2021/09/28 - 2021/09/29
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Yasoさん
徳川家康が九十九里方面での鷹狩のために,佐倉藩主土井利勝に命じて造らせた,という東金御成街道を歩いてみます。
船橋~東金までの約37km,ほぼ一直線という珍しい道だそうです。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
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船橋駅から歩き始めます。
写真=船橋駅南口駅ビルの「シャポー船橋」です
「船橋駅」の表示を撮りたかったのですが「Shapo」で「え!?」となってしまいました(苦笑)。 -
一般的に東金御成街道のスタート地点と言われている,
写真=西向地蔵尊です
写真の左側が御成街道で,奥の方に歩いて行きます。
万治元年(1658年)の市内最古の石仏であるお地蔵さんがいるそうです。
ここは船橋宿の入口だったそうで,お地蔵さん達は西側を向いていて「疫病や災難が宿場内に入らないように」という意味がある様です。ガードマンみたいな役目ですね。
後,ここには仕置場(処刑場)もおかれていたとの事。「宿場の入口に処刑場」は定番らしいです。 -
さて東金御成街道歩き始めます。最初は割と都会っぽい感じです。
御成街道は「土井利勝が街道沿いにある96の村々に分担させて造成したもの」だそうです。「一夜街道」とも呼ばれ「一ヶ月足らずのたいへんな突貫工事であったといわれている」との事。
写真=「船橋駅南口入口」交差点です -
写真=稲荷屋です
創業慶応元年(1865年)の,うなぎと日本料理の老舗だそう。 -
街道の右手に中央公民館があり,その裏に回ると,写真の様な公園があります。
そしてそこに・・・ -
写真=「太宰治の植えた夾竹桃(きょうちくとう)」があります
太宰治が船橋に住んでいたとは知りませんでした。しかも本人が「私には千葉船橋町の家が最も愛着が深かった」と書いている様で。
昭和10年(1935年)夏から昭和11年(1936年)秋にかけて千葉県東葛飾郡船橋町五日市本宿1928番地(今の船橋市宮本1-12-9)に借家住まいをしていたそうです。
この夾竹桃はその敷地内に植えられたそうですが,'80年代にここに移植されたとの事。 -
すぐ近くに
写真=「浄勝寺」があります
明応5年(1496年)に開基との事。 -
街道に戻り少し行くと,千葉銀行船橋支店の敷地に
写真=「明治天皇船橋行在所(あんざいしょ)跡碑」があります
明治天皇は千葉県に「陸軍の演習や牧畜耕耘事業などをご覧になるため」10回,延べ35日滞在したそうです。
最初の1日目の昼食をとったのが「当時の船橋町九日市の旅館業桜屋,山口丈吉宅(現在地)」との事。
その後も「山口方をしばしばご利用になり」計宿泊10回,昼食5回と千葉県では最も多く立ち寄ったとか。 -
右側の道に入っていくと,不動院の前に
写真=大仏さんがいます
特に名前はない大仏のようですが,毎年1回「白米の飯を大仏に盛り上げるように」つけるユニークな「大仏追善供養」なるものが行われるそうです。
もともと船橋の海は「江戸時代初めころから半ば近くにかけて幕府に魚介を献上する『御菜浦(おさいのうら)』とされた好漁場」だったとか。へぇ~。
その後魚介の献上は中止され,漁場を巡って近隣の漁師たちと多くの争いが起こったらしいです。
文政7年(1824年)「一橋家の幟(のぼり)を立てた船」に乗っていた侍を「船橋の漁師が殴打し,幟を奪って」しまったそうです。当時,侍を殴るなんてとんでもない事ですよねぇ。「船橋の漁師総代3名が入牢させられ」「1人は牢死」「1人は牢を出て間もなく死亡」したとか。
本来,この大仏は「津波によって溺死した漁師や住民の供養のため」延享3年(1746年)に建立されたものだったそうですが,この事件以降,牢でひもじい思いをした漁師のため「大仏追善供養」が行われるようになったらしいです。なるほど。
ちなみに大仏の後ろにあるのは死亡した漁師2人の供養碑だそう。 -
イチオシ
街道に戻ると,
写真=「廣直船堂」があります
創業300年を超える和菓子店との事で,この建物は大正7年(1918年)に建てられたそうです。
和菓子店として現役(!)だそうですが,時間が早くて営業してませんでした。残念。 -
その向かいには,
写真=「森田呉服店」があります
こちらも現役との事ですが「建物は明治5年(1872年)に建てられ」たそうです。営業してる所見たかった~。 -
左の道に入ると,
写真=「御蔵稲荷神社」があります
かつて,この近くの海老川が「毎年の様に溢れ,氾濫がくりかえされた」そうで,急激な都市化で浸水家屋が激増した様です。その度に「町会集会所を兼ねていた御蔵稲荷社殿が,避難所,食事の炊き出し所として,被害町会民のため役立った」とか。その後,災害対策協議会を結成して「海老川改修工事が,平成4年に完成」して川はおとなしくなったみたいです。 -
東金御成街道には「御殿跡」が3つあります。「御殿」は徳川将軍が宿泊・休憩用に使う施設で,全国各地にある様です。
御成街道の最初の御殿跡である「船橋御殿跡」は,かつてこの辺りの200m四方にあったそうです。
中世の城と同じように「防御用の土塁や堀があり,軍事的な拠点の役目」もあったとか。
写真=この普通の住宅地をずっと進むと・・・ -
徳川家康が船橋御殿に宿泊したのは,元和(げんな)元年(1615年)11月の1回だけだそうですが,秀忠は狩猟のたびに立ち寄ったとか。
将軍家の東金での狩猟は寛永7年(1630年)に終わったそうで,船橋御殿は寛文末年頃(1670年代)に廃止となり,貞享(じょうきょう)年中(1684~1688年)に取り壊されたとの事です。
写真=モロに住宅地,の奥にあるのは・・・ -
イチオシ
船橋御殿跡地は「大神宮宮司の富氏に与えられ,開墾されて畑地となった」そうです。
で,御殿の中心辺り,家康が利用した御殿の建物があった辺りに,富氏が家康を祀るために東照宮を建立したとか。その「船橋東照宮」は「日本一小さい東照宮」と言われるそうです。日光と比べると確かに違い過ぎますね。
写真=住宅地の中に埋没するかの様に存在する「船橋東照宮」です -
街道に戻ると,本町4丁目交差点に,
写真=「川奈部書店」があります
太宰治が「料金を踏み倒した」などと言われている本屋だそう。一見,廃墟の様にも見えますが,現役らしいです。
時間が早くてまだ営業してませんが。 -
写真=海老川橋を渡ります
何やら船の先端部が付いてるユニークな造りになってます。「五大力船」(江戸近辺の海運に用いられた海川両用の廻船)という船だそうです。 -
写真=海老川です
「船橋」という地名の由来は「日本武尊が東征の折,川を渡るために船で橋を作ったのが由来とされている」そうですが,この海老川に船を並べ「その上に板を渡し橋を造った」らしいです。へぇ~。
最も当時は「大日川」(おおいがわ)と呼ばれていたとか。
鎌倉時代に「村人が大日川で取れた海老」を源頼朝に献上し,頼朝が「海老川」と名付けたなんて説もある様で。 -
写真=京成本線の下をくぐります
くぐってすぐ左に入り,京成本線に沿ってしばらく行った辺りに・・・ -
写真=「太宰治旧居跡碑」があります
狭い通りに目立たない様にあるので,見つけにくいかもしれません。
1935年に船橋に来た頃の太宰治は「大学に落第し」「自殺未遂を起こし」「盲腸炎をこじらせ腹膜炎となり」「その鎮痛剤パピナールによる中毒に陥って」散々な状態だった様です。ちなみにパピナールってなんやねんと思ったら「麻薬」にあたるみたいで。
「療養のための船橋移住」だったそうで,船橋って療養者が来る所だったんだ?と思わざるを得ません。でも「パピナール中毒を断つことができず」「家族が,井伏鱒二に説得を依頼し」「東京の病院に移る」ことになったとか。
-
街道に戻って少し歩くと,
写真=「船橋大神宮」があります
結構広い敷地なので,まんべんなく中を歩いてみます。 -
写真=まず「船玉神社」です
手前が船の舳先の形になっていて,ユニークな造りになっていますね。 -
写真=「神輿庫」です
が,普通の神輿庫とは違って,ここは神社になっています。へぇ~。左が八坂神社,右が八剱神社だそうで。
「通常,社殿の中に鎮まってらっしゃる神様がお祭りの際にお乗りになるのが神輿」だとの事ですが,ここでは「神様は常にこの神輿にお鎮まりになって」いるそうな。「どうせ乗るんだから,いつも乗ってりゃいいじゃん」的な?(笑) -
写真=土俵です
船橋大神宮の相撲は,徳川家康が「船橋に宿泊時,漁師の子供達の相撲を供覧したのが始まり」という歴史あるものだそう。 -
写真=船橋大神宮の神門です
船橋大神宮は正式名称を「意富比(おおひ)神社」というそうです。「景行天皇40年(西暦110年),日本武尊の東征の折に当地で東国平定の成就を祈願したのに始まる」らしいですが,約1900年前!歴史あり過ぎですね~。
明治維新の船橋の戦い(戊辰戦争)の時,多数の文書が社殿と共に焼失してしまったそうです。
例年お正月三が日には約15万人の人が訪れるとの事。 -
写真=「常盤神社」です
日本武尊,徳川家康,徳川秀忠を祀っているとの事。「東照宮」とも呼ばれるそうですが,なるほど,このカラフルさは日光東照宮を思い起こさせます。 -
イチオシ
写真=「灯明台」です
かつて,船橋沿岸を航行する船は「船橋大神宮の境内にあった常夜灯を目印に」していたそうですが「戊辰戦争で社殿とともに焼失」したとの事。今の灯明台は明治13年(1880年)に再建され,明治28年(1895年)に停止するまで「政府公認の私設灯台として利用され」たそうです。
建築様式は「擬洋風建築」で1,2階は和風,3階の灯室が西洋風で6角形の造りになっていると。
約11km先まで光が到達したそうで「当時の最新式の設備」だったとか。 -
写真=左側の建物は「豊受姫神社」です
この建物は皇大神宮(伊勢神宮内宮)にあった由貴御倉(ゆきのみくら=お供えや果物を納めておく倉)を第62回式年遷宮(2013年)の後に譲与いただいたものだそうです。へぇ~。
伊勢神宮の建物って,こうやって全国各地に移築されてるものなんでしょうか。それとも滅多にないケース?
相当昔の建物が残っていたら,それこそ相当価値あると思うんですけどね。 -
「船橋大神宮」を出て歩くと,すぐ
写真=「西福寺」があります -
たまに「四国八十八カ所巡りを手軽に出来ます」ってなのをお寺で見かけますが,この「西福寺」のは
写真=「石を触って巡拝する」方式です -
その後「了源寺」に寄ろうとしますが,まだ開いてませんでした。残念。
写真=「了源寺」の山門です -
写真=この辺りになると,歩道が狭くなってきました
都会の雰囲気,まるっきりなしです。 -
写真=「日枝神社」です
万治2年(1659年)に当地で悪疫が流行した際に創建された様です。 -
写真=「県立船橋高等学校」です
「公立御三家」の1つとして千葉県人には有名な学校ですが,御成街道沿いにあったんですね。
1918年に「東華学校として創立」したそうで,どうやら最初は私立だったみたいです(!)。
1940年に「 船橋市が買収し船橋市立船橋中学校と」なり,公立になった様ですが,「市船」だったんだ(!)。
1944年に「 県に移管され,千葉県立船橋中学校と」なり,戦後に高等学校になったとの事。へぇ~,知らなかった。 -
少し行った所に祠がありますが,
写真=「馬頭観音の祠」らしいです -
写真=県道8号線を横切った後,御成街道は一時的に国道296号線になります
-
国道296号線に入ってすぐ,
写真=地蔵堂があります
右下の石板に丁寧な説明があるのですが,読めない・・・(苦笑)。
少し先で,ペットボトル購入して水分補給です。陽射しも暑くなってきたので。 -
ちなみにこの辺で,自衛隊の車両らしきものを7,8台見ました。珍しいなぁと思いつつ。
さて,成田街道との分岐点に来ました。
写真=「成田山道の道標」があります
ここまでは御成街道であり,かつ成田街道でもあった道で,ここから左に曲がると成田街道(国道296号線)で真っ直ぐ行くと御成街道(県道69号線)となります。 -
写真=総武本線の下をくぐります
津田沼駅に近くになります。 -
更にその後,
写真=新京成電鉄を渡ります
ちなみに街道で1里(約3.9km)ごとに設置された一里塚が,御成街道では7つある様で
①習志野市実籾の「一里塚」
②千葉市花見川区犢橋の「向山」
③千葉市若葉区若松町の「焼塚」
④千葉市若葉区千城台東の「提灯塚」
⑤千葉市若葉区富田町の「椎の古木」
⑥八街市上砂の「一里塚」
⑦東金市黒田の「殿山」
東金市油井の「一里塚」
という感じです(⑦が2つあるのは東金で表道と裏道に分かれるからという事で)。 -
習志野市に入った辺りに藤崎墓地があります。その中央辺りに丘があり,階段を上がると,
写真=(見にくいですが)「融通念仏供養塔」があります
融通念仏?なんじゃそりゃ?と思ったら,融通念仏宗という浄土教の宗派があるそうです。へぇ~。 -
交番前交差点で右に曲がって寄り道です。習志野七福神に行った時に行き損ねた「旧大沢家住宅」を目指します。
右に曲がった後,少し行き左に行くと,
写真=「藤崎古道」を通る事になります
この古道は御成街道より古いそうで「家康が東金で行われる鷹狩りに向かう途中,この道を通り,辺りに咲いていた藤の花の見事さを讃え,この地を『藤咲』と命名した」と言われているそうな。
御成街道が出来たら使われなくなった道だとか。 -
古道を抜けると,
写真=こんな感じのひらけた景色になります
で写真左の,木で覆われた所が・・・ -
写真=「藤崎堀込貝塚」です
縄文時代中期~後期(約4500年前~約3000年前)の「大規模な貝塚と集落の跡」だそうです。「都市部にありながら,貝塚のほぼ全域が大きな破壊を受けずに残った貴重な遺跡」との事。 -
藤崎森林公園に着きました。
写真=「森林鉄道」の機関車があります
森林鉄道って馴染みない言葉ですが「森林から生産される木材を搬出するために設けられた産業用鉄道」だとか。
全国各地にあった様ですが,ここにあるのは「木曽王滝森林鉄道」のものみたいです(なぜ長野県?)。
大正13年(1924年)~昭和50年(1975年)まで走っていて,これ以降は「道路の整備によるトラック輸送」になったそうです。
ちなみにこの機関車は1940年製とか。 -
イチオシ
写真=そして「旧大沢家住宅」です
寛文4年(1664年)に建てられたものだそう。
昭和51年(1976年)に長生村から移築されたとの事。大沢家は「名主を勤めていた」と伝えられるそうです。 -
中に入って見学です。
年配の男性が案内してくれました。その方の解説によると「釘とか使ってない建物で地震には強い」「関東大震災や東日本大震災にも耐えた」「東日本大震災の時は外の柱が,61本あるうち1本だけずれた」「その隣りも下の方がちょっと割れ気味」との事です。 -
ピンボケになっちゃいました(苦笑)。
-
さて,元の道に戻ると御成街道の説明板がありました。それによると「この道は鷹狩りのためだけでなく,政治的・軍事的な理由から造られたという説があり」「家康の鷹狩りには軍事訓練・周辺諸大名の牽制・権威の誇示・庶民の視察などの目的もあったと言われて」いるとか。
2代将軍の秀忠も鷹狩りで何回か御成街道を利用している様ですが,寛永7年(1630年)を最後に「東金での鷹狩りは行われなくなり」御成街道は「役人の通行路・民間の物資輸送路・庶民の生活道」となったみたいです。
しばらく行くと,
写真=「張替酒店」があります
明治38年(1905年)に創業した酒屋で,現在の店舗は昭和6年(1931年)に建てられたそうです。
司馬遼太郎の「坂の上の雲」でも知られる秋山好古習志野騎兵第一旅団長が酒豪だったので,当店のお酒を飲んでいたかもしれないとの事です。
更に習志野騎兵旅団は太平洋戦争の硫黄島でも戦っていたんですね。映画「硫黄島からの手紙」で世界にも知られる事になった栗林忠道は実際にこの酒店を訪れているとか。へぇ~。 -
写真=「誉田八幡神社」です
延宝年間(1673~80年)に創建との事。 -
少し行った所に,
写真=「道祖神」があります
ここでは「道六神」と呼ばれているそう。 -
更にちょっと行き,右に入ると
写真=「庚申塔」が3基並んでます
見つけにくかったです。 -
さて,11時過ぎたので腹ごしらえ。
写真=チーズインハンバーグ&コロッケランチです
ファミレス,結構美味しくてあなどれません。 -
少し行った交差点の歩道橋から見える道路は
写真=「鉄道連隊演習線」の習志野線の跡だそう
「日本陸軍の鉄道連隊が演習用に敷設した千葉県内の鉄道路線」の事で,習志野線は「千葉~津田沼(16.7km)」の区間で1911年(明治44年)に完成したそう。
「敗戦により残存していた演習線は全て廃止された」が,1960年(昭和35年)に一部が「陸上自衛隊101建設隊の演習線として復活」したとか。
それも6年後に廃止され,今はほぼ道路になってるらしいです。
ちなみに我が松戸の松戸線は,大部分が新京成電鉄になっているとか。なるほど! -
同じ歩道橋から
写真=こちらが御成街道です
この先は左側に・・・ -
写真=日本大学生産工学部実籾キャンパスがあります
-
そのすぐ先の
写真=「大原神社」に寄ります
ちょっとした祭りの様な雰囲気?もうすぐ創建900周年だそうな。
天治元年(1124年)に「実籾本郷に創建」されたとの事。「東金御成街道の整備に伴い」文禄元年(1592年)に現在地へうつった様です。
明治41年(1908年)に実籾上宿にあった「大宮神社を合祀し、大原大宮神社とも呼ばれるようになった」とか。確かに入口の鳥居に「大原神社 大宮神社」と並記してありました。 -
大原神社の脇に
写真=「庚申塔」2基と右に「六十六部廻国供養塔」があります
六十六部廻国供養塔って何ぞや?と思ったら僧侶,修験,行者などが法華経を書き写し,全国の六十六カ国の霊場を回り,無事に終わったら記念に建てた石塔だとか。 -
写真=京成本線を渡ります
渡ったら,すぐ右に入り寄り道です。習志野七福神の時に行ったものの入り損ねた「旧鴇田家住宅」に行きます。 -
イチオシ
写真=「旧鴇田家住宅」です
旧大沢家よりスケールがでかい!
享保12~13年(1727~28年)に東金御成街道沿いに建造され,鴇田家の住居として平成3年(1991年)まで使用されていたそうです。そんな頃まで現役だったんだ! -
中に入ると,また年配の男性が案内してくれました。
「築300年たってる」「屋根の曲木はわざわざ曲がってる木を見つけて使っている」「屋根は20年前にはりかえた」など解説していただきました。 -
鴇田家は代々,実籾村の名主を務めていたそうです。
鴇田家から発見された「鴇田家文書」は「合計で6000点以上に及び,市内最大の文書群」であって「この地域の歴史を語る上で欠かせ」ないとの事。 -
旧鴇田家住宅の主屋はL字型に曲がった「曲屋」で,東北地方によく見られる建築様式であって「南関東ではきわめて珍しい」とか。
鴇田家がなぜ曲屋なのか,はよく分かっていないそうです。 -
元の街道に戻り少し歩くと,ようやく最初の一里塚である
写真=「実籾の一里塚跡」です
が,この辺りというだけで詳しい場所は分からないそうです。写真の緑のエリアはちょっと塚っぽいですけどね。 -
写真=「長屋門」がありました
-
長作交差点を左に曲がって少し行くと,
写真=左から「二十三夜塔,庚申塔,二十六夜塔」があります
「○○夜塔」を総称して「月待塔」というそうです。
人々が「特定の月齢の夜に集まり」「飲食を共にしたあと,経などを唱えて月を拝み,悪霊を追い払う」行事をして「供養の記念として造立した塔」だとか。
江戸時代,19世紀の初頭に全国的に流行したそうです。
二十三夜塔が最もポピュラーとの事。
さて,ここから御成街道は千葉市に入っていきます。
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