2023/03/06 - 2023/03/06
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montsaintmichelさん
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今回ご紹介するのは石山寺を訪問した第一の目的である「梅園」巡りです。
境内には、それぞれ工夫を凝らした第一梅園「薫(におい)の苑」、第二梅園「東風(こち)の苑」、第三梅園「水仙の苑」の3つの梅園が造営されており、梅園巡りが愉しめる趣向となっています。第一、第二梅園は7分咲きとの案内でしたが、第三梅園は3分咲きとやや開花が他に比べて遅いようです。それで、長い期間、梅花と梅香が愛でられるということなのでしょう。また、「梅つくし」の開催期間中は「盆梅」を堪能することもできます。
一方、梅園以外で通年愉しめるスポットとしては「無憂園(むゆうえん)」が挙げられます。大きな鯉が悠々と泳ぐ池、目に映える朱塗りの橋、そして石組みの小滝「甘露の滝」を配した琵琶湖の形を模した回遊式日本庭園で、文字通り日常の煩わしさから解き放ってくれる花の楽園です。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- JRローカル 私鉄
-
石山寺公式HPの「境内ご案内」にある絵地図です。
https://www.ishiyamadera.or.jp/guide/precincts -
第一梅園「薫(におい)の苑」
境内には、庭木同様に丹念に手入れされた第一梅園「薫(におい)の苑」、高低差が特徴の第二梅園「東風(こち)の苑」、自然な環境で育った梅が見られる第三梅園「水仙の苑」の3つの梅園があり、例年2月下旬~3月中旬には紅梅や白梅をはじめ寒紅梅、長束梅など約40種400本が咲き誇ります。また、梅の開花に合わせて一足先に春を感じる「梅つくし」という催しが開かれ、紅白の梅や寒紅梅、梅干に適した長束梅など、自然の梅から盆栽の梅までワンストップで堪能できます。更には、門前にある飲食店では「揚げみたらし 梅の香」や「梅ゼリー」といった梅に因んだスイーツも振る舞われ、味覚も愉しめます。 -
第一梅園「薫の苑」
「薫の苑」は、淳祐の住坊だった「普賢院跡」に造園されており、「薫」の名は淳祐の自筆本『薫聖教』に因みます。淳祐内供は菅原道真の孫でもあり、梅との縁は偶然ではないようです。
ここは境内の古木を選りすぐった梅園で、白加賀、白滝、藤牡丹、しだれ梅などが咲き誇ります。 -
第一梅園「薫の苑」
近年流行の「思いのまま」という品種で、野梅系・野梅性の遅咲きです。
別名「輪違い(りんちがい)」とも称され、中輪八重咲きで、紅と白、絞りなどを1本の木で咲き分けます。
品種名の由来は、品種改良の際に思うような色の花が出てこず、改良を手掛けた園芸家にとっては「思いのまま」にならず、梅にとっては「思いのまま」に花を咲かせることから命名されたそうです。 -
第一梅園「薫の苑」
まだ蝋梅(ロウバイ)が咲いていました。
中国原産のロウバイ科ロウバイ属の落葉低木です。蝋梅と名称に「梅」の字がありますが、梅はバラ科サクラ属のため蝋梅は梅の品種ではありません。初春に蝋でコーティングしたような質感の淡い黄色の花を開花させ、花に芳香があることから「梅」に例えられて「蝋梅」と呼ばれるようになりました。また別説では、花の咲く時期が臘月と呼ばれる太陰暦12月の頃だから、臘月の臘の字と梅を併せて「臘梅」と呼ばれるようになったとも…。
因みに蝋梅の香りは、梅のように目の覚めるような爽やかな香りではなく、もっと甘く優しい香りです。
花言葉は「慈愛」です。 -
心経堂
石山寺で唯一の丹塗りの堂宇で、とても目を引きます。
花山法皇西国三十三所復興一千年行事として長年納められた心経写経を永久保存するために1990年(平成2年)に落慶した、比較的新しい方形造、総檜造の堂宇です。
堂内の中央には八角輪堂が安置され、その一面には如意輪観世音菩薩半跏像、残りの7面には石山寺に奉納された写経を納めています。 -
第二梅園「東風(こち)の苑」
3つの梅園のうち真っ先に開花する「東風の苑」は、学問の神 菅原道真が詠んだ和歌に因む命名です。
梅をこよなく愛した道真の孫 淳祐が石山寺第3世座主を務めた縁から、「東風」の名前が採られています。ここでは鶯宿や早咲きの冬至梅や寒紅梅が愉しめます。 -
第三梅園「水仙の苑」
かつては「源氏の苑」と呼ばれていました。
「斜面に咲く黄色いラッパスイセンと色とりどりの梅花のコラボレーションが愉しめます。」と案内されているのですが、黄色い水仙は見当たりませんでした。
後で絵地図をよく見たら、場所を間違えていました。梅林が3分咲き、また、スイセンも開花が遅れていたことから、それと気付かずにスルーしてしまったようです。 -
第三梅園「水仙の苑」
枝垂れ梅と光堂のコラボです。
平安文学以外に「石山寺」が登場する小説には小泉八雲著『伊藤則資の話』があります。八雲は意図的に「石山寺」を登場させており、その名称が万人にインスピレーションを湧かせる地名であったことの証左かと窺えます。
不運の将軍 三位中将 平重衡の娘が「石山寺」で美貌の男を見かけ、恋わずらいの末に亡くなりました。そのため娘は、転生することも成仏することもできず、霊のまま長い年月を過ごしました。一方、美貌の男は何度か転生し、やがて伊藤則資という貧しい武士になりました。娘の霊は旅の途中の伊藤則資と偶然の再会を果たし、娘の屋敷で一夜を共にしました。そして刀と硯を交換し、霊の定めに従い10年後の再会を約束しました。この不思議な出来事を誰にも話すことができなかった10年は長く辛く、則資にとっては恋い焦がれ待ち詫びる10年でもありました。そして10年後、病み衰えた伊藤則資を闇の世界へと迎える駕籠がやって来るのです。 -
第三梅園「水仙の苑」
光堂を借景にした贅沢な梅林です。
意外にも、松本清張も短編『粗い網版』に石山寺を登場させています。
戦前の大本教の第二次弾圧をモデルにした新興宗教「真道教」に対する特別高等警察の内偵を通し、特高という権力者が煩悶しながらもその権力に溺れて行く様を描いた社会派小説です。福岡にいた秋島は内務省警保局の命令で京都府の特高課長に転任し、琵琶湖畔の「石山寺」近くにアジトを構え、密偵を入れて工作を展開していきます。新興宗教がはびこる社会要因と、国家権力が逸脱していくダートな世界を描いた作品です。
因みに「粗い綱版」とは文中に現れる謄写版印刷のアナグラムを指しますが、これは特高がでっち上げた印刷物であり、特高の焦りの描写に用いられています。そして、最後の2行に皮肉な結末を凝縮させています。
『大本襲撃ー出口すみとその時代ー』の著者 早瀬圭一氏の書評では「一部の名称以外はほぼ事実に即している」、また「松本清張はどのようにして早い時期に第二次大本事件の事実を知ったのか?」と疑問を投げかけています。ここにこそ、清張の真骨頂があるような気がします。 -
光堂
石山を発祥の地とする東レ株式会社が創業80周年を記念して寄進したもので、2008年落慶の新しい堂宇です。伝統的建築技法の懸崖造(舞台造)で建立され、鎌倉時代に焼失したと伝わる「光堂」と呼ばれた堂宇を復興再建したものだそうです。本尊には快慶作の阿弥陀如来坐像を祀り、各種の講和や説法がここで営まれています。 -
紫式部の銅像
光堂周辺は「源氏苑」と呼ばれる庭園になっており、その一画には紫式部像が安置されています。像は石山寺を訪れた式部が『源氏物語』の着想を得たまさにその瞬間を切り取っています。
この銅像は拝観受付所でいただいたリーフレットの表紙に載せられた土佐光起筆『紫式部図』をベースに制作されています。背面銘板には昭和54年(1979年)10月の建立とあり、嵯峨美術短期大学 佐和隆研学長監修、同大学 辻浩教授が制作されています。 -
『紫式部図』
土佐光起は、土佐光則を父とする江戸時代の土佐派を代表する絵師です。 長らく失われていた宮廷の絵所預(絵所に所属する絵師の長)に復帰し、「土佐派中興の祖」と称されました。絵所預であった承応3年から延宝9年(1654~81年)の間に描いたと推定されています。「引目鉤鼻の技法」を用いるなど光起独自の工夫により、式部を格調高く描いています。
因みに「引目鉤鼻」は平安~鎌倉時代のやまと絵で使われた技法で、 長い黒髪や面長の顔に細くて長めの目を引き、同じ筆線で鉤鼻を描くのが特徴です。尚、『紫式部図』は2019年に米国メトロポリタン美術館へ貸し出されていました。その際に石山寺から僧侶も出張され、開白法要をなされています。
この画像は次のサイトから引用させていただきました。
https://sekainorekisi.com/glossary/%E7%B4%AB%E5%BC%8F%E9%83%A8/ -
紫式部の銅像
この像の手に触ると「字が上手くなる」という迷信があります。
平時なら積極的に触りますが、時節柄遠慮させていただきました。 -
『夢の桜』
「紫式部の銅像」の周辺に咲く『夢の桜』と名付けられた520本の彼岸桜は、飛行機事故で亡くなられた方のご遺族が犠牲者を悼むために寄進されたものです。そのご遺族とは、石山寺 鷲尾遍隆 前座主の奥さんで副座主でもあった龍妙(りゅうみょう)さんです。1985年の日航ジャンボ機墜落事故で妹さんを亡くされ、その事故からひと月足らずで石山寺へ嫁がれました。
苗木は、520人の犠牲者を悼むため、事故の翌年から徳島県阿南市にある実家の寺院から3年間に亘って届けられてきたものです。お母様は「この世の寿命は短くても、桜なら何百年も生き続ける」との思いから寄進を思い立ったそうです。事故から37年経つ今では、鹿の食害で280本に数を減らしながらも境内の山を淡いピンク色に染め上げ、紫式部像をやさしく見守るように咲き誇っています。 -
『夢の桜』
心温まる後日譚もあります。
群馬県上野村の「御巣鷹の尾根」を管理する黒沢氏は、ボランティア仲間から桜の「鹿の食害」の話を聞き、2020年以降毎年、村で育てたヤマザクラの苗木を石山寺に寄贈されているそうです。
犠牲者への思いが込められた石山寺の桜は、これからも美しく咲いてくれることでしょう。 -
無憂園(むゆうえん)甘露の滝
無憂園の奥に落ちる落差4.5mの人工滝であり、石組みが見所です。
「甘露の滝」の名称は、法華経にある『観音経』から抜粋された「甘露法雨(甘露の法雨を注いで煩悩の炎を滅除す)」が由来だそうです。 -
無憂園 甘露の滝
「甘露」とは、インドの神々が常飲する、蜜のように甘く美味かつ不老不死を得る天酒です。これが仏教に引用され、苦悩を癒し、寿命を延ばし、幸福な日々を約束するものとされました。そしてそれが転じて仏の教えそのものが甘露に例えられました。つまり、「天から降り注ぐ恵みの雨が炎の勢いを抑え鎮火を促すように、私たちの心の中に湧き立つ煩悩の炎を仏の教えという法雨により鎮め、涅槃の地へと導いて下さる」という意味です。
仏の教えの如く尊い滝の音を傾聴しながら、東屋(大観亭)で一休みするのは贅沢なひとときです。 -
八大龍王社
見事な敷石の延段が幽境の世界へと誘います。
ここまで来ると周りは自然の音しか聞こえないため、深山幽谷の心境に浸れます。 -
八大龍王社
「龍穴の池」の手前に寂びた拝殿が佇みます。
鬱蒼とした木々が囲む仄暗い中にひっそりと佇む社は、『もののけ姫』の世界を彷彿とさせる神秘的な雰囲気を湛えています。 -
八大龍王社 龍穴の池
「無憂園」から更に奥まった所にあり、鬱蒼と樹木が生い茂る聖地に鎮まります。
『石山寺縁起絵巻』第2巻第6段は「当寺の西北の角に当たりて、龍穴あり。水澄み、波静かにして、誠に往昔の霊池と見えたり」で始まります。この池は龍穴とされ、炎天下でも請雨法を修すれば必ず雨が降るという伝説の池でした。
そして、次のようなファンタスティックな説話を記しています。
「平安時代の高徳僧 歴海が尻懸石に座って『孔雀経』を転読した。龍王の段になり龍王の名を読み上げると、名前に合わせて諸龍が次々に現れて読経に傾聴し、そのお礼に和尚が草庵に帰る時には和尚を背負い、草庵でも身近に給仕することまるで奴僕のようであった」。 -
八大龍王社 小祠
龍穴の池の中の島には小さな祠が建ち、釈迦の眷属として釈迦を守った守護神でもあり、仏法を守護する「八大龍王」を祀っています。八大龍王は、釈迦生誕の際、甘露を降らせてその生誕を祝福したとの逸話もあります。また、観音菩薩の守護神ともされ、観音さまの宝珠を身に宿して人々に福をもたらし願いを叶えてくれると古くから信仰されてきました。
弘法大師も密法をこの八大竜王の宝前に修せられており、「八大あって初めて家栄える」との霊言を残されています。 また、「八大竜王を尊信することを忘れてはならない」と教え、脳天大神を開顕して八大龍王を吉野山下道場に勧請されています。 -
八大龍王社 千年杉
池の畔には草創期のものと伝わる3本のご神木のうちの1本が聳えています。 -
八大龍王社 歴海和尚尻懸石
歴海和尚が読経する際に座っていた池の畔にある大きな丸い石は「歴海和尚尻懸石」と呼ばれます。
因みに『石山寺縁起絵巻』には、歴海和尚については「上古の寺僧」とあるのみです。『石山流人師方(にんしがた)血脈』を辿っていくと、歴海は淳祐内供の法流で真頼に始まる人師方の僧侶に当たり、990年代頃の一条天皇の時代に活躍されたと推測されます。血脈は「淳祐→真頼→雅真→歴海→修仁→増蓮→芳源→恵什」と連なります。歴海の師である雅真は、石山寺で密教を学び、952(天暦6)年に金剛峯寺座主寛空に招請され、高野山奥ノ院にある空海の廟塔復興の指導に当たったとの記録があります。このことから歴海も高野聖のひとりだったと窺えます。 -
八大龍王社
ここにも子育観音で見たような、地面を網目のように這う木の根が不気味な景観を創生しています。
龍穴ノ池の奥手には源頼朝の兄 義平が隠れたと伝わる谷があります。頼朝が石山寺に多宝塔を寄進したのは、義平を匿ってくれた謝礼であり、その際に寺領も与えています。平治の乱で敗れた義平は『平治物語』や『尊卑文脈』、『義経記』などに「石山寺辺りに潜んでいた」と記されています。
『平治物語』は次のように語ります。「源義朝一行は東国を目指して落ち延びました。義平は東山道から東国を目指すも、途中、父 義朝の死を知り、京に向かって平清盛を仇討しようとしました。しかし、1160(永暦元)年に石山寺に隠れているところを難波経房の郎党に捕えられ、六条河原において斬首された」。
因みに、義平の供養塔とされる宝篋印塔が谷筋の奥にあるそうです。鎌倉時代後期の作とされますが、聖域のため一般参詣者は立入禁止になっています。義平の菩提を弔うために建立されたのでしょう。 -
無憂園「噫 霊仙三蔵」の碑
霊仙三蔵は日本僧で唯一、唐の皇帝の命で仏典の翻訳に携わった人物です。1980(昭和55)年に無憂園に建立されました。高さ1.9mの主碑と略歴を記した副碑からなっています。
霊仙は、759年に息長氏丹生真人族の長子として、霊山山麓の近江坂田に生まれたと伝わります(阿波国出身説もあり)。幼くして仏門に入り、金勝寺別院霊山寺から奈良の法相宗興福寺に入山し、804年に最澄や空海と共に長安に仏教求法のために遣唐使として派遣されました。
霊仙は、般若三蔵に師事して梵語を修得し、新出の梵夾の筆受並びに漢訳の重責を果したことで大唐国 憲宗皇帝から「三蔵」の称号を贈られました。霊仙の漢訳版が1913(大正2)年に石山寺の経蔵から発見された一切経の中の『大乗本生心地観経』です。それまで翻訳者は般若三蔵のみとされていましたが、巻末に「醴泉寺日本国沙門霊仙筆受并譯語」とあり、霊仙が翻訳したことが記されていました。その縁で碑が建立されました。
最澄、空海は長安から帰国して天台宗、真言宗を開きましたが、霊仙は憲宗皇帝の側近かつ相談役を勤めた高僧でもあり、再三の帰国願いも、秘伝が国外に漏れるのを怖れて許されませんでした。やがて仏教を篤く庇護した皇帝が反仏教派により暗殺されるという事件に至り、霊仙は、皇帝の庇護下にあった仏教者の立場から身の危険を感じ、長安を逃れて仏教都市の五台山に隠棲しました。しかし、827年に五台山霊境寺の浴室院にて刺客により毒殺され、67歳の生涯を閉じました。霊山は故郷の土を踏めませんでしたが、遺物や大元帥法の秘伝などは、その後渡唐した円行や常暁により日本に持ち帰られたようです。
因みに三蔵とは「経・律・論」、すなわち釈迦が説いた「経蔵」、規律を示す「律蔵」、経を解釈・研究した「論蔵」の全てに精通した高僧に与えられる最高位の称号です。三蔵法師の号を賜った高僧は、仏教発祥の地インドでは般若他4人、中国では玄奘他1名、西域で1人、日本で1人と、世界中でわずか9人しかいません。 -
無憂園 柳島
石切場から細い小川を挟んだ向かい側に「柳島」があり、かつてはここに柳の木があったそうです。
1078(承歴2)年、本堂が火災に見舞われた折、いち早く難を逃れた観音さまがその柳の木に留まっていたとの伝承から「柳島」と呼ばれています。『石山寺縁起絵巻』第4巻第5段の詞書には「本堂が焼失したが、本尊は煙の中から飛び出され、池の中島の柳樹の上に光り輝いて止まっておられた」と記されています。
因みに本堂から飛び出したのは旧本尊ではなく、その胎内に納められていた小さな胎内仏です。塑造の旧本尊は胎内物を守って自らは焼けてしまいましたから…。
因みに、その胎内仏は2002年に本尊の像内背面上部に納められた厨子から発見され、4躯ともに炎に晒された形跡が窺えるそうです。その4躯は飛鳥時代作(7世紀)の銅造観世菩薩2躯と天平時代作(8世紀)の銅造観世菩薩1躯、飛鳥時代作の銅造如来立像1躯ですが、鷲尾隆輝著『石山寺 宝物篇』には「如来立像」が柳の木に留まった霊像であろうと記されています。その理由は、この如来立像が塑造の旧本尊が造られる以前の本尊(聖徳太子の念持仏)と見做されたからのようです。 -
無憂園
鯉の泳ぐ池、朱塗りの橋、そして小さな滝を配した琵琶湖の形を模した回遊式日本庭園で、文字通り日常の煩わしさから解き放ってくれる花園です。また、無憂園の上方には、「補陀洛山」と呼んでいる西国三十三所霊場の観音さまを祀った小径があります。因みに、石山寺の境内で唯一、食事OKなのがこの庭園です。
尚、石山寺の庭園は「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」で1つ星観光地(改訂第4版)に選ばれています。1つ星は「興味深い場所」となっています。
石山寺は『源氏物語』に何度も登場します。それだけ紫式部にとって思い入れのある場所と窺えますが、石山寺を『源氏物語』の描く仏教信仰の観点から考察すると興味深いものが炙り出せます。『源氏物語』には石山(9件)、初瀬(20件)、清水(2件)の観音さまが登場します。
最初は「関屋の巻」。「関屋」は関所に置かれた建物を指し、同時に「逢坂の関」にある建物を指します。ここでは源氏と空蝉の偶然の再開の舞台を逢坂の関に置くための手段として石山寺を用いており、粟田山や逢坂山を越え、打出の浜から舟を設えて瀬田川に沿って石山寺へ至るという都からの参詣ルートを描写しています。
源氏が石山詣のため華々しく行列を連ねて逢坂の関へ差し掛かった時、偶然にも任期を終えた常陸介の一行とすれ違いました。その中に常陸介の妻となった空蝉の姿もありました。12年程前、源氏は空蝉と無理やり契りを交わすも、その後の逢瀬は拒まれました。これにより源氏の自尊心は傷付けられ、空蝉への恋情を一層募らせたのでした。
源氏はその一行が空蝉たちと知り、あざとく空蝉の弟に「あなたの為に関まで迎えに来たが、この志をあなたも疎かに思われますまい」と伝えさせました。聡明な空蝉は源氏の誘いに乗りはしませんでしたが、これを契機に再び折々の便りを密かに交わす仲に発展します。しかし、空蝉はそれ以上を許さず、老いた夫の死後、出家するのです。 -
無憂園
次は「真木柱の巻」の冒頭。宇治 八の宮家の女房 弁の御許を利用して強引に玉鬘を手に入れた髭黒大将が「石山の仏をも、弁の御許をも、並べて預かまほしう(石山の観音さまと弁を並べて信心したい)」と至高の嬉しさを描写しています。これは髭黒大将が玉鬘との婚姻を石山寺に祈願していたとの設定です。しかし、玉鬘はすっかり落ち込んでしまいました。この一節に続く語り手の「げにそこら心苦しげなることどもをとりどりに見しかど心浅き人のためにぞ寺の験も現はれける」との感想には、往時、苦悩を抱えた女性たちが石山寺の霊験にすがったのが察せられます。 -
無憂園 柳島
巡礼者像が建てられています。
その次は「浮舟の巻」。匂宮が宇治の地に秘匿された浮舟の元へ薫の振りをして忍び込んだのは、浮舟が石山詣へ出かける前夜でした。石山詣はこの闖入事件で中断されますが、この件について「浮舟の巻」で3度も執拗にリフレインしています。ここでは浮舟を庇護する初瀬観音に大願を立てた直後という設定ですが、浮舟が匂宮との関係を契機に苦悩のどん底へ堕ちてゆく展開を、あたかも「女性が救いを求めて参詣する石山寺に行けなかったから」とでも言いたげです。そして、薫と匂宮との板挟みに悩む浮舟に二者択一するよう勧める右近が「とてもかくても、事なく過ぐさせたまへと、初瀬、石山などに願をなむ立てはべる(初瀬や石山の観音さまに願掛けしております)」と言うのも、浮舟の運命の起伏が観音の意志に基づくものであり、この言葉に却って追い詰められて死を願うようになったのを察すると、「初瀬」と「石山」を対比させ、後者は浮舟を悲劇へと導くアレゴリーとしている気がします。 -
柳島から見上げる本堂
最後は「蜻蛉の巻」。薫は浮舟失踪の知らせを受けても捜索しませんでした。浮舟の葬儀後に明かされたその理由は、母親の病気平癒を祈願するために石山寺に参籠していたためでした。
もし失踪直後に薫が捜索していたら一命を取り留めた浮舟の出家は叶わなかったのが道理であり、ここには作者の作為が込められていると窺えます。その足止めの手段に使われたのが「石山」です。このように「石山」は薫と浮舟を引き離し、浮舟を追い詰める場面に必ず登場するキーワードです。
このように「玉鬘物語」や「浮舟物語」を読むと初瀬観音が庇護する女性に負の作用をもたらすのが石山観音と映るかもしれません。しかし、もし失踪直後に薫が捜索していたら浮舟の出家は叶わず、薫と匂宮の板挟みという悲惨な状態が延々と続いたはずであり、浮舟にとっては生き地獄そのものです。そう考えると「石山」は結果的に浮舟にプラスに作用したのではないかと考えられます。そして真に負の作用を被ったのは、源氏や薫と言った女性を傷付けた男性と言えまいか…。つまり、紫式部は「女性を救うのが石山観音」ということを逆説的に強調したとするのは深読みでしょうか? -
石切り場跡
本堂南面の下方にある石切り場跡には硅灰石が露出しており、ここ以外にも境内に15ヶ所の採石痕があるそうです。『石山寺縁起絵巻』第4巻5段に描かれた1078(承暦2)年の本堂火災の場面には、切り出し途中の岩が描かれています。この地は天智天皇の世から石材の産出地でした。事実、天武天皇の開基とされる飛鳥川原寺 中金堂の礎石が石山寺から運ばれた硅灰石と比定されています。瀬田川から淀川、そして大和川を遡って遥か飛鳥の地まで運ばれたというロマン溢れる礎石です。
では、何の目的でわざわざ近江から飛鳥まで運ばせたのでしょうか?石山寺周辺は天智天皇が保良宮を構えた地です。天武天皇は壬申の乱で勝利すると天智王権が開発した硅灰石に着目し、それを天智王権の残党に苦役として運ばせたのではないでしょうか?壬申の乱は672年7月に終焉、筑紫の川原寺の飛鳥移築は673年3月に完了しており、時系列的には整合しています。つまり、壬申の乱の戦勝記念の礎石の上に川原寺 中金堂を建てることで、勝利を世間に認知させる広告塔としたと考えるのは早計でしょうか? -
天狗杉
参道の奥に聳える草創期以来の大杉で、千年杉とも呼ばれる石山寺のご神木のひとつです。
天狗杉とも称され、石山寺屈指の学僧 朗澄律師が死後に金色の鬼に姿を変えた護法善神となって樹上に現れたと伝わります。二股になっている箇所があり、そこに現れたのでしょうか?
「鬼」の姿で現れたのに「天狗杉」と名称は奇妙ですが、古来この手の巨大な杉を「天狗杉」、対で植わっていれば「夫婦杉」と称するのがデファクトスタンダードです。
『石山寺縁起絵巻』第6巻第2段には次のような逸話がありますが、これとは別に天狗杉の上にも現れたようです。
朗澄律師は、「死後鬼の姿となり、聖教を守り、法に従わない人々を改めさせる」と宣言しました。朗澄律師の死後、その教えを受け継いだ弟子 行宴は「師はどこにおられるのか?」と熱心に祈りました。ある時、行宴は「山の峰の松の梢に師が現れる」という夢を見ます。夢から目覚めた行宴がその場所へ急行すると、虚空から「印を結んで両眼にあてて見ろ」という声が聞こえました。その通りにすると、厳しい表情で四方を見渡す金色の鬼が現れました。 -
閼伽井屋
天狗杉から少し下った所にある、神秘的な紺碧の清水を湛えた放生池の畔に、コントラストを添えるように素木造の「閼伽井屋」がチョコンと佇みます。本堂にある本尊の御座の下に水源があると伝えられ、古来、閼伽水として本尊にお供えされている霊泉です。閼伽井屋はその覆屋として建てられたものです。
切妻造の小さな堂宇ですが、正面に格子戸を設けています。内部は大きな岩盤に水を溜め、神聖なる井戸の趣です。 -
水車
参道は左にカーブし、その角に古びた水車が1基置かれています。
室町時代に成立した『石山寺縁起絵巻』第5巻には瀬田川の水を汲み上げる水車の図が描かれていることから、それに倣って江戸時代に境外200mほど離れた地にあったものをここへ移設したものです。水車を用いて脱穀していたとの記録もありますが、現在はただ置かれているだけです。
因みに、水車は何処で誰が発明したかは定かではないそうですが、記録に初見されるのは 紀元前1世紀のことです。ギリシアの地理学者ストラボン著『地理学』に小アジアのポントス王国のミトリダテス王がカペイラに宮殿を建てた際、水力製粉所を造らせたと記されています。また、『日本書紀』には、610(推古18)年に中国大陸を通り、朝鮮半島の高麗を経て「碾磑(てんがい=水力による脱穀製粉用の石臼)」という名で日本へ伝わったと記されています。 -
茶丈「密蔵院」
密蔵院は参詣客にお茶を提供していた施設であり、かつては現在の表境内、東大寺門北東付近にありました。
現在は参道の西の突き当りに移築されています。 -
茶丈「密蔵院」
島崎藤村も石山寺に2ヶ月ほど逗留し、その暮らしぶりを『茶丈記』に綴りました。1893(明治26)年、明治女学校高等科英語科の教師を務めていた折、教え子を愛した自責の念から教職を辞し、キリスト教を棄教して関西放浪に旅たちました。そして22歳の時、茶丈 東池坊密蔵院にて寄宿生活を送りました。その際、愛読書『ハムレット』を石山寺に献じ、紫式部の霊に芸術達成を祈願しました。その後、京都、神戸、高知へと旅を続けて石山寺へ戻り、1間を借りて自炊生活を始めました。尚、藤村は、ここでの体験を基に『春』を書き下ろし、かつて想いを寄せた女学生を勝子の名で描写しています。 -
茶丈「密蔵院」
透谷、星野天知の雑誌『文学界』第七号で発表された『茶丈記』は次のように記しています。
「そもそも石山寺といふは名にしおふものさびたる古刹にして、かの俳士芭蕉庵が元禄のむかし幻住の思ひに柴門を閉して今はその名のみをとどめたる国分山をうしろになし、巌石峨々として石山といへる名も似つかはしきに、ちとせのむかし式部が桐壺の筆のはじめ大雅の心を名月に浮べたる源氏の間には僅にそのかたみを示して風流の愁ひをのこす。門前ちかくに破れたる茶丈の風雨のもれたるをつくろひ、ほこりをたたき塵を落して湖上に面したる一室をしきり、ここにしばらく藤の花のこぼれたるを愛す。」 -
大湯屋
大黒天の西側に建ち、妻を正面とする切妻造、桟瓦葺、寺院の風呂場(沐浴施設)として使われたものと窺えます。スケールは東大寺の大湯屋の半分程、内部は前室、脱衣場、浴室の3室構成のようです。こうした湯屋は全国的に例が少なく、貴重な遺構のひとつとされます。
風呂は6世紀頃に中国から仏教伝来と共に日本へ渡り、寺院には浴堂(蒸し風呂)が設けられていたようです。経典にも「入浴によって7つの難を取り除き7つの福が得られる」と記されています。
『石山寺年代記録』には、現在の建物として「浴室」、そして退転した建物として「大湯屋」が挙げられていますが、浴室は1665(寛文5)年に再建されたことが記されています。しかし大棟の鬼瓦の銘に享保18年(1733年)の刻銘があるため、その頃に改修されたものと窺えます。
時代考証すれば、この大湯屋はおそらく蒸気風呂であり、土間にすのこを敷き、大釜から熱湯を掛け湯したものと思われます。 -
大湯屋
屋根棟の中央にも鬼瓦を載せているのは珍しいと思います。 -
東大門
東大門に安置された「無事かえる」が、お見送りしてくれます。
この真鍮製の「お賽銭箱」は株式会社 瀬戸内仏具店から寄進されたものだそうです。
大きな口がお賽銭の入口となり、重さ100kgもあるそうです。
お賽銭は文化財や堂宇の修復費などに充てられるそうです。 -
叶 匠壽庵(かのう しょうじゅあん)石山寺店
柳の枝にカラフルな餅を小さく丸めて付けた「餅花」が東風に揺れています。
「叶 匠壽庵」の歴史は意外に浅く、創業は1958(昭和33)年です。創業者 芝田清次氏は、元々は大津市役所の観光課職員でした。往時の大津市には観光の目玉となるものがなかったこともあり、「目に見えない日本人の優しさ、美しさを伝えたい」という一念で39歳の時に退職し、素人にも拘わらず茶道を学んだ経験を活かして大津市長等にあった自宅を工場として菓子づくりを始めました。社名には「お客様のお口に十分適うよう、練り上げた手作りの芸の持ち味を発揮し、いつまでも末永くお歓び頂ける様な和菓子を創りだしていこうと心掛けていく、地味でつつましい菓匠」という意味が込められています。 -
石山寺名物「石餅」
「叶 匠壽庵」石山寺店でのみ提供されている名物「門前餅」です。
石山寺は福徳や縁結びのお寺として広く知られ、雄大な硅灰石は寺名の起こりとなりました。かつて明治時代中頃までには石山寺硅灰石を模した「石餅」があったと寺僧から聞き及び、身体を清め、力が宿り、石のように固い絆が結ばれるようにと祈念してそれを食した故事を元に「叶 匠壽庵」が復元したものです。 -
石山寺名物「石餅」
生命力の源となる白餅と蓬餅をねじり合わせることで絆を表し、その上に石山寺硅灰石に見立てた粒餡を「これでもか!」と言いたげに大胆に載せています。無事息災の願いと共に、大切な方との絆がより一層深まるよう願いを込めて食していただきたいとのことです。
お餅は求肥餅のように柔らかく、かつ弾力に富み、ヨモギの風味がほんのりと香る逸品です。一粒ひと粒が存在感を主張する大納言小豆の粒餡は、噛むほどに豊かな甘みと旨味が口いっぱい広がります。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。 -
おまけ1
娘夫婦が飼っている猫の「八朔(はっさく)」です。
横浜育ちですので、コロナ禍もあり初めての我が家訪問となりました。
丸まって「いないいないばあ~っ!」をして遊んでいるところを激写!
長旅お疲れさまでした。健やかに成長してね!
名の由来は、誕生日が8月1日で「八月朔日(はちがつさくじつ:略して八朔)」であることと、小さい頃は果実の八朔のような黄色味を帯びた毛並みだったからとか…。
因みに8月1日は徳川家康が初めて江戸城に入った日と言われており、八朔は正月に次ぐ大切な日として江戸幕府から認定され、八朔の日には大名たちが江戸城に集結して将軍に祝辞を述べたそうです。また、柑橘類の八朔は広島県因島市にある恵日山浄土寺の境内で偶然発見されました。発見した住職が「8月1日になれば食べられる」と言ったことから八朔と名付けられたそうです。でも、八朔は冬の果物ですから、実際には8月1日に食するのは無理ですので気を付けてください。 -
おまけ2
「八朔」は、このようにプレーリードッグのように後ろ足で立ち上がり、じ~っと一点を凝視するしぐさをよくします。当方には目線の先に何も見えないのですが、ひょっとすると「座敷わらし」でも住み着いているのかも!?
因みにプレーリードッグが立ち上がる理由は、天敵を警戒するためです。野生のプレーリードッグには天敵が多く、常にプレーリードッグを捕まえて食べようとする動物たちに狙われています。そのため立ち上がってできるだけ視野を広げ、天敵が遠くにいるうちに見つけようとしているそうです。 -
おまけ3
3月30日に武庫川河川敷緑地へお花見に行ってまいりました。
昨年訪れた際の旅行記は次のサイトを参照してください。
https://4travel.jp/travelogue/11747313 -
おまけ4
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おまけ5
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おまけ6
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