2021/06/03 - 2021/06/03
79位(同エリア400件中)
kojikojiさん
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- 旅行記1802冊
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東京で生まれ育ちながら小田急線に乗ることはほとんどありません。思い返しても最後に乗ったのは26年前のことで、その前は40年前の学生時代の課外授業で古民家のスケッチを描きに来た時でした。かなり肌寒い季節だったことと、どこか小高い丘に登って木々の中から顔を出した合掌造りの建物を描いた記憶があります。木々に囲まれたところだと細かいディティールを描かなくて済みますから。そんな場所を探して周囲を眺めてみましたが、あまりに記憶が乏しくてどこだか分かりませんでした。一番印象に残っていたのは年配の係員の方が囲炉裏に火を入れて屋根裏に煙が回るようにしていたことです。茅葺屋根の虫を駆除すると教えてもらいましたが、それ以外の民家の見学はしなかったのかあまり記憶にも残っていませんでした。コロナ禍もありこの1年半で旅に出たのは昨年末くらいで、外出もほとんどしなかったので運動不足から体の不調もあり、気分転換で岡本太郎美術館へ行ってみようと思いました。そこで日本民家園を思い出し、妻を誘って出掛けることとなりました。平日の民家園は訪れる人も少なく、お昼を摂った蕎麦の店で見掛ける程度でした。森の中の古民家を訪ね歩いていると気分は信州か北陸を旅しているような気分になりました。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.5
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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自宅の最寄り駅から新宿で小田急線に乗り換えて、約1時間で向ケ丘遊園駅に到着しました。40年前の記憶は全くないので事前にグーグルで経路は確認しておきました。
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ブラブラ歩いて20分くらいで生田緑地の入口に到着しました。
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東口のビジターセンターで地図とかパンフレットを貰って、熱中症にならないようにスポーツドリンクも買っておきます。
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日本民家園の入口に着きました。この時点でちょうど正午でした。見学とお昼も含めて3時間弱の予定です。その後に岡本太郎美術館にも行かなければなりません。
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大人2人で日本民家園と岡本太郎美術館の両方に行くのであれば共通利用券2,000円(100円券×25枚綴)を買い求めるのがお得で、65歳以上であればさらに200円お得です。
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チケットを買って本館の中の展示室に向かうと妻がいません。表に出ているお団子「三吉野」で団子やら草餅を買っています。えっ、そこからと思いましたが売店は昼過ぎまでした営業していないのと、岡本太郎美術館へは奥門から出てしまうので今しか買えないことになります。
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この展示室では「民家の普請」について詳しく紹介されているので見ておくことが必要です。これは民家園に建物を移築した際の棟上げで使われたものです。
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荒壁の仕舞についての展示は学生時代を懐かしく思い出しました。それと大山崎の妙喜庵の「待庵」の茶室の塗壁を修復する際に同じ時代に建てられた祖父の実家の二条陣屋の塗壁の成分を調べたことも思い出しました。
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茅葺の「茅」は実際の植物の茅ではなく、ススキや麦藁や稲藁の総称という説明もありました。
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茅葺で使われる実際の道具も展示されています。茅葺屋根の葺き地の厚さを藁縄で縫い上げるはりとじ、がんぎ、屋根ばさみが展示されています。機能的にはミシン針と同じ構造で、垂木竹や屋中竹と茅を藁縄で縫い上げていきます。
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民家の構造や建て方や各所の名称はここに詳しく説明されているので、民家の見学前に知っておくとさらに興味深く見学できると思います。40年前に学校で習ったおさらいをしておきます。
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地搗(じつ)きで使用する「櫓」櫓の模型がありました。
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上下する真棒を8人の綱子が搗き固めます。これらは大きな基礎石の部分で使われますが、狭い部分や規模の小さい部分は「蛸搗き」という道具が使われますが、同じような道具は古代中国の万里の長城の建造でも使われています。
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三和土とは赤土や砂利などに消石灰とにがりを混ぜて練り、塗って叩き固めた素材のことで、かつて日本の家屋にあった土間(文字どおり土の間のこと)の表面に、仕上げ材として使われていました。自分が子供だった50年以上前の埼玉の大叔母の家には土間が残っていました。表通りから母屋までで100メートル以上あり、母屋の土間を抜けると裏には竹藪がさらに100メートルくらい続く大きな農家でした。
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正門を抜けて坂を登ると最初に現れるのは0番の「原家住宅」明治44年(1911)です。我々以外に音連れる人の姿も無くのんびり見学できるのが良かったです。
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原家は近世以来の旧家で、代々中原往還(中原街道)に面する小杉陣屋町に屋敷を構え、明治期には小杉村における有数の豪農だったそうです。明治44年(1911)には旧主屋を一新して2階建の入母屋造瓦葺の近代的な主屋を新築しました。立派な枝ぶりの黒松の下を潜って見学を始めます。
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庭先から広間を覗くと立派なシャンデリアが吊るされているのが見えました。
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更に奥に向かって広間が続いています。明治期の建築に特有の骨格の太い豪気な気風を備えて、木材は外部の軒と1階見え掛かりの構造材及び造作材に欅を用いているのが分かります。特に広間の格天井の欅の一枚板の玉杢は見事でした。
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土間から中にあがると奥から機織りの音が聞こえてきました。本来は「台所」の場所に何台かの織機が置かれてありました。
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台所の横は居間にあたり、廊下の先には裏側の庭が見通せます。
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居間の障子はお金のかかった見事なものでした。
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「仏間」と「女部屋」を表廊下から回り込むと「座敷」と呼ばれる一番立派な部屋に出ます。一つ奥の部屋が「中の間」で、衝立のある部屋が「上がり間」でその先が「土間」です。
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「座敷」は夏のしつらえに変えられていました。この原家では毎年6月から9月ころまで模様替えされたそうです。障子も「簾戸(すど)」と呼ばれる葦(ヨシ)の茎で編んだ風通しの良いものに変えられています。床には「籐莚(とうむしろ)」が敷かれてあります。
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30代までは京都の祖父母が健在だったので年に何度も遊びに行っていました。梅雨明けや秋口に遊びに行くと「簾戸(すど)」を替えたり「網代(あじろ)」を替えるタイミングに当たると手伝わされたことを懐かしく思い出します。
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1番の鈴木家住宅は改修工事中で見学が出来ないので2番の旧井岡家住宅に移ります。井岡家住宅の旧所在地は奈良市下高畑町で、中世から近世にかけて発展した奈良の旧市街地である奈良町は興福寺を中心にその南北及び西方に広がっていました。下高畑町はその東南のはずれ近くの新薬師寺に向かうあたりで現在の奈良教育大学の辺りです。
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奈良町というとどうしても元興寺極楽坊を思い出してしまいます。父と待ち合わせして二月堂の修二会(お水取り)の「達陀の行法」を堂内で見る機会がありました。ところが父は元興寺の住職と寿司屋で盛り上がって時間を忘れていました。危ういところで深夜の行法を見ることが出来たのですが、その時のことを思い出してしまいます。
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1軒ごとの町屋の敷地の間口はかなり狭く、そのため主屋は土間に沿って一列に部屋の並ぶ形式のものが圧倒的に多く、井岡家もこうした町屋の一例のようです。民家園では戸建てのようになっていますが、実際は隣接して家屋が続いていたのだと思います。建立年代は17世紀末頃と推定され、現存する奈良町の町屋としては最古の部類に属し、家業は古くは油屋を営み、後に線香屋に転業したそうです。
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「鹿格子」と呼ばれる縦格子の店(みせ)の脇にはニワと呼ばれる土間があり、竈が据え付けられています。かなり傷んでいますが往時は黒漆喰でピカピカに輝いていたのではないでしょうか。手前の竈のおくどは祭祀用で三宝荒神を祀り暮れの餅つき以外では使われません。この家には囲炉裏は無いので奥の竈で煮炊きは行ったようです。
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この面にまだや開口部が無いのは隣の家が続いた長屋状態だったのではないでしょうか。もちろん防火の意味合いもあったのだと思います。
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開口部から差し込む太陽光線が三和土(タタキ)を明るく照らしています。
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板の間の「店」の奥は京間の8畳の「台所」で、その奥には10畳の「座敷」と奥の庭の縁台が続きます。
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手前は板戸が閉まっていますが「下店(しもみせ)」と呼ばれる作業場で縁台のような板は跳ね上げられる構造になっています。
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3番はの佐地家の門は特に面白みがないので通過して、4番の三澤家住宅の見学に移ります。旧所在地は中山道信濃路の脇往還の伊那街道(三州街道)に面する宿場町の伊那部宿(長野県伊那市)だそうです。
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三澤家は屋号を「槌屋」(つちや)といい、元禄年間より代々組頭役で一時名主も勤めた家柄です。そして嘉永7年(1854)には年寄筋(名主問屋筋)に昇格して文久頃から薬種業を営み、明治に入って旅籠も兼業しました。
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立派な門構えは京都の妙心寺辺りの塔頭の居住まいを思い出させました。
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三澤家は幕末から隊商ごろまでは薬屋と共に旅籠を営んでいました。屋号は「つちや」で善光寺詣りや伊勢詣りの客の他に長野県知事や東京控訴院長や北白川宮などが宿泊したそうです。身分の高いお客はこちらの門側から出入りしたようです。
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薬を売り始めたのは天保時代以前と考えられ、製造販売は大正時代まで続きます。材料は木曽の薬種商から仕入れ、敷地内にあった薬倉で薬研(やげん)を用いて調合しました。
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製造した薬は店頭でも販売しましたが、富山の薬売りのように売り子が柳行李に背負って訪問したようです。
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店の帳場囲い商いのあった余韻を感じさせます。薬箪笥や木箱にも〇三の屋号の文字が残っていたりするので、調度品も当時のままのようです。
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オオエと呼ばれる板の間には竈と囲炉裏が設けられ、立派な神棚も設えてあります。
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板の間の上に設けられた竈は煮炊き用なのか薬の調合で使われたのでしょうか?
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この部屋は家族が日常に使う場所です。使い込まれた床板が美しいです。
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扱っていた目薬の「精錡水」や「養血圓」の看板も残されています。
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手前の板の間が台所で囲炉裏のあるオオエ、その奥が店(みせ)になってます。
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昔埼玉の父の実家にもこんな大八車があったような記憶があります。
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民家園は茅葺の建物が多いのですが、この家は板葺きになっています。板の大きさは長さ40センチから60センチで幅が10センチ、厚さは1センチで水に強い栗の木が使われたそうです。そういえば母型の祖父の実家の縁側も分厚い栗の木が使われていました。板を押さえるように桧を割ったヤワラ(押縁)を置き、その上に石を置いています。
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旅籠の屋号の看板が吊り下げられていました。当時はこちら側が表だったのだと分かります。
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次の民家へは坂を登るので板葺きの屋根の構造が手に取るように分かりました。周囲は自然の森に囲まれているので本当に遠い所へ足を延ばして旅しているような気分に浸れます。
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峠道には笹に埋もれるように庚申塚や馬頭観音なごが置かれてありました。中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のことで、人間の体内にいるという三尸虫(さんしちゅう)という虫が、庚申の日の夜に寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くとされていることから、それを避けるため夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀り、勤行をしたり宴会をしたりする風習があります。
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峠を越えると5番の水車小屋がありました。元々は長野市郊外の山村にあった水車小屋を昭和45年に小池忠治氏より川崎市に寄贈され、その後の昭和57年に日本民家園において復原修理されました。
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小屋の内部には水車の動力を伝える木製の歯車をもった装置が置かれ、それを利用して製粉や精米を行う挽臼や石臼も揃っています。建物は使用された材料の風蝕程度より江戸時代末期頃に建てられたと推定されるそうです。摩耗したり痛む部材は取り替えられているのが分かります。搗き臼が2基と粉挽き臼が1基あり、1日ごとに交代で使われたそうです。
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池平という集落にあった頃は「クルマヤ」と呼ばれ、米や麦を水車で加工して食べていたそうで、入口の戸には盗難防止用のカギが取り付けられていたそうです。
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直径3.6メートルもある大型の水車を取り付けてあります。実際に水力で回転しているので迫力があります。中国の雲南省や貴州省を旅していると水車は現在も使われている場面に出くわしますが、日本ではなかなか見ることは出来なくなりました。
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小路の脇にはお地蔵さまが置かれてありました。
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地蔵菩薩の像を6体並べて祀った六地蔵像が各地で見られますが、これは仏教の六道輪廻の思想(全ての生命は6種の世界に生まれ変わりを繰り返すとする)に基づき、六道のそれぞれを6種の地蔵が救うとする説から生まれたものです。
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6番の佐々木家住宅です。青モミジがとてもきれいでした。
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佐々木家住宅の旧所在地は八ヶ岳の東の千曲川に沿った長野県南佐久郡八千穂村で、は山あいの高冷地で豊かな土地柄ではなかったそうです。佐々木家は旧上畑村の名主を交替で勤める有力農家でもありました。家には普請に関する古文書が多数伝えられ、それによって現主屋の新築に至る経緯から、その後の移築や増築の過程が克明にわかる珍しい例だそうです。
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長大な軒裏の竹組が美しいです。
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東側は「かぶと造り」の屋根が乗りますが、軸組みの柱が2階まで通っていないのが不思議な感じがしました。土壁に塗り込められてるとはいえ屋根の大きさに対して柱の太さが細いように感じます。
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それに比べて家の中の梁や桁の太さを見ると安心します。土間の奥は「味噌部屋」と手前の出入り口に近いところは「厩」です。梯子を登った中二階は村の寺子屋としても使われたそうです。
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囲炉裏を切った板の間は「お勝手」で家族数人が住むには広すぎるように思えます。学生の頃囲炉裏に火がかいっていたのはここだったような気がしました。
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「お勝手」から奥に「茶の間」「中の間」「前出の座敷」と続きます。
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梁や桁や屋根裏の小屋組みの美しさを感じてしまいます。
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「前出の座敷」の奥には小さいながらも「風呂場」がありました。床板はわずかに勾配が付けられ、溝にお湯が流れるようになっています。この当時は湯船などは無かったようです。京都の桂離宮の御殿の中を見せてもらったことがありますが、同じような構造の風呂場がありました。
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一番手前が風呂場で、縁側の奥に部屋が並びます。奥座敷のさらに奥には「便所」が設けてありました。これはこの家が村の中で相当な地位の高さだったことが窺われます。
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佐々木家から少し上がったところに7番の江向家の合掌造民家の切妻屋根が見えました。
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その脇には10番山下家の合掌造りの建物が見えます。ここはそば処「白川郷」なので、後で食事をする予定です。
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江向家住宅は庄川沿いに位置する五箇山の一村である上平村(富山県東礪波郡)の合掌造民家で、五箇山地方の合掌造は岐阜県白川村のそれとは違って、純粋な切妻造ではありません。しかし同じ五箇山でも利賀谷の野原家では構造的にも入母屋造に近いのに対し、上平村の江向家では土間妻側の屋根は構造的にも形態的にも切妻造の妻側に庇を取り付けた形になっています。
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同じような合掌造りでもその地方によって造りが違うのだなと感心しました。また妻側が正面の入口になっていて、茅葺屋根の美しいカーブに魅了されました。インドネシアのバリ島の寺院のメルと呼ばれる塔のカーブを思い出しました。
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妻側に設けられた大戸口を入ると途端に薄暗くなり、通りに面して「厩」と「味噌部屋」があります。そして板壁によって二分された土間が続きます。
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右側には藁が敷かれた「厩」がありました。当時の農家にとって馬は大切な家族であり家財であったのだと分かります。
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厩の奥は「味噌部屋」で、大きな味噌樽が置かれてあります。味噌を仕込む場所の横で動物を飼うのに抵抗を感じます。
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土間沿いの部屋は前後2室に分かれ、表(向かって左)はデイ、裏はオエです。オエには大きな囲炉裏が切られ、また土間境には土間への出入口のほか作り付けの戸棚が備えられています。
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印象に残るのは囲炉裏よりも大きな「火棚」です。梁から太りしめ縄で吊られたものはすごい迫力でした。天井はスリット状になり、囲炉裏の煙が屋根裏に抜けるように設計されています。
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ここにも大きな竈が据えられ、また常時水の流れる水船が置かれています。この竈は炊事用のものではなく、水船とともに和紙をすくためなどに用いられたようです。ニワはそうした作業場として機能していました。
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そして広い小屋裏は二段に仕切られて養蚕や物置などに使用されています。残念ながら梯子を上がることは出来ませんが、屋根の平側に窓が開けられたのは幕末期らしく、この地方独特のものだそうです。
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火棚は一枚板の方が反射熱を感じやすく部屋は暖かいですが、格子状の場合はいろいろなものを吊り下げられるメリットがあったのでしょう。
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この家の軒裏も美しいデザインです。
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集落の大半は農家でしたが稲作や畑作だけでは食べていけず、収穫を終えると出稼ぎに出る家が多く、冬場はほとんど女性だけだったそうです。昭和20年代後半までは養蚕も行っていたそうで、作業は「アマ」と呼ばれる2階に棚を組んで行ったそうです。子供の頃に家族で中山道の宿場を旅した際に立ち寄った馬籠宿で農家の養蚕を見せてもらい、兄弟3人で1匹づつ5齢幼虫と桑の葉を貰って家に持ち帰った思い出があります。
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住宅の一番奥の「オマエ」に続く「仏間」は表に出っ張ったように見えます。五箇山は浄土真宗が盛んだったことと関係しているのかもしれません。
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2階に設けられた窓は茅葺屋根を切り取って持ち上げたように見えます。養蚕するときには風通しも必要ですから理にかなって見えます。冬になると障子は取り払われて雪除けを考えなければならなかったことでしょう。
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少し小高くなった場所に4棟の合掌造りの住宅が並んでいるのですごい迫力を感じます。
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妻はそば処に向かって先に行ってしまいました。いつのまにか午後1時近くになっていました。おなかも空いてくるはずです。
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並んだ合掌造りの軒下の荒縄の組み方が綺麗です。
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9番の野原家住宅は食事の後にして、10番の山下家に向かいます。ここはそば処「白川郷」として営業しています。
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土間で靴を脱いで板の間にあがると気持ちよい冷たさを足裏に感じることが出来ます。これだけでも価値があるように思います。カウンターで蕎麦を注文して奥の座敷のテーブルに座ります。
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この店のそばは山梨県の忍野村の湧き水を使って製麺をして、麵つゆも天然素材だけで作られているそうです。こちらは民家園そばの冷たいものです。山菜ととろろと天かすが入っています。
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天気も良くて少し汗ばむほどなので冷たいそばが何よりです。座敷の障子は開け放たれ、風が通るので気持ちよいです。そして先ほど見学した6番の佐々木家が見渡せます。
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お昼時だったので店の中には20人くらいのお客さんが来ていましたが、その多くはそばを食べに来た方のようで、その後の園内で見掛けることはありませんでした。民家園に来たらここで食事するのは必須だと思いました。妻も大満足です。
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山下家は白川村字御母衣にありましたが、御母衣ダム建設のため水没することになったので川崎市の千葉建三氏が入手し、川崎に移築して一時料亭として使用していたそうです。昭和44年に民家園に移されましたが園内の休憩所として使用するために全面的な復原は行われていないそうです。
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昭和40年の春の高山祭と下呂温泉を旅した際に合掌造りの家を訪ねた写真が残っていました。
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当時4歳なので56年前の写真ですが、日本国中を旅に連れて行ってくれて写真を残してくれた両親には感謝の念しかありません。
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さて、美味しいそばもいただいて休憩も出来たので民家園の残り半分の見学を進めます。
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まずは残りの合掌造りの9番の野原家住宅です。野原家住宅の旧所在地は庄川が東に分岐した利賀川の流域(富山県東礪波郡利賀村)に位置しますが、同じ五箇山でも庄川本流に沿って山ひとつ隔てた平村や上平村の合掌造とはかなり趣を異にしているそうです。利賀谷の合掌造は白川村の切妻造とは違って、妻飾の大きな入母屋造が特徴です。
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五箇山全域の合掌造に共通しますが、入口は土間の平側につく平入りで、これは同じ五箇山の平村や上平村の妻入り(妻側に入口がつく)とは異なっています。「土間」と「オエ」の境は中央部と背面半間を除いて、板壁によってしっかりと仕切られています。これは冬の冷え込みのきつい山地農家ならではの構えなのだと思います。
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間取りは土間沿いの部屋を前後2室に分ける上平村の民家に対して、利賀村では仕切りのない大きな一室としているのが特徴です。仕切りの無い広い「オエ」には2つの囲炉裏が切られています。奥の囲炉裏の火棚の上には木彫の猿のようなものが置かれてあります。
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合掌造りに共通する構造上の特徴は釿(ちょうな)梁の使用があります。釿梁は斜面に生えたために根元が大きく湾曲した木を梁として使用したもので、手斧の柄に似ているところからこうした名称が冠せられています。野原家では「オエ」と「座敷」の上部に用いられていますが、これは上屋と下屋という高さの異なる2点間を結ぶために木の曲がりを利用したもので、意匠的にもひとつの見せ場になっています。
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自在鉤は鍋や湯釜などを吊るし、高さを変えることで火力調整のできる優れた囲炉裏道具です。また、五徳を使わないことで火元に障害物がなくなり、薪をくべやすくする働きもあります。横木は「鯛」や「鯉」おめでたい魚の意匠が多いようです。
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流し場や農機具などを置く場所に使われる「ニワ」があります。「土間」が狭いのは平野部の民家と異なって屋内での農作業が少ない山間の農家に共通する特色だそうです。
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子供の頃に泥団子を作って、表面をピカピカになるまで磨いたことを思い出しました。
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合掌造りに共通する外形上の特徴は急峻で大きな屋根や、棟の近くにかんざし(笄)のように横木を刺し、これを手がかりにして棟を押さえる笄棟(こうがいむね)などが見る人に強い印象を与えます。
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現代の茅葺屋根の耐用年数は15年前後といわれています。最初の5年から10年ほどは丈夫で問題ありませんが、それ以上経つと数年に1度は、痛んだ部分に茅を差し込んでふさぐ「差し茅」という補修が必要になります。差し茅での対応が限界になると、いよいよ葺き替えになります。葺き替えはもっとも傷みやすい北側、そして南側と棟、東と西などと工事を分けて行ないます。
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茅の厚みは45センチ以上もあり、屋根面積1坪あたりの重量は約230キロになります。雨が降ると茅は水を吸いますので瓦以上の加重がかかり、積雪時期にはさらに重たくなるわけです。
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これで民家園の東側半分の見学が終わりました。
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西側へはこのようなトンネルを潜っていきます。
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11番目の作田家です。屋根の勾配を見るだけでも豪雪地帯の家屋ではないことが分かります。江戸期の房総の九十九里浜は鰯漁で賑わい、生産された干鰯(ほしか)は速効性の肥料として、江戸近郊の農家をはじめ遠く四国や紀伊方面などでも珍重されたそうです。作田家は佐久田村(千葉県山武郡九十九里町作田)の名主で、同時に鰯漁の網元を勤めた有力な家柄だそうです。
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網本の家といいながらも屋敷は海から離れた場所にあったので漁村のイメージは感じられません。軒下には稲藁が干してありました。
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1軒の住宅でありながら表から見ると屋根が2つある「分棟型(ぶんとうがた)」という構造になっています。
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「ニワ(土間)」には竈が設えられ釜の上には蒸し器が置かれてあります。
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「分棟型(ぶんとうがた)」と呼ばれる造りなので、主屋と土間との取り合わせ部分の雨水の処理として丸太を刳り貫いた雨樋が見えます。
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唯一網元らしいものとして櫓が吊るされていました。
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「土間」の屋根の小屋組みが美しく見渡せます。
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家の中心は「カミ」と呼ばれる板の間で、桁行が4間もあり家柄を反映してきわめて広いです。ここは日常的な接客の場で、前面の3間を格子窓とするのはこの時期の関東の古民家に共通する構えだそうです。
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こちらの梁や桁の美しさは何とも言えません。司馬遼太郎が産経新聞の記者時代に連載した「美の脇役」という本があるのですが、彼ならばどんな解説をするのだろうかなどと考えてしまいました。
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板の間の奥には左から「玄関」「中の間」「奥(奥の間)」と続きます。作田家の主人は旦那様と呼ばれ、妻はじょうさまと呼ばれたそうです。大漁の時は漁師の1人がこの母屋まで全裸で駆け付けたそうです。
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囲炉裏のある「カミ」の奥は「茶の間」で家族はここで食事をしました。その左には「納戸」があり祖父の居室で、「奥(奥の間)」は当主夫婦の部屋だったそうです。
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「玄関」から「中の間」と「奥(奥の間)」を望みます。
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「中の間」は曲がった梁を残しながらあめ色に色が変わった煤竹の天井が設えてあります。
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作田家が営んでいた大地引網漁は船1艘で行う片手地引網とは違い、網船2艘を使ったそうです。70名ほどの船方の他に岡者(おかもの)と呼ばれる網を曳くものを含め200人以上の量同社が必要だったそうです。他にも船大工や鍛冶屋や網職人、イワシの加工業者まで抱えていたそうです。
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小さい切通しを抜けると、妻が子供の頃に小学校へ行く近道がこんな切通しだったと教えてくれました。幼稚園は近所のお寺だったり、学校の給食の食器もアルマイトだったり、話しがかみ合わないことがたまにあります。
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いきなり「石敢當」が出てきました。ここは11番の沖永良部の高倉があるのだと分かりました。沖縄のいくつかの民家園に行ったりしているので興味深いのですが、ここには高倉が1棟あるだけです。
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高倉は世界中どこに行っても同じような造りになっています。中国であろうとインドネシアでもスイスでも同じようです。そして共通するのはネズミ返しの存在で、たいていは平石やスレートが用いられます。ここにはそれが無いと思ったのですが、よく見ると柱の最上部には30センチほど鉄板が巻いてありました。この部分がネズミが登れないようになっています。でも周囲には木があるし、丸太の階段も掛けたままなので実際にはありえない姿です。
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13番広瀬家住宅です。広瀬家住宅の旧所在地は山梨県塩山市北方の大菩薩峠付近を源流とする、笛吹川の支流の東岸の上萩原中小沢だったとあります。かつて付近の甲府盆地東部一帯には切妻造の茅葺屋根(地元では切破風造と呼ぶ)の民家が多かったようです。
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茅葺屋根の一般的な屋根の形は寄棟造りで、入母屋造がこれに次いで多いようです。切妻造りは形としては最も単純ですが茅葺屋根としては圧倒的少数らしいです。
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この家のシンプルな屋根の美しさに惹かれました。屋根が3分の2で、その下に土壁が見えるバランスの良さと等間隔に左右対称に建てられた柱、小舞の残された明り取り窓の大きさまでが計算し尽くされた比率を感じます。
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棟の最上部にはイワヒバを植えた「芝棟(しばむね)」になっています。この時期は別の草がピンク色の花を咲かせていました。
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切妻なので建物の側面が美しく見えます。曲がった柱と梁と桁が印象に残ります。元々の場所では「芝まくり」と呼ばれる強風を避けるために家の軒は低く造られたそうです。
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この家の外観は同時期の他の地方の民家と比較してもさらに閉鎖的な印象を受けます。開口部は「座敷」前面中央部のみで、他には「イドコ」や「土間」妻側に少しばかりの下地窓を開けるだけです。正面を除く三方には基本的に開口部はありません。
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そして軒先は普通の人でも頭がつかえるほど低いです。きわめて古めかしい造りといえそうです。
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その低い軒下に見える竹簀の子天井の一部の美しさにも驚かされます。
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窓がない分「土間」に入ると非常に暗い印象を受けます。
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壁には背負子(しょいこ)が掛けられています。50年ほど前に父が背負子造りの名人にお願いしてハリノキで美しい背負子を作った事を思い出しました。それを遺品整理の時に手放してしまったのがいまだに悔やまれます。もう少しその由来を詳しく利いておけばよかったと後悔しています。現在はどこにでもありますが、アルミ製の子供を背負える背負子の開発もして55年前には弟が人体実験の材料になっていました。
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内部の作業空間である「ドジ(土間)」と居間である「イドコ」の間には何も仕切りがなく、しかもイドコの床は土のままのいわゆる土座住居になっています。囲炉裏の脇の小舞の窓(下地窓)が換気の役目をしているのが分かります。
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表から家の中まで竹簀の子天井が続いているのが良く分かります。
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「土間」から続く「居所(イドコ)」は地面を突き固めて茅束を並べて莚(むしろ)敷きにしています。
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これは「土座(どざ)」と呼ばれ、日本全国の地域で見ることが出来たそうです。
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反対側の切妻ま反対側とまた違った木組みが美しいです。
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柱と柱の間は小舞い竹という竹の格子組みで塞がれ、そこにあら土を塗り固めていきますが、必要な部分に必要な大きさの小舞窓を造ることが出来ます。
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14番の太田家住宅です。太田家住宅の旧所在地は茨城県笠間市片庭で、近世初頭にはすでにこの地に居住し、また名主の家柄と伝える旧家だそうです。太田家住宅の大きな特徴は、棟方向を別にするふたつの屋根を接続して一軒の家を構成していることだそうです。
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棟方向を別にするふたつの屋根を接続して一軒の家を構成して、煮炊きをする竈を置く釜屋(土間)と居住部分に別々に屋根をかける形式は先ほど見てきた分棟型と同じ構成です。
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この家の特徴は今までの土壁とは違った板壁で構成されていることです。
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分軒型の特徴である屋内の雨樋が表にまでせり出しています。
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「土間」に入ると家屋を分割するように木製の雨樋が梁のように天井を貫いています。茨城県の笠間とはいえ冬季にこのような隙間があったのでは寒かったのではないでしょうか。
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日常生活の中心である「広間」と「土間」との間には何の仕切りもなく、ひとつながりの空間になっています。そして「広間」前面を格子窓とするのはこの時期の関東地方の古民家に共通する構えだそうです。
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昭和40年代の父の実家や大叔母の家を思い出す雰囲気を感じました。特に父の実家の薄暗い何となく陰湿な雰囲気が幼心にも嫌いで、家に遊びに行くのが嫌でした。
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特に泊った翌朝は母屋の前の広場の先の小屋のようなところで歯を磨いたり、またその歯磨きが使ったことも無い粉石鹸のようなものだったり…。トイレも外廊下の先にあったり怖かった記憶もあります。
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母の生まれた家は京都市内のさらに古い1600年代に建て始めた建物で、部屋が30近くあるので夜中にトイレに行くのが怖かった記憶はありますが楽しい思い出ばかりが残っています。
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この家の「広間」は大きいので農作業でも使われたのではないでしょうか。使い込まれて磨き上げられた板の間が美しいです。
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「広間」の奥は左に「座敷」と右に「部屋」があり、座敷は畳敷きになっています。
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「土間」には「唐箕(とうみ)」と呼ばれる臼などで籾殻をはずしたあと、風力を起こして穀物を籾殻と玄米と塵などに選別するための農具がありました。これは父の実家の蔵に残っていたのを見たことがあります。
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茨城県の笠間と埼玉県の上尾は距離的な近さもあるのか、家の前の街道沿いの格子窓を思い出しました。
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この家は屋根裏や中2階のような設えはありませんでした。
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「座敷」にのみ竹を編んだ天井が設けられています。
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その奥の「部屋」は板張りで家財道具が置かれてあります。
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「分棟型」の特徴が一番分かりやすいアングルです。しかし、どこの家屋からも現代のビルやマンションが見えないのが仔の民家園の良いところだと思います。
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15番の北村家住宅です。北村家住宅の旧所在地は大住郡鍛冶谷村(秦野市堀山下)で、名主の分家と伝えています。解体移築の際に柱枘より墨書銘が発見され、貞享4年(1687)の建築であることが判明したそうです。これは建立年時の明らかな民家としては、東日本では茨城県出島村の椎名家住宅延宝2年(1674)に次いで古いものだそうです。
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入口の脇には雨除けの竹張りの壁になっています。1本の竹を8本に割って平らな壁に仕立てていますが、よくよく節ごとに数えてみると7本づつになっています。この腰壁はササラバメと呼ばれます。
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この家は縁側が設けてあるので軒下の庇が長く現れています。
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「土間」に入ると他の住宅と同じ曲がりくねった梁が屋根を支えています。
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「土間」から「広間」を望みます。
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庇が長い分屋内に差し込む外光派遮られ暗い印象を受けます。
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「広間」の囲炉裏から奥は板張りの「台所」になっています。
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「広間」の奥にはしめ縄の奥に神棚が設えられて達磨が並んでいます。
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「広間」の床は板を外して竹の簀の子床になっています。夏場は莚の方が気持ちよかったのだと思います。
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こんなところに寝転がって昼寝をしたいものです。
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縁側沿いに軒下を進んでみます。ほとんどの家が内部に入ることが出来ないのが残念です。
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「奥(奥の間)」は8畳の畳敷きになっています。
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ここからまた高低差があり、いくつもの民家が並んでいます。
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16番の清宮家住宅の農機具を納めた小屋がありました。やはり父の実家の蔵の中で見たような農機具が並んでいます。
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葺き替えられたばかりの茅葺屋根は床屋で角刈りにしたようなさわやかさを感じます。
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屋内の屋根裏も茅が新しいので明るく感じます。
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この家の梁の曲がり具合はまるで巨大な大蛇のようです。
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旧清宮家住宅は神奈川県内では屈指の古民家で、江戸初期まで溯るのではないかとされているそうです。
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囲炉裏のある「広間」と他の部屋の間の仕切りは屋根裏までは達せずに梁の高さで終わっているのが現代人としては不思議です。夏場はともかく冬場は寒かったと思います。
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清宮家は明治20年代に大工を始め、現在も建設業を営んでいるそうです。
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ここから西門に向けては急勾配の上り坂になっています。その途中に18番の蚕影山祠堂の屋根が見えます。
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その途中には棟持柱の木小屋があります。これは囲炉裏で使う薪などの木材や堆肥を保管したそうです。妻と思い出したのは貴州省の苗族の村を旅した時のことで、こんな小屋がトイレになっていて、床下では豚が飼われていました。
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中国や東南アジアの古民家をたくさん訪ねて、久しぶりに日本の古民家を見学すると新しい視点で見ることが出来て勉強になりました。
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17番の伊藤家住宅です。伊藤家住宅は多摩丘陵南西部の橘樹郡金程村(川崎市麻生区金程)の農家で、江戸時代には名主を勤めたと伝えられます。建築年代を示す資料はありませんが、17世紀末から18世紀初めごろの建築と推定されます。
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「土間」への入口にはマグロの尾が取り付けられています。これは家の中に禍が入らないような魔除けの意味があります。
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「土間」には「味噌部屋」があり、使われる道具が展示してあります。
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大きな「踏み臼」も置かれてあります。水車などが無い場所ではこのような臼が使われたのでしょう。
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かまど神は竈や囲炉裏などの火を使う場所に祀られる神で、火の神であると同様に農業や家畜や家族を守る守護神ともされます。竈神や久那土神とも呼ばれることがあり、一般にはかまどや炉のそばの神棚に幣束や神札を祀りますが、祀り方の形態は地方によって様々です。
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「土間」の前は「広間」で竹の簀の子床にむしろが敷かれてあります。
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その奥には畳敷きの「デイ」と呼ばれる座敷があります。
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「デイ」の脇には水屋があります。
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「デイ」の奥にはむしろ時期の「部屋」が見えます。
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18番の蚕影山祠堂です。この祠堂は養蚕の神「蚕影大権現」を祀る宮殿と、それを安置する覆殿より構成されます。もと川崎市麻生区岡上の東光院境内に祀られ、人々の信仰を集めていましたが、養蚕の衰退とともに堂の維持が困難になったため、岡上の養蚕講中より昭和44年に川崎市に寄贈されました。
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両側面の板壁と腰壁に嵌め込まれた立体的な浮き彫りで、彫刻蚕神である金色姫の物語を表わしたものが見事でした。
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父の実家も釜三という屋号で養蚕を営んでいた時代もあるので手を合わせておきます。本尊の馬鳴大菩薩像(めみょうだいぼさつ)は貧しい人に衣服を与える菩薩で、養蚕や機織りの守り仏とされます。
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ここから階段を昇りつめた20番の船越の舞台を先に見学することにします。
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その階段が急なので妻が無口になりました。
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船越の舞台は三重県の英虞郡船越村(現志摩郡大王町船越)の船越神社境内に建てられた歌舞伎舞台で、船越村は志摩半島の南端の複雑な海岸線を持つ英虞湾の奥に天然の良港を抱く典型的な漁村です。地芝居や買芝居を演じるためのこうした舞台は幕末期から明治にかけて多く造られ、現在でも各地に存在しますが、その多くは農村のものであって、船越のような漁村の舞台は珍しいそうです。
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現在も舞台として使われているのでかなり手が加えられているようです。
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中央には直径5.4メートルの回り舞台を備え、舞台下の奈落には舞台回しのための装置が設けられているそうです。
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横溝正史の「獄門島」を思い出してしまいます。立派な花道もありましたが、雨に当たらないようにカバーが掛けられていました。
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戻りがてらに19番の岩澤家住宅の見学を続けます。高いところから見下ろす茅葺屋根の雰囲気もよいです。
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岩澤家住宅の旧所在地は丹沢山塊東麓の山あいの神奈川県愛甲郡清川村煤ヶ谷だったそうです。相模川の支流の小鮎川の段丘上に立地し、名主も勤めた家柄でした。
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この家の入口の壁もササラバメと呼ばれる割竹を張ったものです。東南アジアのタイとミャンマーの国境の少数民族の村をトレッキングしていると同じような竹を使った壁を見掛けることがあります。
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間取りは神奈川の古民家の主流である広間型3間取で、土間(ダイドコロ)と床上3室から構成されます。生活の中心である「座敷」は桁行2.5間が通例ですが、この家は3間で、上層農家の格式を示すものだそうです。「座敷」の前面2間を格子窓とするのはこの時代の関東の古民家に共通する意匠です。
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礎石と束柱と框(かまち)が美しいです。框に残された釿(ちょうな)の跡が美しいです。昔は電動工具など無かったのに真っ直ぐな材を見事に加工したと思います。
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板の間の「座敷(居間)」は家族の食事以外にも農作業の場であったと想像できます。この家ではこの板の間で養蚕も行っていたそうです。タイやカンボジアで養蚕の様子を見たことがありますが、束柱の周りに水が張れるようにして蟻が家の中に入れないようになっていました。カイコは家蚕(かさん)とも呼ばれる家畜化された昆虫で、野生動物としては生息出来ません。また野生回帰能力を完全に失った唯一の家畜化動物として知られ、餌がなくなっても自ら探したり逃げ出したりすることがなく、人間による管理なしでは生きることが出来ません。
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入母屋造りの茅葺屋根は由緒ある茶室の佇まいのようにも見えます。実際は四方下屋造りという名前だそうです。
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板壁と土壁の喰い合わせの美しさと共に屋根と壁のバランスにも用の美を感じます。
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手前の小さな建物は21番の菅の船頭小屋というものです。この船頭小屋はもと多摩川の「菅の渡し場」にあり、船頭が客を待ち、川の見張りをしたり休憩するのに用いていました。菅の渡しは多摩川右岸の菅と対岸の調布を結ぶ渡し場であり、商品や作物の輸送、肥料や日用品の仕入れや親戚や寺への往来など、生活圏を共通する流域の人々が、その交流のために設けたものです。
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23番の菅原家住宅です。霊山としての信仰を集めた出羽三山の湯殿山と月山を東にひかえた山形県東田川郡朝日村の田麦俣は、美しい外観を持つ「ハッポウ造」民家のふるさととしてよく知られている。これは養蚕のために屋根に高窓(ハッポウ)や仕切り窓(高ハッポウ)を設けたものです。
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この地方は有数の豪雪地帯で、高ハッポウは積雪時の出入口としても利用したようです。また、屋根の平側にも高窓(ハッポウ)を設け、小屋裏の採光と換気に役立てています。急勾配の屋根の棟上に置かれた、神社の置千木を思わせるようなグシグラも特徴的です。
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「あまや」には蓑藁や背負子が展示されていました。蓑藁は自分でも持っていたので懐かしく思いました。この部分は雪や雨除けの風除室のような造りになっています。
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蔵王へスキーに行った後に横手のかまくらと梵天祭りに行った55年ほど前にこんな格好で旅をしていました。
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父に買ってもらった蓑笠(みのかさ)は懐かしい思い出です。
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「土間」には「物置」と出口側には「厩」が設けられています。
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物置と厩の反対側には「味噌部屋」と「台所」が設えてあります。「あまや」の上にも物置がありますが梯子を登ることは出来ません。
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床上は4室からなり、表(南)にデイ(シモデ)とカミデイの2室の客座敷を配置しています。
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防寒のためか開口部が少ないので全体的に暗い印象です。デジカメでの撮影とフォトショップで露出を補正しているのでかなり明るくはなっていますが、谷崎潤一郎のいう「陰影礼賛」という言葉が浮かんできます。
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西洋の文化では可能な限り部屋の隅々まで明るくし、陰翳を消す事に執着したが、いにしえの日本ではむしろ陰翳を認め、それを利用することで陰翳の中でこそ映える芸術を作り上げたのであり、それこそが日本古来の美意識で美学の特徴だと主張する随筆には学生時代に影響を受けました。
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22番の工藤家住宅です。工藤家住宅の旧所在地は岩手県紫波郡紫波町で、工藤家の形式でもある「南部の曲屋」は盛岡を中心とする旧南部藩領という、比較的限られた地域内に分布する特異な民家形式です。
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L字型の平面構成で突出した土間の先端に「厩」を置きますが、こうした内厩の形式は北国の民家のものです。特に春の短い東北地方北部では、農耕のためには牛よりも動きの俊敏な馬を使う方が都合がよかったそうです。ただ馬は癇が強くてその飼育は牛よりもずっと難しく、そこで厩を屋内に設けて馬の健康状態を常に把握できるようにしました。
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畳敷きの「座敷」は客座敷の役割があったそうです。
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織機の置かれた板の間の「茶の間」から「ジョウイ」を覗いてみます。
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「土間(ニワ)」の奥は板の間の「台所」になっています。ここには囲炉裏が切られて、煙がたまらないように屋根の上には開口部があるようです。
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部屋は板戸で仕切られていますが、どの部屋にも天井はありません。
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屋根裏には部屋を設けていないのも分かります。
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居心地のよさそうな「台所」です。囲炉裏の上の火棚の上には竹材が置かれ、煤竹を作っているようです。
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冬の冷え込みは格別だったそうですが、畳のある部屋も畳を敷くのはお客が来た時だけだったそうです。寝るときは板の間にクズフトンとフトンを敷いたそうです。屑布団の中身は藁の柔らかい部分で、布団は木綿綿が入れられました。寝る前には囲炉裏の周りを掃除して、燃え残りに水をかけた後に中の炭火に木を入れて灰で固めたそうです。翌朝はこの火を熾すことから始まりました。
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台所の奥にはお膳や徳利などの食器を置く場所があります。工藤家では養蚕と煙草草の栽培農家だったそうです。養蚕は年に3回行いましたが、糸を採る繭ではなく蚕の卵を採る「分譲」のための繭を出荷したそうです。また冬の出稼ぎでは「酒屋稼ぎ」と言われた酒造りで、樺太まで行っていたそうです。
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L字に曲がった先には「厩」がありました。工藤家では2頭の馬を飼っていて、栗毛なら「クロ」、赤毛なら「アカ」と呼んだそうです。餌は1日3回で藁や燕麦や葛の葉が主食でフスマや米のとぎ汁を混ぜたそうです。冬は水も冷たいので釜で温めたものをやったそうです。
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柳田国男が明治43年に発表した、岩手県遠野地方に伝わる逸話、伝承などを記した説話集「遠野物語」を思い出してしまいます。もちろん「馬娘婚姻譚」の話しです。
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昔、ある農家に娘がおり、家の飼い馬と仲が良くなりついには夫婦になってしまいます。娘の父親は怒り、馬を殺して木に吊り下げると娘は馬の死を知り、すがりついて泣きます。すると父はさらに怒り馬の首をはねます。すかさず娘が馬の首に飛び乗るとそのまま空へ昇り、おしら様となったのだと伝えられます。
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これで民家園の見学は終わりました。奥門から生田緑地の公園内に出て、岡本太郎美術館へ向かう事にします。
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奥門を出るとすぐにメタセコイヤの林が続きます。
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奥の池の歩道には大きなアオダイショウがいました。妻がキャーキャー騒ぐので逃げてしまいました。アオダイショウは毒はありませんが噛まれると痛いはずです。昔浅間山で蛇を捕まえて、バスで小諸に戻って懐古園を見学している最中に弟が噛まれたことがあります。通りがかりの人が「マムシですよ。」と教えてくださり、救急車で運ばれて血清の注射と緊急手術としたことがありました。それ以来蛇には触りません。
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