2021/03/15 - 2021/03/15
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montsaintmichelさん
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エピローグは趣味と実益を兼ねた奥之院参拝とその周辺に鎮座する磐座群をレポいたします。
奥之院参拝の目的は、厄神明王に「疫病退散」を祈願することでした。パンデミックにまで至った新型コロナは日本最古の厄神明王に救済を求めるほか手段がないとの思いからです。
一方、川端道春著『郷土を知る―宝塚・史跡伝承の寺々』によると、「古代人は巨石には神が宿るとする巨石信仰に篤く、中山山系には長尾山系から六甲山系に至る各所に磐座が存在し、奥之院境内から吾孫子(あびこ)の峰の頂上への領域は『吾孫子十二神所』と呼ばれ、里人はそこを『聖地』として妄りに踏み入ると神罰が下ると伝えてきた」とあります。
また、寺伝『紫雲山中山寺記』には「白鳥窟の存する山巓を吾孫子嶺と云う。…その南面に白鳥石より巨大な石を三段に畳んで作った一大磐窟が2箇所ある。…その雄大さはかの播州石宝殿以上で本邦史跡上の一大怪奇と称する。この大磐窟を古来『吾孫子の神所』と称する」と記されています。
つまり、吾孫子十二神所は、奥之院の「下」とその裏山(吾孫子の峰)にある「中」・「上」の3つの磐座を含め、12の神所があることを意味します。尚、これらについては、古代吾孫子族の古墳とする説と祭祀の場とする説があります。3つの磐座は、未だに禁足地のある三輪山信仰における奥津磐座・中津磐座・辺津磐座の3神所を彷彿とさせるものがあります。
2018年に訪れた六甲山系 保久良神社の磐座レポの再現のようでもありますが、古代アニミズムのロマンをしっかりレポしたいと思います。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 私鉄
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長尾連山
宝塚市北側の脊梁を「長尾連山」と言い、愛宕山(標高:335m)、長尾山(302m)、中山(478m)などの峰々が連なる約11kmの行程となります。長尾連山は、東を猪名川、西を武庫川に挟まれた伊丹台地の北限に屏風のように聳えており、その最高峰が中山になります。
左端にある大らかな山容が目指す奥之院が鎮まる「吾孫子の峰(445m)」です。 -
参考のためルートマップを載せておきます。
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参道
霊園入口の手前に看板と石碑が立てられており、石碑には「すく おくのゐん道 是より十八丁」と書かれています。ここから奥之院まで18丁、約2km(1丁=109m)、徒歩50分の道のりです。
尚、奥之院の標高は370mですので、標高85mの中山寺からは300m程登る苦行になります。因みに、今まで訪ねた西国三十三所観音霊場の中では一番険しい道のりでした。一寸した登山気分が味わえます。
霊園の小道を通り過ぎると梅林への入口が現れますが、それをやり過ごして道なりに進みます。 -
参道
足洗川の渓流を横目に見ながら森の中の小路を進みますが、ここで足洗川に架けられた橋を渡ります。渡らずに右手に行くと東尾根コースに入ります。
長尾山連山を源流にした足洗川は、この先の下流で天王寺川の源流になります。2級河川 天王寺川は勅使川や天神川を合流して伊丹市西野で武庫川と合流し、尼崎市と西宮市の境界となって瀬戸内海へと注ぎます。
かつて聖徳太子が四天王寺創建の地を求められていた時、騎乗した愛馬「黒駒」と共にこの川で足や身を清められたとの伝承が残されています。
この先には足洗川西尾根と谷道との分岐点がありますが、道標を西尾根(左側)へ向かいます。 -
卜部左近(うらべさこん)の霊屋
道なりに歩いて行くと、左手にこのような石碑が立てられた「卜部左近の霊屋」があります。
手前にある五輪塔は「加名山家」の霊屋です。
奥まった所に鎮まるのが卜部左近の霊屋です。 -
卜部左近の霊屋
大きさの異なる五輪塔が一列に並んでいることから、本人とそのご家族のものと察せられます。
卜部左近は、江戸時代初期 慶長・元和の頃の播州三木の儒学者でした。後に真言宗を学んで西国三十三所観音霊場を巡り、中山寺で観音の示現を願い一心に祈ったところ、旧暦7月9日の夜に三十三観音が中山寺に降り立ち、中山観音が金の鍵を持ち、極楽浄土の門の扉を開くという奇端に遭遇したと伝わります。極楽浄土を目の当たりにした左近は、中山観音が極楽の鍵を持っていることとその功徳力に心打たれ、この地に草庵を結んで籠ったそうです。左近は家族と共にこの地に永住し、1634(寛永11)年7月15日、77歳で極楽往生を遂げたと伝わります。
左近が見た奇瑞により、中山観音は極楽浄土の「鍵とり」と称されて益々観音信仰が盛んになったそうです。中山寺で毎年8月9日に催される「星下り会式」では、三十三の観音が星になって中山寺に集まるのに併せて大法会が営まれます。
「りゅう座流星群(旧称ジャコビニ流星群)」でも見たってことなのかもしれませんが…。 -
参道
路傍の石仏にご挨拶しながら歩を進めていると、うっすらと汗が滲んできます。
コロナ禍でのこの1年間の運動不足を後悔しつつ、一歩一歩かみしめるように登っていきます。 -
参道 丁石
丁石とは、街道沿いなどに距離を示すために建てられた標識です。参道には18丁まで丁石が建てられており、何合目まで登ってきたのかが判ります。
年号が書かれてあり、「享保十九年」といえば1725年。今から300年もの昔から信者の方々を見守ってくださっていた、ありがたい丁石です。
次第に山道(信仰の道)になり、俗界を離れて行くに連れ、空気がピ~ンと張り詰めてきます。 -
参道
このように参道は比較的整備されています。
ハイキングが愉しめる程度の服装や装備であれば問題ないと思います。 -
参道
東尾根に出ると日差しを遮るものがなくなります。
とは言え、木立が邪魔して展望はききません。 -
参道
西国三十三所観音霊場にまつわる石仏も随所に安置されています。 -
夫婦岩
10丁の直ぐ先で視界が突然開け、奥之院までのぼぼ中間点である夫婦岩に到着です。
人為的とも窺える巨大な3つの石組みが参道脇に鎮座し、先史時代の磐座との説もあります。夫婦岩の名から2つの巨岩をイメージしていましたが、その間に少し小さめの巨岩が挟まっています。
つまり、子を産んだという設定でしょうか? -
夫婦岩
見ようによっては、左端が「陽石(夫)」、右端が「陰石(婦)」、中央が「子」と読めなくもありません。 -
夫婦岩
陰石にはこのように水平方向にクラックが入っています。
この地域の岩石の種類は「火成岩」が主体になります。
形成時代: 中生代 後期白亜紀 カンパニアン期~マーストリヒチアン期
岩石: デイサイト・紋流岩・火砕岩
もし「火砕岩」とすれば、「流紋岩質」の岩石と「火山灰質」が混ざり合った地層と言えます。つまり、このような巨岩は、柔らかい火山灰質が風化して硬い流紋岩が露わになったものではないかと思われます。
また、流紋岩であればマグマの流動方向に沿った縞模様(流理)に沿って節理のような割れが発生しても不思議ではありません。 -
夫婦岩
陰石のクラックには、このように小石が詰められています。 -
参道
夫婦岩から400mほど登るとルートの分岐点に石仏が祀られています。左は「奥之院経由中山最高峰」、右は「中山最高峰」へのショートカット・ルートです。
岩の下にある石積みは明らかに人為的なものですが、これは大雨などで岩を支えている土が流され、それを補うために手を加えたものと窺えます。 -
参道
石仏の正面にはこのような手水鉢のような巨石が安置されています。
この穴は人工的に彫られたもののように窺え、かつてはここで手や身体を清めたのかもしれません。
つまり、この分岐点が結界となることを意味しています。 -
参道 15丁付近
尾根を巻くように仄暗い参道を進みます。
この周辺には旧奥之院の石垣跡らしきものが散見され、かっての山上伽藍の規模の大きさが窺えます。
この辺りから次第に霊地の空気感が濃くなってきます。 -
参道 「従是南東放生地」の石碑
16丁石を過ぎた所に、これより南東が放生地と刻まれた尖頭角柱をした境界石が立てられています。
生類を放つ境界を示す碑ですが、こちらは元禄十一年(1698年)の文字が刻まれています。 -
参道 「厄神明王 聖徳太子御修行の地」
鬱蒼とした中、ザーッという音が下方から湧き上がってきます。何事かと辺りを見渡すと、小滝が連続する沢の水音ではありませんか。
17丁地点には「厄神明王 聖徳太子御修行の地」と書かれた木札が立てられ、清流が5段の滝となって岩盤を滑り落ちています。現在の流れは穏やかですが、1400年前は深山幽谷の険しい修行の場だったと言うことでしょう。 -
参道 「厄神明王 聖徳太子御修行の地」
確かに聖徳太子の伝説を彷彿とさせる雰囲気を湛えた幽粋な空間です。
中山山中には、ここの他にも中山富士と称される「天宮塚」など聖徳太子修行の旧跡が点在しています。 -
参道 「厄神明王 聖徳太子御修行の地」
流れの上部には比較的新しそうな不動明王像が佇みます。 -
参道 「厄神明王 聖徳太子御修行の地」
苔生した巨岩に石仏、そして願布の赤のコントラストが何とも言えません。 -
参道 「厄神明王 聖徳太子御修行の地」
手前のお姿も不動明王のようです。はて、厄神明王は何処やら…。
「不動明王」を祀っているのに、何故立札が「厄神明王」となっているのか訝しく思いましたが、「厄神明王を奥之院に祀った聖徳太子が修行された地」と解釈することにしました。 -
参道 天神岩
「厄神明王 聖徳太子御修行の地」の直ぐ先には、巨岩を囲むように石の玉垣が設けられており、その傍らには一対の石燈籠も建てられています。
玉垣の「玉」は神聖なものや美しいものを指し、玉垣とは「神聖な神様を囲む垣」という意味ですから、これはただものではありません。 -
参道 天神岩
凛とした空気の中、玉垣の内側には3つの巨岩が折り重なった岩塊がひっそりと鎮まっています。 -
参道 天神岩
このように宇多天皇自らが天神を彫ったと伝わる「宇多天皇御自彫天神」が間近で拝めます。
他の磨崖仏と同様に、磐座に衣冠束帯姿の公卿らしき人物が線刻されていますが、一部はレリーフのように立体的にも見えます。一説には、この人物は宇多天皇と関係の深かった菅原道真(=天神)とも伝わります。 -
参道 天神岩
宇多天皇は、900年頃の天皇で、藤原氏に握られていた実権を取り戻そうと藤原氏以外の優秀な人材を積極的に官僚に登用しました。その筆頭が菅原道真でした。政略的に天皇の后に娘を入れて姻戚として政治の実権を握る藤原氏の支配に風穴を開けるため、宇多天皇は道真を右大臣に重用しました。しかし、天皇の譲位後、道真は後ろ盾を失い、藤原時平を首謀者とする陰謀(昌泰の変)で大宰府に左遷させられて失意のうちに58歳で亡くなりました。その直後から藤原氏の跡継ぎが立て続けに早死にし、都に天変地異が続発します。これらが道真の祟りと怖れられ、御霊を慰めるために天神として祀られました。
出家した宇多天皇が天神を自ら大岩に彫り刻んだとされるこの天神岩は、天皇親政を復活しようと図った自分の犠牲になった道真への贖罪ということかもしれません。
しかし、何故このような中山の山中にあるのかが説明されておらず、謎は深まるばかりです。 -
参道 天神岩
『近畿三十六不動尊巡礼』を紐解くと、「宇多天皇が中山寺独鈷尾(現、中山寺境内)に別所院をおかれた時から、それまでの法相三論兼学の宗派から真言宗に改宗して、阿比古(吾孫子)の嶺、独鈷尾一体の神所、および厄神明王信仰が深まり、十一面観世音、またはそれを信仰する人々の守護として五大明王を勧請して不動信仰が盛んになった」と記されています。因みに、「独鈷尾」は領地を法具の「独鈷杵(とっこしょ)」の形に見立て、その末端の地を意味するそうです。
また、宇多天皇と中山寺の繋がりは、寺紋のひとつが宇多天皇開祖の仁和寺と同じ「二引きに桜」であることが物語っています。つまり、宇多天皇と中山寺には密接な繋がりがあり、譲位後は中山寺別所院で出家されていたということだと思われます。それであれば、道真への贖罪として、往時中山寺のあった現在の18丁目付近に籠って摩崖仏を刻むことも厭わなかったと察せられます。 -
参道
かつてはこの18丁地点に東を向いた閑素な鳥居が立っていたそうですが、2006年の改装工事の際に撤去されています。古いネット情報でみる鳥居の形は後で記述する「応神天皇・武内宿禰 御座」の前にあるものとそっくりです。
この18丁の周辺に山岳伽藍が広がっていたようです。 -
参道
18丁を上り切ると舗装された林道と合流し、その先にある奥之院境内へと導かれます。
奥に見える建物が拝殿の東側にある庫裏になります。 -
参道
奥之院の石碑と手水鉢があります。
ここも現在は手水は使えません。
途中で写真を撮りながら40分で到着です。目安が50分ですので、少しオーバースピードの感があります。下りで足が攣らなければよいのですが…。 -
奥之院 拝殿
奥之院は、本堂などが建ち並ぶ伽藍から北西方向に2kmほど山道を登った「吾孫子の峰」の中腹(標高:370m)に鎮座しています。
現在は仏教寺院ですが、かつての神道の頃の名残りなのか本堂ではなく拝殿と呼ばれ、目にも鮮やかな丹塗りの佇まいに度肝を抜かれます。
また、神仏習合の名残りか、真新しい狛犬と獅子が睨みを利かせています。 -
奥之院 拝殿
奥之院は、「元中山寺」とも呼ばれ、本尊には十一面観音と厄神明王を祀り、約1400年前に聖徳太子によって創建されたと伝わります。ここの厄神明王は日本最古と伝わり、『摂津名所図絵』の紫雲山中山寺の項には、「厄神明王は忍熊皇子、その父 仲哀天皇、母 大仲媛を象徴するもの」と記されています。
かつては西国三十三所観音霊場の元第1番の札所でしたが、幾度も焼失し、1603(慶長8)年に豊臣秀頼により再建されました。
現在の奥之院拝殿は2年間かけて解体修理がなされ、2014年7月19日に落慶法要が行われています。摂津88所71番札所ともなっています。 -
奥之院 拝殿
奥之院は応神天皇の勅願所と伝えられ、豊臣秀頼が現在の中山寺を再建するまでは18丁の周辺に中山寺山上伽藍が展開されていました。
境内南側には、ひときわ大きなイチョウの木が立っています。
これが「生きた化石」とも言われ、地球上にたった一族一種の貴重な植物「オハツキイチョウ」の木です。珍しく葉の上に実を付けるため「オハツキイチョウ」と呼ばれ、全国でも20本ほどしか確認されていない珍種だそうです。実を乗せた葉を見つけることができれば、子宝に恵まれるとの言い伝えもあります。
因みに、奥之院のオハツキイチョウには大きな実がなることが知られており、毎年天皇陛下に銀杏を献上されているそうです。 -
奥之院 拝殿 心願成就のお守り「お願い石」
「厄神明王」と書かれた扁額は中山寺の長老 村主康瑞氏の揮毫です。
「お願い石」は古くから奥之院に参拝する信者、特に女性を中心に伝承された慣わしです。奥之院までの道中で綺麗な小石を探して大悲水で洗い清め、お守りとして懐中すると願いが成就するというものです。
古来より吾孫子の峰は、龍神をはじめ多くの神々に守護されていると伝えられ、その頂きには奥之院の大悲水へと流れ下る水脈があります。中山寺の本尊 十一面観音の女人救済の誓願と、奥之院大悲水の諸疫を祓うご利益が習合し、深い信仰を生んだものだそうです。
平成の再建工事の折、奥之院拝殿周辺から願いが成就した際に納められたとみられる梵字や経典の文字が書かれた小石が多数出土し、この信仰が裏付けされたことを機に、伝統の「心願成就の法」が復興されています。 -
奥之院 拝殿
現在は参道の途中で小石を探す必要はありません。
拝殿正面に「お願い石」の入れられた小さな香炉があり、そこから気に入った石を選び、それに僧侶が梵字を書き入れた後、願い事を祈願します。 -
奥之院 大岩の窟
その石をお守りとして持ち帰り、願いが叶った際、もしくは1年を目処にこの蹲踞の窪みに奉納します。 -
奥之院 拝殿
奥之院の寺紋は、中山寺の寺紋「十六菊花紋」に更に巾着のような袋紋が加わります。
袋紋は、七福神のひとりの大黒天が持つ金銭や香を入れる金嚢を模った瑞祥紋とされます。また、現世利益をもたらす仏教の守護神 大聖歓喜天の象徴としても知られています。 -
奥之院 拝殿
鬼瓦です。 -
奥之院 護符
厄神明王の説明については西宮市 門戸厄神東光寺の寺伝が興味深いです。
「嵯峨天皇が41歳の厄年の時、夢の中であらゆる魔を倒し厄を祓う不動明王と愛染明王が合体した明王を感得し、空海にこの仏尊に祈願をするように命じたという。三体の厄神明王像を作成し、高野山の天野大社には国家安泰を願った像、京都の石清水八幡宮には天皇家安泰を願った像、東光寺には国民安泰を願った像が奉納されましたが、現存するのは東光寺のものだけ」とあります。
奥之院の厄神明王はそれ以前の最古の厄神であり、門戸厄神像と同様に右手に剣を持ちますが、姿形は通常の憤怒の表情のお不動さんとは異なります。どちらかと言えば鍾馗さんに近く、厄神明王のお姿は「護符」に描かれています。これが「忍熊皇子、その父 仲哀天皇、母 大仲媛」を象徴するお姿だそうです。
因みに、鍾馗さんは、中国の民間伝承に伝わる道教系の神であり、日本では疱瘡除けや学業成就に効があるとされ、その図像は魔除けの効験があるとされます。
また、厄神明王には真言もなく、「南無厄神明王」と唱えるそうです。 -
奥之院 大岩の窟
拝殿の西側奥にある、清水「大悲水」が滾々と湧き出す「大岩の窟(いわや)=白鳥石」は、日本で初めて厄神明王が祀られた場所です。
仏教用語の「大悲」は、衆生の苦しみを救おうとする仏や菩薩の広大な慈悲の心を言います。 -
奥之院 大岩の窟
「大悲水」については、応神天皇の御代に流行り病を治療した清水と説明されていますが、その経緯については寺伝の逸話が語るのみです。
「第15代 応神天皇の御代(270年代) 、人々は巷に疫病が蔓延したのは政争に敗れた忍熊皇子の祟りだと恐れました。異母弟の応神天皇が祟りを鎮めるために忍熊皇子の御陵のある『吾孫子の峰』に使いを遣わし、天神地祇を祀り、鎮魂供養をしたところ、白鳥塚古墳から1羽の白鳥が飛び出して山中にある『大岩の窟』の岩陰に消えました。すると、その大岩から清らかな水が湧き出し、やがて疫病は収まりました。」
仲哀天皇の後の皇后はかの神功皇后であり、応神天皇はその子です。忍熊皇子は神功皇后の軍勢と戦い、琵琶湖畔に身を投じました。いわば継子と実の子の跡目争いであり、応神天皇は生まれたばかりで参戦していなかったとしても「知らぬ存ぜぬ」では通せぬものがあり、祟りを恐れて忍熊皇子の鎮魂に意を払い、その結果、祟りが収まったというストーリーかと思われます。つまり、忍熊皇子の御魂がこの岩に宿り、その時に湧き出した聖水が疫病などに霊験あらたかな「大悲水」になったという伝説です。
これが日本最初の厄神明王の草創とされ、忍熊皇子の霊が「恨みを捨て、厄除神になる」と答えたことから大岩の窟に祀られ、その湧き水は諸疫を祓う聖水として信仰を集めました。その約300年後、聖徳太子によって中山寺奥之院が開山された際、拝殿を建立して本邦初の厄神明王を祀り、以来1400有余年幾多の興亡を経て今日まで法灯が継承されてきました。 -
奥之院 大岩の窟
「大岩の窟」には磨崖仏のように何かが刻まれているようにも窺えます。古代の磐座信仰の名残りなのかもしれません。
因みに、今も岩陰には仲睦まじかった仲哀天皇と大仲媛の一対の石像がひっそりと安置されているそうです。さすればこの「大悲水」は、夫婦の子 忍熊皇子が流した涙そのものとは言えまいか…。
現在は衛生上の観点から「生水は飲まないように!」と注意書きされていますが、かつては霊水を汲みに通い詰める信者も多かったそうです。
実は、一念発起して苦行に近い奥之院参りを断行したのは、ここに祈願すれば「新型コロナ」も早々に終息するのではないかとの強い思いからです。
「コロナ退散」を祈願してまいりました! -
奥之院境内
右端に佇む白い祠は、本尊を「大岩の窟」としています。妻部に蛇のレリーフがありますので、恐らく龍神を祀っているのでしょう。その背後には「マムシ、ヤマガラに注意!」との立札もあります。
その左隣は不動明王です。
脇侍は、定番の制多迦童子(せいたかどうじ(向かって左))と矜羯羅童子(こんがらどうじ(右))です。
左端は「劔大師」と台座に刻まれていますが、これは弘法大師です。 -
奥之院 拝殿
現在は仏教寺院ですが、元々は「三神の窟」をご神体として祀る場所として創建されました。
興味深いのは、拝殿がその背後に安置された「三神の窟」なる磐座をまるで覆い隠すかの如く建てられていることです。三神の窟の側面にはコンクリートの壁が設けられており、磐座は上部を除いて拝観することは叶いません。全体的に表面が白っぽい磐座です。地形的には紋流岩とするのが自然と思いますが、遠目では判りません。
因みに、「三神の窟」は、忍熊皇子と実母 大仲媛、疫(厄)神を祀るとされます。単なる数合わせなのか、仲哀天皇は省かれています。 -
奥之院 拝殿
右側も同様に側面はブロックされていますが、上部が解放されていますので封印されているということではないようです。
手前にある巨岩は「三神の窟」とは別物です。 -
奥之院境内 吾孫子弁財天
この「吾孫子」の名は、『中山寺縁起』にあるように、聖徳太子が四天王寺建立に際し、「紫の雲こそなびけ 行きて見ん 吾孫子の峰に神ぞまします」と詠んだことに由来します。
尚、中山寺の山号「紫雲山」もこれに因みます。 -
奥之院境内 吾孫子弁財天
弁財天様はとても穏やかなお顔をなされています。 -
奥之院境内 五大龍王社
「八大」龍王なら、釈迦の説法を聴聞した8尊の龍王を総称した名称です。しかし「五大」は不詳です。龍を五方と五色に結び付けた五方龍王でもないし…。
龍王は、一般的には仏教由来の龍天善神(龍神)とされます。
大悲水の水脈となる吾孫子の峰との繋がりで龍王を祀っているのでしょうか? -
奥之院境内 「応神天皇・武内宿禰 御座」
奥之院拝殿の右側(東側)に鎮まる社です。
鳥居の奥の社は「応神天皇・武内宿禰 御座」とあり、その右脇には朱色の鳥居の立つ「大杉大明神社」が佇みます。その右奥にも小祠が鎮座しています。
『日本書紀』によると、神功皇后軍の大将が武内宿禰とあり、また応仁天皇は神功皇后の子ですから、この社は忍熊皇子の敵方を祀っていることになります。
このように忍熊皇子を祀る「大岩の窟」・「三神の窟」と応神天皇・武内宿禰を祀る「社」が並ぶ構図には何か意味がありそうです。応仁天皇等が忍熊皇子に鎮魂の意を伝え、後の世のために力を貸しましょうとこの地に鎮まり、更に強大なパワースポットになったというストーリー展開でしょうか?
因みに、武内宿禰は、5代にも亘って天皇の側近として国政を支えたとされる伝説的人物であり、330歳まで生きたとされます。一説には、応仁天皇は神功皇后と武内宿禰の子ともされます。 -
奥之院境内 「応神天皇・武内宿禰 御座」
阿吽の狛犬は解体修理前に奥之院拝殿の手前に安置されていたものだそうです。
風雨に晒されて角が取れ、丸みを帯びたお姿が歴史を滲ませています。
しっかりリサイクルされていますので、鳥居もかつて18丁に立っていたものかもしれません。 -
奥之院境内
社の左奥にも小祠が佇みます。
奥之院拝殿裏にある「三神の窟」に続く「五神の窟」と「七神の窟」が奥之院の上方、吾孫子の峰の中腹に鎮座しています。「三神の窟(奥之院拝殿裏)」が「下の神所」、「五神の窟(白龍大明神)」が「中の神所」、そして「七神の窟(黒八大明神)」が「上の神所」と呼ばれます。
「応神天皇と武内宿禰の社」の鳥居を潜り、社に向かって右側へ回り込むように中山最高峰に至るルートが通じています。注意が必要なのは、道標がなく、また、中山最高峰へ至る枝道も複数あるのですが、このルートでないと磐座へは行けないということです。実は当方は林道合流点近くにあった奥之院手水鉢近くから中山最高峰へ向かう別ルートを採ってしまい、帰路で磐座との対面が叶いました。当方が採ったルートは、どうやら吾孫子の峰をトラバースするアップダウンの少ないルートでした。磐座に興味がない方には、こちらのルートの方が足にやさしいです。 -
白龍大明神
ここからは、これから行かれる方の参考になるよう、実際の行動をバックキャスティングして説明していきます。
応神天皇と武内宿禰の社から5分程(途中、ザレ場のような所もあります)登っていくと、道の左側に「白龍大明神」を示す小さな案内標が現れます。
画像に写っていますが、本当に小さな道標ですので見逃さないように注意してください。 -
白龍大明神
あまり人が入っておらず獣道に近い状態ですが、不安と期待を交錯させながら踏跡を登っていきます。
ほぼ直登です。 -
白龍大明神
直登の辛さに喘いで上を仰ぎ見ると、目の前に畏怖を体感させる容姿をした巨岩群が現れます。 -
白龍大明神
「五神の窟(中の神所)」の説明書きには、『古事記』の「天孫降臨」に登場する、天照皇大神(てんしょうこうたいじん=天照大御神)、天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、瓊々杵尊(ににぎのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)の5柱を祀るとあります。これと同じ記述が『紫雲山中山寺記』にもありますので、この「寺伝」を参考にしたものと思われます。 -
白龍大明神
平たく言えば、天皇家の祖神からヤマト政権創始者までの紳統譜系図に登場する天照大御神から鵜葺草葺不合命に至る5代の神々を祀っています。
因みに、鵜葺草葺不合命は、神代の時代の最後の神であり、神話上の初代天皇である神武天皇の父とされます。
しかし、恐らくこれらの祭神は後付けのものであり、元々は吾孫子の峰を司る「白龍神」を祀っていたと考える方が自然だと思われます。 -
白龍大明神
この立石の背面は南向きの仰角45度になっています。それも石を切ったかのように、真っ平で神憑り的です。
それ故、太陽が通る黄道や月が通る白道を示すものではなく、何かの目印、例えば特定の星などを指しているようにも窺えます。
こうした現在では邪推と思しき類いであっても、古代人には神憑り的な存在だったに違いありません。 -
白龍大明神
山の斜面から突き出た巨大な立石の神さびた威容には、スケール感こそ異なるものの、どことなく以前訪ねた保久良神社の「三交岩の磐座」を彷彿とさせるものがあります。
古代人の祭祀や祈りの場であっても不思議ではない、荘厳かつ静謐な雰囲気を湛えています。確かに古代ロマンが溢れる異空間です。 -
白龍大明神
「五神の窟」の上方にも2つの巨岩が抱き合うようにピタリと重なった磐座が鎮まります。 -
白龍大明神
岩同士の隙間は、方位的に見て春分・秋分の日の出の光が通るスリットだとの説を唱える方もおられますが、実際の所、よく判りません。
仮説を発表したのであれば、それを実証すればよいと思います。春分・秋分の日の日の出の時刻に合わせてここで観測すれば済むことです。難なく立証できるのにそれをしないでいる仮説ならば「眉唾」と考えるのが無難と思われます。 -
白龍大明神
それよりも気になるのが、岩の重みに耐えきれず、木立の幹が大きく変形していることです。その部位だけ太くかつ湾曲していることから、結構なストレスが加わっているのは自明です。
もし、この木立が寿命を迎えるなどしたら、この岩塊は下へ転げ落ちてしまわないでしょうか?何の因果でこのような場所に芽を出してしまったのか、本来しないでも済む試練を神から与えられた木立には心底頭が下がる思いです。
翻って、これに似た事象は我々の身近にもあるような気がします。例えば、「縁の下の力持ち」を思い浮かべてください。支えられている人にとっては空気のような存在であっても、それがなければ今の自分はなかった訳です。人は、大なり小なりこうした支援を受けて成長してきたのだと思いますが、案外それに気付かないものです。こうした自然の摂理に思いを馳せることができれば、誰が自分を支えてくれているのか見えてくるはずです。そして忘れてならないのは、支援してもらった人への感謝の気持ちです。そしてその恩に報いたいなら、今度は自分自身が誰かを支える立場になることです。元来、社会というものは相互扶助の精神で成り立っているのだと思います。決してパラサイトにだけはならないように、見えていないものが見えるように努めたいものです。 -
白龍大明神
「流紋岩ですから、マグマの流動方向に沿った縞模様(流理)に沿って節理のように割れが発生しても不思議ではありません」と書きましたが、それを証左するのがこの写真です。
板状にきれいに割れが進行しています。 -
白龍大明神
ここから更に登って稜線から吾孫子の峰のピークに至ることもできますが、地図に載っていない「七神の窟」に辿り着ける自信がなく、中山最高峰へのルートまで一度戻ってからアプローチすることにします。
こうした場合には「急がば回れ」が鉄則です。 -
黒八大明神
50m程登ると道の左側に「黒八大明神」への小さな案内標が現れます。 -
黒八大明神
倒木などもあり、あまり人が入っていない獣道ですが、ほぼ直登ですので道に迷うことはなさそうです。 -
黒八大明神
きつい直登を暫く登ると、仄暗い斜面から行く手を阻むかのように巨岩群が忽然と出現します。
これが「七神の窟(上の神所)」です。 -
黒八大明神
「七神の窟(黒八大神)」の説明書きには、①国常立尊(くにのとこたちのみこと)、②国狭槌尊(くにさつちのみこと)、③豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)、④塗土煮尊(うひぢにのみこと)、⑤沙土煮尊(すひちにのみこと)、⑥大戸之道尊(おおとのじのみこと)、⑦伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と記されています。これにこの峰を司る「龍神」を加えて「8」柱という計算が成り立ちます。因みに、こちらも『紫雲山中山寺記』からの引用です。 -
黒八大明神
しかしながら、天地創造の時に別天神(ことあまつかみ)に続いて出現した『古事記紳統譜』の神世7代は、①~③のひとり神に加え、④泥土煮尊/⑤沙土煮尊、⑥大戸之道尊/大苫辺尊(おおとまべのみこと)、面足尊 (おもだるのみこと)/惶根尊 (かしこねのみこと)、⑦伊弉諾尊/伊弉冉尊 (いざなみのみこと)の夫婦神を指します。夫婦神は2神で1代と数えますので、女性神の⑤沙土煮尊を加え、男性神の面足尊を省くのは合理的な発想とは思えません。 -
黒八大明神
何時の時代に設えられたのかは不明ですが、立派な石段まであります。
磐座信仰が篤かった証左と言えます。 -
黒八大明神
「七神の窟」には片面が垂直に切り立った巨大な磐座が2座あり、そのうち奥まった所に鎮まる半円状の磐座に注連縄が結ばれています。
手前の切り立った磐座は真東を向いており、春分・秋分には太陽光を反射して霊験を指し示す「鏡岩」的な存在としてかつては表面が磨かれていたのかもしれません。 見ようによっては人為的な配置にも思えます。 -
黒八大明神
よくよく考えると、「三神の窟」の3柱は中山寺縁起に名を連ねますが、「五神の窟」は初代 神武天皇に繋がる5柱、「七神の窟」は天地開闢神話の7柱であり、文脈が読み取れません。従って、そもそも縁起の良い数である「七五三」と語呂合わせを図った命名であり、祀られている神々は後付に過ぎず、数字以外あまり意味はないものと窺えます。
「三、五、七」は中国で神聖視された数字でもあり、『古事記』の編纂者 太安万侶等の中華思想を身に付けた識者が意識的に神話の体裁を整えたものからの派生ではないかと窺えます。 -
黒八大明神
縄文時代から、秀麗な峰とそこに存在する磐座は、その場所から死者の魂が天に昇ると信じられていたそうです。巨石や奇岩を神の憑り代とするアニミズム的な太古の磐座信仰の場、あるいは修行の場が、時代の潮流によって時代毎に祭神の姿を替え、そして現在は忘却の彼方となったのか…。ひょっとすると、奈良の三輪山や沖縄の御嶽、和歌山熊野のゴトビキ岩のように、それこそ縄文時代まで遡る聖地の痕跡なのかもしれません。 -
黒八大明神
鏡岩らしき巨岩です。
これら吾孫子の峰の磐座群については、イワクラ(磐座)学会理事の江頭務氏が『神奈備山磐座群の進化論的考察』(学会誌9号)で「七神の窟(上の神所)」、「五神の窟(中の神所)」、「三神の窟(下の神所)」が南東の方角に直線上300mの行程に並んでいることを指摘されています。また、中山寺の磐座祭祀の形態が三輪山の奥津磐座・中津磐座・辺津磐座の形式を踏襲していることにも言及されています。
しかし、3つの磐座をマップ上に並べてみると、現在の感覚では直線とは言い難いものがあります。古代人の感覚であれば、この程度の誤差は直線と捉えたということかもしれませんが…。 -
黒八大明神
登ってきたトレースを見下ろすとこんな感じです。
因みに、吾孫子の峰の中腹には「太子馬蹄石」と呼ばれる巨石もあるそうです。
聖徳太子がその石の上で愛馬「黒駒」に乗り、四天王寺創立の地を求めて矢を放ったところ、矢は今の四天王寺の地に落ち、岩には馬のひづめの跡が残されと伝わります。 -
吾孫子の峰ピーク
磐座の直ぐ上方が吾孫子の峰のピーク(標高445m)となり、奥之院から北西へ距離250m程の地点にあります。「伝説の山 吾孫子の峰」と書かれたプレートによりピークと判かるだけで、何の変哲もない頂です。
聖徳太子が「紫の雲こそなびけ行きて見ん吾孫子の峰に神ぞまします」と詠んで愛馬「黒駒」に騎乗して登ったのがこの「吾孫子の峰」ですが、現在は四方が立ち木に囲まれており展望はききません。
ネット情報では環状列石(ストーンサークル)らしきものの存在が記されたものもありますが、それらしき岩こそあれ、サークルと特定できるものではありません。
ストーンサークルの多くは雨乞い遺跡とされますが、場所やスペース的にもその主旨から外れているように思います。 -
折角ですので、ここから中山最高峰を目指します。
奥之院からは直線距離で1.5kmほどです。
途中にある大きなケルンです。
頂点石には「願掛けの石」と記されています。
願掛けされた方々が奉納された石の山ということのようです。 -
中山最高峰
この先に見えるのが中山最高峰のピークです。
最高峰は尾根道から少し北へずれていますので、通り過ぎないように注意してください。 -
中山最高峰
長尾連山の最高峰で標高478mあります。
ここには2等三角点・点名「中山」があり、「ふるさと兵庫100山」に選定されています。
北側に展望が開けており、北摂や能勢、丹波の峰々の眺望が愉しめます。
残念ながら宝塚・大阪方面は望めません。 -
下山路は奥之院経由で清荒神清澄寺へ下ります。
距離としては奥之院から3.3kmになり、中山寺からの2kmに比べて緩い傾斜だろうことが想像できます。
その途中、奥之院から下り始めて直ぐの所にある不動明王石像です。
恐らくこの水源は「大悲水」と思われます。 -
宝篋印塔
石組みの上に立てられた立派なものです。
宝篋印塔の名は鎌倉時代から使われており、塔の中に宝篋印陀羅尼経を納めることが由来とされます。尚、法華経や舎利を納めたものもあります。後に供養塔や墓碑塔として建てられるようになりました。
元々はインドのアショカ王の建てた八万四千の塔(銅・銀・鉄製の方形の小塔)の故事に倣った中国の呉越王銭弘俶が作った金銅製の塔から派生したものです。内部には、宝篋印陀羅尼と言う息災安穏長寿のため呪文を納め、諸国に配ったのが始まりとされます。 -
木造砂防ダム
正式名称は「木製治山ダム」と言います。健全な森林を育てるには間伐は必須であり、その推進には間伐材の利用が不可欠となります。このように景観や環境に優しい木材を利用するのは良いアイデアだと思います。これからのカーボンニュートラルやSDGsの時代に相応しい構造かもしれません。
何故木製なのかをまとめると次のようになります。
①コンクリートや鉄などの限りある資源の節約
(コンクリートに比べて費用は少し割高ですが、工期の短縮が図れる。)
②材料となる木は二酸化炭素を吸収し地球温暖化を防止
③荒廃した森林が間伐によりよみがえる
④水辺の生物の生きる環境を保つ
また、木製治山ダムの設置条件として、次の3項目が示されています。
1)土石流等の発生する可能性の少ない小渓流
2)人家等の保全対象から比較的離れている箇所
3)景観保全、環境保全が重要な渓流
気になったのは、木材の腐朽による補修や経過観測が不可欠ではないかということです。
話は変わりますが、2019年12月開催のCOP25で日本は、地球温暖化対策に消極的な国に贈られる「化石賞」を受賞しました。その汚名返上策が「レジ袋の有料化」でした。そしてその効果は極めて低かったはずですが、次なる打ち手は「プラスチック製スプーンやフォークの有料化」とは、もはや弱い者いじめと卑下されても不思議ではない危機的な状態です。本丸の脱炭素、つまり再生可能エネルギー方策はどうなのか、原発の一本足打法になっていないか気がかりです。再エネ推進のため、新年度から一般家庭では電気代が年間約1000円値上がりするそうでうが、庶民の負担を有効に使っていただきたいと思います。
プラスチックについては朗報があります。家電総合メーカのP社が植物由来の繊維強化プラスチックを実用化しました。セルロース繊維の含有率が70質量%あり、プラスチックの使用量の削減やカーボンニュートラルの効果が期待できます。パルプやヒノキ、麦芽かす、コーヒーかす等のセルロース繊維は含有率を高めるほど強度が増す半面、成形し難くなるという課題がありましたが、複合材料により課題を克服できました。廃材を7割使用し、かつ自由に造形できるため多様な用途が考案され、すでにP社では掃除機の部品やコップなどで実用化しています。
(当方はP社の回し者ではありません!) -
コバノミツバツツジ
ツツジの中でも比較的早く咲き出すコバノミツバツツジが尾根道でも咲き始めています。ミツバツツジに比べ、葉が多少小さいためこの名があります。
原生種でしょうか?
杞憂に過ぎればいいのですが、最近は日本企業の重大事故が頻発しているように思います。コロナ禍で「タガ」が緩んでいるのではないでしょうか?
1.スエズ運河における正栄汽船 大型コンテナ船「エバーギブン号」の座礁
昨日ようやく離礁できたようですが、6日間の通航が妨げられたことによる影響は数ヶ月続くそうです。離礁の成功要因のひとつが「スーパームーン」でした。スーパームーンの引力で潮位が通常の満潮より45cm高くなったようです。
ところで賠償金はどれくらいでしょうか? 支払うのは海上保険会社でしょうが…。
2.ルネサス(那珂工場)の火災
クリーンルーム内のメッキ工程からの出火だそうですが、車載向け半導体不足に拍車がかかりました。火災前の出荷量を回復するには3~4ヶ月かかるそうです。
生産再開を急がれているようですが、原因究明が曖昧なまま見切り発車とならないか心配されます。
3.みずほ銀行のシステム障害
ATM5891台のうち7割が停止。2週間で4度の障害発生は前代未聞の醜態です。「信用失墜は一瞬」の典型事例です。
他のメガバンクでは大きなシステム障害が発生していないことから、旧日本興業銀行、旧第一勧業銀行、旧富士銀行の3行合併時、お互いに配慮するあまり、異なるシステムベンダーによる3つのシステムを無理やり統合したシステムが祟っているのでは…。
4.東電柏崎刈羽原発でテロ対策不備が発覚
原発規制委員会が初の「赤」判定。こうしたことは氷山の一角では?
再稼働が困難なら、カーボンニュートラル政策にも暗雲が立ち込めるのでは?
5.野村HDの子会社がNYで約20億ドル損害の可能性
ヘッジファンドによる大型損失の典型例のようです。
6.三菱UFJ証券ホールディングスが約3億ドル損害の可能性
欧州子会社と米顧客との取引による損失のようです。
7.無料通信アプリ「LINE」の利用者情報が中国の関連企業で閲覧可能
中国から国内サーバーにある個人情報にアクセスできたことで発覚した模様。ソフトバンクはユーザー情報を中国で入力していました。現在も「BPO(ビジネスプロセスアウトソーシング)」として、中国大連市にアウトソーシングサービスを展開する現地法人が存在します。さて、これらの違いは何でしょう?
本日は年度末。気持ちを切り替えて2021年度をスタートしたいものです。 -
ツグミ
スズメ目ヒタキ科ツグミ属に分類される冬鳥です。夏季にシベリア中部や南部で繁殖し、日本へは越冬のために飛来します。
特徴は、胸の斑紋や白っぽい眉、茶色の翼ですが、小走りに移動しては立ち止まるといった挙動がポイントです。古くは「跳馬・鳥馬(ちょうま)」と呼ばれ、これは地面を跳ねるように飛んで餌を探す時に見られる動作に因むネーミングです。周囲の安全を確認するために立ち止るという動作を繰り返します。
和名の由来には、渡鳥なので冬の日本ではさえずりをせず、口をつぐんでいることからとされます。また、鳴き声(地鳴き)が由来との説もあります。
一方、関東地方の方言でしゃがむことをつぐむと言い、餌を探す時の動作をなぞらえたとの説もあります。セクグミ(跼)→スクミ(竦)→ツグミの転訛ということです。
尚、1947年の鳥獣保護法により日本での捕獲は原則禁止になりましたが、現在でも密漁などは後を絶たないようです。 -
ツグミ
小林一茶がツグミを詠んでいます。
「喧嘩すな あひみたがひに 渡り鳥」
「あひみたがひ(相身互い)」は「相身互い身」の略です。同じ境遇にある者同士が同情し、助け合うこと。また、その間柄を言います。
心優しい一茶らしい暖かい句です。
因みに、「ツグミ」は秋の季語だそうです。秋に渡来するからだそうです。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。恥も外聞もなく、備忘録も兼ねて徒然に旅行記を認めてしまいました。当方の経験や情報が皆さんの旅行の参考になれば幸甚です。どこか見知らぬ旅先で、見知らぬ貴方とすれ違えることに心ときめかせております。
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