2021/03/15 - 2021/03/15
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後編は梅林をメインにお届けします。本日、京都では桜の満開宣言が出されましたので、季節外れのレポになってしまいましたが…。
新型コロナを慮って混雑を避けるために日延べしたため、「なごり梅」の感は否めませんでした。しかし、梅花の香には癒されてまいりました。「梅が香」の言葉があるように、梅の魅力はやはり香りです。平安時代の王朝文学や江戸時代の民衆文芸にもその香りをたたえる言葉が散り嵌められています。
後半は、境内にある古墳などについて触れ、次回のレポになる奥之院周辺の磐座へのプロローグといたします。聖徳太子の中山寺創建にまつわる古墳時代の石室や石棺を紹介いたします。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 私鉄
-
子授け地蔵
本堂裏手の高台には一寸した広場があり、そこにひっそりと佇む小堂宇が子授け地蔵です。地蔵尊に「びんずる願布」という赤ちゃんのよだれ掛けのような願布を奉納し、子宝や安産を祈願します。
中山寺では圧倒的に安産祈願の参拝者が多いのですが、霊験あらたかなのか子宝祈願をされる方も多いようです。 -
ミツバツツジ
子授け地蔵の傍らで楚々と咲いています。
ツツジ科ツツジ属の落葉低木です。野趣に富み、素朴で可憐な雰囲気を放つ花木です。開花後、枝先に3枚の菱形をした葉を付けるのが名の由来です。
例年なら4~5月頃に咲きますが、今年は少し早いようです。
花言葉は「節制」「抑制のきいた生活」。痩せた尾根や岩場などの厳しい環境を好むことに由来します。神社仏閣に相応しいお花のようです。 -
不明の祠
境内マップに説明がない祠ですが、玉垣や石燈籠などからは信仰の篤さが窺えます。
瓦には「丸に三つ柏」紋があります。この紋は日本の10大家紋として定着しており、公家でも神道を司った卜部氏およびその末裔が用いています。
卜部氏で思い当たるのは「星下り伝説」の卜部左近です。
ひょっとすると、この祠は左近が寄進したものかもしれません。 -
不明の祠
瓦のズームアップです。
一見、三つ葉葵と見間違えそうです。 -
修行大師尊像
大師堂の右前方には修行大師像が祀られ、行脚姿の凛々しいお姿が拝めます。 -
厄丸大明神社
参道の石段を上った正面、大師堂の左隣に佇む小祠です。狛狐が鎮座してるので稲荷社と思いきや、「厄丸大明神社」とあります。奥之院では「厄神」明王を本尊としていますが、「厄丸」ではないため遥拝所でもなさそうです。
お稲荷さんとの違いは判りませんが、ネットで調べると「百丸」や「梅丸」、「城丸」など「〇丸」大明神というのが山ほどヒットしました。その地の特徴により、名称が異なるようです。ここは、奥之院が「疫病退散」にご利益のある「厄」神明王を祀っているため、「厄」丸大明神なのだと思います。 -
厄丸大明神社
手前左横に大理石製の立派な香炉台が安置されています。
香炉台の足となる邪鬼の表情が何とも言えません。
正面には梵字、それとこのマークは「桜に錨」ですから、海軍関係者からの寄進でしょうか?
奉納は「明治三十一年八月」と刻まれていますから、結構古いものです。 -
厄丸大明神社
神社の背後、石室と思しき入口の前に、まるで石室を封印するかのように地蔵尊が祀られています。 -
厄丸大明神社
この地蔵尊は何かの結界ということでしょうか?
何の説明もないため、「触らぬ神に祟りなし」と思い、これ以上深入りはしません。 -
本堂の屋根を見下ろします。
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大願塔
中山寺『参詣曼荼羅』には描かれているものの、現存していなかった建物がいくつかありました。そのひとつがこの大塔(多宝塔)です。かつての大塔は荒木村重の乱で焼失し、五重塔より一足早く、2007年に「大願塔」として鉄骨構造により落慶しました。
かつて建てられていた大塔の図面などが遺されていなかったこともあり、和歌山県根来寺の国宝 多宝塔を参考に設計されています。因みに、根来寺は1130年(平安時代後期)に創建された新義真言宗の寺院です。 -
大願塔
大願塔が建立されている場所は、かつて鎮守の杜があった場所です。ここは本堂よりも一段高くなっているため、シンボリックな塔が一層引立てられ、本堂から見上げると天空を覆うかのように翼を広げています。 -
大願塔
扁額には「大願」とあります。「大願」とは、仏や菩薩が人々を救うために立てた大きな誓願を言います。大日如来を祀る地上階には70余名を収容できる祈祷室が設けられており、地階には大部分が既存の石垣内に埋め込まれた永代供養の位牌室「妙音殿」があります。また、地階の一室には、仏の世界を描いたガラスモザイクが壁一面に配され、仏教の伝統とモダニズムが融合した異空間を演出しています。ガラスモザイクは縦3m、横16mの4枚で構成され、太陽と月をイメージすると共に赤と青を基調に仏の姿を描いています。これは西宮市在住のグラスアーティスト 三浦啓子さんがイタリアで2年間かけて制作された大作です。
大願塔は、信徒の永代供養の場として位牌の安置所になっている関係で、通常は非公開なのが残念です。 -
大願塔
柱間が5間あることから、正式には多宝塔の中でも「大塔」に属します。 通常の規模の多宝塔より巨大な上、丘陵に建つため、阪急電車やJR宝塚線の車内からもその雄姿が眺められます。
屋根は、桧皮葺のイメージを銅版で表現した芯反りとなっています。また、基壇や上層、下層、亀腹、相輪の絶妙な寸法比率により、美しいプロポーションを魅せています。 -
大願塔
禅寺ではないのですが、大願塔南西側の坪庭には枯山水庭園があります。
手前には三尊石を安置し、敷砂の表面に用具で付ける砂紋も本格的です。中山観音ですから観音さんと阿弥陀如来、勢至菩薩をなぞらえて組まれたものと思います。
奥は5個の石組がありますから、七五三石組に従えば左側にも7個の石組があるはずです。
極めつけは、借景が宝塚市内の鳥観図であることです。 -
福神社
鎮守社のようですが鳥居の横の石柱には「福神社」とあります。
小さいながらも桧皮葺の古色蒼然とした荘厳な構えの社です。 -
福神社
由緒は不明ですが、中山寺の境内地を守る鎮守社であることから、中山寺再建と同時か、その後の創建であると考えられます。彫り物も至って閑素です。
ここには鎮守神と山内七福神の恵美須神が祀られていると説明されていますが、小扉が3つあることから、祀られているのは3座であるのは自明です。もう1座を秘匿する必要があるということでしょうか?
とても謎めいた社です。
因みに、恵美須神は商売繁盛のご利益で有名です。 -
星の広場
中山寺境内の上方に広場があります。
この広場は白藤の棚が有名ですが、梅も数本咲いています。 -
星の広場 八重御所紅
梅は、香り立つ花が早春から春へと、一輪また一輪と咲く奥ゆかしい花木です。
御所紅は、難波性の一種であり、遅咲きですが香りがよいのが特徴です。 -
星の広場
後方に見える、広場を取り囲むように設えてあるのが藤棚です。 -
星の広場
八重咲のしだれ梅もあります。 -
星の広場 サンシュユ
中国原産のミズキ目ミズキ科の落葉小高木です。若葉が開くよりも早く咲くため、満開状態では黄金色に輝いて見え、別名「春黄金花(ハルコガネバナ)」と呼ばれます。反り返った花弁が4つある可憐な花です。
漢字名は「山茱萸」と書き、この音読みが和名の由来です。「茱萸」は、実がグミに見えることを意味し、秋にはグミに似た赤い実を付けます。「春黄金花」の名は植物学者 牧野富太郎博士が名付け親です。
江戸時代の享保年間に朝鮮経由で漢種の種子が日本に持ち込まれ、薬用植物として栽培されるようになったそうです。
花言葉は『耐久』『持続』『強健』『気丈な愛』『成熟した精神』 『尊敬』。
強い体と精神に因んだ花言葉が多く、「健全な精神は健全な肉体に宿る」という言葉に重なるものがあります。
水原秋櫻子がサンシュユの花の明るさと今にも雨を降らせそうな雲塊の暗さとを対比して詠んでいます。
「山茱萸に 疾風雲(はやてぐも)立つ その暗さ」 -
星の広場
広場の南端からは多宝塔越しに大阪市内までが一望できます。
写真では霞んで見難いですが、肉眼ではあべのハルカスも見られます。 -
梅林
中山寺と言えば阪神間屈指の梅の名所でも知られています。梅林の見頃は例年2月下旬~3月中旬で、毎年3月第1日曜日に「梅花祭」が催されます。中山寺西側の中山観音公園に千鳥紅梅や鹿児島紅梅、白加賀、玉梅、豊後梅、摩耶紅梅などの紅梅や白梅約千本が咲き誇ります。 -
梅林
境内の西側にある丘陵地、奥之院へ向かう参道の途中にあり、約1万平方mに広がります。山肌を覆い尽くすが如くの梅の花園は「一目千本」とも称され圧巻です。
この公園からは宝塚市内を一望することができ、目立つのは特徴的な形をした西宮市に聳える「甲山(かぶとやま)」です。 -
梅林
すり鉢状になった広場の中央に巨大な観音像があることから「観音公園」と言われます。 -
梅林
今回はコロナ禍という特殊事情もあり、強いて混雑する時期を外しての観梅となりました。梅林は中山の中腹にあるため平地より開花が若干遅いのですが、それでも「なごり梅」の感は否めません。この日は東京でも「桜の開花」が宣言されたくらいですから…。
それでも鶯のやさしい鳴き声に癒されました。 -
梅林
梅の花が終わった後も桜やツツジ、白い藤棚、蓮と四季折々の花が愛でられます。
また、奥之院にかけては秋の紅葉も見所です。 -
梅林
早咲きの河津桜が満開です。
梅と桜の競演が見られます。 -
梅林
謡曲『満中』や歌舞伎『菅原伝授手習鑑』は、平安中期に多田源氏満仲の信護を受けた時代の中山寺にまつわる美女丸と幸寿丸の哀話から創作されたものです。因みに、多田源氏源満仲は清和源氏の祖 源経基の嫡男です。
「主君の命令に逆らえず、我が子を身代わりに討って首を差し出す」という今では容認し難い近世初頭の武士道をモチーフとしています。悲しい物語ですが、主君と家臣の関係が重んじられる武士の生き方を説く逸話として世間に広まったようです。往時の中山寺は、皇室の崇信も篤く、安産祈願の霊場として源頼朝をはじめ武家・庶民からも深く信仰されていたようです。 -
梅林
武家社会では、戦乱が起こって血が絶えてしまってもお家の再興が出来るよう、必ず兄弟のうちの一人はお寺に出家させたそうです。お寺に入っていれば殺されることはありませんし、不幸にも戦に負けてお家が滅んだ際には、家臣達が探しに来て、その遺された血統を担いでお家を復興しました。また、お家にしてみれば、自分等の犯した殺生ならびに殺された家来の菩提を弔う人物が一族に不可欠だったようです。つまり、出家させた息子はお家に欠かせない存在だという、ある意味矛盾した身勝手な考え方にも思えます。しかし、断腸の思いで出家させた親の身になって考えると、武士になりたかったからと仏門の勉強をせずに武芸に現を抜かすようでは「死んでしまえ~」となるのもごもっともな話です。 -
梅林
謡曲『満中』をダイジェストで紹介しておきます。
北部摂津国を治める多田源氏の大将 源満仲の三男 美女丸は、素行が悪く、人を困らせては喜んでいました。それを見かねた満中は、僧侶にしようと中山寺の善観和尚へ預けました。しかし、若宮は修行を怠り、お経も読まず、学問にも励まず、武芸にばかり心を入れていました。 -
梅林
時が経ち、満中は15才になった若宮を呼び寄せ、修行の様子を尋ねました。しかしお経すら満足に読むことができず、満仲は怒り心頭に達し、その場で手打ちにしようとしました。その時、すがりついて諫めたのが家臣 藤原仲光でした。満仲は仲光に若宮を討てと命じ、その場を立ち去りました。しかし、仲光は主君の子を斬ることがでず、我が子である幸寿丸からの申し出もあり、断腸の思いで身代わりに斬首し、若宮を密かに比叡山へ匿いました。
幸寿丸の辞世の句「君がため 命に代える 後の世の やみじを照らせ 山の端の月」 -
梅林
その後、比叡山の恵心僧都は、美女丸を伴って満仲の館を訪ね、幸寿丸が身代わりになったことを明かし、美女丸の贖罪を請いました。満仲も心解けて酒宴を催せば、仲光も喜んで舞いながらも我が子の姿がそこにないのを悲しむのでした。この後、美女丸は再び出家して悔い改め、修行に励んで名僧 源賢僧都となり、幸寿丸の菩提を弔うため小童寺を建立しました。
そこには現在も美女丸と幸寿丸、仲光のお墓が仲良く並んでいます。 -
梅林
お腹帯「鐘の緒」の由来となった多田行綱のその後が気になったので調べてみました。
多田行綱は平安時代後期に台頭した清和源氏のうち摂津多田荘(川西市)を本拠とした多田源氏の嫡流です。源満仲の長子 頼光から7代目の当主で、血筋の上では源頼朝の河内源氏より正嫡の名門で、後白河法皇の北面武士を務めました。先祖の頼光は大江山の酒呑童子討伐や土蜘蛛退治で名を馳せましたが、一方で関白 藤原兼家や摂政 藤原道長に莫大な貢ぎ物をした世渡り上手としても知られています。その血が行綱にも流れていたのか、当初は平氏討伐に与しましたが、後に平氏に寝返りました。
源満仲の密告で藤原氏の独占的地位が確立した安和の変(969(安和2)年)以来、清和源氏は摂関家と結び付いて勢力を拡大しましたが、保元・平治の乱でその勢力を失い、白河・鳥羽上皇と結び付いた伊勢平氏が台頭するようになりました。清和源氏の台頭を嫌った白河上皇は伊勢平氏の平正盛を、鳥羽上皇は正盛の子 忠盛を重用しました。
その後、忠盛の嫡男 清盛は、後白河上皇の院政下で大納言になりました。やがて平滋子が産んだ高倉帝に譲位すると、平家が主要な官位を独占し、福原に都を造営して宋との交易で栄華を極めました。しかし建春門院滋子が没すると清盛と後白河法皇院政派との対立が激しくなりました。 -
梅林
1177(安元3)年、多田行綱は平清盛に後白河法皇周辺が平氏一門を排斥するクーデターを計画している旨を密告しました。行綱は、院近臣の藤原成親らから反平氏の大将を頼まれたものの、平氏の強勢と院近臣の醜態から計画の無謀さを悟り、寝返ったのです。これが世に言う「鹿ケ谷の変」です。疎遠だった平氏にここ一番で寝返る当たり、行綱の時勢眼と機敏さは見事です。行綱はその恩賞として清盛から讃岐国に知行6万石を賜り、屋島ノ城に移ったと伝わります。
行綱を調べていて興味深かったのは、一ノ谷の源平合戦における 「鵯越の逆落とし」の件です。『平家物語』や『吾妻鏡』は源義経の鵯越の逆落としで勝利したと語りますが、九条兼実の日記『玉葉』では行綱が山手より攻め寄せて前線に躍り出て突破口を開き、勝利したと語っています。前者は「勝者の作った歴史」と見れば、土地勘に富んだ行綱が先陣を切って大車輪の活躍をしたと考える方が自然です。 -
梅林
多田行綱が時勢眼に長けていたことを証左するのが変わり身の早さです。木曽義仲が上洛するとこれに協力し、義仲の軍勢が京で狼藉を働いて法皇との仲が悪くなると義仲に敵対し、源義経が攻め上ってくるとその主力となって平氏を滅ぼす戦いに貢献しました。そして義経が頼朝から追放されると、義経を攻撃しました。
最後は頼朝に勘当されて追放されますが、これはかつて義経軍の主力だった行綱を頼朝が警戒したとの説よりも、源氏嫡流として頼朝より血筋が正嫡である行綱を、「源氏の嫡流」の一枚看板で天下を制した頼朝が己の存在価値を根本から覆す可能性がある人物として抹殺したかったのかもしれません。
追放後の行綱については諸説あり、平家の落人として九州天草に逃げ落ちたとの伝承もあります。しかし、後の徳川幕府の旗本には、行綱の末裔を語る多田家がいくつか存在するのも事実です。 -
梅林 シデコブシ
モクレン科モクレン属の落葉小高木の日本固有種。「生きた化石」とも言われ、環境省レッドリストでは自生個体群は準絶滅危惧に指定されています。それは、原生は伊勢湾周辺に限られ、周伊勢湾要素植物または東海丘陵要素植物と言われるからです。約500万年の第三紀鮮新世にできた古代東海湖の沿岸地帯とシデコブシの原生地はほぼ一致しています。現在の自生地が湿地帯に限られているのは、こうした太古のDNAのなせる業と思われます。当然ながらこの木は、庭木用に改良された品種と思います。
コブシの花色は純白に限られますが、シデコブシは白から淡紅紫色までバリエーションがあります。花径は7~12cm、細長いリボン状の花被片を12~18枚外向きに付けます。英名「スターマグノリア」は「星のようなモクレン」という意味で、日本語より特徴が判り易いです。花には微香があり、可憐な割には控え目です。開花時期は3~4月。花言葉は「歓迎」「?友情」。
シデコブシは漢字で「四手辛夷」と書きます。「四手」は紙垂のことで、紙垂は玉串や注連縄に付ける紙飾りです。これは『古事記』に由来し、天照大神が籠った岩戸の前で、神々は榊に紙垂を付けて祝詞を奏上したと記しています。花弁が細く、紙垂に似ることに因みます。一方、「辛夷」はモクレン属の蕾を乾燥させた中医薬である辛夷(しんい)を無理矢理に「コブシ」と読ませたと伝わります。 -
梅林 トサミズキ
マンサク科トサミズキ属の落葉低木の日本固有種です。自生しているのは土佐(高知県)近辺の蛇紋岩・石灰岩地帯に限られます。
早春に葉が出る前に淡黄色の鐘形の小さな5弁花を5~7輪連ねて穂状に垂下して咲かせる可憐な花です。名にある「トサ」は「土佐」のことで、原産地に因みます。また、「ミズキ」と名が付きますが、ミズキ科ではありません。この名があるのは、葉の形がミズキ科の樹木と似ていることに由来します。庭木としての歴史は古く、江戸時代には葉に模様の入った斑入り種がもてはやされたそうです。
海外へは19世紀にシーボルトにより紹介されました。開花期は3~4月。
花言葉は「清楚」「愛」「優雅」「伝言」。
「優雅」は、小花が穂状に垂れて咲き、その花びらの間から紅色のおしべをのぞかせる上品な美しさに因みます。また、「伝言」は、花房が風に揺れると、ささやき合っているように見えることから。
俳人の水原秋櫻子も「サンシュユ」と優雅さを競い合うように咲くトサミズキの黄花を詠んで います。
「土佐みづき 山茱萸も咲きて 黄をきそふ」? -
安産手洗鉢
中山寺境内に遺る舟形石棺は、忍熊(おしくま)皇子の遺体を収めた柩と伝えられ、古墳時代の貴重な考古資料とされます。忍熊皇子は『古事記』には忍熊王と記されていますが、他にも忍熊別皇子とも表記されます。
中世以降、この石棺は何故か手水鉢として用いられることになり、どんな妊婦さんでも本尊の十一面観世音菩薩に祈願した後、この手水鉢で身を清めれば安産になるとの伝承が残されています。
現在は手水鉢ではなく、安産のご利益を象徴する遺跡扱いとなっていますので、手を合わせて祈るだけで同じご利益があるようです。 -
安産手洗鉢
1400有余年前、第14代 仲哀天皇の先の皇后 大仲媛(おおなかひめ)は、香坂(かごさか)・忍熊(おしくま)の2人の皇子を残して亡くなり、父親である北摂地方の豪族 大江氏の住居の近隣の大柴谷(現、中山寺境内)に葬られました。やがて仲哀天皇は神功皇后を後の皇后に迎えましたが、天皇の崩御後、皇位継承争いが勃発したのです。
『古事記』によると、神功皇后が筑紫で誉田別尊(ほむたわけのみこと、後の応神天皇)を生んだと知った忍熊皇子は、皇位が幼い皇子に決まるのを恐れ、兄 香坂皇子と共に筑紫から戻る皇后の迎撃を目論み、仲哀天皇の御陵造営と偽って播磨に陣地を敷きました。そして反乱の成否を占う狩を行ったところ、兄が猪に襲われて不慮の死を遂げました。その後、忍熊皇子は建振熊命(たけふるくまのみこと)を将軍とする神功皇后軍に挑むも逢坂にて敗れ、琵琶湖畔に追いつめられてその身を湖中に投じました。
『日本書紀』にも似たストーリーが展開されていますが、建振熊命の代わりに武内宿禰(たけのうちのすくね)を将軍としています。 -
白鳥塚古墳「石の櫃(からと)」
中山寺境内にあるため「中山寺古墳」とも呼ばれ、兵庫県の史跡第1号に指定されています。
巨大な花崗岩で築造された両袖式の横穴式石室であり、羨道の奥にある玄室には加古川流域産の竜山石(凝灰岩)製で6つの縄掛突起のある刳抜式家形石棺1基が安置されています。別名「石の櫃」とも称され、播磨国製の石棺のサイズは幅1m、長さ1.8m、高さ1.2mあります。また、天井部は複数枚の巨石を組み合わせています。築造年代から6世紀後半~7世紀初頭の西摂平野に勢力を有した大豪族の墳墓と推定されますが、詳細は不明です。
寺伝には「第14代 仲哀天皇の先の皇后 大仲媛(おおなかひめ)の墳墓(御陵)」と記されています。しかし、古墳の築造年代と大仲媛の時代は合致せず、この説には無理があります。大仲媛の子 忍熊皇子(おしくまのみこ)の御陵が奥之院にあるとの伝承もあり、この古墳と御陵をセットで捉え、大仲媛のものと考えたのかもしれません。
一方、築造年代は神仏抗争で聖徳太子の政敵であった物部守屋が戦死した587年に近く、宝塚周辺に物部氏一族の若湯坐(わかゆえ)連が居住していること、及びその祖神 意富売布命(おおめふ)を祀る「売布神社」が近隣に鎮まることから、この古墳は物部氏の首長級の墳墓との説もあります。それであれば、夢枕に立った大仲媛のお告げで太子が当山を開き、悲運の忍熊皇子の鎮魂供養と物部守屋の鎮魂を両立させるため、この古墳の近くに中山寺を建立したとの説が腑に落ちます。 -
白鳥塚古墳
18世紀末に発行された通俗地誌『摂津名所図会』には「白鳥窟、(中山寺)下方の西の方にあり、俗に石唐櫃と云、忍熊王廟之」とあります。絵図も添付されており、現在と同じ場所に「石からと」と描かれています。往時は、忍熊皇子の墳墓と考えられていたようです。
また、地元では次のような俗謡も歌われていたそうです。
「今年はじめて中山さんの石の唐櫃に鍵がおりる。石の唐櫃に鍵がおりたなら開けてあげましょ。合鍵で」。
石の櫃から夜な夜な何者かが出没するという言い伝えでもあったのでしようか?歌詞から察すると善行を働く者のようですが…。
更に、市制50周年事業で発行された『宝塚市大辞典』は、寺伝にある中山寺の名の由来を紹介しています。
「聖徳太子16歳の時、長尾連山に第14代 仲哀天皇の先后 大仲媛と皇位継承に敗れたその子 忍熊皇子の陵墓があることをお聞きなり、お二人の慰霊鎮魂の為に寺を創建された。三つの峰と二つの谷の中央峰に建つその寺を、人々は『中の山』と呼び、後に『中山寺』と呼ばれるようになった」。
英国人ウィリアム・ゴーランドは明治5~21(1872~1888)年の間日本に滞在し、各地の古墳や遺跡の調査に取り組み、日本考古学の黎明期に活躍しました。彼は『摂津名所図会』で白鳥塚古墳の存在を知り、1887(明治20)年2月6日に白鳥塚古墳を調査しました。石室を開口部から写した写真1枚、調査内容を記したドキュメント3枚が大英博物館所蔵資料として残されています。石室については、壁体が上部に向かって内傾する構造である、幅は入口に向かって広くなる、巨石を使用している、切石加工はなされていない、石材間の隙間にモルタルは認められず小石を詰めていることなど細部に注目しています。 -
白鳥塚古墳
『日本書紀』には建振熊命が飛騨地方に出没した2つの顔を持つ怪物「両面宿儺(りょうめんすくな)」を退治する逸話があります。ここから、坂口安吾は「日本武尊兄弟、忍熊王兄弟、両面宿儺は同一人物であったのを、当時の権力者が分解して描いた」との奇説を展開しています。安吾が言いたかったことの本質は、忍熊皇子は怨みを残して死に、朝廷はその祟りを畏れる立場だったと言うことです。菅原道真を祀る天満宮など、怨みを持って死んだ者を祀って祟りを鎮めようとする「御霊信仰」に端を発する寺社は数多存在します。
一方、中山寺には、忍熊皇子の異母弟である応神天皇が慰霊の使者を送ったところ、忍熊皇子の霊が「恨みを捨て、厄除神になる」と答えて古墳の羨道から白鳥が飛び出し、中山寺奥之院にある白鳥石の陰に消えたという「白鳥塚」の名の由来と思しき寺伝があります。ここには出雲の国譲りで大国主の「出雲大社を作ってくれれば、祟ることなく、永遠にそこで隠遁しよう」の言葉と重なるものがあります。また、兄が猪に殺され、忍熊皇子は白鳥になって蘇る件には、忍熊皇子の祖父 日本武尊命が伊吹山で猪に襲われ、死後に白鳥となる伝説を彷彿とさせます。
しかし、古墳は6~7世紀頃の造営と推定され、『記紀』の記述で201年に亡くなった忍熊皇子の墳墓とするには無理があります。実は白鳥塚古墳は閻魔堂の直ぐ裏にあり、邪推すれば閻魔堂が石室にある何者かを封印しているようにも窺えます。この石棺に徳道上人が「閻魔大王の封印を治めた」という寺伝も、本当は別の意味を秘めているともとれます。
毎年開催される施餓鬼会は餓鬼だけでなく万物の供養です。忍熊皇子も大仲媛も、そして今は正体不明の真の埋葬者も、その中に含まれていることでしょう。 -
白鳥塚古墳
仲哀天皇と大仲媛はいとこ同士でしたが、仲睦まじく皇子を2人もうけていました。往時の朝廷では、朝鮮半島の動乱に乗じて技術が進んでいた新羅を掠め取り、武器や人を略奪する計画が進められていました。しかし、それには新羅の内情に明るい渡来の豪族「丹波ノ主家」の協力が不可欠でした。仲哀天皇が開化天皇の流れをくむ丹波ノ主家から息長足媛(おきながたらしひめ)を後の皇后に迎えさせられたのも、そうした事情による政略結婚でした。やがて朝廷は新羅侵攻派と穏健派に分裂し、娘を入内させた義父 息長宿禰(おきながのすくね)が強大な勢力を持つようになり、仲哀天皇は熊襲討伐に行った筑紫で崩御、その息子 香坂皇子は猪に食い殺され、忍熊皇子は皇后軍によって琵琶湖畔に追い詰められて入水自殺し、仲哀天皇派は壊滅しました。この息長足媛こそ、自らも新羅に出陣した神功皇后です。
また、大仲媛は2人の子息の将来を案じながら亡くなったとも伝わり、聖徳太子が大仲媛 母子の冥福を祈ってこの地に建立した慰霊の寺がこの中山寺です。その後、太子の子息や孫が息長宿禰の子孫 蘇我蝦夷や入鹿らに虐殺されて滅亡したのも何かの因果と言えるのかもしれません。 -
白鳥塚古墳
718(養老2)年、大和国長谷寺を開き法起院に隠棲した徳道上人が病で仮死状態になった際、冥土で閻魔大王に会い、「生前の悪行によって地獄へ送られる者が多い。観音霊場へ参り功徳を得られるよう、人々に観音菩薩の慈悲の心を説け」とのお告げを受けました。その証拠となる大王の宝印と起請文を授かり現世へ戻り、観音信仰の流布に努めるも、当時は世に浸透せず巡礼は発展しませんでした。巡礼の機が熟するのを待つため、徳道上人がその宝印を中山寺境内に埋めたという伝説があり、それがこの「石棺」と伝わります。約270年後に第65代 花山天皇によって発掘されるまで、この「石棺」の中で眠り続けたとされます。花山法皇はこの宝印に基づき西国三十三所観音巡礼を再興し、中山寺を第24番札所としました。しかし、再興されるまでは中山寺が第1番札所だったそうです。それは、ここが日本最古の観音霊場であったことを尊重した結果でした。
この続きは、萬福笑來 北摂宝塚④紫雲山 中山寺 奥之院(エピローグ)でお届けします。
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