2021/11/27 - 2021/11/28
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nichiさん
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引き続き蔵の街須坂をプラプラしています。
旧小田桐住宅で元武士であった小田切家について、そして須坂のスーパースター小田切辰之助について学び、鬼才の女優であった松井須磨子のハチャメチャな人生を知ることができました。
旧越家住宅では、もう一人の須坂のスーパースター越寿三郎の偉業の数々を知ることができ、ボランティアのお婆ちゃんの親切で面白いお話に耳を傾けました。
須坂、知らなかっただけに面白い場所でした。
もっと有名になってもいいと思う街です。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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松葉屋蕎麦店を出て、再び須坂蔵の街を散策です。
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歴史がありそうな酒屋さん。
真澄の「あらばしり」の表記。
気持ちがそちらに行ってしまいそう。。。。
「あらばしり」とは日本酒をしぼったときに一番初めに出てくるお酒のことです。もろみの重さだけで出てくるお酒で、少ししか取れないので、希少価値があります。
真澄は信州諏訪の有名なお酒です。
その「あらばしり」が出始めたんですね。
だいたい11月中旬に「あらばしり」が発売になります。
真澄のHPを覗いてみたら、11月20日に発売開始でした。
発売になったばかりでしたね。
買いたいけど、家には既に多くのお酒があるので我慢我慢。。。。。。 -
街を歩いていると、このような蔵を見かけます。
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古い街並みが続いています。
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歴史がありそうな呉服屋さん。
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三街道分岐点の碑がありました。
谷街道(北から西へ)千曲から飯田に繋がる街道
大笹街道(南へ)ココを起点として鳥居峠を経由して上州に至る街道
山田道(東へ)ココを起点とし万座峠を経て草津に至る街道
須坂は明治初期から昭和初期にかけて製糸業で栄えた街ですが、それ以前は三街道が交差する交通の要衝として栄えていたんですね。 -
お目当ての旧小田切家住宅に到着しました。
ココはお屋敷の入り口ですが、見学者が入るのはココではないようです。 -
ココが見学者の入り口です。
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駅前の観光案内所で教えてもらった所です。
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300円×2名
靴を脱いでお邪魔します。 -
ココは須坂藩の御用達も務めた豪商の邸宅です。
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江戸時代に糀や酒造り、油、蚕糸、した豪商服などの商売で栄え、須坂の製糸発展にも貢献した豪商・小田切家の旧邸宅です。
建物は打ちこわしで壊れているので、明治期に再建されたものです。 -
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北庭です。
角には梨の木。
北東の方角が鬼門であり、梨の木はの、鬼門封じの意味があるそうです。 -
ココはお納戸。
年長者の部屋です。 -
納戸では、一番等級の高い松の釘隠しが使われています。
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押入れの戸を開けると、
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抜け道があります。
でも、こんな細い所、通れる?? -
落ち着いた雰囲気ですね。
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階段箪笥です。
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巨大なお仏壇。
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こちらは奥座敷です。
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奥座敷は冠婚葬祭に使われていたようです。
天井が高いです。 -
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2間続きだとかなり広い。(左奥が奥座敷)
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蔵に入りました。
1号土蔵との表記。
4号土蔵までありました。
中では小田切家にかかわる様々な展示。 -
小田切辰之助の説明書き
小田切辰之助は、豪商であった小田切家の長男として生まれました。
江戸末期、横浜が開港すると生糸の貿易が盛んになり、様々な所から横浜に蚕種が集まりました。
蚕種の中には粗悪品も含まれ、海外からの信用を無くします。
政府は、品質のチェックをする蚕種大総代を設け、辰之助は須坂の大総代に選ばれます。辰之助は取締・指導から、良質な蚕種の清算に尽力しました。
様式の機械製糸が導入される前、須坂に多くあった水車を利用した器械製糸を始め、日本初の製糸結社「東行社」を設立します。
また、製糸業はお金がかかるため、明治28年には高井銀行を設立しました。
高井銀行は後の八十二銀行に繋がります。
須坂の発展に尽力した方だったんですね~
先ほど見てきた「まゆぐら」での話と繋がります。 -
小田切辰之助と越寿三郎の説明書き
越寿三郎は先ほど訪れた須坂クラシック美術館でその知識を得たばかりです。
須坂の渋沢栄一と地元で言われているほどの方ですね。
2人とも、須坂の製糸業の発展を引っ張て来た偉人です。
越寿三郎は、小田切家の分家の子供で、越家の養子になっています。 -
小田切家には、上杉景勝からの書状も残っていました。
小田切家は室町末期の武将だったようです。
関ヶ原の敗戦によって会津への国替えを命ぜられた際、小田切氏は会津へは行かずに武将を辞め、須坂に移り住み、商人になったと云われています。 -
これがその手紙です。
上杉景勝は、信濃をめぐって徳川家康と争っていた時、徳川方の小笠原氏との争いで上杉方であった小田切四郎太郎が大きな功績をあげたようです。
それを褒めている手紙です。
よく残ってましたね~
小田切家の家宝ですね。 -
こちらの展示は?
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養蚕大総代覚書
小田切辰之助が選ばれた総代ですね。 -
まあなんとも綺麗な字ですね~~
小田切辰之助って達筆だったようです。 -
明治後期からの製糸業に大発展に伴い、須坂では多くの資本家が生まれ、電灯、道路、鉄道、上水道などのインフラが整備されていきました。
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須坂の製糸業の発展には、東行社と俊明社という製糸結社の存在が大きくかかわっています。
製糸結社とは、小さな製糸工場が集まってつくった共同組織でした。
太さの揃った糸を一度に大量に出荷してほしいという横浜市場の要請により、全国に先駆けて製品を共同で出荷する製糸結社がつくられたようです。
この東行社をつくったのが小田切辰之助です。 -
当時の横浜の地図です。
私たちの住む横浜の昔の地図ですね。 -
なかなか面白い展示スペースでした。
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今度はスリッパを履いて、床が陶器である通路を進みます。
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3号土蔵で松井須磨子展が開催されています。
日本の新劇女優で、日本初の歌う女優でもありました。
波乱万丈でハチャメチャな人生を歩んだ松井須磨子の企画展です。 -
館内では、松井須磨子の歌が流れています。
古いレコードなのでひどい音ですが、当時の大スターの歌声です。 -
松井須磨子の本名は、小林正子です。
小田切辰之助の姪に当たる松井須磨子は、松代藩士の家に9人兄弟の末っ子として生まれ、女優になる前にこの小田切家にいたことがあるようです。
だからここで企画展が開催されているんですね。 -
藩士の子供と言っても生活は貧しく、子供のころに養女に出されます。
養父と実負を子供のころに亡くしています。
17歳で結婚しますが、体が弱かったことからすぐに離婚。
俳優養成学校に応募するも鼻が低かったせいで不合格。
その影響で美容整形をして次は合格。
当時の美容整形の技術力は判りませんが、かなりリスクもあったと思います。
この時から意志の強さと行動力を感じます。
様々な役を経て、個性派女優として大活躍。
この後2度目の結婚をしますが、すぐに離婚。
当時不倫の関係にあった演出家島村抱月と芸術座を旗揚げし、カチューシャの劇中歌「カチューシャの歌」は2万枚の大ヒット。
1917年に発売したレコード「今度生まれたら」では、歌詞が当時の文部省により猥褻扱いされ、日本における発禁レコード第1号となっています。
整形した顔が乱れ、その後遺症で悩んでいたころ、島村抱月がスペイン風邪で死去。
松井須磨子は後追い自殺をします。
32年の短い人生でした。 -
下記は松井須磨子が演じた演劇の中で、私が読んだことがある作品です。
ハムレットのオフィーリア
恋人であるハムレットに父を殺され、花をいっぱいに抱えながら、宮廷や野原をふらふらとさ迷った後、川で溺れ死んでしまう悲劇の役。
人形の家のノラ
モラハラ夫にあたかも人形のように愛でられ、家庭に縛られている主人公のノラ役。
サロメのサロメ
切り取られた男の首にキスをするシーンが衝撃的なサロメの主演サロメ役。
トルストイ原作の復活のカチューシャ
別荘に雇われていた下女カチューシャが別荘オーナーの子供を産み、そのために娼婦に身を落として最後は殺人まで犯してしまうカチューシャ役。
マクベスのマクベス夫人
夫に王殺しをさせ、その後スコットランドの女王になり、マクベスが殺人暴君になった後、彼女は彼らの犯罪に対する罪悪感によって狂気に追いやられ、舞台裏で自殺するマクベス夫人役。
どれもこれも狂気的であったり悲劇的であったりする役ばかりです。
怖~~~ -
激しいと言うかハチャメチャな人生を歩んだ松井須磨子。
「私はただ私として、生きて行きたいと思うのです。」
という言葉が有名です。 -
当時は彼女の生き方に非難も多かったようですが、新時代の自由な女性像を示したという評価もあるようです。
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生き方は肯定できるものではありませんが、生で舞台を見てみたかったです。
興味深く拝見しました。 -
お庭の前の縁側を通って、台所に向かいます。
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今見てきた土蔵です。
1号土蔵から4号土蔵まであります。 -
厠
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お風呂
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ココが台所。
お勝手です。 -
お勝手は中庭に繋がっています。
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竈です。
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台所の天井裏には女中部屋。
どうやって上がるの? -
この梯子、勝手から女中部屋に上がるための梯子なんですね。
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びっくり~~
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庭に出てみましょう。
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土蔵の前を通ります。
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これは庭の水車小屋。
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昔は街中に多くの水路が流れ、このような水車が多くあったようです。
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表門の長屋門が見えます。
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これが離れである「向こうの家」です。
松井須磨子は女優になる前に一時期滞在していたとされています。
後に上京し女優として活躍する彼女も、ココに滞在期間中は製糸業の手伝いをしていたとも云われています。 -
非常に面白かった旧小田切家住宅です。
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外に出て旧小田切家住宅の外観を見てみました。
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次に訪れたのは旧越家住宅です。
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小田切辰之助と並び、須坂のスーパースター越寿三郎ゆかりの建物です。
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普通のお宅にお邪魔する感じです。
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ボランティアのお婆ちゃんが中を案内してくれます。
そもそもこの家は、明治45年に越寿三郎の次男が結婚した際に寿三郎が購入した家です。
明治中期の建物で、数年前に信州大学工学部建築学科の学生さんが何度も訪れて屋根裏や床下に入り、設計図を作成してくれたそうです。
建物が貴重だと判断されたようです。
座敷は3間続きで36畳です。 -
越寿三郎は地元では、須坂の渋沢栄一と言われています。
※製糸山丸組
明治40年ごろ結成されており、県外の埼玉や愛知にも工場を持ち、最盛期には8,000人の従業音がいた国内屈指の製糸企業でした。
※信濃電気
石油ランプによる工場火災を防ぎ、より明るくして作業効率を上げるため、市内に発電所を設けました。現在の中部電力の前身です。
※須坂商業
寿三郎の次男泰蔵が、実学と個人の能力を伸ばすことを目的に設立しました。
渋沢栄一も顧問になっています。
現在の須坂創成高校の前身です。
※須坂小唄
野口雨情(作詞)と中山晋平(作曲)に依頼して作った須坂の民謡です。
越寿三郎が、宴会で芸者衆が歌う小唄があまりにも下品で恥ずかしかったので、野口雨情と中山晋平を須坂に招き、街を見てもらって作ってもらったそうです。
今では、作詞:松本隆 作曲:松任谷正隆
ぐらいのインパクトだったと思います。
今でも歌われており、踊られています。
※信越窒素肥料株式会社
良質な桑の栽培にも役立つ国際化学肥料の製造のために創設しました。
現在の信越化学工業の前身です。
※上高井銀行
繭の仕入れに多額の資金が必要だったことから創立しました。
後に合併を重ね、今の八十二銀行の前身です。
地元のインフラ整備に尽力されたんですね~ -
ボランティアのお婆ちゃんのご説明によると、
渋沢栄一が越寿三郎に送った掛け軸です。
本当??
何気なく床の間に掛かっているけど。。。。 -
青渕とは渋沢栄一のことです。
これ、本物。
すんげ~~ -
製糸会社における工女は新潟出身が多く、皆で楽しく仕事をしており、作業環境も良かったようです。
年に二回開催された工女たちによるイベントの写真もありました。
工女として須坂に働きに行くことは、須坂では花嫁修業の教育もされていたため、人気があったようです。
製糸工場の工女と言うと過酷な労働条件であったと思っていましたが、ココは少し違っていたようです。 -
ボランティアのお婆ちゃんにお礼を言って旧越家住宅を失礼しようと思ったら、
「ちょっと待っててね。」
と言われしばらく待っていると渡されたのがこのプリント。
越寿三郎の名刺の説明書です。
驚くべきは名刺の裏側。
スペイン風邪が流行していたこの時期、注意点が列記されていました。
・時間を守ること
・酒は自分でついで飲むこと
・盃のやり取りはしない
・自他ともに飲食を強いない
・宴会は1時間限り
これ、コロナ禍の今と同じですね。
これまたビックリ!
ボランティアのお婆さんの話が面白かった旧越家住宅でした。 -
さあ駅に戻って駅前駐車場に停めてある車に戻りましょう。
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コモリ餅店。
お団子買いたかったけど売り切れでした。
残念。
須坂、面白かったな~
この後、車で志賀高原の熊の湯に向かいます。
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旅行記グループ 蔵の街須坂を散策してから志賀高原の熊の湯へ。
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