2019/10/21 - 2020/10/21
20位(同エリア32件中)
gianiさん
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この旅行記スケジュールを元に
百数十年の歴史が詰まった、ミシュランの博物館を見学。
小平市のブリジストン東京工場付属の博物館(無料)とは、
比較にならない内容でした。
- 旅行の満足度
- 5.0
-
クレルモンの大聖堂の内部。
神秘的です。聖母被昇天のノートル ダム大聖堂 寺院・教会
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哲学者パスカルの生家があります。
パルカル通り 散歩・街歩き
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旧市街は、黒い街です。
クレルモン旧市街 旧市街・古い町並み
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ミシュランの世界へ
展示室の入口では、鼻水垂らすビバンダムがお出迎え。
ビバンダムの泉or噴水と呼ばれるモニュメントです。ラヴァンチュール ミシュラン 博物館・美術館・ギャラリー
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ASM(ミシュラン・スポーツ協会)は、1911年に雇用創造と社員家族の福利厚生のために、マルセル・ミシュラン氏によって設立された。
数年後、名称はモンフェラン・スポーツ協会に改められた。
(本来ならASF(クレルモンフェラン・スポーツ協会)とすべきだが、ASMの頭文字を維持するためである。注:クレルモンフェランは、王朝時代に隣り合うクレルモンとモンフェランが合併して誕生した。ミシュランはモンフェラン地区に立地する。)
1922年に文化・スポーツの複合施設を建設。施設には30×10mの温水プールも含まれた。ビバンダム(日本での呼称はミシュランマン)は、プールの水を循環させてフィルターで浄化したものを注水する部分に設置された。
幾世代にもわたって子供たちはこのスイミングスクールに通ったが、1980年に閉鎖された。市民遺産と考え、ミシュランは噴水を保存することにした。 -
まずは、クイズ形式で学びます。
ゴム産業が誕生したのは、1839年。
純粋なゴムは、寒いと簡単にひび割れ、暑いとドロドロして溶けてしまう。
この年、英国のチャールズ・グッドイヤーによって加硫(熱した硫黄をゴムに混ぜる)工程が発見された。
その用途は、防水布(溶剤でゴムを溶かして成形)、最初の防水衣服、エボナイト(過剰な加硫で硬度を高めたゴム)、固形タイヤ、空気入りタイヤ等、どんどん増えていった。 -
バルビエール家・ミシュラン家
およびドブレ家の系図 -
1832年、いとこ同士のアリスティード・バルビエールとエドゥアール・ドブレは、クレルモンフェランで農業機械を製造する工場を発展させるために力を合わせた。
バルビエール・ドブレ&シと名付けた会社は、二人のパートナーシップの始まりだった。家族のために、そして続く数年間の経営を安定化するために、利益の配当を制限した。
オーベルニュ地方にゴムを導入したのは、エドゥアール・ドブレの妻エリザベスによる。
彼女は、防水布の発明者として有名なスコットランド人化学者マッキントッシュの姪にあたり、子供の頃に自分を楽しませるために叔父がゴム鞠を作ってくれて、ポンポン飛び跳ねる姿に心躍らせたことを覚えていた。
それと同じものを作るために、彼女は、その鞠を自分の所へ送ってほしいと、叔父に頼んだ。ゴム鞠製造は、会社に大きな成功をもたらした。 -
ゴムの用途
ゴムボールの成功の後、アリスティード・バルビエ―ルは軽いもので覆われた車輪をイメージしたが、それは加硫法の発明により可能になった。ゴムは弾力を増しつつも変形やねじれに強い性格を獲得したからである。
農業機械
バルビエ―ル家は、灌漑用ポンプや刈り取り機などの管・弁・接合部分にゴム部品を使用した。
成功
この会社は、ゴム製造、鋳鉄、銅製品を生産し、1860年には国内の農業コンペで、1862年にはロンドン万博で賞を入賞している。
クレルモンフェランやブラザで操業する工場は、パリ市の10区に倉庫を持っていた。 -
バルビエール・ドブレのポンプ
彼はバルブ(弁)やホースを製造しただけでなく、異なるタイプのポンプも製造した。
これは、1855年の万博に出品した(水を汲み上げる)ポンプで、2つの賞を受賞した。続く1860年には皇帝賞(ナポレオン3世)も受賞した。 -
バルビエール・ドブレの継承
創業者も既に死去し、次の財政難に直面していた1886年、アデル・バルビエールは息子のアンドレ・ミシュランに瀕死の会社を引き継ぐことを打診した。3年後、アンドレの弟エドゥアールは、ミシュラン&シ商会の社長に就任した。
※アデルは、ジュレ・ミシュランと結婚した(家系図参照)。
ゴムの使用(1890年)
1890年から1910年にかけて、天然ゴムの生産はコンゴとアマゾンで激増した。ゴムはあらゆる用途(ボール、防水布、玩具、厨房器具、医療器具etc.)が生じた。
ミシュラン兄弟は、農業器具に加えて、辻馬車や荷馬車用のゴム製ブレーキパッドの製造も始めた。(ブレーキ音が)まさに静か。1889年のパリ万博では、ブロンズ賞に輝いた。 -
ソリッドタイヤ
ソリッドタイヤ(木や鉄など表面が硬い素材)を装着した車輪は、長年、多くの車両に使用された。
信頼できる製品だったが、路面に起因する衝撃を吸収できず、乗り心地は良くなかった。
加えて制動も安全とは言えなかった。 -
写真は、1880年製のもの。
接地面が木だと、衝撃がダイレクトに伝わりますね。 -
鉄で縁取られた車輪
鉄製の輪は、加熱すると膨張するので、すぐに車輪の縁に取り付け、水で冷やす。鉄は冷えて収縮し、タガのように車輪を締め付ける。鉄で接地面を保護する一方で、路面の衝撃をすべて伝えてしまう。
この技術は、2,300年以上前のケルト人が発展させたものと思われる。 -
加熱すると膨張し、冷却すると収縮する鉄の性質を巧みに利用していますね。
固定方法は、木樽に箍を掛けるのと同じ原理です。 -
1890年当時、パリ~クレルモンフェラン間(470km)を、荷馬車では6日掛けて走破していた。表定速度は、時速6kmだった。郵便馬車(写真)は、3日で到達した。
時速20kmという輸送速度は、郵便と富裕層にのみ適用された。郵便は、各中継点に7頭の馬を配置したので、常に元気な馬が馬車を牽くことが可能になった。
鉄道は、1855年にはクレルモンまで到達し、わずか9時間36分で結んだ。 -
弾性車輪(1890年)
スポークの先端が板バネになっていて、衝撃を吸収する複雑な構造。
現在の自動車のサスペンションは、シャーシ部分に板バネを採用していますね。
タイヤに設置したところに迷走具合現れています。
技術革新の布石にはなったけど、肝心の乗り心地が、逆にひどくなった。
技術開発のあるあるです。 -
ゴム…理想的な素材
とにかく、しなやか。ゴムは揺れや衝撃を吸収する性質がある。木や鉄でできた固いタイヤに代わるものとして、理想的な素材だった。
空気の詰まったタイヤが振動を吸収すると、接地面積が増える。
一方、柔らかい路面では車輪の沈み込みが少なくなり、タイヤの形状が変化して揺れが少なくなり、路面の不規則性を吸収する。 -
自転車用のタイヤを最初に発明したのはダンロップ。
1845年、ロベルト・ウイリアム・トンプソンは、空気入りの車輪を発明した。
1888年、ジョン・ボイド・ダンロップは、空気入りタイヤの特許を登録した、
ゴム・革・布に空気を詰めたものを車輪に装着した。息子が自転車で悪戦苦闘している姿を目にした時に思い浮かんだ。
北アイルランドのベルファスト在住のスコットランド人獣医は、ゴムチューブに空気を充填したものを自転車の車輪に装着し、リムに装着することを考案した。
翌1889年には、最初のタイヤ工場を設立した。
ミシュラン、ダンロップ、グッドイヤー、現代の御三家の名前が登場しましたね。 -
自動車用のタイヤを発明したのはミシュラン兄弟。
それに先立つ1891年に、ミシュランは
最初の脱着可能な自転車タイヤを発明した。 -
挑戦
自転車競技者に、脱着可能なミシュランタイヤの利点を証明し、広く告知するには、どうすれば良いか?
答えは、プチジャーナル紙が企画して1891年9月に開催された、パリ~ブレスト間往復レースに参加することだった!
ミシュラン兄弟は、チャンピオンのシャルル・トゥロンに自分たちの発明品を採用するよう何とか説得した。
偉業
三日三晩をかけて、シャルル・トゥロンは重量21㎏のマシンで、1200kmの行程を平均時速17kmで完走した。
2着のジエル・ラヴァルは脱着不可能なタイヤで走行して、トップに8時間27分遅れのゴールだった。最下位は、10日後にゴールした。
証明
ミシュランは脱着可能なタイヤの効率性と快適さを、まばゆいばかりの勝利によって広く示した。
プチジャーナル紙の表紙の宣伝(広告か優勝記事かは不明)によって、1万人の競技者は、来年のレースはミシュランの新製品を採用する気になった。
クレルモンでのタイヤ製造事業が立ち上がった。 -
偉業を成し遂げたタイヤ。
タイヤはネジ留めされていたんですね。 -
脱着可能な自転車用タイヤが成功すると、ミシュラン兄弟はハンサムキャブ(辻馬車)と荷馬車に関心を向け始めた。
困難は路面にあった。多くの人々は、ミシュランに非常に懐疑的だった。
パリでの成功
スザール2世号がミシュラン(空気入)タイヤを履いてパリを走り回ることで、人々の懐疑主義を克服した。
エドゥアール・ミシュランは、馬車のオーナーたちにも、空気入ミシュランタイヤを履かせることを納得させた。
1903年には6000台以上の馬車がミシュランタイヤを履き、動くリビングルームを謳う快適さを身に着けた。
乗用自動車への最初の試用
自動車に空気入タイヤを履かせることを誰も挑戦しない中で、ミシュラン工場は幾つかの試作品を作った。
イロンデル(燕)は、最初の試作車である。続いてアレニェ(蜘蛛)、エクレア(稲妻)も作った。これらは、1895年のパリ~ボルドー往復レースに参加した。 -
最高にして最安値
自転車用タイヤはミシュラン。
白い風貌は、フランケンシュタインの包帯ではなく、
当時タイヤは白い紙に巻かれていたためです。 -
1890年、パリ市内には運送に携わる馬が8万頭もいた。市内の890台の辻馬車は、空気入りタイヤを装着していた。
当時は車=馬車だった。hansomとは、一頭立ての辻馬車のこと。
空気入りタイヤは英語で、pneumatic tyre と表記するが、空気を意味する古代ギリシャ語のpneumaを起源とする。 -
ハンサムキャブ(一頭立ての辻馬車)のタイヤ(1894年)
1896年には、パリ市内を走るハンサムキャブのうち、およそ300台が装着していた。
このタイヤを装着したスザール・ニコラ2世号とスザリナ号がパリ市内を巡回することによって、火ぶたが切られた。
車上のリビングルームと呼ばれた車両は、静かで快適。パリを征服した。
1909年には、8000台のハンサムキャブと荷馬車がパリ市内を走っていた。 -
確かに、チューブに空気を入れる穴がありますね。
-
ハンサムキャブは、こんな姿をしています。
右下には、初代のハンサムキャブ向け空気入りタイヤを履いているとのキャプションが。
20世紀初期は馬車全盛でしたが、現状に甘えず、
20年以上前から次の可能性を探す姿勢には脱帽です。 -
エアチューブを履いた最初の自動車
タイヤの品質を世界に納得してもらうために、ミシュランはパリ~ボルドー往復レースに参加した。
プジョーの援助を受けて、ミシュラン兄弟は1台の自動車を制作し、自らが運転した。レースのコースがジグザグだったので、エクレア(稲妻)と名付けられた。
挫折?
レース中、ミシュランのチームは、最前線で活動した。車輪、スポーク、ブレーキ、タイヤのパンク、ガソリン漏れ、冷却水が循環しない、エンジンは火を噴き等々、、、
しかし次の点は証明された。1200kmのコースを100時間以内で完走する条件は達成できた。
先見の明のある決断
1896年2月、ミシュランは最初の自動車用タイヤを発売した。
空気入タイヤは、流行しなかった。しかしエドアルド・ミシュランは宣言した。「この10年で、自動車のタイヤは空気入になる。」
2年後、その通りになった。 -
エクレア号
プジョー製の車台にダイムラー製のエンジンを積んでいた。
パリ~ボルドー往復レースで、空気入タイヤを装着した唯一の車だった。 -
色合いが、稲妻っぽいですね。
前輪の接地面にミラーを配置した展示方法は、タイヤ会社らしいですね(笑) -
ド・ディオンのオート三輪車
1896年に製造された最初のシリーズで、ミシュランのタイヤを装着した。
1900年、ド・ディオン・ブトン社は、世界最大の自動車メーカーになった。
ミシュランのように、当初は道路地図も出版していた。 -
自転車の延長線上という感じですね。
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時速100kmの壁
1899年「ジャメ・コンタント(決して満足しない→現状に満足しない)」号は、直径55㎝のミシュランタイヤを履いていた。
出力25kWの電気モーターを装着し、ベルギーのカミーユ・ジュナティにより制作され、時速105.882kmを記録した。
既成観念を粉砕する
この電気自動車は、全長3.8m重量1450kgで、車台と装甲はプラチナ合金製、ブレーキはモーターに流す電流の極性を反転させることによって作用した。既成観念を打ち壊す車両だった。有人走行では時速70kmが限界だと考えられていたからだ。
より速く
激しい速度競争下で、ジャメコンタント号の記録は直ぐに破られた。しかし世界の刷新と、そのための競技出場というミシュランの立ち位置が確立された。 -
ロケットみたいな外観。
タイヤだけは実物。さすがはミシュラン。 -
鋼で保護されたタイヤ(1900-1905)
ゴムを保護するための解決策を模索し続けていた。
幾つかの案が出たが、その一つが鉄(鋼)で覆うというものだった。 -
キャタピラを小型化したような表面です。
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革で保護したタイヤ
ゴム面を保護するために、革を使用した。
これは1900年にタイヤの寿命を延ばした10の要素の一つだった。 -
革で溝まで表現しています。
手間のかかる手作業だったのでしょうね。 -
脱着可能なカバー(1900-1903)
タイヤを保護するために、脱着可能な縄または革の覆いを模索した。
しかし接地面の不安定さゆえに、ミシュランは決してそれらを市場に出さなかった。
熱の蓄積、水や石がタイヤ本体とカバーの間に入る等の問題があった。 -
オンリーワン(1905)
この製品は、ゴルドン~バンネット競技大会対策で進歩した。
鉄鋲が接地面(トレッド面という)にしっかりと取り付けられ、タイヤの寿命とグリップ(路面をしっかりとつかむ)性能が飛躍的に向上した。 -
接地面のサンプル
頑丈そうですね。 -
これは、当時の宣伝ポスター。
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フランス・自動車クラブが、最初のフランス・グランプリ大会を組織した。レース会場は、サルト県のルマンだった。1906年6月26日、37台の車がスタートした。フルンク・スジが優勝し、ルノー90CVで平均時速101㎞を記録した。
大会規則では、ドライバーとその整備士だけがタイヤ交換に携われることになっていた。
それは、ピットインの際にチームクルーが介入する余地がないことを意味した。
ミシュランは取り外し可能なリムを発明して、交換作業を容易にした。 -
第1回AOC大会の優勝車
大会組織は西部自動車クラブに引き継がれ、1926年からはルマン24時間耐久レースとなっています。 -
脱着可能なリム(ホイール本体の外縁部)1906年
この過程は、自動車レースの規則が変更されたことへの対応策だった。それは、ドライバーとその整備士だけがタイヤ交換に携われるというルール変更だった。
8つの留め金で固定する方法により、タイヤ交換は3分以内で終えられるようになった。 -
ネジではなく留め金なので、パチンパチンと迅速に固定・解除ができます。
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足元に描かれた”M"
1919年、トレッド面にMの字が描かれたタイヤは、ブランド広告も兼ねた。
その後、安全の代名詞(印)として、このデザインは広く知られるようになる。 -
Wではなく、Mです。
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M字型のシンプルなトレッド面は、ストップタイヤの非常に手の込んだ細かい溝に取って代わられた。
1919年以降、ゴムに黒色炭素を添加するようになった。
上記の変更で、耐久性と、現在まで続く黒い外観になった。
1930年代、ミシュランは真鍮仕上のワイヤーを使った骨組み構造を開発した。
従来の、16~20枚の布を重ねたものが、4つの金属層を合わせたものに取って代わった。タイヤは重い負荷に耐えられ、破裂しなかった。 -
ブラックコードタイヤ(1919)
摩耗を防ぐための補強材として、黒色炭素をゴムに添加した。
タイヤの寿命は飛躍的に向上した。
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タイヤ=黒色は、現在では当たり前ですね。
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コンフォートコードタイヤ(1923)
タイヤの空気圧の観点からして、根本的な変更が為された。
低圧タイヤの登場で、耐久距離は15000kmまで飛躍した。
それは、ドライバーは定期的にタイヤに空気を入れる必要があることを意味する。
これは最初の低圧タイヤ(乗用車で2.5kg/平方センチメートル)だった。 -
現在まで続く「コンフォート」ブランドの誕生。
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シトロエン&ミシュラン協会:技術的挑戦
シトロエン・ケグレッセは、ミシュラン製のタイヤを履いて、アフリカとアジアを巡った。機動力を向上させるため、あらゆる地形に挑んだ。
黒い巡洋艦隊(1924-25)
(後輪が)キャタピラになった8台の自動車が、北アフリカ~西アフリカ間の28,000kmを走破した。映画製作者のレオン・ポワリエールによって、その偉業があらゆる世代に伝えられた。
黄色い巡洋艦体(1931-32)
ヨーロッパと中国を結んだ古代シルクロードに沿って、ベイルート~北京を遠征した。 -
パリ~ベイルート間の行程と車両。
後輪がキャタピラーになっています。
植民地帝国の人種差別丸出しのネーミングです。 -
スーパーコンフォート(1932)
こんなトレッド面。 -
革命!
悪路でアクセル全開でも、クラブチェアのような快適さ!
ミシュラン・スーパーコンフォート
空気圧 1-1.4kg/平方センチメートル -
止まるタイヤ(1934)
最初にサイプ(幅1mm程度の溝)を採用した。濡れた路面でのグリップ性能が向上した。
1935年の「スーパーコンフォートはSで止まる」のキャッチフレーズは、
濡れた路面用にデザインされたジグザグ模様(S字が連なるように見える)が最初に採用された。 -
繊細な溝ですね。
サイプと言います。 -
メタリックタイヤ(1937)
「メタリック」は、真鍮仕上げの鉄ワイヤーを放射状に組んだ(ラジアル構造)最初のタイヤである。
これらの素材のおかげで、布を16-20層も重ねる工程が、たった4つの金属層に取って代わった。
上記の金属で包むことによって、この年はラジアル構造の始点となった。 -
元祖ラジアル(構造の)タイヤ。
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25トンの荷重にも耐えることをアピール。
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あらゆる路上の障害物を克服することをアピール。
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タイヤの製造工程
薄いゴムの層をドラムに巻きつけ、トレッド(接地)部分を制作。 -
布を重ねた層にゴムを刷り込み、カーカス部分を作成。
(タイヤをホイールに固定する)ビードワイヤー部分を作成し、
トレッド部分とカーカス部分の間に挟む。
成形後、加熱加圧し、トレッドパターンや刻印を施す。 -
卸先の拡大
1900年にはミシュラン製品の販売業者が58あり、そのうちの2つは国外にあった。
10年後には2,000近くに。うち1,373は国外だった。ビヴァンダム(日本ではミシュランマン)は全大陸を制覇した。
最初の国外進出は1905年で、イギリスだった。国外に建設した工場は1906年イタリアのトリノ、翌年はアメリカのミルタウン、その後ドイツ、アルゼンチン、スペイン、チェコスロバキア、ベルギーへと広がっていった。
イギリス市場におけるブランド認知のために、1911年にはロンドンにミシュランハウスをオープンした。壮大なアールヌーヴォー様式の建物は、タイルとステンドグラスで装飾され、ビヴァンダムとレースでの勝利が描かれた。ロンドンには、イギリスの現地法人の本社、倉庫、旅行代理店があり、顧客は道路地図や観光ガイドブック、旅行計画の手配などができた。 -
サー(騎士に由来する英国の勲位・)ビヴァンダム
私の強さは、私自身の強さによるもの。なぜなら私のゴムは純粋だから。
最初に国外進出した英国向け。 -
仕入業者はミシュランの拡大を物語る
1900年:51の仕入業者(国内)、2(国外)
1910年:586(国内)、1373(国外)
1913年:全世界で7200
注:国外にはフランス植民地も含む。 -
当時の自転車屋さん。どこで故障しても、
部品在庫アリ=修理可能は、大きな信用に繋がりますね。
技術面だけでなく、供給販売網も精力的に開拓。 -
航空機への情熱
新興の航空業界で操縦士と製造者の育成促進のため、1908年にミシュラン兄弟は2つの競技会を開催した。
これらは、会社の宣伝にも役立つと同時に、最高のパフォーマンスに金銭的な見返りを与えた。
ミシュラン杯
1908年中に、無着陸最長飛行を達成したパイロットに、賞金15,000フランを支給した。優勝したのはウィルバー・ライト(ライト兄弟の兄の方)で、124kmを2時間20分間飛行した。
ミシュラン特別賞
優勝者には10万フランの賞金。まずパリの凱旋門を一周し、クレルモンフェランを通過してピュイドドームの頂上まで無傷かつ6時間以内に到着するルールだった。 -
ミシュラン兄弟の飛行機への信念
フランス航空クラブの共同創設者として、業界を牽引していった。数々の賞金付競技会を創設し、その結果爆撃機のパイロットが次々と養成され、1911年の陸軍航空部隊も設立された。
第一次世界大戦のサポート
1914年、フランス陸軍から航空機を100機分の製造依頼があった。十分な試験飛行ができない中、1916年にBM(ブレゲ・ミシュラン)4型を開発するが、最初は将軍たちの支持を得られなかった。1917年には名機BM14を開発し、勝利請負人と呼ばれた。
テイラー式生産管理を採用したクレルモン工場で、ミシュランは日産7機、合計1,584機のBM14型機を儲け無で製造した。1916年には、世界初のセメント舗装の滑走路をオルナに建設した。 -
毅然とした愛国心
航空機の軍事面での潜在力は、先見の明のある人たちには明らかだった。アンドレ・ミシュランも、その一人だった。
軍用機は、短期間で驚異的な兵器に飛躍するかどうか、何度も議論された。
橋や鉄道網を破壊できるか、要塞を殲滅できるか、戦艦を爆破できるか?
さらに多くの事、兵器工場や兵器倉庫を破壊して相手が武器を使えなくすることは可能だろうか?
アンドレ・ミシュランはフランス航空クラブの会長として、様々な可能性を模索した。
1911年、ミシュランはアエロターゲット賞を開催し、15万フランの賞金を懸けた。1912年8月までに、半径10mの的に一番多く的中させたのは、ゴベール(パイロット)&リレイ・スコット(狙撃手)だった。 -
ミシュラン軍病院
1914年9月、ベッド数320床、エレベーターを2基備えた巨大で風通しの良い軍病院が開業した。3週間で工場の大工が家具を製作し、労働者がマットレスや白衣、包帯、ゴム排水管を作り上げた。
病院には手術室、薬局、細菌研究所、レントゲン室、図書室が備わっていた。
新聞や日光療法のセッション、コンサート、講演会、映画などが提供された。
負傷者は、腕の良い内科医、外科医、医師、薬剤師、2人の放射線技師、婦長、男女総勢55名の看護師、マッサージ師、その他25名の従業員を目にした。1917年7月までに、のべ2900名の負傷者が収容された。 -
勝利
ブレゲ14は、一流の爆撃機だった。郵便にも旋風を巻き起こし、市民は航空郵便を利用できるようになった。
先駆け
1918年は、空中戦が花開いた年だった。偉大な指導者たちは、砲撃のアイデアに引き継がれた。この理論は1915年に発展した。航空機から敵の後方を砲撃し、前線を分断したり、戦力を分散させることが任務だった。
事業整理
1919年、ミシュランの工場は航空機生産を中止し、タイヤ製造に専念した。第二次世界大戦当初、エドアールミシュランはVG33型機の開発プロジェクトを策定したが、結局実現しなかった。 -
合理的な作業組織
1913年、マルセル・ミシュランは、テイラー式管理法を学ぶためにアメリカを訪れた。
ルノーに加えてミシュランも、ヨーロッパで科学的に作業を組織した最初の会社の一つで、ブレゲ14を開発中に採用した。1918年にインナーチューブ製造部門が、最新の生産ラインに変わった。作業の合理化は数年かけて、すべての工場部門を体系化した。それは、アメリカとの競争に不可欠なものとみなされた。
※F.テイラーによる科学的管理法:製造現場や経営者判断に潜む非合理性を排除し、結果的に経営サイドには業績アップ、労働者側には賃金アップをもたらすというもの。 -
右ページ
13課:無駄な時間や不要な物との闘い
誰が無駄な時間や不要なものと闘うべきか?
労働者、職長、技術者、上司、みんなである。
方法は非常に簡単です。あなたの作業チームでも、実際にやってみましょう。
以下、漫画付きの説明。
社員に配られたテキストでしょうか。 -
路上走行、航空機、鉄道、、、
1929年にミシュランはレール走行用の手がけた。
走行試験で回転速度は速く、制動距離は短いことが証明された。タイヤ摩耗も減少し、乗客は比べ物にならない快適な乗り心地を楽しんだ。鉄道車両は「ミシェリーヌ」(名詞ミシュランの女性形)と名付けられた。
1931年にパリ~ドーヴィル間で運行を始めた。
1936年には136名の乗客を乗せて巡航速度120㎞/h、最高速度は135km/hを記録した。
1932-40年の間に200両がフランスで制作された。
1932年、ミシェリーヌ9型はイギリス、チェコスロバキア、ノルウェー、イタリア等での運行が承認された。
ミシェリーヌ23型は、1939年のニューヨーク万博で、単独で出展された。 -
ミシェリーヌ11型
初期タイプはエレファント(象)というニックネームが付いていました。
ポスターには大きな字で、「ミシェリーヌをぜひ試してみて」という文句が。 -
ミシェリーヌ23.1型
1936年製、全長30m、最高速度120km/h、座席数96、出力400馬力。
2両固定編成で、車輪の配置が独特です。
欧米の鉄道車両は全長25mが標準で、座席数も多いので、かなり独特のスペックです。 -
ミシェリーヌ・エクスプレス(1933)の車内。
絨毯の床に、ひじ掛け付の椅子が設置。 -
チケット売り場に展示されているミシェリーヌ・エクスプレス。
-
1928年まで、ミシュランは着実な発展を経営方針として、フランスと海外に工場を開設した。その後の経営陣は、革新と多様化に向けて舵を切った。
1929年の危機(ニューヨーク株式市場の暴落と続く世界恐慌)の後、アメリカとの競争はより厳しくなった。エドアール・ミシュランは次のように宣言した。
「我々の直接の競争相手は、アメリカである。我々に付いて行きたいなら、全力疾走する必要がある。」
第二次世界大戦中のドイツ軍による占領下で、ゴムの輸入は禁止された。工場閉鎖を免れるために、クレルモン市民のために毎日サンダルや乳母車、レインコートやストーブなどを生産した。1944年3月17日、クレルモン市は爆撃を受け、カタロー工場を含む1000棟が破壊された。工場は2年かけて再建され、近代的な設備に生まれ変わった。 -
1945年7月28日の昼食会。
ビヴァンダムの描かれたポスターには、
「みんな集まれ そして飛び跳ねよう」と書かれています。
解放を喜んでいます。 -
両腕と両足があれば、人になる!
積み重なったタイヤを見て、エドゥアール・ミシュランは叫んだ。
1894年のことである。
このキャラクターは1898年に似顔絵師のオギャロップの筆で誕生した。
ラテン語で「Nunc est bibendum」(いざ、飲まん!)
という言い回しが添えられていた。
1世紀以上、ビヴァンダムは会社の変革に寄り添った。
会社のマスコットとして、
カーニバル、村のお祭り、ツールドフランス、見本市、全国の海水浴場など
あらゆるシーンでタイヤ販売を促進した。
葉巻愛好家だったが、やがて禁煙を強いられた。
シルエットは、年々丸みを帯びていった。
2000年には、ベストロゴに選出された。
ビヴァンダムは、多くの収集家から愛されている。 -
いざ、飲まん!
乾杯!
ミシュランは、障害物を飲み込む。
ビヴァンダムは、ラテン語から来ています。
乾杯の音頭をとる右手のグラスには、酒ではなく釘やガラス片が入っています。
両脇には、他社の空気入タイヤが「信じられない」という顔付きで見上げています。 -
エアコンプレッサー。
初期のビヴァンダムは可愛さや親しみよりも、ホラーな要素が大きいです。
実際に妖怪みたいだと言われました。 -
インドシナ向け。
仏教的エッセンスを加味。
手付きは、仏像から拝借。 -
マグレブ(モロッコ・アルジェリア・チュニジア)植民地を結ぶバスの広告
ラグジュアリー仕様のルノー車に、ミシュランの空気入タイヤを履いているということをアピールしています。 -
紳士の証として葉巻も嗜みましたが、
喫煙への風当たりの厳しい世の中になり、
後に禁煙します。 -
くわえタバコの代わりに、
まじめに働くことも学びました。 -
生長するに従い、相手に寄り添うことなど
様々な感情も身に着けました。 -
X As 新発売!
初期は、アンパンマンのように身を切って、
往生した車をレスキューしました。 -
余談ですが、
手足や胴体がビヴァンダムのようにリング状になる難病を、ミシュラン症候群と言います。
医学界が正式採用する等、身近な存在になりました。 -
親しみのある笑顔を習得して、
知名度だけでなく愛されるキャラになりました。 -
コスプレにとどまらず、
あらゆる役をこなします。 -
20世紀最高のロゴとして選ばれたことを告知するポスター。
家政婦が乳児に空気を飲ませているシーンが、素敵です。 -
長い歴史ゆえに、キャラクターグッズも数知れず。
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長い歴史の中で、様々なシーンが描かれました。
博物館では、実際にテレビ放映されたCF映像が幾つも見られます。 -
スフィンクスも演じました。
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老若男女、何にでもなります。
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ミシュランガイドは、タイヤ摩耗を速めて、買い替えを促進する目的がありました。
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どこで宿・食事をすればよいか、何を見ればよいか、
こうした情報をどうやったら得られるか?
ミシュラン・ガイド&マップ
ここに答えがあります!
イラスト:全世界をカバーしています -
新しくなりました!
グルメガイド1932年版 フランス編
当店で発売中。 -
カヌーを漕ぎながら、キャンプする。
1955年の100万分の1の縮尺地図。
フランス北半分を網羅しています。 -
万国共通の子供の遊び(日本では竹ノ輪ころがし)をするビヴァンダム
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ビーチ(砂浜)
蛇口はここです。
海水浴場に設置された標識 -
現在も農業機械のタイヤを生産しています。
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1895年、エドアール・ミシュランは自転車展の行われた産業会館に、「ミシュラン木馬」というメリーゴーラウンドを設置した。彼は訪問者に従来の固いタイヤと自社の空気入タイヤを履いた2つの回転木馬の座り心地を比較して、ミシュランタイヤの快適さを発見する実演宣伝者になることを望んでいた。入場料は、小銭二枚だった。
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パリ市民の皆さん、不祥事です!
豚は空気入タイヤの上で快眠
一方で貴方たちは、硬いタイヤの上でスシ詰め!
平等な扱いを要求するべし!!
ある種の比較広告。人権に敏感な国民性を逆手に取っています。 -
1922年にミシュランは、全国で自動車の人気調査を行った。フランス国民のニーズを把握して、それを自動車の設計に反映させることが狙いだった。
調査結果は、手頃な価格で購入できる多目的車に大きな可能性が秘められていることが明らかになった。
1935年にミシュランはシトロエンを傘下に入れ(~1974年)、TPV(超コンパクトな車)プロジェクトを立ち上げた。まず初めに技術陣には、以下の条件をすべてクリアする自動車の設計を指示した。2人乗りで50㎏の荷物を載せても60km/hで走行できること、3リットルの燃料で100kmの距離を走行できること、籠に入れた卵を積んで鋤き返された平原をブレーキを掛けずに横断しても快適な乗り心地。
こうしたインスピレーションは、航空機や鉄道車両を制作した経験によるものである。ミシュランは革新的なソリューションを考え出し、それを自動車制作にも同じことをした。
このプロジェクトは1939年には発売準備ができたが、戦争によって遅らされた。最終的に2CV型は1948年に発表された。瞬く間に成功し、1990年までに500万台が製造された。大変な人気を博し、誰でも買えるクルマというミシュランの理想を実現した。 -
1939年、ミシュラン・シトロエンは、TUB(低床構造)バンを開発。[トラクシオン・アヴァン]という名称は前輪駆動という意味だが、この商品を指すようになった。広く実用的な開口部を備え、車内で人が立ち上がれる高さがあるので、作業性が向上した。
※ミシュランは1935年に経営危機に陥ったシトロエンを救済、1972年まで傘下に置いていた。 -
車体の真ん中に鎮座していたエンジンを前へ移動し、キャビンの天井が高くなった。
前輪駆動を普及させた名車です。 -
トラムの車輪もミシュラン。
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靴底も、ミシュランのゴムです。
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大聖堂近くのレストラン。
L'OUSTAGOU フレンチ
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メインはステーキとアリゴ。
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昔ながらの木造民家を使用。
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デザートまで完食。
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ライトアップされた大聖堂。
昼間とは違う雰囲気です。
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