2022/03/17 - 2022/03/17
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montsaintmichelさん
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「鴻臚館(こうろかん)」は緑ヶ丘公園内に佇む伊丹市の公館です。
その名は古代日本の外交施設(迎賓館)の名称から取られました。これぞ日本建築の伝統技術の粋を集めた家屋だなと頷ける和の結晶です。日本建築の伝統・技術の保存ならびに継承を目的に「300年持つ家を!」の掛け声の下、昭和59(1985)年に技能功労賞を受賞された市内の大工や左官、建具師ら「現代の名工たち」の治術を結集して鳴り物入りで建てられた施設です。
伊丹市公館として市民文化の高揚や国際交流などに使われ、外観は古風な書院を彷彿とさせますが、館内には別世界が広がっています。
一般公開:1月4日~12月28日の毎週火・木・土・日曜(ただし6月1日~8月31日は土・日曜のみ)、午前10時~正午と午後1時~午後3時(無料)
- 旅行の満足度
- 5.0
-
開門は午前10時です。
それまでは門はこのように固く閉ざされています。
扉の中央で金色に燦然と輝くエンブレムも渋いデザインです。 -
「さくらの丘」から眺めると入母屋造の数寄屋風建物であることがよく判ります。
伊丹市公館「鴻臚館」に関しての資料は市役所のHPや当日頂いたリーフレットなどに限られています。少しでも詳しくレポしたいとの思いもあり、これまで得た知見を駆使してとりかかろうと思います。 -
下池の対岸からはこのように眺められます。
鬱蒼とした樹木に囲まれていますが、北庭園側だけはこのように眺望が利くように開かれています。 -
10時になり開門! いざ出陣!!
通常、地名にはそれなりの由来があるのですが、「伊丹」については不明のようです。古くから「太古の昔、河岸段丘の下に波穏やかな『絲海(いとうみ)』が広がっていた。この絲海が転訛して『いたみ』になった」と伝わります。因みに、「絲」の意味は 天然、または人造の繊維を細長く引きのばしてよりをかけたもののこと。つまり、「絲海」は波穏やかな海原といったところでしょうか?
文献上の「いたみ」の初見は治承4(1180)年の権中納言中山忠親の日記『山槐記』です。「伊多美武者所」との記述があり、前後の文脈から「伊多美=いたみ」と比定されています。また、中世には「板見」との記述も見られます。「伊丹」というのは当て字なのかもしれません。
「伊丹」の文字の初見は嘉元元(1303)年の川西 多田神社文書『出雲国守等田地寄進状』に「摂津国 伊丹村」との記述があります。 -
俗に「あられこぼし」と呼ばれる天然石を組み合わせた「草の延段」が玄関先までナビゲートしてくれます。
入母屋造の数寄屋風建物であり、敷地面積2000平方m、延床面積175平方あります。瓦と銅板葺を折衷した木造平屋建には書院や茶室が設けられています。建屋の前方には面積800平方mある石組庭園が造営されており、広間から眺めると下池や周囲の樹林帯が借景となり見事に調和しています。
付属施設は本館の他、寝所棟(ゲストハウス)、管理棟、待合で構成されています。 -
設計者は伊丹市在住の日本建築界の巨匠 澤良雄氏です。澤氏は東京大学建築学部卒の1級建築士であり、国内の茶室や能舞台を殆ど巡るなど日本家屋に精通され、古民家のリノベーションをはじめ博物館、歴史館などを手掛けられた業界の巨匠です。堂々たる自然木を生かした館内の設えは圧巻です!
残念ながら10年前に他界されましたが、氏の代表作品として後世に受け継がれていくことでしょう。 -
玄関
見上げると玄関の庇の天井は網代(あじろ)天井です。木や草や竹などの植物を薄く加工したものを材料として平面状に編み、それを天井材としたものです。こちらは材料に杉を用い、それを「矢羽根」という模様に編み込んだ「杉柾矢羽根網代天井」です。
そして、玄関取次の間の先にあるのが、間口いっぱいに違い棚を設けた「霞床」です。棚の後ろ壁に富士山の絵画を掛け、棚の形を富士山にたなびく霞に見立てています。霞床については、京都 修学院離宮の茶室の床が著名です。 -
玄関
扁額『鴻臚館』には伊丹市長 矢埜與一と書かれており、建立当時の市長の揮毫のようです。 -
玄関
深い庇を支えるのは白竹と細い丸太を交互に配した風変わりな垂木です。
また、欄間は白竹を連子状に櫛の歯のように並べた筬(おさ)欄間です。
この欄間の意匠は館内にも展開されています。 -
広間
左手には、8畳の次の間とその奥に3畳の控えの間、12畳台目の広間とその奥に「梅里庵(ばいりあん)」と命名された茶室が配されています。
左端にある離れは寝所棟(ゲストハウス)です。 -
立札(りゅうれい)
玄関の右手に張り出しているのが立札(椅子式茶室)です。
壁の高いところに設けられた下地窓を見て、茶室だと気付かれた方も多いのでは! -
立札
通常の「畳に正座するスタイル」ではなく、主客ともに「椅子に腰掛けるスタイル」で茶を点てて喫する茶式を立礼式といいます。
裏千家11世 精中宗室 玄々斎が1872(明治5)年のウィーン万国博覧会にてにて来場の外国人をもてなすために考案した茶式です。日本政府が初めて公式参加し、日本館が建設されました。新しい世の中の動きに即応し、裏千家の基礎を盤石なものにしました。
玄々斎は、3つの特徴を持った好み物を持ったと言われています。1つが利休の侘び寂びを反映した作品、2つ目は絢爛とした華やかな作風の作品、3つ目は歴代茶匠の好みを取り上げて精中宗室流に手を加えた再好みの3種類です。格式に捉われることなく面白きことを愉しく執り行うのは茶道の精神そのものでした。
玄々斎は太平の江戸時代から近代の明治時代に遷移する激動の時代を生き抜き、異端児とか革命児とも呼ばれ、この時代に相応しい茶匠だと評されました。 -
立札
茶室の定石通り、手狭ながら掛け軸の掛けられた床も設けられています。
壁に沿ってベンチ風の椅子が設けられ、その前に卓が置かれています。
天井にも注目です!細い竹と太い竹を組み合わせた、煤竹天井という凝った意匠です。茅葺屋根などに使われ、囲炉裏の煙に燻されて長い年月の間に自然と渋い色合いになった竹素材です。囲炉裏の住宅が希少な中、貴重な竹素材の煤竹を惜しみなくびっしりと並べた贅沢三昧な天井です。所々、竹の色目が濃い所と薄い所がありますが、これは縄目や柱などの具合で偶然に自然が作り出した意匠です。
また、むき出しの湾曲した梁も力強く斬新です。 -
立札
茶事や茶会の主催する亭主が使う椅子と立札卓です。
卓には炉もついており、椅子に座って抹茶を点てます。 -
トイレの手前には「吾唯知足(われただたるをしる)」と刻んだ蹲踞があります。
簡単に言えば「必要なものは、もうすべて足りている」との清貧思想的な意味であり、元々は「足ることを知る人は、心は穏やかであり、足ることを知らない人は、心はいつも乱れている」と釈迦が説いた教えだそうです。
京都 龍安寺にこの文字が刻まれた蹲踞があり、そこから広がった言葉と意匠だとされますが、その中身には深いものがあります。
スティーブ・ジョブスも傾倒した禅の教えによると、品格を身に着ける上で障害になるのが、貪欲、愚痴、瞋恚(しんい:怒りの感情)の3つであり、中でも自制が難しいのが貪欲で、これに振り回されている境涯から脱するための心構えが「知足」とされます。
もう少しかみ砕いた例を紹介します。千利休は武士階級の贅沢な嗜みだった茶の湯に「詫び寂び」の美しさを加え、その詫び茶の本意は「足ることを知る」にあると唱えました。利休は「家は漏らぬほど、食は餓えぬほどにて足る」とも教え、その教えを受け継いだ大名茶人 7代松江藩主 松平不昧は、「茶の本意は知足を本意ととす。茶道とは分々に足ることを知るという方便なり。足ることを知れば、茶を点てて不足こそ楽しみとなれ」と茶によって知足を行じて智慧を身につけよと言っています。 -
玄関
天井は杉柾矢羽根網代天井と竿縁天井の組み合わせになっています。
左手には広間に続く縁側が伸びています。
間接照明のランプシェードのデザインもシックです。 -
次の間
次の間から12畳台目の広間を見通します。
次の間と広間の間の欄間の意匠は竹を連子にした錆竹渕付欄間です。
庭側の欄間は障子欄間とし、明り取りを兼ねています。
落ちついた雰囲気と和風情緒が満載です。 -
縁側
縁側の天井も煤竹天井です。
縁側の床の一端は一枚物の板床です。もう一端には畳を並べています。 -
12畳台目の広間
広間から眺める庭園は下池やそこにたゆたう中国風庭園建造物「賞月亭」を借景としており、一幅の絵画を思わせます。
縁側から出っ張った竹床部は月見台です。ここからは賞月亭と下池が望めますが、下池に映り込んだ月を愛でるには少し遠すぎるような気もしますが…。 -
12畳台目の広間
棚には壺などが置かれています。
特に説明がないためどのようなものかは不祥です。
因みに、「鴻臚館」の調度品や茶道具を製作されたのは螺鈿細工の大御所 小島雄四郎氏です。京都にて人間国宝 黒田辰秋氏の下で木漆工芸、螺鈿工芸を学び、黒田氏と共に黒澤明の御殿場山荘の家具製作、皇居新宮殿の製作を手掛けられました。その後、1970年に伊丹市にて独立されました。
鴻臚館の建屋は日本の伝統技術の粋を集めたものと知っていましたが、調度品についても超一流だったとは…。
残念なことに小島氏は2020年にご逝去され、「鴻臚館」の作品は貴重な遺作となってしまいました。 -
12畳台目の広間
斬新なアーチ状をした通路口です。
この通路の左隣が茶室「梅里庵」になります。 -
12畳台目の広間
広間の奥には一段高くした上段書院が設けられています。
上段書院の正面には、奥行1尺6寸の押板床を配して掛け軸と香炉と思しきものを置いています。
また、上段書院の北側(庭側)には張り出しを設け、その一隅に付書院、反対側には円窓を配して詫び寂びの世界観を見事に演出しています。 -
上段書院
天井は格天井です。角材の格縁を井桁状に組み、その上に板を張った天井です。
格天井は寺院建築や書院造など格式の高い部屋に用いられます。
更には、天井板の木目を違えて市松模様にした張違天井でもあります。 -
上段書院
押板床にある掛け軸は季節により掛け替えられるそうです。
文字の背後にはうっすらと「三つ葉葵の御紋」が浮かんでおり、吃驚です!
ほとんどの文字は解読できませんが、味わいのある字です。 -
上段書院
香炉と思しきものです。
「鴻臚館」とは、平安時代に設置された外国の使節を接待した施設であり、京都(七条朱雀の東西)、難波、大宰府(福岡城址)に設けられました。また、その前身として推古朝の難波館(なにわのむろつみ)や持統朝の筑紫館が存在しました。
その名称は北斉からあった九寺のうちの外交施設「鴻臚寺」に由来し、唐の時代にその名称が日本に導入されたようです。「鴻」は和語では「おおとり」と読み、コウノトリや鶴などの大きな鳥の総称から転じて大きいの意、「臚」は腹の意から転じて伝え告げるの意。つまり「鴻臚」は外交使節の来訪を告げる声を意味しています。それ故、「鴻臚館」は旅をしてきた白鳥が翼を休める館という意味と捉えられ、お客様を歓迎するという気持ちが込められています。 -
上段書院
上段の右奥には天袋付きの3段の違い棚(西楼棚)を設けています。
難波の鴻臚館は難波津(渡辺津)に建立された坐摩神社(いかすりじんじゃ:大阪市中央区にあり摂津国一宮とも称されます)の旧社地に建立され、現在の大阪府大阪市の中央区と北区に架かる天満橋から天神橋の間、あるいは中央区高麗橋近辺、または中央区心斎橋筋の三津寺付近にあったと考えられています。
古墳時代から畿内の港として往来のあった難波津には外交施設として難波館があり、『日本書紀』には継体6(512)年に百済武寧王の使者が調を貢献すると共に任那四県の割譲を求めて館に留まったと記されています。これが外国使節を宿泊させる客館の初見とされます。 -
上段書院
天袋の引き戸です。
『日本書紀』によると欽明22(561)年には難波大郡(おおごおり)にて百済と新羅の使者を接待しています。その後、推古16(608)年に隋煬帝の使者裴世清が来訪するに当り、まず筑紫に滞在させ、その間に「高麗館(こまのむろつみ)の上に新館を造る」ことで歓迎の準備を整えたようです。斉明6(660)年には高句麗使の賀取文が難波館に到着しています。 -
広間
上段書院の天袋と同じ意匠の襖の引手です。
緑ヶ丘公園を代表する松を象っているのでしょうか?
その後、延暦24(805)年には摂津国府が「江頭」に、天長2(825)年には豊島郡に移されました。更に河辺郡の「為奈野〔いなの〕」に移転が予定されましたが、承和6(839)年に最後の遣唐使が帰国したこともあり、承和11(844)年に摂津国が民衆の疲弊を理由として難波の鴻臚館を国府の政庁に転用することを言上し、鴻臚館が廃止されたとの記録が残されています。(『続日本後紀』) -
上段書院 違い棚
「鴻臚丸」というものがあったか否かは不祥ですが、鴻臚館の時代から察すれば遣唐使船と思われます。
当方の知見では、遣唐使船は一隻につき100人ほど乗船し、全長30m、「2本の帆柱」とされますが、帆柱の数の定義からははみ出しています。 -
上段書院 違い棚
台座に「徳島県勝浦川石」と書かれていたので調べてみました。
徳島県勝浦郡の勝浦川で採石される石で有名なのは梅林石です。文字通り、白梅の枝と花を描いたような紋様が見られる石です。石質は母岩が輝緑凝灰岩、花の部分が方解石・石英などの鉱物の結晶が点状に存在したものだそうです。
左半部は全体的に白くこの定義には嵌りませんが、右側の一部は梅の枝に見えないこともありません。方解石が異常に発達したのかもしれません。 -
上段書院
月見台から上段書院の北の間を眺めます。 -
上段書院
付書院側から円窓を眺めます。 -
上段書院
地袋のある所が付書院です。
欄間と障子のデザインも和モダンで粋です! -
上段書院
付書院の正面には円窓が配され、柔らいだ表情をこの素朴な空間に注いでいます。
この円窓は、仄暗い空間への採光の役割も果たすだけでなく、書院の表情のアクセントにもなっています。 -
上段書院
畳のへりの模様は伊丹市の市章となっています。ところでこの市章、見覚えはありませんか?そうです、近衛家の家紋のひとつである合印紋です。江戸時代の寛文元年~明治維新まで、伊丹市の前身の伊丹町のほぼ全域を領有していたのが近衛家(京都の公家で五摂家筆頭)だったという縁からです。昭和15(1940)年、伊丹市が市制を敷くに当り、近衛家の許可を得て市章に制定したそうです。 -
上段書院
地袋の引き戸の引手の意匠は鳥のようです。
伊丹市には緑ヶ丘公園の他、昆陽池などがあり、渡り鳥の宝庫として有名です。 -
次の間
ここの襖の引手の意匠も鳥をモチーフにしているようです。
引手ひとつにも携わった建具職人の矜持と遊び心が込められています。 -
北庭園から広間を眺めます。
-
手前の角部が上段書院の北の間になります。
月見台の突き出しも半端ではありません。 -
北庭園
大型の黒っぽい石は鞍馬石でしょうか?
黒と白、そして緑色のコントラストが何とも言えない雰囲気を醸してます。 -
北庭園
太鼓橋を架け、枯山水庭園を彷彿とさせます。
笠の広い石燈籠は雪見燈籠のようでもあります。 -
北庭園
アセビ(馬酔木)の花が満開です。
左側はピンク色の花を付ける園芸品種「アケボノアセビ(ベニバナアセビ)」です。 -
北庭園
アセビはツツジ科アセビ属に属する常緑性の低木です。
漢字の「馬酔木」は、「馬」が葉を食べると毒に当たり、「酔」うが如くにふらつくようになる「木」というのが由来とされます。
山形県以西の本州、四国、九州の山地で見られ、山の枕詞である「あしびきの」がアセビ(あしび)と結びつけられて論じられています。
花言葉は「犠牲」「献身」「あなたと二人で旅をしましょう」。
アセビの英名は「Japanese Andromeda(ジャパニーズ・アンドロメダ)」です。アンドロメダとは、ギリシア神話に登場するエチオピアの王女。神々の怒りをかって岩に磔られていたところを英雄ペルセウスに救われた人物です。このペルセウスとアンドロメダのエピソードから「犠牲」「献身」という花言葉が付けられたそうです。 -
北庭園
こうした散策路も設けられています。 -
北庭園 十三重石塔
「石造りで十三層構造の層塔」の総称が「十三重石塔」です。
層塔とは仏塔として造られたもので、同じ階(屋根・笠)を何層にも重ねて屋根の上に相輪を立てています。層数は奇数が原則で、木造では三重塔・五重塔がほとんどですが、石造では三・五・七・九・十三重塔と各種あります。
軸部には4面に僧と思しき坐像が彫られています。 -
寝所棟(ゲストハウス)
鴻臚館の左手奥に佇み、ゲストが寝泊まりするための離れ座敷です。
こちらも入母屋造、銅板葺屋根でまとめられています。 -
寝所棟
こちらが玄関になります。
玄関口に蹲踞が置かれているのはこの先に茶室「梅里庵」とその待合があるからです。
飛び石がナビゲートしてくれます。 -
寝所棟
玄関を入るとすぐにリビングルームがあり、アンティークな椅子が2脚置かれています。
窓の障子の紋様はシンプルな和柄の原型である菱組子です。菱紋様は池や沼でとれる一年草のヒシの実もしくはヒシの葉を図案化したものとされます。 -
寝所棟
リビングルームの右隣に寝室があり、シングルベッドが2台置かれています。 -
寝所棟
待合側から眺めます。 -
茶室「梅里庵」
「躙口(にじりぐち)」は区別差別なく武士といえども帯刀を許さず、丸腰で頭を下げて茶室に出入りするための狭き門です。
その手前には躙口石も置かれています。
ここでは年に2回有料にてお茶会接待を受けることができます。 -
水琴窟
梅里庵の前にある蹲踞は水琴窟となっており、静けさをより高める役割を果たしています。茶室と水琴窟がセットになっているのは新しい発想と思われます。
水琴窟は日本庭園の装飾の一つで水滴により琴のような音を発生する仕掛けです。構造としては底に小さな穴の開いた瓶が逆さに伏せた状態で土中に埋められており、底は水が溜まるように粘土などで固められています。上方には一般的に蹲踞が置かれ、そこから流れ落ちる水が瓶の穴を通して滴り落ちるようになっています。その時の音が瓶の中で反響し琴の音のような複雑な音を奏でます。お点前を味わう一方、聴覚で詫び寂びの世界観を感じることができます。 -
茶室「梅里庵」
鴻臚館の東南の隅に設けられた四畳半の茶室です。北庭園に開かれた広間とは対照的に狭く閉じられた空間です。壁は俗に「錆壁」や「蛍壁」と呼ばれる「本聚楽土」による仕上げです。これは壁土に醤油に漬けておいた鉄粉を混ぜて意図的に赤錆により斑紋を生じさせたものであり、仄暗い雰囲気を演出し、古風な雅趣を添えています。また、右側の腰壁はグレーがかった群青色をしており、利休の目指した侘びとは異質の鉄壁との対比に息を呑みます。
左奥にある台目畳が手前座(亭主が座る位置)であり、炉もここに設けられています。天井は杉柾矢羽根網代天井に紫竹を渡しています。 -
茶室「梅里庵」
躙口の正面には台目床(通常より幅がやや狭い床)を設けています。掛け軸は「雪月花(せつげつか)」とあり、七事式の最初が花月之式であり、裏千家の玄々斎が七事式の追加として考案したものが雪月花之式です。「春に百花あり、秋に月あり 夏に涼風あり、冬に雪あり。もし閑事の心頭に掛かること無くんば、すなわちこれ人間の好季節」という禅門で有名な『無門関』にある偈(詩)に因み、茶の湯で雪・月・花の札を引き、雪に当たった人が菓子を食べ、月の人が茶を飲み、花の人が点前を行います。因みに、偈をかみ砕くと「つまらぬことにあれこれ思い煩うことがなければ、春夏秋冬、いつでも人間にとって好時節である」となります。
通常、茶室の床柱には布袋竹(ほていちく)が使われますが、ここは亀甲竹を用いてインパクトを狙っています。亀甲竹は、孟宗竹の仲間ですが、地上部が亀甲に似ており、品格の漂う奇妙な竹です。
大きく開けられた下地窓からの採光も趣深いものがあります。 -
鴻臚館の西側面です。
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立札を眺めます。
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ハクモクレン(白木蓮)
モクレン科モクレン属に属する落葉高木で、空に向かって美しい白い花を咲かせる春の花です。「木蓮」は花が蓮に似ていることが由来です。蓮に似た花を咲かせるモクレンは「天国に咲く蓮の花」と呼ばれ、中国では寺院や宮殿などに植える風習があります。
見た目が似ているハクモクレンとコブシの見分け方で一番簡単な方法は、花弁の枚数です。コブシは6枚に対しハクモクレンは9枚です。開花時期は、ハクモクレンの方が若干開花が早く3月上旬~中旬、コブシはソメイヨシノと同じくらいの3月下旬~4月にかけてが花期です。
花言葉は「気高さ」「高潔な心」「荘厳」「崇敬」「崇高」「慈悲」「自然への愛」「自然な愛情」。自然を満喫しているように見える姿から「自然への愛」「自然な愛情」「荘厳」という花言葉が、また真っ白な花の美しさから「気高さ」「高潔な心」という花言葉が付けられました。モクレンの花が蓮に似ていること、また蓮が仏教と深い繋がりがあること、これらがモクレンと仏教を結び付け、「崇敬」「慈悲」という花言葉が付けられました。 -
もう一度北庭園を振り返り、これが見納めです。
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鴻臚館は矢埜與一市長時代に約9000万円かけて建設され、市の公館として賓客や留学生をもてなしたそうです。
来館者は2012年度のピーク値 年間8500人を境に減少傾向にあり、2019年度は4000人を切っています。管理費は年間550万円程度と決算報告書にも記載されています。今後この文化遺産をどのように有効利用していくのかが問われます。
この続きは早春賦 北摂伊丹③臂岡天満宮・伊丹寺跡・昆陽池(エピローグ)でお届けします。
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