2021/03/16 - 2021/03/17
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Yasoさん
コロナ禍で自粛モードの中,「県内を歩く」というのを思いつきました。ただ県内を歩くといっても何かテーマが欲しいと思い,街道を歩いてみる事にしました。
まずは木下街道です。現在の木下街道(県道59号線)とはちょっと違う様で,利根川(木下)から江戸川(行徳)を結ぶ旧木下道を出来るだけなぞって歩こうと思います。
次は,現代では賑やかな所と思われる5つ目の宿場,八幡宿です。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 徒歩
-
京成本線を渡って少し行くと,現代の木下街道(県道59号線)は終わります。そこからは千葉街道(国道14号線)になるのですが,そのT字路に中村家の建物があります。
写真=中村家住宅北蔵及び事務所です(ちょっとダメな角度の写真になっちゃってます・苦笑)
中村家は「旧木下街道と千葉街道の交差付近に位置することから、地の利を生かし、明治期においては陸軍御用達の馬糧商(ばりょう=馬の餌)を営み、大正期になると味噌醸造業に転じた」という実業家の様です。「広大な味噌工場を有し、東京方面に出荷するほどの大規模醸造所」だったそうな。
建物は明治後期のものだとか。 -
イチオシ
中村家の初代は力士から実業家に転身したらしいです。ユニークな経歴の持ち主ですね。
2代目は旧中山町(1924~34年)の町長であり,馬主でもあり,中山競馬場に銅像があるほどだそうです。更に若手芸術家の育成にも力を入れていて,東山魁夷が事務所の2階に住んでいた事もあるそうです。いろいろ繋がって来ましたよ!
3代目は戦犯として刑死および獄死した人々の遺書を編纂した「世紀の遺書」の出版に力を尽くしたとか。僕はこの本の存在は知らなかったのですが,この本をきっかけに「それまであまり知られていなかったBC級戦犯の存在に世間の注目が集ま」る事になったそうです。へえ~。
写真=中村家住宅煉瓦蔵です -
写真=高石神社です
創建年代等は不明だそうですが,永享3年(1431年)の法華経寺の文書に記載されている事から,それ以前の創建との事。 -
写真=真間川です
江戸川から分かれ東京湾に注ぐ一級河川ですね。花見の名所でもある様です。
「万葉集にも詠われた『真間の手児奈伝説』に登場する『真間の入り江』の跡とされている」そうな。
「真間の手児奈」とは古代伝説中の美少女の事で「粗末な身なりはしているが,箱入り娘もとてもおよばないほどの美人」であり「多くの男に求婚されたが,わが身を思い知って入水してしまった」そうです。
「私と結婚したければ,宝物を持ってきて」という方とは違いますね(苦笑)。 -
写真=市川インター入口交差点です
総武本線と京成本線に挟まれているってのもあり,この辺りは木下街道でも一番賑やかな所と言えそうです。
まあこの写真を見ただけじゃ「とても賑やかに見えない」かもしれないですが。本八幡駅の辺りですかね,賑やかなのは。 -
写真=東昌寺です
寛永年間(1624~1644年)の創建だそうです。 -
写真=市川市役所第1庁舎です
建物自体は2020年に完成したばかりの様です。ここも「令和を感じさせる木下街道」ですね。 -
市役所を後ろから見ると
写真=何というか段々畑の様になっていて,なかなか洒落てます -
さて,市川市役所のすぐ斜め向かいに「不知八幡森(しらずやわたのもり)」があります。通称「八幡の藪知らず」と言って「入ったら出られない藪や迷路」という意味の慣用句でも使われているとか!?そんな有名な場所なの?ここ。
江戸時代に書かれた地誌や紀行文の多くに載っているらしいですが「一様にこの藪知らずは入ってはならない所,一度入ったら出てこられない所,入れば必ず祟りがあると恐れられた所として記載され」全国的に知られていたとか。
写真=不知森神社になっていて,右側の石碑は例の伊勢屋宇兵衛が安政4年(1857年)に建てたそう -
写真=こんな感じの藪です
そんなに鬱蒼としてませんし,向こう側見え気味ですよね(笑)。
入っちゃいけない理由は・・・
・最初に八幡宮を勧請(かんじょう=神仏の分身・分霊を他の地に移して祭ること)した旧地である。
・日本武尊が陣所とされた跡である。
・貴人(身分や地位が高い人)の古墳の跡である。
・平将門平定のおり,平貞盛が八門遁甲(はちもんとんこう=中国の占術)の陣を敷き,死門の一角を残したので,この地に入ると必ず祟りがある。
・平将門の家臣6人が,この地で泥人形になった。
とこれ以外にもまだいろいろある様です(苦笑)。 -
万治年間(1658~61年)に,あの水戸黄門(徳川光圀)が「藪に入り神の怒りに触れたという話」が後に広まったとか。
「水戸黄門様が迷子になったため其の後は公式に立入禁止になった」という説もあれば「それ以前からここは禁足地であった可能性は高い」という説もある様です。
とりあえず好奇心旺盛な黄門様の微笑ましいエピソードという事で(笑)。
写真=上から見ると・・・この狭さ,とても迷うとは思えない・・・
都市開発のせいでこんな狭くなったと思いきや,最初からこの広さだったそうな?
いずれにしても興味深い場所ではありますね。 -
イチオシ
「藪しらず」のすぐ近くに本八幡駅付近の飲食店が集まっているので,昼食にします。
おっと,ラーメンの人気店がすぐそこに!しかも開店して2分くらい!幸い行列も出来てない!ので入ります。
スープは魚介系こってりですが,しつこくないし美味しかったです。太麺にしては細く感じましたが,もっちり感があって良し。チャーシュー,メンマ,のり,刻みネギとシンプルでした。
外出たら12時過ぎで,市役所方面から人が大量に来ました!巻き込まれなくてよかったー。 -
「葛飾八幡宮」に行きます。
寛平(かんぴょう)年間(889~898年)「宇多天皇の勅命により」日本三大八幡宮の1つである「石清水八幡宮を勧請して建立された」そうで。
かなり歴史があり,規模も大きい八幡宮の様です。
写真=葛飾八幡宮の大鳥居です
ちなみに不知八幡森はここの社宝だそうです。 -
参道が長く,京成本線を越えていきます。その向こうに二之鳥居が見えます。
-
写真=葛飾八幡宮の随神門です
江戸時代に上野寛永寺の末寺である八幡山法漸寺が葛飾八幡宮を管理していたそうです。その関係で「仁王像の置かれた仁王門」があったそうですが,「明治維新の神仏分離によってこの仁王像は行徳の徳願寺に移され」法漸寺は廃寺となり,仁王門は随神門になったとの事。
考えたことなかったですが,仁王像&仁王門はお寺のものなんだ?神社だと随神門になるんですね。へえ~。 -
葛飾八幡宮では毎年9月15日から6日間「農具市(ボロ市)が開催され」るそうです。「農具・日曜大工用品をはじめ各種の店が立ち並び、大勢の人出で賑わいを見せる」らしいです。
写真=「八幡神社改築記念」の碑です -
写真=葛飾八幡宮の神門です
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葛飾八幡宮は「平将門の献幣(神への捧げ物を捧げる事?)」「源頼朝の改築」「太田道灌の修覆」「徳川家康の神領御朱印地52石の寄進」など日本史の超ビッグネームがいろいろと関わっている様です。
写真=葛飾八幡宮の拝殿です
今の社殿は大正2年(1913年)に改築されたとの事。 -
写真=葛飾八幡宮の神楽殿です
中に大絵馬が掛けられています。 -
イチオシ
写真=千本公孫樹(いちょう)です
葛飾八幡宮の御神木として代々大切に保護されてきたそうで「推定樹齢は1200年を超える」とか。千年公孫樹じゃないの?と思いきや「多数の幹が寄り集り,まるで一本の大樹が根元から伸びているように見える」のが名前の由来だそう。
「落雷によって地上6mほどの高さで幹が折れ」たものの「その周囲から伸びた多くのひこばえ(萌芽)が成長したことで,今のような樹形になった」と言い伝えられているとの事です。
いや~,これはすごいですね!
ベトナムでこんな感じのすごい木をいくつか見たのを思い出しましたけど,何か霊的なパワーを感じるというか。映画とかで出てきたら絶対すごい現象を起こしますよね(笑)。
国の天然記念物らしいですが,納得です。 -
写真=いきなり「江戸城旧石垣刻印石」なんてのがありました
太田道灌繋がりでしょうか?何の刻印だかは分かりませんが。 -
葛飾八幡宮には他にも
写真=葛飾天満宮など様々な神が祀られていました
こういうのを「摂末社」というんですね。知りませんでした。 -
「摂社」はその神社の祭神と縁故の深い神を祀った神社,で「末社」はそれ以外のもの,との事。なるほど。
写真=厳島神社もありました
神々の関係どころか神々の名前すらロクに知らないからなぁ・・・。 -
写真=「源頼朝公 駒どめの石」です
頼朝が葛飾八幡宮を参拝した時,頼朝の馬がこの石に前脚を掛け,ひづめの跡を残したとか。 -
写真=葛飾八幡宮の鐘楼です
鐘楼も本来お寺にあるものとの事ですが,神仏分離でここの仁王様は場所を移され仁王門は改名されたのに,鐘楼はそのまま残っています。
「鐘楼はどうしても残したい」という熱いドラマが当時あったのかもしれませんね。 -
葛飾八幡宮の参道脇に石碑が並んでました。
写真=一番右の石碑が「川上翁遺徳碑」です
知らなかったのですが,千葉県は日本最大の梨の産地で,市川市は中でも有数の梨の産地だったんですね。
で,川上善六という人が「市川市で最初に梨栽培を始めた」らしいです。「善六が梨栽培を始めたのは明和7年(1770年)のこと」で最初はうまくいかずも,その後「(葛飾八幡宮を管理していた)法漸寺の境内で梨栽培を本格化させた」とか。
江戸の市場で取引されるようになり「『八幡梨』として有名に」なったそうです。
この遺徳碑は大正4年(1915年)に建てられたそうな。 -
見所の多かった葛飾八幡宮を後にして
写真=本八幡駅に寄ります
1935年開業で,駅北口の菅野・八幡地区は「戦前から豪商の別荘地として栄え、お屋敷街を形成する高級住宅街となっている」そうです。 -
5つ目の宿場,八幡宿の痕跡は全く見つかりませんでした。
ちなみに「八幡宿」で検索すると「長野県佐久市」のが出てきます。「八幡宿 市川」で検索すると「八幡宿駅~市川駅の乗換案内」が出てくる有様です(苦笑)。
元々こちらの八幡宿は隣りの船橋宿が賑やかなこともあって,あまり栄えなかったとか?
写真=県道6号線に入り,総武本線の下をくぐります -
しばらく歩き東京外環道を渡ります。
写真=東京外環道の市川駅方面です
正式名称は「東京外環自動車道」で,練馬区から埼玉県を通って市川市に至る高速道路だとか。
この辺りは2018年に開通していますが,全線開通にはまだ時間がかかりそうです。 -
写真=甲大神社です
「永延2年(988年)当地に鎮座」との事で,歴史ある神社ですね。
応神天皇の兜を祀るという説や,平将門の兜説,源義家の兜説など多くの言い伝えがあるそう。これも歴史があるからでしょうか。 -
京葉道路をくぐります。抜けるとすぐに・・・
-
写真=「延命地蔵」があります
享保12年(1712年)に椎名茂右衛門という人が道標として,かつ「通行の安全と辻斬り・追い剥ぎ等の災難に遭われた人達の供養のため」に建立したそうです。
元々は「千葉街道(国道14号線)と行徳街道(八幡道)の交わる八幡の四つ角」にあったらしいですが,昭和6年と昭和60年に開発工事のため2度の移動で,とりあえずここに落ち着いたもよう。
この場所というのが・・・ -
「一本松」のある場所です。
写真=今は左の切り株になってしまいましたが
この場所はそもそも,慶長年間(1596~1615年)に伊奈備前守忠次が徳川家康の命で,上総道(千葉街道)の改修をしたときに新しい道(八幡新道)をつくって,その分岐点にあたる場所との事。
そこから約200年後の1800年頃に植えられた松が「一本松」だそう。
京葉道路からの排気ガスの影響などによって枯れてしまい,昭和48年に伐採されてしまったとか。
さてその分岐点から,県道6号線を離れ昔の道に入って行きます。 -
「一本松」の説明板に「むかし,行徳から市川に向うには,今日の行徳橋あたりから稲荷木の雙林寺前を通り,稲荷神社からこの地に出て」とありましたが
写真=その「稲荷神社」です -
写真=「雙輪寺」です
享保6年(1721年)に福王寺という名で創建され,昭和13年(1938年)に龍厳寺と合併して雙輪寺になったそうです。
ちなみに「一本松」説明板と字が違いますね・・・? -
すぐに江戸川の土手に着きました。ついにここまで来た!って感じです。
行徳橋を渡りますが,令和2年(2020年)に開通したばかりの様です。令和の橋だ!
写真=それまで利用されていた旧行徳橋です
旧行徳橋は昭和31年(1956年)に建設されたそうで「60年を経て老朽化が深刻になっていること」などを理由に新橋がつくられたとの事。 -
旧行徳橋は行徳可動堰(かどうぜき)と一体構造だったそうな。
写真=行徳可動堰です,右に新しい行徳橋が,左に少し旧行徳橋の名残が見えてます
行徳可動堰は台風などの洪水時の水量増大に対処するために昭和25年(1950年)に着工され昭和32年(1957年)に完成した様です。
上下に可動して水量を調節するって事ですね。
所で行徳橋は「江戸川放水路」に架かっていますが・・・ -
「江戸川放水路」は大正8年(1919年)に洪水被害の対策として,江戸川から水を直線ルートで東京湾に流すようにつくられているとの事。
これで江戸川は河口の辺りで2つに分かれる様になってますが,ここで「ん?」と思うような事が。
「江戸川」と「江戸川放水路」は1965年からそれぞれ「旧江戸川」と「江戸川」になったとか。という事は・・・。
僕は子供の頃から勝手に「江戸川の東は千葉県で,西は東京都」だと思っていたのですが,浦安市と市川市の一部(行徳など)は「千葉県なのに江戸川の西」だったんですね!いや~驚きました。
ちなみに旧旧行徳橋は1920年に架けられて,木製だったそうです。じゃあ100周年を狙って架け替えたんでしょうかね?
写真=旧行徳橋と江戸川(江戸川放水路)です -
さて,ようやく最後の6つ目の宿場,行徳宿に入りました。
行徳は「行徳千軒寺百軒」と言われる程お寺が多いそうです。
と,言いつつ最初は神社で始まったりします。
写真=「春日神社」です
春日神社は大永7年(1527年)創建で,元々は別の場所にあった様ですが「江戸川放水路工事のため」に大正3年(1914年)今の場所に移転したとか。 -
写真=「正源寺」です
文安元年(1444年)の草創との事。
「みどころ」は「鎮守開運辨財天女」だそうですが,御開帳した記録が残ってないそうです。で「御開帳するときは盲目になると言い伝えられ」ていて「盲目辨天」とも言われているそうな。
すなわち「見てはいけない」って事でしょうか。それを「みどころ」と言われても・・・(苦笑)。 -
写真=「神明(豊受)神社」です
「金海法印という山伏が伊勢内宮の土砂を中州(現江戸川区東篠崎町辺り)の地に運び,内外両皇大神宮を勧進して神明社を建立した」のが始まりだそう。
この地に遷座したのは寛永12年(1635年)の事とか。
ちなみに金海法印という人は「徳が高く行いが正しかった」ことから人々に「行徳さま」と敬われていて,それが地名になったらしいです。へぇ~! -
神明(豊受)神社の敷地に,
写真=「行徳町道路元標」があります
道路元標は,大正8年(1919年)に告示された道路法施行令によって「各市町村に,道路の起点や終点および町村の位置を示す指標として設置された」もので「道路の等級や幅員を決めるなど,その後の全国にわたる道路整備の基点になる」ものだったそうです。
「市町村役場の近くおよびメインストリートや交差点付近など,多くの人の目につきやすい場所に設置され」たとか。 -
神明(豊受)神社のすぐ奥に,
写真=「自性院」があります
天正16年(1588年)開基で,神明(豊受)神社の別当寺(神社を管理するために置かれた寺)だったそうです。
みどころは「勝海舟自筆の碑」だそうですが,見つけられませんでした・・・。 -
写真=寄り道で「寺町通り」を行きます
が,寺の気配ないですね。この写真だと(苦笑)。 -
イチオシ
「徳願寺」に立ち寄ります。
もともと普光院という名で,勝願寺というお寺の末寺だったそうですが,慶長15年(1610年)徳川家康の帰依により「徳川の徳と勝願寺の願をとって,改めて『徳願寺』の名がつけられ」たとの事。
写真=徳願寺の山門です
山門は安永4年(1775年)の建築で,例の「葛飾八幡宮から移された仁王像」が安置されています。繋がりました! -
本尊の阿弥陀如来像は「かつて源頼朝の室政子が、仏師運慶に命じて彫刻させたものといわれ」「徳川家康が二代将軍秀忠夫人のため,鎌倉から江戸城に遷した」が,夫人が亡くなった後にここの本尊になったとか。
う~む,すごい。本格派ですねぇ。
更に「三代将軍家光からは本尊供養料として,慶安元年(1648年)朱印十石が与えられた」との事。
写真=徳願寺の本堂です
本堂は,安政3年(1856年)火災により焼失したものの大正5年(1916年)に再建されたそうです。 -
廃藩置県で誕生したものの短い命だった「印旛県」(1871~73年)の県庁が一時的に徳願寺に置かれたこともあるそうです。
更に明治6年(1873年)行徳小学校が徳願寺を仮校舎として誕生しているとか。
いろいろすごいな!
写真=徳願寺の観心堂です -
いきなり,
写真=「宮本武蔵を供養する石地蔵」もあります,左側です
宮本武蔵伝説がまた出てきました。この辺にも伝わっているんですね。前に出てきた「藤原観音堂」は・・・ん?「徳願寺の土地である」との事!また繋がったー!(笑) -
写真=徳願寺の鐘楼です
山門と同じく安永4年(1775年)の建築だそうです。 -
寺町通り付近の他の寺にも行ってみます。
写真=「法善寺(塩場寺)」です
本堂らしきものが見当たらないなと思いましたが,かつて茅葺屋根をもった壮大な本堂あったそうです。でも明治14年(1881年)「火災によって寺の記録や宝物など,すべてが焼失して」しまったとの事。残念。
慶長5年(1600年)河本弥左衛門という豊臣家に仕えていた武士が「関ヶ原合戦ののち行徳に来住し,仏門に帰依してこの地に一寺を建立した」のが法善寺の始まりだとか。
関ケ原の戦いって1600年の9月ですよね。そのあとに行徳に来て,武士からお坊さんになって,その年のうちにお寺建立って・・・早業ですねぇ。まぁ,そういう事でどの程度時間かかるのか,僕はよく分からないですけど。
その河本弥左衛門が「塩焼」の製法を教えたことから「塩場寺」とも呼ばれるようになったらしいです。
-
写真=「妙覚寺」です
中山法華経寺の末寺で天正14年(1586年)に創建されたそうです。
妙覚寺には「東日本では大変めずらしい」千葉県にただ1つ(2つという説もある様ですが)と言われる「キリシタン燈籠(とうろう)」があるとの事。
やべー,見逃した!全然気付いてなかったです(苦笑)。
戦国時代の大名「古田織部の創案であったといわれ,別名『織部燈籠(おりべとうろう)』という」らしいです。へぇ~。
-
さて,木下街道に戻ろうとする途中,街道と並行するような狭い道を見つけました。
写真=「権現道」です
なんの変哲もない路地に見えますが,その正体は「権現様=家康様が通った道」だそう。「徳川家康が東金に鷹狩りに行く際通ったと言われる道」とか。
道沿いにはお寺が多く「江戸時代初期頃は,地域のメインストリートであったと考えられ」るとの事。 -
今更ですが,昔は「道の名を呼ぶに当たって行き先の名前をつけたので,木下方面から江戸へ向かう人にとっては,この道が『江戸道』『行徳道』」だったとか。
その定義でいくと,僕はお馬鹿さんだった様です(苦笑)。
つまり「木下から行徳へ歩く」選択をした時点で「行徳街道を歩く」事になっていたんですね。ゲ,この終盤でどんでん返しかよ,ってな感じです。
ちなみに現代でもこの道は「行徳街道」という名です。
まぁ,でもめげずに「木下街道を歩く」を続けようと思います(笑)。
写真=とにかく木下街道(行徳街道)に戻りました -
写真=「平川医院」です
洋風のいい感じの建物ですね。今まで木下街道では見かけなかったタイプの建物かも。大正5年(1915年)の建築らしいです。 -
写真=「澤木酒店」です
まだ現役で営業しているみたいです。 -
写真=「田中邸」です
明治10年(1877年)築の建物だそうです。
田中家は「350年前から続く旧家」で「行徳塩田所有者であった塩場師(ショバシ)」だった様です。
この家は行徳町(1889~1955年)の町長だった方が建てたそうな。 -
写真=「加藤家住宅主屋・煉瓦塀」です
主屋と煉瓦塀,共に国登録有形文化財だそうです。
加藤家は塩問屋だった様ですが,行徳の豪商は塩関係が多かったみたいですね。 -
イチオシ
さあ,いよいよゴールが近づいて来ました!
写真=「笹屋うどん跡」です
「江戸時代,陸路で来てもここに寄らない人はいなかったと言われるほど繁盛したうどん店」との事。「陸路で来ても」ってのがポイントです。基本は船で来る場所なんです。そう,船着場に近いお店です!ゴールは近い!
「笹屋うどんは江戸から明治にかけて,広く京浜地方にまでしられた行徳の名物」で「旅人の立寄らざるはなし」だったとか?とりあえず江戸時代の「行列のできる店」だったのでしょう。
十返舎一九が紀行文で紹介してたりするそうです。
しかもこんな伝説まであります!
「1180年(治承4年),石橋山の戦いで大敗を喫した源頼朝は,安房国へと逃げ延びる途中で下総国行徳に漂着し,うどん屋仁兵衛が出したうどんと酒肴で力を得ることができた」とか。
そこで頼朝が「そなたにロトの称号を」もとい「そなたに笹りんどうの家紋を与えよう」とか言って「仁兵衛は家名も笹屋と改めた」のだそうです。へぇ~!
「頼朝の名付け親伝説」は各地に残っているそうですが,ここもそうだったんですねぇ。
ちなみに写真の建物は安政元年(1854年)築だそうです。 -
笹屋うどん跡からすぐ脇に入ると,
写真=「行徳新河岸(船着場)」が見えます!
江戸時代の新河岸は「船で往来する人や物資などで賑わう場所」で「成田山につながる成田道の起点」でもあったとか。
この道筋には「番人が詰める施設と掟などが記された高札場」があった様です。なるほど。
船降りてちょっと緊張モードになりそうですね。お気楽モードとはいかない様です。現代の飛行機乗る時のパスポートチェックや荷物検査の緊張感と似てそうです,なんとなく。 -
イチオシ
木下河岸跡から2日間歩き続けて,ついに行徳新河岸跡に到着です!
ちなみに元禄3年(1690年)「河岸がこの地に移り,新河岸として」整備されていったとか。
写真=結構大きな「常夜灯」が迎えてくれました
常夜灯は文化9年(1812年)に「江戸日本橋の成田講中(成田山新勝寺にお参りに行く人々のサークルみたいなもの?)が航路安全を祈願して建てた」そうです。
「江戸川を行き交う船や多くの人々の目印の役割もはたしてきたと思われ」るとの事。はい,それだけの高さはあると思います。 -
江戸時代,まさにこの場所から船が出たんですねぇ。
「江戸と行徳を行き交う船の運航が始まったのは,寛永9年(1632年)のこと」だとか。「この船は行徳船と呼ばれ,江戸川を下り,新川・小名木川を経由し,日本橋小網町まで就航」していたそうです。
写真=行徳新河岸から見た旧江戸川です
銚子から船で運ばれ,木下から陸路で,そして行徳から再び船で運ばれた鮮魚は,日本橋でおいしいお寿司になったりしたのでしょう。
醤油もいいけど,行徳の塩をつけて食べてもおいしそうです(笑)。 -
この場所は現代では常夜灯をシンボルとした「常夜灯公園」になっています。
この辺りは「海抜の極めて低い地域や密集市街地も多く,堤防強化が求められて」いた様です。で「約300mの区間をスーパー堤防化のモデル地区として位置づけ,常夜灯周辺地区整備事業として整備を進める」ことになり,2009年に整備されたそうです。
「緊急船着場としての機能」ももっているとの事。
少しこの公園で休むことにしました。 -
「スーパー堤防」が気になりちょっと調べてみましたが,驚きました!
「スーパー堤防とは,堤防の幅が150mから300mもある超巨大堤防のこと」らしく,普通の堤防とは全く違って「堤防の上に住居が立ち並ぶ」感じだそう。
東北の被災地でやっている「高台の上に住居を建てる」イメージに近いのでしょうか。
そして,例えば江戸川区の計画では「完成までに200年と2兆7000億円要し」て「9万人を立ち退かせる」となっているとか!すごいスケールだなこりゃ!って感じです。
事業開始は1987年との事。これでピンときました。「バブル時代に尋常とは思えない(下手すると狂気じみた・苦笑)壮大な計画がいくつも考えられていた」ってのは聞いた事ありましたが,これはまさにそれの1つじゃないでしょうか。 -
イチオシ
さて,もうちょっと行徳街道を行きます。
写真=「旧浅子神輿店店舗兼主屋」です
塩と船の他に,行徳では「神輿造りは1つの地場産業」だったそうです。
応仁の乱(1467~78年)の頃に「初代浅子周慶が創業したとされる浅子神輿店は独特な神輿造りで広く受け入れられた老舗」だったと。
500年以上神輿製作に携わっていたものの,残念ながら平成19年(2007年)に廃業となってしまったとか。
昭和4年(1929年)築の建物で,国登録有形文化財になっています。 -
旧浅子神輿店からすぐに,道が大きく曲がりますが・・・
-
2回,ほぼ直角に曲がっています。どうやら「桝形」とか「鍵の手」と言われる造りの様です。
宿場の出入口などでこういった造りが見られるそう。「敵の侵入を防ぐための防衛手段」「大名行列のすれ違いを避ける」「中を見えない様にする」など,いろいろな目的があるとか。
写真の左「藤井畳店」もいい味出てる建物ですね。 -
「徳蔵寺」に寄ろうとしますが,その途中でまた
写真=「権現道」を見つけました
ここと先程の「徳願寺」の近くが「権現道」の起点・終点になるそうです。
所で,この道を小学生が下校の時間か歩いてました。「家康様の通った道」を登下校に使う子供って,なんかすごそう(笑)。僕なんか,なんの変哲もない最近の道でしたからねぇ。 -
写真=「徳蔵寺」です
天正3年(1575年)に建立されたそうです。
安政2年(1855年)の「安政の大地震」,大正6年(1917年)の大津波と度々被害に遭っているとの事。
徳蔵寺は「行徳不動」と呼ばれているらしいですが,元々は「宝性寺」というお寺に不動明王があったそうです。
昭和30年(1955年)「不動明王を徳蔵寺に移した」翌日に「宝性寺本堂が老朽化により倒壊」してしまったとか。翌年「宝性寺が廃寺となり,徳蔵寺に併合された」様です。 -
再び「桝形」になりました。2ヶ所の桝形の距離は2~300mでしょうか。なんのためなのか,よく分かりません。
ちなみに桝形は今風の表現だと・・・ -
こうなるという事がよく分かりました。
-
写真=「田中幸之助翁・誕生の地」です
「江戸川が交通の要所として栄えた」江戸時代,行徳は「多くの人々が行きかう賑やかな土地」でしたが,明治に入って「総武線が市川・本八幡を通った事」で「発展の遅れを余儀なくされていった」との事。なるほど。
田中幸之助氏(1890~1969年)は「区画整理事業と地下鉄東西線の早期誘致・駅の開設が絶対条件であると身を挺して奔走」して,行徳発展の礎を築いた,と。へぇ~。こういう方がいたんですね。
田中氏がいなければ行徳駅はなかったかもしれない,という事でしょうか。 -
さて,押切交差点で旧江戸川の方へいくと,
写真=「湊水神宮」があります
「古くから地元漁師の人々に豊漁,海難除けの守り神として崇められていた」そうです。
更に「船の安全運行,川遊びに興じる子どもたちの水難除けと水泳上達を祈願して」お参りされていたのが,いつの頃からかお祭の形として年々盛大になっていったとの事。
現在も「水難除けと水泳上達,交通安全,受験生の合格祈願の神として崇められ」水神祭というお祭りの当日には「数千名の参拝者」があるとか。
え!この場所に数千名!?
当日は「多くの露天商が出店し」「夕方5時頃から徐々に参拝者が増えてゆき」「ピークは6時半頃から8時半頃までで」「神社付近は身動きできないほどの人手」になるらしいです。
そりゃ,このスペースに数千名だったら身動き出来ないでしょうね・・・。
でネットで映像を見てみましたが,ホントにすごい人でした!
僕が行った時なんか「人がいるかいないか」だったのに。 -
湊水神宮のすぐ隣に,
写真=「押切排水機場」があります(右の方に湊水神宮があります)
なんとここにも「行徳河岸(祭礼河岸)旧跡」なんてのが。どういう事?
元々は寛永8年(1631年)頃までに,ここから東に3~400m行った辺りの所にあり,元禄3年(1690年)にこの辺りに移設されたそうですが。
そしたら,ここは・・・ -
「貨物専用の河岸」だそうです!
って事は銚子からの鮮魚はこっちから出た?
「銚子などからの魚,スイカ,ウリ,前裁(植木?),大根,薪,塩,米その他の産物が馬で運ばれてきて積み出され」た様です。
最後でどんでん返し!というか訂正です(苦笑)。
写真=「押切水門」です(「押切排水機場」と並んでます) -
最後は行徳駅まで歩いて帰ります。
写真=行徳駅です
木下街道を歩き切って,いろんな事が学べました!江戸時代の事だけではなく,街道がその後どういう風に変わったか,っていうのも分かり興味深かったです。
また,別の街道を歩いてみたいと思います。
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