2021/09/28 - 2021/09/29
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Yasoさん
徳川家康が九十九里方面での鷹狩のために,佐倉藩主土井利勝に命じて造らせた,という東金御成街道を歩いてみます。
八街市に入るやいなや,いきなり街道消滅コースを歩く事になります。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
-
八街市に入って1.5km強の区間,御成街道は消滅していますが,明治時代に佐賀藩の鍋島家がこの辺りを開墾したとの事で,恐らくその頃に街道が無くなったのではないかと思われます。
写真=まずはこんな感じの道を行きます -
「八街市沖」は地図で見ると分かりますが,御成街道とその周辺をベリッとはがして碁盤通りを斜めにガポッとはめた様な,そんな感じです。
写真=この様にきれいに区画されてます
千葉市の消滅地点の様に迂回させられる訳ではないので,碁盤通りをジグザグに歩きながら,御成街道はどの辺を通っていたのか大体の見当をつけてみます。 -
写真=畑の奥の方を斜めに,御成街道が通っていたと思われます
-
御成街道が「個人宅の玄関までの道」(!)になっている箇所もあり,
写真=そこから逆方向を向くと,斜め左に進む感じです -
写真=御成街道は緑の中を斜めに入って行く感じですかね
-
写真=御成街道は手前から木に囲まれた家の辺りを通っていたと思われます
-
写真=御成街道は手前から畑を斜めに入って行くコースだったのでしょう
そしてその先に・・・ -
沖地区の幹線道路とも言える県道289号線に入りますが,
写真=「お成街道跡」という表示が,道から斜めに向いてます -
写真=その先はこんな感じです
この車もかつての御成街道に停まっているとは思ってないでしょうね(笑)。 -
写真=ここも手前から斜めに行く感じです
-
写真=ジグザグの最終コーナー辺りでこんなの見つけました
こういう,木を動物などの形に刈り込んだのを「トピアリー」というそうです。へぇ~。 -
写真=御成街道はお墓の中を斜めに通って,右の地点で復活します
ジグザグコースはほとんど車は通らず,街道跡を探しつつ歩いたので,なかなか楽しく歩けました。
-
写真=「御成街道跡」の表示が,ここから街道が復活します
-
この辺りは上り下りが続く様です。
写真=「蛇田谷の険」と呼ばれる坂で,勾配11%です -
しばらく歩くと,
写真=いきなり車道より歩道の方が広くなりました
謎です(笑)。 -
「馬渡しの険」と呼ばれる坂に入ります。
写真=道が消える様に見える急勾配です -
「馬渡しの険」の途中で,
写真=6つめの「上砂の一里塚」があります
一般的に一里塚は「塚上には松や榎が植えられ,寒暑や風雨を避けるための休憩場所にもなった」とか。
東金御成街道で現存するものは,4つめの提灯塚,5つめの椎の古木,ここ上砂の3カ所だけだそうです。
上砂の一里塚は「江戸時代初期に築かれ,ほぼ原形をとどめた状態で現在まで残されている」ので「江戸時代の交通文化や,徳川幕府の政策を具体的に知る上で極めて貴重な文化財」だとの事。 -
ずっと御成街道を歩いてきたので,どこにあってもおかしくないのですが,
写真=こんな所に「御成街道」というバス停がありました
何故ここに?という唐突感が(笑)。ちなみに1日6本来る様で。 -
しばらく行くと,
写真=前方に木が一線に並んでますが,
これは「野馬土手跡」だそうです。 -
写真=もう歩道すらない道を歩いて行きます
-
写真=「びんだらい池」です
「鷹狩りの一行が池の水で髪の乱れを整えた」という言い伝えがあるそうです。 -
写真=割とさみしい道を行きます
右に数百mの所に八街少年院があるのですが,脱走者が突然出てきたらどうする?と思うも,右を見て,これだけ森が深かったら断念して戻るだろう,などと考えてもしょうもない事を考えてました。 -
写真=圏央道(首都圏中央連絡自動車道)をくぐります
この辺りは1998年に開通した模様。 -
写真=御成街道,とうとう舗装されてない砂利道に!
さて,昼飯どきになったので,食事処を探しつつ北の方へ行ってみます。 -
写真=醬油らーめん大盛をいただきます
ごくシンプルな醬油ラーメンですが,今となっては逆にナルトが珍しいかも?
写真ではよく分からないかもしれませんが,器デカい!です。食べ切れるかな,と思うも,よく歩いたからか食べ切りました。 -
御成街道に戻ります。
写真=左の道が地図にある道ですが,右側の道も行けそう?
ちょっと行ってみます。 -
写真=続いてる感じ,行けるぞ?
こっちの方が御成街道としては正しい道なので,行けるなら是非行くぞと歩きますが,だんだん道が無くなってきて,絶望的な感じになりました(苦笑)。
工事なんかで使う簡易トイレがあり,しょうがないトイレだけ使って戻るか,とドア開けるも使えるシロモノではありませんでした・・・。 -
戻って左側の道を行きます。
この辺はソーラーパネルがたくさん並んでました。
写真=太陽光でも,そうか発電所なんですね
発電所の概念を覆された感じです。 -
国道409号線になった所で右に曲がり,ついに東金市に入りました!
写真=「御成街道 滝古道」の表示板です
この辺り(先程の御成街道の正しい道と409号線がクロスする所)が家康の命で新しく作った御成街道の終点となる様です。
この後は,それ以前から東金にあった古道を行く事になります。もう直線ではありません。
ちなみに住所が「東金市滝」なので「滝古道」って事ですね。 -
少し行くと右側に,
写真=「旧旅籠長南屋跡」があります
が,その跡は何も残っていない様です。場所だけ分かってるみたいですが。
むしろ・・・ -
写真=道路を挟んで隣りにある,この家の方がいい感じでそれらしく見えます
-
写真=「滝停留所」バス1日に1本です・・・
お盆,年末年始は「休日ダイヤにて運行いたします」と言われても(苦笑)。 -
バス亭の近くに,
写真=「道祖神」があります
国道409号線はこの後右に曲がって行きますが,真っ直ぐ行き県道301号線になります。 -
写真=なんの変哲もない住宅街です
ずっと寂しい景色の所を歩いてきたので,久々に見た住宅街で思わず撮ってました。 -
少し行くと,
写真=県道301号線が大きく左に曲がって行きます
が,ここが表道と裏道の分岐点になり,左は裏道になるのでそちらには行きません。
写真を見ると,どこにもう一つ道があるの?となりますが・・・ -
写真=真っ直ぐ続く,さみし気な道があります!
こちらが表道で,ここを進んで行きます。 -
写真=分岐点に「道祖神」があります
道標も兼ねていた様で,正面に「是より下ハ東金道 是より上ハ左倉(=佐倉)道」右面に「油井村」左面に「是より西 江戸道」と刻まれているそうです。
ちなみに東金では家康の鷹狩りの際に「文珠組」という組織を結成し,その組織の鳥見役(鷹場を見回って調べ,鳥の所在を追跡する役人)にはこの辺りの油井村,大豆谷(まめざく)村,台方村の者がみられ,多くは元酒井家(大老四家)の家臣だったといわれているとか。 -
表道を歩き始めると,
写真=すぐに左側に廃墟を目撃出来ます
「旧蚕業試験場跡」だそうです。 -
道なりにしばらく歩くと,御成街道のハイライトの1つと言ってもいい「おあし坂」に着きます。
が,その先を右に曲がり寄り道です。
写真=「勝軍地蔵(将軍地蔵)」です
「これに念ずれば,戦いに勝ち,宿業・飢饉などを免れるといわれ,鎌倉時代以降に武家に信仰された」とか。「鎧,兜をつけ,右手に錫杖を,左手に如意宝珠をもち,軍馬にまたがっている」そうです。
こんな地蔵さん初めて見ました。 -
さて「おあし坂」に戻ります。
ここは御成街道のなかでもわずかな「旧道の面影を残している部分」だそう。
写真=「おあし坂」の入口です
いきなりこんな鬱蒼としてて,ホントに行けるのか?って感じではありますが(苦笑)。 -
イチオシ
少し行くと,ちゃんと歩ける様な道になってました。
写真=切り通しの道だそうですが,確かにそんな感じですね
いい感じです。正に江戸時代の道を歩いてる様な気分(って本物の江戸時代の道知らないですけど)。 -
写真=なんかジャングルの様な雰囲気
都会の様な船橋から始まって,だんだんと淋しくなり,ついにここまで来たか!というレベルですね。 -
「急な坂道のため,歩幅を広く取り大足で上り下りしなければならないことから,通称『おあし(大足)坂』と呼ばれていた」そうです。なるほど。
-
写真=竹が倒れ掛かって,まるで廃道の様です
「おあし坂」は長さ約200m,高低差約30mだそうです。道幅については御成街道の別の地点で4~4.5mとの事。 -
写真=またもや草ボーボーで道とは思えない状態に
草をかき分けて進むしかありません。整備された山道より断然ヒドイ(苦笑)。
この道が現役だって事に驚くしかないですね。 -
「おあし坂」を抜けると,
写真=見通しが良くなり「土橋」を渡ります -
少し行くと,
写真=7つ目で最後の一里塚「油井一本松跡」になります
1970年代頃まで「高さ2mほどの塚があり,塚上に一本の黒松が植えられ」ていたそうです。その頃までは一里塚が残っていたんですね。
さあ,いよいよゴールが近づいて来ました! -
写真=個人宅と思われる敷地に,こんな石垣がありました
-
国道126号線と並ぶ様な形で歩くと,
写真=油井公民館の隣りに「長屋門」があります
さて,その後寄り道です。126号線を渡って,西へ行くと・・・ -
写真=「雄蛇ヶ池(おじゃがいけ)」に着きます
慶長19年(1614年)に「この地の代官島田伊伯がつくった灌漑用貯水池」だそうです。
池の周囲は4.5kmなので結構広いですね。形が似ている所から「房総十和田湖」とも言われているとか。
今は「県立九十九里自然公園」に指定されているとの事。
ちなみに着いてすぐ「トイレあったー!」と駆け込みました(苦笑)。朝の千城台駅以来6時間弱ぶりです。淋しい所を歩き続けるとこうなる,いい見本でした(笑)。
「水飲み場」もあるぞ!と探すも,あずまやの脇に「昔ながらの公園にある様な水道」が1つあるだけでした。まあ,でも間違いないですけど。 -
街道に戻り,国道126号線をしばらく歩きます。
すると,地図上で見ると東に行く道が3本あり,1番手前が旧道との事でその道を行きます。
写真=右が国道126号線,左が御成街道です -
写真=手前の道に入ると,川と並行して行く事に
-
しばらく歩いて行くと左側に,
写真=「妙福寺」があります
もとは真言宗で別の場所にあったが,大永7年(1527年)に顕本法華宗に改宗すると共に,現在地に移ったそうです。 -
更に少し行くと「火正神社」の入口の所に,
写真=「御成橋碑」があります
御成橋は「家康の御成に際し,架け替えられた」といわれるそうですが,その橋も今やありません。 -
写真=「火正神社」です
「江戸初期から明治にかけての東金は,徳川幕府老中の板倉家が代々治めて」いたそうで,現在の本殿は元禄11年(1698年)に「板倉家四代重寛公により創建されて」いるとか。
「この頃は関東に大地震や火災が多く,幕府も防災に心を痛めていた時」だった様です。
さて,この少し先が東金御殿表門の跡らしく「じゃ,そこがゴールやないかい!」と思いますが,ゴールにするにはあまりにも寂しい所というのもあり,先に進みます。
少し行って,左の細い道を上がって行くと・・・ -
写真=「八鶴湖(はっかくこ)」に出ます(湖らしい写真じゃなくすみません・苦笑)
その昔は「谷(やつ)池」といったそうで,東金御殿を造った時に拡張して「弁天島等を設け整備され」て「御殿前池」になったとの事。
幕末の詩人「遠山雲如によって八鶴の字が与えられ」後に現在の「八鶴湖」という名前になったという話です。
中国の西湖を連想させるため「小西湖」という名もあるらしく,いろいろ呼び名がある湖ですね。 -
写真=「百年桜」です
約100年前,今の県立東金高等学校が出来た頃に植えられた桜だとか。
八鶴湖の周囲には「約300本の桜が植えられており」「桜の名所として春には『東金桜まつり』が実施される」らしいです。 -
イチオシ
そしてついに3つめの御殿跡で,東金御成街道のゴールでもある,
写真=東金御殿跡(県立東金高等学校)です
この場所は当時の東金御殿の裏門だった様ですが,今は東金高校の正門です。とりあえずここをゴールにしておきます。
念のため言っておきますと「家康の気分を味わう事は全く出来ませんでした」(笑)。
東金御殿は土井利勝が慶長18年(1613年)から翌年にかけて代官嶋田伊伯を造営に当たらせたとの事です。
「東金城があった城山の東麓の敷地(約6700坪)」に「玄関,広間,坊主部屋,小姓部屋,書院,鉄砲部屋,弓部屋,老中部屋,台所などの部屋」「別棟には鷹部屋,長屋,馬屋,大番所など」が建てられたそうです。「ほぼ中央に家康専用の部屋があったといわれ」るものの「家康の所在を明確にしない事情もあり」当時の絵図には記されていない様で。なるほど。
鷹狩りが行われなくなった後,寛文11年(1671年)に「東金が幕府直轄地(天領)から福島の板倉藩領となり」御殿は取り壊されたとか。
御殿の一部は別の場所に移されたそうです。
その1つ大網白里市の正法寺では本堂になっているとの事。 -
東金御殿跡はその後ずっと更地だったのかどうなのかはよくわかりませんが,明治41年(1908年)に県で2つ目の高等女学校「県立東金高等女学校」として開校したとか(この場所に出来たのは1910年だそうです)。東金高校,最初は女子校だったんですね。
1948年に「学制改革により旧称を改めて県立東金高等学校として開校」して共学になった様です。
写真=なかなかユニークな「東金高校正門」です
正門は女学校が出来た当時のものだとか。へぇ~。門の上のミニチュア建物は東金御殿?じゃないでしょうね(笑)。 -
さて,せっかくですので八鶴湖の周りも歩き回ってみます。
東金高校の脇道から東金城址に行けるらしいので,ちょっと行ってみます。が・・・
写真=入口の所から,また草ボーボーです
行けるのかな・・・?という感じ。しかも「ハチ・ムカデ・ヘビが出るので」の注意書きもあり断念します。
写真右の石柱に「御殿山(=東金城址)」とありますね。 -
写真=とりあえず「防空壕跡」だけチェック
中には入ってませんよ。 -
「本漸寺」に寄ります。
写真=結構広い敷地で,45段の石段を上がります -
写真=「本漸寺」本堂と思われます
いきなりポップミュージックが聞こえてきました。初体験です(笑)。工事中かなんかみたいです。 -
写真=境内に「徳川家康公お手植蜜柑」があります
家康が故郷駿府(現静岡県)から蜜柑を取寄せ,本漸寺に自ら植樹したとか。
「現在の蜜柑は四代目」だそう。「しらわ」という種類で「親指と人差指を輪にした位の大きさ」らしいので,みかんとしては小さいですね。「皮は薄く比較的あま」いとの事。 -
写真=「本漸寺」からの眺めです
45段上ったので,結構高いです -
写真=「八鶴湖」にカモなど鳥が集まってます
-
写真=日吉神社の鳥居ですが,分かれた御成街道裏道は,ここを通ってゴールになるみたいです
自販機でペットボトル購入し「八鶴湖」脇で休んで飲みます。冷たい!生き返る!
ちなみに50円で売ってるものがありました(!)。大阪の西成区か!とか思いましたよ。 -
「最福寺」に寄ります。
大同2年(807年)最澄によって天台宗の寺院として創設されたとか。へぇ~!
でも文明11年(1479年)に日蓮宗に改宗したそうです。
写真=「最福寺」山門です -
写真=ここもなかなか広い敷地で,やはり階段を上ります。
36段で「本漸寺」より低いと思いきや,本堂は更に24段上がった所にありました。 -
写真=「家康公と日善上人」の像です
日善上人は「最福寺」の住職で,1614年に家康が鷹狩りに来た際に対談する機会があったそうですが,その後駿府城に招かれるなど交友を深めたとか。へぇ~。 -
イチオシ
写真=「最福寺」本堂です
本堂は元禄16年(1703年)から宝永6年(1709年)までの6年間を費やし「八鶴湖畔にあったのを人夫一万人余を要して現在の所に移し建立」したそうです。
本堂に使われた丸柱40本は,浅草寺の古材を譲りうけたものと伝えられているとか。 -
写真=境内に「四代目伊三郎の墓」があります
歌舞伎の事はほとんど知らないのですが「お富・与三郎」と言えばなんとなく聞いた事があります。その「切られ与三郎」モデルになったのは江戸長唄の四代目芳村伊三郎だそうで,その人の墓だとの事。 -
イチオシ
八鶴湖周辺の最後のスポット,
写真=「八鶴亭」です
明治18年(1885年)「八鶴館」という名でスタートした旅館で「伊藤左千夫,北原白秋,島崎藤村をはじめ文人著名人も数多く訪れ」「千葉の三大旅館と称されるように」なった時もあったそうです。
が,平成18年「八鶴館は経営破綻を余儀なくされ,一度は競売物件にも」なったとか。そこから復活した時に「八鶴亭」になったとの事。
現存する建物のほとんどは「大正から昭和初期に建てられ」そのうち「本館・新館・宿泊館・浴室棟・ビリヤード棟の5棟が国の登録有形文化財に登録」されているそうです。
ビリヤード棟ってのが洒落てますね。 -
写真=さて「東金駅」から帰ります
東金駅は1900年(明治33年)「房総鉄道の駅として開業」したそうです。最初は私鉄だったんですね!
房総鉄道は1896年(明治29年)に「蘇我駅~大網駅間で開業したのが始まり」だそうで,東金駅が開業したことで終着駅は東金駅になったと。
1907年(明治40年)「房総鉄道が買収され,国有鉄道の駅と」なり,1909年(明治42年)に東金線になった様です。
1911年(明治44年)に成東駅まで延び,1926年(大正15年)には「東金から片貝駅を走る九十九里鉄道(当時は九十九里軌道)が運転を開始」して「夏には海水浴客で満員になるほどの賑わいを見せた」とか。
でも1961年(昭和36年)に九十九里鉄道は廃線となったそうです。
しばらく待合室で座ってたら,高校生で埋め尽くされてました(笑)。 -
写真=「東金駅」ホームです
16時頃,この時間帯は9割がたが高校生の様です。
東金御成街道,いろいろとスポットがあり,楽しみながら歩けました。消滅ルートも興味深かった。そして徳川家康の晩年がどうだったかを少し学べました。
本日39576歩。
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