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2021年3月1日(月)12時半頃、淀城址公園に東側から入場する。入ってすぐの右手にあるのが與杼(よど)神社。与杼神社あるいは淀神社と書かれることもある。現在の桂川左岸の淀・納所及び右岸の水垂・大下津の土地の守護神である産土(うぶすな)神。<br /><br />平安中期に九州の肥前国の與止日女(よどひめ)神社から淀大明神(與止日女命)をお招きしたのが始まりとされるが、それ以前の神社一覧に与杼神社があり、元々高皇産霊神(たかみむすひのかみ)をお祀りしていたようだ。平安京が発展して淀川水系の水運が活発になり、水の神である淀姫を祀るようになったと思われる。<br /><br />元々はこの地ではなく、水垂村、現在の宮前橋の下流、桂川右岸の川原になっている辺りに鎮座されていたが、桂川河川敷の拡幅工事に伴い1902年(明治35年)に現在地に移転した。<br /><br />境内の東端に南東向きに建っている石の鳥居を潜って参道を進む。参道はすぐに左に折れ、社殿に続いている。手水舎(下の写真1)を過ぎて境内に入ると右手には2007年に再建された神輿庫。西社、中社、東社の3基の神輿が収められている(下の写真2)。<br /><br />正面には拝殿。葺・妻入入母屋造の舞殿風拝殿。地覆石上に地長押を廻らし床板を張る。内部は一面の格天井となっている。頭貫木鼻、雲肘木の絵様は本殿と類似している。慶長12年(1607年)、豊臣秀頼によって片桐且元を奉行として再建されたもので、桃山建築の特徴の見られる貴重な建築として国指定重要文化財になっている。2016年に葺葺きの改修が行われた。<br /><br />後方の基壇上に銅板葺・三間社流造の本殿。御祭神は豊玉姫命(與止日女)、高皇産霊神、速秋津姫命。主祭神の豊玉姫命は海の女神で元々は九州北部で信仰されていた。高皇産霊神は宇宙を造った造化三神の一柱で、モノを生み出す神で生命力の源になる神。速秋津姫命は水の神で、船乗りに信仰された神。<br /><br />本殿は内陣と外陣に分かれており、外陣は扉が開放され実質的に拝殿的な機能を持ち合わせている。本殿も拝殿と同時期の建立でかつては国重文の指定を受けていたが、1975年に中学生の花火による火災で焼失した。現在の本殿は1980年の再建。<br /><br />本殿の右手奥には日大臣(ひだいじん)社(下の写真3)。御祭神の日大臣は薬の神。神明造りの建物は伊勢神宮の由貴御倉(ゆきのみくら)を拝領したもの。本殿が焼失した後、再建されるまでの間仮本殿として使われたものをこの地に移した。由貴御倉は内宮にあり、由貴とは清浄でけがれの無いという意味で、古くは御饌祭のお供えものや果物などを納めておく倉だった。<br /><br />本殿の左手には基壇があり、その中央に石が配置されている。桂川右岸の旧鎮座地から発見された基礎石。基壇前に建つ一対の石灯籠は大阪淀屋の高灯篭と云われ、江戸中期の宝暦9年(1759年)に大坂の淀屋が奉納したもの。<br /><br />淀屋は米相場の基準となる米市を設立して莫大な財を成し、淀屋橋を築いたことでも有名。江戸時代初めに淀屋を開いた岡本与三郎(淀屋常安)は、淀周辺の出身と云われ、淀の地に家や田地も所有していたと記録に残る。淀屋は幕府を凌ぐほどの財産を有したが、宝永2年(1705年)に闕所となり、財産没収と所払いの処分となった。その後、宝暦年間に淀屋清兵衛(後期淀屋)を公称して再興を果たしており、この灯篭は淀屋ゆかりの者が再興を宣言したことを示している。<br /><br />高灯篭の向かい、拝殿の南側には末社の長姫弁財天社、豊丸社(大明神)、川上社(大明神)の赤い鳥居が並ぶ。由緒・由来等は不明。<br /><br />與杼神社の南には境内を接して稲葉神社が建つ。與杼神社の末社のように見えるが、こちらの方がこの地での歴史は古く、與杼神社がこの地に移転するより17年前の1885年(明治18年)に旧淀藩士により創建されたもの。<br /><br />淀城主を長く務めた稲葉家の初代稲葉正成公を御祭神としている。正成は戦国時代の武将で小早川秀秋の家臣だったが、関ヶ原の戦いで家康と内通し、秀秋を東軍に寝返らさせたことで有名。3代将軍家光の乳母で大奥を仕切った春日局(福)は正成の後添えだったが、福が家光の乳母になった時に離縁した。しかし、亡くなった前妻の産んだ嫡男ではなく福の産んだ正勝が後を継ぎ、5代目の正知が享保8年(1723年)淀藩城主となり、以後幕末まで12代148年間稲葉家が藩主であった。<br /><br />與杼神社の鳥居の左側(西側)に稲葉神社社の鳥居が東向きに建つ。鳥居を抜けると奥の基壇上に瓦葺・向唐破風の中門(拝所)と瑞垣が設けられ、その内側に本殿が建つが、本殿は覆屋に納められいる。<br /><br />本殿の左側(南側)には稲荷大明神・日吉大明神・熊野大神宮の三社合殿社が東向きに鎮座しているが、鳥居は朽ちかけておりとても荒れている(下の写真4)。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.6274037849332853&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />淀城址公園内を回るが、続く

京都 淀 與杼神社 & 稲葉神社(Yodo Shrine & Inaba Shrine, Yodo, Kyoto, JP)

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2021/03/01 - 2021/03/01

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旅行記グループ 京都淀

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ちふゆ

ちふゆさん

2021年3月1日(月)12時半頃、淀城址公園に東側から入場する。入ってすぐの右手にあるのが與杼(よど)神社。与杼神社あるいは淀神社と書かれることもある。現在の桂川左岸の淀・納所及び右岸の水垂・大下津の土地の守護神である産土(うぶすな)神。

平安中期に九州の肥前国の與止日女(よどひめ)神社から淀大明神(與止日女命)をお招きしたのが始まりとされるが、それ以前の神社一覧に与杼神社があり、元々高皇産霊神(たかみむすひのかみ)をお祀りしていたようだ。平安京が発展して淀川水系の水運が活発になり、水の神である淀姫を祀るようになったと思われる。

元々はこの地ではなく、水垂村、現在の宮前橋の下流、桂川右岸の川原になっている辺りに鎮座されていたが、桂川河川敷の拡幅工事に伴い1902年(明治35年)に現在地に移転した。

境内の東端に南東向きに建っている石の鳥居を潜って参道を進む。参道はすぐに左に折れ、社殿に続いている。手水舎(下の写真1)を過ぎて境内に入ると右手には2007年に再建された神輿庫。西社、中社、東社の3基の神輿が収められている(下の写真2)。

正面には拝殿。葺・妻入入母屋造の舞殿風拝殿。地覆石上に地長押を廻らし床板を張る。内部は一面の格天井となっている。頭貫木鼻、雲肘木の絵様は本殿と類似している。慶長12年(1607年)、豊臣秀頼によって片桐且元を奉行として再建されたもので、桃山建築の特徴の見られる貴重な建築として国指定重要文化財になっている。2016年に葺葺きの改修が行われた。

後方の基壇上に銅板葺・三間社流造の本殿。御祭神は豊玉姫命(與止日女)、高皇産霊神、速秋津姫命。主祭神の豊玉姫命は海の女神で元々は九州北部で信仰されていた。高皇産霊神は宇宙を造った造化三神の一柱で、モノを生み出す神で生命力の源になる神。速秋津姫命は水の神で、船乗りに信仰された神。

本殿は内陣と外陣に分かれており、外陣は扉が開放され実質的に拝殿的な機能を持ち合わせている。本殿も拝殿と同時期の建立でかつては国重文の指定を受けていたが、1975年に中学生の花火による火災で焼失した。現在の本殿は1980年の再建。

本殿の右手奥には日大臣(ひだいじん)社(下の写真3)。御祭神の日大臣は薬の神。神明造りの建物は伊勢神宮の由貴御倉(ゆきのみくら)を拝領したもの。本殿が焼失した後、再建されるまでの間仮本殿として使われたものをこの地に移した。由貴御倉は内宮にあり、由貴とは清浄でけがれの無いという意味で、古くは御饌祭のお供えものや果物などを納めておく倉だった。

本殿の左手には基壇があり、その中央に石が配置されている。桂川右岸の旧鎮座地から発見された基礎石。基壇前に建つ一対の石灯籠は大阪淀屋の高灯篭と云われ、江戸中期の宝暦9年(1759年)に大坂の淀屋が奉納したもの。

淀屋は米相場の基準となる米市を設立して莫大な財を成し、淀屋橋を築いたことでも有名。江戸時代初めに淀屋を開いた岡本与三郎(淀屋常安)は、淀周辺の出身と云われ、淀の地に家や田地も所有していたと記録に残る。淀屋は幕府を凌ぐほどの財産を有したが、宝永2年(1705年)に闕所となり、財産没収と所払いの処分となった。その後、宝暦年間に淀屋清兵衛(後期淀屋)を公称して再興を果たしており、この灯篭は淀屋ゆかりの者が再興を宣言したことを示している。

高灯篭の向かい、拝殿の南側には末社の長姫弁財天社、豊丸社(大明神)、川上社(大明神)の赤い鳥居が並ぶ。由緒・由来等は不明。

與杼神社の南には境内を接して稲葉神社が建つ。與杼神社の末社のように見えるが、こちらの方がこの地での歴史は古く、與杼神社がこの地に移転するより17年前の1885年(明治18年)に旧淀藩士により創建されたもの。

淀城主を長く務めた稲葉家の初代稲葉正成公を御祭神としている。正成は戦国時代の武将で小早川秀秋の家臣だったが、関ヶ原の戦いで家康と内通し、秀秋を東軍に寝返らさせたことで有名。3代将軍家光の乳母で大奥を仕切った春日局(福)は正成の後添えだったが、福が家光の乳母になった時に離縁した。しかし、亡くなった前妻の産んだ嫡男ではなく福の産んだ正勝が後を継ぎ、5代目の正知が享保8年(1723年)淀藩城主となり、以後幕末まで12代148年間稲葉家が藩主であった。

與杼神社の鳥居の左側(西側)に稲葉神社社の鳥居が東向きに建つ。鳥居を抜けると奥の基壇上に瓦葺・向唐破風の中門(拝所)と瑞垣が設けられ、その内側に本殿が建つが、本殿は覆屋に納められいる。

本殿の左側(南側)には稲荷大明神・日吉大明神・熊野大神宮の三社合殿社が東向きに鎮座しているが、鳥居は朽ちかけておりとても荒れている(下の写真4)。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.6274037849332853&type=1&l=223fe1adec


淀城址公園内を回るが、続く

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  • 写真1 與杼神社手水舎

    写真1 與杼神社手水舎

  • 写真2 與杼神社神輿庫

    写真2 與杼神社神輿庫

  • 写真3 與杼神社日大臣社

    写真3 與杼神社日大臣社

  • 写真4 稲葉神社末社

    写真4 稲葉神社末社

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