2023/01/12 - 2023/01/12
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montsaintmichelさん
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前編は参道や神社ゾーンを中心にレポしましたが、後編は仏閣ゾーンを核にレポしていきます。
本尊に大日如来像を祀る本堂の荘厳さは言うまでもありませんが、見過ごされがちな宗務所兼寺務所や庫裡にも見所が満載です。また、人気スポットとしては神社ゾーンの「荒神影向の榊」の対抗馬として「一願地蔵尊」が挙げられます。巨大な地蔵尊像に柄杓で水をかけながら、一つの願いを一心に念ずることで祈願が成就できます。
更には、江戸時代中期に作庭された池泉回遊式庭園や落差10mの龍王滝は歩き疲れた足腰のカンフル剤となってくれること間違いなしです。
清荒神清澄寺の公式HPです。コメントはHPを参照させていただきました。
http://www.kiyoshikojin.or.jp/
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 私鉄
-
清荒神の公式HPにある境内案内図です。
http://www.kiyoshikojin.or.jp/keidai/ -
本堂
宝稲荷社をやりすごして石段を下った先に本堂が鎮座しています。
山門の真正面に位置し、本堂と霊牌堂、練行堂の3棟が身を寄せ合っています。 元々の本堂は江戸時代の安政年間に旧清(もときよし)の寺域より移築された建物でしたが、開創千百年記念事業として1989年より5年の歳月を掛けた平成の大改修により、今日の姿に刷新されました。
尚、御朱印は本堂左脇にある受付所で拝受できます。 -
本堂
正面には本尊 大日如来と四天王像、向かって左に不動明王、右に高祖 弘法大師が祀られています。内陣には、真言密教の象徴ともされる六尺四方の大曼荼羅壇が安置され、中央には舎利塔、四面には密具が安置され、ここでは毎日、大聖不動明王の秘法が修行されています。
また、春季大祭、春・秋の彼岸会、盂蘭盆会等には理趣三昧法要が奉修され、戦争や災害で亡くなられた方々、先師、寺族、当山に貢献された方々及び萬霊の供養が厳かに執り行われています。 -
本堂
本堂前には賓頭盧尊者坐像が安置されています。
十六羅漢の第一で、涅槃に入らずに人々を救済したことから、体の悪い所を撫でれば病が癒えると信仰されてきました。お肌がツルツル光っているのは大勢の参詣者に撫でられたからでしょう。 -
本堂
蟇股には仏様の教えを意味する「法輪」が燦然と輝きます。
法輪は、仏教の教義、特に釈迦が説いた四諦・八正道の教え(法)を車輪に例えた別称です。また、仏教の教義を示す物として8方向に教えを広める車輪形の法具として具現化され、「卍」と共に仏教のシンボルとして信仰されています。 -
本堂
宝形屋根には露盤の上に宗紋・寺紋である如意宝珠が3つある「三弁火焔宝珠」が載せられています。
1796~98(寛政8~10)年刊行の『摂津名所図会』蓬莱山清澄寺から抜粋します。
「谷村の山中にあり。中山寺奥院より十町ばかり西南なり。阪路嶮し。古義真言宗。それこの山は梵園寂寞たる霊場なり。むかし寛平五年の春、宇多天皇皇后とともに同夢を見たまふ。
聖僧三輩来つて奏して日く、摂州に蓬莱山といふ霊岳あり。われらはこれ釈迦・弥陀・弥勒の三仏なり。浄刹を建てて安置したまはば、天下清平人民豊饒ならんとて曼陀華の香木を献りて夢覚めにけり。竜顔大いに歓喜有つてその地に精藍を創し、すなはちその霊木をもって仏工定円法眼に命じて三尊を造らしめこれを本尊とし、僧正静観・僧正益信の二僧を延いて開祖とし、台密の法を修し国家安泰を祷らしめたまふ。その剋三宝荒神堂前の樹に影向し、仏道守護の鎮守とならんと示現す。ここにおいて西谷七嶺七渓の勝地に勧請し、修法厳密なりしかば異香芬々として霊威新たなり。これを清荒神と崇め奉るたり。」 -
渡り回廊
本堂から宗務所兼寺務所へ繋がる渡り廊下も趣があります。
空中廊下の一部は懸崖造を彷彿とさせる構造です。 -
渡り廊下
説話物語集『宇治拾遺物語』巻二(20)に清澄寺開山の静観僧正の雨乞法験の話が記されています。
延喜の頃に酷い干魃が起こった。カンカン照りが続いて雨が降らないため、60人もの高位の僧侶を集めて雨乞いのために加持祈祷の煙で真っ黒になるほど大般若経を読ませたが、日差しは強まるばかりだった。帝を始め大臣貴族や百姓町人に至るまで困り果て、嘆き合う有様だった。
そこで帝は、側近の蔵人頭を呼び、静観和尚に祈禱するよう伝えよと仰せになった。蔵人頭は僧正に「特別の御意です。これだけの高僧たちが祈禱しても甲斐が無いため、静観和尚は別の場所で祈禱するようにとのことです」と伝えた。
その頃、静観和尚は律師という階級に過ぎず、「上には僧都や僧正といった身分高い僧侶が沢山いるにも拘わらず、わざわざご指名いただくとはありがたい」とばかりに皆で祈禱していた南殿の階段から降りて北向きに立つと、香炉を取って額に押し当て、見る人がどん引きするほど一心不乱に祈禱し始めた。灼熱の太陽の下、涙を流し、モクモクと黒煙を立てて祈禱し続けるうち、香炉の煙が空高く昇り、やがて扇ほどの黒雲になった。上達部や上級貴族たちは南殿に並び、その他貴族は傍らの弓場殿に、また上達部の奥方連は美福門から様子を見ていた。
すると、その黒雲は空一面に広がり、龍神が震え、稲光が走りまくり、とうとうどしゃ降りの大雨が降ってきた。忽ちにして日本中その雨で潤い、その年の五穀も豊穣、果物もしっかり実を結んだ。
祈禱を見ていた人はすっかり静観僧正に心服し、帝も大臣もその他貴族たちも大喜びし、静観和尚を一気に僧都の位に格上げしたのだという。 -
池苑
江戸時代中期の享保年間に作庭された池泉回遊式庭園で、池泉を中心とした豪壮な石組を配し、滝や亀島、船着石などを組み合せた観賞式庭園です。元々はこの池畔には書院がありましたが、何時の頃からかそこには庵堂が建ち、浄界和上の隠棲の場とされたと伝わります。
現在は四季を通じて鯉や亀などが池面を遊泳し、参詣者の目を喜ばせ、一時の安らぎの場となっています。 -
池苑
この庭園は、江戸時代の名匠の作庭と推賞されており、 1937(昭和12)年に京都の東福寺や松尾大社の作庭で著名な庭園研究家 重森三玲氏が調査し、著書『日本庭園史図鑑』の中で「清澄寺庭園」として紹介されています。 -
池苑
ここの石組は、禅宗などに見られる強烈なインパクトはありませんが、その分素朴で優雅に映ります。
かつては回遊式庭園だったようですが、現在は回遊は許されていません。 -
池苑
重森三鈴著『日本庭園史図鑑』「清澄寺庭園(抜粋)」
本庭の面積は約180坪ほどあって、北西部にもとの山畔を利用して、下部に池泉をうがち、中島一島を設けてある。そして池庭はやや奥行きの幅が広く、これは元禄時代の定型的な地割であり、さらに池中にやや大きな亀島一島を作ることも、やはり元禄から正徳あたりにかけての定型的地割であり、(中略)
本庭の北部には滝を組み、多量の水を落下させていて、その石組もなかなかよく、その右手が出島となっていて、その付近にも多数の石組があるが、改造された部分も多い。中島は亀島として作られ、東部に亀頭石を用い西部に亀尾石も見られ、その手法もまたよくこの時代の手法を見せている。手前の護岸石組は、今日では大変な荒廃を見せているし、改修されているが、亀島のちょうど西部にある山畔の集団石組は、亀島に対して鶴石組としたもののようであるが、相当に崩れているので判明しがたい。いずれにしても一見の価値ある庭園である。 -
電子版「神戸新聞NEXT」で配信された記事に「初詣客を迎える社寺の願いは?漢字1字に込める2023年の展望を語ってもらった。」というものがあります。そこに清荒神清澄寺 森藤晃正執行長の「漢字」とコメントが載せられていましたので原文のままご紹介いたします。
漢字『生』
「生かせいのち」。弘法大師空海の教えから引用したのは、家内安全や商売繁盛の神を祭る真言三宝宗の大本山、清荒神清澄寺だ。
森藤晃正執行長は、ウクライナの紛争やコロナ禍で最も大きな影響を受けるのは、子どもやお年寄り、障害がある人など弱い立場に置かれている人たちだと指摘。「先が見えにくい社会情勢だからこそ、一人一人が『生』きることの大切さを考えてほしい」と話す。 -
一願地蔵尊
本堂の石段下に立つ金銅製の巨大な立像です。
1891(明治24)年、特信者の寄進により建立されたもので、光背にはその方々の名前が刻まれています。
因みにこの地蔵尊も、手のひらに「三弁火焔宝珠」を載せておられます。 -
一願地蔵尊
頭上にまで水を掛けて一つの願いを念ずればご利益があるとされ、別名「水かけ地蔵さん」とも呼ばれています。巨大なお地蔵さんに届くようにと水を勢いよく掛ける祈願方法が、いつしか「水がお顔にかかれば願いが叶う」という説を生んだそうです。それ故、顔をめがけて柄杓を振られる方がおられるようですが、お寺の方によると、水の飛距離はご利益に無関係だそうです。
「一願地蔵尊」ですから、大切なのは「水をかけながら、一つの願いを一心に念ずること」です。また、「一生に一度」ではなく、「一度に一つ」なので、願いごとが叶えばまた次のお願いができます。作法は「一杓、三礼、一願」です。 -
一願地蔵尊
毎年8月24日の地蔵盆大施餓鬼会では、立像前にて読経、並びに施餓鬼供養があり、その後に小法話があり参詣人にお供物が授与されます。 -
一願地蔵尊
燈籠もシックなデザインでまとめられています。
透かし部にはサンスクリット語では「おめでたいこと」や「幸福」という意味を持つ『卍』が入れられています。仏教やヒンドゥー教でも「幸福の印」として使われており、寺院の地図記号でもあります。
一方、国土地理院は先の東京五輪にむけて、『卍』に代わり『三重の塔』のマークを提案したそうです。『卍』がナチスドイツのシンボル『ハーケンクロイツ(カギ十字)』を連想させるとの理由からです。しかし、「寺院の地図記号として、卍記号を尊重すべき」という反対意見が多数を占めたことから、見送られたそうです。
因みに、『卍』と『カギ十字』とでは左回りと右回りの違いや、後者が通常45度回転しているという違いがあります。どうも混同してしまう方が多いようです。 -
宗務所兼寺務所
史料館の向かいに屋根を広げているのは宗務所兼寺務所です。
清荒神清澄寺の住僧 慈心坊尊恵(そんえ)が、一度死去して閻魔王宮へ行った後に蘇生したという『冥土蘇生記』の原態は鎌倉時代前期に成立し、『平家物語』にも当寺所蔵の写本とほぼ同文で引用されています。現代文に要約すると以下のようになります。
1172(承安2)年12月22日の夜、尊恵上人が仏前で一心にお経を唱えていると、浄衣に立烏帽子を被り、草鞋を履いた男が現れた。男は「閻魔大王からの書状なり」と一通の手紙を差し出した。それには「26日、閻魔城の大極殿で十万人の僧を集め、十万部の法華経を転読するので参列せよ」と書かれてた。上人は驚き「自分の命ももはやこれまでか」と悟り、静かに念仏を唱えて待っていると、25日の夜半に2人の童子が迎えに来ました。上人は従僧を連れ、迎えの七宝の大車に乗って閻魔大王の所へ行った。 -
宗務所兼寺務所
法華経の教えを受けた後、「私の命はこれまでなのでしょうか?」と閻魔大王に確認すると、「そなたは、生前の行いが大変立派であったので、再び帰ることができる。摂津の国には、人々に往生への道を教える所が5ケ所あり、そのひとつが清澄寺である。心して学ぶように。」と告げられました。上人の冥土への旅は、その後も4回続いた。
そして、閻魔大王から銀の箱に入った経文十一巻が贈られた。「これが、そなたに授けた経文の全てである。そなたには不必要。山中の宝塔の下に埋めよ。」と言われた。
上人は、帰った後も里の人達に往生への道を説いて聞かせたが、その後、有馬の温泉山清涼寺へ移った。ある日、上人が教えを説いての帰り道、宝塔の下から湯気が上がっているのを見つけて寺男に掘らせた所、熱いお湯が滾々と湧き出た。そのお湯が有馬温泉の元と伝えられている。
それから2百年ほど後、村の人が阿弥陀塚という小山の下から銀の箱を見つけ出した。その中には法華経八巻、無量義経一軸、観音経など十一巻が納められており、修行僧達の大切な学問書となった。 -
宗務所兼寺務所
宗務所兼寺務所の前には見事な松があります。
かつてこの松は、史料館の建っている所に植わっていたそうです。 -
宗務所兼寺務所(入母屋玄関)
玄関幕は鮮やかな紫の地に「三弁火焔宝珠」を染め上げ、揚巻房で中央を捲り上げています。 -
宗務所兼寺務所(入母屋玄関)
衝立障子や襖には金色の「三弁火焔宝珠」を散らしています。
本来は生け花が主役なのでしょうが、寺紋に気圧されてしまっているような…。
因みに天井は、格式の高い格天井です。 -
宗務所兼寺務所(入母屋玄関)
中央の彫刻が何か判り難いのですが、左にあるのが「打ち出の小槌」であることから推測すれば「宝袋」でしょうか? -
宗務所兼寺務所(入母屋玄関)
木鼻には迫力のある獅子を彫っています。 -
宗務所兼寺務所(入母屋玄関)
精巧な細工にも目を瞠ります。 -
宗務所兼寺務所(唐破風玄関)
玄関の襖は真新しい越前の手漉き本鳥の子紙(雲龍大礼紙)です。 これから長い時間をかけて佳い色に焼け、綺麗な模様が浮かび上がってくることでしょう。
本物の紙は経年変化すらも愉しみのひとつです。 -
宗務所兼寺務所
こちらにAED(自動体外式除細動器)が設置されているようです。
因みに清荒神清澄寺は、宝塚市消防本部へAEDを2度寄贈され、消防長から感謝状を受けています。 -
庫裡
煙だし越屋根がアクセントの庫裡です。
その左には珍しい煉瓦造の煙突が見られます。
また、全ての軒丸瓦には梵字の「バン」を浮き出し、智恵を表す金剛界曼荼羅の方の大日如来を示しています。 -
宗務所兼寺務所
日光東照宮にある「恐悦飛越えの獅子」を彷彿とさせる「唐獅子牡丹」です。 -
宗務所兼寺務所
こちらも愛嬌のある「唐獅子牡丹」の飾り瓦です。
左右で阿吽形を成しています。 -
宗務所兼寺務所
縁起の良い組合せとして使われる「獅子に牡丹」という言葉は、「獅子身中の虫」の諺が由来との説があります。
「獅子身中の虫」とは、獅子の体内に寄生しておきながら、獅子を死に至らせる害虫の意味です。元々は仏教用語で、仏教徒でありながら仏教に害をもたらす者を例えた表現だそうです。
その「寄生虫」から我が身を守るには、何か薬になるものを飲まなくてはなりません。その薬となるのが、牡丹の花に溜まる朝露です。そのため、獅子は牡丹の花から離れることができない運命ということになっています。 -
宗務所兼寺務所前
何の変哲もない、綺麗に刈り込まれた「サツキ」です。 -
宗務所兼寺務所前
禁断のサツキの中をそ~っと覗いてみると…。 -
それでは境内最北端にある龍王滝へ向かいましょう。
龍王滝へは、本堂の石段を下りて直ぐ左折し、渡り廊下の下を潜り抜けて行きます。 -
本堂の裏面です。
この右手に錬行堂があります。 -
仏足石
仏教の開祖であるお釈迦様の足形を石面に刻んだ「仏足石」です。
インド初期仏教では仏像を造ることは恐れ多く、法輪・塔・菩提樹などをもって
仏を拝むと同じく拝礼の対象とされていました。この足形の紋様には金剛杆・双魚紋などがあり、多くの教典には千輻輪相があると説かれています。西域から唐を経て奈良時代に日本にも伝わり、各地で模刻されました。
古いものは紀元前4世紀に遡るとも考えられています。また、仏足石は釈迦のものとは限らず、シバ神の足跡も信仰の対象とされているそうです。このように両足を揃えたものがより古い形式のもので、片足のものは比較的新しく紀元後のものだそうです。 -
辰馬悦叟(たつうまえっそう)「君頌徳碑」
仏足石の右隣にあります。
清荒神清澄寺の信者で西宮の酒造家 辰馬悦叟(1835~1929年)は、富岡鉄斎(1836~1924年)と親交が深く、鉄斎作品を蒐集していました。
第37世法主 坂本光浄和上は、辰馬悦叟の没後、境内に頌徳碑を建碑することになり、石碑の篆額(てんがく=一番上に刻まれた題字)を依頼するため、初めて京都の鉄斎を訪ねました。
この時の縁が鉄斎と光浄和上の交流に繋がり、現在1200余点の鉄斎作品を収蔵する緒となったそうです。
尚、鉄斎美術館「聖光殿」とは別に悦叟の孫 悦蔵が設立した公益財団法人 辰馬考古資料館が西宮にあります。
https://www.museum.or.jp/museum/5614 -
淡墨桜
鉄斎美術館の手前に淡墨桜があります。
こちらは1991年に岐阜県根尾村から淡墨桜の若木を移植したものです。同村薄墨公園には樹齢1400年と推定される国指定天然記念物の根尾谷薄墨桜があり、日本5大桜あるいは3大巨桜と称されます。
蕾の時は淡いピンク色、満開時には白色、散りぎわには淡い墨色になり、淡墨桜の名はこの散りぎわの花色が由来だそうです。 -
鉄斎美術館
第37世 法主 光浄和上が幕末から明治・大正時代の文人画家 富岡鉄斎と親交があったことから、千点以上の鉄斎作品の収集で知られ、山内の一角に昭和50年に「鉄斎美術館」が設置され、「鉄斎寺」の異名もあります。
正面玄関の扁額『聖光殿』と門標『鉄斎美術館』の文字は書家 森田子龍の揮毫です。左右の前庭には鉄斎所縁の地である、貴船や鞍馬、天竜、伊予の各名石を配し、また、岐阜県根尾村から分植された薄墨桜が色どりを添えるなど、美術鑑賞の殿堂に相応しい雰囲気を醸しています。 -
龍王滝
鉄斎美術館の先を荒神川に沿って上流へ進むと落差10m程の斜瀑があります。
また、滝の左側の岩肌には不動明王が祀られており、滝の周囲の雰囲気と相俟って心が洗われます。
道の突き当りには十三重の供養塔が佇みます。 -
龍王滝
龍王滝は境内にある富岡鉄斎美術館の横を流れる荒神川の渓流にかかる滝です。
小振りですが、姿の美しい滝です。
この画像に不動明王が写っているのですが、判りますか? -
龍王滝
長い間雨が降っていなかったので枯れ上がっていないか心配してましたが、少水量ながら滝としての面目は保っていました。 -
龍王滝
龍王滝の手前左側の岩肌にひっそりと小振りな不動明王が祀られています。
摩崖仏ではありませんが、岩肌の色とすっかり同化しているため、大体の位置を知らないとこれくらいズームアップしても見つけるのは難儀だと思います。 -
龍王滝
台座の上にバランスよく立ち、右手に倶利伽羅剣を持ち、寡黙に滝を見つめておられます。形相は憤怒と言うよりは、少し笑みを浮かべておられるようにも見えます。
因みに不動明王は、密教における本尊 大日如来の化身とも言われています。
何故、明王になったかと言えば、我々衆生(生命のあるもの全て)の傍へ行き、救済するためと伝えます。大日如来は穏やかな表情をしていますが、悪い方向に向かっているとことを聞かない人々をなんとか助けようと、怒った顔で現れます。それが不動明王です。り美しい大日如来の顔よりも、怒った顔の不動明王の方が迫力があり、言うこときいてくれ易くなります。つまり憤怒の形相は、人々を救うために必死になっている姿のようです。 -
十三重の供養塔
何の供養塔なのか説明もなく不詳です。 -
鉄斎美術館別館「資料館」
アプローチに設けられた水盤から滴る水の音が、まるで誘うかのように響き渡っています。ここでは近代文人画の巨匠「富岡鉄斎」作の幾多の什物や所蔵品を順次展示されています。
2008年に開館した寄棟造、平屋建の史料館は、開創以来千百有余年という歴史的変遷を経て、現代の山容が次第に形づくられる、その原点とも言うべき伽藍跡に位置しています。 -
鉄斎美術館別館「資料館」
軒を低く抑えながらも大きく跳ねださせ、重厚な本瓦葺の寄棟屋根をガラスが支えているように錯覚させ、今にも大屋根が浮遊するかのようです。
軒下に巡らした回廊は高透明ガラス・スクリーンで構成され、その内側に展示室を入れ子状に配置しています。 -
高祖 弘法大師像
本堂と天堂に参道が分岐する少し先に行脚姿の弘法大師立像が安置されています。錫杖と鉄鉢を手に諸国を巡歴された時の姿とされます。神仏習合とは言え、真言三宝宗の大本山ですから違和感はありません。
毎年6月15日の降誕会では、立像前にて読経、その後に小法話があり、参詣人にお供物が授与されます。 -
護牛神堂
本尊は「牛頭(ごず)天王」で、弘法大師と不動明王が合祀されており、臥牛もいます。
清荒神では伊勢皇大神以下の諸神を勧請した開創時に牛頭天王を祀っていたことが縁起に記されています。三宝荒神を祀る寺院に何故、牛頭天王を祀る堂宇があるのか謎ですが、祇園社(八坂神社)では三宝荒神は牛頭天王の眷属神とされていることに準じたものと思われます。 -
護牛神堂
牛頭天王は、元々はインドの祇園精舎の守護神で、「牛王神」や「牛神様」とも言われ、更には護牛と言うことから、牛の護符を授かり牛を護る農家の方々の信仰を集めています。因みに祇園精舎は、釈迦が説法を行ったとされる寺院で、「身寄りのない者に施しをする」という意味を持ちます。 -
六角形を象った石畳の中心で何やら熱心に拝まれている方を見かけました。
本堂と六角形の中心、天堂と中心を各々結んだ線は、この中心点で交わります。
日光東照宮の唐銅鳥居前の「ダイヤモンド形の石畳」や鞍馬寺本殿前の「星曼荼羅」のように、この中心点がメガ・パワースポットなのかもしれません? -
メガ・パワースポットに立って本堂を拝むとこんな具合です。
前方左側には本堂と天堂の方向を示す道標が建ち、右「大日如来」、左「清荒神王」と刻んであります。 -
陳列所
この布袋尊の伏見人形(土人形)は毎年12月23日から翌年2月5日まで期間限定で授与されます。
小さいものから大きいものまで7体あり、一番小さい人形から7年かけて順番に神棚に祀るのが習いです。もし途中で不幸があれば、それまでの布袋尊を全て返納し、翌年また1年目から再スタートします。 -
陳列所
旧本堂の正面に掲げられていた扁額には、高貴寺を中興して名僧と謳われた慈雲飲光の筆で『無畏城』と書かれてます。第33世 浄界和上が高貴寺で具足戒を受けたご縁によるものだそうです。
「無畏(むい) とは確信して畏をもたぬこと(中略)、無畏城とは真理を悟り不安や疑惑から解放された真言行者の集結す道場という意味」と解説文にあります。つまり、生死や苦悩などへの畏れが無い状態、それを「無畏城」と表現したようです。因みに典拠は『大方等大集経』巻53です。
また、道元著『正法眼蔵』「出家功徳」巻には「あきらかにしる、剃除鬚髪して袈裟を著せば、戒をうけずといふとも、これを供養せむ人、無畏城にいらん。」と言った具合に使われています。
因みに「施無畏者」とは観音様を指します。 -
山門
後ろ髪を引かれる思いで山門を潜ります。 -
宝来の鈴
山門を出て直ぐの所にある露天商「三鈴屋」で珍しいお守りが購入できます。 -
宝来の鈴
ナスの形をしたお守り鈴には、次のような「いわれ」があります。
・財なす
・福なす
・人物(ひと)をなす
「『親の意見と茄子の花は、千に一つの無駄もない』と言われ、咲いた花には一つ残らず実を結ぶということから、努力はむくわれ、願いはかなえられるといわれております。」
因みに、「茄子」の語源は「成す」という説があります。茄子は瓜科の植物で、ウリの花は咲いても実のならないものもありますが、茄子の花にはそれがありません。(実がなる前に落ちることはありますが…。)つまり茄子の花は「実を成す」ということです。これは「親の意見と茄子の花は、千にひとつの無駄もない」という諺があることでも判ります。また、初夢に「1.富士、2.鷹、3.なすび」を見るとその年は良いことが起こるという迷信もあります。実は、この言葉の由来は、徳川家康が好きだったものという説があります。
とにかく「茄子」は縁起がいいようです。 -
宝来の鈴
「なすび」は奈良時代に中国から渡来したと伝わります。往時は貴重な食べ物とされ、身分の高い人しか食べられなかったそうです。また、往時のなすびは現代のものに比べ酸味があったため「中が酸っぱい実」と表現され、それが「なかすみ」、「なすみ」と転じ、最終的に「なすび(奈良比)」となりました。
江戸時代、なすびは主に関西で栽培されていましたが、無類のなすび好きの家康が江戸でも栽培するよう命じたことが契機となり江戸にも広まりました。しかし、量が少なく、高嶺の花でした。そこで考えられたのが、なすびを縁起の良い野菜として売ることでした。成功の意味を表す「成す」とかけて「なす」と命名したところ、一気に庶民に広まり、その後なすと呼ばれるようになったそうです。
因みに、「なすび」を「なす」と縮めたのは室町時代の宮廷の女官さんとの説もあります。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。
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