2022/04/06 - 2022/04/06
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しにあの旅人さん
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群馬県高崎市の南に、上野三碑といわれる7世紀末から8世紀前半に作られた石碑があります。ぐるーと回ってきました。
今回は多胡(たご)碑、その隣に立てられた多胡記念館と、多胡碑に関わる伝説がある羊神社です。
私たちのブログは、「石ころ一つで千年の時を語る」と、4トラベラーのkummingさんから褒めていただいたことがあります。高級料亭の料理など出てこない、きわめて安上がりなブログです。
これがBy妻怨嗟の的。
今回も又、石を眺めてロマンのため息をついてきたのでした。
参考、引用資料は下記の通りです。引用では僭越ながら敬称を略させていただきます。
「古代東国の石碑」前沢和之/山川出版社/2008年
「多胡碑のはなし」多胡碑記念館/平成29年
「多胡碑の記憶」多胡記念館/令和元年(2019年)
「山上碑の世界」多胡記念館/平成30年
「山王廃寺跡」前橋市教育委員会事務局文化財保護課/令和3年
「金井沢碑の遺産」多胡記念館/令和2年(2020年)
「上野三碑とは」前橋市教育委員会事務局文化財保護課
https://www.city.takasaki.gunma.jp/info/sanpi/01.html
投稿日:2022/12/21
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
一書に曰く、
多胡記念館に来ました。
モダンな建造物の中に入ると、目指す多胡碑がございました。
毎回のことですが、人影のない博物館で、爽やかな気分で拝見できました。
昔、上野の美術館で、例えばミロのビーナス、モナリザとか、カルパッチョとかの美術展に行ったことがあるのですが、まあ、ものすごい混雑で、満員電車の中みたいでした。
ハイはーい、立ち止まらないでくださーい。
とか言われながら、よその人の背中を見て、よちよち列を作っておりました。
それに引きかえ、なんという快適さ。
充分に堪能しました。
小学校の時、隣のクラスに「タコくん」という男の子がいました。
同じクラスでもないのに名前を覚えているのは、彼のお家が、学校のお隣の八百屋さんだったからです。
八百屋さんなのに、たこ?
ここに来て、タコ君は、実は、多胡くんだったのではないか。
そうかあ、由緒ある苗字だったのねえ。
と、思い出したりしました。
親しかったら、いろいろ聞けたのにね。
By妻 -
上野三碑のレプリカも展示されていています。
右から金井沢碑、多胡碑、山上碑。金井沢碑、山上碑に回る時間がなければ、ここだけで概要は分かります。 -
多胡碑は記念館向かって左の覆屋のなかにあります。ガラス越しですが、公開されています。
-
711年に作られた石碑ですが、非常に保存状態がいい。
窓越しでも刻まれた文字が読めます。
冒頭「弁□符上野国・・・」はこの写真を拡大すれば読めますよ。□は「官」ですが、写真では分からない。そのあとも三分の一くらいなんとか見当つきます。
特に上半分がはっきりしているのは、頭に載っている笠石のおかげだそうです。これで雨風が直接当たらなかった。
古い時代から保護されてきたようです。
以下は「古代東国の石碑」より。
文献初出は、1511年の「東路のつと」(連歌師・柴屋軒宗長(さいおくけん・そうちょう)に書かれた「上野国多胡郡弁官符碑」です。
★この所在地は江戸時代には旗本の長崎氏の所領であったが、同氏は碑が傷むのを懸念して拝殿を設けるなど保護につくした。★
1720年の記録では、地元民から「羊太夫社」または「穂積親王の墓」として伝承されてきたことが分かります。
「多胡碑のはなし」だと、遅くとも中世からは地元民の保護下にあったことが想像されるそうです。
明治以降は、群馬県令・楫取素彦(かとり・もとひこ)が国に働きかけて、1875年、国による覆屋などの整備が整いました。
大河ドラマ「花燃ゆ」
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楫取素彦(1829-1912)は長州藩士で、吉田松陰と関係が深かった。最初の妻は松蔭の次妹寿(ひさ)、妻の死後久坂玄瑞未亡人であった末妹文と再婚しています。
文は、2015年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」でブームになった妹キャラ、あの文です。演じるは井上真央。
大沢たかお演じる小田村伊之助、のちの楫取素彦も出てきます。
ドラマでは文は、体調の優れない姉寿を助けて群馬に行ったそうですね。史実のようです。私はドラマを見ていないのですが、多胡碑の話はでてきますか?
井上真央が多胡碑をナデナデして、「立派な碑だこと!」とかいう場面があればいいのですが。 -
これは「多胡碑のはなし」にのっていた、大正時代の多胡碑です。覆屋と柵で保護されています。たぶん楫取素彦が作った覆屋ではないか。
1720年の記録では傍らに大きな楠があったとあります。この写真でも相当太い木に囲まれています。江戸時代の長崎氏以前も、こんなふうに保護されていたのではないかな。
続日本紀には多胡郡設立の記事はありますが、多胡碑には触れていません。しかし続紀と多胡碑の碑文を読み比べれば、この碑の重要性は分かります。
中世、たぶんもっと古く、古代律令国家が滅びた後も、この碑を守ろうとした人がいたのですね。歴史のロマン、じーんとくるモノがあります。
いにしえの群馬県民、やるじゃないですか。
一書に曰く、
わが家は、あまりテレビを見ません。「花燃ゆ」に楫取素彦がどのように描かれていたのか知らないのです。この人によって、群馬県は、基礎を築かれたと言われています。
富岡製糸場を中心に、銀行を設立したり、生糸絹織物の輸送ルートのために、高崎線を前橋まで延伸したり。
その一方で、文化にも心を砕いていたというわけです。
さすが、吉田松陰の義兄弟。
彼には、多胡碑の歴史的価値が理解できるだけの教養があったのですね。
By妻 -
碑文の拓本です。
-
碑文書き起こし。
高崎市教育委員会HP「上野三碑」よりトリミングしてお借りしました。
下記現代語訳も同じHPより書き起こしました。
朝廷の弁務官から命令があった。上野国片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡をつくり、羊に支配を任せる。郡の名は多胡郡としなさい。和銅四年三月九日甲寅に命令が伝えられた。左中弁正五位下多治比真人。太政官の二品穂積親王、左大臣正二位石上尊、右大臣正二位藤原尊。
これは続日本紀の記事に対応しています。
和銅4年(711年/元明天皇4年)3月6日、
★上野国甘良(かんら)郡の織裳(おりも)、韓科(からしな)、矢田、大家(おおやけ)、緑野郡の武美(むみ)片岡郡の山など六郡を割いて、新しく多胡郡を設けた。★
続日本紀は797年成立ですから、羊さんはこの記事を知りません。続紀編纂の菅野真道さんは、こんな田舎の石碑なんか存在も知らないはず。
現場の石碑と正史の記述が見事に一致。正史の記述のウラが取れるって、私こういうの大好き。
有名人続々登場
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知っている人が出てきた。
「左中弁正五位下多治比真人」というのは、多治比三宅麻呂です。
武蔵野国秩父郡で自然銅が発見され、和同開珎の鋳造が計画されました。
続日本紀和銅元年(708年)2月11日、
★初めて催鋳銭司(さいじゅせんし、銭貨の鋳造を監督する役人)をおいた。従五位上の多治比三宅麻呂をこれに任じた。★
和銅4年(711年)4月7日、叙位の中に、
★正五位下の(中略)多治比真人三宅麻呂(中略)にそれぞれ正五位上を授けた。★
それぞれとあるのは、8人が同時に昇進したからです。同期昇進組に太朝臣安麻呂(おおの・あそん・やすまろ)がいます。古事記編纂の安麻呂です。
和銅8年(715年)5月22日、
★従四位上の多治比真人三宅麻呂を左大弁に任じた。★
左大弁は左中弁の上級職。7年間で従五位上→従四位上、催鋳銭司→左中弁→左大弁はスピード出世。優秀な官僚だった。この時の同期が従四位上の大伴旅人で、中務卿になっています。
三宅麻呂は催鋳銭司として当然秩父にも来ている。北関東には土地勘があった。
多胡郡の創設なんかも、バリバリと実務を取り仕切ったということでしょう。
続日本紀の叙任の記事はいつも長くて退屈ですが、ここでは「こいつらは同期なんだ」と興味ワクワク。
「ちくしょう、なんであいつが・・・」人事の発表に一喜一憂する古代人が、身近に感じます。
古代への縦の旅をやっていて、こうして古代人の感情を生々と感じられるおまけによく出会います。
穂積親王
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天武天皇の皇子で、大友坂上郎女の最初の夫です。太政官というのは政府最高責任者ですから、多胡郡創設なんていうことには、直接タッチしていないんじゃないかな。
左大臣正二位石上尊
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尊(みこと)は尊称。
石上朝臣麻呂(いそのかみの・あそん・まろ)のことです。壬申の乱のとき最後まで大友皇子に従った忠臣、物部麻呂です。のち石上に改名しました。律儀な人だったのですね。それが天武朝でも評価されたらしい。遣新羅大使なども勤めた有能な人物だった。このとき穂積親王に次いで政府NO2。
711年にはすでに72歳です。実権は右大臣に譲っていたのではないでしょうか。
右大臣正二位藤原尊
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出ました!
言わずと知れた藤原不比等。実質的に政府を牛耳っていました。
多胡郡創設というような実務は彼のもっとも得意とするところではないか。
不比等さん、多胡郡を作って、何を狙っていたのでしょう。
不比等発案、三宅麻呂実行というところではないか。 -
すごーい、古代群馬県人の知的レベル
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もう一度漢文書き起こし。今度は記念館展示より。
「弁官符」はこの手の文書の決まり文句。以下のようにお達しがあった、くらいと見当つきます。
そこから先は、実に分かりやすい。現代日本語の語順でほとんど読めます。「並」という分からない字はパス。
「上野国の片岡郡、緑野郡、甘良郡、三郡のうち300戸で郡と成す。羊に給う。多胡郡とせよ。」
あとは年月日+宣+人名。
「和銅四年三月九日の下記の偉い人の宣告(命令?)である」
こうして適当に読んでも、専門家の現代語訳と大筋では変わりません。
古代では文書の作成は渡来人の仕事だと言われますが、このくらいの行政文章なら、ちょっと漢字教育を受ければ、だれでも書けるし読める。「上野国」は固有名詞で「かみつけのくに」以外読みようがない。中国語式に発音したら、なんのことか分かりません。
多胡碑の碑文に関しては、中国語の知識を必要とする部分はほとんどないということです。
私が読めたのが証拠。私は高二(つまり60年前)で漢文週1時間、中国語はやったことありません。
なにが言いたいか。8世紀初めのこのあたりでは、漢字を日本語式にだらだらと並べる文書は普通に書かれ読まれていたのです。
多胡碑は、上野国府があったといわれる現在の宮鍋神社まで直線約15kmあります。上野でも中心部というわけではない。平城京からすると田舎の上野のさらに田舎。それでもこの知識レベル。
古代の群馬県、なめたらいかんでよ。
群馬県人の4トラベラーさん、読んでいませんか。
一書に曰く、
だいぶ前のことです。埼玉をバカにする映画がありまして、群馬も千葉も出てきて、深谷の根深ネギと千葉のイワシだったかな、そんな特産品で戦うというハチャメチャな筋でしたが、おもしろかったです。
でも、ちょっとちょっと、それは群馬、上野国に失礼ではないですか!
不比等さんの時代には、なかなかのものだったのです。
文化レベルも高いし、都から重要視されていたのです!
なんでだろ?
特別な資源?
銅が出ました。
渡来人がいた?
多胡という名前、胡人が多いという意味ではないでしょうか。
胡は中国より、もっと西、モンゴルやら、場合によってはイランまで。
もしそうなら、羊というのもわかる。
だって、モンゴルの遊牧民にとって羊は、とてもとても大切な財産ですから。
胡をエビスと読むなら、単なる野蛮人って意味ですけれど、どうなのでしょう。
とにかく重要視された国だったのですよ。すごいんですよ。
By妻 -
多胡碑の2行目一番下に「給羊」となっています。
-
羊さん独演会
▲▼▲▼▲▼
拓本の方が読みやすい。
これは解釈に諸説あったのですが、現在では「羊」は人名で、「(新たに郡をつくり)羊に支配を任せる。」と読むのが定説になっています。
羊さんが多胡郡初代長官です。たぶんこの碑を作ったのも羊さん。
「古代東国の石碑」によると、この時代「羊」は各種資料に94例もあり、普通の男子の名でした。この研究は有富由紀子、稲川やよい、北林春々香3氏の木簡を含む広範な資料調査の結果です。大変な仕事だったと思います。感謝です。
また姓を省いて名だけ書く類例もあります。
誰を指すのかはっきりしている場合は省略する。当たり前です。
羊さんは、このあたりでは知らない人はいない有名人でした。地元の有力豪族だということです。
逆にいうと、多胡郡から遠い知らない人に読んでもらおうとは思っていなかった。
ましてや1300年後、はるか上総の玉浦(九十九里浜の古称)から来た観光客が読もうとは!
多胡碑は最初どこにあったか分かっていません。現在の位置かもしれません。
多胡郡の役所、郡衙はまだ特定されていませんが、そのあたりか、羊さんの屋敷前でしょうかね。
この時代、中央からの命令は、口頭で住民に知らせるのが普通でした。多胡碑をでーんとみんなから見える位置にすえて、何回にも分けて説明会を開いた。
羊さん自ら、多胡碑の傍らに立ち、棒のようなものをもって、逐一説明。「給羊」の部分は、「ひ~つ~じ」と特に声をはりあげたはず。
この文書は読み上げることを前提に作られているそうです。「右大臣正二位藤原尊」の「尊/みこと」は尊称で、このほうが語調がいい。多胡郡のおっさんおばさん連中、藤原不比等なんて名前知りません。最後に「ふじわらの~みこと~」と、百人一首を詠み上げるみたいな感じでやれば、「ふむふむ、偉い人なんだあ」と思う。 -
羊神社
▲▼▲
多胡碑から東に車で30分くらいのところに羊神社があります。
群馬県安中市中野谷1751 -
一書に曰く、
羊神社には、二回行きました。
可愛いらしい、屋敷神様を祀るような、小さな小さなお社です。
初めて行ったときは、迷い迷い、細い道をたどったのですが、その細道に両側から笹が覆い被さってきて、藪に突っ込んでゆくようでした。
それでも着いてみたら、一台のジープが駐車していて、結構厳つい男性が、(あっ、おっさんて言いそうになった。)ごめんなさい。
ま、その中年の体格の良い男性がですね、結構熱心に祈っておいででした。
すぐにお帰りになりましたけど。
二回目は、前回がウソだろうって言うくらい、こぎれいになって、アクセスも悠々の「道路」になっておりました。
By妻
注。By妻のいう「ジープ」とは四角いごっつい車という意味です。
彼女は車は色と、格好でしか区別できません。トラック、救急車、フツーの乗用車。ジープなどというサブカテゴリーをいつ覚えたんだろう。 -
狛犬ではなく、狛羊です。
-
右の羊さん。お口を開けています。阿吽の阿形。
-
左。ちゃんと吽形です。
かわいい小さな神社です。神職さんはおられず、2.2kmほど離れた咲前神社の兼社です。 -
咲前神社
群馬県安中市鷺宮3308
写真は2017年12月のもの。 -
一書に曰く、
御朱印をいただいた咲前神社の方が、手入れして下さっているのでしょうか。
咲前神社というのも、サキサキと読むのですが。
一回目の時に羊神社の後にお参りさせていただき、トイレも貸していただきました。
社務所の中までいれていただきましたが、住宅になっているようでしたし、なにか勉強会があるようでした。
若い女性がお相手くださったのですが、サンパな方でした。
サンパというのは、フランス語で、親切で明るくて、感じがいいときに言うのですが、日本語に一語でありますかね。
親切だと行為だけだし、明朗だと性格になるし、感じがいいは、こっちの主観になるような。
ついでに愛想がいいは、媚びが入るような気がします。
もっとさりげなくって、さっぱりしているのです。
最高の褒め言葉です。
By妻 -
羊神社の御朱印もここでいただけます。
御朱印帳見開きで、左羊神社、右咲前神社。
羊神社の「羊」がかわいい。
ところがこの羊神社、かわいいだけではないのです。 -
境内の神社御由緒。
一部書き起こします
★縁起書によれば、御祭神、多胡羊太夫藤原宗勝公(通称・羊太夫)は天児屋根命(あめのこやねの・みこと)を祖神とする藤原鎌足公の後胤とされ、上野国(群馬県)で未の年、未未の日、未の刻に生まれたので「羊太夫」と命名された。(中略)
特に武蔵国秩父で銅を発見した功績により和銅四年」(711年)、上野国多胡郡(高崎市吉井町周辺)を賜り、記念に「多胡碑」(高崎市吉井町池)が建てられた。(以下略)★
多胡碑と結びつけられています。
銅の発見とは、これですね。天皇は大喜びで、元号を和銅に改元してしまいます。
続日本紀慶雲5年(和銅元年、元明天皇2年)春正月11日、
★武蔵国の秩父郡が和銅(精錬を要しない自然銅)を献じた。★
しかし続日本紀の記述はこれだけで、藤原宗勝はでてきません。
この地方に羊太夫と呼ばれる人物がいて、後年多胡碑の「羊」と銅の発見に適当に結びつけたということでしょう。
神社由緒の後半、
★羊太夫の一族はもともと多胡郡に大勢居住していたが、戦乱によってこの地を離れ(中略)当社の鎮座地・碓氷郡中野谷字久保(通称・多胡新田)を永住の地として移住した。江戸時代の始め延宝年間(1673年-1681年)のことである。
一族は多胡新田を開拓し、当地を守護する氏神として祖神・天児屋根命と祖先・羊太夫をお祀りする「羊神社」を建てた。★ -
「羊神社御由緒」全文出しておきます。拡大すれば読めるでしょう。
群馬県の一部には「羊太夫伝説」というのがいっぱいあります。この神社の縁起にも伝説の一族の興亡が語られているそうです。
こういう伝説は案外新しくて、江戸時代、あるいは明治なんてこともあります。
ところが、羊太夫はそうではありません。
神道集
▲▼▲
「神道集」という古文書があります。南北朝時代(1352年-1361年)ごろに成立した神道の説話集です。
そのなかの1節「赤城大明神の事」の中に下記の一文があります。(現代語訳「神道集」貴志正造訳/平凡社/1967年)
★その後、群馬県の地頭伊香保太夫は、利根川より西の七郡中、もっとも足早で有名な羊の太夫という人を呼び出して、手紙を書き、二人の姫君と父大将の自殺のことを都へ報告した。
この羊の太夫というのは、たった今上野の国の多胡の庄を出発して都へ上れば、未の刻(午後2時)には都の指令を受けて、申の刻(午後4時)には国もとへ帰着するので羊の太夫と呼ばれる。だから彼は申の半ば(午後5時)に上野の国群馬郡有馬郷を出発して、日の暮れに京の三条室町に到着した。★
ここで出てくる羊太夫はそんなに偉くない。足が速いのが特技の、飛脚みたいな人です。
「羊太夫伝説」の羊太夫も、空を飛ぶ名馬で上野国から都に日参したことになっています。
つまり羊太夫は14世紀なかばには上野国に伝説として知られていたことになります。
「神道集」の羊太夫は「上野の国の多胡の庄」の人です。
多胡碑の羊さんから神道集の羊太夫さんまで、何かが途切れずにつながっていた。
多胡碑を造った地元の豪族が、いつのまにか飛脚になり、いつのまにか空を飛べるようになり、江戸時代にはここに落ち着いて、今は養蚕織物、産業、学業、昇進に御神徳のある神社にお祀りされています。
一書に曰く、
羊は足が速い?
日本に家畜の羊は、いつからいるのでしょう。
推古7年(599年)に百済が、駱駝、ろば、羊、白い雉をたてまつったという記事が日本書紀にあるそうです。
多胡の羊さんの時代、約100年過ぎているのですが、推古時代に来た羊は、その後増えたのか?
それとも、今や思い出の、まぼろしの動物になっちゃったのか?
まぼろしになったのでしょうね。
それで、現実離れして、麒麟みたいになってしまったのではないでしょうか。
そして、空想上の動物は超絶エネルギーの持ち主で、それにあやかりたいと名前を付ける。
または、その人間が並外れた能力をもっていたから、まるで空想上の羊みたいだ→羊太夫とよばれるようになった。
さあ、どちらでしょうか。
羊太夫が、空を飛ぶ名馬で都へ日参した話は、聖徳太子の話とそっくりです。
羊太夫は、聖徳太子か?
聖徳太子の話が、ここ上野国まで伝わってきた。そして羊太夫と混同したってことは、羊太夫さんは、聖徳太子さんに負けないくらい崇拝されていたってことですね。
でないと、混ぜるわけがない。
やっぱり羊太夫さんは、上野国のくにびとの、こころの拠り所なのですね。
By妻 -
まわりはのどかな田園地帯。
-
2017年冬と2022年4月、2度お参りしましたが、ほかに参拝客1人。
それでも羊年にはけっこうお参りに来るひとはいるようです。
途切れ途切れながら711年まで遡るロマンを秘めた神社です。
羊さんは未の年、未の日、未の刻生まれだそうです。きっと御利益があるにちがいない。
そういえば、わが家の息子、孫姫は羊年うまれです。
By妻さん、しっかり拝んでいます。
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この旅行記へのコメント (5)
-
- 前日光さん 2023/01/25 16:44:28
- やっとPCが新しくなりましたが。。。
- 未だに「申し訳ありません。この画面に到達できません」というメッセージが出てきます。モデムがくたびれているのかもしれません。
この問題が解決しないので、まだ完璧ではありませんが、とりあえずコメントしますね。
「多胡碑文」と「続日本紀」の記述が対応しているとの発見、すばらしいですね!
「多胡」、すなわち「胡人が多い」との解釈、by妻さんならではの縦横無尽な発想が楽しいです。
そして「羊氏」、謎の存在ですね。
上野国は「銅」という資源があるので、「和銅」という元号が生まれ、秩父の銅を発見したのは「羊太夫」という具合につながり、未年には参拝客も増える「羊神社」等々、楽しく拝見させていただきました。
もっと長くコメントしたいのですが、いつ「申し訳ありません。。。」のコメントが現れるか分かりませんので、今回はこの辺にさせていただきます。
猛烈な寒波で、千葉県でさえ雪が降ったとか(O_O)
いかがお過ごしですか?
風邪には要注意!ですね。
では(^_^)/~
前日光
- しにあの旅人さん からの返信 2023/01/26 07:55:46
- Re: やっとPCが新しくなりましたが。。。
- PCを換えても治らないのであれば、インターネット環境の問題でしょうね。モデムか、屋内が無線RANならばルーターか。両方とも再起動されているとは思いますが、私も以前ルーターがおかしくなって、再起動一発で、なんとなく治ったことがあります。
私の方のプリンターの問題も、特に何もしませんでしたが、なんとなく治りました。自動でPCのソフトの更新があったせいかな。よくわかりません。
高崎、前橋あたりまで来ました。だいぶ前日光さんの縄張りに近づいてきました。北関東古代史は実に奥が深い。食べ物がもうちょっとおいしいといいのですが。こんにゃくと焼きまんじゅうではね~
武蔵、上野を回るヤマトタケルの空白の旅路を追うつもりが、本題に辿り着く前に迷走しております。
このあと堀辰雄に行っちゃいますので、当分お休みです。青木繁の残りもあるし、竹久夢二もやってみたいし、目移りして困ります。
堀辰雄は前日光さんごひいきでしたよね。2月に雪の軽井沢と信濃追分を見てきます。マイナス10度だそうです。
普通房総特に九十九里あたりは寒さは大したことないのですが、今回はマイナス5度です。朝7:50ですが、外はまだマイナス4度。水道管が凍らないように一晩中チョロチョロと水を流しています。水道代が大変そう。
雪は降らなくて、毎日絶快晴です。
そちらは前がついても日光ですから、さぞかし寒いのでしょうね。
-
- kummingさん 2022/12/22 10:55:02
- 羊をめぐる冒険♪
- しにあさん、by妻さんこんにちは♪
ローマ帝国に飛んでいた心、見事「日本古代史」の世界に呼び戻され、右往左往しながら解読中です。3度め読んでもまだ消化不良、ですが、時間が圧して年末の“to do list”に支障をきたすので、失礼ながらコメント試みます。
上野三碑、着眼され、碑文を読み解き→羊神社→神道集、へと探究が繋がって行く、その目の付け所?がまず驚きでした。今回は「道に転がる1個の石」ではなくて、碑文だったわけですが、一千年の歴史を解き明かす!
拓本とは、版画みたく見えますが、碑文に墨塗って紙に写した、みたいな?碑文書き起こし、解説に沿って読んでみたら、なるほど、高2の漢文レベルでも分かりました。
ここで、聞いたことある名前、穂積親王(文武天皇急逝、女帝擁立時に知太政官、但馬皇女、大伴坂上郎女との恋愛)、石上朝臣麻呂(遷都の際、留守役として置いてきぼりにされた方?実権は不比等に移っていた)、そして、出ました^o^藤原さんちの不比等さま♪
知ってるかどうか?はさておき(どうでもいい話でm(._.)m)、発案不比等、三宅麻呂が実務担当だった、説、納得の人選。
正史のウラを現場で取れた!そして、同期の人事にわくわくドキドキ、古代人の生の感情、古代の息吹を追体験、縦の旅の真髄、醍醐味ココにあり⁈
「翔んで埼玉」でしたっけ?自虐ネタで地元を盛り上げた、ってんで話題作でしたね、観ていませんが。
多胡→胡人、中国よりもっと西、モンゴル、イランの連想、ありそう。藤原氏渡来人説もありますよね。羊さんは人名、というのが定説で、その成果も研究も多大な努力の賜物なのですね。古代史を紐解く時、いつもこのような陽の当たらない地道な研究携わる方々に、首をたれるばかりです。
羊神社の狛羊♪ ほんとに羊なんだ(*_*)なんか、やけに新しい?気がするのは気のせいでしょうか。御祭神が羊大夫、藤原鎌足の後胤?銅を発見し、多胡郡を賜り、多胡碑がたてられた→元号「和銅」に繋がりますが、続日本紀によると、後年適当に結びつけた?
そこからの「神道集」への展開もお見事♪羊大夫さんにまで繋がる多胡碑の羊さんの系譜。
読み込み不足、と言いながら、長くなってしまいm(._.)m
さいごに、来年の干支「羊」へと導かれ、しにあさんby妻さんの辣腕におざぶ10ま~い!の大盤振る舞い♪
羊年生まれは「紙を食べる」→「金離れがイイ」という説、羊年生まれの娘のおかげで、ふるさと納税5万円分の「牛しゃぶ、カニ、ホタテ」が、我が家迎春のお膳を潤してくれる予定♪
- kummingさん からの返信 2022/12/22 11:19:41
- お恥ずかしい~
- 来年の干支、兎⁈
お恥ずかし~
年賀状、まだ手も付けていないの、ばればれ(笑)
でも、「旅」が単なる「移動距離」とか「どんだけお金かけたか」ではない、という事を見事に体現されたブログ♪ って事で、おざぶ10枚、はお取り置き下さいね♪
- しにあの旅人さん からの返信 2022/12/26 05:20:52
- Re: 羊をめぐる冒険♪
- 狛羊、新しいですよ。最近のものです。全く苔がついていません。変わり狛、時々見かけます。日枝神社系統で、狛猿さんがいました。ここではお猿は神様のお使いなので、それほど違和感はありません。
今回はシナリオの組み立てに自信あり。多胡碑の羊さんから、羊神社まで、流れに乗って読んでいただけたようで、やったあ! という感じです。
今回いろいろ調べる前までは、古代の北関東なんて、大森林で人間より熊の方が多かったと思っていたのですが、違うみたい。
7世紀、8世紀では、多胡碑の羊さんや、次回のお坊さんとそのお母さんの物語みたいに、血の通ったお話が現代まで伝わっているので、驚きです。
7世紀には法隆寺みたいな大寺院が前橋のあたりにあったそうです。
残っていのが残念。
石碑のだらだら漢字日本語、読めるんで驚いた。
考えてみると当たり前で、当時の普通の日本人に読めなかったら書く意味がないわけで、当時の口語での読み方があったはずです。
今回も、正式な訓み下し文にしろと言われたらできないけれど、意味をとって口語にするなら難しくない。当時も同じことをやっていたはず。
この時代の日本語に興味深々です。
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高崎(群馬) の旅行記
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旅行記グループ 諸国寺社旧跡めぐり 上野国
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