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伊丹市の魅力は、幾つかの公園同士が樹木が潤沢な緑道で結ばれていることです。また、昆陽池や瑞ヶ池など池を核にした公園が多く、池と池を結ぶ水路や河岸段丘の崖を巧みに用いて緑道を整備しているのは興味深いところです。<br />今回は緑ヶ丘公園を後にして、臂岡天満宮や白髭稲荷社、伊丹廃寺跡、瑞ヶ池公園などをレポいたします。いずれも徒歩圏内です。<br />ミステリアスな歴史を遺す伊丹廃寺跡では、伊丹にも法隆寺建立直後の白鳳時代にこのような大伽藍が存在したことを目の当たりにして歴史へのロマンが広がりました。<br />

早春賦 北摂伊丹③臂岡天満宮・伊丹寺跡・瑞ヶ池公園

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2022/03/17 - 2022/03/17

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

伊丹市の魅力は、幾つかの公園同士が樹木が潤沢な緑道で結ばれていることです。また、昆陽池や瑞ヶ池など池を核にした公園が多く、池と池を結ぶ水路や河岸段丘の崖を巧みに用いて緑道を整備しているのは興味深いところです。
今回は緑ヶ丘公園を後にして、臂岡天満宮や白髭稲荷社、伊丹廃寺跡、瑞ヶ池公園などをレポいたします。いずれも徒歩圏内です。
ミステリアスな歴史を遺す伊丹廃寺跡では、伊丹にも法隆寺建立直後の白鳳時代にこのような大伽藍が存在したことを目の当たりにして歴史へのロマンが広がりました。

旅行の満足度
5.0
  • 臂岡(ひじおか)天満宮 東の鳥居<br />緑ヶ丘公園の北口から500m程の距離にある臂岡天満宮へ向かいました。<br />伊丹段丘の東端に鋳物師(いもじ)という古くからの集落があり、古代に鋳物の職人集団が住んでいたことからの命名と伝わります。<br />天神さんは住宅街にありますが、心地よい静寂感に浸れます。<br />鳥居前の狛犬は1862(文久2)年11月の奉納です。

    臂岡(ひじおか)天満宮 東の鳥居
    緑ヶ丘公園の北口から500m程の距離にある臂岡天満宮へ向かいました。
    伊丹段丘の東端に鋳物師(いもじ)という古くからの集落があり、古代に鋳物の職人集団が住んでいたことからの命名と伝わります。
    天神さんは住宅街にありますが、心地よい静寂感に浸れます。
    鳥居前の狛犬は1862(文久2)年11月の奉納です。

  • 臂岡天満宮<br />注連柱は1932(昭和7)年12月の建立です。<br />創建は平安時代の延喜年間(901~923年)とされ、太宰府に大宰員外帥として左遷される途上、菅原道真が当景勝地に立ち寄り、村人が献上したあられ茶を飲みながら臂(ひじ)を枕に休息されたことから、以後、この岡を「臂岡」と呼ぶようになったと伝えます。道真は「萬代の 岡の松かぜ すずしさに 誓ひをのこす 手枕のゆめ」と詠んでいます。<br />道真がこの地を去る際、「吾れ赦免となって生らば 此の地を繁昌の霊地となすべし」と誓って九州へ下りましたが、許されることなく、903(延喜3)年に筑紫の安楽寺にて59歳で逝去しました。<br />その後、道真の自画像を納めて一社を建立したのが臂岡天満宮と伝えられています。また、道真の旅立ちに当り、村の男衆が大きなおむすびを差し出して道中の無事を祈ったことから、現在でもお祭りの時にはおむすびを供え、参拝の人々に配って無病息災を祈念するそうです。

    臂岡天満宮
    注連柱は1932(昭和7)年12月の建立です。
    創建は平安時代の延喜年間(901~923年)とされ、太宰府に大宰員外帥として左遷される途上、菅原道真が当景勝地に立ち寄り、村人が献上したあられ茶を飲みながら臂(ひじ)を枕に休息されたことから、以後、この岡を「臂岡」と呼ぶようになったと伝えます。道真は「萬代の 岡の松かぜ すずしさに 誓ひをのこす 手枕のゆめ」と詠んでいます。
    道真がこの地を去る際、「吾れ赦免となって生らば 此の地を繁昌の霊地となすべし」と誓って九州へ下りましたが、許されることなく、903(延喜3)年に筑紫の安楽寺にて59歳で逝去しました。
    その後、道真の自画像を納めて一社を建立したのが臂岡天満宮と伝えられています。また、道真の旅立ちに当り、村の男衆が大きなおむすびを差し出して道中の無事を祈ったことから、現在でもお祭りの時にはおむすびを供え、参拝の人々に配って無病息災を祈念するそうです。

  • 臂岡天満宮 拝殿<br />創建に関しては992(正暦3)年とする別の説もあります<br />道真没後約90年の一条天皇の治世、992(正暦3)年になって道真はようやく赦免されることになりました。それを受けて勅使が筑紫の地へ向かう途上、道真ゆかりの地である当地に自画像を納め、一社を建立したというものです。

    臂岡天満宮 拝殿
    創建に関しては992(正暦3)年とする別の説もあります
    道真没後約90年の一条天皇の治世、992(正暦3)年になって道真はようやく赦免されることになりました。それを受けて勅使が筑紫の地へ向かう途上、道真ゆかりの地である当地に自画像を納め、一社を建立したというものです。

  • 臂岡天満宮 御神牛<br />天神さんには欠かせない御神牛(撫で牛)です。<br />1936(昭和11)年の奉納であり、台座も含めて昭和時代初期の趣きが漂います。<br />横たわる牛には病気を治す力があるとされ、古くから「撫牛信仰」が広まりました。また、牛の頭を撫でると知恵を授かれると言われ、受験生に人気です。<br />道真と牛との結びつきについては伝説や逸話が数多く残されています。例えば、道真は845(承和12)年の丑年の丑の日の丑の刻に生まれ、903(延喜3)年2月25日の丑の日に亡くなったとか。903(延喜3)年に大宰府で生涯を閉じた際、「人にひかせず牛の行くところにとどめよ」との遺言から遺骸を轜車(牛車)にて運ぶ途中、車を曳く牛が座り込んで動かなくなり、やむなく付近の安楽寺に埋葬したという牛に因む故事があります。

    臂岡天満宮 御神牛
    天神さんには欠かせない御神牛(撫で牛)です。
    1936(昭和11)年の奉納であり、台座も含めて昭和時代初期の趣きが漂います。
    横たわる牛には病気を治す力があるとされ、古くから「撫牛信仰」が広まりました。また、牛の頭を撫でると知恵を授かれると言われ、受験生に人気です。
    道真と牛との結びつきについては伝説や逸話が数多く残されています。例えば、道真は845(承和12)年の丑年の丑の日の丑の刻に生まれ、903(延喜3)年2月25日の丑の日に亡くなったとか。903(延喜3)年に大宰府で生涯を閉じた際、「人にひかせず牛の行くところにとどめよ」との遺言から遺骸を轜車(牛車)にて運ぶ途中、車を曳く牛が座り込んで動かなくなり、やむなく付近の安楽寺に埋葬したという牛に因む故事があります。

  • 臂岡天満宮 神牛社<br />参道を挟んで御神牛の右側には2基の鳥居の構えが目を引く神牛社なるものも佇みます。<br /><br />

    臂岡天満宮 神牛社
    参道を挟んで御神牛の右側には2基の鳥居の構えが目を引く神牛社なるものも佇みます。

  • 臂岡天満宮 神牛社<br />ここは絵馬掛け所になっているだけでなく、嘉永4年奉納の「臥牛」も祀られています。<br />鈴なりの絵馬は合格祈願やら合格御礼、学業成就など様々です。願文は学生時代の縮図を見ているかのようで、はるか遠い時代にタイムスリップしたかのような感覚に捉われます。

    臂岡天満宮 神牛社
    ここは絵馬掛け所になっているだけでなく、嘉永4年奉納の「臥牛」も祀られています。
    鈴なりの絵馬は合格祈願やら合格御礼、学業成就など様々です。願文は学生時代の縮図を見ているかのようで、はるか遠い時代にタイムスリップしたかのような感覚に捉われます。

  • 臂岡天満宮 神牛社<br />臥牛は茶褐色をした砂岩製で、折れ易い両角と両耳がしっかり残っている大変希少な江戸時代の「嘉永牛」(江戸時代末期、孝明天皇の治世の年号)です。<br />何となく道真が当地で休息された際のポーズ、つまり「臂を枕にして夢うつつ」のような姿にも映ります。

    臂岡天満宮 神牛社
    臥牛は茶褐色をした砂岩製で、折れ易い両角と両耳がしっかり残っている大変希少な江戸時代の「嘉永牛」(江戸時代末期、孝明天皇の治世の年号)です。
    何となく道真が当地で休息された際のポーズ、つまり「臂を枕にして夢うつつ」のような姿にも映ります。

  • 臂岡天満宮 拝殿<br />拝殿前の狛犬は梅鉢の前掛けを着けています。<br />いずれも1826(文政9)年9月の奉納です。<br /><br /><br />

    臂岡天満宮 拝殿
    拝殿前の狛犬は梅鉢の前掛けを着けています。
    いずれも1826(文政9)年9月の奉納です。


  • 臂岡天満宮 拝殿<br />天満宮は北村鋳物師にあることから「鋳物師(いもじ)の天神さん」とも呼ばれます。「鋳物師」とは、各地を移動して鍋釜や梵鐘、半鐘、鋳物細工などの生産に携わる職人集団を指し、中世後期~近世初めにかけて各地に定住するようになり、全国各地にその地名を遺しています。<br />『川辺郡誌』(1912年刊)には、北村鋳物師も軒を連ねて繁昌し「いもじ千軒」と呼ばれていたと記されています。また、京都 空也堂の叩鐘と鉦鼓に「伊丹住某作」との銘があり、遠方からも注文があったことが窺えます。この叩鐘と鉦鼓については「後世の偽作」との説もありますが、例え偽作であってもその名を騙られるほど伊丹の鋳物師が名を馳せていた証左と言えます。<br />尚、天満宮の御祠は元々は大鹿村にあり、大鹿村が全村日蓮宗に帰依したため、その際に現在地に移されたとの説もあります。<br />主祭神には菅原道真、配祀神は天照皇大神、応神天皇、素盞嗚命、天児屋根命、経津主命の5柱を祀ります。ご利益は学業成就・合格祈願。

    臂岡天満宮 拝殿
    天満宮は北村鋳物師にあることから「鋳物師(いもじ)の天神さん」とも呼ばれます。「鋳物師」とは、各地を移動して鍋釜や梵鐘、半鐘、鋳物細工などの生産に携わる職人集団を指し、中世後期~近世初めにかけて各地に定住するようになり、全国各地にその地名を遺しています。
    『川辺郡誌』(1912年刊)には、北村鋳物師も軒を連ねて繁昌し「いもじ千軒」と呼ばれていたと記されています。また、京都 空也堂の叩鐘と鉦鼓に「伊丹住某作」との銘があり、遠方からも注文があったことが窺えます。この叩鐘と鉦鼓については「後世の偽作」との説もありますが、例え偽作であってもその名を騙られるほど伊丹の鋳物師が名を馳せていた証左と言えます。
    尚、天満宮の御祠は元々は大鹿村にあり、大鹿村が全村日蓮宗に帰依したため、その際に現在地に移されたとの説もあります。
    主祭神には菅原道真、配祀神は天照皇大神、応神天皇、素盞嗚命、天児屋根命、経津主命の5柱を祀ります。ご利益は学業成就・合格祈願。

  • 臂岡天満宮 拝殿<br />拝殿に掛けられた神額です。<br />天満宮作法の「鈴を鳴らす」は新型コロナ禍のためできません。<br />因みに、鈴の音色は邪気や汚れを払うとされ、祓い清めの意味を持つそうです。また、大きな音がよい、長く鳴らせばよいということはなく、丁寧に扱いながら自然体で鳴らすのが作法のようです。

    臂岡天満宮 拝殿
    拝殿に掛けられた神額です。
    天満宮作法の「鈴を鳴らす」は新型コロナ禍のためできません。
    因みに、鈴の音色は邪気や汚れを払うとされ、祓い清めの意味を持つそうです。また、大きな音がよい、長く鳴らせばよいということはなく、丁寧に扱いながら自然体で鳴らすのが作法のようです。

  • 臂岡天満宮 拝殿<br />901(延喜元)年に右大臣 菅原道真が政敵の讒言で太宰府に左遷され、その2年後に亡くなりました。道真の死後、讒言の張本人 藤原時平をはじめとする関係者の怪死、更に旱魃や水害などの凶事が続き、また平安京で雷などの天変も相次ぎ、清涼殿への落雷で大納言の藤原清貫が亡くなったことから、道真は雷の神である天神(火雷天神)と同一視されるようになりました。<br />因みに「天満宮」の「天満」は、道真に死後に送られた神号「天満(そらみつ)大自在天神」から採られたとされ、その「天満」の由来は「道真の怨霊が雷神となり、それが『天に満ちた』」ことにあります。これが北野天満宮や太宰府天満宮など各地の天神さんの名称の起源とされます。<br />その後、怨霊と恐れられた絶大なるパワー並びに道真が学芸に秀でていたことから、「天神」が学問の神となったそうです。

    臂岡天満宮 拝殿
    901(延喜元)年に右大臣 菅原道真が政敵の讒言で太宰府に左遷され、その2年後に亡くなりました。道真の死後、讒言の張本人 藤原時平をはじめとする関係者の怪死、更に旱魃や水害などの凶事が続き、また平安京で雷などの天変も相次ぎ、清涼殿への落雷で大納言の藤原清貫が亡くなったことから、道真は雷の神である天神(火雷天神)と同一視されるようになりました。
    因みに「天満宮」の「天満」は、道真に死後に送られた神号「天満(そらみつ)大自在天神」から採られたとされ、その「天満」の由来は「道真の怨霊が雷神となり、それが『天に満ちた』」ことにあります。これが北野天満宮や太宰府天満宮など各地の天神さんの名称の起源とされます。
    その後、怨霊と恐れられた絶大なるパワー並びに道真が学芸に秀でていたことから、「天神」が学問の神となったそうです。

  • 臂岡天満宮 拝殿<br />奉納されている酒樽は、伊丹市にある酒造メーカ 小西酒造の看板銘柄「白雪」です。<br /><br />

    臂岡天満宮 拝殿
    奉納されている酒樽は、伊丹市にある酒造メーカ 小西酒造の看板銘柄「白雪」です。

  • 臂岡天満宮 社殿<br />拝殿の先にある社殿には千木と鰹木が見られます。<br />

    臂岡天満宮 社殿
    拝殿の先にある社殿には千木と鰹木が見られます。

  • 臂岡天満宮 北鳥居<br />緑ヶ丘公園からのアクセスならこの鳥居を潜るとショートカットになります。

    臂岡天満宮 北鳥居
    緑ヶ丘公園からのアクセスならこの鳥居を潜るとショートカットになります。

  • 臂岡天満宮<br />太宰府への左遷が決まった道真は、屋敷である紅梅殿の庭木のうち、特に愛でていた梅木・桜木・松木との別れを惜しみます。<br />その時、紅梅に語りかけるように歌を詠みました。<br />「東風吹かば にほひをこせよ 梅花 主なしとて 春を忘るな」<br />(初出『拾遺和歌集』)<br />もしくは   <br />「東風ふかば にほひをこせよ 梅の花 あるじなしとて 春なわすれそ」<br />(初出『宝物集』)<br />出典によって語尾が若干違いますが基本的な意味は同じです。

    臂岡天満宮
    太宰府への左遷が決まった道真は、屋敷である紅梅殿の庭木のうち、特に愛でていた梅木・桜木・松木との別れを惜しみます。
    その時、紅梅に語りかけるように歌を詠みました。
    「東風吹かば にほひをこせよ 梅花 主なしとて 春を忘るな」
    (初出『拾遺和歌集』)
    もしくは   
    「東風ふかば にほひをこせよ 梅の花 あるじなしとて 春なわすれそ」
    (初出『宝物集』)
    出典によって語尾が若干違いますが基本的な意味は同じです。

  • 臂岡天満宮 北鳥居<br />道真と言えば紅梅に詠った歌が著名ですが、実は桜にも歌を詠んでいます。<br />「さくら花 主を忘れぬ ものならば 吹き来む風に 言伝てはせよ」<br />(『後撰和歌集』)<br />尚、松についてはこの時に詠んだ歌かは不祥ですが次の歌があります。<br />「松の色は 西ふく風や そめつらむ 海のみどりを 初入にして」<br />(『続古今和歌集』)<br />道真が都を去ると桜木は主人が遠くへ行ったことを悟り、悲しみのあまり葉を落とし、やがて枯れてしまいます。松木と梅木は道真の後を追って空高く飛び立ちますが、松木は途中で力尽きて摂津の地で根を下ろしました。梅木だけは大宰府まで一晩かけて飛んで行き、現在も太宰府天満宮にあるご神木「飛梅」として親しまれています。<br />ところで、太宰府天満宮にある飛梅は「白梅」ですが、道真が詠ったのは「紅梅」でした。これについては「平安京から大宰府へ飛んで行く間に色が変わった」や「紅梅殿と白梅殿は道を隔てて隣接しており、道真は両方の梅に語り掛けた」とされています。いずれにしても深く考えない方がよいかもしれません。

    臂岡天満宮 北鳥居
    道真と言えば紅梅に詠った歌が著名ですが、実は桜にも歌を詠んでいます。
    「さくら花 主を忘れぬ ものならば 吹き来む風に 言伝てはせよ」
    (『後撰和歌集』)
    尚、松についてはこの時に詠んだ歌かは不祥ですが次の歌があります。
    「松の色は 西ふく風や そめつらむ 海のみどりを 初入にして」
    (『続古今和歌集』)
    道真が都を去ると桜木は主人が遠くへ行ったことを悟り、悲しみのあまり葉を落とし、やがて枯れてしまいます。松木と梅木は道真の後を追って空高く飛び立ちますが、松木は途中で力尽きて摂津の地で根を下ろしました。梅木だけは大宰府まで一晩かけて飛んで行き、現在も太宰府天満宮にあるご神木「飛梅」として親しまれています。
    ところで、太宰府天満宮にある飛梅は「白梅」ですが、道真が詠ったのは「紅梅」でした。これについては「平安京から大宰府へ飛んで行く間に色が変わった」や「紅梅殿と白梅殿は道を隔てて隣接しており、道真は両方の梅に語り掛けた」とされています。いずれにしても深く考えない方がよいかもしれません。

  • 臂岡天満宮 摂社 三宝社<br />拝殿に向かって右手に佇みます。<br />神社=神道ですので、ご祭神には三宝荒神ではなく竈三柱神の火産霊神(=迦具土神)、奥津彦神、奥津姫神の3柱を祀ります。<br />これらは台所の火に宿る神霊であり、不浄や災難を取り除いてくれます。<br />不浄除去から転じ、火や竈の神、更には台所の神様ともされます。

    臂岡天満宮 摂社 三宝社
    拝殿に向かって右手に佇みます。
    神社=神道ですので、ご祭神には三宝荒神ではなく竈三柱神の火産霊神(=迦具土神)、奥津彦神、奥津姫神の3柱を祀ります。
    これらは台所の火に宿る神霊であり、不浄や災難を取り除いてくれます。
    不浄除去から転じ、火や竈の神、更には台所の神様ともされます。

  • 臂岡天満宮 摂社 三宝社<br />通常、この類は「三宝荒神」社となりますが、「三宝」社とは珍しい名称です。<br />神社でありながら、社名には「三宝荒神」の「三宝」という仏(仏様)・法(教え)・僧(お釈迦様の教えを守る人)を守護する仏教要素だけを採っているのは興味深いところです。<br />「三宝荒神」に因み、神仏分離の際に神道の3柱をご祭神に抜擢したのでしょう。

    臂岡天満宮 摂社 三宝社
    通常、この類は「三宝荒神」社となりますが、「三宝」社とは珍しい名称です。
    神社でありながら、社名には「三宝荒神」の「三宝」という仏(仏様)・法(教え)・僧(お釈迦様の教えを守る人)を守護する仏教要素だけを採っているのは興味深いところです。
    「三宝荒神」に因み、神仏分離の際に神道の3柱をご祭神に抜擢したのでしょう。

  • 臂岡天満宮 巳社<br />三宝社の右隣に佇みます。<br />脱皮を繰り返しながら大きくなっていく「蛇」は開運や昇運、金運をもたらす縁起物の象徴とされます。<br />ここに祀られている巨大な石は伊丹廃寺の礎石です。大きさは1m角、厚さ70cm程あり、「造り出し」と呼ばれる加工跡が窺えます。その大きさからも伊丹廃寺の巨大な姿を偲ぶことができます。<br />また、片隅にひっそりと石仏が祀られているのも仏教的要素であり、神仏習合の名残と見受けられます。石のようなものも元々は石仏だったのかもしれません。更には、祠の屋根と思しきものを載せた巨木の切り株も見られます。これは樹木に宿る神霊への崇拝と思われますが、巨木や巨石に精霊が宿るという原初的な信仰、つまりアニミズムの典型のようなものです。<br />こうしたことを総合的に判断すれば、天神さんが創建される前からあった旧「北村」の氏神様というのが巳社の正体ではないでしょうか?

    臂岡天満宮 巳社
    三宝社の右隣に佇みます。
    脱皮を繰り返しながら大きくなっていく「蛇」は開運や昇運、金運をもたらす縁起物の象徴とされます。
    ここに祀られている巨大な石は伊丹廃寺の礎石です。大きさは1m角、厚さ70cm程あり、「造り出し」と呼ばれる加工跡が窺えます。その大きさからも伊丹廃寺の巨大な姿を偲ぶことができます。
    また、片隅にひっそりと石仏が祀られているのも仏教的要素であり、神仏習合の名残と見受けられます。石のようなものも元々は石仏だったのかもしれません。更には、祠の屋根と思しきものを載せた巨木の切り株も見られます。これは樹木に宿る神霊への崇拝と思われますが、巨木や巨石に精霊が宿るという原初的な信仰、つまりアニミズムの典型のようなものです。
    こうしたことを総合的に判断すれば、天神さんが創建される前からあった旧「北村」の氏神様というのが巳社の正体ではないでしょうか?

  • 臂岡天満宮 摂社 臂岡えびす社<br />ご祭神には天照大神、蛭子大神、大國主大神の3柱を祀り、ご利益は商売繁盛です。<br />これらの3柱は『記紀』が語る「国譲り」に関係する神々です。大黒様は事代主大神(=えびす様=蛭子大神)の父神様で正式には「大國主大神」と言います。その大黒様は「天の下造らしし大神」とも言われ、日本人の遠い祖先と喜びも悲しみも共にし、国土を開拓し、国を造り、村造りに骨を折り、豊葦原の瑞穂の国と呼ばれるあらゆるものが豊かに育つ国を造り上げました。そして農耕や漁業を発展させて人々の生活の基礎を固め、殖産の法を教え、また、医薬により人々の病苦を救うなど、慈愛を寄せられた救いの親神様であると共に、全てのものが自然の姿にあるように護って下さる神様です。<br />こうした国造りの大業を成し遂げた後、日本民族の大親とされる「天照大神」にその豊葦原の瑞穂の国を譲られたのです。

    臂岡天満宮 摂社 臂岡えびす社
    ご祭神には天照大神、蛭子大神、大國主大神の3柱を祀り、ご利益は商売繁盛です。
    これらの3柱は『記紀』が語る「国譲り」に関係する神々です。大黒様は事代主大神(=えびす様=蛭子大神)の父神様で正式には「大國主大神」と言います。その大黒様は「天の下造らしし大神」とも言われ、日本人の遠い祖先と喜びも悲しみも共にし、国土を開拓し、国を造り、村造りに骨を折り、豊葦原の瑞穂の国と呼ばれるあらゆるものが豊かに育つ国を造り上げました。そして農耕や漁業を発展させて人々の生活の基礎を固め、殖産の法を教え、また、医薬により人々の病苦を救うなど、慈愛を寄せられた救いの親神様であると共に、全てのものが自然の姿にあるように護って下さる神様です。
    こうした国造りの大業を成し遂げた後、日本民族の大親とされる「天照大神」にその豊葦原の瑞穂の国を譲られたのです。

  • 遥拝所<br />臂岡天満宮に別れを告げ、東鳥居の先にある天満宮の駐車場へ向かいます。<br />摩訶不思議な造形物はネット情報によると「遥拝所」、つまり遠く離れた所から神仏などを遥かに拝むために設けられた場所のようです。<br />多いのは「高天原に住む神様」である天津神(アマツカミ)を遥拝するものです。つまり、イザナギノミコトとイザナギノミコトから生まれた神様を拝むものであり、その大代表が天照大神です。<br />因みに天津神は天神(=雷神=菅原道真)を意味することもあるようですが、天神さんは目と鼻の先ですので、方角的にも天照大神を祀る伊勢神宮を遥拝する場所とするのがスマートです。<br />右側に立つ石鳥居の笠木と島木は、その姿から天逆鉾を彷彿とさせますが、阪神・淡路大震災で倒壊した鳥居ではないかと思われます。伊丹市も阪急伊丹駅の駅舎ビルが停留中の電車の重みで倒壊するなど、甚大な被害に遭っています。

    遥拝所
    臂岡天満宮に別れを告げ、東鳥居の先にある天満宮の駐車場へ向かいます。
    摩訶不思議な造形物はネット情報によると「遥拝所」、つまり遠く離れた所から神仏などを遥かに拝むために設けられた場所のようです。
    多いのは「高天原に住む神様」である天津神(アマツカミ)を遥拝するものです。つまり、イザナギノミコトとイザナギノミコトから生まれた神様を拝むものであり、その大代表が天照大神です。
    因みに天津神は天神(=雷神=菅原道真)を意味することもあるようですが、天神さんは目と鼻の先ですので、方角的にも天照大神を祀る伊勢神宮を遥拝する場所とするのがスマートです。
    右側に立つ石鳥居の笠木と島木は、その姿から天逆鉾を彷彿とさせますが、阪神・淡路大震災で倒壊した鳥居ではないかと思われます。伊丹市も阪急伊丹駅の駅舎ビルが停留中の電車の重みで倒壊するなど、甚大な被害に遭っています。

  • 忠魂碑『皇軍義戦忠勇死士之碑』<br />地元では『忠魂碑』と呼ばれ、前面のスペースは「忠魂碑前広場」と呼ばれる駐車場になっています。<br />鳥居の先には招魂社が設けられています。最奥にある碑はオベリスク型の角柱となっており、1895(明治28)年11月建立。清國遼陽(日清戦争)において散華された故陸軍歩兵上等兵勲八等前田久太郎命、故陸軍歩兵一等卒勲八等功七級本田伊太郎命を筆頭に郷土出身の英霊が護国の軍神として丁重にお奉りされております。<br />尚、碑の台座は大きく硬い石で、近隣にある伊丹廃寺の礎石が使われているそうです。

    忠魂碑『皇軍義戦忠勇死士之碑』
    地元では『忠魂碑』と呼ばれ、前面のスペースは「忠魂碑前広場」と呼ばれる駐車場になっています。
    鳥居の先には招魂社が設けられています。最奥にある碑はオベリスク型の角柱となっており、1895(明治28)年11月建立。清國遼陽(日清戦争)において散華された故陸軍歩兵上等兵勲八等前田久太郎命、故陸軍歩兵一等卒勲八等功七級本田伊太郎命を筆頭に郷土出身の英霊が護国の軍神として丁重にお奉りされております。
    尚、碑の台座は大きく硬い石で、近隣にある伊丹廃寺の礎石が使われているそうです。

  • 白髭稲荷社(しろひげいなりしゃ)<br />手前の石鳥居は臂岡天満宮のもののようです。崖下から稲荷社経由で参拝される方もおられるのでしょう。<br />石鳥居の建立年代を確認するのを失念しましたが、遥拝所に埋められていた石鳥居の残骸はこの鳥居が地震で倒壊した時のものではないかと思われます。

    白髭稲荷社(しろひげいなりしゃ)
    手前の石鳥居は臂岡天満宮のもののようです。崖下から稲荷社経由で参拝される方もおられるのでしょう。
    石鳥居の建立年代を確認するのを失念しましたが、遥拝所に埋められていた石鳥居の残骸はこの鳥居が地震で倒壊した時のものではないかと思われます。

  • 白髭稲荷社<br />丹色の玉垣と石段が京都 貴船神社を彷彿とさせます。<br />しかし、稲荷社は駄六川沿いの伊丹段丘の崖の途中にあるため、勾配は貴船神社の比ではありません。<br />歩き疲れている場合は、捻挫などに要注意です!

    白髭稲荷社
    丹色の玉垣と石段が京都 貴船神社を彷彿とさせます。
    しかし、稲荷社は駄六川沿いの伊丹段丘の崖の途中にあるため、勾配は貴船神社の比ではありません。
    歩き疲れている場合は、捻挫などに要注意です!

  • 白髭稲荷社<br />ご祭神は農耕神の宇迦之御魂神。(正一位稲荷大明神)<br />ご利益は商売繫盛、五穀豊穣、福徳円満、所願成就。<br />臂岡神社の末社や摂社の感覚で参拝しましたが、単独の神社です。

    白髭稲荷社
    ご祭神は農耕神の宇迦之御魂神。(正一位稲荷大明神)
    ご利益は商売繫盛、五穀豊穣、福徳円満、所願成就。
    臂岡神社の末社や摂社の感覚で参拝しましたが、単独の神社です。

  • 白髭稲荷社<br />祠の裏側に生えている木々たちが、ただならぬ生命力を感じさせます。<br />ところで白髭神社は有名ですが、白髭稲荷社というのは聞き慣れません。<br />調べた所、稲荷神には大分して稲荷大社と白髭稲荷の2系統あるようです。白髭稲荷を名乗るところは、空海と白髭老人を起源とするそうです。<br />こじんまりした稲荷社ですが、一見の価値はありますので、近くに来られた際は訪ねて独特の世界観に浸っていただければと思います。

    白髭稲荷社
    祠の裏側に生えている木々たちが、ただならぬ生命力を感じさせます。
    ところで白髭神社は有名ですが、白髭稲荷社というのは聞き慣れません。
    調べた所、稲荷神には大分して稲荷大社と白髭稲荷の2系統あるようです。白髭稲荷を名乗るところは、空海と白髭老人を起源とするそうです。
    こじんまりした稲荷社ですが、一見の価値はありますので、近くに来られた際は訪ねて独特の世界観に浸っていただければと思います。

  • 白髭稲荷社<br />京都 伏見稲荷大社は渡来系の秦氏が創建したというのが定説です。賀茂建角身命の子孫である秦伊呂具が稲荷山に稲荷大明神を祀ったのが伏見稲荷の起源とされます。<br />秦氏の長が松尾大社を創建した秦都理で、伊呂具はその弟です。711(和銅4)年、伊呂具が餅を的に矢を射たところ、矢が命中した餅が白い鳥になって稲荷山に飛んで行き、そこに稲が生えたので稲荷山を聖地として稲荷大明神を祀り、伊奈利社と名付けたと伝えます。<br />白髭稲荷の伝承によると、816年に空海が熊野詣の途中で田辺に滞在していた折、女性2人と子供2人を連れて稲を担ぐ白髭で大男の老人が現れ、自分は「稲荷神」と名乗ったそうです。その老人と空海はすでに唐の地で出会っており、日本で密教の教えを広めるのを手伝うためにやって来たと伝え、東寺創建にも関与しました。そこで空海は東寺の鎮守として白髭老人を稲荷神として祀り、後に稲荷山に移したと伝えます。<br />一方、東寺に伝わる『稲荷大明神縁起』によると、古くから稲荷山の麓に竜頭太という山の神が住んでおり、竜頭太が空海の教えで稲荷山を譲ったことから稲荷山に白髭の稲荷神を祀ったと記しています。

    白髭稲荷社
    京都 伏見稲荷大社は渡来系の秦氏が創建したというのが定説です。賀茂建角身命の子孫である秦伊呂具が稲荷山に稲荷大明神を祀ったのが伏見稲荷の起源とされます。
    秦氏の長が松尾大社を創建した秦都理で、伊呂具はその弟です。711(和銅4)年、伊呂具が餅を的に矢を射たところ、矢が命中した餅が白い鳥になって稲荷山に飛んで行き、そこに稲が生えたので稲荷山を聖地として稲荷大明神を祀り、伊奈利社と名付けたと伝えます。
    白髭稲荷の伝承によると、816年に空海が熊野詣の途中で田辺に滞在していた折、女性2人と子供2人を連れて稲を担ぐ白髭で大男の老人が現れ、自分は「稲荷神」と名乗ったそうです。その老人と空海はすでに唐の地で出会っており、日本で密教の教えを広めるのを手伝うためにやって来たと伝え、東寺創建にも関与しました。そこで空海は東寺の鎮守として白髭老人を稲荷神として祀り、後に稲荷山に移したと伝えます。
    一方、東寺に伝わる『稲荷大明神縁起』によると、古くから稲荷山の麓に竜頭太という山の神が住んでおり、竜頭太が空海の教えで稲荷山を譲ったことから稲荷山に白髭の稲荷神を祀ったと記しています。

  • 史跡名勝天然記念物『伊丹廃寺跡』<br />伊丹廃寺跡は伊丹台地(伊丹段丘)の東端に立地する、法隆寺式伽藍配置の白鳳時代(8世紀初期)の超ド級 古代寺院遺跡です。往時はこの一帯が松林であり、そこに威容を誇る伽藍が広がっていました。しかし、法隆寺と同等規模の大寺院とされながら、一次資料にこの寺院の記載が一切ないため、正式な寺名やその歴史が不明の「幻の名刹」となっています。

    史跡名勝天然記念物『伊丹廃寺跡』
    伊丹廃寺跡は伊丹台地(伊丹段丘)の東端に立地する、法隆寺式伽藍配置の白鳳時代(8世紀初期)の超ド級 古代寺院遺跡です。往時はこの一帯が松林であり、そこに威容を誇る伽藍が広がっていました。しかし、法隆寺と同等規模の大寺院とされながら、一次資料にこの寺院の記載が一切ないため、正式な寺名やその歴史が不明の「幻の名刹」となっています。

  • 伊丹廃寺 伽藍復元図<br />1958(昭和33)年、畑から水煙の残欠が発見されたことから考古学上の関心が高まり、伊丹市教育委員会と甲陽史学会が発掘調査を進めました。以降、8年間に亘る調査の結果、幻の寺の全体像がおぼろげながら見えてきました。<br />東に金堂跡、西に塔跡、これを巡るように回廊跡、更に南に中門、他の三方に僧門跡が確認され、また自衛隊伊丹駐屯地内に講堂の遺構、東西138m、南北推定130m弱の寺域を囲む築地塀の一部が確認されました。ただし、講堂が中軸線の東に偏っているのは法隆寺式配置から外れます。これにより、法隆寺と同等規模の大寺院であり、奈良時代前期の建立と推定されました。<br />現在は金堂と五重塔の基壇を復元整備し、史跡公園として市民に開放しています。<br />この画像は次のサイトから引用させていただきました。<br />itamity02_07.pdf (itami-bunkazai.jp)

    伊丹廃寺 伽藍復元図
    1958(昭和33)年、畑から水煙の残欠が発見されたことから考古学上の関心が高まり、伊丹市教育委員会と甲陽史学会が発掘調査を進めました。以降、8年間に亘る調査の結果、幻の寺の全体像がおぼろげながら見えてきました。
    東に金堂跡、西に塔跡、これを巡るように回廊跡、更に南に中門、他の三方に僧門跡が確認され、また自衛隊伊丹駐屯地内に講堂の遺構、東西138m、南北推定130m弱の寺域を囲む築地塀の一部が確認されました。ただし、講堂が中軸線の東に偏っているのは法隆寺式配置から外れます。これにより、法隆寺と同等規模の大寺院であり、奈良時代前期の建立と推定されました。
    現在は金堂と五重塔の基壇を復元整備し、史跡公園として市民に開放しています。
    この画像は次のサイトから引用させていただきました。
    itamity02_07.pdf (itami-bunkazai.jp)

  • 伊丹廃寺 西回廊跡と西門<br />金堂の瓦と小石を積んだ基壇は珍しく、水煙や九輪等も出土しています。この寺院跡については古くから知られ、1798(寛政10)年刊の『摂津名所図会』には「霊林寺旧跡」として礎石の存在が記されています。また、現在、北面は陸上自衛隊中部方面総監部(伊丹駐屯地)となっており、そこも廃寺の寺域と重なります。更には、周辺には廃寺と並行する時期の集落跡(緑ヶ丘遺跡)も存在します。

    伊丹廃寺 西回廊跡と西門
    金堂の瓦と小石を積んだ基壇は珍しく、水煙や九輪等も出土しています。この寺院跡については古くから知られ、1798(寛政10)年刊の『摂津名所図会』には「霊林寺旧跡」として礎石の存在が記されています。また、現在、北面は陸上自衛隊中部方面総監部(伊丹駐屯地)となっており、そこも廃寺の寺域と重なります。更には、周辺には廃寺と並行する時期の集落跡(緑ヶ丘遺跡)も存在します。

  • 伊丹廃寺 北回廊跡と北門<br />北門(パーゴラ)へ続く北回廊跡です。<br />丹色の北門は復元されたものです。<br />復元と言っても骨組みだけのようですが…。<br />パーゴラとあるため、予備知識がなければ藤棚と勘違いしてしまいそうです。

    伊丹廃寺 北回廊跡と北門
    北門(パーゴラ)へ続く北回廊跡です。
    丹色の北門は復元されたものです。
    復元と言っても骨組みだけのようですが…。
    パーゴラとあるため、予備知識がなければ藤棚と勘違いしてしまいそうです。

  • 伊丹廃寺 五重塔跡<br />五重塔の基壇跡は、一辺12.7m、地覆から半截(はんせつ)した瓦のみで積み、階段を南側に1基設けています。<br />塔の上部を飾る水煙は焼けただれ、その左半分の残欠が金堂跡と塔跡の間の土中から発見されたことから、五重塔は炎上した際に金堂側へ倒れたと見られています。

    伊丹廃寺 五重塔跡
    五重塔の基壇跡は、一辺12.7m、地覆から半截(はんせつ)した瓦のみで積み、階段を南側に1基設けています。
    塔の上部を飾る水煙は焼けただれ、その左半分の残欠が金堂跡と塔跡の間の土中から発見されたことから、五重塔は炎上した際に金堂側へ倒れたと見られています。

  • 伊丹廃寺 金堂跡<br />金堂の基壇跡は東西20m、南北16mあり、基壇は地覆に塼(せん=焼成した煉瓦)を敷き、その上に丸い栗石と瓦を交互に積み上げる東アジア唯一とされる独自の瓦積基壇、並びに南面左右に2基、北面中央に1基の階段を有します。<br />因みに、発掘された金堂の基壇遺構は、復元された基壇の地下に保存されています。金堂正面に階段を2基並置する事例は稀有で、福井県小浜市の若狭国分寺に類例があるだけです。尚、基壇に塼を使う事例は、芦屋漢人が主導したとされる芦屋廃寺に類例があり、百済系の田辺史が主導したとされる田辺廃寺の東塔も塼積基壇です。

    伊丹廃寺 金堂跡
    金堂の基壇跡は東西20m、南北16mあり、基壇は地覆に塼(せん=焼成した煉瓦)を敷き、その上に丸い栗石と瓦を交互に積み上げる東アジア唯一とされる独自の瓦積基壇、並びに南面左右に2基、北面中央に1基の階段を有します。
    因みに、発掘された金堂の基壇遺構は、復元された基壇の地下に保存されています。金堂正面に階段を2基並置する事例は稀有で、福井県小浜市の若狭国分寺に類例があるだけです。尚、基壇に塼を使う事例は、芦屋漢人が主導したとされる芦屋廃寺に類例があり、百済系の田辺史が主導したとされる田辺廃寺の東塔も塼積基壇です。

  • 伊丹廃寺 金堂跡<br />礎石はひとつも残されておらず、レプリカの石で復元したものや小石でその位置と大きさを示すものがあります。<br />礎石は早くに遺跡から持ち出されたようです。先に紹介したように。臂岡天満宮境内の巳社にあるものや伊丹郷町館内旧石橋家住宅北側の靴脱ぎ石、皇軍義戦忠勇死士之碑の台座もそのひとつです。

    伊丹廃寺 金堂跡
    礎石はひとつも残されておらず、レプリカの石で復元したものや小石でその位置と大きさを示すものがあります。
    礎石は早くに遺跡から持ち出されたようです。先に紹介したように。臂岡天満宮境内の巳社にあるものや伊丹郷町館内旧石橋家住宅北側の靴脱ぎ石、皇軍義戦忠勇死士之碑の台座もそのひとつです。

  • 伊丹廃寺 金堂跡 礎石のレプリカ<br />ミステリアスな謎めいた寺院と述べましたが、それは法隆寺式伽藍配置を有す超ド級の国史跡でありながら、正式な寺名が不明だからです。「伊丹廃寺」は便宜上そう呼ばれているに過ぎません。<br />地元史料は寺名を「霊林寺(りょうりんじ)」や「龍蓮寺(ろうれんじ)」、「良蓮寺(りょうれんじ)」と記しますが、これらは発音が似ていることから、耳で聞いた寺名に異なる漢字を当てたものと思われます。つまり、3つの寺院は同一の寺院と言うことです。因みに「良蓮寺」は、1962(昭和37)年まで伊丹廃寺の所在地の地名(字名)そのものでもあり、地名から鑑みると「良蓮寺」の妥当性は高いと思われます。

    伊丹廃寺 金堂跡 礎石のレプリカ
    ミステリアスな謎めいた寺院と述べましたが、それは法隆寺式伽藍配置を有す超ド級の国史跡でありながら、正式な寺名が不明だからです。「伊丹廃寺」は便宜上そう呼ばれているに過ぎません。
    地元史料は寺名を「霊林寺(りょうりんじ)」や「龍蓮寺(ろうれんじ)」、「良蓮寺(りょうれんじ)」と記しますが、これらは発音が似ていることから、耳で聞いた寺名に異なる漢字を当てたものと思われます。つまり、3つの寺院は同一の寺院と言うことです。因みに「良蓮寺」は、1962(昭和37)年まで伊丹廃寺の所在地の地名(字名)そのものでもあり、地名から鑑みると「良蓮寺」の妥当性は高いと思われます。

  • 伊丹廃寺 金堂跡 礎石の表示<br />また、廃寺の存在が地元史料や古絵図だけに限られているのも謎です。寺院の存在を意図的に歴史から抹殺したのならば、これこそ大いなるミステリーです。<br />現在問題となっているのは「誰が何のために建てたのか?」ということです。これには2つの説があります。まず、猪名川河畔の有力氏族が信仰と権威を示すためとするものです。もうひとつは、僧 行基が昆陽施院を核とした祇園精舎を建立したという説です。後者については、遺構や遺物を鑑みて否定的な学者や史家が多いようですが、いずれの説も決め手を欠くようです。

    伊丹廃寺 金堂跡 礎石の表示
    また、廃寺の存在が地元史料や古絵図だけに限られているのも謎です。寺院の存在を意図的に歴史から抹殺したのならば、これこそ大いなるミステリーです。
    現在問題となっているのは「誰が何のために建てたのか?」ということです。これには2つの説があります。まず、猪名川河畔の有力氏族が信仰と権威を示すためとするものです。もうひとつは、僧 行基が昆陽施院を核とした祇園精舎を建立したという説です。後者については、遺構や遺物を鑑みて否定的な学者や史家が多いようですが、いずれの説も決め手を欠くようです。

  • 伊丹廃寺 <br />一方、寺名については、鋳物師地区は廃寺の縁起を「藤原不比等が行基を伴い四国の領地に旅された後、有馬へ湯治に行こうとしてこの地に寄られたとき、蓮の池から竜が天上するのを聞いて此処に寺を建立され、主池山竜蓮寺(後に良蓮寺)と号した」と伝承しています。もしそうであれば、創建には行基や藤原不比等が関わり、寺名は良蓮寺のはずです。

    伊丹廃寺
    一方、寺名については、鋳物師地区は廃寺の縁起を「藤原不比等が行基を伴い四国の領地に旅された後、有馬へ湯治に行こうとしてこの地に寄られたとき、蓮の池から竜が天上するのを聞いて此処に寺を建立され、主池山竜蓮寺(後に良蓮寺)と号した」と伝承しています。もしそうであれば、創建には行基や藤原不比等が関わり、寺名は良蓮寺のはずです。

  • 伊丹廃寺 <br />しかし、『河辺郡誌』(1912年刊)には「良蓮寺は1579(天正7)年に荒木村重が織田信長に背いた時の兵火で炎上した」との記録があります。その際、背丈1m程の本尊 阿弥陀如来立像は救出され、当寺から1.5km東にある教善寺に移されたと伝えます。更に、廃寺跡の南西側にはかつて大鹿猿ケ山城があり、織田信長の有岡城攻めの小屋野本陣がこの地との説もあります。<br />一方、伊丹廃寺の発掘調査の解説によると「出土の瓦の年代から推定し鎌倉時代後期に廃寺になった」とあり、もし両者が同一寺院なら廃寺になった年代が異なることから、別の寺院だったことになります。もし鎌倉時代以降に廃寺跡に良蓮寺が建立されたとすれば、行基や藤原不比等の関与に破綻が生じます。地元史料の寄せ集めではジグソーパズルは完成しないということのようです。いずれにせよ、伊丹にも白鳳時代にこのような大伽藍が存在したと思うと歴史へのロマンが広がります。<br />いつの日か、このミステリーが解き明かされることを願ってやみません。

    伊丹廃寺
    しかし、『河辺郡誌』(1912年刊)には「良蓮寺は1579(天正7)年に荒木村重が織田信長に背いた時の兵火で炎上した」との記録があります。その際、背丈1m程の本尊 阿弥陀如来立像は救出され、当寺から1.5km東にある教善寺に移されたと伝えます。更に、廃寺跡の南西側にはかつて大鹿猿ケ山城があり、織田信長の有岡城攻めの小屋野本陣がこの地との説もあります。
    一方、伊丹廃寺の発掘調査の解説によると「出土の瓦の年代から推定し鎌倉時代後期に廃寺になった」とあり、もし両者が同一寺院なら廃寺になった年代が異なることから、別の寺院だったことになります。もし鎌倉時代以降に廃寺跡に良蓮寺が建立されたとすれば、行基や藤原不比等の関与に破綻が生じます。地元史料の寄せ集めではジグソーパズルは完成しないということのようです。いずれにせよ、伊丹にも白鳳時代にこのような大伽藍が存在したと思うと歴史へのロマンが広がります。
    いつの日か、このミステリーが解き明かされることを願ってやみません。

  • 陸上自衛隊中部方面総監部(伊丹駐屯地)<br />道路を挟んで伊丹廃寺跡の対面にあります。ここの一部も伊丹廃寺の寺域でした。<br />鉄柵の先には、いかつい面構えの89式装甲戦闘車が惜しげもなく並べられています。戦車のようで戦車ではない車両であり、「戦場のタクシー」とも呼ばれ歩兵戦闘車のカテゴリーに分類される特殊車両です。<br />中部方面隊は陸上自衛隊の方面隊の一つであり、防衛大臣直轄(有事の際は陸上総隊直轄)にあり、東海(静岡県を除く)・北陸・近畿・中四国地区2府19県(全国面積の約30%)の防衛警備や災害派遣等を担います。<br />中部方面総監部は伊丹駐屯地に置かれていますが、第3師団司令部は同じく伊丹市内の千僧駐屯地にあります。

    陸上自衛隊中部方面総監部(伊丹駐屯地)
    道路を挟んで伊丹廃寺跡の対面にあります。ここの一部も伊丹廃寺の寺域でした。
    鉄柵の先には、いかつい面構えの89式装甲戦闘車が惜しげもなく並べられています。戦車のようで戦車ではない車両であり、「戦場のタクシー」とも呼ばれ歩兵戦闘車のカテゴリーに分類される特殊車両です。
    中部方面隊は陸上自衛隊の方面隊の一つであり、防衛大臣直轄(有事の際は陸上総隊直轄)にあり、東海(静岡県を除く)・北陸・近畿・中四国地区2府19県(全国面積の約30%)の防衛警備や災害派遣等を担います。
    中部方面総監部は伊丹駐屯地に置かれていますが、第3師団司令部は同じく伊丹市内の千僧駐屯地にあります。

  • 伊丹市バス 「瑞ヶ池」バス停前<br />歩を進め、瑞ヶ池公園までやってきました。<br />公園を散策する前に少し寄り道をします。<br />道路沿いにある早咲きの桜が満開でした。<br />

    伊丹市バス 「瑞ヶ池」バス停前
    歩を進め、瑞ヶ池公園までやってきました。
    公園を散策する前に少し寄り道をします。
    道路沿いにある早咲きの桜が満開でした。

  • 伊丹市バス 「瑞ヶ池」バス停前<br />瑞ヶ池公園の東端から少しだけ北側にあるバス停まで歩を進めたのは、上島鬼貫の句碑を拝むためです。<br />句碑はバス停の道路を挟んだ正面にポツンと佇みます。<br />道路から少しだけ入り込んだ小スペースにあります。<br />

    伊丹市バス 「瑞ヶ池」バス停前
    瑞ヶ池公園の東端から少しだけ北側にあるバス停まで歩を進めたのは、上島鬼貫の句碑を拝むためです。
    句碑はバス停の道路を挟んだ正面にポツンと佇みます。
    道路から少しだけ入り込んだ小スペースにあります。

  • 上島鬼貫の句碑<br />「咲くからに 見るからに 花の散るからに」<br />(桜というものは、咲いても、観ていても、更には散る最中にも心が騒ぐものだ。)<br />余計なものを省いてシンプルに情景だけを詠み、読み手に想像させる余韻を持たせています。<br />これぞ鬼貫の真骨頂です!<br />周囲にある早咲き桜や枝垂桜はこの句に合わせて植えられたのでしょう。

    上島鬼貫の句碑
    「咲くからに 見るからに 花の散るからに」
    (桜というものは、咲いても、観ていても、更には散る最中にも心が騒ぐものだ。)
    余計なものを省いてシンプルに情景だけを詠み、読み手に想像させる余韻を持たせています。
    これぞ鬼貫の真骨頂です!
    周囲にある早咲き桜や枝垂桜はこの句に合わせて植えられたのでしょう。

  • 上島鬼貫の句碑<br />チェコに産まれ、欧州を渡り歩いた放浪の詩人 リルケの晩年が鬼貫の俳句と深く関わっていたのを星野 慎一 、小磯 仁 (共著)『リルケ』で知りました。<br />日本の俳句に素早く反応したのはフランス詩人たちでしたが、第一次世界大戦直後、『新フランス評論』に「ハイカイ」の翻訳が十数ページに亘り掲載され、82句が紹介されて三行詩が広く知られるようになりました。リルケはそれを読んで深い感銘を受け、日本滞在歴のあるグデイー・ネルケ夫人宛の手紙に「あなたは短い日本の三行の詩形をご存じです か?」とその感動を綴りました。そして自らも三行短詩を試みるなど多大な影響を受けました。そしてその感動の源流となった原句が『仏兄七久留万』に収められたこの鬼貫の一句でした。<br />リルケはチェンバレンの英訳を通して原詩の深さを直感的に捉えました。この句は現代の作品と言っても通用するモダンさ、リズム感、そして句が持つ空間と時間の無限の広がりに惹き込まれます。そしてリルケは、鬼貫の句に触れたことがきっかけで、自然界の小さな存在が人間と同じ次元の世界に同格で存在するという西欧の自然観と芸術観に辿り着いたと言います。

    上島鬼貫の句碑
    チェコに産まれ、欧州を渡り歩いた放浪の詩人 リルケの晩年が鬼貫の俳句と深く関わっていたのを星野 慎一 、小磯 仁 (共著)『リルケ』で知りました。
    日本の俳句に素早く反応したのはフランス詩人たちでしたが、第一次世界大戦直後、『新フランス評論』に「ハイカイ」の翻訳が十数ページに亘り掲載され、82句が紹介されて三行詩が広く知られるようになりました。リルケはそれを読んで深い感銘を受け、日本滞在歴のあるグデイー・ネルケ夫人宛の手紙に「あなたは短い日本の三行の詩形をご存じです か?」とその感動を綴りました。そして自らも三行短詩を試みるなど多大な影響を受けました。そしてその感動の源流となった原句が『仏兄七久留万』に収められたこの鬼貫の一句でした。
    リルケはチェンバレンの英訳を通して原詩の深さを直感的に捉えました。この句は現代の作品と言っても通用するモダンさ、リズム感、そして句が持つ空間と時間の無限の広がりに惹き込まれます。そしてリルケは、鬼貫の句に触れたことがきっかけで、自然界の小さな存在が人間と同じ次元の世界に同格で存在するという西欧の自然観と芸術観に辿り着いたと言います。

  • 瑞ヶ池(ずがいけ)公園<br />池の背後に横たわるのは六甲山系です。伊丹段丘は東を猪名川、西を武庫川に区切られ、台地の中央部を昆陽池陥没帯が斜行しています。その窪地には昆陽池をはじめ瑞ヶ池など多くの溜池が造られ、古代山陽道や西国街道が通されていました。<br />瑞ヶ池は古くから摂津国の小池として親しまれた農耕恵みの溜池でしたが、風光明媚な水の公園として1970(昭和45)年に開園しました。現在でも伊丹市民の水源として活用されています。<br />『正保二年摂津国絵図』には「すいが池」、また『大鹿村西部絵図』には「大鹿ズイガ池」と記されています。その「ずい」に瑞の字を当て、「ずい」の「い」を略して「ずがいけ」としたものと思われます。<br />瑞ヶ池から流下する水を引き豊臣時代末期の文禄(1592~95年)の頃、片桐且元の検分を受けて築造されたとされます。瑞ヶ池は文禄以前、すなわち約4百年以前からあったことは明白ですが、それ以前の記録については古文書に残っていないそうです。

    瑞ヶ池(ずがいけ)公園
    池の背後に横たわるのは六甲山系です。伊丹段丘は東を猪名川、西を武庫川に区切られ、台地の中央部を昆陽池陥没帯が斜行しています。その窪地には昆陽池をはじめ瑞ヶ池など多くの溜池が造られ、古代山陽道や西国街道が通されていました。
    瑞ヶ池は古くから摂津国の小池として親しまれた農耕恵みの溜池でしたが、風光明媚な水の公園として1970(昭和45)年に開園しました。現在でも伊丹市民の水源として活用されています。
    『正保二年摂津国絵図』には「すいが池」、また『大鹿村西部絵図』には「大鹿ズイガ池」と記されています。その「ずい」に瑞の字を当て、「ずい」の「い」を略して「ずがいけ」としたものと思われます。
    瑞ヶ池から流下する水を引き豊臣時代末期の文禄(1592~95年)の頃、片桐且元の検分を受けて築造されたとされます。瑞ヶ池は文禄以前、すなわち約4百年以前からあったことは明白ですが、それ以前の記録については古文書に残っていないそうです。

  • 瑞ヶ池公園<br />溜池の型式は前刃金式土堰堤、堤高は5.9m、堤長は1115m、水面積は5.8ha、貯水量は66万立方mの規模です。<br />形状は四角形に近い形をしています。<br />

    瑞ヶ池公園
    溜池の型式は前刃金式土堰堤、堤高は5.9m、堤長は1115m、水面積は5.8ha、貯水量は66万立方mの規模です。
    形状は四角形に近い形をしています。

  • 瑞ヶ池公園<br />大阪国際空港(伊丹空港)に近いため、次々に飛行機が飛び立っていきます。<br />瑞ケ池公園の広さは19.3haあり、池の周囲は1.6kmのトリムランニングコースになっています。池の周囲は桜の名所で、「里帰り桜」があります。米国ポトマック河畔の桜が伊丹産であることから、2003年に日米友好の桜寄贈90年を記念してワシントンの桜の「里帰り桜」とその「子孫樹」が植樹され、2012年には寄贈100周年記念の「里帰り桜」が植樹されています。また、南側には四季折々の花が咲く花壇や幼児向けの遊具などもあり、北西側には関西最大規模という全17基の健康遊具を設えた広場あります。

    瑞ヶ池公園
    大阪国際空港(伊丹空港)に近いため、次々に飛行機が飛び立っていきます。
    瑞ケ池公園の広さは19.3haあり、池の周囲は1.6kmのトリムランニングコースになっています。池の周囲は桜の名所で、「里帰り桜」があります。米国ポトマック河畔の桜が伊丹産であることから、2003年に日米友好の桜寄贈90年を記念してワシントンの桜の「里帰り桜」とその「子孫樹」が植樹され、2012年には寄贈100周年記念の「里帰り桜」が植樹されています。また、南側には四季折々の花が咲く花壇や幼児向けの遊具などもあり、北西側には関西最大規模という全17基の健康遊具を設えた広場あります。

  • 瑞ヶ池公園<br />「海の写真が誤って紛れ込んだのか?」と思われた方も多いかもしれませんが、これも瑞ヶ池です。<br />瑞ヶ池には「貸しボート」の類はありませんが「ヨットの試乗」ができます。B&G伊丹海洋クラブが主催する企画で、5.5mセーリングカッターヨットに20分ほど試乗できます。海ではヨットを愉しむのが困難な高齢者や子どもたち、そして障害を持つ方々も参加しています。<br />セーリングカッターは誰でも乗れるように改造してあり、安心安全です。例えば、厚めの板を舟の後部に嵌め込むことで車椅子のままで乗船を可能にしたり、直接船底に座る場合もバランスを取り易く工夫してあります。また、舵を動かすエクステンションティラーの長さを短くし、乗船者に当らないよう配慮しています。<br /><br />この続きは早春賦 北摂伊丹④昆陽池公園(エピローグ)でお届けします。

    瑞ヶ池公園
    「海の写真が誤って紛れ込んだのか?」と思われた方も多いかもしれませんが、これも瑞ヶ池です。
    瑞ヶ池には「貸しボート」の類はありませんが「ヨットの試乗」ができます。B&G伊丹海洋クラブが主催する企画で、5.5mセーリングカッターヨットに20分ほど試乗できます。海ではヨットを愉しむのが困難な高齢者や子どもたち、そして障害を持つ方々も参加しています。
    セーリングカッターは誰でも乗れるように改造してあり、安心安全です。例えば、厚めの板を舟の後部に嵌め込むことで車椅子のままで乗船を可能にしたり、直接船底に座る場合もバランスを取り易く工夫してあります。また、舵を動かすエクステンションティラーの長さを短くし、乗船者に当らないよう配慮しています。

    この続きは早春賦 北摂伊丹④昆陽池公園(エピローグ)でお届けします。

  • おまけ1<br />とある民家の梅とミモザ(フサアカシア)です。<br />

    おまけ1
    とある民家の梅とミモザ(フサアカシア)です。

  • おまけ2<br />梅の花のズームアップです。<br />

    おまけ2
    梅の花のズームアップです。

  • おまけ3(フサアカシア)<br />マメ科ネムノキ亜科アカシア属の総称で、フランスでは「ミモザ」の名で親しまれています。2~3月の花期には木全体が黄色く染まるほど、黄色い小さな花が集まった球形の花を多数咲かせ、芳香を漂わせます。<br />花言葉は「優雅」「友情」。<br />色別では、黄色のミモザの花言葉は「秘密の恋」、オレンジ色は「エレガント」。

    おまけ3(フサアカシア)
    マメ科ネムノキ亜科アカシア属の総称で、フランスでは「ミモザ」の名で親しまれています。2~3月の花期には木全体が黄色く染まるほど、黄色い小さな花が集まった球形の花を多数咲かせ、芳香を漂わせます。
    花言葉は「優雅」「友情」。
    色別では、黄色のミモザの花言葉は「秘密の恋」、オレンジ色は「エレガント」。

  • おまけ4<br />春を連れてきたようなキュートで明るい黄色の花は見ているだけで元気を貰えます。<br />イタリアでは日頃の感謝の気持ちを込め、身近な女性にミモザをプレゼントする風習があるそうです。

    おまけ4
    春を連れてきたようなキュートで明るい黄色の花は見ているだけで元気を貰えます。
    イタリアでは日頃の感謝の気持ちを込め、身近な女性にミモザをプレゼントする風習があるそうです。

  • おまけ5<br />とあるマンションの河津桜です。

    おまけ5
    とあるマンションの河津桜です。

  • おまけ6

    おまけ6

  • おまけ7

    おまけ7

  • おまけ8<br />

    おまけ8

  • おまけ9<br />2022年4月2日に所要があり瑞ヶ池の近くまで来ましたので、少しだけ立ち寄ってみました。<br />季節の移り変わりは早く、池の周囲に600本あると言われる桜が満開でした。

    おまけ9
    2022年4月2日に所要があり瑞ヶ池の近くまで来ましたので、少しだけ立ち寄ってみました。
    季節の移り変わりは早く、池の周囲に600本あると言われる桜が満開でした。

  • おまけ10<br />瑞ヶ池の西側の桜のトンネル。<br />レジャーシートを広げて寛がれているファミリーが沢山おられました。<br />

    おまけ10
    瑞ヶ池の西側の桜のトンネル。
    レジャーシートを広げて寛がれているファミリーが沢山おられました。

  • おまけ11<br />2003年に「日米友好の桜」寄贈90年を記念してワシントンからの里帰り桜として植樹されたものです。

    おまけ11
    2003年に「日米友好の桜」寄贈90年を記念してワシントンからの里帰り桜として植樹されたものです。

  • おまけ12<br />逆輸入の「里帰り桜」ですが、普通のソメイヨシノとの違いは外観では判りません。

    おまけ12
    逆輸入の「里帰り桜」ですが、普通のソメイヨシノとの違いは外観では判りません。

  • おまけ13<br />風光明媚な水の公園として昭和45年5月に完成。<br />その時に建てられた「完成記念碑」の母子像です。<br />

    おまけ13
    風光明媚な水の公園として昭和45年5月に完成。
    その時に建てられた「完成記念碑」の母子像です。

  • おまけ14<br />ソメイヨシノと松、ユキヤナギの揃い踏みです。

    おまけ14
    ソメイヨシノと松、ユキヤナギの揃い踏みです。

  • おまけ15<br />瑞ヶ池東側の桜のトンネルです。

    おまけ15
    瑞ヶ池東側の桜のトンネルです。

  • おまけ16<br />桜のトンネル。

    おまけ16
    桜のトンネル。

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