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梅の花香に誘われて紫雲山 中山寺を訪ねてみました。<br />西国三十三観音巡礼 第24番札所となる古刹が宝塚市にある真言宗中山寺派大本山 中山寺です(山号は紫雲山)。「北摂の地に紫の雲がたなびく」と詠まれた霊験なる中山寺は、聖徳太子16歳の時の創建と伝わる日本最古の観音霊場です。                 <br />第14代 仲哀天皇の先の皇后 大仲媛(おおなかひめ)、その長子 香坂(かごさか)皇子、弟 忍熊(おしくま)皇子の追善供養のため、あるいは聖徳太子、蘇我馬子との政争に敗れた物部守屋の霊を鎮めるために建立されたと伝わります。奈良時代には高野山や比叡山に匹敵する大寺院であったと伝わり、『続日本紀』にもその名が記されています。<br />718(養老2)年には大和国 長谷寺の徳道上人が『閻魔起請文』を著し、日本霊跡三十三所観音巡礼が唱えられると「極楽中心仲山寺」と称されて第1番札所となりました。その後、衰微した観音霊場は第65代 花山法皇が復興され、「おんとき巡礼」の道順に従って西国三十三所観音巡礼 第24番札所となり、今日に至ります。<br />草創以来、千四百有余年の法燈を守り続けた中山寺は多くの物語に登場し、謡曲『満仲』や歌舞伎『菅原伝授手習鑑』は平安時代中期に多田源氏満仲の信護を受けた時代の当山にまつわる美女丸と幸寿丸の哀話から創作されました。代々皇室の崇信も篤く、安産祈願本邦随一の霊場として源頼朝をはじめ武家・庶民より深く信仰され、ことに子宝に恵まれなかった豊臣秀吉は当山に祈願して秀頼を授かり、秀吉没後に秀頼は兵火で大半を焼失した中山寺を家臣 片桐且元に命じて1603(慶長8)年より伽藍を再建しました。これが現在の伽藍であり、桃山期の仏堂建築が遺されています。幕末には中山一位局(中山慶子)が祈願してお腹帯を受け、無事に明治天皇をご平産されたことから日本唯一の明治天皇勅願所となって更に霊徳を高めました。地元では親しみを込めて「中山さん」と呼ばれています。 <br />ご詠歌「野をもすぎ里をもゆきて中山の寺へ参るは後の世のため 」

萬福笑來 北摂宝塚①紫雲山 中山寺塔頭 観音院

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2021/03/15 - 2021/03/15

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

梅の花香に誘われて紫雲山 中山寺を訪ねてみました。
西国三十三観音巡礼 第24番札所となる古刹が宝塚市にある真言宗中山寺派大本山 中山寺です(山号は紫雲山)。「北摂の地に紫の雲がたなびく」と詠まれた霊験なる中山寺は、聖徳太子16歳の時の創建と伝わる日本最古の観音霊場です。                 
第14代 仲哀天皇の先の皇后 大仲媛(おおなかひめ)、その長子 香坂(かごさか)皇子、弟 忍熊(おしくま)皇子の追善供養のため、あるいは聖徳太子、蘇我馬子との政争に敗れた物部守屋の霊を鎮めるために建立されたと伝わります。奈良時代には高野山や比叡山に匹敵する大寺院であったと伝わり、『続日本紀』にもその名が記されています。
718(養老2)年には大和国 長谷寺の徳道上人が『閻魔起請文』を著し、日本霊跡三十三所観音巡礼が唱えられると「極楽中心仲山寺」と称されて第1番札所となりました。その後、衰微した観音霊場は第65代 花山法皇が復興され、「おんとき巡礼」の道順に従って西国三十三所観音巡礼 第24番札所となり、今日に至ります。
草創以来、千四百有余年の法燈を守り続けた中山寺は多くの物語に登場し、謡曲『満仲』や歌舞伎『菅原伝授手習鑑』は平安時代中期に多田源氏満仲の信護を受けた時代の当山にまつわる美女丸と幸寿丸の哀話から創作されました。代々皇室の崇信も篤く、安産祈願本邦随一の霊場として源頼朝をはじめ武家・庶民より深く信仰され、ことに子宝に恵まれなかった豊臣秀吉は当山に祈願して秀頼を授かり、秀吉没後に秀頼は兵火で大半を焼失した中山寺を家臣 片桐且元に命じて1603(慶長8)年より伽藍を再建しました。これが現在の伽藍であり、桃山期の仏堂建築が遺されています。幕末には中山一位局(中山慶子)が祈願してお腹帯を受け、無事に明治天皇をご平産されたことから日本唯一の明治天皇勅願所となって更に霊徳を高めました。地元では親しみを込めて「中山さん」と呼ばれています。
ご詠歌「野をもすぎ里をもゆきて中山の寺へ参るは後の世のため 」

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
私鉄
  • 中山寺 山門<br />阪急電車 宝塚線「中山寺駅」を降り、徒歩1~2分の短い門前町を通り抜けるとT字路の左手に山門が聳え立ちます。参拝者を者を迎え入れる格式高い山門は重厚な構えであり、圧倒的な存在感を放っています。<br />現在の山門は1646(正保3年)に徳川家光により再建された県指定文化財であり、正面3間、側面2間の入母屋造、本瓦葺の二重門です。再建の竣工は徳川家光の治世ですから、豊臣秀頼と徳川家光が共に再建したという記念碑的な山門です。かつてはこの山門の上から遠く太平洋を望むことができたため、「望海楼」とも呼ばれたそうです。山門の右横に初参り(宮参り)の受付所があります。

    中山寺 山門
    阪急電車 宝塚線「中山寺駅」を降り、徒歩1~2分の短い門前町を通り抜けるとT字路の左手に山門が聳え立ちます。参拝者を者を迎え入れる格式高い山門は重厚な構えであり、圧倒的な存在感を放っています。
    現在の山門は1646(正保3年)に徳川家光により再建された県指定文化財であり、正面3間、側面2間の入母屋造、本瓦葺の二重門です。再建の竣工は徳川家光の治世ですから、豊臣秀頼と徳川家光が共に再建したという記念碑的な山門です。かつてはこの山門の上から遠く太平洋を望むことができたため、「望海楼」とも呼ばれたそうです。山門の右横に初参り(宮参り)の受付所があります。

  • 花山院道の石碑<br />山門前の道を挟んだ門前にはいくつかの石碑が並んでいます。<br />一度すたれた西国三十三所観音巡礼を再興した花山法皇の御廟がある「花山院(兵庫県三田市)」への道しるべが寡黙に佇みます。<br />「右 菩提寺 花山院道 五里半」

    花山院道の石碑
    山門前の道を挟んだ門前にはいくつかの石碑が並んでいます。
    一度すたれた西国三十三所観音巡礼を再興した花山法皇の御廟がある「花山院(兵庫県三田市)」への道しるべが寡黙に佇みます。
    「右 菩提寺 花山院道 五里半」

  • 中山寺 山門<br />山門は悟りを求める人々が通る門であると同時に、悪いものが境内に入り込まないための関所です。そのため、上層内部には地蔵菩薩や閻魔王、司命(しみょう)、司録(しろく)を祀り、下層には阿吽の仁王像と獅子・狛犬を祀っています。<br />建立棟札の他、1723(享保8)年の修理棟札が現存しており、また、上層階に祀られている閻魔像の台座には1720(享保5)年の銘文があることから、閻魔像など上層に祀られている尊像の一部は、山門修理に併せて制作されたものとされます。

    中山寺 山門
    山門は悟りを求める人々が通る門であると同時に、悪いものが境内に入り込まないための関所です。そのため、上層内部には地蔵菩薩や閻魔王、司命(しみょう)、司録(しろく)を祀り、下層には阿吽の仁王像と獅子・狛犬を祀っています。
    建立棟札の他、1723(享保8)年の修理棟札が現存しており、また、上層階に祀られている閻魔像の台座には1720(享保5)年の銘文があることから、閻魔像など上層に祀られている尊像の一部は、山門修理に併せて制作されたものとされます。

  • 中山寺 山門<br />金色の文字の扁額です。<br />「支那・高泉」書とありますので、高泉性潡(こうせんしょうとん)禅師(隠元の法孫)の揮毫です。<br />江戸時代前期に中国の明から渡来した第5代 臨済宗黄檗派(黄檗宗)の僧で、俗姓は林氏、号が高泉で法諱が性潡です。中山寺は真言宗の寺ですが、宗派や身分を超えて古くから愛されていたことが感じられます。<br />高泉禅師が弟子たちに語っていた「雑話」を紹介しておきます。<br />仏を拝むには真心を持っておこないなさい。<br />大願心を持ち仏恩に背かないように念じなさい。 <br />信者の三宝に帰依する気持ちは大切だ。 <br />その気持ちに対して自分がふさわしいかどうかを考えなさい。 <br />常に父母の恩を思い、つつしみ敬い、丁重に供養をしなければならない。 <br />親孝行の出来ない人には決まって悪い報いがある。 <br />もし、親の恩を知らないようなことなら出家したとしても何の益があろうか。 <br />仏弟子にももとることだ。

    中山寺 山門
    金色の文字の扁額です。
    「支那・高泉」書とありますので、高泉性潡(こうせんしょうとん)禅師(隠元の法孫)の揮毫です。
    江戸時代前期に中国の明から渡来した第5代 臨済宗黄檗派(黄檗宗)の僧で、俗姓は林氏、号が高泉で法諱が性潡です。中山寺は真言宗の寺ですが、宗派や身分を超えて古くから愛されていたことが感じられます。
    高泉禅師が弟子たちに語っていた「雑話」を紹介しておきます。
    仏を拝むには真心を持っておこないなさい。
    大願心を持ち仏恩に背かないように念じなさい。 
    信者の三宝に帰依する気持ちは大切だ。 
    その気持ちに対して自分がふさわしいかどうかを考えなさい。 
    常に父母の恩を思い、つつしみ敬い、丁重に供養をしなければならない。 
    親孝行の出来ない人には決まって悪い報いがある。 
    もし、親の恩を知らないようなことなら出家したとしても何の益があろうか。 
    仏弟子にももとることだ。

  • 中山寺 山門<br />安置されている仁王像を囲む柵には、氏名と願い事が書かれた奉納「わらじ」が多数掛けられています。仁王像はその力強い風貌から、身体健全、特に健脚のご利益があるとして崇拝されてきました。そのため「足腰が丈夫である様に」との願いを込めて今でも多くの方がわらじを奉納されます。<br />車も鉄道もない昔、西国三十三所観音巡礼は長く苦しい旅であり、それに足腰が耐えられるよう祈りを込めて草鞋を奉納したのが由来だそうです。また、巡礼の途中で草鞋がすり減ったり破れたりした際、奉納された草鞋を借用し、次の札所に新しいものを納めて旅を続けるというのも慣わしでした。相互扶助の精神が宿った実用的な慣わしですので、こうした説話を伝承することで子どもたちに「他人を思い遣る気持ち」が醸成できればよいですね!

    中山寺 山門
    安置されている仁王像を囲む柵には、氏名と願い事が書かれた奉納「わらじ」が多数掛けられています。仁王像はその力強い風貌から、身体健全、特に健脚のご利益があるとして崇拝されてきました。そのため「足腰が丈夫である様に」との願いを込めて今でも多くの方がわらじを奉納されます。
    車も鉄道もない昔、西国三十三所観音巡礼は長く苦しい旅であり、それに足腰が耐えられるよう祈りを込めて草鞋を奉納したのが由来だそうです。また、巡礼の途中で草鞋がすり減ったり破れたりした際、奉納された草鞋を借用し、次の札所に新しいものを納めて旅を続けるというのも慣わしでした。相互扶助の精神が宿った実用的な慣わしですので、こうした説話を伝承することで子どもたちに「他人を思い遣る気持ち」が醸成できればよいですね!

  • 中山寺 山門<br />仁王像や裏側に祀られている獅子と狛犬の尊像は、2009年の山門改修工事に併せて修復彩色が施されました。その際、仁王像の体内から正保5年(1648年)と書かれた木札や写経された仏頂尊勝陀羅尼(ぶっちょうそんしょうだらに)と般若心経が発見され、山門建立と同時期に制作されたことが明らかとなりました。<br />仁王像は2体とも像高275cm、欅材の寄木造りで玉眼嵌入(目に水晶を嵌め込む技法)されており、修復の際に発見された木札から大坂の仏師の作であることが判りました。彩色等の痕跡などを細かく調査し、往時そのままの姿に復元されています。

    中山寺 山門
    仁王像や裏側に祀られている獅子と狛犬の尊像は、2009年の山門改修工事に併せて修復彩色が施されました。その際、仁王像の体内から正保5年(1648年)と書かれた木札や写経された仏頂尊勝陀羅尼(ぶっちょうそんしょうだらに)と般若心経が発見され、山門建立と同時期に制作されたことが明らかとなりました。
    仁王像は2体とも像高275cm、欅材の寄木造りで玉眼嵌入(目に水晶を嵌め込む技法)されており、修復の際に発見された木札から大坂の仏師の作であることが判りました。彩色等の痕跡などを細かく調査し、往時そのままの姿に復元されています。

  • 中山寺 山門<br />それでは山門を潜って境内へ足を踏み入れましょう。<br />吊り提灯にある寺紋は「十六葉一重菊に桜」ですが、もうひとつ「二引きに桜」もあります。後者は吊り灯篭などに見られます。因みに、「二引きに桜」の寺紋は第59代 宇多天皇が開山した真言宗御室派総本山 仁和寺と同じです。<br />元々、二本線だけの簡素で武骨な引両(二引き)は武士に人気の紋であり、足利将軍家の紋でもあります。引両の漢字表記には「引龍」「引霊」「引領」などがあり、この内、引両の「両」は「龍」を表します。<br />「引龍」の意味を解説する逸話を紹介しておきます。<br />1333年、北条氏と戦っていた赤松円心は、もはやこれまでと自刃を決意し、石清水八幡宮に向かって手を合わせました。その時、天のお告げがありました。<br />「北条氏の家紋は鱗、一方の赤松氏は左巴。両方とも水を表していて勝負がつかないから、赤松方の左巴紋に龍を加えれば勝利する」というものでした。お告げに従った赤松氏は奇跡的な勝利を収めたと伝わります。それ以降、赤松家の家紋は「二引両に左巴」に改められたそうです。

    中山寺 山門
    それでは山門を潜って境内へ足を踏み入れましょう。
    吊り提灯にある寺紋は「十六葉一重菊に桜」ですが、もうひとつ「二引きに桜」もあります。後者は吊り灯篭などに見られます。因みに、「二引きに桜」の寺紋は第59代 宇多天皇が開山した真言宗御室派総本山 仁和寺と同じです。
    元々、二本線だけの簡素で武骨な引両(二引き)は武士に人気の紋であり、足利将軍家の紋でもあります。引両の漢字表記には「引龍」「引霊」「引領」などがあり、この内、引両の「両」は「龍」を表します。
    「引龍」の意味を解説する逸話を紹介しておきます。
    1333年、北条氏と戦っていた赤松円心は、もはやこれまでと自刃を決意し、石清水八幡宮に向かって手を合わせました。その時、天のお告げがありました。
    「北条氏の家紋は鱗、一方の赤松氏は左巴。両方とも水を表していて勝負がつかないから、赤松方の左巴紋に龍を加えれば勝利する」というものでした。お告げに従った赤松氏は奇跡的な勝利を収めたと伝わります。それ以降、赤松家の家紋は「二引両に左巴」に改められたそうです。

  • 中山寺 山門<br />阿形の獅子、吽形の狛犬は共に像高123cm、欅材の寄木造りで玉眼が嵌入されています。制作は仁王像と同時期と考えられ、修復時の痕跡調査から弁柄漆のみで仕上げられていたことが判明し、制作当初の姿を忠実に復元しています。<br />

    中山寺 山門
    阿形の獅子、吽形の狛犬は共に像高123cm、欅材の寄木造りで玉眼が嵌入されています。制作は仁王像と同時期と考えられ、修復時の痕跡調査から弁柄漆のみで仕上げられていたことが判明し、制作当初の姿を忠実に復元しています。

  • 中山寺 山門<br />角のある狛犬と角のない獅子はいずれも雄のようです。<br />それはよく見れば判ります。<br />あまりにもリアルすぎて、目のやり場に困ってしまいます。<br />

    中山寺 山門
    角のある狛犬と角のない獅子はいずれも雄のようです。
    それはよく見れば判ります。
    あまりにもリアルすぎて、目のやり場に困ってしまいます。

  • 中山寺 参道<br />山門から石畳の参道がほぼ真北の方向に真っ直ぐに本堂に通じており、その両脇には5坊の塔頭寺院が整然と並んでいます。<br />各塔頭には山内十二支一代守本尊や七福神が祀られており、この山内だけで七福神御朱印巡りもできます。

    中山寺 参道
    山門から石畳の参道がほぼ真北の方向に真っ直ぐに本堂に通じており、その両脇には5坊の塔頭寺院が整然と並んでいます。
    各塔頭には山内十二支一代守本尊や七福神が祀られており、この山内だけで七福神御朱印巡りもできます。

  • 中山寺 塔頭 観音院 山門<br />山内にある5坊の塔頭寺院を簡単に紹介しておきます。<br />【総持院】<br />卯年の文殊菩薩、酉年の不動明王と福禄寿を祀る塔頭寺院です。<br />合格祈願・学業成就<br />【宝蔵院】<br />未年申年の守り本尊である大日如来と弁財天を祀る塔頭寺院です。<br />財福知恵・厄除け<br />【観音院】<br />辰年巳年の守り本尊である普賢菩薩と大黒天を祀る塔頭寺院です。<br />疳虫・夜泣封じ・健康増進<br />【華蔵院】<br />戌年亥年の守り本尊である阿弥陀如来と毘沙門天を祀る塔頭寺院です。<br />商売繁盛・ボケ封じ<br />【成就院】<br />丑年寅年の守り本尊である虚空蔵菩薩と布袋尊を祀る塔頭寺院です。<br />合格祈願・除災招福

    中山寺 塔頭 観音院 山門
    山内にある5坊の塔頭寺院を簡単に紹介しておきます。
    【総持院】
    卯年の文殊菩薩、酉年の不動明王と福禄寿を祀る塔頭寺院です。
    合格祈願・学業成就
    【宝蔵院】
    未年申年の守り本尊である大日如来と弁財天を祀る塔頭寺院です。
    財福知恵・厄除け
    【観音院】
    辰年巳年の守り本尊である普賢菩薩と大黒天を祀る塔頭寺院です。
    疳虫・夜泣封じ・健康増進
    【華蔵院】
    戌年亥年の守り本尊である阿弥陀如来と毘沙門天を祀る塔頭寺院です。
    商売繁盛・ボケ封じ
    【成就院】
    丑年寅年の守り本尊である虚空蔵菩薩と布袋尊を祀る塔頭寺院です。
    合格祈願・除災招福

  • 中山寺 塔頭 観音院 本堂<br />観音院は辰・巳年の守り本尊とされる普賢菩薩と大黒天を祀る塔頭寺院です。<br />山門を潜った突き当りが本堂です。<br />かつての中山寺の伽藍は天正の戦乱(有岡城の戦い)の兵火で全山が灰燼と化し、1603(慶長8)年に豊臣秀頼が片桐且元(かつもと)を普請奉行を抜擢して再建しました(且元は出雲大社の造営奉行も務めました)。また、1674(延宝2)年には中山寺にあった多数の宿坊を五院に合弁し、かつての「宝泉坊」が「観音院」となりました。その際、且元は「真」「行」「草」の3つの枯山水の庭園を造営しています。「真」は華蔵院、「行」は観音院、「草」は現在は失われています。因みに、重森三玲著『日本庭園歴覧辞典』では華蔵院の庭園は「池水」と説明されています。

    中山寺 塔頭 観音院 本堂
    観音院は辰・巳年の守り本尊とされる普賢菩薩と大黒天を祀る塔頭寺院です。
    山門を潜った突き当りが本堂です。
    かつての中山寺の伽藍は天正の戦乱(有岡城の戦い)の兵火で全山が灰燼と化し、1603(慶長8)年に豊臣秀頼が片桐且元(かつもと)を普請奉行を抜擢して再建しました(且元は出雲大社の造営奉行も務めました)。また、1674(延宝2)年には中山寺にあった多数の宿坊を五院に合弁し、かつての「宝泉坊」が「観音院」となりました。その際、且元は「真」「行」「草」の3つの枯山水の庭園を造営しています。「真」は華蔵院、「行」は観音院、「草」は現在は失われています。因みに、重森三玲著『日本庭園歴覧辞典』では華蔵院の庭園は「池水」と説明されています。

  • 中山寺 塔頭 観音院 庭園<br />本殿に向かって右手に庫裡書院を兼ねた客殿があり、その南と東面に「宝泉坊」の頃に作庭された枯山水の石組庭園がL字型に横たわっています。<br />不躾ながら格子越しに庭を拝観させていただいていた所、ご住職の奥様と思しき方が事情を察して鍵を開けてくださりました。お礼を兼ねて御朱印「大黒天」を頂いてまいりました。<br />尚、ご住職の説法を聴聞しながら客殿から庭園を鑑賞する催しもあるそうです。とは言え寺院のHPはありませんので、電話で確認するしか手はないかと思います。

    中山寺 塔頭 観音院 庭園
    本殿に向かって右手に庫裡書院を兼ねた客殿があり、その南と東面に「宝泉坊」の頃に作庭された枯山水の石組庭園がL字型に横たわっています。
    不躾ながら格子越しに庭を拝観させていただいていた所、ご住職の奥様と思しき方が事情を察して鍵を開けてくださりました。お礼を兼ねて御朱印「大黒天」を頂いてまいりました。
    尚、ご住職の説法を聴聞しながら客殿から庭園を鑑賞する催しもあるそうです。とは言え寺院のHPはありませんので、電話で確認するしか手はないかと思います。

  • 中山寺 塔頭 観音院 庭園(南面)<br />重森三玲著『日本庭園歴覧辞典』にある庭の説明文を紹介しておきます。三玲(みれい)氏は昭和期の日本の作庭家・日本庭園史の研究家です。三玲氏が作庭した庭は力強い石組とモダンな苔の地割りで構成される枯山水庭園が特徴とされ、代表作には東福寺方丈庭園、光明院庭園、瑞峯院庭園、松尾大社庭園などがあります。 <br />「本庭は本院書院の南庭として造られた枯山水であり、東部と南部とに土塀を囲らし、西部は板塀となり、面積は約百七坪ほどあるが、東部はほとんど荒廃していて、南部のみに石組が保存されている。<br />南部土塀際に築山を設け、中央部が枯滝となり、その下部に亀島があり、東部の出島付近の石組が鶴島として組まれている。これらの石組は江戸初期の石組としては、その初頭、寛永初年と思われる豪快な石組であって、とくに滝付近の石組は傑出している。<br />この枯滝の石組をさらに検討してみると、この寛永期によく出てくる鶴石組と枯滝とを兼用する手法が用いられていることである。巨石二個の対立した石組はよくそれを語っているのみでなく、剛健な手法とされている。そして東部の築山の石組はされに剛健な手法とされ集団石組として、この頃の手法を見せている。<br />さらにまた、中島は、前述したように、亀島として多くの石が組まれている。ただ亀頭石らしいものが失われているが、中心石は二個も用いてある。この東部の築山の一部は手前に突出していて、そこにも多くの石組があるが、これまた鶴石組を兼用してある。」

    中山寺 塔頭 観音院 庭園(南面)
    重森三玲著『日本庭園歴覧辞典』にある庭の説明文を紹介しておきます。三玲(みれい)氏は昭和期の日本の作庭家・日本庭園史の研究家です。三玲氏が作庭した庭は力強い石組とモダンな苔の地割りで構成される枯山水庭園が特徴とされ、代表作には東福寺方丈庭園、光明院庭園、瑞峯院庭園、松尾大社庭園などがあります。
    「本庭は本院書院の南庭として造られた枯山水であり、東部と南部とに土塀を囲らし、西部は板塀となり、面積は約百七坪ほどあるが、東部はほとんど荒廃していて、南部のみに石組が保存されている。
    南部土塀際に築山を設け、中央部が枯滝となり、その下部に亀島があり、東部の出島付近の石組が鶴島として組まれている。これらの石組は江戸初期の石組としては、その初頭、寛永初年と思われる豪快な石組であって、とくに滝付近の石組は傑出している。
    この枯滝の石組をさらに検討してみると、この寛永期によく出てくる鶴石組と枯滝とを兼用する手法が用いられていることである。巨石二個の対立した石組はよくそれを語っているのみでなく、剛健な手法とされている。そして東部の築山の石組はされに剛健な手法とされ集団石組として、この頃の手法を見せている。
    さらにまた、中島は、前述したように、亀島として多くの石が組まれている。ただ亀頭石らしいものが失われているが、中心石は二個も用いてある。この東部の築山の一部は手前に突出していて、そこにも多くの石組があるが、これまた鶴石組を兼用してある。」

  • 中山寺 塔頭 観音院 庭園(南面)<br />『日本庭園歴覧辞典』はもっぱら庭園の南面にある鶴・亀島や枯滝を中心に捉えた記述となっています。しかし、今の景観が往時の姿そのままではないとしても、それらだけがこの庭園を観る者を魅了して止まない要素ではないと思います。<br />目を凝らせば、非凡な石を巧みに組み上げた豪壮な石組群は大胆ながら繊細かつ深い造形が庭全体に亘って巡らされています。南面だけでなく、東面をも含めた庭園全体像としての具象的表現を讃えるべきではないでしょうか?<br />「庭は生き物」とはよく言ったもので、このような生き生きとした状態を400有余年も保つのは大変なご苦労があったことと思います。日々の手入れを重ねて守ってこられた寺院関係者には頭が下がります。

    中山寺 塔頭 観音院 庭園(南面)
    『日本庭園歴覧辞典』はもっぱら庭園の南面にある鶴・亀島や枯滝を中心に捉えた記述となっています。しかし、今の景観が往時の姿そのままではないとしても、それらだけがこの庭園を観る者を魅了して止まない要素ではないと思います。
    目を凝らせば、非凡な石を巧みに組み上げた豪壮な石組群は大胆ながら繊細かつ深い造形が庭全体に亘って巡らされています。南面だけでなく、東面をも含めた庭園全体像としての具象的表現を讃えるべきではないでしょうか?
    「庭は生き物」とはよく言ったもので、このような生き生きとした状態を400有余年も保つのは大変なご苦労があったことと思います。日々の手入れを重ねて守ってこられた寺院関係者には頭が下がります。

  • 中山寺 塔頭 観音院 庭園(南面)<br />片桐且元は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての豊臣家の直参家臣・武将・大名で、豊臣秀吉と対立した柴田勝家と戦った賤ヶ岳の戦いで一番槍の功を認められて「七本槍」に数えられました。関ヶ原の戦い以降は家老として秀頼に仕え、豊臣家救済のために徳川家康と交渉するなど心血を注ぎましたが、逆に淀殿らに疑われて志は成りませんでした。その後、方広寺鐘銘事件を契機に大坂城を退出し、徳川方に転じました。

    中山寺 塔頭 観音院 庭園(南面)
    片桐且元は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての豊臣家の直参家臣・武将・大名で、豊臣秀吉と対立した柴田勝家と戦った賤ヶ岳の戦いで一番槍の功を認められて「七本槍」に数えられました。関ヶ原の戦い以降は家老として秀頼に仕え、豊臣家救済のために徳川家康と交渉するなど心血を注ぎましたが、逆に淀殿らに疑われて志は成りませんでした。その後、方広寺鐘銘事件を契機に大坂城を退出し、徳川方に転じました。

  • 中山寺 塔頭 観音院 庭園(南東面)<br />片桐且元はNHK大河ドラマ『真田丸』では小林隆さんが演じておられました。司馬遼太郎氏の小説『城塞』では「裏切り者」として描かれており、多くの方はそうしたイメージが強いと思います。<br />関ヶ原の戦い後、且元は豊臣家と徳川家のパイプ役として奔走しましたが、それが災いしました。元々、家康と親交があり、関ヶ原の戦いの前には家康を屋敷に泊めていました。また、関ヶ原の戦いでは西軍に与しましたが、戦後に長女を人質として家康の元へ出しました。これら且元の行動が淀君や側近たちを疑心暗鬼にさせ、徳川方に寝返ったのではないかと疑われることになりました。

    中山寺 塔頭 観音院 庭園(南東面)
    片桐且元はNHK大河ドラマ『真田丸』では小林隆さんが演じておられました。司馬遼太郎氏の小説『城塞』では「裏切り者」として描かれており、多くの方はそうしたイメージが強いと思います。
    関ヶ原の戦い後、且元は豊臣家と徳川家のパイプ役として奔走しましたが、それが災いしました。元々、家康と親交があり、関ヶ原の戦いの前には家康を屋敷に泊めていました。また、関ヶ原の戦いでは西軍に与しましたが、戦後に長女を人質として家康の元へ出しました。これら且元の行動が淀君や側近たちを疑心暗鬼にさせ、徳川方に寝返ったのではないかと疑われることになりました。

  • 中山寺 塔頭 観音院 庭園(南東面)<br />しかし、個人的には且元は豊臣家への忠誠心の高い人だったと思っています。秀吉没後、秀頼の補佐役として最後まで秀頼と豊臣家の存続を守ろうと画策したのではないでしょうか?<br />しかし家康の方が一枚上手だったため、手のひらの上で転がされ、淀君たちが且元を疑って孤立させられるというトラップを仕掛けられたように思えます。

    中山寺 塔頭 観音院 庭園(南東面)
    しかし、個人的には且元は豊臣家への忠誠心の高い人だったと思っています。秀吉没後、秀頼の補佐役として最後まで秀頼と豊臣家の存続を守ろうと画策したのではないでしょうか?
    しかし家康の方が一枚上手だったため、手のひらの上で転がされ、淀君たちが且元を疑って孤立させられるというトラップを仕掛けられたように思えます。

  • 中山寺 塔頭 観音院 庭園(東面)<br />方広寺鐘銘事件は次のようなストーリーです。1614年、方広寺の梵鐘が完成し、それを且元が家康に報告した際、「国家安康」「君臣豊楽」の鐘銘が、家康を呪い、豊臣家の繁栄を願うものだと因縁を付けられたのです。これは家康からの挑発であり、淀君や近臣は紛糾しますが、且元は何とか両家の間を取り持とうと駿府城を訪れ弁明しようと努めました。しかし面会は叶わず、逆に徳川側から「秀頼に江戸参勤をさせる」、「淀君を人質として江戸に差し出す 」、「秀頼が大坂城を出て国替えする」といった無理難題を突き付けられたのです。ただし、策略家の家康は、同行した大蔵卿の局には「悪いようにはしない!心配するな」と直接言葉をかけていたのです。

    中山寺 塔頭 観音院 庭園(東面)
    方広寺鐘銘事件は次のようなストーリーです。1614年、方広寺の梵鐘が完成し、それを且元が家康に報告した際、「国家安康」「君臣豊楽」の鐘銘が、家康を呪い、豊臣家の繁栄を願うものだと因縁を付けられたのです。これは家康からの挑発であり、淀君や近臣は紛糾しますが、且元は何とか両家の間を取り持とうと駿府城を訪れ弁明しようと努めました。しかし面会は叶わず、逆に徳川側から「秀頼に江戸参勤をさせる」、「淀君を人質として江戸に差し出す 」、「秀頼が大坂城を出て国替えする」といった無理難題を突き付けられたのです。ただし、策略家の家康は、同行した大蔵卿の局には「悪いようにはしない!心配するな」と直接言葉をかけていたのです。

  • 中山寺 塔頭 観音院 庭園(東面)<br />大坂に戻った且元と大蔵卿の局の報告に齟齬があることから、淀君は且元が家康に寝返ったものと思い、3条件いずれも突っぱねてしまいました。裏切り者のレッテルを貼られた且元は、その後命を狙われる羽目になり、ついには大坂城を追われて居城の摂津茨木城に戻り、豊臣家と徳川家の両者から見放されるという悲哀を味わいました。<br />その後、大坂夏の陣では秀頼の助命を条件に徳川方に与し、夏の陣後、且元の竜田藩は4万石に加増されますが、秀頼の命を救うことができなかったことを悔い、豊臣家滅亡から20日ほど後に自刃したと伝わります。(病没とする説もあり)

    中山寺 塔頭 観音院 庭園(東面)
    大坂に戻った且元と大蔵卿の局の報告に齟齬があることから、淀君は且元が家康に寝返ったものと思い、3条件いずれも突っぱねてしまいました。裏切り者のレッテルを貼られた且元は、その後命を狙われる羽目になり、ついには大坂城を追われて居城の摂津茨木城に戻り、豊臣家と徳川家の両者から見放されるという悲哀を味わいました。
    その後、大坂夏の陣では秀頼の助命を条件に徳川方に与し、夏の陣後、且元の竜田藩は4万石に加増されますが、秀頼の命を救うことができなかったことを悔い、豊臣家滅亡から20日ほど後に自刃したと伝わります。(病没とする説もあり)

  • 中山寺 塔頭 観音院 庭園(東面)<br />こうしたケースは今の世にも存在します。例えば、上司からは何とかして売って来いと叱咤され、顧客からは無理難題を押し付けられる。そんな板挟みの営業マンが多いのでは?<br />家康としては、家老である且元が自分の意向に気づき、何らかの手段を講じると期待していたはずです。豊臣家が引けば、それで政権は安定し、完全に豊臣家を駆逐する必要もありません。しかしその思惑が外れ、且元が大坂城から出てしまっては、もはや「豊臣家に家康の真意を理解する人物がいない=話し合いが成立しない」ことを意味します。

    中山寺 塔頭 観音院 庭園(東面)
    こうしたケースは今の世にも存在します。例えば、上司からは何とかして売って来いと叱咤され、顧客からは無理難題を押し付けられる。そんな板挟みの営業マンが多いのでは?
    家康としては、家老である且元が自分の意向に気づき、何らかの手段を講じると期待していたはずです。豊臣家が引けば、それで政権は安定し、完全に豊臣家を駆逐する必要もありません。しかしその思惑が外れ、且元が大坂城から出てしまっては、もはや「豊臣家に家康の真意を理解する人物がいない=話し合いが成立しない」ことを意味します。

  • 中山寺 塔頭 観音院 庭園(東面)<br />結局、且元は夏の陣では徳川方に与して豊臣家にとって裏切者になったのですが、それは本意ではなく、豊臣家から排除されたため、やむを得ず豊臣家との接点を家康に求めたというのが本当のところではなかったでしょうか?徳川方に与しながらも秀頼や豊臣家の存続を守ろうとした事実は、夏の陣の間も家康に対して秀頼の助命を訴え続けたという手紙が立証しています。<br />且元という人物を知れば知るほど秀吉に頼まれた秀頼、ひいては豊臣家の存続を自分の事のように真剣に考えていたことが判ります。家康に寝返った裏切者ではなく、豊臣家を断絶させないようにする最後の手段として徳川方に与することを選んだのではないかと思えます。<br />結局その願いも叶わなかったのですから、生きる気力が失せたとしても批難できません。

    中山寺 塔頭 観音院 庭園(東面)
    結局、且元は夏の陣では徳川方に与して豊臣家にとって裏切者になったのですが、それは本意ではなく、豊臣家から排除されたため、やむを得ず豊臣家との接点を家康に求めたというのが本当のところではなかったでしょうか?徳川方に与しながらも秀頼や豊臣家の存続を守ろうとした事実は、夏の陣の間も家康に対して秀頼の助命を訴え続けたという手紙が立証しています。
    且元という人物を知れば知るほど秀吉に頼まれた秀頼、ひいては豊臣家の存続を自分の事のように真剣に考えていたことが判ります。家康に寝返った裏切者ではなく、豊臣家を断絶させないようにする最後の手段として徳川方に与することを選んだのではないかと思えます。
    結局その願いも叶わなかったのですから、生きる気力が失せたとしても批難できません。

  • 中山寺 塔頭 観音院 庭園(東面)<br />東面の北端には小さな築山が設けられ、小さな祠もあります。観音院 庭園は「行」とされますが、作庭書で初めて「真・行・草」の格付けが明示されたのは江戸時代の『築山庭造伝』(1735年)ですから、且元の時代は恐らく書道の世界の定義で捉えていたと思われます。つまり、「真書」は正書・楷書であり正格を表し、「草書」は正格を逸脱した風雅な書体、「行書」はその中間にあって真書を少し崩して書くものを指します。<br />右手に見える客殿は、阪神淡路大震災で甚大な被害を受け、その後新築されたものです。外観が忠実に復元されているため木造に見えますが、実は主体構造は鉄筋コンクリート造です。前庭となる桃山時代の石組庭園の雰囲気を阻害しないよう、外観からは微塵もそれと感じさせない気配りがキラリと光ります。長引くコロナ禍で心がすさんでいる方もおられるかもしれませんが、こうした心配りを大切にしていきたいものです。

    中山寺 塔頭 観音院 庭園(東面)
    東面の北端には小さな築山が設けられ、小さな祠もあります。観音院 庭園は「行」とされますが、作庭書で初めて「真・行・草」の格付けが明示されたのは江戸時代の『築山庭造伝』(1735年)ですから、且元の時代は恐らく書道の世界の定義で捉えていたと思われます。つまり、「真書」は正書・楷書であり正格を表し、「草書」は正格を逸脱した風雅な書体、「行書」はその中間にあって真書を少し崩して書くものを指します。
    右手に見える客殿は、阪神淡路大震災で甚大な被害を受け、その後新築されたものです。外観が忠実に復元されているため木造に見えますが、実は主体構造は鉄筋コンクリート造です。前庭となる桃山時代の石組庭園の雰囲気を阻害しないよう、外観からは微塵もそれと感じさせない気配りがキラリと光ります。長引くコロナ禍で心がすさんでいる方もおられるかもしれませんが、こうした心配りを大切にしていきたいものです。

  • 中山寺 塔頭 観音院 客殿<br />客殿はピカピカの新築でも、釘隠しは以前のものをリサイクルされています。<br />見慣れない紋ですが、細桔梗のバリエーションでしょうか?<br /><br />この続きは「萬福笑來 北摂宝塚②紫雲山 中山寺(前編)」でお届けいたします。

    中山寺 塔頭 観音院 客殿
    客殿はピカピカの新築でも、釘隠しは以前のものをリサイクルされています。
    見慣れない紋ですが、細桔梗のバリエーションでしょうか?

    この続きは「萬福笑來 北摂宝塚②紫雲山 中山寺(前編)」でお届けいたします。

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