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2021年2月25日(木)お昼前、祝園神社を後にまっすぐ南に進む。この辺りのおうちは旧家で、立派な植木が目を引く(下の写真1)。祝園神社から350mほど南に「崇神帝十年役 武埴安彦破斬旧跡」と彫られた碑が建つ。崇神(すじん)天皇10年の役において、祝園の地で武埴安彦命が敗れた際、この地で武埴安彦(たけはにやすひこ)命の首が落とされたと云う。 現在は空き地となっているが、明治のはじめまでは巨木があったと伝わる。 <br /><br />崇神天皇は第10代天皇で、崇神天皇10年は西暦では紀元前88年。ただし、実在した可能性のある最初の天皇で、実在ならば治世時期は3世紀後半。武埴安彦は第8代孝元天皇皇子で、崇神天皇の叔父にあたる。異母兄である第9代開化天皇の崩御後、皇位を継承しようとしたが、開化天皇第二皇子の崇神天皇が後を継ぐこととなり、山代(京都府南部)に追いやられていた。<br /><br />この年、崇神天皇は四道将軍を北陸道、東海道、西道、山陰道に派遣し、全国を教化すると宣言したのだが、その時を好機とみて、武埴安彦は山代から、妻の吾田媛の里、河内の豪族の河内青玉は大坂から共に都(当時の都は現在のJR桜井線三輪駅辺りの瑞籬宮(みずかきのみや))を襲撃しようとした。しかし、事前にこの計画を察知した崇神天皇は四道将軍を呼び戻しており、反乱は失敗した。そして、武埴安彦が最終的に彦国葺(ひこくにふく)命に討ち取られた場所がこの地と云う。<br /><br />敗れた武埴安彦軍は半数が殺され、斬首され、戦後、この辺り一帯には数多く遺体が放り転がされていたらしい。この放り転がすことを、古語で「はふる」と云い、「遺体がはふられた地」の意味で羽振苑(はふりその)と呼ばれるようになった。その後、葬園と云う字が当てられたが、。「葬」の字は縁起が悪いので「祝」に変えら祝園となり、発音も「ほうその」となった。<br /><br />武埴安彦破斬旧跡の碑を過ぎて、150mほど南から東に折れて木津川堤防に戻る。河川敷ではここに限らないのだが、この時期あちこちで樹木伐採が行われていた(下の写真2)。増水時の洪水氾濫を防ぐために定期的に行われているようだ。伐採等された樹木や竹などはリサイクルを促進する社会的実験として無償提供されている。<br /><br />400mほど南に進むと堤防右手下の送電用鉄塔の先に祝園ポンプ場がある(下の写真3)。1992年に完成したポンプ場だが、堤防内側の1988年に完成した祝園樋門に繋がっている。以下の旅行記参照。<br />https://4travel.jp/travelogue/11628640<br /><br />この辺りに祝園の渡しがあった。対岸の山城町椿井とを結ぶものだが、歴史的には新しく1884年(明治17年)頃から明治期にのみ利用されたもの。それからさらに300mほど南に川西合同排水樋門(下の写真4)があるが、この辺りに菅井の渡しがあったそうで、こちらが1900年頃から主力になったようだ。ただし、この渡しも街道として使われるのではなく、農民が川向いの田畑を耕作するために利用する耕作通い舟だった。<br /><br />12時半前になるが、ここで木津川とお別れ。堤防を降りると川西土地改良区木津川揚水ポンプ場がある。川西土地改良区は土地改良事業を施行することを目的として土地改良法に基づいて1952年に設立された法人。この揚水ポンプ場は1996年に改築されたもので、川西地区全域の農業用水確保のために毎年6月から9月に掛けて運転され、木津川の水を水路に汲み上げている。この時は2月だったので、その水路は使われてるようには見えない状態(下の写真5)。<br /><br />12時45分、JR祝園駅/近鉄新祝園駅の東側でハイキング終了、解散となる。ガイドさん、ありがとうございました。祝園駅/新祝園駅はけいはんな学研都市(正式名称:関西文化学術研究都市)精華・西木津地区の東の玄関口で、駅の西側からけいはんな記念公園やけいはんなプラザ、西の玄関口となる近鉄けいはんな線の学研奈良登美ヶ丘駅行などのバスが頻繁に出ている。高架の東西連絡通路を通って駅の西側に移動。<br /><br />途中に2つの駅の改札がある。駅としては当然「新」が付かないJR祝園駅が先に出来たもので、1898年(明治31年)に現在のJR片町線(愛称は学研都市線)の前身、関西鉄道の長尾駅から新木津駅(現在は廃止された駅で、木津駅と600m離れていた)まで延伸された際に開業。<br /><br />一方、近鉄新祝園駅はその30年後の1928年(昭和3年)の現在の近鉄京都線の前身、奈良電気鉄道の桃山御陵前・西大寺(現・大和西大寺)間開通時に開業。後からできた祝園駅なので、「新」を付けたが、距離的には50mしか離れておらず、同じ名前のJR/近鉄三山木駅の距離よりも短い。特に1994年に共に橋上駅舎となり、連絡通路が出来てからは何故名前が違うって感じになっている。<br /><br />ちなみに、三山木駅の場合は、JRの駅が後から出来ており当初は上田辺駅だったのを、1997年に近鉄に合わせて改称した。さらに余談で、JR京田辺駅/近鉄新田辺駅はJR駅が1898年(明治31年)に田辺駅として開業、近鉄駅は1928年(昭和3年)開業で、両駅間は約700mあるので、〝新〟田辺駅で納得。市制移行に伴い田辺駅が京田辺駅に変わったけどね。<br /><br />1時前になるので、そのまま連絡通路を西に抜けて、さらに駅西側の府道の向かいのせいかガーデンシティへそのままペデストリアンデッキを通って移動。せいかガーデンシティは祝園駅西特定土地区画整理地内の商業用地集約換地によって整備され、 2007年5月にグランドオープンしたショッピングセンター。うちも時々利用している。<br /><br />2階にフードコートがあったので、その中の京都らぅめん凡蔵屋でお昼にする。伏見発祥のラーメン屋で京都、大阪に複数店舗を展開しているようだが、初めて知った。味噌らぅめん600円を戴くが、何が京都らぅめんなのかは分かってない。まあ、普通の味噌ラーメンやった。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.6220896624646976&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />以上でふれあいハイキング終了

ふれあいハイキング 祝園(Hosono, Seika, Kyoto, JP)

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2021/02/25 - 2021/02/25

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旅行記グループ ふれあいハイキング

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ちふゆ

ちふゆさん

2021年2月25日(木)お昼前、祝園神社を後にまっすぐ南に進む。この辺りのおうちは旧家で、立派な植木が目を引く(下の写真1)。祝園神社から350mほど南に「崇神帝十年役 武埴安彦破斬旧跡」と彫られた碑が建つ。崇神(すじん)天皇10年の役において、祝園の地で武埴安彦命が敗れた際、この地で武埴安彦(たけはにやすひこ)命の首が落とされたと云う。 現在は空き地となっているが、明治のはじめまでは巨木があったと伝わる。

崇神天皇は第10代天皇で、崇神天皇10年は西暦では紀元前88年。ただし、実在した可能性のある最初の天皇で、実在ならば治世時期は3世紀後半。武埴安彦は第8代孝元天皇皇子で、崇神天皇の叔父にあたる。異母兄である第9代開化天皇の崩御後、皇位を継承しようとしたが、開化天皇第二皇子の崇神天皇が後を継ぐこととなり、山代(京都府南部)に追いやられていた。

この年、崇神天皇は四道将軍を北陸道、東海道、西道、山陰道に派遣し、全国を教化すると宣言したのだが、その時を好機とみて、武埴安彦は山代から、妻の吾田媛の里、河内の豪族の河内青玉は大坂から共に都(当時の都は現在のJR桜井線三輪駅辺りの瑞籬宮(みずかきのみや))を襲撃しようとした。しかし、事前にこの計画を察知した崇神天皇は四道将軍を呼び戻しており、反乱は失敗した。そして、武埴安彦が最終的に彦国葺(ひこくにふく)命に討ち取られた場所がこの地と云う。

敗れた武埴安彦軍は半数が殺され、斬首され、戦後、この辺り一帯には数多く遺体が放り転がされていたらしい。この放り転がすことを、古語で「はふる」と云い、「遺体がはふられた地」の意味で羽振苑(はふりその)と呼ばれるようになった。その後、葬園と云う字が当てられたが、。「葬」の字は縁起が悪いので「祝」に変えら祝園となり、発音も「ほうその」となった。

武埴安彦破斬旧跡の碑を過ぎて、150mほど南から東に折れて木津川堤防に戻る。河川敷ではここに限らないのだが、この時期あちこちで樹木伐採が行われていた(下の写真2)。増水時の洪水氾濫を防ぐために定期的に行われているようだ。伐採等された樹木や竹などはリサイクルを促進する社会的実験として無償提供されている。

400mほど南に進むと堤防右手下の送電用鉄塔の先に祝園ポンプ場がある(下の写真3)。1992年に完成したポンプ場だが、堤防内側の1988年に完成した祝園樋門に繋がっている。以下の旅行記参照。
https://4travel.jp/travelogue/11628640

この辺りに祝園の渡しがあった。対岸の山城町椿井とを結ぶものだが、歴史的には新しく1884年(明治17年)頃から明治期にのみ利用されたもの。それからさらに300mほど南に川西合同排水樋門(下の写真4)があるが、この辺りに菅井の渡しがあったそうで、こちらが1900年頃から主力になったようだ。ただし、この渡しも街道として使われるのではなく、農民が川向いの田畑を耕作するために利用する耕作通い舟だった。

12時半前になるが、ここで木津川とお別れ。堤防を降りると川西土地改良区木津川揚水ポンプ場がある。川西土地改良区は土地改良事業を施行することを目的として土地改良法に基づいて1952年に設立された法人。この揚水ポンプ場は1996年に改築されたもので、川西地区全域の農業用水確保のために毎年6月から9月に掛けて運転され、木津川の水を水路に汲み上げている。この時は2月だったので、その水路は使われてるようには見えない状態(下の写真5)。

12時45分、JR祝園駅/近鉄新祝園駅の東側でハイキング終了、解散となる。ガイドさん、ありがとうございました。祝園駅/新祝園駅はけいはんな学研都市(正式名称:関西文化学術研究都市)精華・西木津地区の東の玄関口で、駅の西側からけいはんな記念公園やけいはんなプラザ、西の玄関口となる近鉄けいはんな線の学研奈良登美ヶ丘駅行などのバスが頻繁に出ている。高架の東西連絡通路を通って駅の西側に移動。

途中に2つの駅の改札がある。駅としては当然「新」が付かないJR祝園駅が先に出来たもので、1898年(明治31年)に現在のJR片町線(愛称は学研都市線)の前身、関西鉄道の長尾駅から新木津駅(現在は廃止された駅で、木津駅と600m離れていた)まで延伸された際に開業。

一方、近鉄新祝園駅はその30年後の1928年(昭和3年)の現在の近鉄京都線の前身、奈良電気鉄道の桃山御陵前・西大寺(現・大和西大寺)間開通時に開業。後からできた祝園駅なので、「新」を付けたが、距離的には50mしか離れておらず、同じ名前のJR/近鉄三山木駅の距離よりも短い。特に1994年に共に橋上駅舎となり、連絡通路が出来てからは何故名前が違うって感じになっている。

ちなみに、三山木駅の場合は、JRの駅が後から出来ており当初は上田辺駅だったのを、1997年に近鉄に合わせて改称した。さらに余談で、JR京田辺駅/近鉄新田辺駅はJR駅が1898年(明治31年)に田辺駅として開業、近鉄駅は1928年(昭和3年)開業で、両駅間は約700mあるので、〝新〟田辺駅で納得。市制移行に伴い田辺駅が京田辺駅に変わったけどね。

1時前になるので、そのまま連絡通路を西に抜けて、さらに駅西側の府道の向かいのせいかガーデンシティへそのままペデストリアンデッキを通って移動。せいかガーデンシティは祝園駅西特定土地区画整理地内の商業用地集約換地によって整備され、 2007年5月にグランドオープンしたショッピングセンター。うちも時々利用している。

2階にフードコートがあったので、その中の京都らぅめん凡蔵屋でお昼にする。伏見発祥のラーメン屋で京都、大阪に複数店舗を展開しているようだが、初めて知った。味噌らぅめん600円を戴くが、何が京都らぅめんなのかは分かってない。まあ、普通の味噌ラーメンやった。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.6220896624646976&type=1&l=223fe1adec


以上でふれあいハイキング終了

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  • 写真1 旧家の植木

    写真1 旧家の植木

  • 写真2 木津川河川敷樹木伐採

    写真2 木津川河川敷樹木伐採

  • 写真3 祝園ポンプ場

    写真3 祝園ポンプ場

  • 写真4 川西合同排水樋門

    写真4 川西合同排水樋門

  • 写真5 川西土地改良区水路

    写真5 川西土地改良区水路

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