席「芭蕉庵」(非公開)です。この建物は芭蕉の時代から存在したものではなく、1883(明治16)年に建立されました。かつては「観月亭」とも呼ばれていたそうです。
芭蕉は度々石山寺に仮住まいし、多くの句を残すと共に『幻住庵日記』を綴りました。1689(元禄2)年に『おくのほそ道』の旅を終えた芭蕉は、国分山の幻住庵や膳所の義仲寺無名庵に滞在するかたわら、石山寺を好んで度々訪れたそうです。芭蕉にとって石山寺は身近な存在だったのでしょう。 -
茶席「芭蕉庵」
俳聖 松尾芭蕉は度々近江の地を訪れ、多くの句を詠みました。有名な芭蕉の句は千ほどありますが、そのうち90句ほどは大津に因みます。その中で芭蕉のお気に入りが「行く春を 近江の人と 惜しみける」です。
詞書によると唐崎で舟を浮べて春を惜しんで詠んだようですが、門人の尚白が「『近江』は『丹波』に、『行く春』は『行く歳』にも置き換えられる」と批判した句です。
門人 去来は『去来抄』に次のように記しています。芭蕉から批判について尋ねられ、「琵琶湖は春霞が朦朧としているところに趣があり、琵琶湖のある近江にて霞のかかる春を惜しむのでなければならない」と返しました。それを受け芭蕉は「風雅を愛する先人が近江の春を愛した歌を多く残している伝統を大切にしなければならない」と説きました。去来は「晩春に丹波にいてはこの感動はない。自然の景色が人を感動させるのは本当だ」と実体験が重要と畳みかけました。芭蕉は「去来こそ、俳諧を語るのに相応しい」と褒めちぎりました。
実体験を重視する点は夏井先生も同じですね!でも、これで尚白は納得できたでしょうか?実は芭蕉は「近江の春を愛した歌」を挙げていますが、近江で春を惜しむという主題に相応しい和歌が見当たらないのです。故に、尚白の批判は完全に払拭された訳ではないように思えます。 -
月見亭
平安時代後期の保元年間(1156~59年)、後白河上皇の行幸の際、月見を敢行するために建立された「玉座」です。その名の通り月を眺める目的で高台の崖の上からせり出すように佇む姿はスリリングでもあります。しかし歴代天皇が観月のために鎮座された場所ですので、内部へは立ち入れません。 -
月見亭
江戸時代前期の1687(貞保4)年に再建されるも、1712(正徳2)年に台風で倒壊し、その翌年に復元されています。
また、2017年に茅葺屋根が檜素材の板葺に改修されています。 -
月見亭
眼下には瀬田川から琵琶湖、更にその先にある北比良の峰々までが一望できる絶景スポットです。ここから眺める景色は「石山の秋月」と称され、紫式部はこの風景に感化されて『源氏物語』の「須磨の巻」や「明石の巻」の着想を得たようです。因みに、2016年には「日本百名月」にも認定されました。
紫式部は、漢学者や歌人として知られた藤原為時の娘として973(天延元)年頃に生まれ、29歳頃に17歳年上の藤原宣孝と結婚、一児(賢子)に恵まれたもののその3年後に宣孝が死去。その後、藤原道長の娘 彰子に仕える女房になり、『源氏物語』の執筆を命じられ、その完成には4年程要したそうです。
式部が没したのは、1014(長和3)年2月、42年の生涯でした。端役を含めて400人もの登場人物を創作した大作を書き下ろしてからの余生は僅か6年程です。式部の墓は、源(四辻)善成著『河海抄』(14世紀中期)には「式部墓所ハ在雲林院。白毫院の南、小野篁ノ西也」と記されています。現在の北大路と堀川通りが交差した、島津製作所の敷地の一角を指しており、そこには確かに式部と小野篁の墓が並んでいます。
また、小野篁所縁の寺院のひとつが本尊を閻魔大王とする引接寺です。その境内にも式部の供養塔があり、2人の関わりの深さを物語ります。実は篁はこの世とあの世を行き来し、閻魔大王の側近を務めたと伝わります。そして、善人が早死にすると閻魔大王に頼んで生き返らせたと伝わります。
一方、式部には、浮薄でなまめかしい架空話を書き、多くの読者を堕落させたが故に地獄に堕ちて苦しんでいるという「堕獄説」があります。他方、石山寺伝説のような、観音菩薩が式部に変身して『源氏物語』を書き、その教えを説いているという「観音菩薩説」もあります。『源氏物語』ファンにとって前者はタブーであり、地獄に堕ちた式部を冥官の篁に救ってもらおうという機運が高まるのは必至。それ故、堀川通りなどの式部の墓は「堕獄説」が盛んになった中世以降に造立された供養塔と比定されています。
それでは、式部の真の墓は何処にあるのでしょうか?往時の風習からすれば、母方の実家の宮道(みやじ)氏の墓に入ったとするのが順当です。それは京都市山科 勧修寺の近隣にある宮道神社の周辺とされます。 -
月見亭
寄棟、四方に下屋庇を巡らし、外壁はなく吹き放し、梁を張り出して舞台風に巡らせた高欄を支え、基礎部は鐘楼などに見られる袴腰で覆っています。
『源氏物語』の研究が本格的に始まったのは鎌倉時代で、その金字塔が源(四辻)善成著『河海抄』です。そこには物語の成立ちに関する注釈が記されています。ただし不合理な点も多々あり、伝説の域を超えるものではないようです。
「大斎院選子(せんし)から中宮彰子に面白い草子を貸して欲しいと依頼があり、彰子は紫式部に創作を命じた。式部は観音のご加護を願い石山寺に籠った。時は秋、琵琶湖に映る仲秋の名月が源氏物語の構想を繰り広げる契機となった。式部は、思わず仏前の大般若経を拝借、その裏に『今宵は十五夜なり…』と綴り、『須磨の巻』の名場面から物語は書き下されていった。光源氏のモデルは安和の変で左遷された源高明(たかあきら)、紫上は式部本人。白楽天や菅原道真や在原行平などの人物像も考慮されている。この物語は式部が一人で書いたのではなく、藤原道長も一部筆を加えている。最後は藤原行成が清書して成立した。後に、式部は大般若経を写経して石山寺に納めた。それは今もかの寺にある。 」
源高明は、藤原氏にその聡明さを危険視され、謀略により「安和の変」で大宰府に2年間左遷されられました。また、その父 醍醐天皇には多くの妃がおり、母 周子が更衣で身分が低かったため、源氏姓を賜り7歳の時に臣籍に降下しており、光源氏との共通点が見られます。
現在は源融が光源氏のモデルの最有力候補とされますが、親王として生まれるも、母の身分が低かったため、皇位を継承することができず臣籍に下ったという類似点があります。『源氏物語』が書かれた時代より100年ほど前の人物ですが…。
その他、源光や光孝天皇、藤原道長、藤原伊周、藤原実方、在原業平がモデルとの説もあります。このようにモデル候補が複数居るのは、式部が様々な実在人物の要素を光源氏に「てんこ盛り」したからというのが定説になっています。 -
月見亭
梁には、明治、大正、昭和の歴代天皇もこの地に行幸されたことを記しています。
軒丸瓦の紋章は十二弁菊紋の上に花弁が重なった珍しいものです。大阪第1合同庁舎の工事で発見された大坂城の菊紋丸瓦の図柄に似ています。また、現在の大阪城の千鳥破風飾りにある太閤菊にそっくりです。玉座なら十六弁八重表菊紋でもよさそうなものですが…。
白洲正子著『西国巡礼』では「瀬田川に面して、おあつらえ向きの月見亭もあり、石山の月はたしかにいいに違いないが、あまり有名になりすぎると、わざわざ来て見る気もしない。それより思いがけず美しい風景に出会った時の方が、私にとってはうれしいが、人が知らないところは、人に知らせたいし、知らせると、たちまち汚されてしまうのは、ままならぬ世の中だと思う。」と心境の複雑さを吐露されています。皆さんも同感では!? -
月見亭
江戸時代後期の浮世絵師 歌川広重が描いた名所絵『石山秋月』と同じアングルでの眺望ができます。
しかし、ここから眺める瀬田唐橋や琵琶湖は北の方角にあるため、そこに月が昇るはずもなく、広重の画は一部が創作であることを悟りました。 -
歌川広重『石山秋月』
この画像は次のサイトから引用させていただきました。
https://artsandculture.google.com/asset/ -
月見亭
月見亭の北側から石段を下った所に石積庭園(第1梅園付近)があります。
ここから見上げる月見亭も趣があります。 -
石積庭園
一つひとつの石が「五百羅漢」を彷彿とさせる趣向の石群です。
『源氏物語』は「物語文学の最高峰」や「平安貴族文化の精華」と称されますが、一般的にはセンテンスが長く読み難いというのが大方の意見です。菅原孝標女は初めて『源氏物語』を読んだ時の感想を「途中から読むと話が理解できなかった」と『更級日記』に吐露しています。学者一家に生まれた教養のある才女でもお手上げだったようです。これは、他人に読ませるために綴った物語でなく、仲間内だけの「回覧小説」だったのが最大の理由です。
また、正宗白鳥も「頭をチョン斬って胴体ばかりふらふらしてゐるやうな文章で読むに歯痒い」と吐露しています。これは、主語や目的語が省略されているため、誰の事を指すのか判り難いことを皮肉っています。
しかし、実は式部は和漢の文献を読みこなし、新しい形容詞や擬態語の造語にも長けた日本語遣いの魔術師でした。例えば「夕顔の巻」には潤沢にトラップを仕掛けており、意図的にぼやかして読者の解釈に委ねる俳句的な手法を用いています。夕顔を「美男を見かけて積極的に文を送り、返事をもらって浮かれる女=無邪気な娼婦キャラ」と解読するか、「特別な理由があって自ら文を送ったものの、そのはしたない行為に恥じ入る女=薄幸・純情で哀愁を帯びたキャラ」ととるかは読者次第です。後者については、読み進めると「理由」が垣間見えてきます。実は夕顔には離婚歴があり、しかも本妻に脅迫されて疾走を余儀なくされた不条理な惜別でした。こうした背景から、「もしかして元夫が探しに来たのでは!?」と錯覚しても不思議ではありません。ですから与謝野晶子訳と瀬戸内寂聴訳で解釈が異なっていたりし、一筋縄でいかない部分が多々あるのも「いとをかし」です。 -
石積庭園
石山寺では特に説明されおらず不詳ですが、何時の時代に造営されたのか人工的な石積であるのは確かです。
『源氏物語』は朝廷女官から圧倒的な支持を得ましたが、その影響は男性社会にも波及していたようです。貴族社会が武家に押されて衰亡すると、「世の常ならざる」貴族の全容が描かれた『源氏物語』は、貴族が貴族になれる唯一のバイブルとなりました。平安時代末期の歌人 藤原俊成は「源氏見ざる歌詠みは遺恨のことなり」と歌人つまり貴族の必携書とまで讃えています。また、「歌神」と謳われた俊成の子 藤原定家は『源氏物語』の定本を作ってその窮乏生活を支えましたが、現在我々が読んでいる『源氏物語』は定家が校訂した本になります。貴族を駆逐した武家も、彼らが貴族たらんと欲した際、『源氏物語』をその手本としたというのも「いとをかし」です。 -
普賢院淳祐(しゅんにゅう)内供の供養塔
石積庭園の一画を占めるのが中興の祖 第3世座主 普賢院淳祐内供の供養塔です。
宝塔は花崗岩製で相輪先端を欠き、塔高は約172cmです。
降棟の突帯は屋根の上端まで至らず、屋根の露盤近くに一段素面部分を帯状に周回させる珍しい手法です。基礎の輪郭束の幅を広くしてやや不整形な小さ目の格狭間を置くのは、近江では鎌倉時代中期末から後期初頭頃の石塔基礎側面に共通する手法とされます。無銘ですが、鎌倉時代後期前半のものと推定されています。
淳祐内供(890~953) は、菅原淳茂(あつしげ)の子に生まれ、菅原道真の孫に当たる人物です。幼くして真言宗小野流の僧侶 観賢の下で出家して石山寺普賢院に隠遁し、「石山寺 中興の祖」と称されました。この淳祐こそ石山寺の如意輪観音信仰のキーパーソンだと述べましたが、その裏付けは次の通りです。
まず、淳祐と如意輪観音信仰の関わりを示す文献に淳祐撰『聖如意輪観自在菩薩念誦次第』があるからです。本書は本尊に如意輪観音を据えた十八道加行の次第を説き、醍醐寺小野流において今日も用いられています。
次に、淳祐は醍醐寺から石山寺普賢院に隠棲しましたが、その醍醐寺は聖宝が876(貞観18)年に如意輪観音と准胝観音を本尊として開創した寺院です。聖宝は空海直系の密教を継承したことで知られ、聖宝の如意輪観音信仰が直系の弟子 淳祐へと受け継がれたものと窺えます。つまり、石山寺本尊の尊名が「観音 → 如意輪観音」に改名される過程において、淳祐が重要な役割を果たしたのは確かです。 -
鐘楼
石積庭園から鐘楼を見上げます。
鐘の真下に立ち、長く垂れた紐を手前に引いて撞く珍しい構造となっています。
この続きは早春賦 近江 石山⑤石山寺 梅園・光堂・八大龍王社・無憂園・密蔵院、他(エピローグ)でお届けいたします。
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