2021/03/16 - 2021/03/17
20957位(同エリア28279件中)
Yasoさん
コロナ禍で自粛モードの中,「県内を歩く」というのを思いつきました。ただ県内を歩くといっても何かテーマが欲しいと思い,街道を歩いてみる事にしました。
まずは木下街道です。現在の木下街道(県道59号線)とはちょっと違う様で,利根川(木下)から江戸川(行徳)を結ぶ旧木下道を出来るだけなぞって歩こうと思います。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- JRローカル 徒歩
PR
-
3月16日
江戸時代に江戸の庶民が「鹿島神宮,香取神宮,息栖神社の三社詣に行く」のが流行ってたみたいで,その行程で利用されたのが木下街道との事。その名残か,今でも木下街道は「行徳から木下へ歩く」のが基本の様ですが,ちょっと逆らってみました(笑)。僕は木下からスタートです。というのも「銚子で獲れた魚介類を江戸・日本橋の市場へ運ぶのに使われた道」っていう知識が先にあったからなんですが。
写真=木下駅(1901年開設)です -
イチオシ
木下街道は「木下宿,大森宿,白井宿,鎌ヶ谷宿,八幡宿,行徳宿の6つの宿場がおかれた」との事で,とりあえず木下宿の名残を探しつつ,利根川を目指します。
写真=まず「武蔵屋」です。「岩井家住宅」ともいうそうです。「利根川の堤防上にあって江戸時代から明治にかけて旅籠や回漕店を営んでいた」と。回漕店は船関係の問屋だとか。「嘉永2年(1849年)頃の建築と云われ」「大正3年(1914年)現在の地に移転された」らしいです。 -
国道356号線に出ます。
写真=「酒乃なべだな」,百数十年の歴史があるそうです。本店は成田の酒屋で,そちらは江戸初期からあるとか。 -
弁天川です。
-
少し行くと六軒川です。
-
六軒川沿いを歩きます。
鳥が鳥に襲い掛かっていました。写真=その直後なので何事もなかったかの様に見えますが。 -
今でも遊覧船がある様です。
-
中央公民館の敷地に道標が。
-
突如,廃墟現る。
昭和の建物ですよね。木下宿的にはそんな古くないと思われます。 -
写真=利根川の土手に出ました!
この辺は江戸時代「竹袋村」だったそうで。「利根川の渡し場として成立したが,明暦の頃(1655~57年)河岸場として発達」と。単なる渡し場から河岸場(船着場)になり「木下河岸」として栄える様になったみたいです。
寛文の頃(1661~72年)「木下茶船」という乗合船が発着するようになり,賑わうようになったとの事。「最盛期には五十軒余りの旅篭屋や飲食店が軒をつらねていた」って,現代で言うと繁華街って程ではなさそうですが,今の木下よりは賑やかそうです。 -
木下茶船は八人乗りの和船で「寛政初め(1789年)頃には,年間4500艘前後の出船が見られ,17000人程度の乗客があった」と。
先程の「鹿島・香取・息栖の三社詣」は文化・文政期(1804~29年)の辺りで流行ったみたいです。
明治34年(1901年)に鉄道の木下駅が出来たり,大正初めの利根川堤防の改修工事の影響(家並みの多くが移転,「武蔵屋」もおそらくこれですね)で木下河岸は衰退していったとの事。
写真=利根川のこの辺が木下河岸跡だそう,向こうが銚子方面ですので,向こうから鮮魚が運ばれて来ていたんですね
さて,ここから木下街道スタートです! -
写真=吉岡まちかど博物館です
明治24年(1891年)築の吉岡家土蔵を改修したとの事。吉岡家は「名主・問屋職を務め,木下の政治・経済の中心にいた」そうです。 -
イチオシ
吉岡家の裏に回ると
写真=木下貝層で造られた「貝化石灯籠」があります
木下貝層は「堆積された貝の化石」で「木下地区では岩がないため」木下貝層を「石垣や灯籠に加工し,利用して」いたそうです。なるほど!
木下駅周辺で「数軒の家に貝化石の灯籠がみられ」るが「そのほとんどが一本足」と。この写真からは分かりにくいですが,この灯籠は三本足で,全国的にも珍しいのでは? -
すぐそばに木下貝層と思われる物が転がっていました。
-
吉岡家の前には
写真=「印西郵便発祥之地」の石碑がありました
明治5年(1872年)「この地に木下郵便取扱所(今の印西郵便局)が開設された」「初代郵便取扱人(今の郵便局長?)は吉岡吉太郎である」と。 -
銚子から鮮魚を運んだからか
写真=ズバリ,「銚子屋旅館」です
「江戸時代より170年続く老舗旅館」との事。この銚子屋の看板は割と目立って「利根川土手の写真」や「貝化石灯籠の写真」にも微妙に登場してますよ(笑)。 -
銚子屋辺りからの木下街道です
-
写真=こちらも老舗の蕎麦屋「柏屋」,創業160年程とか
いい感じの建物です。築何年でしょうか。 -
店舗の隣りに「柏」マークの建物。住居でしょうか。
あ,例の「一本足の貝化石灯籠」と思われるものがありますね。 -
写真=現役のポストの裏にたたずむ丸形ポストが・・・
一般の住宅の敷地にある様ですが,どういう経緯であるのでしょう?
「日本最初の丸型ポストは1901年に登場し」たそうで,1970年に現在の角形が登場してから,徐々に少数派になっていったようです。 -
「部輸運澤中」とあります。戦前の表記ですね。こんな形で残ってるのって珍しいのでは?昭和初期以前を感じさせますねぇ。
-
成田線を渡ります。向こうに微かに木下駅ホームが見えます。
-
しばらく行くと突き当りに「上町観音堂」があります。
この観音堂はここから南東に1km程の所にある三宝院に付属しているとか。三宝院はかつてこの場所にあり,今は観音堂だけ残ったそうな。
中には(見えませんが)「銅造十一面観音立像」が安置されている様です。「永仁5年(1297年)に造像された」そうで「鋳銅像としては比較的大きな像高で,鎌倉時代後期の特徴を良く表している」との事。 -
写真=ここの敷地には他にも様々な石碑などがありました
で,「印西七福神の寿老人」の場所でもあります。15年程前に来てるはずなのに,全然記憶がない・・・(苦笑)。 -
写真=観音堂の隣りには山車蔵がありました。地元の祭りがあるんでしょうね。
さて木下街道は右ですが,ちょっと寄り道で左へ行きます。
-
少しいくと「木下交流の杜公園」があります。同じエリアに「木下万葉公園」もありますね。
ここを上がって行くと・・・ -
例の「木下貝層」です。まさか国の天然記念物だとは思いませんでした(!)。
「千葉県北部から茨城県南部に広く分布しており,印西市木下で最初に調べられたので,この名前が付けられ」たとか。
「関東ローム層」(火山灰層)の下に「常総粘土層」(泥層)があり,更にその下にあるのが「木下貝層」(貝化石まじり砂層)と。約12~13万年前の地層になる様です。
って事はウチ(松戸)の下にあるのも「木下貝層」って事か? -
「その頃の関東平野には『古東京湾』と呼ばれる大きな内湾が広がって」いたとな?へえ~。
その内湾の貝殻が堆積したものが「木下貝層」という事だそうで,なるほど勉強になりました。
写真=「木下貝層」前から見た景色です -
更に上に行って公園内を散策してみます。
「木下交流の杜公園」は2018年にオープンしたばかりだそうで
写真=全長約53mのローラー滑り台が目玉だそう(見にくいですが)
ん!?この公園「旧印旛高校のグラウンド跡地に整備された公園」だとか!忘れもしません!印旛高校は40年前,センバツ高校野球で惜しくも準優勝した高校です。僕が最も夢中になって高校野球を見ていた頃の話。あれから千葉代表は甲子園で1度も優勝していない・・・。2年前のセンバツでは習志野が準優勝しましたが,う~む。話が長くなりそうなのでこの辺で(苦笑)。
木下街道に戻ります。 -
と,いきなり
写真=「発祥の地記念碑 木下小学校 印旛高等学校」なる石碑が!
1930年に「印西農学校と印西実科女学校(共に1901年創立)が統合され、印旛実業学校として」開校したそうです。その後1948年に印旛高等学校になったとか。
2010年に「千葉ニュータウン地区に移転し」て「印旛明誠高等学校に改名」したとの事。そうなんや~。僕の記憶にある印旛高校も過去のものになってしまったのか。 -
写真=木下街道はここを真っ直ぐ通っていたらしいですが,今は広い敷地になってて通れません
中は更地になっていて,さみしい状態です。
ここは1965年から「日本デキシー千葉工場」として,紙コップや紙皿を作っていたそうです。「1970年 万国博覧会でファストフード店に紙コップ販売」とか。へえ~,当時は最先端だったって感じですねぇ。2009年に千葉工場は真岡工場に移転したとの事。その後印西市が買い取ったそうですが,今は更地です。
木下駅のすぐ南の広い敷地なので,何か有意義な施設が出来るといいですよね。
-
しばらく行き,大森交差点で国道356号線を渡る頃から車が多くなりました。そこから県道4号線に入り,坂を上ります。
写真=坂を登り切った所,大森坂上停留所辺りが2つ目の宿場である大森宿の中心と思われるそうですが,今では特に何も無さそうです
そこの信号を右に入って,寄り道します。 -
車が来ず,静かで歩きやすくなりました。いわゆる田舎的風景でいい感じです。のどが渇いてきたのですが,自販機もなさそうな雰囲気。
写真=しばらく行くと「大森鳥見神社」がありますが,この大鳥居は元禄12年(1699年)建立とか
と,自販機発見!こんな所にあるとは!って感じで,アイスティーを購入。
-
イチオシ
裏に回って本殿を見ると「!」赤レンガの塀に囲まれてます。これは珍しいのでは!?しかも妙にマッチしてます。塀が新品じゃないからいいんですかね(大正2年=1913年のものだそう)。
この神社,鎮座年は不明で「大同2年(807年)再建」らしいです。その時代に再建?すごい歴史あるな~。 -
現存の本殿は文久3年(1863年)のものだそう。木彫の彫刻が細かくて手が込んでます。。馬に乗る人物は源義家だとか。
-
その昔「下総台地の何処かに『鳥見ヶ丘』があった」そうです。そこに「古来『鳥見十八社』が点在して」いたそうで,印西周辺に「古くから鳥見の信仰」があった様です。
現在の地図を見ても印西市,白井市などに鳥見神社がよく見られるって事に僕も気づきました。
写真=「拝殿の左右」にある「榧(かや)と銀杏の御神木は樹齢500年以上」らしいです -
すぐ近くの「長楽寺」にも寄ってみます。
承和の時代(834年~848年)に創建されたと伝えられるそう。
写真=長楽寺の本堂です
ここも印西七福神で来てるはずなのに・・・記憶にない(苦笑)。 -
ここには,第24代横綱・鳳谷五郎のお墓があるらしいです。100年程前の横綱ですね。地元・印西出身との事。
-
梵鐘は応安2年(1369年)のもの,との事ですが,鐘楼につり下がっている梵鐘は平成時代のものだとか?昔の方は本堂に安置されているらしいです。
-
長楽寺の観音堂は,なんと国宝だったそうですが「昭和25年,浮浪者の失火により焼失しました」と・・・。う~ん残念!
-
木下街道に戻る途中,近くに古墳があるらしいので更に寄り道を。
写真=説明板はありましたが,肝心の古墳が見当たりませんでした
「上宿古墳」という名で「横穴式石室(埋葬のための部屋)を持つ方墳」との事。石室は木下貝層の貝化石を積み上げて造ったそうで「良好な状態で残って」いると。こういう横穴式石室を持つ古墳は7世紀後半のものらしいです。
「個人宅内にありますので,マナーを守って見学しましょう」って,そうなんや!? -
さて木下街道に戻り,下って行ってひらけた所に出ます。
写真=亀成川です
見た感じ,ただのショボい川とか思ってましたが,国指定の一級河川で,上流部の「別所緑地」は環境省の「重要な湿地500」に選定されているそうです。へえ~。
源流域は「豊かな生態系に恵まれ」「さまざまな貴重種が生息し」「生物多様性の宝庫」となっているとか。「亀成川を愛する会」すらある様です。
無知な私をお許し下さい。 -
写真=亀成川のすぐ先に庚申塔が。
庚申塔ってよく見ますが,何なのか分かってませんでした。
「庚申信仰に基づいて建てられた石塔」らしいです。「庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多い」そうで。庚申講って何なのかというと「人間の体内にいるという虫」が「庚申の日の夜,寝ている間に神にその人間の悪事を報告しに行くとされていることから」徹夜して「宴会をしたりする風習」だとか。へえ~。
「江戸時代には全国の農村などで大流行」したそうです。それでいろんな所で見られるんですね。 -
迎山停留所の辺りで,県道4号線から右の脇道に入ります。
-
十字路の辺りに「第二次大戦戦没者之霊」なる碑がありました。
-
同じ所に石仏群も。
-
写真=木下街道はこのまま真っ直ぐ続いてたらしいですが,またさえぎられてます
何やら工事中です。 -
県道4号線に戻ると,いきなり歩道が広くなって歩き安い!
写真=割野停留所です
なんとこの辺は「千葉ニュータウン事業の進展に伴い」2012年に始まった「鹿黒南」という新しい住所だそうです。そうなんや?
千葉ニュータウンって数十年前に頓挫したとか思っていたのに,まだ続いていたのか。 -
いや~,今まで歩いてきた木下街道とは思えない程の新しい雰囲気!
「グッドマンビジネスパーク」という「最新鋭の物流施設」が2010年代後半からどんどん出来ている模様。先程の工事中もどうやらこれの様です。 -
写真=複合施設「theGreen」です
2020年(令和2年)にオープンしたばかりの様です。おお!令和の風景だ!最新の木下街道です(笑)。
これを過ぎると・・・ -
途端に元に戻ります。
写真=県道4号線から離脱して西へ向かいます -
写真=泉王寺です
延宝5年(1677年)建立らしいです。 -
いきなり警察の車が止まっていて,事件!?とか思いましたが,そういうわけでは無さそうでした。
写真=そこからすぐ近くに庚申塔群が -
写真=千葉ニュータウンらしき建物が見えてきました
この辺りは江戸時代「幕府直営の牧場」の「印西牧」であって,牧と村の境に「放牧馬が村に入らないよう」に野馬土手が設けられていたそうですが,堀の場合もあった様で。以前,別の場所で野馬土手は見たことありました。
「泉新田大木戸野馬掘遺跡」という説明板があったのですが,土手はどこにあるのかなと勝手に土手だと思い込んでました(苦笑)。「堀」だったんですね。 -
千葉ニュータウンは「白井市、船橋市、印西市にまたがり」「北総線に沿って発展して」いて「首都圏において,多摩ニュータウンや港北ニュータウンに次ぐ大規模ニュータウン」との事です。
1966年に事業開始,2014年に事業完了。らしいので「鹿黒南」の方は千葉ニュータウン事業とは関係ないって事ですかね。
写真=千葉ニュータウン中央地区の大塚辺りです -
さてそろそろ昼飯時だ,と歩きつつ食事処探しますが・・・。
写真=食料品店はありました(苦笑)
駐車場はすごい車の数!密が心配や・・・。とは言っても,普通の買い物はしょうがないですけど。 -
ここ千葉ニュータウン中央地区は「千葉ニュータウン最大のエリアで、都市景観100選に選定されている」そうです。へえ~,それは素晴らしい。
その一方で,木下街道は跡形もなくなっている様です。どの辺を通っていたかも分からないみたいで,その辺は残念ですね。
写真=千葉ニュータウン中央地区の小倉台辺りです -
この辺りは「活断層が無く岩盤が強固」なので「防災上の理由で」多くの金融機関が事務センターを配置したり,大企業が拠点に置いたりしてるとか。他に「平坦な北総台地であることから坂が少なく、高齢者にとって歩きやすい街になっている」そうな。なるほどねぇ。
写真=千葉ニュータウン中央地区の木刈辺りです -
35分程かかって千葉ニュータウンを抜けました。で,白井市に入ります。
写真=「一億供養塔」です
寛政11年(1799年)に造立された石塔だそうです。道標でもあり,本来は分岐点に建てられていたとか。「造立の際には寄進者が46村1090名以上に」及ぶとの事ですが,それが多いのかどうなのか,いまいち分かりません,僕には。 -
写真=その分岐点は振り返るとあります
右に行くと,木下街道(昔の木下道)で,僕が歩いてきた千葉ニュータウンです。左は現代の木下街道(県道59号線)で昔のなま街道になります。昔の木下道が鮮魚(なま)街道と言われる事もあった様ですので,何ともややこしいですね(笑)。
木下街道は鮮魚を運ぶのに「距離的・時間的に不利で」なま街道争いに敗れ(?)観光などでの利用が主流になった様です。なるほど。 -
いずれにしても,ここから現代の木下街道(県道59号線)に入ります!
とりあえず昼飯を食べなくては・・・。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
61