2019/10/31 - 2020/10/31
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gianiさん
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フランドル伯領に属するリール。
11世紀にイングランド産の羊毛を加工して毛織物にすることで大いに栄える。
政略結婚によって領主は度々変わるが、1384年以降ブルゴーニュ公国、ハプスブルク家(オーストリア→スペイン)が相続する。
ルイ14世の征服による1668年以降はフランス領となる。
現在人口は第10位、都市圏の規模はパリ・リヨン・マルセイユに次ぐ第4位である。
リール出身の有名人と言えば、シャルル=ド=ゴール。
生家は博物館になっており、軍人・政治家・著述家としての生涯に触れられる。
※ドゴール空港駅直通列車の本数が多く、かつチケットが安いので、
観光に便利な都市です。
- 旅行の満足度
- 5.0
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-
出発は、パリ北駅から。
往時は、国際列車が次々と発着し、
最後のTEEが運航された駅です。
本日はタリスに乗車します。ネット予約で15ユーロです。 -
リールには大きな駅が2つあり、
双方は500mほど離れています。
こちらは、ベルギー方面のTGV路線上にあります。
新しくて近代的。リール ウロップ駅 駅
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駅を跨ぐビル
ウーラリール計画の一環で建設。 -
モニュメントも前衛的
アンリ マティス公園 広場・公園
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上記の2駅に挟まれた巨大ショッピングセンター。
カルフールも売場が広く、日本へ持ち帰る食品がすべて揃います。ウーラリール ショッピングセンター
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聖モーリスの名前を冠した教会。
サンモーリス教会 寺院・教会
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14世紀末に建設が始まりましたが、完成したのが19世紀。
ステンドグラスや尖塔も19世紀に改築されています。
ゴシックとネオゴシックのミックスです。 -
旧市街の中心は広場、
左が商工会議所
右がオペラ座
駅から広場まで、大通り一本道です。 -
広場の要は、1653年築の旧株式取引所。
当時はスペイン領でした。
フランドルは、中世から商業で栄えた、誰もが欲しがる地域。
ルイ14世が戦いを繰り返して、ようやく17世紀にフランス領になり、
現在に至ります。旧株式取引所 建造物
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広場の中心は島のような建物区画。
面白い造りです。 -
建物をくぐると、、、
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中は広場になっています。
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歴史的建造物(旧株式取引所)に入っているカフェ。
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とても良い雰囲気です。つい、朝からゆっくりとしてしまいました。
ノッティングヒルコーヒー カフェ
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広場の北はずれにある
旧時計塔。
現在は観光案内所が入っています。
中心部の地図は、便利です。リール観光案内所 建造物
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楼の途中階まで見学できます。
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フランドルは山らしい山もなく、
通商・農業には最適な反面、
攻め込まれやすい地形です。
第一次・第二次世界大戦も、ドイツ軍に包囲・占領されました。
レリーフには、1914-18,1940-45年にかけて敵に占領された歴史を記録しています。
uをvと表記して、格式を表しています。 -
パンフレットを基に北西へ。
河跡湖を利用した庭園。
外側は、蛇行したドゥール川旧流路を利用した運河。
艀も航行します。ヴォーバン庭園 広場・公園
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運河と川に囲まれた城塞へ。
ヴォーバンによって設計された一連の城塞は、ユネスコの世界遺産にも指定されています。
リールの城塞は、1667年にネーデルランド継承戦争のリール包囲戦の際に、
自ら出陣したルイ14世の命で都市の北東の沼地に堡塁を建設したのが起源。
翌68年のアーヘン条約後フランス領となり、ヴォーバンに命じて城塞化させた。リール城塞 城・宮殿
-
まずは外側の壁を越えます。
外側に壁に沿って、濠が半分残っています。
城塞にしては、かなり華美な装飾。リール城塞 城・宮殿
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内側の壁の入り口。
王の門と呼ばれます。
ヴォーバンは、王の勝利と市民を安堵させることをデザインに反映させた。
ちなみにこの先は、今も軍事施設で非公開。 -
形をみると、五稜郭であることが分かります。
城塞は、平時も軍事基地として機能した。
五稜郭の内部は工場・教会・兵舎などがあり、さながら小さな町だった。
五稜郭の外側には太陽光線のような形で壁が築かれ、太陽王(ルイ14世)へのオマージュを表明した。
城塞の女王とも呼ばれている。
※城塞(citadelle)を意味するフランス語名詞は女性形のため、女王と呼ばれる。 -
外壁と内壁の間。結構広いです。
現在は運河より内側は公園になっています。シタデル公園 広場・公園
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湿地があったりして、
攻める側からすると嫌な土地です。 -
サンタンドレ教会
シャルル=ド=ゴールは、ここで洗礼を受けました。
通り沿いには、生家もあります。 -
現在は博物館になっています。
以降、シャルル=ド=ゴールは、単に「シャルル」と表記します。ドゴール生家博物館 博物館・美術館・ギャラリー
-
右翼が博物館の入り口。
母方の祖父母の家で、1869年築。
チュール生地を織る仕事場でしたが、1880年代に競争に負けて廃業したために、
写真のように住居用にリフォームされています。
ナポレオンによる大陸封鎖で、リールは繊維産業が栄えました。 -
シャルルの両親
父:アンリ(1848-1936) 妻とは遠い親戚である。
母:ジャンヌ(1860-1940)旧姓はMaillot
父はパリのイエズス会系の学校の教師をしていた。
ドゴール一家はパリに住んでおり、母親の里帰り出産により、シャルルはリール生まれとなった。 -
シャルルときょうだい
長男:ザビエール(1887-1955)
長女:マリ・アニエス(1889-1982)
次男:シャルル(1890-1970)
三男:ジャック(1893-1946)
四男:ピエール(1897-1959)
長男の名前は、イエズス会の創始者でカトリックの聖人でもある人物の名前を取っていますね。唯一シャルルだけが世俗的な名前です。 -
Jules-Emile Maillot(1819-1891)
(母方の)祖父
シャルルが1歳になる前に死去。
したがって、祖父に関する記憶は一切なし。 -
Julia Doliannoy(1835-1912)
(母方の)祖母
結婚後はマヨー姓に。
シャルルが22歳の時に祖母が亡くなるまで、毎年帰省していました。
シャルルにとって生家=おばあちゃん家(ち)として記憶されます。 -
Noémie Maillot(1861-1939)
叔母(母の年子の妹)
結婚してde Corbie姓に。
夫と共に実家暮らしです。 -
Gustave de Corbie(1861-1947)
(母方の)義叔父
ド・コルビー家は、当館の右翼に住んでいた。
つまり、彼はマスオさん状態。 -
叔母夫婦の子供たち(シャルルのいとこ)
長男:ジャン(1890-1955)
長女:マルグリート(1892-1989)
次男:アンリ(1894-1917)
次女:マリー(1896-1903)
三女:ルイーズ(1900?-1936) -
大広間
応接間を兼ね、家族とごく親しい友人だけが通された。
女性たちはピアノ演奏を楽しみ、
男性はカードゲームをしながら時事問題や政治談議に花を咲かせた。
子どもたちにとっては禁断の部屋だったが、唯一元日だけは入れた。
円卓には、当時の新聞が置かれている。 -
プチジャーナル紙 1895年1月17日号
表紙絵は、官位剥奪式で剣を折られるも直立不動を保つドレフュス元大尉。
ドレフュス事件と呼ばれ、
パナマ運河疑獄をきっかけにフランスに台頭した反ユダヤ主義に基づく冤罪事件。
世論を二分した大事件で、大衆はドレフュスのスパイ罪を確信していたが、
シャルルの父アンリは無罪を確信していた。 -
食堂(ダイニングルーム)
7歳以上の家族全員が席について食事を摂った。
なぜ7歳かというと、長い食事の時間に耐えられるとされる年齢だからだ。
幼児は、食事後に残り物をいただいた。
子どもたちは7歳になることを心待ちにした。
なぜなら、デザートにあずかれるからだ。 -
小広間(プチサロン)
ネオクラシック様式(1850-70年代の典型的スタイル)でまとめられている。
壁紙には、左右対称の月桂樹がプリント(当時の典型的な柄)されている。
祖母が日向ぼっこした部屋で、日光と暖炉の熱で温められた快適なスペースだった。
シャルルは、ここで祖母・叔母夫婦・叔父(ノエミー)から、たっぷりの愛情を受けた。
写真の木馬は、シャルルが5歳の時のクリスマスにプレゼントされたもの。 -
中庭
シャルルときょうだいは、(叔母夫婦の)いとこたちと一緒に遊んだ。
ドゴール家が遊びに来ると、近所の(叔父夫婦の)いとこたちも合流して、
とても賑やかだった。
※叔父ノエミーの家は、生家に面したPurincess通りと交わるMetz通りにあった。 -
叔父夫婦の子供たち(シャルルのいとこ)
長女:マリー・リューシー(1892-1917)
長男・次男:ジュレ(1894-1989)、アンドレ(1894-1951) 双子と思われる
三男:ジョセフ(1897-1974)
四男:モーリス(1899-1980)
長女:マドレーヌ(1902-?)
次女:エリザベート(1905-2005)
三女:ジュヌヴィエーヴ(1906-1995) -
以下は、祖母ジュリアの家系
Marie-Angélique Mac Cartan(1798-1852)
結婚してDelannoy姓になる
曾祖母
※出生姓から、アイルランド系だと分かる。 -
マック・カルタン家の紋章(19世紀)
-
Frances Ann Fleming(1773-1848)
結婚後はMac Cartanとなる。
高祖母
※出生姓から、スコットランド系だと分かる。 -
以下は、祖父ジュレ・エミールの祖先
Louise Constance Kolb(1792-1877)
結婚後はMaillot姓になる。
曾祖母
※出生姓から、ドイツ系だと分かる。 -
Charles Sagniez(1723-1790)
祖父ジュレ・エミールの曾祖父
日本語では高祖父までしかないので、、、
※出生姓から、デンマーク系だと分かる。 -
Marie Anne Crauza(1727-1807)
(結婚後はSagniez姓)
祖父ジュレ・エミールの曾祖母 -
シャルルの先祖には、アイルランド、スコットランド、ドイツ、デンマーク人も含まれる。そのことを幼少時から大変誇りに思い、アイデンティティに強く反映された。少年時代自らを「パリ在住のリール出身少年」と称し、後に、「私は北の人間」だと自身のスピーチでも言及している。
写真は、見学者に貸し出される英語版の見開きパンフレット。 -
階段を上って2階へ。
-
左:聖ヨセフの伝記(ジョゼフィーヌ・ド・ゴール著)
右:祖父ジュレが自宅で織っていたチュール生地
※ジョゼフィーヌは、シャルルの父方の祖母である。
母方の祖母ジュリアは孫たちにお話を聞かせるのが好きで、
彼女のレパートリーにはジョゼフィーヌの著作も多く含まれた。 -
1890年(シャルルが生まれた年)のファッションに関するイラスト。
-
祖母の部屋
明るく静かな快適な空間。
窓から庭を一望でき、庭で遊ぶ孫たちを見守るのに最適の場所だった。 -
彼女の敬虔さは、様々な面に表れている。
まずは、祈祷台を持っていること。
そして、毎朝近所の聖アンドレ教会へ通い、午前7時に行われるミサに出席した。
写真:クッションの上に脛を載せ、レースの部分に肘を載せて祈ります。
※椅子ではありません。 -
処女マリアを描いた絵を沢山持っていた。
そして各部屋の入口に聖水盤を設置し、部屋に入る前には
(指先を聖水に浸して)必ず十字を切った。
壁に掛かっているのは、聖母子を描いたもの。
前の写真のベッドの上にも聖母子を描いた絵が掛かっていますね。 -
祖母の嫁入り衣装(1858年4月のウェディング)
-
空き部屋
シャルルたちが帰省した際、子ども部屋として使用された。
現在は、シャルルの成人するまでの年表が展示。 -
1896-1900年にかけて、シャルルは兄弟たちも通ったカトリック系の小学校に通った。
その後、イエズス会の経営するl'Immaculée Conception(無原罪懐胎)中学に進学する。ここで歴史と宗教を専修した。彼は作詩や執筆を好み、時に数学の勉強の妨げとなった。
1905年施行の政教分離法に伴い、1907年7月にはベルギー領内のアントワンのイエズス会経営の学校へ通う。 -
大一次世界大戦前のこの時期、植民地でもヨーロッパ本国でも、顕在・潜在した危機や紛争にまみれ、若者の徴兵を強化していた。
1909年9月にサンシール(=陸軍士官学校)へ入学し、翌10月にはアラス駐屯の歩兵第33連隊に配属される。
1910年10月には曹長に昇進してサンシールへ戻る。士官候補生として順調に課程を進み、13位の成績で卒業する。彼は配属先として歩兵を希望した。なぜなら、前線で敵の砲火にさらされる軍隊らしいポジションだからである。
卒業後、再びアラスの歩兵第33連隊に配属される。連隊長はペタン大佐だった。
1913年10月には中尉に昇進する。(陸軍士官学校を卒業すると、少尉として任官する。)
※後にペタンは元帥まで昇進し、第二次世界大戦時にドイツ軍に降伏し、ヴィシー政権のトップになる。 -
私の意見では、偉大さの伴わないフランスは、フランスではない。
この信条は、私が生まれ育った環境で育まれた。
父は、思慮深さ・文化・伝統・フランスの威厳が滲み出た人だった。
そして、歴史を教えてくれた。
パリにいた幼いリール人(シャルル)は、この都市が放つ栄光に驚かされた。
私にとって、この先フランスは巨大な試練を経験するであろうことは、疑いの余地はなかった。そして、自分の前に祖国への奉仕の機会が差し伸べられる機会に注意深くあった。 -
1907-08年の週末に帰宅する際に過ごした部屋
当時シャルルは、ベルギーのイエズス会の学校で中等教育を受けていた。
一週間の授業が終わると、国境を越えて祖母の家で週末を過ごした。
ベルギー国境が近いリールの特徴が反映。
※1905年に政教分離法が施行され、学校から宗教色が取り除かれた。父は、シャルルに宗教教育を施すため、越境させた。 -
シャルル生誕の間
1890年11月22日午前4時に、この部屋で誕生した。
母親が実家で出産するスタイルは、日本でもよく見られますね。
シャルルを取り上げた医師ヴァン・プテームは、献身的で人々の敬意を勝ち得る人格者だった。
午後4時には、近所の聖アンドレ教会で洗礼を受けています。
※新生児の名前が決まっていないと洗礼の儀式は行えません。司祭に考えて貰うのもアリです。即日で洗礼という流れも、マヨー家の敬虔さが表れています。
シャルル・アンドレ・ジョゼフ・マリー・ド・ゴールが正式名です。 -
洗礼の儀式で着用した衣(ローブ、ガウン)
長子ザビエル出産に備えて、1887年にジャンヌが自ら製作。
シャルルを含む5人の子供が使用しただけでなく、娘にも相続され、
1990年代まで使用されていた。 -
晩年の大統領職は、間違いなく彼の政治的キャリアの中で困難が伴った。
1967年以降、議会の左派の力強い上昇により、大統領の過半数が弱体化した。ドゴールの政策は、大統領と国民の分裂を引き起こす。さらに、1960年の初めに本格的に上昇し、1964年にピークを迎えたフランスの経済成長は不平等な形で恩恵をもたらした。
1968年5月の出来事は、多くの国民の決別を示した。学生と労働者の引き起こした抗議はゼネストにまで発展し、国の麻痺を引き起こした。
※一連の出来事は五月危機(保守派)または五月革命(左派)と呼ばれる。
西洋では単にMay 68(英語)、Mai 68(仏語.月名は通常小文字だが、固有名詞なので大文字)と表記する。 -
68年5月の総選挙
政府は危機の重要性をすぐには認識できなかった。1000万人規模のストライキに直面したドゴールは、ようやく答えを求める。5月29日の謎の失踪(本人曰く「バーデンバーデン(ドイツ領)への脱出」)を経て、翌5月30日のラジオ演説で、国会の解散と政府の改造を発表して、危機を収束しようとした。
※総選挙では大勝利をおさめて多くの議席を取り戻すが、大統領個人への風当たりは相変わらず強かった。 -
1969年2月2日、ドゴールは訪問先のカンペールで、国民投票によって地方自治体と元老院(上院)の改革案の是非を問う予定であると発表した。
改革案のメリットを確信しているだけでなく、完全な正当性を取り戻すための国民投票である。
※写真は、カンペールでの演説場面。彼にとって最後の公開演説になった。 -
投票2日前の4/25(金)晩のテレビ演説では、国民からノーを突き付けられた場合は、これ以上国家元首としての任務を遂行できず、直ちに職務を終了するだろう。と発表し背水の陣で臨んだ。
※写真は、ドゴール陣営のポスター。Oui(英語ならYes。この場合は賛成の意味)の3文字がトリコロール(フランス国旗に用いられる3色)で表現され、フランスの自由・平等・博愛を守るアクションだと強調している。 -
4/27(日)の国民投票では、全体の約53%がノーを突き付けた。
日付が変わった4/28午前零時、「私は共和国大統領から退きます。この決定は今日の正午に有効になります」と発表し、録画映像は零時11分にAPF(フランス通信社:世界三大通信社の一つでもある)に送られ、テレビ放送された。彼は一切の政治活動から潔く退いた。
「30歳以降、私は歴史書(人類史・フランス史)に新たな内容を書き加える仕事に携わり、身を引くかどうかという局面に度々遭遇した。」1968年6月7日に彼はミッシェル・ドロワにこう語った。今回は身を引くことに拠って新たなページをめくれる(前進する)ようにした。
その言葉通り、後継者問題にかかわることを避けるために、しばらくの間アイルランドへ滞在して、政治から距離を置いた。
※写真は、パリ地下鉄マルティーニ駅前の売店に並ぶ新聞各紙を見つめる通行人。ミュージアムでは、辞任発表の映像がエンドレスで流れていました。 -
フランス・ソワール紙
(見出し )深夜コロンベにて将軍が発表:今日の正午を以って、私は総辞職する。(大見出し)ドゴール引退
反対:52.87% 11,966,550票
賛成:47.13% 10,669,015票
棄権:選挙登録者(有権者)の19.53% (→投票率80.47%)
パリ:賛成55.96% 反対44.04%
図表:各県(海外県は対象外)の投票結果
※大統領ではなく将軍と表記しているところが、彼の強権政治と、救国の士としての経歴を表現している。 -
シャルルに流れるマック・カルタン家(アイルランド)の血筋
アイルランド訪問は、自分のルーツに触れる旅でもあった。 -
5/10にコーク空港に到着し、選挙運動やフランス大統領選挙投票日の6/1を含む約1か月間をアイルランドで過ごして中立を貫いた。
ちなみに、現地で連絡将校に投票用紙を託しているので、棄権はしていない。 -
アイルランドでの休暇というタイトルの記録映像が残っている。
-
ドゴール夫妻は、アメリカ移住前のケネディ家にも訪れている。
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余談だが、ケネディ家もドゴール家も、共にカトリックを信仰している。
-
イヴォンヌ・ド・ゴール(1900-1979)
妻がいなければ、私は何もできなかったでしょう...
イヴォンヌ・ヴァンドローは四人きょうだいの2番目として、オート・ブーローニュのカレーで生まれ、カトリックの宗教観に基づいて育てられた。
彼女は決断力に優れた人だった。そのことは第一次世界大戦の終わりに、若き将校シャルル・ド・ゴールと出会った時に明らかになった。イヴォンヌは、何ら疑いを抱かなかった。「彼しかいない!」と彼女は言った。
二人は1921年4月6日に結婚式を挙げ、3人の子供が生まれた。1921年に長男フィリップ、1924年に長女エリサべス、1928年に次女アンヌである。
二つの大戦に挟まれた時期、イボンヌは夫をフォローし、任地に家族で赴いた。それにはドイツやレバノンも含まれる。しかし1940年に戦争が勃発し、夫は何の連絡も無しで、全てを後にしてイギリスへ渡り、亡命政府を樹立した。夫のアドバイスに従ってブルターニュへ避難している間に、何とドイツ軍は(ブルターニュの中心都市)レンヌまで到達した。想定外の事態に、彼女は3人の子供を連れて渡英することを即決し、6/18未明に英国のファルマス港に上陸した。そこで彼女は、夫がロンドンから本国へレジスタンス活動を呼び掛けていることを初めて知った。「祖国を救うこと、これ以上に重要なことは何もない」と6月2日付の手紙の中で妻へ書いている。最初はロンドン近郊に居を構えたが、ダウン症の12歳の娘アンヌが絶え間ないロンドン空襲を怖がるので、200km以上離れた水道も電気も通っていない田舎へ引っ越した。空襲が収まるとロンドン近郊に移動し、1943年には(連合軍のアフリカ上陸に伴い)夫と共にアルジェへ赴き、そこで終戦を迎える。1946年1月に政権を離れた後、ドゴール家は1934年に購入した(フランス東部)コロンベ・レ・ドゥ・エグリーズの自宅で隠居生活を送った。シャルルが政治団体フランス人民連合を創設する一方で、彼女は生涯に渡って専念する仕事と出会う。1945年に「財産がなく公的援助から恩恵を受け、とりわけ戦争の犠牲になった家族」の障害を抱える若い女子を助けるための財団を設立した。後に、1948年にコロンベで亡くなった愛娘を記念して「アンヌ・ド・ゴール財団」となった。
1958年以降は大統領夫人として夫を良く補佐したが、公の場面で発言することは一切なかった。 -
司教座のある教会。大司教座も兼ねます。
古そうに見えますが、1854年築です。
正式名は、ノートルダム・ド・ラ・トレイユ教会。
霊験のあるトレイユの聖母像(18世紀に焼失)にちなんだ名前です。リール大聖堂 寺院・教会
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北面は1934年完成。
2つの扉の中央に立つ聖ヨセフ(イエスの養父)に捧げられています。 -
ネオゴシック様式です。
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ファサードは南側にあります。
1999年築。斬新です。 -
フランドル地方の料理を出すお店。
ル バルビュ ダンヴェール フレンチ
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歴史的建造物です。
それをおしゃれに演出。 -
ビストロ級で、気さくで肩ひじ張らないところも良いです。
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付け合わせがフライドポテトなのが、フランドル的。
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ビールで煮込んだ牛肉。
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地下フロア。
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粋です。
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市役所の鐘楼。
実は世界遺産に指定されています。
1932年築のアールデコ様式です。 -
昔ながらの行き止まり式駅。
CDG直通列車で、ドゴール空港へ。あとは帰国です。
空港駅直通は法外な値段が通常ですが、
15ユーロでした。リール フランドル駅 駅
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