2014/05/16 - 2014/05/16
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jijidarumaさん
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かつての旅ではこうした言い方をする町や、地方、宮殿など訪れた。
例えば、Bambergバンベルクを「フランケンのローマ」と言い、「Klein Venedig小ヴェネチア」と称されるかつての漁村があり、古都Schwerinシュヴェリーンは「北のフィレンツェ」、シュヴェリーンの南40km南にあるSchloss Ludwigslustルートヴィヒスルスト宮殿は“das Klein-Versailles des Nordens「北方の小さなヴェルサイユ宮殿」といった言い方をしたのを思い出す。
写真はノイブランデンブルク:4つの門④ Treptower Torトレップトアー門
町の城壁の西に位置する門は1400年頃に建てられた。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
私の好きな地方はFraenkische Schweizフレンキッシェ・シュヴァイツ=「フランケンのスイス」という呼び名も知られている。
「フランケンのスイス」は南がNuernbergニュルンベルク・西にバンベルク・東はBayreuthバイロイト・そして北のマイン川上流の渓谷の間にある、緑豊かな、美しい高原地帯である。文字通りフランケン地方のスイスと呼ばれ、低い山の連なる丘陵(標高300mから600mほどの山や丘陵が連なる地域)には時には切り立った断崖をもった岩山や渓谷も多く、起伏に富んだ地形になっているので、スイスに重ね合わせてこう呼んでいる。
この風景を好んだドイツ人は「ドイツ魂の隠れ家」と呼び、当時から保養の地としてきた。またニュルンベルク、バンベルク、バイロイトと古都に囲まれ、歴史的価値のある古城を有した美しい町々が点在している。
古くから、岩山を利用した要害堅固な城が築かれて、中世には「フランケンのスイス」地域においては170を数える、様々な城郭があったが、現在でも居住し、あるいは居住が可能である、古城は39も残っている。
その内、24の古城は絶壁の上に聳え、しばしば絵画的なジュラ山地上に、岩山の上に君臨している。それらの城は「フランケンのスイス」の風景の中に、最も大きく、魅力的な宝石として、点在している。
驚くことに、二つの古城Burg Aufsessアウフゼス城、Burg Egloffsteinエグロフシュタイン城では、その城の築城者の子孫が今なお、その城に居住している事である。800年を超す、長い歴史が過ぎる間、城を所有し、且つ居住してきた。
写真はMecklenburg-Vorpommernメクレンブルク・フォアポンメルン州の地図とノイブランデンブルクの位置・・・この一帯は湖水地方になる -
更にSaechsische Schweizザクジシェ・シュヴァイツ=「ザクセンのスイス」、Maerkische Schweizメルキシェ・シュヴァイツ、Mecklenburgische Schweizメクレンブルギシェ・シュヴァイツ、Holsteinische Schweizホルシュタイニシェ・シュヴァイツなどの呼称があり、「Schweiz (スイス)」は19世紀の人々が、山、谷、岩に富んだ場所に対して好んで用いたと云う。
私自身は他国の観光地の名を冠するのはどうかと思っている。
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写真はNeubrandenburgノイブランデンブルクの紋章:
銀色の楯の中に、ゴシック様式の2つの城門、2つの尖塔を備えた市城壁。
尖塔の間にブランデンブルクの創設者、マーグレイブ・ヨハン1世の紋章の上層部分の赤いワシの飛翔と青い甲冑が見らえる。
町の門でノイブランデンブルクが要塞化された都市であることを示している。 -
ドイツには「・・・のローテンブルク」と称される町々も意外とある。
それでもドイツ国内の・・・地方のローテンブルクといった言い方はまだご愛敬かもしれない。
幾つか拾った「・・・地方のローテンブルク」をシリーズで御紹介した。
<ドイツの春:北方二州・シュレースヴィヒ・ホルシュタイン州&メクレンブルク・フォアポンメルン州を中心に巡る旅>
期間:2014年05月09日~23日 15日間
5月16日(金) 229km、晴天、18.5℃、漸く暖かな5月の天候。
(ここまで行程のおよそ半分で総走行距離は1,165kmになった。)
朝の13.5℃から、どんどん気温が上昇し、日差しも眩しいぐらいだ。午後には18.5℃と漸く5月らしい天候になってきた。前半1週間の寒さはどこに行ったのか!新しいアウトバーンは走りやすく、走っている車も少ない。
Ralswiekラルスヴィーク/Ruegenリューゲン島からNeubrandenburgノイブランデンブルクには1時間40分で着いた。
旧市街の中心マルクト広場の地下駐車場に車を置いて、観光に出た。
(駐車料金は10:43~13:27でEuro1.8と安い。)
写真はノイブランデンブルクの俯瞰1・・・楕円形の緑(内側に市城壁)に囲まれた町が旧市街になる。中央にマルクト広場、北西にFangelturmファンゲル塔、西にTollenseseeトレンゼゼー湖が見える。 -
≪Neubrandenburgノイブランデンブルク≫
10:40~13:35
http://www.neubrandenburg.de/
マルクト広場、St. Marienkirche聖マリエン教会=>Konzertkircheコンサート教会、4つの門、Fangelturmファンゲル塔、市庁舎、Wiekhausヴィークハウス、Schauspielhaus Neubrandenburgノイブランデンブルク劇場などが観光名所。
ノイブランデンブルクは人口63千人、メクレンブルク・フォアポンメルン州ではRostockロストック、Schwerinシュヴェリーンに続く第3の町になる。
ベルリンの北135kmにあり、市の南西に大きなトレンゼゼー湖が位置する。
第二次世界大戦前、ノイブランデンブルクは「Rothenburg im Norden北のローテンブルク」だと云われた。
その大戦の際、ノイブランデンブルクの町は80%も破壊され、現在の町はドイツの各地のように再建されたものである。
だが、今も十分「北のローテンブルク」と呼ばれる面影が残ります。
樹齢100年のブナの並木道もある、落ち着いた良い町だ。
ノイブランデンブルクの歴史:
この地域の最初の居住者は1240年前後のプレモントレ修道会の修道士であった。
1248年、アスカーニエン家のブランデンブルク辺境伯は自らの領土の北側一部に町を建設した。
1292年に町とその周辺はメクレンブルクの一部となり、三十年戦争までの間、商業の中心地として繁栄した。
新教派のスウェーデン王グスタフ2世指揮下のスウェーデン軍がこの地に駐屯したが、1631年に旧教派の皇帝軍により奪還された。
第2次世界大戦の際、この町は80%も破壊され、現在の町は再建されたものである。
写真はノイブランデンブルクの俯瞰2:旧市街はローテンブルクと同じ円形都市 -
本家のRothenburg ob der Tauberローテンブルク・オプ・デア・タウバーはフランケン地方に残る“中世の宝石”と称されている。人口12千人で、ノイブランデンブルクの凡そ5分の1と小さな町である。
旧市街の周辺をぐるりと高い城壁約2.5kmが囲み、3つの門、北と南に2つの稜堡を持った町の姿は西の谷となるタウバー川から80m上の町を見上げると、それは見事な城塞都市である。
この景観をドイツ人は“縁なし帽子のとんがり“と呼ぶと云うが、なんとなくわかる気がする。
写真は本家のRothenburg ob der Tauberローテンブルク・オプ・デア・タウバーは“中世の宝石”と称される。・・・ローテンブルクの旧市街図ローテンブルク市庁舎 建造物
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ローテンブルクの町は第二次大戦の被災で旧市街の40%を失ったが、昔のままに再建されている。
だから、ノイブランデンブルクと比べると、本家のローテンブルクの方が戦災も半分で、恵まれているようだ。
写真は本家のRothenburg ob der Tauberローテンブルク・オプ・デア・タウバーの旧市街図 -
イチオシ
<“Stadt der Vier Tore4つの門、Fangelturmファンゲル塔、 Wiekhausヴィークハウス”を回遊した>
ノイブランデンブルクは「Stadt der Vier Tore4つの門のある町」との異名があり、中世のゴシック風の門とほぼ完璧に残る14世紀の市城壁(2300mの距離で高さ7m)が円形の町を囲んでいる。
城壁上は歩く事も出来る。また、この地方独特のWiekhausヴィークハウスと称する家屋は要塞都市の市城壁に組み込まれている。
この町は“Brick Gothic(レンガゴシック)”の中世遺産が多いことで知られており、Stralsundシュトラールズント同様にEuropean Route of Brick Gothic(ヨーロッパ・レンガゴシックの道)にも属している。
4つの門はいずれも違う形の2つの門を作り、その間を高い壁で囲んでいる。
独自の稜堡・防衛施設の形を作り、町の周辺を囲む城壁に連結している。
今は稜堡内の建物をカフェ、レストラン、土産物屋、博物館などに有効利用している。
写真はノイブランデンブルク:4つの門① Stargarder Torシュタルガルド門・・・Rotdorn西洋サンザシの花も見える。市内側から見た。 -
① Stargarder Torシュタルガルド門
シュタルガルド塔は町の南の出入り口になる。14世紀の半ばに建てられたもので4つの門のうちで一番高い32mを誇る。
2つの水車小屋の一つはレストランに貸与していて、いまだ、なめし皮用の樹皮を引くうすは健在だという。
写真はノイブランデンブルク:4つの門① Stargarder Torシュタルガルド門・・・外側からみた門 -
② Neues Tor 新門
城壁の東に15世紀の終わり頃、新門が建設された。
写真はノイブランデンブルク:4つの門② Neues Tor 新門 -
写真はノイブランデンブルク:4つの門② Neues Tor 新門・・・今は稜堡内の建物をカフェ、レストラン、土産物屋、博物館などに有効利用している。
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③ Friedlaender Tor フリードレンダー門
最も古いフリードレンダー門は北東に位置する。8mの囲い壁をもち防御郭の形態を最も良く残している。
写真はノイブランデンブルク:4つの門③ Friedlaender Tor フリードレンダー門 -
写真はノイブランデンブルク:4つの門③ Friedlaender Tor フリードレンダー門・・・外側から見た
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写真はノイブランデンブルク:4つの門③ Friedlaender Tor フリードレンダー門・・・防御郭の内側から見た
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イチオシ
④ Treptower Torトレップトアー門
町の城壁の西に位置する門は1400年頃に建てられた。
1872年以来、メクレンブルクの州立博物館として作られたが、現在は先史時代の郷土博物館に利用されている。
写真はノイブランデンブルク:4つの門④Treptower Torトレップトアー門…外側から -
写真はノイブランデンブルク:4つの門④Treptower Torトレップトアー門・・・今は稜堡内の建物をカフェ、レストラン、土産物屋、博物館などに有効利用している。
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写真はノイブランデンブルク:4つの門④ Treptower Torトレップトアー門・・・内側から
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写真はノイブランデンブルク:市城壁
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⑥Wiekhausヴィークハウス
ヴィークハウスは14世紀以来のもので、成り立ちについては様々な説明が試みられている。
Wiekについては先にバルト海沿岸の浅い入江、小湾の意味だと書いたが、ここで最適なのは古高地ドイツ語のAusweichen避ける、待避する・・の意味であろう。
つまり、中世の城壁に防衛上の突き出した場所(出窓・バルコニーのような)を作ってヴィークハウスと名付けた。
町によっては小さな石造りの家・塔を城壁に付け加え、その場所には防衛目的である“Wehrgang城壁上の銃眼のある通路”を作った。
今はヴィークハウスを個人住居、レストラン、事務所として使用されている。
写真はノイブランデンブルク:市城壁とこの地方独特のWiekhausヴィークハウス -
イチオシ
その一つ、Gaststaette Wiekhaus 45レストラン ヴィークハウス45がある。
その前で興味深くレストランの様子や料理の案内を見ていたら、これからここで昼食を食べるという地元の小父さんたちが声をかけてくれた。
“興味があるなら、中を見せてもらうようにレストランに聞いてあげよう!”と言ってくれた。
ご親切にも直ぐに給仕さんの了解を取ってくれた。
写真はノイブランデンブルク:Gaststaette Wiekhaus 45レストラン ヴィークハウス45 -
3階建てのレストランには張り出し窓があり、階段も狭く、レストラン内はそれほど広くはない。
・・が、すでにお客を迎える準備がされているテーブルには蝋燭が灯され、良い感じだ。小父さんたち、きっと楽しい昼食会になっただろう。
写真はノイブランデンブルク:Gaststaette Wiekhaus 45レストラン ヴィークハウス45の3階 -
写真はノイブランデンブルク:Gaststaette Wiekhaus 45レストラン ヴィークハウス45の3階
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先ほどの小父さんは第二次大戦時、子供だったが、ソ連兵とこの城壁を挟んで、ドイツ軍の大人たちと一緒に戦ったと言っていた。
そら!あの先に見える窪みが当時の塹壕の名残だよと・・・。
写真はノイブランデンブルク:市城壁と塹壕の名残 -
写真はノイブランデンブルク:⑥ Wiekhausヴィークハウス・・・中世以来の市城壁に作られたヴィークハウス。1902年に再建。
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⑤ Fangelturmファンゲル塔
Fangファングは獲物、わなの意味があるが、獲物の塔とでもいうのか?よく分からない。
旧市街の北西に位置し、中世の町の城壁に付属した防御塔だったようだ。
3階建ての円形の塔には凸壁円縁、円錐形の兜を被ったような尖塔が付いている。高さ25m、直径6.5m、下部の壁の厚さは2.3mだと云う。
15世紀に建設された二つの防御塔の一つで、Wiekhausヴィークハウスの上に建てられた。二つの防御塔はHerzogtum Pommernポンメルン公爵家に対して、町の北部の防衛の役目を持っていた。
20世紀頃はファングの意味のように監獄になっていた。
写真はノイブランデンブルク:⑤ Fangelturmファンゲル塔 -
写真はノイブランデンブルク:マルクト広場の旧市庁舎とパレス(戦災で破壊された)
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Schauspielhaus Neubrandenburgシャウシュピールハウス・ノイブランデンブルク:1794年に建てられたもので、この州で最も古い木組みの歴史的劇場の一つに数えられている。
この劇場はPfaffenstrasseプファフェン通りにある。
写真はノイブランデンブルク:木組みの歴史的劇場 -
写真はCaspar_David_Friedrich_um 1816,カスパー・ダヴィット・フリードリヒカスパー・ダヴィッド・フリードリヒの1816年頃の作品: Stadtansicht von Nordostenノイブランデンブルクの景観
*カスパー・ダヴィッド・フリードリヒ(1774年~1840年)は、ドイツの画家。
グライフスヴァルト出身、ドレスデンで没する。フィリップ・オットー・ルンゲとともに、ドイツのロマン主義絵画を代表する。宗教的含意をふくむ風景画によって知られる。
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この町は小さな城壁に囲まれた町なので、インフォーメーションでもらった地図を見ながら歩いても、分かりやすい。
美しく咲くRotdorn西洋サンザシの花を見ながら4つの門、ファンゲル塔、ヴィークハウスを城壁に沿って歩いてみた。
南のローテンブルクには歴史や文化面で負けるが、思っていた以上に良い町だと思った。 -
写真はBrandenburg-karteブランデンブルクの地図
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尚、Neuノイの付かないBrandenburgブランデンブルクの町はベルリンの西70kmにあり、Brandenburg an der Havelブランデンブルク・アン・デア・ハーフェルが正式名称でハーフェル川(全長325km、エルベ川の支流)に沿って発展した7万人の都市である。
ブランデンブルク州(州都はポツダム)に属する。
スラヴ人の支配した頃からの古い町だがまだ訪れたことがない。
写真はブランデンブルクの古い絵・1700年頃ブランデンブルク市役所 建造物
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1170年の古文書で、初めてドイツの都市権を持った町としてブランデンブルクに言及している。長い歴史を持ったブランデンブルクはかつてプロイセン自由州に属していて、第二次大戦では連合軍の空爆で壊滅的な損害を受けた。
現在属するブランデンブルク州は1990年の東西ドイツ統一の際に誕生した「新連邦州」のひとつであり、誕生時に町の名を州の名にしたため、「Wiege der Markマークのゆりかご」と呼ばれている。
二つの町は人口的にはほぼ等しいが、ブランデンブルクの町より、今回訪ねたノイブランデンブルクの方が、かつて“北のローテンブルク”と云われているように良く知られているようである。
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写真は現在のブランデンブルクの町のパノラマ
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この旅行記へのコメント (3)
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- Rolleiguyさん 2021/09/19 09:42:49
- 美しくノスタルジーを感じる街
- jijidarumaさん、こんにちは。
美しく、余り馴染みのない北ドイツの東地域ですが、印象的な街だと思いました。
4つの塔を拝見して、100年ほど前に出版されたドイツの本で見た記憶があるため、久しぶりに出してみたところ、Treptowerがありました。前後に2つの門がある塔で、説明では他の門を圧倒する美しさだと書いてありました。この門も戦災を受けたのかもしれませんが、旅行記の写真と比べると、そのまま再建されているようで感心しました。
本には、もうひとつFriedland, Neubrandenburger Tor, Feldseiteという見出しの門がありましたが、旅行記の門とは違うため、再建されなかった門があるのかなと思いました。この地域や、今はドイツでなくなってしまった東プロイセンのケーニヒスベルクや、ポーランドに組み入れられたダンチッヒなどの古い写真を見ると、今はどうなっているのだろうと思い、そうした旅行ならツアーでもいいかなと思ったりします。
普段あまり見かけない地域の詳細な旅行記をとても楽しめました。
Rolleiguy
- Rolleiguyさん からの返信 2021/09/19 10:41:13
- Re: 美しくノスタルジーを感じる街
- jijidarumaさん
訂正します。FriedlandはNeubrandenburgの北東にある街で、その街にあるNeubrandenburger Torでした。
Rolleiguy
- jijidarumaさん からの返信 2021/09/19 18:13:57
- RE: Re: 美しくノスタルジーを感じる街
- Rolleiguyさん、
今晩は。いつもありがとうございます。
たしかに、様々な旅行記もリューゲン島や、シュレースヴィヒ・ホルシュタイン州&メクレンブルク・フォアポンメルン州の2州は訪れる日本の方も少ないのでしょう。
初めて訪れたノイブランデンブルクは地方色豊かな市門が魅力的で、特に表紙にしたTreptower Torトレップトアー門とStargarder Torシュタルガルド門を好ましく思いました。
東プロイセンのケーニヒスベルクや、ポーランドに組み入れられたダンチッヒなどのツアー、興味がありますね。意外にこうしたツアーは見当たらないのですが、狙いとしては面白いと思うのです。
先に書いたメリッタ・シュタウフェンベルク伯爵夫人の出身もたしか、南プロイセンでした。
さて、フリードレンダー門とシュタルガルド門の名称について調べてみました。
?Friedland (Niedersachsen) ニーダーザクセン州のフリートラントはかつての収容所Grenzdurchgangslager Friedlandがあった事で知られている。
?Frankfurt(Oder)とCottbusの間にあるのが、Friedland (Brandenburg)ブランデンブルク州のフリートラント・・・ポーランドとの国境に近い小さな町。
?歴史的には東プロイセンに属し、1946年まではFriedland in Ostpreussenフリートラント・イン・オストプロイセンの名で知られた、現在ロシア領カリーニングラード州(かつてはKoenigsberg ケーニヒスベルク)に属するPravdinskプラヴジンスク。
1807年に、ナポレオン1世率いるフランス軍がロシア軍と戦った「フリートラントの戦い」が起きた場所である。
<Friedlaender Tor フリードレンダー門:最も古いフリードレンダー門は北東に位置する>ということから、?に向かう道の起点になる門をこのように称したと思います。
また、Stargarder Torシュタルガルド門は
?シュタルガルド城(1929年まで、Mecklenburgメクレンブルクのシュタルガルド)は、Mecklenburgische Seenplatteメクレンブルギッシェ・ゼーエンプラッテ地区にあるノイブランデンブルクの南東にある小さな町にある城です。
?Stargard in Pommernポンメルンのシュタルガルドはポーランドの北西、ノイブランデンブルクからはドイツ国境を越えた南東に位置する町です。のぞいてみると、似た風な市門が見られました。
<Stargarder Torシュタルガルド門は町の南門にあたる>ので、?の小さな町より、?のポンメルンのシュタルガルドに向かう道の起点になる門と思います。
それではまた。
jijidaruma
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旅行記グループ ドイツ「・・・地方のローテンブルク、ヴェルサイユ宮殿」
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