2023/03/06 - 2023/03/06
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montsaintmichelさん
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天下の名勝 真言宗 石光山石山寺は、滋賀県大津市の南端、琵琶湖から流れ出る清流 瀬田川の畔に聳える伽藍山(標高239m)の麓に佇み、『正倉院文書』(8世紀)にも記された古刹です。当初は華厳宗東大寺の末寺でしたが、10世紀初頭に醍醐寺を開創した聖宝が座主に就いて真言宗に改め、真言密教の道場となりました。その後、中興の祖 淳裕(しゅんにゅう)の伽藍整備により隆盛し、現在は京都 清水寺や奈良 長谷寺と並ぶ有数の観音霊場として知られています。
寺伝によると、奈良時代後期の747(天平19)年に聖武天皇の命で開山され、開基は東大寺の別当だった良弁僧正、本尊には如意輪観世音菩薩を祀ります。本堂は天然記念物の硅灰石という巨大な岩盤の上に建ち、これが寺名の由来です。安産・厄除け・福徳・縁結びにご利益があります。
2021年12月、第53代座主に鷲尾龍華(りゅうげ)さんが就任しました。前座主の鷲尾遍隆さんは父に当たり、石山寺の長い歴史の中で初の女性座主です。因みに前職は「東レ」で秘書をなされていたそうです。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- JRローカル 私鉄
-
京阪「石山寺」駅
京阪 石山坂本線の終点になります。
ここから石山寺の東大門までは、瀬田川沿いにゆっくり歩いて15分程の距離です。 -
茶丈 藤村
石山寺の門前に程近い、数寄屋造の甘味処です。
上生菓子や焼き菓子など、滋賀の美しい風景に因んだ品が充実しています。建物の設えと屋号は、かつて石山寺の茶丈「東池密蔵院」に2ヶ月ほど滞在した詩人 島崎藤村に因みます。 -
茶丈 藤村
1995年の創業から愛される名物が、石山寺を訪れた松尾芭蕉の俳句をモチーフにした「たばしる」です。最高級の大粒小豆、丹波大納言を3日3晩かけて蜜漬けし、ひとかけらのクルミと共に柔らかな求肥で包んだ逸品です。凹凸のある灰色がかった外見は石山寺の硅灰石を彷彿とさせ、カリッとしたクルミの食感がアクセントになっています。 -
朗澄(ろうちょう)大徳遊鬼境
東大門を潜る手前、東大門の北側、郵便局の少し南にあります。
朗澄律師を偲ぶために1999年に造営された比較的新しい和風庭園です。律師は時代初期にかけて後白河天皇や平清盛、源頼朝、義経、奥州藤原氏と時代を共にした「石山寺 中興の祖」のひとりです。石山寺屈指の名僧かつ天資聡明であり、教学のほか図像画にも卓越しており、多宝塔内部の壁画も律師の筆と考えられています。
大きな石碑にはインパクトのある恐ろしげな鬼の姿が刻まれていますが、これは『石山寺縁起絵巻』第6巻第2段に描かれている律師の死後の姿を模写したものです。 -
朗澄大徳遊鬼境
1209(承元3)年5月14日、朗澄律師は、「死後は青鬼の姿になって石山寺の『一切経』と『聖教』を守護する」との言葉を遺し、万民の降魔招福を誓って78歳で入寂しました。『石山寺縁起絵巻』には、律師の死後、弟子 行宴が松の梢の上で金色の鬼の姿になった律師を見たと記されています。今でも鬼の姿で経典や聖教を護っているとされ、その偉徳を記念して石碑が建立されました。 -
朗澄大徳遊鬼境
律師の遺徳を偲ぶための法要「青鬼祭り」が毎年5月第3日曜日に開催されています。
巨大な青杉葉の鬼の像を立てて盛大な法要をし、青鬼の面を被った僧による厄払いがなされます。 -
藤村散文の碑
東大門北側のこの辺りが茶丈の跡地に建てられた藤村所縁の東池坊密蔵院の旧地であり、1972(昭和47)年に公園内に能勢黒御影石製の石碑が建立されました。
石碑には『石山寺へハムレットを納むるの辞』の最後の一節を刻んでいます。
「湖にうかぶ詩神よ、心あらば落ち行く鐘のこなたに聴けや、千年の冬の夜毎に、石山の寺よりひびく読経の声」
因みに能勢黒御影石は、斑れい岩の一種ですが、巨大な玉石の姿で土中に埋まっています。長い年月をかけて節理に沿って風化され、中心部だけが残って玉石となったものです。粘りがあり割れ難く、研磨による艶出し効果に優れる特徴を持ち、記念碑に最適とされます。近年はアフリカをはじめ諸外国からの輸入品が多いのですが、これは純正の大阪府豊能郡豊能町産だそうです。
『石山寺へハムレットを納むるの辞』(『文学界』第二号 )
「名にし負ふ瀬多の唐橋に立ちて、湖上はるかに浮ぶ詩神を拝み、むかし紫式部が源氏の風情をうつせし石山寺に詣づ。予や旅に寝て風雅に狂する身のここに一の至友あり、今この友を笈中より取出し『ハムレット』一冊と記して個の此寺に納む。紫女が霊のとどまりたらんと覚ゆるかなたを見やりて、ひたすら今日の風雅を祈るに、雪風飄々孤身をうづめて寒山の一鴉この狂客のはらわたを断つ。
湖にうかぶ詩神よ…。」
これは青年 島崎藤村が劇作家を夢見て「古藤庵無聲」と名乗っていた時代に関西放浪の旅の途上で青春後期の出発点となった情景や心情を詠ったものです。芸術を思慕する文学青年の初々しさと漂泊する孤独な魂の叫びが交錯しており、青年藤村の純粋さが見て取れます。 -
青鬼の小唄の歌碑
東大門のほぼ正面、枝垂桜の下に歌碑を見つけることができます。
「降魔のすがたとなりたもう
朗澄律師の青鬼は
悪心くじき福徳を
与え給うもありがたや」
第50世石山寺座主 光遍和尚作詞 -
三鈷の松
石山寺のパワースポットのひとつです。
石山「至誠庵」の店頭にある「三鈷の松」は願い事が叶うと伝わる松で、その名は「三鈷杵」と呼ばれる仏教法具に由来します。弘法大師が811(弘仁2)年の42歳の厄年に3ヶ月間石山寺にて修行されたとの伝承があり、大師所縁の地には3本葉の松が育つと伝わります。1797(寛永9)年刊行の『東海道名所絵図』にも立派な松が描かれています。
ここの松は葉先が3本に分かれており、かつ葉先が長いのが特徴です。願い事を叶えるためには、まず叶わなかった原因(過去の悪しき因縁)を仏の智慧で解いていただくことから始めます。次に念じながら三鈷の松を何度も三つ編み(実を結ぶ)にすることで新しい希望の世界と現実の世界が結び付き、今まで単なる夢に過ぎなかったことが実現できるそうです。 -
松尾芭蕉の句碑
「石山の 石にたばしる あられかな」
膳所 義仲寺(ぎちゅうじ)の無名庵に滞在した1690(元禄3)年4月1日、芭蕉が石山寺に参詣した時に詠んだ句です。白い霰の玉が硅灰石の堅い岩肌を烈しく叩いて四方八方に飛び散る光景を詠んでいます。1689(元禄2)年、『おくのほそ道』の旅を終えた芭蕉はその年末を無名庵で過ごしました。年が明け故郷の伊賀上野に赴くも、3月には無名庵に戻りました。翌月には菅沼曲水の奨めで幻住庵に滞在し、石山寺を度々訪れました。元禄4年6~9月にかけても無名庵に滞在し、芭蕉を訪ねた門人 又玄(ゆうげん)は「木曽殿と 背中合わせの 寒さかな」と詠んでいます。義仲寺の名は、そこに木曾義仲(源義仲)の墓があることに由来します。
1694(元禄7)年10月12日、大坂御堂筋の旅宿「花屋仁左衛門」で芭蕉は息を引き取りました。遺骸は遺言により義仲寺にある木曽義仲の墓の隣に葬られました。芭蕉は義仲に対して特別な思い入れがあったようです。『おくのほそ道』の旅の終わりに、義仲が築城した越前 燧が城跡を望み見ながら、義仲を悲劇の主人公と捉え、同情を惜しまない心持ちを吐露しています。
「義仲の 寝覚めの山か 月悲し」
「義仲の一生は失敗の一生也。彼の歴史は蹉跌の歴史也。彼の一代は薄幸の一代也。然れども彼の生涯は男らしき生涯也。」と言った男の美学に惚れ込んだのでしょうか?
「無名庵」の名の由来を紹介しておきましょう。義仲は北陸路に平氏の大軍を討ち破って上洛しますが、源頼朝の命で都に上ってきた源範頼、義経の軍勢と戦い、利なく、この地で討ち死にしました。その数年後、見目麗しき尼僧が義仲の墓所の畔に草庵を結び、日々の供養ねんごろでした。里人がいぶかって問うと「我は名も無き女性(にょしょう)」と返すのみでした。この尼こそ義仲の側室 巴御前の後身であり、尼僧の没後、この庵は「無名庵」と呼ばれるようになりました。 -
石山貝塚の碑
三鈷の松の南側に貝塚があり、大津市の史跡に指定されています。
1940(昭和15)年に発見され、30数年かけて数回に及ぶ発掘調査が行われました。瀬田川に面して東西約20m、南北約50m、最深部2mに亘ってセタシジミを中心とした貝層が堆積し、淡水産貝塚としては日本最大規模を誇ります。
調査の結果、縄文時代早期(7~8千年前)の貝類及び魚や動物の骨、縄文式土器や石器類、そして人骨が発見されました。この周辺は琵琶湖の水深が浅く、貝類の採集に適していたようです。しかし、縄文時代前期以降のものは殆ど発見されていません。その理由は、瀬田川下流の鹿跳付近の川底が水流のために削られて琵琶湖の排水量に変化が生じ、漁獲量が減少したために他へ移住したと考えられています。
現在は埋め戻されて駐車場になっていますが、石山観光協会や瀬田の埋蔵文化財調査センターなどに貝層の断面が保存されています。 -
石山縄文しじみ貝塚の記念塔
「石山貝塚の碑」の近くに2010年に安置された高さ2m程のモニュメント塔です。作者は大津市瀬田出身の石の彫刻家 近持イオリ氏です。尚、イオリ氏は「せきがはら人間村生活美術館」の館長も務められています。
発見された貝塚に重なり合っていたしじみの貝殻の様子を表現しています。
実際にセタシジミやタニシなどの淡水産の貝殻がこのように7層に堆積し、各層から押型文土器や石器などが出土しています。 -
石山縄文しじみ貝塚の記念塔
後ろから見ていたので真ん中の空洞部が何なのか判らなかったのですが、正面から見ればすぐに「琵琶湖」と判ります。
また、この石山貝塚のある辺りから波紋が広がっていく様子が窺えます。
著名な石の彫刻家の作品が石山寺で見られるとは思ってもいませんでした。 -
湖舟(こしゅう)
郷土料理店「湖舟」の立地する石山寺東大門前の駐車場は縄文式土器時代のシジミの貝塚があり、太古よりシジミを糧としていたことを今に伝える場所です。
湖舟は1961(昭和36)年に創業し、この地に相応しい味をと考え、翌々年に「志じみめし」を提供するようになりました。 -
湖舟
屋根には、「疫病除け」の神様として瓦製の鍾馗像が飾られています。
中国で鬼を退治したという伝説の英雄で、疫病神を祓い、魔を取り除くと信じられてきました。日本では、平安時代の作とされる『益田家本地獄草子』の「辟邪(へきじゃ)絵巻」に登場します。この頃は、災厄や邪気、鬼などを追い払うため、新年に絵を描いた平面の札を家の戸に貼っていたそうです。室町時代には陶器で作られるようになり、江戸時代後半に現在のような瓦製になりました。
京都ではよく見かけますが、京都以外の近畿地方(奈良県など)や中部地方(愛知県など)でも屋根の上に鍾馗を飾る風習があるそうです。滋賀県も近畿圏内ですので例外ではないようです。尚、瓦製のものは京都が発祥だそうです。
湖舟のHPです。
https://www.shijimimeshi-koshu.com/ -
湖舟
店内の様子です。
平日の12時過ぎでしたが、すでに満席(30席)で数名の方が待たれている状態でした。
「食べログ」で席だけの予約もできますので、時間を節約されたい方には予約をお勧めいたします。
https://tabelog.com/shiga/A2501/A250101/25001059/ -
湖舟
釜飯ファンに愛される鉄釜「志じみめし」は注文を受けてから炊き、おこげ香る炊き立てが魅力です。残念ながら瀬田川でのセタシジミの漁獲量は低迷を続け、獲れても水質低下により必ずしも質の良いものが手に入る時代ではなくなっていることから、志じみめしには海外産の剥き身を使用しているそうです。因みにセタシジミを使用するなら、この価格での提供はできないそうです。
汁物は定番「琵琶湖産セタシジミの赤出汁」、付け合せには近江のおばんざい3品、香の物、桜餅が添えられます。 -
石山寺公式HPの「境内ご案内」にある絵地図です。
入山する際にいただけるリーフレットにも絵地図が載っていますが、チェックポイントがかなり簡略化されていますので、次のアドレスにあるものをプリントアウトして持参されることを推奨いたします。
https://www.ishiyamadera.or.jp/guide/precincts -
東大門(重文)
瀬田川に面し、東向きに建てられた古刹の玄関口に相応しい気品溢れる重厚な造りの山門です。入母屋造、本瓦葺、単層8脚門、外壁は真壁造白漆喰仕上げと鎌倉時代の特徴を保ちながらも、入母屋破風の懸魚などに桃山様式を散らしています。また、建ちを低くすると共に軒を深くしているのは、鎌倉時代造立のオリジナリティを尊重した証左であり、往時のよすがをよく留めています。 -
東大門
屋根の造形は幻想的な曲線を描いて反り上がっており、浄土へと飛翔させる翼を暗示するかのようです。また、天井は屋根裏のない天竺様とし、柱上の組物は斜めに突き出す尾垂木という部材のない三手先です。大きくせり出した軒が一層重厚感を強調します。 -
東大門
鎌倉時代末期~室町時代初期に成立した『石山寺縁起絵巻』第5巻の第1段に描かれた東大門には極彩色の多聞天像が確認できます。東大門は元々は1190(建久元)年に源頼朝から寄進された山門でしたが、戦国時代には京へ上る要所として武将の陣営になり、1573(天正元)年の槇島城の戦いでは室町幕府第15代将軍 足利義昭が石山寺を陣地として織田信長と争い、その戦の巻き添えで焼損しています。 -
東大門
桃山時代の1600(慶長5)年に淀殿によって大規模な修理・改造がなされたのが現在の山門で、大棟の鬼瓦に「慶長五庚子八月日粟田口久左衛門」のへら書があります。また、樹木が邪魔して塔頭 宝性院(非公開)からしか見られないのですが、北側の妻飾りに五七桐紋の透かし彫りが配されており、豊臣家の修築を裏付けています。
往時、豊臣家には莫大な資産があり、これが徳川幕府存続の脅威になると考えた家康は資産の浪費策を目論みました。それが秀頼・淀殿の名の下に各地の寺社仏閣の修理・改修を行わせることでした。石山寺もその恩恵を受けた寺院のひとつでした。 -
東大門
扁額「石山寺」の額には「猪の目」が見られます。
石山寺の歴史をダイジェストで紹介しておきます。
寺伝『石山寺縁起絵巻』では、聖武天皇の発願により、747(天平19)年に東大寺を開山した良弁僧正が聖徳太子の念持仏「6寸如意輪観音」をこの地に祀って本格的な堂宇を結んだのを石山寺の起源とし、次のように伝えます。
東大寺大仏の造像には鍍金用に大量の黄金が求められました。そこで聖武天皇は良弁に黄金が得られるよう吉野 金峰山に祈念させました。すると良弁の夢に金剛蔵王(蔵王権現)が現われ、「金峯山の黄金は、(56億7千万年後に)弥勒菩薩がこの世に現われた時に地を黄金で覆うためのものである。近江の湖南に観音菩薩の現われたまう土地がある。そこへ行って祈るがよい」と告げました。夢告に従い石山の地を訪れた良弁は、比良明神の化身である老人に導かれ、巨岩の上に聖徳太子の念持仏を安置し、草庵を結びました。やがて2年越しの祈願が実り、陸奥国から黄金が発掘され、東大寺大仏が落慶しました。同時に安置した観音像が岩から離れなくなり、やむなく観音像を覆うように堂宇を建てたのが石山寺の草創です。 -
東大門
軒の組物には、四隅を除いて尾垂木を介在させないという特徴が見られます。
その後、平城京から近江 保良宮(大津市神領町付近)へ淳仁天皇と孝謙上皇が移られることになり、761(天平宝字5)年にその近隣にあった石山院の増改築が国家事業として営まれました。『造石山院所労劇帳』は「合作殿廿六宇」と記しています。また『正倉院文書』によると、東大寺建立の際に高島や甲賀郡から木材が運ばれ、その集荷を管理するために設けられたのが石山寺の前身となる東大寺別当「石山院」、その増改築の中心人物が良弁であり、伽藍整備は突貫工事で行われ、762年8月に落慶したとあります。
以降、平安時代前期にかけての寺史は不詳ですが、寺伝は「聖宝や観賢など醍醐寺関係の高僧が座主となった」と伝えます。石山寺と醍醐寺は地理的にも近く、この頃から石山寺の真言密教化が進んだようです。 -
東大門
「中興の祖」が菅原道真の孫に当たる第3世座主 淳祐(しゅんにゅう)です。真言密教道場に相応しい伽藍を整備し、かつての勢いを盛り返し朝廷の支持を得て栄えました。また、淳祐は、内供奉十禅師に任ぜられ、天皇の傍で常に玉体を加持する僧として「石山内供」「普賢院内供」とも称されました。それは、淳祐は、足に障害があり正式の坐法ができなかったことから、諸職を辞して学業に精励して膨大な著述を残したからです。自筆本は多数現存し、『薫(におい)の聖教』と称されて国宝指定されています。921(延喜21)年、淳祐の師 観賢が醍醐天皇の勅命により高野山 奥ノ院御廟を訪れた折、共に御廟内に入り弘法大師の膝に触れ、その際に妙香の薫りが手に移り、一生消えることがなかったと伝わります。それ故、淳祐が書写した経典にも薫りが移り、これを『薫の聖教』と称します。 -
東大門
3つの柱間の中央を両開の板扉とし、左右に仁王像を安置することから仁王門とも呼ばれます。
当初石山寺が華厳宗大本山 東大寺の末寺であった関係からか、鎌倉時代を代表する仏師 運慶とその長男 湛慶の力作と伝わる仁王像が睨みを利かせます。 -
東大門
東大寺南大門ほどのスケール感こそありませんが、間近で見られるため肋骨や筋骨隆々のリアル感、躍動感、睨みの形相などに凄みが増します。 -
東大門
今にも動き出しそうな仁王像は、千年の星霜を経た風情を纏って凛々しく佇みます。
淳祐の時代に「石山詣」「如意輪観音詣」が宮廷の女官の間で大ブームとなり、『蜻蛉日記』や『更級日記』に描写されるに至りました。 また、10世紀初頭には宇多法皇の行幸があり、それ以降、都の皇族や貴族たちの石山寺への祈願が流行ったようです。因みに、淳祐の異色の弟子に比叡山延暦寺「中興の祖」第18代天台座主 良源(元三大師)がいます。他宗ですが、共に「中興の祖」と称されているのは偶然とは思えません。また、淳祐の弟子 元杲は良源と同門で親しくなり、晩年に至るまで交友を続けたそうです。
戦国時代には織田信長に敵対して境内の一部を焼かれて荒廃し寺領も没収されましたが、慶長年間には淀殿の寄進により本堂や東大門、塔頭や庭園などが整備され、1613(慶長18)年には徳川幕府により寺領579石余が与えられ、ほぼ現在の石山寺の姿を整えました。 -
宿直屋(とのいや)
東大門の南に隣接する明治時代前期に増築された宿直屋があり、屋根には入母屋造の太鼓楼が載せられています。太鼓を鳴らすことで、緊急事態発生などの伝達をしたものと思われます。通常の書院などの屋根に見られる太鼓楼と同等の規模と窺えますが、石山寺のスケール感を鑑みると小さく感じられます。 -
宿直屋
養老律令にある職制律(在官応直不直条)では昼の警備を「宿」、夜の警備を「直」と書いて「とのい」と読ませましたが、後世では夜の警備を「宿直」あるいは「殿居」と書いて「とのい」と読ませています。 今風に言えば、夜間警備員の詰め所のような場所だったと窺えます。 -
東大門 袖塀
軒丸瓦にはシックなデザインが凝らされており、「蓮」を象った紋章です。このように瓦には火除けの験担ぎとして水関係の模様が配されることが多いそうです。また、中国 宋代の儒学者 周茂叔が『愛蓮説』に詠んでいるように、蓮華を花中の君子と見做し、更には花が咲いた後に実がなる一般の花とは異なり、蓮華は花と実が同時に生じるところから、蓮華紋は「貴子が早く生まれるように」との祈願を託した吉祥模様のひとつでもありました。
因みに蓮華紋は、古代エジプト(ロータス文様=睡蓮)やインドの土器や建築の柱頭などの装飾文様が起源とされ、花弁が放射状に並んで円形を描くため「ロゼット」とも呼ばれます。特にインド仏教では蓮華は聖花として尊ばれ、仏教美術の分野では多方面に用いられました。こうした蓮華紋は瓦が仏教建築の屋根材として588年に日本に伝来した時に共に渡来したとされます。 -
参道
東大門を潜った先は、左右に塔頭を控えた長い参道が壮観です。
実は、石山寺には寺伝の他にも創建説が複数存在します。
一つは747(天平19)年、東大寺の良弁僧正が石山の地を訪ね、東大寺大仏に塗る金の産出を願われました。その2年後の749(天平勝宝元)、仙台の近くの涌谷という町で日本最初の金が発見され、皇室に献上されました。この年が創建の年ではないかと伝わります。
もう一つは、672(天武天皇元)年に壬申の乱の負け戦の将である大友皇子を祀る寺として石山寺の礎が造営されたという説に基づくものです。672 年7月20 日に現在多宝塔が立っている横手に大友皇子が葬られと伝わります。 -
東大門(西面)
平安時代後期には観音信仰の霊山として興隆し、宮廷の女官らが「石山詣」と称して参籠し、読経で一夜を明かすのが流行りました。そうした経緯から『蜻蛉日記』『更級日記』『枕草子』などにも登場し、紫式部は石山寺に参籠して瀬田川に映る月光から『源氏物語』を着想したとの伝承があります。
こうした経緯もあり、1004(寛弘元)年に一条天皇の中宮で藤原道長の娘 藤原彰子のための増益法が修され、翌年にも敦康親王のために観音法が修されるなど、石山寺は公的修法の場としても知られるようになりました。やがて西国三十三所観音霊場第13番札所ともなり、更に多くの参詣を集めました。
御詠歌 「後の世を 願うこころは かろくとも ほとけの誓い おもき石山 」
要約すれば、「信仰心のない者は来世を考えて今を生きてはいないけれど、仏はそうした者でも救おうとなされており、その誓いは石山の岩盤の如く重いものである」と言ったところでしょうか。
仏の慈悲深さを説きながらお寺の名前を巧みに用い、仏の誓いの重さを上手く表現しています。 -
塔頭 宝性院
東大門を潜った直ぐ右側にあります(非公開)。
東に庫裡、西に書院を配し、両者の間に入母屋造の式台玄関を設けています。
本尊には愛染明王像を祀り、現在は石山寺の事務所を兼ねています。
愛染明王は、煩悩、特に愛欲を悟りに至るためのエネルギーに換える力を持ち、「良縁成就」「夫婦円満」「財宝福徳」などにご利益があります。 -
塔頭 宝性院
門に置かれているのは石山寺のマスコット・キャラクター「おおつ光ルくん」です。その正体は「21世紀版 光源氏」だそうです。推定年齢は12歳。2008年に「源氏物語千年紀 in 湖都大津」のマスコット・キャラクターとして誕生し、翌年の2月18日に大津市観光キャラクターに任命され、2月24日に特別住民登録をして大津市民になっています。
このトリオは、「光ルくん基本タイプ」を中尊に、「スイスイ光ルくん」と「ひらめき光ルくん」が脇待を務めています。因みに、ローラースケートが得意だそうです。ローラースケートと「光」の組合わせにニヤリとすると年齢がばれるかも!? -
塔頭 宝性院
玄関先には淀殿が寄進された朱塗唐櫃(からびつ)の上に不動明王立像(中尊)、制多迦童子像(右脇侍)、矜羯羅童子像(左脇侍)が並んでいます。唐櫃は脚の付いた箱を指し、高い脚が付いているため風通しが良く、湿気や虫の被害から中のものを守り、長機関保存するのに適します。 -
塔頭 法輪院
参道の左側、宝性院の対面には法輪院が佇みます。 -
塔頭 法輪院
東に桟瓦葺の庫裡、西に檜皮葺の書院を配し、2棟の間を繋いで向唐破風造の式台玄関を設けています。その手前にはうららかな小川のせせらぎを偲ばせる砂紋が付された禅寺風の石庭があります。建物は塀で参道と仕切られ、その両脇に小川が流れる趣向です。
2010年に戦国武将 浅井亮政(すけまさ)ゆかりの仏像「木造 如意輪観音半跏像」がこの塔頭で発見されました。かつては長浜市山脇地区にあった「弥勒寺」の本尊「千手観音」でしたが、廃寺後に仏像は各地を流転し、「幻の仏像」となっていたそうです。1587(天正15)年に書かれた台座裏の墨書から、6本の手を持つ如意輪観音像を「千手」と称していたのが判明しています。特異なのは、通常の蓮華の代わりに宝剣を持つことです。これについては、武家独特の信仰からとも推されています。 -
拾翠園(しゅうすいえん)
参道の途中、右手側にあり、その先にある「くぐり岩」など含め、岩壁の地形を活かした池泉庭園です。
桟瓦葺、切妻造の藥医門には1756(宝暦6)年の棟札があり、『東海道名所圖會』によると明王院か吉祥院あるいは両院の跡地と窺えます。薬師門の屋根に配された桃を象った隅留蓋にも注目です。昔から中国で桃は桃源郷のシンボルであり、病や邪気を払い、不老長寿の力を与えてくれる果物「仙果」として珍重されてきました。日本でも、桃には魔除けの強い霊力が宿っていると信じられてきました。『古事記』には、妻を探しに黄泉の国へ行ったイザナギが醜く変貌したイザナミの姿を見てしまったため、追っ手に追われるシーンがあります。その際に、桃の実を3つもいで投げ付けて追っ手を退散させ、無事に逃げることができました。 -
拾翠園
築地塀に載せられた瓦には「鶴丸紋」が躍ります。この紋は、森長可や蘭丸、公家の日野氏などの家紋です。元々「鶴」は源氏にルーツを持つシンボルであり、源頼朝と所縁がある鶴岡八幡宮の神紋も「鶴丸紋」です。実は森氏は、武家の神様ともされる源義家に連なる家柄で、特別に「鶴丸紋」の使用を許されていました。
一方、「鶴丸紋」は、日蓮宗の寺紋としても知られています。徳川時代の政策により各宗派は独自の寺紋を掲げるようになり、その際、日蓮宗全般で「鶴丸紋」が用いられました。これは、日蓮の母方、大野氏の家紋を顕彰するためとされています。 尚、この時代「鶴丸紋」は人気があり、これを寺紋や宗紋にしたのは日蓮宗だけではなかったようです。真言宗の石山寺の塔頭であった明王院あるいは吉祥院の寺紋だったと思われます。
さて、「鶴丸紋」からJALブランドマークを思い浮かべられた方も多いと思います。JAL HPの「ブランドマークの60年」によると、このマークを制作したのはアートディレクターの宮桐四郎氏とデザイナーのヒサシ・タニ氏だそうです。「鶴」の家紋をあしらった海外向けデザインが好評なため、これをモチーフに新しいブランドマークを制作したそうです。 -
拾翠園
現在は無料の休憩所です。 -
拾翠園
石標には「此是南石山寺領」と刻まれています。 -
拾翠園
ゆったりとした庭園には池が設けられ、そこに小滝が落ちています。その池の中に「金龍竜王社」が祀られています。
金龍竜王は、大日如来の化身で龍族の長、石山寺の守護神とされ、除災招福を司るとされます。駒札には「江戸時代中期にその姿を現わす」とあります。 -
塔頭 公風園白耳亭
『東海道名所圖會』によれば、蜜蔵院か持宝院あるいは両院の跡地と窺えます。
ただし、地蔵院と表示する別書もあり、近代には地蔵院と呼ばれていたのかも知れません。 -
塔頭 公風園白耳亭
薬医門の表札には『公風園』と掲げられています。
割り字になっている「公」と「風」に「木」(きへん)を付けると、およそどんな場所なのか想像できると思います。
立ち入ることはできませんが、冬枯れた詫び寂びのあるい回遊式の日本庭園です。掃き清められた白砂とのコントラストを鑑みれば、新緑と紅葉狩りの季節が愉しみです。 -
塔頭 世尊院
平安時代には多くの女流作家が、戦国時代には織田信長など往時のVIPが宿泊した由緒ある塔頭です。今風に言えば石山寺の「迎賓館」です。
世尊院に泊まり、夕方になると本堂に上がって勤行をし、夜が明けると世尊院に戻ったそうです。 -
塔頭 世尊院
1771(明和8)年の春~秋に諸九尼(しょきゅうに)は芭蕉の『おくのほそ道』の足跡を辿る旅に出ました。その時の紀行文は『秋風記』になっていますが、往時の50代後半の女性には無謀な旅だったに違いありません。9月4日、彼女は石山寺に登り、無事に旅を終えたことを感謝しました。
「七ツ下りのころ石山に着て、世尊院の方丈に、頭陀袋をほどく。」
諸九尼は女性宗匠として俳句で生計を立てた俳人です。女性が文筆で自立したという点では世界初とされます。最晩年の句に「夢見るも 仕事のうちや 春の雨」があります。この句を通じて若き日を振り返り、俳諧に生きた生涯への満足感を顕わにしています。また、俳諧が夢見るような虚業だとしても、それでもどうにか生き抜いた、ちゃんと仕事になった、そう矜持を保っているようにも思えます。
SDGs目標5「ジェンダー平等を実現しよう」に象徴されるように、女性が充実感を持って生きられる社会に変革するのは社会的使命です。しかし、抽象的理念に訴求するだけでは果たせません。彼女のような市井の先駆者を世に周知させ、それをロールモデルとして活かすのもよいのでは!? -
大黒天堂
現在の大黒天堂は鎌倉時代様式の建物ですが、明治時代後期の再建と伝えます。
本尊「挙印大黒天」(右手親指を内にして握る)は秘仏とされ、後一条天皇の世の1024(万寿元)年に3人の僧の夢のお告げにより、湖水より出現したとの伝承があります。室町時代にお前立ちの像が安置されて久しくなりますが、その駒札には「弘法大師作」とあります。右手に拳印(宝印)を結ぶと共に地水火風空識六大和合(宇宙の存在)する姿をしておられます。 -
大黒天堂
大黒天と言えばかすかに微笑んでいる印象ですが、鎌倉時代までの作像は憤怒の表情をなされていたそうです。元々がヒンドゥー教の破壊と再生の神 シヴァが世界を破壊する時の姿「マハーカーラ(大いなる暗黒)」が大黒天の起源です。そう考えると厳しい表情である方が自然です。
尚、お使いは鼠とされており、子年には秘仏が御開帳されます。
福招・出世にご利益があります。 -
大黒天堂
本堂に向かって左手には庭園があります。
因みに、石山寺本堂のある高台から東側にある階段を下ってくると、この庭園の先に出ます。つまり、ここは正式な出口に当たるようです。
この大黒天堂を過ぎた参道の先にある志納所で入山料を納めて入山します。 -
大黒天堂
苔生した庭には大黒さんもおられます。
秘仏 拳印大黒天を模したものかと思って調べてみましたが、似ても似つかないものでした。また、お前立とも別物です。
この続きは早春賦 近江 石山③石山寺 くぐり岩~本堂・子育観音でお届けいたします。
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