2023/03/06 - 2023/03/06
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montsaintmichelさん
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うねるが如くの荒波を彷彿とさせるダイナミックな天然記念物 石山寺硅灰石と優美な日本最古の多宝塔のコラボレーションは圧巻でした。紅葉の季節にはここに朱が差すため、よりコントラストが強調されると思います。
また、紫式部が琵琶湖対岸の金勝山から昇る十五夜の月が眼下の瀬田川面に映る美しい情景からインスピレーションを得て、大般若経の紙を借用して『源氏物語』を書き始めたと伝わる本堂にある「源氏の間」では式部とその娘の賢子と対面してまいりました。
更には、本堂の本尊が、二臂像でありながら、本来は六臂像である「如意輪観音」と同じ尊名である謎についてあれこれ思いを巡らしてまいりました。
『石山寺縁起絵巻』にある興味深いエピソードについても触れてみました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- JRローカル 私鉄
-
石山寺公式HPの「境内ご案内」にある絵地図です。
https://www.ishiyamadera.or.jp/guide/precincts -
くぐり岩
奈良時代からある天然の胎内潜りができる聖域であり、この穴を潜ると願いが叶うと伝わるパワースポットです。池を渡って空洞になっている部分を潜れます。
本堂が建つ硅灰石同様に貫入したマグマによって石灰石が接触変成作用を受けた岩盤帯ですが、こちらは大理石(結晶質石灰岩)です。表面に生した苔のため灰色がかって見えますが、本来は白亜の輝きを放つそうです。大理石に含まれる炭酸カルシウムが水に含まれる炭酸で溶かされ、それで空洞ができたとされます。
雄大な硅灰石の岩盤の下方にこうした大理石があるのは、この急な大坂(階段)の途中に変成岩の境界があるということです。駒札には「このあたりの岩は全部大理石である。奇岩怪石の幽遂の境中天然自然に体内くぐり状態をなす。この池は天平時代のものである」とあります。 -
くぐり岩
ここがくぐり岩の入口です。
結構狭まい入口なので躊躇してしまいます。 -
くぐり岩
途中、このように少しだけ膝を曲げて進む箇所があり、足腰が弱い方にはお勧めいたしません。 -
くぐり岩
ここが出口です。
潜る距離は5m程だと思います。 -
比良明神影向石(ようごういし)
参道の中央で出迎えてくれるのが比良明神影向石です。明王院の門前に、注連縄と御幣を施し、竹菰で覆った石が安置されています。一見、井戸と思ってスルーしそうになりますが、石山寺の創建に深く係わる重要な石です。「影向」とは「神仏が仮の姿となって現れること」を意味します。
かつてこの辺りが琵琶湖の湖中だった頃、良弁が金峰山の蔵王権現のお告げで東大寺大仏用の金を祈願する地を求めてやってきた時、比良明神の化身である老人が釣り糸を垂れていた石とされます。良弁は、その老人に導かれて巨大な岩の上に聖徳太子の念持仏「金銅如意輪観音像」を安置し草庵を結びました。
因みに、比良明神は、高島市にある白髭明神(地主神)の別称でもあり、琵琶湖が7度変じて葦原になるのを見とどけた長命の神と伝わり、記紀神話の天地創造と共にあった神です。石山寺の手前には瀬田川が流れており、奈良の寺院建立の資材を湖南で伐り出して水路で運んだと伝えますから、古来、都との結び付きは深かったと窺えます。 -
明王院
修行の場であり、研修道場があります。 -
手水舎
手水鉢から溢れた水は直下の池に注がれ、池には大きな鯉が悠々と泳いでいます。水に恵まれた湖国ならではの演出と言えます。
この池を含めた周辺は古を偲ぶ蓮池であったそうです。因みに、境内の天然水は手水舎と閼伽井屋の岩陰から湧き出しています。 -
手水舎
何故、龍が吐水口のモチーフに使われているのかと言えば、昔から龍神が水を司る神様として崇められてきたからです。水は全ての生き物の命の源です。命を繋ぐ水は尊いものであり、神道では穢れや邪気を祓う神聖なものとされました。神社の手水舎で、左手、右手と水をかける行為は心身を清めるために行うものですから、この水を「龍神から出ている水」と見せることで「神聖な水である」ことを表現しています。「水に流す」という言葉は、水が穢れや邪気を祓うことが語源ですし、「禊」も「身濯ぎ」が由来だということを鑑みると、水が如何に神聖なものだったかが判ります。 -
手水舎
手に水をかける際に腰をかがめると、不動明王と目線が合う仕掛けです。
関西では観音さん信仰が多いのですが、関東はご不動さん信仰が多いそうです。これは平将門の乱を平定するために京都 神護寺の空海作のご不動さんが関東へ出張され、成田山新勝寺に留まって帰らなかったことにルーツがあるそうです。新勝寺は今でもご不動さんの賃料を支払っているそうです。 -
那須与一地蔵尊
本堂正面直下の参道から発見された地蔵尊を本堂へ通じる大坂(石段)の下の小さな祠で祀っています。4体の風化した石仏が祀られており、屋島の戦いで平氏の船上にある扇で的を射抜いた那須与一が石山の地で療養中に信仰した地蔵尊と伝わります。与一は地蔵信仰が篤かったとされ、この地蔵をお参りすると痛い所が良くなると伝わります。
与一は屋島の戦いの武功で源頼朝から荘園をもらい那須家を継ぎましたが、その後については不詳です。一説には「即成院で出家した」とされます。京都に向かう途中で急病に倒れ、伏見で療養していた折、即成院の阿弥陀如来を篤く信仰したのがきっかけです。療養の甲斐あり、屋島の戦いで武功を挙げることができたそうです。戦後、即成院にて出家し、源平合戦で没した者の菩提を弔う人生を歩んだと伝わります。この説によると、10代後半で出家し、30代の時に阿弥陀如来の前で没するまでの余生を過ごしたことになります。源氏と平氏、頼朝と義経の争いを目の当たりにした与一は、「驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」と諸行無常を感じて出家を決意したのかもしれません。石山寺は伏見からも近く、療養中に参詣していたことでしょう。 -
大坂
この大坂を上り詰めた本堂下に天然記念物である硅灰石の露頭があります。 -
龍蔵権現社
本堂へ向かう大坂(石段)の半ばに佇み、磐座の上に鎮まった厳かな雰囲気を湛えた社です。
1247(宝治元)年、勧進沙門 祐円が再興するも天明時代に朽損し、明和年間(1764~72年)に一間社春日造、檜皮葺屋根の姿で再々興されました。 -
龍蔵権現社
調べてみると、「龍蔵権現」とは龍神が仮の姿で現れた磐座という意味です。「龍蔵権現」については織田得能著『仏教大辞典』をはじめ関連文献にも明確な記述はなく、唯一、「その昔、みちのくに黄金花咲くと歌われた金華山の黄金山神社の本尊が龍蔵権現とも金華山弁財天とも呼ばれていた」とあり、金華山黄金山神社では中世以降の神仏混淆の頃は「金山毘古神・国常立神・龍神」を「龍蔵権現」と称し、「金山毘売神」を「弁財天」として祀っていたものと窺えます。 -
龍蔵権現社
女性が本堂参詣の前にこちらでお参りすると更に幸徳が得られると伝わります。
金華山黄金山神社の頂上奥殿にある大海祇(おおわだつみ)神社の祭神の遷移同様、神仏分離令により祭神が復古し、女性の守護神 弁財天(市杵島姫比売神:いちきしまひめのかみ)が祀られていると仮定すれば腑に落ちます。何故なら、この黄金山神社がある黄金山(出金山)こそ良弁の祈願で黄金が発掘された場所ですので、石山寺との縁は切っても切れません。因みに、黄金を発掘したのは陸奥守百済王 敬福と言う帰化人です。聖武天皇が建立した東大寺大仏は反藤原氏の最たる象徴ですが、その建立において藤原氏ルーツの百済からの渡来人が大車輪の活躍をしたとは皮肉なものです。 -
千年杉
大坂の右側に聳えるのは幹周4・3m、樹高30m、石山寺草創の頃からある老杉「千年杉」と紹介されています。
この老杉を含めて境内には3本の「千年杉」があります。通常は幹周5mで樹齢千年とされるのですが、ここの杉は年輪密度が高いようです。 -
石山寺硅灰石
大坂を登りきると目の前にこうした景観が開けます。その迫力には圧倒されます。
境内一面に露出する奇岩は古くから磐座信仰の祭祀場でした。「石山」の名の由来は、奇岩があちらこちらに露出する伽藍山(標高239m)の一部に伽藍が築かれたことです。この奇岩の正体は珪灰石からなる石灰石岩ホルンフェルスです。通常は「珪灰石」の文字を用いますが、文化庁や石山寺などでは「硅灰石」を用いています。
専門的に解説すれば、カルシウム分に富む石灰岩が花崗岩などのマグマと接触して熱作用を受けて変成し、石灰岩の方解石とマグマ内の珪酸が反応して生成したスカルン鉱物(接触変成鉱物)です。通常は大理石になるため、これほど大規模な硅灰石は希少だそうです。この景観に神秘と畏怖を体感した古代人が霊場と崇めたのは想像に難くありません。因みに、硅灰石となるか大理石となるかは、石灰岩の純度や変成時の圧力と温度の関係で決まるようです。この辺りの地質は美濃帯に相当しますが、中生代のプレートの沈み込みで形成したため「ジュラ紀付加体」と呼ばれます。石山寺硅灰石は、この付加体の中に取り込まれた石灰岩オリストリス(異地性岩塊)起源と推定されます。 -
観音堂
千年杉の先に佇む小振りの堂宇です。
江戸時代の尊賢僧正による『石山要記』には、宝暦年間に京都の「市人三井某老尼」の志願によって建立されたと記されており、往時は「札堂」と呼ばれていました。建物の木部に残された多数の釘穴は、参拝者が札を奉納する場所であったことを裏付けています。平屋建、入母屋造、桟瓦葺、外壁は真壁造白漆喰仕上げです。
内部は石山寺の本尊を含めた西国三十三所観音霊場の全ての観音さまを拝めます。中央に安置されているのが如意輪観世音菩薩半跏像です。内部は写真撮影禁止のようです。 -
毘沙門堂
観音堂の左側に佇みます。江戸時代の1773(安永2)年に建立され、毘沙門天の異形の一形態である兜跋(とばつ)毘沙門天(平安時代作:重文)を中尊に、その妻「吉祥天」と末子「善膩師(ぜんにし)童子」立像を脇侍に配し、家族3人が並んでいます。
毘沙門天像の制作年代と経緯は不詳ですが、9~10世紀頃の制作とされています。 -
毘沙門堂
堂宇の施主は軒札から兜跋毘沙門天への信仰が篤かった紀州藩士 藤原正勝、大棟梁は大津の高橋六右衛門と治郎兵衛が手掛けたことが判っています。創建の2年前には江戸の大火「行人坂の大火」や田沼意次の政治改革が不評を買うなど、閉塞感に満ちた時代背景があったようです。また、七福神ブームの真っただ中であり、庶民の暮らしを豊かにする福の神として毘沙門天が求められたのです。
盤宝珠を乗せた宝形造桟瓦葺、本来は宝形の平面でありながら間口と奥行きの長さを違える特異な構造で方三形を崩しており、工法や意匠なども独特です。 -
毘沙門堂
須弥壇前の柱筋の中央間は組物上の通し肘木を虹梁型に加工し、その紂王に大瓶束を載せて天井を受ける特殊な意匠です。 -
毘沙門堂
兜跋毘沙門天を中尊に、その妻「吉祥天」と末子「善膩師童子」立像を脇侍に配しています。
須弥壇前の柱筋の中央間は組物上の通し肘木を虹梁型に加工し、その紂王に笈型付きの大瓶束を載せて天井を受ける特殊な意匠です。 -
毘沙門堂
「兜跋」とは「長い外套様の上着を付けた」など諸説ありますが、唐からの請来像とされ、四面宝冠を被り、長い金鎖甲、海老籠手を付けて地天女の掌上に立つ姿が一般的です。西域兜跋国(現在のトゥルファン)に毘沙門天がこの姿で現れたとの伝説に基づきます。しかしここの兜跋毘沙門天は、鎧を纏わず、宝冠を被らずに丸まげ姿で、東寺像類型には属しません。左手に毘沙門天のシンボルである仏塔、右手に三叉戟(古代中国の武器)を握り、腰に長刀を付けた像高174cmの一木造ですが、それを大地を司る地天女の両手の上に立たせ、地天女は小鬼(尼藍婆、毘藍婆)を脇に従えています。王城鎮護兜跋の役目を負う勇ましい武神と言えば異国風の東寺像が思い浮かびますが、それと比べると控え目の毘沙門天像です。
兜跋毘沙門天には西域色が濃厚な東寺像、中国化された延暦寺神将像形式、両者の折衷様の3類型があり、石山寺像は延暦寺系に属すそうですが、東寺像特有のモチーフも数多く認められ、折衷様と窺えます。また、石山寺の真言密教化に貢献した醍醐寺 聖宝が造像を主導した可能性も否めません。 -
毘沙門堂
謡曲『源氏供養』は石山寺が舞台です。
安居院の法院が、石山寺へ参詣の途中、見知らぬ女に呼び止められます。女は「自分は『源氏物語』を書き、物語は後世まで残ったが、光源氏の供養をしなかったため、いまだ成仏できず、光源氏と自分の菩提を弔って欲しい」と懇願します。
やがて法院が石山寺にて供養を行うと、そこに紫式部の霊が現れ、供養のお礼にと舞を披露します。そこで法院は、式部が如意輪観音菩薩の化身で仮にこの世に現れたものであったことと、『源氏物語』はこの世が儚い夢であることを人々に知らせるために書かれた作品であることを悟ります。 -
宝篋印塔
毘沙門堂の左側に立つ宝篋印塔は、塔身の梵字や笠の耳飾りなどの特徴から南北朝時代の作と比定されており、高さ182cm、基礎から相輪まで揃っています。
駒札には「四方に四国八十八所霊場の土が埋めてあり、これを廻ると八十八所を巡るのと同じ功徳が得られると云う」とあります。 四国八十八所霊場と言えば、池田隼人元総理がお遍路参りを行い、奇跡的に難病が治って議員になり、総理大臣にまで昇り詰めたという逸話があり、霊験あらたかです。
宝篋印塔の起源は、紀元前3世紀のインドでアショーカ王が諸国に8万4千の仏塔を建立して仏舎利を分納したとの故事に習い、中国の呉越王 銭弘俶が延命を願って955年に8万4千の「金塗塔」を造り、その内部に息災安穏長寿の呪文『宝篋印陀羅尼経』を納めて諸国に配ったことが始まりとされます。そのうちのひとつが平安時代に日本に伝わり、鎌倉時代中期に密教系の塔として盛んに造立されました。 -
蓮如堂(重文)
桃山時代の1602(慶長7)年、淀殿の寄進で三十八所権現社の拝殿として建立された入母屋、懸崖造(舞台造)の建物です。その後、1811(文化8)年に桟瓦葺に改修されています。妻を正面入口とし、その突き当たりの妻面を壁として閉鎖的に扱い、更に本殿側の一間通りを広縁とする礼拝空間にするなどユニークな構造です。よく見ると堂宇は硅灰石の崖にせり出して建っています。
明治時代初頭に発令された神仏分離令により神式が廃されましたが、蓮如6歳の時の御影や遺品を祀って蓮如堂と呼んで拝殿の存続を図ったようです。蓮如は室町時代の浄土真宗の僧ですが、形見の品とされる「鹿子絞りの小袖」が石山寺に奉納されたことや、蓮如の母親が「石山観音の化現」と言われた縁により祀られたようです。
真言宗寺院に浄土真宗の蓮如を祀る堂宇があるのは奇妙ですが、苦肉の策で蓮如の母の伝承を拠り所に蓮如を浮上させたのでしょう。 -
蓮如堂
須弥壇には『蓮如上人6歳の御影』が祀られています。
蓮如は本願寺派を武家に比肩する勢力へと変革して「浄土真宗 中興の祖」と称されました。16歳で出家、30歳から教化のため東北~北陸を巡り、法難に遭いながらも各地に寺を建立して浄土真宗を再興しました。
では、蓮如と石山寺にはどんな関係があったのでしょうか?蓮如は幼少名を布袋丸と言い、父は第7代法主 存如、母は本願寺の下女だとも被差別民だとも伝わります。6歳の時、父に正式な婚姻話が持ち上がって母は潔く身を引き、布袋丸に赤地に白斑の鹿子絞りの小袖を着せて形見の肖像画を描かせました。そしてその絵を胸に抱き、「いつか御流を興したまえ」と言い残して故郷へ帰りました。やがて蓮如を名乗ったある日、石山寺で見覚えのある絵を見つけました。これは母が胸に抱いていた我が姿に他ならぬ!もしやこの近くに母が居るのではと、生涯捜し求めるも再会は叶いませんでした。こうした経緯から、蓮如の子息 実悟著『拾塵記』は「蓮如の母親は石山寺におわす如意輪観世音菩薩の化現だった」と結んでいます。因みに、「蓮如の母は、本願寺を離れた後、石山寺に入山」との説もあります。
絵との再会から10年後、蓮如43歳の時に父が没して跡目争いが勃発しました。蓮如のライバルは正妻の子。遡れば、本願寺の草創時にも異母兄弟たちによる跡目争いがありました。そんな中、争いを嫌って自ら身を引いた蓮如の母の潔い姿を観音さまに見立てたのでしょう。
不思議なのは現在の石山寺には『鹿子の御影』はなく、それは越前 超勝寺はじめ全国に8点奉納されています。因みに、この蓮如堂に祀られている『蓮如上人6歳の御影』は鹿子絞りの小袖を着たものではありません。
超勝寺HPには「超勝寺4代目住職 蓮超は蓮如上人の御女 蓮周尼を内室に迎えたが、『鹿子の御影』はその時に形見として蓮如上人が蓮周尼に与えられたものである」と記しています。石山寺の伝承をベースとすれば、絵画は石山寺→蓮如→蓮周尼→超勝寺という系譜で伝わったと窺えます。となれば、他の絵画は超勝寺の作品の模写なのでしょうか? -
御影堂(重文)
毘沙門堂から少し北側に進んだ地に佇みます。
『石山要記』や『石山寺年代記録』によると、元々は三昧堂もしくは法華堂と呼ばれる法華三昧の道場でしたが、石山寺第3世座主 淳祐(しゅんにゅう)内供の住房だった普賢院が倒壊した際、弘法大師、良弁僧正、淳祐内供の御影を普賢院から移して御影堂と改名したようです。 -
御影堂
1398年の創建当初は中央一間に須弥壇を置く形式でしたが、慶長期に円柱など軸組を残し大改修が行われ、江戸時代の享保年間に虹梁を加え、後方を内陣とする改造がなされて現在に至ります。宝形造、檜皮葺の外観は正面及び両側面の中央を板塀とし、半蔀を吊り、障子を立てています。 -
御影堂
内陣には淳祐内供坐像(塑造)が安置され、その背後の壁に真言宗開祖 弘法大師 空海の御影が掛かっています。像高77.6cmの塑造には墨書銘が残されており、室町時代の1398(応永5)年に往時の座主 守快が開眼供養されています。 -
御影堂
『滋賀県百科事典』によると、像内には1393(明徳4)年の墨書がある経木24枚と1392(明徳3)年の年記がある地蔵印仏1巻が納められているそうです。
因みに、印仏とは正月1日から1体1印の地蔵版木を1日6体ずつ捺すことを始め、1年を通して自身の没後のための逆修善や故人のための追善を行うことです。 -
石山寺硅灰石
うねるが如くの荒波を彷彿とさせるダイナミックな巨岩が目の前に現れます。硅灰石の上方に優美に聳えるのは源頼朝の寄進で建立された日本最古の多宝塔(国宝)です。その佇まいは1952年発行の4円切手の図案にもなりました。険しい人間界の山を登れば、清らかな仏の世界に辿り着くという仏教哲学の縮図そのものです。まるで山水画の世界に迷い込んだような景観は石山寺を象徴するものです。
しかし、岩盤の荒波の上に天を突き刺すように多宝塔が浮き立つ光景を「偶然の産物」と称するのは口惜しい気がします。何故なら、「ホルンフェルス」はドイツ語の角(Horn)と岩(Felsen)を合わせた「堅い岩石」を意味する造語であり、多宝塔はその形から「角」になぞらえることができるからです。この景観こそ正真正銘の「ホルンフェルス」と言えるのでは!? -
石山寺硅灰石
この硅灰石の手前に咲く古花の奈良八重桜は「良弁杖桜」と称され、奈良時代に石山寺を開山した良弁僧正が持っていた杖が根付いて桜木になったという伝説に由来します。白洲正子著『近江山河抄』では、「石山、石部、岩根など、良弁には石と縁のある地名がつきまとうが、彼が山岳信仰の行者であったこと、土木の親方であったこととも無関係ではあるまい」と地名と良弁との関係に触れています。
因みに「奈良八重桜」は遅咲きの品種で、聖武天皇が若草山東方の佐保川水源にあった鶯の滝周辺で見つけ、宮中に持ち帰ったとの伝承があります。奈良市の「市の花」にもなっています。 -
本堂(国宝)
奥が本堂、左が蓮如堂です。
現在のような本堂になった年代は不詳ですが、761~762年にかけて造東大寺司(ぞうとうだいじし)によって拡張されたことが『正倉院文書』に記されています。その後、平安時代の1078(承歴2)年に落雷で半焼後、1096(永長元)年に寄棟造、檜皮葺で再建されています。『石山寺縁起絵巻』第4巻にある藤原道長が参籠する場面には再建後の本堂の姿が描かれています。
内陣は平安時代中期に改修、外陣は桃山時代の1602(慶長7)年に淀殿の寄進により増築されています。外陣の礼堂部分は懸造(舞台造)になっており、正堂とその南にある礼堂を一間幅の「相の間」で繋ぐ複雑な構造です。内陣の硅灰石の露出部分には安産・福徳・縁結びの観音さまとして信仰を集める本尊 如意輪観世音菩薩半枷像が厨子に納められ、その右脇侍に執金剛神、左に金剛蔵王、周囲を大日如来坐像や一木造の不動明王坐像、維摩居士坐像、持国天立像、増長天立像、三十三応現神像など錚々たるメンバーが守護しています。 -
本堂
こうした崖の上に本堂が建てられたのにはそれなりの理由があります。
『華厳経典』では観音さまは「ポータラカ(補陀落)」という断崖絶壁の宮殿に住まうとされ、そのため本堂は比較的高い場所に建てられることになります。その結果、切り立った地形では正堂の前方に位置する礼堂は懸造りになるのが宿命です。現在の礼堂は淀殿の寄進により屋根全体を架け替えて改築されたと窺えます。 -
本堂 礼堂
右手の寺院幕のあるスペースが「相の間」、その奥に「源氏の間」があります。
従って、「源氏の間」に向かって右側が正堂、左側が礼堂となります。
紫式部はこの石山寺が大のお気に入りで、感性を研ぎ澄ますために足しげく訪れたと伝わります。その理由のひとつは、石山寺は大きな兵火に遭うことがなく、建造物や仏像、経典、文献などの貴重な文化財が多数保管されていたからです。そうした石山寺に付けられた別名が「近江の正倉院」です。正倉院と並ぶほどの文化財を昔から有していたことの証左です。 -
本堂
東の庇には身舎と庇柱の間に優雅な曲線と装飾を持つ海老虹梁、垂木を見せる化粧屋根裏、そして床には縁を巡らしています。また、組物は身舎柱上三斗、側柱上舟肘木です。
礼堂の天井は、格天井ですが、中央部北寄りだけは折上格天井としています。
寺院幕に染められた寺紋は十六弁一重の裏菊です。このように中央に萼が描かれているものを「裏菊」紋と言い、ご祈祷などによって陰から天皇家、あるいは国を支えていく使命を担った寺院であることを表しています。
1869(明治2)年、天皇家の紋章として「十六弁八重表菊紋」、その他皇族方の紋章として「十四弁一重裏菊紋」が定められました。因みに、パスポートの表紙にある国章は「十六弁一重表菊紋」です。 -
本堂 源氏の間
正面は「火灯窓」になっているのですが、寺院幕で隠れてしまっています。
2024年のNHK大河ドラマ『光る君へ』の主人公は紫式部です。それ故に式部が書き上げた世界最古の54帖に及ぶ長編小説『源氏物語』にも注目が集まっており、その構想が生まれた場所がこの石山寺です。その中で最も関係が深いのが相の間の東端にある2間続きの部屋「源氏の間」です。この部屋は主に天皇や貴族、高僧の参詣や参籠に用いられたことが『石山寺縁起絵巻』から読み取れます。皇后の女房であった式部は特別待遇されたようですが、新しい物語の創作が如何に重要な任務であったかが窺えます。
1004(寛弘元)年に式部は、上東門院(藤原彰子)から村上天皇の皇女 選子内親王のために物語の創作を命じられ、その達成祈願にこの部屋に7日間参籠しました。そして、琵琶湖対岸の金勝山(こんぜやま)から昇る十五夜の月が眼下の瀬田川面に映る美しい情景から『源氏物語』のインスピレーションを得たと伝わります。
正中年間(1324~26年)に成立した『石山寺縁起絵巻』の詞書によると、この部屋は鎌倉時代にはすでに「源氏の間」と呼ばれていたようです。この場所には江戸時代から紫式部像が置かれていたそうですから、式部がここで物語を着想したという伝承は古くからあったと窺えます。
正中年間(1324~26年)に成立した『石山寺縁起絵巻』の詞書によると、この部屋は鎌倉時代にはすでに「源氏の間」と呼ばれていたようです。この場所には江戸時代から紫式部像が置かれていたそうですから、式部がここで物語を着想したという伝承は古くからあったと窺えます。
『源氏物語』の注釈書『河海抄』にも「石山寺に参籠し、観音菩薩に物語が書けるようにと祈っていた折、十五夜の月が湖水に映って心は清澄。突如『須磨の巻』の着想を得、仏前にあった『大船若経』の料紙を借用し、これを書いた」とあります。『源氏物語』第12帖「須磨」には「今宵は十五夜なりけりと思い出でて、殿上の御遊び恋しく…」の一節があります。青年貴族が都から遠く離れた須磨で満月を眺めながらかつての暮らしを恋しく思うシーンは、式部が石山寺に参籠した際に構想し、そこから書き始めたようです。まるで、観音さまが式部に憑依したかのようです。 -
本堂 源氏の間
「火灯窓」の別名「源氏窓」はこの「源氏の間」に由来するとも伝わります。「源氏の間」には朝廷御用の御所人形司10世 伊東久重氏作の「紫式部人形」が展示されており、火灯窓越しに起草に取り組む式部の様子が窺えます。現在まで一子相伝で継承されてきた「有職御人形司 伊東久重」の名は、1767(明和4)年に後桜町天皇より賜ったものだそうです。
背後からちょこんと顔を出しているのは、娘の賢子(かたいこ:大弐三位)と窺えます。因みに、紫式部の本名が不明なのにその娘の名前が公式記録に残されているのは彼女が母以上に出世したからです。親仁親王(後の後冷泉天皇)の乳母にまで昇り詰めています。しょせん親の七光りだったのかもしれませんが…。
式部と大弐三位の歌は百人一首57番と58番に連番で採られています。
「めぐり逢ひて 見しやそれとも 分かぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かな」紫式部
「有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする」大弐三位
因みに式部は、大般若経の紙を借用したことへの贖罪を込め、後日大般若経6巻分を写経し奉納しています。また、式部が使った紫瑪瑙製の硯も遺されており、2つ並んだ丸い溝それぞれに鯉と牛の彫刻が施され、濃い墨と薄い墨を使い分けていたそうです。ダジャレで恐縮ですが「濃い」方は「鯉」だったそうです。 -
本堂 源氏の間
唐破風にある蟇股は鳳凰のようです。兎毛通も凝ったものです。
紫式部にあやかった「紫式部開運おみくじ」も本堂で授与していただけます。
おみくじにはそれぞれ式部の和歌が書き添えられています。また、お守りとして「金色の打ち出の小槌」が入っています。
おみくじの結びどころは源氏の間の右側にあります。 -
本尊 如意輪観世音菩薩半跏像(重文)
本尊は、奈良時代から続く日本唯一の「勅封秘仏」であり、33年毎の御開扉の他、2020年のように天皇即位の翌年にしか開扉されません。次の御開帳は2049年です。厨子の前に金色に輝くのは「御前立尊」です。因みに「勅封」とは、天皇の命令によって封印されることを指します。
本堂が再建された1096(永長元)年の制作とされ、平安時代後期に相応しい風雅な趣を纏った仏像です。向かって左には山の神である金剛蔵王権現、右には石山寺の創建時から縁の深い東大寺に祀られている執金剛神像を従えた三尊形式で安置されています。寄木造の大成者である仏師 定朝を装った定朝様とされ、檜の寄木造で像高は2.5m弱、肉身には漆箔が施され、左手は膝の上で天を仰ぎ、右手は肘を曲げて如意宝珠を載せた蓮華の茎を持ち、片膝を上げた「半跏踏み下げ」のポーズが優美です。
石山寺HPには像高「一丈六尺(約5m)」とありますが、これは坐像が立ち上がった場合を想定した高さです。これは釈迦の身長が一丈六尺であったとの伝承に基づくもので、仏像の基本サイズは「丈六=一丈六尺」とされているからです。
本尊の拝観は御開扉時にしか叶いませんが、「懸仏」と言う薄い銅鏡に彫られた観音さまからその姿を想像することができます。
この画像は次のサイトから引用させていただきました。
https://special.sankei.com/a/life/article/20200407/0001.html -
本堂 礼堂
天平時代の初代本尊(762年作)は、塑(粘土)造に華美な彩色を施し、岩盤の上に直接置かれていたと伝わります。しかし、1078(承暦2)年の火災で焼損し、今は断片しか遺されていません。そうした経緯から本堂再建に当たり木造仏を本尊と改めたのが現在の本尊です。
霊験を表す宝珠で願い事を叶える菩薩で、胎内仏に聖徳太子の念持仏「往古の霊像」を納めていることから、安産祈願や縁結びに霊験あらたかで女性に人気です。因みに、2002年に胎内から奈良時代の小型金銅仏4躯と水晶製五輪塔が発見されています。尚、脇侍の 金剛蔵王像と執金剛神像は初代本尊と同時期に制作されたものと伝わります。
興味深いのは、本尊の居場所です。ごつごつした硅灰石の岩盤上に蓮華台を挟んで座し、「石の上に仏。故に石山寺!?」と直感的に納得させられます。古代人はこうしたところに霊験を感じたようで、平安時代に観音信仰が盛んになると西国三十三所観音霊場のひとつとして参詣客を集めました。巨岩が神霊の依代となり、そこに観音さまが現れたという神仏習合の典型寺院です。 -
本堂
本来、如意輪観音像は六臂像、つまり6本の手を持ちますが、ここの如意輪観世音は2本です。6本の手には「六道の衆生を救う」との意味があり、2本しかない理由は「六道信仰」が根付く前の古い形式と説明されています。しかし、六地蔵が庶民から信仰されたのが11世紀であり、現本尊の制作と同時期のため腑に落ちません。
通例では『観自在如意輪菩薩瑜伽法要』等の経典に基づいた六臂の姿で表され、右手第2手に意のままに願いを叶えてくれる如意宝珠、左手第3手に煩悩を破砕し法を広める輪宝を持ちます。即ち、「如意輪」の尊名は「如意宝珠(意のままに願いを叶える玉)」と「輪宝(衆生の煩悩や苦悩を打ち砕く法輪)」を意味し、これらの持物の力を併せ持つ観音と解されます。
調べてみると、平安時代後期に京都 仁和寺の僧侶 恵什が編纂した『図像抄』には、石山寺の二臂の初代本尊について「右手は施無畏印、左手は与願印を結び、片膝を上げた(半跏踏み下げ)形式の如意輪観音像を『石山様』と称した」と記しています。このように通例と異なる独自の姿をなすのが、石山寺初代本尊や東大寺大仏の二臂の左脇侍です。共に同じスタイルの二臂像であり、如意宝珠や輪宝を持たないにも拘わらず如意輪観音と称するのは不思議です。因みに、恵什は『石山流人師方血脈』によると石山寺第3世座主を務めた淳祐内供の直系の弟子に当たります。 -
本堂
石山寺は奈良時代に東大寺大仏建立に関連して創建された寺院です。従って創建時には空海も存在せず、ましてや空海ゆかりの真言密教の仏「如意輪観音」は影も形もありません。ですから、草創期の初代二臂観世音菩薩が何らかの意図で如意輪観音に尊名を替えたとしか思えません。
宮廷女官の間で如意輪観音信仰が広まったのに便乗し、尊名を替えて如意輪観音こそ女性救済の観音さまだとプロモーションしたのかもしれません。結果的には、本尊の尊名を替えたことが女性へのアピールに奏功したと窺えます。その裏付けが『枕草子』で石山寺と如意輪観音を列挙していることです。「寺は石山」、「佛は、如意輪は、人の心をおぼし煩ひて、つら杖をつきておはする、世に知らずあはれにはづかし」。因みに、『枕草子』は弥勒菩薩像ですら如意輪観音と呼ばれていた時代の作品です。 -
本堂
石山寺の初代二臂観世音菩薩を如意輪観音と記した文献の初見は、漢学者 源為憲が984(永観2)年に撰んだ『三宝絵詞』という冷泉天皇の第2皇女尊子内親王のための仏教説話集です。「近江国志賀郡の川の畔に、昔翁が釣りをするのに座っていた石があるから、その上に如意輪観音をつくりすえて祈れというものだった。行ってみるとそこは今の石山寺のところであった」。つまり、『三宝絵詞』が成立した時代には初代本尊が二臂にも拘わらず如意輪観音だと認知されていたと窺えます。
平安時代中期は真言密教が時代の主流となり、石山寺も潮流に乗り遅れまいと醍醐寺と結び付き、空海ゆかりの真言宗寺院として隆盛したのでしょう。一方、真言宗では奈良時代には存在しなかった多様な仏の尊格が登場します。不動明王など憤怒形相の「明王」を筆頭に、観音菩薩が遷移する中で列座したニューフェースが真言密教の代表尊格「如意輪観音」でした。
そして、如意輪観音信仰のキーパーソンこそ、『三宝絵詞』が成立する直前に石山寺第3世座主を務めた淳祐と窺えます。淳祐は、醍醐寺座主 観賢を師と仰いでその後継者となる予定でしたが足の障害のためそれを辞退し、石山寺普賢院に隠棲して修業と著作に専念しました。因みに、醍醐寺の六臂如意輪観音像も石山寺同様に「半跏踏み下げ」ポーズであり、雰囲気が石山寺のものと似ています。しかも淳祐の醍醐寺時代に制作されており、更には元々は二臂であり、六臂は後補との記録があります。石山流人師方の恵什が編纂した『図像抄』は「人師方血脈の祖」である淳祐の意を汲んだダメ押しと言えるかもしれません。 -
蓮如堂
本堂から見た蓮如堂の鬼瓦です。
現本尊は、右手の蓮華に如意宝珠を載せ、初代の塑造よりは如意輪観音らしく表現されています。従って、現本尊が制作されたのは、石山寺の観世音菩薩が如意輪観音だと定着した後のことと窺えます。それ故、二臂であっても如意輪観音像として受け入れられたのでしょう。
一方、12世紀後期の醍醐寺僧侶 慶延が編纂した『醍醐雑事記』には「石山寺の本尊 如意輪観音像が常に上醍醐の如意輪堂に通っていた」と記され、これにより毎年石山寺から醍醐寺へ御明油が送られることになったと伝わります。如意輪観音を介して石山寺と醍醐寺を結び付けたこの説話は、10世紀末~12世紀にかけて石山寺、醍醐寺、東大寺が如意輪観音信仰を基軸に密接な関係にあったことを物語ります。また、東大寺との関係においては、淳祐と密接に関わる真言僧が相次いで東大寺別当に就任したことが関与したと窺えます。こうして特異な二臂如意輪観世音の形式が石山寺において産声を発し、その後、東大寺や飛鳥 岡寺へと伝播していったものと窺えます。 -
本堂
「紫式部」の名で知られていますが、実は紫式部というのは呼称であり、彼女が没した後、『源氏物語』が広く世間に知られるようになってからのペンネームです。ですから、彼女自身が紫式部と名乗った訳ではないそうです。
式部は一条天皇の世の1005(寛弘2)年12月29日に彰子中宮に出仕しており、その時の女房名は「藤式部(とうしきぶ)」でした。これは父 藤原為時が花山朝で蔵人式部丞の任にあり、その姓と官職名を踏まえたものです。
『源氏物語』に百年程遅れて成立した『栄花物語』には「紫式部」の名で登場します。この名の由来は、1008(寛弘5)年11月1日の後一条天皇生誕五十日の儀の饗宴の席上にて、文壇の指導者であった藤原公任が式部に「あなかしこ(ごめんください)、このわたりに若紫やさぶらふ(若紫さんはおられませんか)」と声を掛けたことに因むとされます。『源氏物語』のヒロイン「紫の上」の作者として「紫式部」の呼称は相応しく、時代と共に知られていきました。
尚、本名は不明です。往時の風習では、結婚以前は為時の大君とか中の君・三の君などと呼ばれていたと推測されます。しかし式部には早世した姉がおり、成人式の際に披露された名前は、往時の慣例で父の「為時」の字をそれぞれもらい、姉が為子、次女の式部は時子だったとも伝わります。また、角田文衛博士は藤原道長著『御堂関白記』の1007(寛弘4)年1月29日の条にある掌侍に任じられた女房の名から「香子(かおりこ / たかこ / こうし)」を提唱されています。ただし、仮説の域を超えるものではないようです。 -
本堂
『石山寺縁起絵巻』は、石山寺創建の経緯および霊験譚を絵巻に仕立てたもので、全7巻33段から成ります。今風に言えば、石山寺プロモーションビデオに匹敵します。縁起本文と1~3巻は正中年間(1324~26年)の成立ですが、全7巻の絵が完成したのは1805年頃とされます。因みに33段の数は、『法華経』に「観音菩薩はあまねく衆生を救うために33の姿に変身する」と説かれていることに因みます。また、1~3巻の絵を描いたのは高階隆兼、詞書は石山寺座主 杲守僧正とされます。
第2巻第1段は、石山寺の傍にある普賢院の淳祐内供が石山寺で見た「夢告」で願いを叶えた逸話です。少年期の淳祐は容姿が醜く頭脳も愚鈍でした。それを嘆き石山寺の本尊に祈願すると、夢に老僧2人が現れ、左右の手を取り「面貌端正にして、智恵虚空に等し」と言いながら上下に3回振った。目覚めると美貌と知性を手にしていたと伝えます。『絵巻』では、これらの老僧を「黒衣の僧」として描いています。黒衣は身分の低い僧が纏うものであり、観音さまの化身を身分の低い僧とした点に仏の教えが垣間見られます。
一方、このエピソードで象徴的なのは淳祐の願いが「夢告」で叶った点です。『絵巻』は淳祐の夢の中の出来事を格子の向こうに描きながら手前には堂内で眠る人物を描いており、ここが「眠りの寺」であることを暗喩しています。『蜻蛉日記』の藤原道綱母も『更級日記』の菅原孝標女も「夢告」を期待して石山寺に参籠したものと窺えます。 -
盆梅には「胡蝶」や「葵の上」、「光源氏」、「澪標」といった『源氏物語』に因んだ名前が付けられています。それぞれのキャラクターやエピソードを思い浮かべながら鑑賞すると、梅への愛着がより一層深まります。
第4巻第1段には紫式部が登場します。上東門院彰子は、村上天皇の皇女 選子内親王から「珍しい物語が読みたい」と頼まれたことから、彰子に仕える式部に創作させることにした。式部は面白い物語が書けるよう祈願するため石山寺に7日参籠した。琵琶湖を見渡していると心が澄んできて、様々な風情が眼に浮かび心に浮かぶので、とりあえず目の前にあった『大般若経』の裏に「今宵は十五夜なりけりと思し出でて、殿上の御遊恋ひしく…」と書き綴った。後に大切なお経を用いたことを懺悔し、『大般若経』を写して奉納しています。『絵巻』では、この物語を書いた部屋を「源氏の間」と名付け、式部を「日本紀の局」と称する他、「観音の化身」とも描いています。
現存の第4巻は室町時代の1497(明応6)年の補写本とされます。詞書が原作通りなのか、この時に式部のエピソードが加筆されたのかは不明ですが、後者であれば「石山寺で『須磨の巻』の着想を得た」と四辻善成が著した源氏物語の注釈書 『河海抄』(1362~68年)にもあり、ここからの引用と窺えます。このように式部を「観音の化身」と記して女性そのものを持ち上げていることから、石山寺が女性をターゲットとしていたのは自明です。 -
第5巻第1段は、石山寺に参籠した女性の前に現れた観音さまの姿を描いています。
天治時代(1124~25年)、藤原国能夫妻は貧しく、子にも恵まれませんでした。それ故、国能は妻を離縁しました。女性は、「何故、貧しいだけでなく、子さえ産めず、夫にも捨てられたのか」と嘆き、石山寺に7日間参籠しました。日夜祈願したところ、ふとまどろんだ夢に御帳の内から観音さまが現れ、「これは汝の子なり」と如意宝珠を授かった。目覚めると掌の中に宝珠があり、女性は喜んで家に帰った。宝珠を拝むと国能とよりが戻り、夫婦は裕福になり、2年後には息子が生まれた。やがて息子が家を継ぎ、宝珠を相伝した。その息子こそ、文章博士 藤原業実、後に式部大輔を経て薩摩守になった人物です。
その後、子細あり鳥羽上皇がこの宝珠を相承すると、全ての願いが成就し、皇胤も栄えた。後には邦綱大納言が相伝し、蔵人にさえなれぬ身分の者が大納言にまで昇り詰めたのも、宝珠のご利益だと伝えています。
このように現世ご利益は「夢告」という形で授けられるとの伝承から、女性は石山寺に参籠して眠るようになったのです。平安時代中期末は「末法思想」の影響もあって人々は破滅の予言に怯えており、人生の分岐において進むべき道に迷った人々が観音さまの啓示を授かりに足繁く通ったようです。 -
第7巻第31段は、母親のために遊女として身売りした娘を救う鎌倉時代後期の逸話です。貧しい尼の娘が親孝行のために霊験あらたかな石山寺に参詣しました。しかし少しも効き目がなく、娘はその帰途、大津の浦で身売して手に入れたお金を母親の元へ送りました。
さて、娘が打出の浜から人買いと共に出航すると、俄かに暴風雨となり、やがて舟が沈みました。ところが娘が一心に石山観音に念じると波間から白馬が現れ、無我夢中になってその首にしがみつき、ふと気が付くと浜に打ち上げられていました。『絵巻』の背景には人買いの断末魔の様子も描かれています。その後、娘は結婚して母親を養い、幸せな人生を送ったとあります。
このエピソードでは、石山寺の如意輪観音は女性の味方であることを強烈にアピールしています。この物語のように『絵巻』を通して如意宝珠を手にすることができたのは一介の貧しい女性であり、石山寺に女性がこぞって参詣した決め手と言えるかもしれません。 -
阿弥陀如来石仏
岩の上に載せられた石仏が佇みます。
本堂の裏手奥にある岩場を登った所、子育観音への途中にあります。
高さ約75cmの平らな石材の表面に像高約41cmの如来坐像を厚肉彫りしています。全体に表面の風化が進み、衣文や面相は摩滅していますが、頭頂には肉髻が確認できます。 -
阿弥陀如来石仏
清水俊明著『近江の石仏』によると、薬壺を手にした薬師如来と比定されており、「おそらく室町末期の造立であろう」と記されています。
一方、涎掛けの下では定印を結んでいるようにも窺え、愛東町(現 愛荘町)の引接寺には弥陀如来坐像の背面に五輪塔を刻んだ石仏が存在することから、阿弥陀如来とも考えられています。駒札から石山寺では後者とされているようです。 -
阿弥陀如来石仏
一見どこにでもある石仏と看過されるかもしれませんが、石仏の背面に注目です!
平たく整えた背面に五輪塔が半肉彫りされています。線刻と薄肉彫りを交えて表現しており、塔高は約34cmあります。火輪の重厚な軒反も表現され、水輪は球形に近く地輪の背は低く目です。このような像容の背面に五輪塔を刻む両面石仏は珍しいと思われます。 -
子育観音へは石仏のところから少し下ります。
この辺りは、雨後にぬかるんでスリップし易いため、進入禁止になることもあるそうです。 -
子育観音
煌びやかな黄金の天蓋の下に聖観音と思しき石仏が佇み、子育てに悩まれる親御さんにご利益があるとされます。 -
子育観音
何故このような場所に祀られているのでしょうか?
その理由は観音さまを正面から拝めば納得できます。背後にある硅灰石の折り重なりの巨大な割れ目や右側にある縦のクラックは「陰石」を象徴しています。そしてその前に安置された観音さまの名は「子育観音」。大地の割れ目から命が生まれ出ると考えれば、経蔵の下の腰掛石とこの子育観音は同じ文脈上にあるものと窺えます。
女性の守護神「如意輪観音菩薩」を本尊とする石山寺に詣でた女性たちの切なる願いが、母性を象徴する聖地に「子育観音」を導いたのかもしれません。 -
子育観音
巨木の根に注目です。
硬い岩盤に拒まれて地中に入り込めず、地面を網目のように這うその姿は生命力に漲っています。それにしても「子育観音」が願いを叶える様子を幾百年の星霜を経て見守ってきたご神木のような温かくありがたい存在です。
青蓮院門前の「大楠」や鞍馬山の「杉」に次ぐ「根張り名所」とされ、この空間の幻想的とも言える静謐さはなんとも心地よいものです。
因みに石山寺では、「龍穴の池」でも見られます。
この続きは早春賦 近江 石山④石山寺 三十八所権現社・経堂・鐘楼・多宝塔・芭蕉庵・月見亭でお届けいたします。
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