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紫雲山 中山寺の創建は『日本書記』に「四天王寺に先ずること四年」とあり、589年とされます。また創始に関しては、次の2つの伝説があります。<br />1つ目は、推古天皇の代(600年頃)、聖徳太子が四天王寺を建立するのに適した場所を探していた折、太子に滅ぼされた政敵 物部守屋が悪鬼となって現れました。そこで太子が「菩薩様、私をお守り下さい」と祈ると悪鬼は退散。その夜、仲哀天皇の先の皇后 大仲媛(おおなかひめ)が太子の夢枕に立ち「この地より北に紫の雲のたなびく地がありますので、その山に寺を建て亡き人々をお祀り下さい。悪鬼も鎮まるでしょう」と告げました。その後、太子は「紫雲山中山寺」と名付け、数多くの堂塔を建立したというもの。<br />2つ目は、仲哀天皇の先の皇后 大仲媛と2人の皇子 香坂(かごさか)皇子と忍熊(おしくま)皇子の供養のために聖徳太子が開創したというもの。<br />さて、実際のところはどうなんでしょうか?<br />どちらの伝説にも大仲媛が登場しますので、恐らく彼女がキーマンなのでしょう。<br />じっくり参拝してこの目で真実を突き止めてまいりたいと思います。<br />中山寺のHPです。<br />https://www.nakayamadera.or.jp/

萬福笑來 北摂宝塚②紫雲山 中山寺(前編)

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2021/03/15 - 2021/03/15

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

紫雲山 中山寺の創建は『日本書記』に「四天王寺に先ずること四年」とあり、589年とされます。また創始に関しては、次の2つの伝説があります。
1つ目は、推古天皇の代(600年頃)、聖徳太子が四天王寺を建立するのに適した場所を探していた折、太子に滅ぼされた政敵 物部守屋が悪鬼となって現れました。そこで太子が「菩薩様、私をお守り下さい」と祈ると悪鬼は退散。その夜、仲哀天皇の先の皇后 大仲媛(おおなかひめ)が太子の夢枕に立ち「この地より北に紫の雲のたなびく地がありますので、その山に寺を建て亡き人々をお祀り下さい。悪鬼も鎮まるでしょう」と告げました。その後、太子は「紫雲山中山寺」と名付け、数多くの堂塔を建立したというもの。
2つ目は、仲哀天皇の先の皇后 大仲媛と2人の皇子 香坂(かごさか)皇子と忍熊(おしくま)皇子の供養のために聖徳太子が開創したというもの。
さて、実際のところはどうなんでしょうか?
どちらの伝説にも大仲媛が登場しますので、恐らく彼女がキーマンなのでしょう。
じっくり参拝してこの目で真実を突き止めてまいりたいと思います。
中山寺のHPです。
https://www.nakayamadera.or.jp/

旅行の満足度
5.0
同行者
カップル・夫婦
交通手段
私鉄

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  • 境内は広いため、中山寺のHPにある境内マップを参考用に載せておきます。<br />このマップは次のサイトから引用させていただきました。<br />https://www.nakayamadera.or.jp/about/chokan.html

    境内は広いため、中山寺のHPにある境内マップを参考用に載せておきます。
    このマップは次のサイトから引用させていただきました。
    https://www.nakayamadera.or.jp/about/chokan.html

  • 参道<br />塔頭 観音院から参道に戻ると、ほぼ真正面に凛とした五重塔が聳え立っています。<br />ここだけ切り取ってみると、古刹ではあるのですが枯淡な印象は微塵もありません。

    参道
    塔頭 観音院から参道に戻ると、ほぼ真正面に凛とした五重塔が聳え立っています。
    ここだけ切り取ってみると、古刹ではあるのですが枯淡な印象は微塵もありません。

  • 手水舎<br />石段を上った左手にあります。<br />蓮華の「蕾」を象ったデザインです。<br />敢えて「蕾」としているところが、「安産祈願」子宝祈願」に霊験あらたかな寺院を象徴しています。<br />また、葉っぱの部分が柄杓置き場を兼ねるという実用的なところもGOODです。<br />残念ながら、現在はコロナウィルス感染予防対策として手水は使用できなくなっています。

    手水舎
    石段を上った左手にあります。
    蓮華の「蕾」を象ったデザインです。
    敢えて「蕾」としているところが、「安産祈願」子宝祈願」に霊験あらたかな寺院を象徴しています。
    また、葉っぱの部分が柄杓置き場を兼ねるという実用的なところもGOODです。
    残念ながら、現在はコロナウィルス感染予防対策として手水は使用できなくなっています。

  • 鐘楼堂<br />手水舎の直ぐ背後にあります。<br />豊臣秀頼が1603(慶長8)年に再建し、その後、1761年に改修工事がなされています。<br />山門のような組物が施され、更に彫刻や一部に彩色も見られる重厚な外観です。入母屋造、本瓦葺の袴腰鐘楼で、スケールも大きく、説明がなければ鐘楼とは思えないほどです。また、袴のカーブが、どちらかといえば頭でっかちのアンバランスさを補い、安定感を持たせています。<br />ここでは法要の始まりを知らせる鐘が撞かれます。

    鐘楼堂
    手水舎の直ぐ背後にあります。
    豊臣秀頼が1603(慶長8)年に再建し、その後、1761年に改修工事がなされています。
    山門のような組物が施され、更に彫刻や一部に彩色も見られる重厚な外観です。入母屋造、本瓦葺の袴腰鐘楼で、スケールも大きく、説明がなければ鐘楼とは思えないほどです。また、袴のカーブが、どちらかといえば頭でっかちのアンバランスさを補い、安定感を持たせています。
    ここでは法要の始まりを知らせる鐘が撞かれます。

  • 鐘楼堂<br />垂木こそありませんが、その代わりに軒裏には細かく波や瑞雲が彫り込まれ、かなり凝った造りです。<br />かつては太平洋が望めたこの寺院を象徴するのが「波」と言うことなのでしょう。

    鐘楼堂
    垂木こそありませんが、その代わりに軒裏には細かく波や瑞雲が彫り込まれ、かなり凝った造りです。
    かつては太平洋が望めたこの寺院を象徴するのが「波」と言うことなのでしょう。

  • 塔婆おさめ所<br />経木塔婆の供養所であり、浄水を注いで亡くなった方の供養を行う場所です。水掛地蔵尊の御宝前で線香を揃え、経木塔婆と地蔵尊に水を3度掛け流し、手を合わせます。<br />卒塔婆とは、元々はお釈迦さまのお骨を納めた仏塔を言い、サンスクリット語で「塔」を表す「ストゥーパ」をもじったものです。

    塔婆おさめ所
    経木塔婆の供養所であり、浄水を注いで亡くなった方の供養を行う場所です。水掛地蔵尊の御宝前で線香を揃え、経木塔婆と地蔵尊に水を3度掛け流し、手を合わせます。
    卒塔婆とは、元々はお釈迦さまのお骨を納めた仏塔を言い、サンスクリット語で「塔」を表す「ストゥーパ」をもじったものです。

  • 塔婆おさめ所<br />小さな祠ですが、この寺院には珍しく虹梁やその上部に彫り物が見られます。<br />ここでも「波」を見事に彫り込んであります。

    塔婆おさめ所
    小さな祠ですが、この寺院には珍しく虹梁やその上部に彫り物が見られます。
    ここでも「波」を見事に彫り込んであります。

  • 閻魔堂 <br />豊臣秀頼が1603(慶長8)年に再建した丹塗りの堂宇には閻魔大王が祀られています。密教における十二天である閻魔天が中国道教の冥界思想の影響を受けて変化したものとされており、日本では浄土教の信仰と共に地獄と極楽のイメージで定着し、冥土の裁判官や地獄界の王とも称され、一般民衆の間で身近な仏として知られています。<br />地獄という恐ろしい異界を管轄されている大王の堂宇のため、極彩色の装飾と合わせて見ると本当に異空間に迷い込んだような気がします。<br />2005年に改修と極彩色復元が完了しています。<br />因みに、中山寺は西国三十三所観音巡礼の第24番札所でもあります。この西国巡礼は、長谷寺の徳道上人が病にかかった際、閻魔大王から三十三所の観音霊場を広めるよう命じられたことに始まると伝わります。<br />しかし、往時巡礼は人々に広まることがなく、上人はここ中山寺にある石室の石棺に閻魔大王から授かった宝印を納め、機が熟するのを待つことにしました。その縁起により、ここに閻魔大王が祀られています。<br />上人が宝印を納めたとされる石棺は、今でも閻魔堂の裏手の石室にあります。

    閻魔堂 
    豊臣秀頼が1603(慶長8)年に再建した丹塗りの堂宇には閻魔大王が祀られています。密教における十二天である閻魔天が中国道教の冥界思想の影響を受けて変化したものとされており、日本では浄土教の信仰と共に地獄と極楽のイメージで定着し、冥土の裁判官や地獄界の王とも称され、一般民衆の間で身近な仏として知られています。
    地獄という恐ろしい異界を管轄されている大王の堂宇のため、極彩色の装飾と合わせて見ると本当に異空間に迷い込んだような気がします。
    2005年に改修と極彩色復元が完了しています。
    因みに、中山寺は西国三十三所観音巡礼の第24番札所でもあります。この西国巡礼は、長谷寺の徳道上人が病にかかった際、閻魔大王から三十三所の観音霊場を広めるよう命じられたことに始まると伝わります。
    しかし、往時巡礼は人々に広まることがなく、上人はここ中山寺にある石室の石棺に閻魔大王から授かった宝印を納め、機が熟するのを待つことにしました。その縁起により、ここに閻魔大王が祀られています。
    上人が宝印を納めたとされる石棺は、今でも閻魔堂の裏手の石室にあります。

  • 閻魔堂<br />まばゆいほどに丹色と極彩色が鮮烈な堂宇ですが、中央に閻魔大王が鎮座し、脇侍には司命(しみょう)尊と司録(しろく)尊の書記官、その周囲に10人の裁判官(十王)が座す本格的なものです。<br />閻魔大王が持つ「浄玻璃の鏡」は死者の生前の行いを検閲しています。向かって左側の司録尊は供生神と言われ、人が生まれた時に毛穴に入り、その人の一生の行いを記録するそうです。右側の司命尊は、閻魔帳に記録された死者の生前の業罪を読み上げており、凛々しいお姿です。左奥では女性が天秤にかけられ、石の重さと比較されています。これは生前の罪の重さを計っている様です。<br />閻魔大王の裁きが気になる所ですが、そもそも閻魔大王の変化尊が地蔵尊です。生前から地蔵尊に手を合わせていれば、死後、地蔵尊が閻魔大王の前で弁護をしてくれるはずです!

    閻魔堂
    まばゆいほどに丹色と極彩色が鮮烈な堂宇ですが、中央に閻魔大王が鎮座し、脇侍には司命(しみょう)尊と司録(しろく)尊の書記官、その周囲に10人の裁判官(十王)が座す本格的なものです。
    閻魔大王が持つ「浄玻璃の鏡」は死者の生前の行いを検閲しています。向かって左側の司録尊は供生神と言われ、人が生まれた時に毛穴に入り、その人の一生の行いを記録するそうです。右側の司命尊は、閻魔帳に記録された死者の生前の業罪を読み上げており、凛々しいお姿です。左奥では女性が天秤にかけられ、石の重さと比較されています。これは生前の罪の重さを計っている様です。
    閻魔大王の裁きが気になる所ですが、そもそも閻魔大王の変化尊が地蔵尊です。生前から地蔵尊に手を合わせていれば、死後、地蔵尊が閻魔大王の前で弁護をしてくれるはずです!

  • 五百羅漢堂<br />最初の階段を上がった正面に建てられています。現在の堂宇は阪神淡路大震災後の1997年に開創1400年記念事業の一つとして新築されました。かつての堂宇は震災により壊滅的な被害を受けましたが、羅漢像は堂宇の建て替えのために偶然にも別の場所に保管されていたそうです。羅漢とは、悟りを開いた高僧だそうですので、これも観音様の慈悲の心によるものかもしれません!<br />書家でもある真言宗の泉智等上人が揮毫した扁額「羅漢堂」が掲げられています。上人は、仁和寺 第35世門跡、高野山派管長、総本山金剛峯寺 第388世座主、真言宗連合総裁などを歴任された高僧です。

    五百羅漢堂
    最初の階段を上がった正面に建てられています。現在の堂宇は阪神淡路大震災後の1997年に開創1400年記念事業の一つとして新築されました。かつての堂宇は震災により壊滅的な被害を受けましたが、羅漢像は堂宇の建て替えのために偶然にも別の場所に保管されていたそうです。羅漢とは、悟りを開いた高僧だそうですので、これも観音様の慈悲の心によるものかもしれません!
    書家でもある真言宗の泉智等上人が揮毫した扁額「羅漢堂」が掲げられています。上人は、仁和寺 第35世門跡、高野山派管長、総本山金剛峯寺 第388世座主、真言宗連合総裁などを歴任された高僧です。

  • 五百羅漢堂<br />モダンでアーティスティックかつ荘厳な雰囲気が漂う異空間です。<br />目にも鮮やかな群青色の天井にある梵字は金剛界五仏と釈迦如来を表す種字曼荼羅(種字:仏教の諸尊を梵字一文字で表したもの)です。<br />床に目を落とせば、釈迦如来の前には蓮華の花を描いた陶板が敷かれています。これらは人の心が本来清浄であることを示し、一度、曼荼羅に坐し、至心に仏を念ずれば必ず悟りが開かれると伝わります。地下は「ねはん堂」という千体仏の安置所になっています。<br />五百羅漢堂は他の寺院でも見かけますが、ここのは幻想的と言うよりも壮快な気分にさせてくれます。

    五百羅漢堂
    モダンでアーティスティックかつ荘厳な雰囲気が漂う異空間です。
    目にも鮮やかな群青色の天井にある梵字は金剛界五仏と釈迦如来を表す種字曼荼羅(種字:仏教の諸尊を梵字一文字で表したもの)です。
    床に目を落とせば、釈迦如来の前には蓮華の花を描いた陶板が敷かれています。これらは人の心が本来清浄であることを示し、一度、曼荼羅に坐し、至心に仏を念ずれば必ず悟りが開かれると伝わります。地下は「ねはん堂」という千体仏の安置所になっています。
    五百羅漢堂は他の寺院でも見かけますが、ここのは幻想的と言うよりも壮快な気分にさせてくれます。

  • 五百羅漢堂<br />中央には本尊 宝冠釈迦如来坐像が祀られ、脇侍に迦葉と阿難を従えています。また、3面の壁際には釈迦の弟子である羅漢が祀られています。<br />「親兄弟の顔が見たくば 中山寺の五百羅漢の堂にござる」と古歌にも詠まれた通り、堂内には500ならぬ700余体の羅漢像が中央の本尊 釈迦如来の説法を聴聞するお姿で祀られています。

    五百羅漢堂
    中央には本尊 宝冠釈迦如来坐像が祀られ、脇侍に迦葉と阿難を従えています。また、3面の壁際には釈迦の弟子である羅漢が祀られています。
    「親兄弟の顔が見たくば 中山寺の五百羅漢の堂にござる」と古歌にも詠まれた通り、堂内には500ならぬ700余体の羅漢像が中央の本尊 釈迦如来の説法を聴聞するお姿で祀られています。

  • 五百羅漢堂<br />各々のお顔はみな違っており、古歌のように両親や自分に似た羅漢さんがおられるかも知れません。<br />もし、自分そっくりな羅漢さんを見つけたら、芥川龍之介の短編小説『二つの手紙』にある「ドッペルゲンガー現象」ってことになるのでしょうか!?<br />その場合、本人が見ると死に至るとの迷信もあります。何事も程々にしておくのがよさそうです!

    五百羅漢堂
    各々のお顔はみな違っており、古歌のように両親や自分に似た羅漢さんがおられるかも知れません。
    もし、自分そっくりな羅漢さんを見つけたら、芥川龍之介の短編小説『二つの手紙』にある「ドッペルゲンガー現象」ってことになるのでしょうか!?
    その場合、本人が見ると死に至るとの迷信もあります。何事も程々にしておくのがよさそうです!

  • 参道<br />本堂はもう一段上に鎮まります。<br />境内にエスカレータやエレベータがある寺院は稀と思いますが、これらは阪神淡路大震災後の境内修理に併せて設置されました。中山寺は「安産祈願」で有名であり、参拝者には妊婦さんやお宮参りの子供を抱いた両親、足腰の弱い方などが多く、例え短い階段であっても楽に上れるように慮った結果です。完全バリアフリーということではありませんが…。

    参道
    本堂はもう一段上に鎮まります。
    境内にエスカレータやエレベータがある寺院は稀と思いますが、これらは阪神淡路大震災後の境内修理に併せて設置されました。中山寺は「安産祈願」で有名であり、参拝者には妊婦さんやお宮参りの子供を抱いた両親、足腰の弱い方などが多く、例え短い階段であっても楽に上れるように慮った結果です。完全バリアフリーということではありませんが…。

  • 本堂<br />聖徳太子の創建以来、度重なる火災や兵火により堂宇は都度焼失しましたが、現在の本堂は1578(天正6)年に伊丹城城主 荒木村重の兵火で焼失した後に1605(慶長10)年に豊臣秀頼によって再建されたものです。桃山時代を代表する仏堂建築です。尚、本堂は1995年の阪神淡路大震災の被害を殆ど被らなかったようです。

    本堂
    聖徳太子の創建以来、度重なる火災や兵火により堂宇は都度焼失しましたが、現在の本堂は1578(天正6)年に伊丹城城主 荒木村重の兵火で焼失した後に1605(慶長10)年に豊臣秀頼によって再建されたものです。桃山時代を代表する仏堂建築です。尚、本堂は1995年の阪神淡路大震災の被害を殆ど被らなかったようです。

  • 本堂<br />豪華絢爛たる堂宇です。桁行5間、梁行5間、ほぼ正方形の寄棟造として本瓦を葺いています。特徴としては、正面1間通りを吹き抜けの礼堂とし、後方4間を内陣としていることが挙げられます。<br />一見して縁側に見える板の間は、実際は本堂の外陣です。そのため参拝者は履物を脱がずに礼堂に立ち入って本尊を礼拝することができます。これは、日常的に多くの参拝者を受け入れる札所寺院にしばしば見られる建築様式です。<br />内陣の床は畳敷き、天井は格天井です。背面中央に須弥壇を置き、その上に荘厳な大型の御厨子を安置して本尊を祀ります。

    本堂
    豪華絢爛たる堂宇です。桁行5間、梁行5間、ほぼ正方形の寄棟造として本瓦を葺いています。特徴としては、正面1間通りを吹き抜けの礼堂とし、後方4間を内陣としていることが挙げられます。
    一見して縁側に見える板の間は、実際は本堂の外陣です。そのため参拝者は履物を脱がずに礼堂に立ち入って本尊を礼拝することができます。これは、日常的に多くの参拝者を受け入れる札所寺院にしばしば見られる建築様式です。
    内陣の床は畳敷き、天井は格天井です。背面中央に須弥壇を置き、その上に荘厳な大型の御厨子を安置して本尊を祀ります。

  • 本堂<br />大香炉に見られるのがもうひとつの寺紋である「二引きに桜」です。<br />つまり、仁和寺と同じ寺紋です。

    本堂
    大香炉に見られるのがもうひとつの寺紋である「二引きに桜」です。
    つまり、仁和寺と同じ寺紋です。

  • 本堂<br />内外の鮮やかな極彩色の装飾絵や彫刻は江戸時代中後期に施されたものだそうです。創建当時は意外と質素な堂宇だったのかもしれません。現在の彩色は個人的には日光東照宮を彷彿とさせるものがあります。<br />尚、顔料の色褪せや剥落がないのは、2005年から3年かけて彩色が復元されたからです。<br />本堂外周上部には、龍や獏、象、鳳凰、麒麟などが躍動感溢れる姿で描かれています。内陣中央柱間にかかる虹梁形飛貫(こうりょうがたひぬき)には、繊細に刻まれた飛天と迦陵頻伽(かりょうびんが)が舞います。135の格間を持つ格天井には、雲龍図や花鳥図、法具などが描かれ、同じ絵柄はひとつとしてないそうです。絵柄の傾向としては、鳥類が最多で、次に多いのは迦陵頻伽と飛天。中山寺には舞楽を担う楽所は無いにも関わらず、迦陵頻伽やだ太鼓などが描かれているのは、大坂四天王寺の天王寺楽所から楽人を招いて舞楽が行われていたという事情が関係していると推測されています。<br />作者は不詳ですが、内陣の中央柱間に置かれた彫刻の背面に朱書銘が残されており、江戸時代の豪商 鴻池家が施主として記されているそうです。

    本堂
    内外の鮮やかな極彩色の装飾絵や彫刻は江戸時代中後期に施されたものだそうです。創建当時は意外と質素な堂宇だったのかもしれません。現在の彩色は個人的には日光東照宮を彷彿とさせるものがあります。
    尚、顔料の色褪せや剥落がないのは、2005年から3年かけて彩色が復元されたからです。
    本堂外周上部には、龍や獏、象、鳳凰、麒麟などが躍動感溢れる姿で描かれています。内陣中央柱間にかかる虹梁形飛貫(こうりょうがたひぬき)には、繊細に刻まれた飛天と迦陵頻伽(かりょうびんが)が舞います。135の格間を持つ格天井には、雲龍図や花鳥図、法具などが描かれ、同じ絵柄はひとつとしてないそうです。絵柄の傾向としては、鳥類が最多で、次に多いのは迦陵頻伽と飛天。中山寺には舞楽を担う楽所は無いにも関わらず、迦陵頻伽やだ太鼓などが描かれているのは、大坂四天王寺の天王寺楽所から楽人を招いて舞楽が行われていたという事情が関係していると推測されています。
    作者は不詳ですが、内陣の中央柱間に置かれた彫刻の背面に朱書銘が残されており、江戸時代の豪商 鴻池家が施主として記されているそうです。

  • 本堂<br />本尊にはカヤの一本造り、素木から彫られた像高151.3cmの十一面観音菩薩立像(平安時代初期(弘仁時代):重文)を祀り、古代インドのアユジャ国王妃シュリマーラー(勝鬘夫人:しょうまんぶにん)が女人救済を悲願した故事に基づき、自ら浄写された等身大の尊像であり、特に懐胎・分娩の苦を除くと伝わります。インド・アーリア系の御顔立ち、豊満な体、肉感的な腰のヒネリやしなやかな左手、優美な指の曲げ方など本邦の仏像には珍しい異国的なお姿をなされています。後に聖徳太子が『勝鬘経義疏(しょうまんぎょうぎしょ)』を記して『勝鬘経』の功徳を説かれたことからも、中山寺の観音さまの霊徳を窺い知ることができます。<br />また、両脇侍は共に後白河法皇の寄進とされる十一面観世音菩薩であり、三体合わせると三十三面となり、西国三十三所各札所の観音菩薩を象徴したものとされます。本尊を含めた三尊は秘仏になっていますが、正月三ヶ日と毎月18日には御開帳されます。<br />十一面観音菩薩立像の画像は中山寺のHPを参照願います。<br />https://www.nakayamadera.or.jp/about/anzan.html

    本堂
    本尊にはカヤの一本造り、素木から彫られた像高151.3cmの十一面観音菩薩立像(平安時代初期(弘仁時代):重文)を祀り、古代インドのアユジャ国王妃シュリマーラー(勝鬘夫人:しょうまんぶにん)が女人救済を悲願した故事に基づき、自ら浄写された等身大の尊像であり、特に懐胎・分娩の苦を除くと伝わります。インド・アーリア系の御顔立ち、豊満な体、肉感的な腰のヒネリやしなやかな左手、優美な指の曲げ方など本邦の仏像には珍しい異国的なお姿をなされています。後に聖徳太子が『勝鬘経義疏(しょうまんぎょうぎしょ)』を記して『勝鬘経』の功徳を説かれたことからも、中山寺の観音さまの霊徳を窺い知ることができます。
    また、両脇侍は共に後白河法皇の寄進とされる十一面観世音菩薩であり、三体合わせると三十三面となり、西国三十三所各札所の観音菩薩を象徴したものとされます。本尊を含めた三尊は秘仏になっていますが、正月三ヶ日と毎月18日には御開帳されます。
    十一面観音菩薩立像の画像は中山寺のHPを参照願います。
    https://www.nakayamadera.or.jp/about/anzan.html

  • 本堂<br />江戸時代中期の譜代大名 阿部正識(まさつね)が揮毫した扁額「救世閣(ぐぜかく)」が掲げられています。「救世」とは、世の人々を苦しみの中から救うこと、あるいは観世音菩薩そのものを指します。<br />また、阿部正識は武蔵忍藩主であり、忠秋系阿部家7代に当たります。幕府から重用され豊後守に就きましたが、病弱だったため幕府の役職に就くこともなく40歳で逝去されています。書や絵画に長けた大名だったそうです。

    本堂
    江戸時代中期の譜代大名 阿部正識(まさつね)が揮毫した扁額「救世閣(ぐぜかく)」が掲げられています。「救世」とは、世の人々を苦しみの中から救うこと、あるいは観世音菩薩そのものを指します。
    また、阿部正識は武蔵忍藩主であり、忠秋系阿部家7代に当たります。幕府から重用され豊後守に就きましたが、病弱だったため幕府の役職に就くこともなく40歳で逝去されています。書や絵画に長けた大名だったそうです。

  • 本堂<br />中山寺と豊臣秀吉・秀頼親子には深い繋がりがあります。秀吉はかねてより当山を信仰しており、朝鮮討伐の際に寄進したと伝わる宝塔が残されている事からもそれが窺えます。<br />寺伝によると、50歳を過ぎても世継ぎに恵まれなかった秀吉ですが、当山で熱心に祈願したところ秀頼を授かり、その崇拝は益々篤くなりました。ほどなく秀吉は病死しますが、秀頼は淀君と共に秀吉の供養と自身誕生のお礼参りに当山を訪れたそうです。その際、秀頼が「豊国大明神(秀吉に下賜された神号)」と書して奉納したとされる掛け軸が保管されています。<br />また、1603(慶長8)年には家老 片桐且元に命じ、戦火により荒廃していた伽藍の再建を行いました。これが現在の伽藍であり、往時の棟札が現存しています。

    本堂
    中山寺と豊臣秀吉・秀頼親子には深い繋がりがあります。秀吉はかねてより当山を信仰しており、朝鮮討伐の際に寄進したと伝わる宝塔が残されている事からもそれが窺えます。
    寺伝によると、50歳を過ぎても世継ぎに恵まれなかった秀吉ですが、当山で熱心に祈願したところ秀頼を授かり、その崇拝は益々篤くなりました。ほどなく秀吉は病死しますが、秀頼は淀君と共に秀吉の供養と自身誕生のお礼参りに当山を訪れたそうです。その際、秀頼が「豊国大明神(秀吉に下賜された神号)」と書して奉納したとされる掛け軸が保管されています。
    また、1603(慶長8)年には家老 片桐且元に命じ、戦火により荒廃していた伽藍の再建を行いました。これが現在の伽藍であり、往時の棟札が現存しています。

  • 本堂<br />中山寺伽藍を焼き尽くした兵火の原因は、本能寺の変の4年前に謀反を起こした荒木村重の焼き討ちでした。村重は信長に初めて弓を引いた家臣として歴史に名を刻んだ勇猛な武将です。中山寺のある宝塚市に隣接する伊丹市有岡城に篭城し、1年間に亘って抗戦しました。 しかし、側近の中川清秀と高山右近が寝返り、追い込まれた村重は安芸の毛利家の元に亡命しました。憤懣やるかたない信長は、怒りの矛先を城に残された女房衆に向け、122人を惨殺しました。その時の様子を信長の伝記『信長公記』は次のように記しています。 <br />「122人の女房一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、見る人目もくれ心も消えて、感涙押さえ難し。 これを見る人は、20日30日の間はその面影身に添いて忘れやらざる由にて候なり」。

    本堂
    中山寺伽藍を焼き尽くした兵火の原因は、本能寺の変の4年前に謀反を起こした荒木村重の焼き討ちでした。村重は信長に初めて弓を引いた家臣として歴史に名を刻んだ勇猛な武将です。中山寺のある宝塚市に隣接する伊丹市有岡城に篭城し、1年間に亘って抗戦しました。 しかし、側近の中川清秀と高山右近が寝返り、追い込まれた村重は安芸の毛利家の元に亡命しました。憤懣やるかたない信長は、怒りの矛先を城に残された女房衆に向け、122人を惨殺しました。その時の様子を信長の伝記『信長公記』は次のように記しています。
    「122人の女房一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、見る人目もくれ心も消えて、感涙押さえ難し。 これを見る人は、20日30日の間はその面影身に添いて忘れやらざる由にて候なり」。

  • 本堂<br />中山寺が荒木村重の乱による兵火で全焼したのは事実としても、何故村重が地元北摂の山岳寺院を焼き討ちしたのかが謎です。「荒木村重の乱」と言えば、判で押したように「有岡城籠城」のイメージが濃厚です。まるで村重が「毛利・大坂本願寺方に付くことに決めた。よって籠城する」と引き籠ったかのようなトラップに掛けられてしまっているのです。これは、『信長公記』の著者 太田牛一の視点で語られた「勝者が作った歴史」だからです。<br />実際は、織田軍の到達まで40日かかっており、この間、孤立して籠城を余儀無くされたのは塩川長満の方でした。摂津衆で唯一荒木方に従わない塩川氏をそのまま放置し、織田援軍が来るまで籠城することはあり得ません。『穴織宮壱拾要記』や考古資料が伝えるように、まず塩川氏を壊滅状態にし、その後、織田軍が大軍だったため「籠城モード」に切り替えたのです。つまり、塩川氏は村重に与しなかった為、荒木方から領内焼き討ちの「先制攻撃」を受けたものと思われます。<br />中山寺が塩川領にあったことは、乱勃発の直後に信長から発給された「禁制」、つまり「織田軍は塩川領域内で乱暴、陣取、竹木の伐採をしません」という覚書が中山寺に伝わっており、その宛名に「塩川領中所々」とあることから自明です。

    本堂
    中山寺が荒木村重の乱による兵火で全焼したのは事実としても、何故村重が地元北摂の山岳寺院を焼き討ちしたのかが謎です。「荒木村重の乱」と言えば、判で押したように「有岡城籠城」のイメージが濃厚です。まるで村重が「毛利・大坂本願寺方に付くことに決めた。よって籠城する」と引き籠ったかのようなトラップに掛けられてしまっているのです。これは、『信長公記』の著者 太田牛一の視点で語られた「勝者が作った歴史」だからです。
    実際は、織田軍の到達まで40日かかっており、この間、孤立して籠城を余儀無くされたのは塩川長満の方でした。摂津衆で唯一荒木方に従わない塩川氏をそのまま放置し、織田援軍が来るまで籠城することはあり得ません。『穴織宮壱拾要記』や考古資料が伝えるように、まず塩川氏を壊滅状態にし、その後、織田軍が大軍だったため「籠城モード」に切り替えたのです。つまり、塩川氏は村重に与しなかった為、荒木方から領内焼き討ちの「先制攻撃」を受けたものと思われます。
    中山寺が塩川領にあったことは、乱勃発の直後に信長から発給された「禁制」、つまり「織田軍は塩川領域内で乱暴、陣取、竹木の伐採をしません」という覚書が中山寺に伝わっており、その宛名に「塩川領中所々」とあることから自明です。

  • 本堂<br />「安産祈願」の由縁は、平安時代後期、8代目多田城主 源行綱の妻が不信心であったことから、中山寺の観音さまが「鐘の緒」をもって戒めたことが由来と伝わります。その後、夫婦は人も羨むほど仲睦まじくなったことから、子授かりの信仰や安産祈願に霊験ありと世間に伝わったようです。つまり、「鐘の緒」が女性の大役である出産の無事安泰を守っているということです。  <br />中山寺では、妊娠5ヶ月の戌の日に安産祈願を行い、授与されたお腹帯を巻く習慣があり、お腹帯を「「鐘の緒(かねのお)」と呼びます。「鐘の緒」は釣鐘を打ち鳴らすための大綱のことを言い、古くは、その鐘の緒を少しづつちぎり、安産のご利益を頂戴していたと伝わります。今日では、僧侶が「本尊 十一面観世音菩薩」と書き入れ、安産のご祈祷を施し、授与されます。<br />因みに、お腹帯には「〇年(干支)男または女」と書かれていますが、この逆の性別の子供が生まれるというジンクスがあります。うちの子の時はどちらだったのか覚えがありません。今日では、お腹帯は縁起物として神棚に奉納されたままで、もっぱら「電磁波防止腹帯」が重宝されているのだとか!? <br />川上道春著『宝塚の風土記』によると、上皇妃 美智子さまにも「鐘の緒」を贈られたとのことです。

    本堂
    「安産祈願」の由縁は、平安時代後期、8代目多田城主 源行綱の妻が不信心であったことから、中山寺の観音さまが「鐘の緒」をもって戒めたことが由来と伝わります。その後、夫婦は人も羨むほど仲睦まじくなったことから、子授かりの信仰や安産祈願に霊験ありと世間に伝わったようです。つまり、「鐘の緒」が女性の大役である出産の無事安泰を守っているということです。  
    中山寺では、妊娠5ヶ月の戌の日に安産祈願を行い、授与されたお腹帯を巻く習慣があり、お腹帯を「「鐘の緒(かねのお)」と呼びます。「鐘の緒」は釣鐘を打ち鳴らすための大綱のことを言い、古くは、その鐘の緒を少しづつちぎり、安産のご利益を頂戴していたと伝わります。今日では、僧侶が「本尊 十一面観世音菩薩」と書き入れ、安産のご祈祷を施し、授与されます。
    因みに、お腹帯には「〇年(干支)男または女」と書かれていますが、この逆の性別の子供が生まれるというジンクスがあります。うちの子の時はどちらだったのか覚えがありません。今日では、お腹帯は縁起物として神棚に奉納されたままで、もっぱら「電磁波防止腹帯」が重宝されているのだとか!? 
    川上道春著『宝塚の風土記』によると、上皇妃 美智子さまにも「鐘の緒」を贈られたとのことです。

  • 本堂<br />摂津は、京都や大和と瀬戸内海を結ぶ水上交通の要衝であり、古来より経済活動には重要な場所でした。特に、大阪湾が今よりも内陸へ進入していた時代において、北摂は武庫川の大三角州にある奥まった波静かな良港でした。寺領近くには「小浜」と言う名の宿場町もあり、瀬戸内海を旅してやって来た渡来人や商人が集る地域であり、新しい技術を内陸へ発信する基地でもありました。<br />こうした土地柄もあり、古代から中世への転換もこの地が起点となり、源頼朝をはじめ新田氏、足利氏、武田氏など、武家として活躍した清和源氏が勢力を伸ばしていく拠点となりました。その清和源氏の開祖に当たるのが第56代 清和天皇の曾孫に当たる源満仲でした。満仲は、2度に亘って国司を務めた摂津に土着し、住吉大社に参籠した時の神託により摂津の多田盆地を拠点とし、所領として開拓すると共に多くの郎党を養って武士団を形成しました。多田の地は、宝塚の北部、猪名川の上流に当たります。猪名川の下流域、現在の大阪府池田市や豊中市、兵庫県川西市や伊丹市、尼崎市には多くの渡来系の技術者が住み着き、船大工集団の猪名部氏をはじめ織物や酒造、鍛治などにも渡来人の伝承技術が残されています。また、猪名川上流は、杣(そま)の地で、ここの木材が猪名川を通じて大阪湾へ、そこから京都や奈良をはじめ各地へと運ばれました。更に猪名川上流には、多田銀銅山がありました。奈良の大仏の銅はここから運ばれたと伝えられており、豊臣秀吉の時代にはこの地の銀が大坂城の台所(財政)を潤したとされます。<br />聖徳太子が猪名川と武庫川の間に中山寺を創建し、第59代 宇多天皇が中山寺のすぐ西に清荒神を開山したのも、外国人接待所を兼ねた総合大学的役割を持たせた神社仏閣を建てることで、日本の国力を誇示する目的があったとしても不思議ではありません。

    本堂
    摂津は、京都や大和と瀬戸内海を結ぶ水上交通の要衝であり、古来より経済活動には重要な場所でした。特に、大阪湾が今よりも内陸へ進入していた時代において、北摂は武庫川の大三角州にある奥まった波静かな良港でした。寺領近くには「小浜」と言う名の宿場町もあり、瀬戸内海を旅してやって来た渡来人や商人が集る地域であり、新しい技術を内陸へ発信する基地でもありました。
    こうした土地柄もあり、古代から中世への転換もこの地が起点となり、源頼朝をはじめ新田氏、足利氏、武田氏など、武家として活躍した清和源氏が勢力を伸ばしていく拠点となりました。その清和源氏の開祖に当たるのが第56代 清和天皇の曾孫に当たる源満仲でした。満仲は、2度に亘って国司を務めた摂津に土着し、住吉大社に参籠した時の神託により摂津の多田盆地を拠点とし、所領として開拓すると共に多くの郎党を養って武士団を形成しました。多田の地は、宝塚の北部、猪名川の上流に当たります。猪名川の下流域、現在の大阪府池田市や豊中市、兵庫県川西市や伊丹市、尼崎市には多くの渡来系の技術者が住み着き、船大工集団の猪名部氏をはじめ織物や酒造、鍛治などにも渡来人の伝承技術が残されています。また、猪名川上流は、杣(そま)の地で、ここの木材が猪名川を通じて大阪湾へ、そこから京都や奈良をはじめ各地へと運ばれました。更に猪名川上流には、多田銀銅山がありました。奈良の大仏の銅はここから運ばれたと伝えられており、豊臣秀吉の時代にはこの地の銀が大坂城の台所(財政)を潤したとされます。
    聖徳太子が猪名川と武庫川の間に中山寺を創建し、第59代 宇多天皇が中山寺のすぐ西に清荒神を開山したのも、外国人接待所を兼ねた総合大学的役割を持たせた神社仏閣を建てることで、日本の国力を誇示する目的があったとしても不思議ではありません。

  • 本堂<br />裏側(北面)には『胎蔵界曼荼羅』が彫まれた大きな扁額が掲げられています。<br />曼荼羅とは簡単にいうと、密教の教えである仏の世界観を絵にしたものです。<br />仏の世界には「悟りの世界の胎蔵界」と「知恵の世界の金剛界」があり、『胎蔵界曼荼羅』は「大悲胎蔵曼荼羅」とも言われます。「大悲」とは、人間などの命あるものの苦しみを救う仏様の憐みの心。「胎蔵」とは、母親の胎内で子供を守り育てるという意味があります。 このような扁額を掲げているのは、秀頼を授かった豊臣秀吉の故事から江戸時代にも「子宝・安産祈願」が盛んだったことの証左です。<br />通常、『胎蔵界曼荼羅』と『金剛界曼荼羅』はセットですので、『金剛界曼荼羅』は内部に安置されているのでしょう。<br />菩薩をはじめ、森羅万象は全てこの中央に座る大日如来から生じています。中心の蓮の花には大日如来や菩薩が描かれています。人は誰でも仏になり得る性を持ち、迷いの心をかき消せば、心の内の菩提心が花開き、仏の世界が開かれるということを仏像を借りて具現したものです。中央に描かれている大日如来を初めとして、細かいものでは409体の仏、菩薩、明王、天部がグループ別に12区画に分けられます。これは、命ある生物が大日如来に導かれ、悟りの世界である中心へ向かって収束する様を表しています。

    本堂
    裏側(北面)には『胎蔵界曼荼羅』が彫まれた大きな扁額が掲げられています。
    曼荼羅とは簡単にいうと、密教の教えである仏の世界観を絵にしたものです。
    仏の世界には「悟りの世界の胎蔵界」と「知恵の世界の金剛界」があり、『胎蔵界曼荼羅』は「大悲胎蔵曼荼羅」とも言われます。「大悲」とは、人間などの命あるものの苦しみを救う仏様の憐みの心。「胎蔵」とは、母親の胎内で子供を守り育てるという意味があります。 このような扁額を掲げているのは、秀頼を授かった豊臣秀吉の故事から江戸時代にも「子宝・安産祈願」が盛んだったことの証左です。
    通常、『胎蔵界曼荼羅』と『金剛界曼荼羅』はセットですので、『金剛界曼荼羅』は内部に安置されているのでしょう。
    菩薩をはじめ、森羅万象は全てこの中央に座る大日如来から生じています。中心の蓮の花には大日如来や菩薩が描かれています。人は誰でも仏になり得る性を持ち、迷いの心をかき消せば、心の内の菩提心が花開き、仏の世界が開かれるということを仏像を借りて具現したものです。中央に描かれている大日如来を初めとして、細かいものでは409体の仏、菩薩、明王、天部がグループ別に12区画に分けられます。これは、命ある生物が大日如来に導かれ、悟りの世界である中心へ向かって収束する様を表しています。

  • 本堂<br />堂宇の四方にはこのように吊り灯篭が巡らされると共に華やかな極彩色の絵が描かれており、ワタリガニや鹿、豹、蓮、牛、亀などの動物が雲間に見え隠れし、それらをぼんやりと眺めているだけでも心が癒されます。<br />本殿裏側には高台があり、そこから眺めるのが一番です。

    本堂
    堂宇の四方にはこのように吊り灯篭が巡らされると共に華やかな極彩色の絵が描かれており、ワタリガニや鹿、豹、蓮、牛、亀などの動物が雲間に見え隠れし、それらをぼんやりと眺めているだけでも心が癒されます。
    本殿裏側には高台があり、そこから眺めるのが一番です。

  • 本堂<br />中山寺をお参りして心地いい理由のひとつには、喫煙所以外、境内が全面禁煙になっていることです。境内のベンチの横に灰皿が設えてあり、ベンチでは喫煙を認めている札所は少なくありません。それで喫煙者もベンチは免罪符のように思い込み、禁煙者を横目にベンチを独占しています。ここが安産祈願の妊婦さんやお宮参りの乳児などが訪れる寺院という性格もあるのでしょうが、人にやさしいお寺と言えます。

    本堂
    中山寺をお参りして心地いい理由のひとつには、喫煙所以外、境内が全面禁煙になっていることです。境内のベンチの横に灰皿が設えてあり、ベンチでは喫煙を認めている札所は少なくありません。それで喫煙者もベンチは免罪符のように思い込み、禁煙者を横目にベンチを独占しています。ここが安産祈願の妊婦さんやお宮参りの乳児などが訪れる寺院という性格もあるのでしょうが、人にやさしいお寺と言えます。

  • 本堂<br />屋根の頂にある鯱瓦には、鱗ではなく蓮華の花があしらわれています。<br />寺院なので鴟尾(しび)と言うべきかもしれません。<br />「荒木村重の乱」の記述に登場した塩川氏については、長満の息子 国満が1523年に中山寺と清澄寺(清荒神)の境界争いを裁定した記録が残されています。<br />これは南北朝期の1363年に中山寺と清澄寺の間で争われた「山林の境界紛争」が、図らずも160年後に再燃した事件でした。国満は両寺の提出した証書を検討した上、結局、1363年における「多田院政所 佐々木道誉」による裁定通りであるとして、今回も中山寺側の勝訴を下しました。<br />この時代は、塩川氏が事実上、弱体化した多田院の権限を代行しており、多田院の末社であった両寺を支配していたことが窺えます。

    本堂
    屋根の頂にある鯱瓦には、鱗ではなく蓮華の花があしらわれています。
    寺院なので鴟尾(しび)と言うべきかもしれません。
    「荒木村重の乱」の記述に登場した塩川氏については、長満の息子 国満が1523年に中山寺と清澄寺(清荒神)の境界争いを裁定した記録が残されています。
    これは南北朝期の1363年に中山寺と清澄寺の間で争われた「山林の境界紛争」が、図らずも160年後に再燃した事件でした。国満は両寺の提出した証書を検討した上、結局、1363年における「多田院政所 佐々木道誉」による裁定通りであるとして、今回も中山寺側の勝訴を下しました。
    この時代は、塩川氏が事実上、弱体化した多田院の権限を代行しており、多田院の末社であった両寺を支配していたことが窺えます。

  • 本堂<br />鬼瓦の先には龍頭があります。<br />古来より「星下り」や「ここのかび」と親しまれている毎年8月9日に開催される「中山寺星下り」は、花山法皇が西国三十三所観音巡礼を復興した頃、大供養を行っていた弁光僧正の前に観音様が現れたことから継承されている霊話です。<br />江戸時代初期、播州三木の卜部左近という修行者が、「お姿を現して下さいますように」と観音堂で一心に真言を唱えていると、雅楽を奏でる音が聞こえ始め、空を見上げると三十三所の観音様が居られました。そして星が降るように下りてこられ、入られた所に左近も続いて入ると、そこは現世の百倍はあろうかという明るさの極楽浄土でした。<br />左近は妻子にもその姿を見せたいと思い、中山寺に草庵を構えて妻子と共に日夜真言を唱えていると、三年後に妻子も観音様のお姿を拝見することが出来たことから中山寺に観音様が集まるという信仰は益々盛んになり今に続いています。<br />8月9日に中山寺にお参りすると、西国三十三所観音霊場を全てお参りしたことになり、また「四万六千日」お参りしたのと同じ功徳があると言われています。この数の由来は一説に、一升に米粒が四万六千入り、「一升」は「一生」と同じ発音から、四万六千は一生を意味すると伝わります。

    本堂
    鬼瓦の先には龍頭があります。
    古来より「星下り」や「ここのかび」と親しまれている毎年8月9日に開催される「中山寺星下り」は、花山法皇が西国三十三所観音巡礼を復興した頃、大供養を行っていた弁光僧正の前に観音様が現れたことから継承されている霊話です。
    江戸時代初期、播州三木の卜部左近という修行者が、「お姿を現して下さいますように」と観音堂で一心に真言を唱えていると、雅楽を奏でる音が聞こえ始め、空を見上げると三十三所の観音様が居られました。そして星が降るように下りてこられ、入られた所に左近も続いて入ると、そこは現世の百倍はあろうかという明るさの極楽浄土でした。
    左近は妻子にもその姿を見せたいと思い、中山寺に草庵を構えて妻子と共に日夜真言を唱えていると、三年後に妻子も観音様のお姿を拝見することが出来たことから中山寺に観音様が集まるという信仰は益々盛んになり今に続いています。
    8月9日に中山寺にお参りすると、西国三十三所観音霊場を全てお参りしたことになり、また「四万六千日」お参りしたのと同じ功徳があると言われています。この数の由来は一説に、一升に米粒が四万六千入り、「一升」は「一生」と同じ発音から、四万六千は一生を意味すると伝わります。

  • 本堂<br />梶井基次郎著『檸檬』は国語の教科書にも載せられていたのでご存知の方も多いと思います。ただのレモン1個がなんだかものすごい物のように書かれ、件の「檸檬」は京都の丸善という本屋さんのとある本の上に置かれます。<br />実は、この『檸檬』には「中山寺の星下り」が登場します。<br /> 「私はまたあの花火という奴が好きになった。花火そのものは第二段として、あの安っぽい絵具で赤や紫や黄や青や、様ざまの縞模様を持った花火の束、中山寺の星下り、花合戦、枯れすすき。それから鼠花火というのは一つずつ輪になっていて箱に詰めてある。そんなものが変に私の心を唆った。」<br />因みに、ここに登場する「中山寺の星下り」は花火の種類のことです。つまり、「中山寺の星下り」は花火の名称にされるほど全国ネットの行事であることの証左と言えます。

    本堂
    梶井基次郎著『檸檬』は国語の教科書にも載せられていたのでご存知の方も多いと思います。ただのレモン1個がなんだかものすごい物のように書かれ、件の「檸檬」は京都の丸善という本屋さんのとある本の上に置かれます。
    実は、この『檸檬』には「中山寺の星下り」が登場します。
    「私はまたあの花火という奴が好きになった。花火そのものは第二段として、あの安っぽい絵具で赤や紫や黄や青や、様ざまの縞模様を持った花火の束、中山寺の星下り、花合戦、枯れすすき。それから鼠花火というのは一つずつ輪になっていて箱に詰めてある。そんなものが変に私の心を唆った。」
    因みに、ここに登場する「中山寺の星下り」は花火の種類のことです。つまり、「中山寺の星下り」は花火の名称にされるほど全国ネットの行事であることの証左と言えます。

  • 本堂<br />中山寺の歴史年表をまとめておきましょう。<br />【古代】<br />589年、聖徳太子により本最初の観音霊場として創建。住持には百済の僧 恵聡と恵便を迎えた。<br />750年、『続日本紀(巻十八)』によると、5月24日に地震による火災で塔などが焼失。<br />寺伝には、宇多上皇が中山寺独鈷尾の別所院に滞在していたと記されている。<br />【中世】<br />平安時代末、西国三十三所観音巡礼が形成され、伝承では花山天皇が中山寺の石室に納められていた閻魔大王の宝印を取り出し、観音巡礼を復興。 <br />寺伝には、1185年に安徳天皇を匿った疑いで焼き討ちされたが、後に嫌疑が晴れて源頼朝が再興し、源氏累代の祈願所となったと記されている。<br />1234年、延暦寺大成就院領に仲山寺が挙げられた。<br />1335年、後醍醐天皇中宮の安産祈願が行われた。<br />1363年、摂津 清澄寺(現、清荒神)と境界争いが勃発。 多田院政所 佐々木道誉の裁定により中山寺が勝訴。<br />1423年、火災で一部焼失。<br />1510年の時点では奈良 西大寺の末寺だった多田院の末寺となっていた。<br />1523年、清澄寺と再び境界争い。塩川国満の裁定により中山寺が勝訴。<br />【近世】<br />1578年、伊丹有岡城城主 荒木村重の乱による兵火で全山焼失。 <br />1603~5年、豊臣秀頼の命により、家老 片桐且元が再建。(奉行 桑山重政 )<br />再建されるまで中山寺は現在の「中山」の8合目辺りにあり、「山岳寺院」だった。<br />1646年、徳川家光の治世において山門などの修理がなされた。<br />1674年、仁和寺から子院に院号を与えられ、子院が交代で中山寺村の庄屋を務めた。<br />【近代】<br />明治天皇誕生の際に生母の中山慶子が祈願したことから日本唯一の明治天皇勅願所となり、安産祈願の信仰が盛んになった。<br />真言宗御室派の準別格本山となった。 <br />1947年、御室派から離脱して真言宗中山寺派を設立。 <br />1965年、本堂の解体修理。<br />2008年、本堂の修復。

    本堂
    中山寺の歴史年表をまとめておきましょう。
    【古代】
    589年、聖徳太子により本最初の観音霊場として創建。住持には百済の僧 恵聡と恵便を迎えた。
    750年、『続日本紀(巻十八)』によると、5月24日に地震による火災で塔などが焼失。
    寺伝には、宇多上皇が中山寺独鈷尾の別所院に滞在していたと記されている。
    【中世】
    平安時代末、西国三十三所観音巡礼が形成され、伝承では花山天皇が中山寺の石室に納められていた閻魔大王の宝印を取り出し、観音巡礼を復興。
    寺伝には、1185年に安徳天皇を匿った疑いで焼き討ちされたが、後に嫌疑が晴れて源頼朝が再興し、源氏累代の祈願所となったと記されている。
    1234年、延暦寺大成就院領に仲山寺が挙げられた。
    1335年、後醍醐天皇中宮の安産祈願が行われた。
    1363年、摂津 清澄寺(現、清荒神)と境界争いが勃発。 多田院政所 佐々木道誉の裁定により中山寺が勝訴。
    1423年、火災で一部焼失。
    1510年の時点では奈良 西大寺の末寺だった多田院の末寺となっていた。
    1523年、清澄寺と再び境界争い。塩川国満の裁定により中山寺が勝訴。
    【近世】
    1578年、伊丹有岡城城主 荒木村重の乱による兵火で全山焼失。
    1603~5年、豊臣秀頼の命により、家老 片桐且元が再建。(奉行 桑山重政 )
    再建されるまで中山寺は現在の「中山」の8合目辺りにあり、「山岳寺院」だった。
    1646年、徳川家光の治世において山門などの修理がなされた。
    1674年、仁和寺から子院に院号を与えられ、子院が交代で中山寺村の庄屋を務めた。
    【近代】
    明治天皇誕生の際に生母の中山慶子が祈願したことから日本唯一の明治天皇勅願所となり、安産祈願の信仰が盛んになった。
    真言宗御室派の準別格本山となった。
    1947年、御室派から離脱して真言宗中山寺派を設立。
    1965年、本堂の解体修理。
    2008年、本堂の修復。

  • 青龍塔<br />江戸時代の中山寺『伽藍古絵図』には五重塔が描かれていますが、寿永の乱や1578(天正6)年に始まった織田信長と伊丹城主 荒木村重の「有岡城の戦い」の兵火を受けて多宝塔や五重塔を含む全山が灰燼に化しました。やがて1603(慶長8)年に豊臣秀頼が片桐且元に命じて本堂や護摩堂、阿弥陀堂などの伽藍を再建しましたが、その時には多宝塔や五重塔は再建されませんでした。<br />近年の再興の気運の高まりと、中山寺管長の「大型木造寺院建築の伝統技術を後世に伝えることがお寺の使命」との思いにより、 2009年に再建プロジェクトを立ち上げ、株式会社MIKI建築設計事務所と株式会社能勢建築構造研究所の共同設計により、大成建設株式会社の施工により2016年に落慶し、「青龍塔」と名付けられました。<br />構造は完全な伝統工法による木造ですが、現行建築法規における基準、耐震姓をクリアしており、塔の地中は10mにも及ぶ堅牢な鉄筋コンクリート式の基礎がなされています。大願塔と並び、今後の中山寺のシンボルとなることでしょう。

    青龍塔
    江戸時代の中山寺『伽藍古絵図』には五重塔が描かれていますが、寿永の乱や1578(天正6)年に始まった織田信長と伊丹城主 荒木村重の「有岡城の戦い」の兵火を受けて多宝塔や五重塔を含む全山が灰燼に化しました。やがて1603(慶長8)年に豊臣秀頼が片桐且元に命じて本堂や護摩堂、阿弥陀堂などの伽藍を再建しましたが、その時には多宝塔や五重塔は再建されませんでした。
    近年の再興の気運の高まりと、中山寺管長の「大型木造寺院建築の伝統技術を後世に伝えることがお寺の使命」との思いにより、 2009年に再建プロジェクトを立ち上げ、株式会社MIKI建築設計事務所と株式会社能勢建築構造研究所の共同設計により、大成建設株式会社の施工により2016年に落慶し、「青龍塔」と名付けられました。
    構造は完全な伝統工法による木造ですが、現行建築法規における基準、耐震姓をクリアしており、塔の地中は10mにも及ぶ堅牢な鉄筋コンクリート式の基礎がなされています。大願塔と並び、今後の中山寺のシンボルとなることでしょう。

  • 護摩堂<br />1603(慶長8)年に豊臣秀頼が再建した中山寺で最古の建物で、桃山時代の僧堂様式を遺した貴重な堂宇として県指定文化財になっています。<br />扁額「五大尊」には「紫の雲の峰々 中山の衆生たすくる五大尊」と書かれており、堂宇には不動明王をはじめとする五大明王が祀られています。<br />本尊は、平安時代後期作の不動明王で、矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制た迦童子(せいたかどうじ)を脇侍に従えます。また、須弥壇の上には、降三世(ごうざんぜ)・軍茶利(ぐんだり)・大威徳(だいいとく)・金剛夜叉(こんごうやしゃ)の四大明王と中尊の不動明王と併せて五大明王の形式をとっています。<br />また、近畿三十六不動霊場の札所でもあります。

    護摩堂
    1603(慶長8)年に豊臣秀頼が再建した中山寺で最古の建物で、桃山時代の僧堂様式を遺した貴重な堂宇として県指定文化財になっています。
    扁額「五大尊」には「紫の雲の峰々 中山の衆生たすくる五大尊」と書かれており、堂宇には不動明王をはじめとする五大明王が祀られています。
    本尊は、平安時代後期作の不動明王で、矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制た迦童子(せいたかどうじ)を脇侍に従えます。また、須弥壇の上には、降三世(ごうざんぜ)・軍茶利(ぐんだり)・大威徳(だいいとく)・金剛夜叉(こんごうやしゃ)の四大明王と中尊の不動明王と併せて五大明王の形式をとっています。
    また、近畿三十六不動霊場の札所でもあります。

  • 青龍塔<br />その色彩から「青龍塔」と名付けられた通り、日本では例を見ない群青色であることが最大の特徴です。青色は仏の知恵を表し、「青龍塔」の名は、智恵を備え、東西南北を司る4神のうち東方を司る青龍が仏塔、即ち仏法を守る姿を表します。また、初層の本屋根の下に「裳階(もこし)」と呼ばれる庇があるのも特徴です。<br />金色の相輪までスラッと延びた美しいプロフィールもさることながら、遠目からでも視覚に入る群青色の五重塔はとても斬新です。垂木や組物などは群青色に塗られ、近くから見上げると空の青さに溶け込むように感じられます。

    青龍塔
    その色彩から「青龍塔」と名付けられた通り、日本では例を見ない群青色であることが最大の特徴です。青色は仏の知恵を表し、「青龍塔」の名は、智恵を備え、東西南北を司る4神のうち東方を司る青龍が仏塔、即ち仏法を守る姿を表します。また、初層の本屋根の下に「裳階(もこし)」と呼ばれる庇があるのも特徴です。
    金色の相輪までスラッと延びた美しいプロフィールもさることながら、遠目からでも視覚に入る群青色の五重塔はとても斬新です。垂木や組物などは群青色に塗られ、近くから見上げると空の青さに溶け込むように感じられます。

  • 青龍塔<br />塔高は28.27m(相輪上端)と五重塔にしてはやや低目ですが、スリムなプロポーションを誇ります。五重塔の再建に当たり往時の姿を窺い知ることができなかったため、京都府木津川市の国宝 海住山寺五重塔のプロフィールと初重に施された裳階、そして広島県福山市の国宝 明王院五重塔の組物やディテールや垂木の間隔を決定する枝割などを参考に設計されました。<br />裳階とは、建物を風雨から守るための屋根であり、塔の外観を美しく見せる効果もあります。一見、六層に見えるのはこのためで、裳階付きの五重塔は海住山寺や法隆寺などにしか見られない希少な様式です。

    青龍塔
    塔高は28.27m(相輪上端)と五重塔にしてはやや低目ですが、スリムなプロポーションを誇ります。五重塔の再建に当たり往時の姿を窺い知ることができなかったため、京都府木津川市の国宝 海住山寺五重塔のプロフィールと初重に施された裳階、そして広島県福山市の国宝 明王院五重塔の組物やディテールや垂木の間隔を決定する枝割などを参考に設計されました。
    裳階とは、建物を風雨から守るための屋根であり、塔の外観を美しく見せる効果もあります。一見、六層に見えるのはこのためで、裳階付きの五重塔は海住山寺や法隆寺などにしか見られない希少な様式です。

  • 青龍塔<br />心柱には岡山県美作市にある大野神社の樹齢400年の檜を用い、その他の材には吉野檜を用い、日本建築の伝統的な木工技法により再建されています。心柱を大日如来と捉え、心柱を背にして東は阿しゅく如来、南は宝生如来、西は無量寿如来、北は不空成就如来の金剛界五仏を祀っています。<br />また、寺院建築には欠かせない風鐸や小口錺金物金物類、瓦には伝統的な匠の技を受け継いでいます。美しいプロポーションの要となる軒反り、垂木の枝割等もいい仕事をしています。

    青龍塔
    心柱には岡山県美作市にある大野神社の樹齢400年の檜を用い、その他の材には吉野檜を用い、日本建築の伝統的な木工技法により再建されています。心柱を大日如来と捉え、心柱を背にして東は阿しゅく如来、南は宝生如来、西は無量寿如来、北は不空成就如来の金剛界五仏を祀っています。
    また、寺院建築には欠かせない風鐸や小口錺金物金物類、瓦には伝統的な匠の技を受け継いでいます。美しいプロポーションの要となる軒反り、垂木の枝割等もいい仕事をしています。

  • 青龍塔<br />扁額には「青龍」と揮毫されています。<br />垂木の先端には赤色も塗られ、群青色と混ざって遠目には紫色に見えます。<br />

    青龍塔
    扁額には「青龍」と揮毫されています。
    垂木の先端には赤色も塗られ、群青色と混ざって遠目には紫色に見えます。

  • 青龍塔<br />塔高20m程の海住山寺五重塔の軒を支える組物は「二手先」ですが、寺側が設計事務所に求めた高さが30mだったことから、組物「三手先」や枝割は明王院の五重塔を参考にして補強することで技術的に解決しています。<br />つまり、2基の国宝の五重塔のいいとこ取りにより、プロポーションや組物が決められ、伝統工法である純木造で建立されました。

    青龍塔
    塔高20m程の海住山寺五重塔の軒を支える組物は「二手先」ですが、寺側が設計事務所に求めた高さが30mだったことから、組物「三手先」や枝割は明王院の五重塔を参考にして補強することで技術的に解決しています。
    つまり、2基の国宝の五重塔のいいとこ取りにより、プロポーションや組物が決められ、伝統工法である純木造で建立されました。

  • 青龍塔<br />全てが群青の彩色ではなく、高欄や桟唐戸、格狭間などは木材の美素仕上です。<br />また、地階には、ネパールのダルマキールティ僧院より請来された仏舎利(お釈迦様のお骨)が祀られています。

    青龍塔
    全てが群青の彩色ではなく、高欄や桟唐戸、格狭間などは木材の美素仕上です。
    また、地階には、ネパールのダルマキールティ僧院より請来された仏舎利(お釈迦様のお骨)が祀られています。

  • 青龍塔<br />各層の四隅には『釈迦涅槃図』さながらにバッタや蜻蛉、龍、蟹、蛸、蛙、ナマズ、バッタ、クワガタなどの生物を象った飾り瓦を載せています。これは棟梁の遊び心ということではなく、様々な生物が一体となって仏塔すなわち釈迦の仏法を末永く護ってもらいたいとの願いを具現化したものです。

    青龍塔
    各層の四隅には『釈迦涅槃図』さながらにバッタや蜻蛉、龍、蟹、蛸、蛙、ナマズ、バッタ、クワガタなどの生物を象った飾り瓦を載せています。これは棟梁の遊び心ということではなく、様々な生物が一体となって仏塔すなわち釈迦の仏法を末永く護ってもらいたいとの願いを具現化したものです。

  • 青龍塔<br />鬼瓦が2つ連なった先にある飾り瓦をズームアップすると、あらま~「中山寺」と書かれた丸いプレートを掲げた愛嬌いっぱいの「蛸」ではありませんか。

    青龍塔
    鬼瓦が2つ連なった先にある飾り瓦をズームアップすると、あらま~「中山寺」と書かれた丸いプレートを掲げた愛嬌いっぱいの「蛸」ではありませんか。

  • 青龍塔<br />こちらは「蟹」です。<br />細い手脚を瓦で作るのは難しかったでしょうね!<br />風雨に晒されて手脚がもげてしまわないか心配になりますね!!

    青龍塔
    こちらは「蟹」です。
    細い手脚を瓦で作るのは難しかったでしょうね!
    風雨に晒されて手脚がもげてしまわないか心配になりますね!!

  • 青龍塔<br />生きのいい飛び跳ねる「鯛」です。

    青龍塔
    生きのいい飛び跳ねる「鯛」です。

  • 青龍塔<br />こちらは「龍頭」ですが、これが「青龍」という訳ではありません。

    青龍塔
    こちらは「龍頭」ですが、これが「青龍」という訳ではありません。

  • 青龍塔<br />つがいの「鳥」です。<br />手前の鬼瓦の側面には「伽藍安穏」の文字が見られます。

    青龍塔
    つがいの「鳥」です。
    手前の鬼瓦の側面には「伽藍安穏」の文字が見られます。

  • 青龍塔<br />「バッタ」です。<br />今にも天空に向かって飛び立ちそうなほどリアルです。

    青龍塔
    「バッタ」です。
    今にも天空に向かって飛び立ちそうなほどリアルです。

  • 青龍塔<br />設置が不可欠な避雷針は最上部の相輪に内蔵されており、塔のスカイラインを邪魔しないデザインになっています。

    青龍塔
    設置が不可欠な避雷針は最上部の相輪に内蔵されており、塔のスカイラインを邪魔しないデザインになっています。

  • 青龍塔<br />相輪の下にも何かいます。<br />「鳥」でしょうか?<br /><br />

    青龍塔
    相輪の下にも何かいます。
    「鳥」でしょうか?

  • 青龍塔<br />ここにも何か潜んでいますね!<br />「猿」でしょうか?

    青龍塔
    ここにも何か潜んでいますね!
    「猿」でしょうか?

  • 青龍塔<br />ズームアップしてみると「鉄腕アトム」ではありませんか!?<br />漫画家 手塚治虫先生は、5歳から24歳までの約20年間を宝塚で過ごしました。先生は、1928(昭和3)年に大阪府豊中市に生まれ、宝塚歌劇のファンだった母 文子の影響で2歳の頃から宝塚歌劇を見て育ったそうです。その後、5歳の時に宝塚に引っ越し、その近所に宝塚スターの家があり、天津乙女らにかわいがられて育ちました。そうした所縁もあり、宝塚市では1994年に市立手塚治虫記念館をオープンしています。<br />しかし、今時棟梁の「遊び心」は通用しませんので、「アトム」はプロジェクトチーム員からアイデアとして提案され、承認された正式の飾り瓦だと思われます。<br />ネットをググってみましたが、「アトム」の記事はヒットしませんでした!<br />貴重な情報かも!!<br /><br />TVアニメの主題歌の歌詞を載せておきます。<br />作詞者が谷川俊太郎氏というのはあまり知られていないかもしれません。<br />「空を越えて ラララ 星のかなた<br />ゆくぞ アトム ジェットの限り<br />こころやさし ラララ 科学の子<br />十万馬力だ 鉄腕アトム ♪<br /><br />耳をすませ ラララ 目をみはれ<br />そうだ アトム 油断をするな<br />こころ正し ラララ 科学の子<br />七つの威力さ 鉄腕アトム」<br /><br />この続きは、萬福笑來 北摂宝塚③紫雲山 中山寺(後編)でお届けします。

    青龍塔
    ズームアップしてみると「鉄腕アトム」ではありませんか!?
    漫画家 手塚治虫先生は、5歳から24歳までの約20年間を宝塚で過ごしました。先生は、1928(昭和3)年に大阪府豊中市に生まれ、宝塚歌劇のファンだった母 文子の影響で2歳の頃から宝塚歌劇を見て育ったそうです。その後、5歳の時に宝塚に引っ越し、その近所に宝塚スターの家があり、天津乙女らにかわいがられて育ちました。そうした所縁もあり、宝塚市では1994年に市立手塚治虫記念館をオープンしています。
    しかし、今時棟梁の「遊び心」は通用しませんので、「アトム」はプロジェクトチーム員からアイデアとして提案され、承認された正式の飾り瓦だと思われます。
    ネットをググってみましたが、「アトム」の記事はヒットしませんでした!
    貴重な情報かも!!

    TVアニメの主題歌の歌詞を載せておきます。
    作詞者が谷川俊太郎氏というのはあまり知られていないかもしれません。
    「空を越えて ラララ 星のかなた
    ゆくぞ アトム ジェットの限り
    こころやさし ラララ 科学の子
    十万馬力だ 鉄腕アトム ♪

    耳をすませ ラララ 目をみはれ
    そうだ アトム 油断をするな
    こころ正し ラララ 科学の子
    七つの威力さ 鉄腕アトム」

    この続きは、萬福笑來 北摂宝塚③紫雲山 中山寺(後編)でお届けします。

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