2022/05/22 - 2022/05/22
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gianiさん
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お城を制覇したら、歴史を感じる城下町を歩きます。
鉄板はこちら
https://4travel.jp/travelogue/11754481
- 旅行の満足度
- 5.0
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松江城の内堀に面した武家屋敷エリアには。
乙な記念館があります。
出生名はパトリック・ラフカディオ・ハーン。
名前からは、アイルランドとギリシャにルーツを持つ英国人だと分かります。小泉八雲記念館 美術館・博物館
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内部は一切、撮影禁止です。
船乗りの息子らしく、日本にたどり着くまで新大陸を彷徨った足跡を辿れます。
ルイジアナ州、マルティニークなど、フランスとかかわり深い土地を放浪しているのが面白いです。現地で執筆した記事や遺品が多く展示され、気に入りました。 -
記念館の隣りは旧居。
放浪のハーンが終の棲家日本と出会ったのは、松江がきっかけです。
小泉セツと相思相愛になり、終生寄り添いました。
ちなみにオハイオ州で黒人女性と結婚しましたが、すぐに破局しました。(オハイオ州で異人種間の結婚は違法だったため、黒人教会で牧師に式を挙げてもらった教会婚。)小泉八雲旧居 名所・史跡
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小泉セツは300石取りの松江藩士の娘で、稲垣家の養女になって婿も取りますが、夫が逃走。離婚と同時に小泉家へ戻ります。
ハーンと小泉は出会って半年で結婚しますが、すぐに五高に転勤。熊本へ移ります。 -
庭も素敵。
セツの実家も300石取りで中の上クラスでしたが、立派な邸宅とは裏腹に、明治に没落して貧乏生活。ハーンとの出会いは、住み込み女中として奉公したことがきっかけ。10年後にハーンは日本への帰化が認められ、妻の小泉姓を継ぎました。 -
武家屋敷街は塩見縄手と呼ばれます。
塩見繩手 名所・史跡
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純粋に武家屋敷として公開されているところもあります。
塩見縄手の由来となった塩見小兵衛も住んだ邸宅で、千石取りの上級武士の邸宅です。武家屋敷 名所・史跡
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玄関の間(式台玄関)
他の部屋よりも一段低い床。来客が駕籠から直接(履物を使わずに)出入りできるバリアフリー空間です。来客の従者の控室にもなりました。敷地の表側に位置し、座敷に繋がる動線です。 -
座敷
当主が来客を迎えた部屋。材木の木目が真っすぐ等、格式を重んじた内装です。 -
内玄関
主人と家族が使用する玄関。台所や居間等の生活空間に繋がる動線です。 -
台所
炊事で煙が出るので、天井板はありません。
水仕事を行うので通常は土間ですが、中級以上になると、竈の周りも床敷です。
中級以上の武家は、公私の空間が構造的にも厳しく区別されています。
生活空間は、敷地の裏側に位置します。 -
長屋門
敷地と公道の境界線に位置する構築物。門の両側が塀ではなく、長屋(建物)になっています。中級以上の武士邸宅の特徴で、防衛機能に優れています。 -
中間部屋
門の両側の長屋構造の部分は、門番や中間(奉公人)も居住空間でした。 -
旧内務省の指定護国神社の一つ。
戊辰戦争以降に国家のために殉職した人(兵士、自衛官、警察官、消防士等)が祀られます。松江藩は、戊辰戦争で官軍として参加しました。松江護国神社 寺・神社・教会
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鳥居には、富国徴兵保険相互会社(現フコク生命)が奉納したと刻まれます。
徴兵保険(子どものときに加入して、徴兵時に満期金を受け取る養老保険)を扱う会社だったことが窺えるアイテムです。 -
月照寺
松平直政が生母月照院の霊碑を安置するために開基。
直政の遺言で霊廟を建設したことから、歴代藩主の菩提寺となりました。月照寺 寺・神社・教会
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「山陰のあじさい寺」として有名ですが、
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5月の睡蓮も乙です。
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薬医門
初代藩主松平直政の御廟の入口。 -
門をくぐると蓮池が。
参道には、家臣の名の記された燈籠が傅いています。 -
墓碑。浄土宗のお寺ですが、鳥居があります。
直政は徳川家康の孫とはいえ、傍系の三男坊。祖父に顔を覚えてもらうために2000両の借金をして弱冠14歳で大坂冬の陣に参戦。名将真田幸村をもうならせた武勇伝が伴います。おかげで祖父に認知され、領地を与えられて大名になれました。作戦勝ちです。 -
隣りには、第7代藩主治郷の御廟が。
中興の祖とされ、歴代No.1の松江藩主と評価されます。
朝日茂保を登用して、財政破綻した藩政の改革を断行しました。 -
廟門には「大円庵」と書かれています。
治郷の茶室の庵号です。
当代きっての文化人で、茶人「不昧公」として知られます。
松江がお茶・茶道の町として知られるのは、彼のおかげです。 -
正面には名工小林如泥の手による龍の彫り物が。
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ブドウの透かし彫りも
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見事です。
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墓碑
藩政改革の立案と実行は朝日茂保に任せ、当の本人は贅沢な茶器を買い漁って浪費しました。先代が親政を行って改革が失敗したことを教訓としたとも受け取れますが、、、 -
次の御廟とは、間に大きな森があります。
写真では分かりませんが、野鳥の鳴き声に癒されます。気の早いアジサイが咲いていました。 -
第5代宣維の霊廟
産業振興のために、特産品の栽培や製鉄を奨励した。
一方で藩札を発行して、財政破綻のリスクを高めた。
この先は単調な光景なので、駆け足で紹介します。 -
月照院の墓
初代藩主の生母です。すべては、ここから始まりました。
宣維墓の右側にあります。 -
その先には、第3代藩主綱近の霊廟が。
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第9代斉斎(なりよし)の霊廟
お金のかかる軍事教練の鷹狩を好んだ一方で、粟飯と風呂吹き大根が好物だった質実剛健な藩主。 -
手前:第2代綱隆の霊廟
右奥:第8代斉恒の霊廟
省略:第4代吉透 -
第6代宗衍(むねのぶ)の霊廟
神秘的です。 -
廟門左の彫刻
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右の彫刻
宗衍は小田切宗足を登用して親政を開始。
延享の改革に着手するも、反対派に敗れ小田切は失脚。幕府からの延暦寺修復でしくじった監督に代わって、小田切は無事に工事を終えました。 -
廟内の寿蔵碑(じゅぞうひ)
生前に建てる供養塔を指すが、製作中に宗衍は死去。
甲羅の上には、業績を讃える顕彰碑が。
改革に着手するも官僚の反対に遭って断念し、延暦寺の普請工事の出費が祟って藩の財政が破綻した責任を取り、息子治郷に家督を譲った無念さが感じられます。 -
龍亀
古代中国の思想に基づき、亀が龍に変身する姿を描いています。通常は、顔だけ龍の姿で描きますが、本作は限りなく亀。首を突き上げて龍へ変貌するごく初期の過程を選んでいます。息子の治世で、改革は始まったばかりだという強い意志を感じます。 -
フォトジェニックな一枚
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やっぱり亀にしか見えません。
ちなみに韓国では、顔も亀の姿で描きます。 -
フォトジェニックな1枚
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小田切尚足をブレーンに宗衍率先(親政)した延享の改革は、御趣向の改革と呼ばれます。産業振興と資金調達(才覚)に二分されました。
才覚:収穫前の年貢を担保に、藩外の商人から借金する先物信用取引。リスキーで緊急の資金調達法。
泉府方:民間資本(豪商豪農の出資を募る)による藩営銀行の設立。
新田方:新田開発を行い、民間に払い下げて短期資金を調達する。
義田方:通常は分納する年貢を最初に全納すれば、割引特典を受けられた。当座の運転資金を手っ取り早く調達できる。
木苗方:藩外輸出向け商品作物の品種改良、苗株を増やして普及に励む農業試験場。
木実方:櫨の果実から採れる和蝋の製造と販売・栽培を独占した藩営農場釜甑方:特産の鉄を製品に加工する(鋳造技術)ことを習得し、原料輸出ではなく付加価値の伴う鉄製品を輸出を行った工房兼販売機関。
延享の改革は民間資本(商人)のはたらきが大きく、武士官僚の不満が大きくなりました。現在では当たり前のやり方ですが、いささか時代を先取りしすぎた感があります。利息の支払いが、資金ショートを招いて致命傷になりました。
一方の治郷の代の明和の改革は、まず藩内の商人の債権を全額放棄させ、藩外の商人から借りた49万両のみを返済かつ利息は棒引き、年貢は四公六民から七公三民に引き上げる強硬な(武士の体面を保つ)ものでした。専売制度は継承強化しています。返済期日のある債務をなくして、危機感を領民にも共有させた挙国一致体制が功を奏したと思われます。財政破綻したおかげで、遠慮なく大鉈を振るえました。 -
本堂
元々は書院でしたが、廃仏毀釈の煽りを受けて本堂が取り壊された影響が残っています。 -
なんか素敵です。
隣接する宝物殿は撮影禁止ですが、逸品ぞろいです。 -
境内には雷電の碑が。
江戸で、松平治郷の「お抱え力士」になります。
生涯成績248勝10敗という歴代No.1の勝率を残しています。 -
おまけ
松江城の内堀
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