2022/05/25 - 2022/05/26
7762位(同エリア12775件中)
魚屋No1さん
- 魚屋No1さんTOP
- 旅行記63冊
- クチコミ33件
- Q&A回答202件
- 100,573アクセス
- フォロワー18人
表紙に使ったミレーの絵は、左が山梨県立美術館所蔵の「落ち穂拾い、夏」、右がオルセ美術館所蔵の「落ち穂拾い」です。山梨のは、買ってきた絵葉書をスキャンしたもの、オルセの方はウイキペディアからコピーペしたものです。この比較写真を表紙に使ったのは、今回の旅行の主目的が、山梨のミレーと他の美術館のものとを見比べることだったためです。
この旅行のそもそもの始まりは、
・オルセで相方が大好きなミレーの晩鐘を見る(前回は見られなかった)
・フランスが返してくれなかった松方コレクションを見る
・ベルリン動物園へ行く
・逆さマッターホルンが美しいライ湖で見た小魚の種の同定を行なう
等をテーマにした人生最後であろうヨーロッパ旅行がコロナのせいで無期延期にせざるを得なくなったため、山梨のミレーでも見て幾分かの穴埋めをしようと考えたことによります。
そこで、旅行計画を練るために山梨県立美術館のホームページを開き、それを見ながらオルセで購入した画集を何気なく開いたところ、オルセにも『落ち穂拾い」があることを改めて意識しました。オルセの絵は見ているし、山梨の絵の存在も知っていましたが、結びつけたことがありませんでした。妙に新鮮に感じたため、改めてウイキペディアのミレーを呼び出してみると、「種まく人」もボストン美術館にあることが判りました。
山梨へは、昭和の御代に行っていますが、当時は同名の絵が存在することすら知りませんでした。しかし、このことを意識できたことで、ミレーに対する興味の持ちようが変わりました。そこで、山梨と他館の絵の何処がどう違うのかをじっくり見るために、コロナ対策の県民割りを使って一泊で行くことにしました。ただ、貧乏性の私は、西澤渓谷のハイキング、信玄餅の詰め放題、甲斐一宮の浅間神社などを例の如く詰め込んでしまい、本末転倒気味の疲れた旅になってしまいました。
ともあれ、山梨では持参したオルセの「落ち穂拾い」のコピーとをしっかり見比べ、説明書きも丁寧に読んだのですが、山梨のものは1953年に制作した四季の中の1枚、オルセの方は1857年に制作しサロンに入選したものという事前に得ていた情報以上のことは判りませでした。
唯一の発見は、「落ち穂拾い、夏」の脇に同じような構図の2枚の小品(エッチングだという情報有り)が掛かっていたことです。しかし、この2枚のキャプションも、製作年代が1853~1857年だと書いてあるだけです。帰宅後に調べましたが、この小品に関する情報は発見できません。山梨はミレーをテーマにした美術館なのに、ウイキペディア以下の情報しか発信していないことにガッカリしました。尤も、ウイキの方も、山梨の「落ち穂拾い、夏」に関する直接の記述は全くありませんがね。
- 旅行の満足度
- 3.5
- 観光
- 3.5
- ホテル
- 2.0
- グルメ
- 2.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
山梨の「落ち穂拾い、夏」は、ウイキペディアの「1853年には、アルフレッド・フェイドーの注文による『四季』連作を制作した。そのうち1枚が『落穂拾い、夏』であり、後のサロン出品作『落穂拾い』につながる作品となっている」という記述から、この時の四季の中の一作品だと推定できます。
しかし、残る3作品の所在は、山梨は勿論、他美術館のホームページやブログなどを追いかけましたが見つかりません。それでも執念深く探していると、「アートラボゼロプラス」というサイトの「美術史・用語」14ページ、『びじゅチューン!「落穂拾子」の元ネタ「落穂拾い」』の中に4作品が記載してありました。左の写真がそうです。
ちなみに、題名は左から順番に以下のとおりです。
『葡萄畑にて、春』 1852-53年、ボストン美術館蔵
『落穂拾い、夏』 1853年 山梨県立美術館所蔵
『りんごの収穫、秋』1851-53年、アーノット美術館所蔵(米国)
『薪集めの女たち、冬』1852-53年、エルミタージュ美術館所蔵
これで、山梨の『落穂拾い、夏』については一応の決着を見たのですが・・・。
どの絵も、オルセの『落ち穂拾い』と比べると下手ですね。看板にしている山梨以外の美術館が主要コレクションとして紹介しない理由が判りました。 -
次は、種をまく人です。左が山梨、右がボストン美術館のもので、両方とも1850年に描いたものです。違いは判りますかね。
それにしても、こんなにそっくりな構図の絵を同じ年に2枚も描いたのでしょうかね。落ち穂拾いと同様、山梨はボストンとの関連に全く触れていないし、ウイキの方も山梨に関して何も書いていないため、理由がさっぱり分かりません。
先にも書いたように、山梨はミレーをテーマにした美術館です。他館が所有する作品についての解説は責務なのに、それの無いことが、この美術館の最大の欠陥でしょうね。また、ショップに、ミレーやバルビゾン派に関する書籍が見つからなかったことにも疑問を感じました。 -
これも、似たテーマの作品です。左は山梨の「夕暮れに羊を連れ帰る羊飼い」(1857~60年)、右はオルセの「羊飼いの少女」(1863年頃)です。
以上の作品を見て驚いたのは、写実主義に分類されているミレーなのに、目・鼻・口などを具体的に書き込んでいないこと。お陰で、ダビンチのモナリザは「こんな貧相な服装の肖像画絵は受け取れないと返品されたもの」、ルノワールの親しみやすさは「全ての女性がむちむちの幼児体型」、19世紀後半の画壇に反旗を翻したモネもルノアールも「権威者になった20世紀の作品は駄作ばかり」などという私の西洋画に対する蘊蓄に、ミレーは「人の顔を写実的に描けない」という一項目を追加できるようになりました。
なお、浮世絵に関しては、写楽が短時間で消えた原因が「大首絵は描けても、美人画がへたくそ」、赤い色は、1868年にドイツでアリザニンという赤色色素の人工合成に成功するまで、極めて高価な天然色素を使わねばならなかったため「赤を多用した浮世絵は明治以降の作」というのもあります。 -
さて、これからは今回の旅行を時系列に沿って書いていきます。
5月25日 午前10時 西澤渓谷の市営の無料駐車場に到着しました。60台駐車できますが、平日のためか20台ほどが止まっているだけでした。
なお、徒歩10分ほど離れた「道の駅みとみ」には200台駐車できます。
西澤渓谷に行くことにしたのは、「るるぶ」と「マップル」が「快適な渓谷のハイキングコース」だとして昇仙峡と同列に紹介していたことによります。そのため、手軽にハイキングが楽しめると思って計画に入れたのですが大間違いでした。帰ってから知り合いに話すと「20代の頃に行ったがヘトヘトとだった」という答えが返ってきました。近年の「るるぶ」や「マップル」は老舗の有名店が載っていないこともあって私の信頼度は低下中だったのですが、今回の例で地に落ちました。 -
西山渓谷の入り口に陣取る「ドライブイン不動小屋」です。
此処の「草餅」が旨いという4トラベルの記事を見て買いました。山の中で食べたところ、ヨモギの香りが良いこと、運動中の血糖低下対策には効果的だと感じましたが、餅がデレスケのため、街中では通用しないだろうという印象でした。 -
車止めです。此処が、渓谷への本当の入り口と言えるでしょうね。
西澤渓谷は、一応お山です。旅行案内書だけでは不安なため、最新情報を得ようとして検索してみると、山梨県観光協会のホームページに「現在、西澤渓谷最奥部の七ツ釜五段の滝から不動の滝の間が令和3年6月14日の大雨による落石等で通行止です。しかし、令和3年10月23日(土)から仮設道路が設置されていて周回が可能になりました」と書いてありました。このことを確認して出かけたのですが、この仮設道路は、後で見せますが極めて恐ろしいものです。そのため、道路の補修が完成するという令和6年頃までは行くべきでないと忠告します。 -
此処では、新緑を見ながらの快適な散歩を行えました。
-
山の緑はこんな感じ。きれいです。
-
山ツツジが咲いていました。
-
白い花は、うつぎ(卯木)だと思いますが自信はありません。
ご存じの方がいらっしゃったらお教えください。 -
西澤渓谷のハイキングコースと甲武信ヶ岳登山口の分岐点です。
-
田部重治文学碑。
ウィキペディアによると、1884年(明治17年)生まれ、 1972年(昭和47年)没の英文学者であり、登山家だとありますが私は知らない人です。
トイレは、この少し手前に有ります。後は、2時間以上先の西澤渓谷の最奥部までありません。 -
しばらくの間、こんな道を歩きます。
-
二俣吊橋です。
-
景色が開けてきました。
-
これは下流方向。
-
急坂ですが、この辺りではアラ後高(後期高齢者)の私でも元気でした。
-
三重の滝へのテラスへの分岐点です。
-
三重の滝を上から見たところです。
-
竜神の滝です。
-
恋糸の滝です。
-
母胎淵甌穴。
甌穴は、浅い穴に嵌まった石が水流でぐるぐると回って削り取った半球状の穴ぼこです。甌穴は、群馬の四万温泉への道筋にも多数あります。 -
道はだんだん狭くて厳しくなります。
-
カエル岩。観光地には必ずある名前ですが、かなり無理筋です。
-
方杖端。
-
ここまで来ると、2人ともかなり足に来ています。
-
イワナが見えました。
判断したのは、脊椎骨が多いサケ科特有のクネクネした泳ぎ方、胸びれの前面が白いというイワナ特有の色彩の2点です。 -
へばっています。滝の名前を記録することすら面倒になっています。
-
急坂を登って到達したのが、この仮設道路の取り付き。ただの梯子です。
-
はしごを登りきると、トラロープが所々に張ってあるだけの急坂に出ます。
四つん這いになってトラロープと木の根を握りながら登りました。
一つ間違えれば墜落です。Auは通じません。 -
仮設道路は、最後の少しだけ仮設資材で作った階段になっています。
到着時間は12時34分。10時18分に歩き始めたので、ここまで2時間以上かかっています。週3回、ジムに通っている私でもヘトヘトでした。 -
仮設道路の少し上流側にある橋です。
七ツ釜五段の滝が見えるというので行ってみたのですが、滝は殆ど見えません。足に来ているので、怒りたくなりました。 -
帰りの旧トロッコ道は、こんな感じのダラダラした下りが延々と続きます。
道の右側に見える線状のものは、放棄されたトロッコのレールです。 -
12時50分です。大展望台といいますが、ベンチがあるだけです。
-
でも、此処は絶景でした。
ただ、飲み水が切れてしまったため、ピンチ到来です。
この後は、早く自販機に出会いたいと思い続けて歩きました。 -
13時05分。トロッコ道に入ってから30分以上歩きました。西澤渓谷入り口までは更に50分歩かねばなりません。
-
こんなトロッコに伐採した材木を積んで下ったそうです。
-
13時19分。シャクナゲの群生地とありますが。
-
花は影も形もありません。シャクナゲは4月下旬~5月中旬に咲くと聞いていたのですがね。
-
もう少し歩けば登山口に到着します。
-
14時過ぎ、無事に下山できました。ホッとしました。
道の駅「みとみ」で遅い昼飯といっても山菜蕎麦ですが、ゆっくり食べて休憩しました。 -
15時頃です。ホテルに入るのは少し早いので、途中の「恵林寺」に立ち寄りました。写真は庫裏への入り口にある門です。
この寺は、1330年に夢窓疎石(むそう そせき)が開いた臨済宗の古刹で、武田信玄の菩提寺でもありました。しかし、天正10年(1582年)に織田信長軍の焼き討ちにあって焼失しました。徳川初期に再建されましたが、これも1905年(明治38年)の出火で焼失したため、方丈と庫裏は明治の建物です。
そのためもあって、重文の建物は、参道にある明治の火事で焼け残った江戸期の四脚門だけです。ただ、私達はナビの案内で車を庫裏の脇に止めました。四脚門がある参道を歩かなかったため見ていません。 -
庫裏です。明治の再建とはいえ、立派な建物です。
-
この渡り廊下の向こう側は、夢窓疎石作の庭園(国指定の名勝)です。夢窓国師とも呼ばれる彼は、鎌倉時代末から南北朝時代を経て室町時代初期まで活躍した臨済宗の禅僧・作庭家・漢詩人・歌人です。
-
順路に従って方丈へ行くと雨が降り始めました。
-
それも、土砂降りです。西沢渓谷でこの雨に降られたら大変なことになったと思いました。
-
明王殿の手前にある、ウグイス張りの廊下へ続く渡り廊下です。
明王殿は、生前の武田信玄公が自身をモデルに刻ませた「武田不動」という等身大の不動明王が安置されています。明治期以前の日本人は、生きている間に自身を絵や像にすると魂が吸い取られてしまうという迷信を持っていたので、古い人物画や像の大部分は死後に故人を顕彰するために製作したものばかりです。そのため、この不動明王は、信玄が命懸けで何かを達成する覚悟を持っていることを示すためのものだったと考えられます。
なお、福沢諭吉、坂本龍馬、高杉晋作等が写真を撮ったのは、旧弊に逆らう男気を見せる意味もあったのかもしれませんね。 -
夢窓作の国指定名勝の庭園。確かに立派な庭でした。彼は、西芳寺(苔寺)や嵯峨野の天龍寺の庭園を作ったのですから、これは当然のことでしょう。
-
これも庭園です。雨が更にひどくなったものの、外廊下には吹き込まなかったので、ベンチに座ってのんびり休憩しました。
-
すると、雹までも、大きな音を立てて降ってくるではありませんか。
-
この雨と雹を見て、私達は持っていきましたが、近場のハイキングでも、山へ行くなら合羽は必携だと改めて感じました。
-
15時30分頃、雨がやんだので、かつて楽しく遊べた「笛吹き川フルーツ公園」を偵察しに行きました。景色は良かったのですが、コロナのためか、人は少ないし、店も閑散としていて寂しく、早々に退散して今日のお宿の石和温泉に向いました
-
本日のお宿は、石和温泉のホテル石庭。
此処の料金は一泊2食付11500円/人です。安めの旅館なので、大して期待していなかったのですが、フロントはきれいだし、大きな会議場では地元の商工会か何かの大きな会議もやっており、格が高いホテルなのだと思えて期待しました。
しかも、県民割りでは此処から5000円割り引かれ、更にクーポンが一人3000円もらえるという破格のサービスが受けられます。ただ、県外の者が山梨県の県民割りを受けるには、楽天トラベルで予約しろとなっています。どう見ても、山梨県と楽天が癒着しているとしか思えません。悪いことが起きれば、さまを見ろといってやります。 -
宿の池にいた紅白や大正三色など錦鯉は、価値を下げる「面かぶり」や「口紅」がいません。錦鯉は良いものを揃えていますが、部屋の窓際のテーブルは完全に剥げています。フスマなどもガビガビでメンテ不足が目に付きます。部屋が臭くなかったのだけはめっけものという感じです。
また、温泉は良いお湯でしたが、風呂は客室数からすると狭いし、露天風呂も1つだけで男女入れ換え制です。 -
部屋からは富士山が見えるはずですが、午後のためか見えません。明朝を期待しましょう。
-
但し、道路の向いはパチンコ屋です。
これで、夕食後の散歩は完全に断念しました。 -
夕飯です。一応、旅館飯の体裁は整っています。
しかし、身が緩んだ刺身、肉のドリップで赤く染まったうどんが入っているすき焼など、食欲をそそる内容ではありません。数千円相当の料理のはずなのに残念。 -
甲州煮貝のコースとはいうものの、紙のように薄い身が使い古した貝殻に乗っているだけでした。
-
部屋から見た翌朝の景色です。富士山が見えています。
なお、朝ご飯は普通のバイキングでした。 -
富士山を望遠で写しました。
この景色が、この旅館の最大の御馳走でした。
-
本日の最初のイベントは、桔梗信玄餅の詰め放題です。
4トラベルの口コミで「直ぐに満員になる」と言う情報を得ていたため、午前8時には現地へ到着しました。 -
整理券は8時30から配られました。私の番号は21番です。
今日、詰め放題ができるのは60人なので早いほうでした。
ただ、係員は、今日は人が少ないと言っていたので、このイベントに参加できたのはラッキーだったのでしょうね。 -
私の番号では、9時15分頃に行えるということなので、隣の「銀座ウエスト」の工場の直売所で行なっている10%割引を覗きに行きました。通常は割引をしない高級店なので、意気込んだ連れは、詰め放題の後に行って名物のリーフパイとフルーツケーキを大人買いしていました。その中で、私のお気に入りだったのは、大人の味がするフルーツケーキでした。
-
ウエストの工場に植えてあった桃の実はまだ青い状態です。
-
詰め放題までにはまだ時間があったので、桔梗信玄餅の工場の後ろにあった公園のベンチで時間つぶしをしました。この公園は、勝沼バイパス(国道20号)と、中央高速に向う「御坂みち」の分岐点にある大規模なものでした。それなのに、人が殆どおらず、快適な森林浴ができました。
-
頃合いの時間になったので戻ってみると、整理券配布終了の看板がありました。
-
1回200円の詰め放題です。
ルールは、詰められる自信がある数の信玄餅を受け取り(追加可能)、所定のポリ袋に詰めて、その口を一重結びで閉じるとOK、詰められなかったものは1個100円で買い取りするというものです。
12個詰め込めれば普通レベルということなので、12個受け取りました。というのも、提供される品物の賞味期限は明日までのためです。 -
これが一人分をばらした状態。
2人でやったので24個あります。食べきれなかったものは冷凍し、1ヶ月間かけて消費しました。桔梗信玄餅の餅はすあま(求肥)なので冷凍しても硬くならず、美味しく食べられましたが、結果は全て自己責任です。 -
此処の売店で、自家農園で栽培したというサクランボを800円で3パック購入しました。香りが高く、適度の酸味と甘みがあってとても美味しいし、スーパーを含めた近隣の店の中では最も安かったので、大量買いすべきでした。
此処では、自家農園の野菜、賞味期限間近の信玄餅等も売っています。好評のためか、帰りがけの午後3時頃に寄った時は完売状態でした。 -
さて、次は、本命の山梨県立美術館です。
-
美術館の入り口です。
なお、4トラベルの+mo2さんの旅行記によれば、1月2日はミレーの絵の撮影が可能だとあります。2023年も行なわれるようなので、ウオッチの要有りですね。 -
県立美術館は、芸術の森公園の一角にあります。
そのため、広場にはいくつかのオブジェがありました。この人物像はロシア人のオシップ・ザッキンという人が1956年に作成した「ゴッホ記念像」というものです。遠目では、武装した兵隊かと思いましたが、画材を沢山背負ったゴッホの像でした。 -
美術館に入って、最初にある展示がこれです。富士山は世界一美しい山なので、これがあるのは必然です。でも、今日は曇っていて見えません。
-
見えていればこんな感じだそうです。
-
動物の彫刻で有名だという、フランスの彫刻家のフランソワ・ポンポンの特別展をやっていました。彫刻の展示なのに、撮影が可能だったのは、代表作でもあるこの白熊の複製だけでした。ケチンボ!
群馬県立館林美術館のコレクションが多くて意外でした。ただ、ウイキには、ポンポンが遺言で禁じていた死後鋳造の作品を多数購入して問題になったと書いてありました。 -
昼は、山梨県で「ほうとう」を検索すると必ず出てくる「小作」へ行きました。
がしかし、連れは重すぎるといって、写真の天ぷら付きの「おざら」1300円を注文しました。「おざら」は、キシメンやヒモカワのような平らな冷たいウドンを「けんちん汁」に浸けて食べるものです。少しもらったところ、とても美味しく、これを頼んだ連れの選択は正解でした。
なお、ただの「おざら」は800円と安いです。そのためか、リーマンが大勢入店していました。 -
私が注文したのは、名物の「ほうとう」豚肉入り(1500円)です。「ほうとう」で最も重要な材料はカボチャなのに、入っていたのは茹で置きでした。カボチャの風味は無いし、汁のうま味も乏しかったため、早々に飽きて半分近く残してしまいました。以前、他の小作で食べた時は美味しかったのに残念です。
-
次の観光地は、別名が舞鶴城という甲府城跡です。
小作からは山梨県庁の敷地を突っ切るのが最短コースだし、古そうな建物がいくつか見えたので、腹ごなしに歩きました。
これは、1930年(昭和5年)に竣工した山梨県県議会議事堂です。 -
県庁敷地内のベンチです。
-
こちらは山梨県庁舎別館 (旧本館) で、前の写真の議事堂とセットで建設されました。
-
甲府城です。
戦国時代に甲斐の国を支配した武田信虎・晴信(信玄)父子は、JR甲府駅の北約2kmにある躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を拠点にしていました。しかし、天正10年(1582年)、信玄の子供の勝頼は織田・徳川連合軍に滅ぼされました。
天正10年は、本能寺の変、山崎の戦いなど、織田から豊臣への権力移動の空白期でもあり、家康はこの間を縫って甲斐の国を手に入れ、天正11年には、この甲府城を建設しました。
ただ、秀吉は、天正18年(1590年)に家康を関東へ移封したため、その後の甲斐の国の領主は、豊臣秀勝・加藤光泰・浅野長政・浅野幸長父子などの豊臣系大名が短期間で入れ替わりながら江戸時代を迎えました。 -
石段の上にチラリと見えるのは、2013年(平成25年)に復元された鉄門(くろがねもん)。
江戸初期には浅野幸長が封じられていましたが、関ヶ原の戦いで徳川家に味方した功績で慶長5年(1600年)に紀州へ加増移封されました。
その後は、寛永9年(1632年)まで徳川家の直系の子供が封じられるも、寛永9年(1632年)に素行の悪い徳川忠長を改易したため幕府直轄領になります。
慶安4年(1651年)、3代将軍家光の三男の徳川綱重が甲斐国を拝領し、甲府藩が成立します。宝永元年(1704年)に甲州藩主の綱豊が6代目将軍の家宣になったため、側用人の柳沢吉保が15万石で入りました。しかし、享保9年(1724年)に、8代将軍吉宗が行なった享保の改革で幕府直轄領になります。以降、甲府町方は甲府勤番の支配、在方は三分代官支配という状態が幕末まで続きました。 -
天守台です。
天守台はあるが天守が建てられていたかは不明。 -
天守台から見た駅の方向です
-
天守台から見た稲荷櫓です。別名は丑寅櫓。
2004年(平成16年)に復元された二重櫓で、城の北東に位置します。
鬼門に当たる北東の丑寅の方向の櫓を再建したのは、何らかの意味があるのでしょうかね。 -
県庁の方向 尖塔は謝恩碑。この記念碑は明治40年の大水害など、度重なる水害で荒廃した県内の山林の復興財源として、明治天皇が山梨県内の御料地を下賜(かし)してくれたことに対する感謝と、水害の教訓を後世に伝えるためにと1922年(大正11年)に建設したものです。
-
この旅で最後の立ち寄り先は、笛吹市にある甲斐国一の宮の浅間神社(あさまじんじゃ)です。
この神社は、11代垂仁天皇8年神山の麓(現 摂社山宮神社)で創建され、貞観7年(865年)旧暦12月9日現在地に遷座したという式内社(名神大社)論社、甲斐国一宮という歴史を持ち、旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社という高い格式を有しています。 -
本殿前から随身門方向を撮しました。
本殿と神社の正門でもある随神門が向き合っていない不思議な配置です。 -
本殿の前にある拝殿です。
規模は大きくありませんが、名神大社というだけあって、しっかりと纏まった霊験あらたかな神社だと感じました。
この神社を出たのは15時です。帰りの高速は、首都高も含めて渋滞が全く無く、石川PAでトイレ休憩をしただけのため、千葉県の自宅へは18時前に到着できました。 -
山梨県立美術館で一番気になったのが、ジュール・ブルトンが描いた、この「朝」という作品です。というのも、タッチが印象派的なためです。そこで、購入した絵葉書を見ると、私の大好物のルノアールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」よりも10年も後の1888年に描かれた作品だと判りました。これなら、題材がバルビゾン派で、テクニックが印象派だとしてもおかしくはありませんね。
-
連れが最も好きなミレーは、オルセにあるこの「晩鐘」ですが、この絵も改めてよく見たところ、顔は輪郭だけで目・鼻・口をはっきりと書いてない共通点を見つけました。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
山梨 の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
91