2021/02/16 - 2021/02/16
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marsyさん
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勝負や運命の分かれ目のことをよく“天王山”と言います。これは、本能寺の変で信長を討った明智光秀と羽柴秀吉が後の天下をかけて戦ったことに由来しています。
先日大河ドラマ「麒麟が来る」が終了しましたが、天王山の戦いがスルーされてしまったので残念に思い、天王山に登ってきました。
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天王山の最寄り駅はJR山崎駅です。
駅を出るのはちょっと待ってくださいね。山崎駅の住所は京都府乙訓郡大山崎町にありますが、 -
山崎駅の一部は大阪府三島郡島本町にあり、ホームには京都府と大阪府の府境を示す看板があります(下り線)。簡単に県境またぎができますよ(笑い)。
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大山崎町観光案内図
観光パンフレットなどは大山崎町HPからダウンロードできます。
http://www.town.oyamazaki.kyoto.jp/ -
そしてこちらが、これから登る天王山です。
天王山は標高270mの山で、登山道も整備されていて1時間ほどで登れる手軽なハイキングコースになっています。 -
駅の近くにある離宮八幡宮
本邦製油発祥の地と伝わります。
http://www.rikyuhachiman.org/ -
油祖像
山崎の油売りは山崎石清水八幡宮の神人として八幡宮の燈油を納め、日使神事の頭役、御綱引きといった奉仕をし、その代償として八幡宮の保護を受け油座を結成し、関所の通行料や港の使用料免除などの特権、製油独占権を得ました。 -
かしき石
離宮八幡宮の南には淀川が流れ、相応寺がありました。かしき石はその相応寺の塔の心礎だといわれています。
舎利器を納めるための二重の穴が刻まれていたものを後に小鉢として利用するために扇形に掘り広げられたと考えられています。 -
天王山に登る前に大山崎町歴史資料館で勉強しておきましょう。
http://www.town.oyamazaki.kyoto.jp/annai/kyoikuiinkai/rekishi/rekishishiryokan/index.html -
資料館前にあったコロナ終息を願うポスター
光秀と秀吉がコロナ成敗のため共に闘おう -
資料館にあった秀吉の鎧兜
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それでは天王山に登りましょう。
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登山道には、「秀吉の道」と名付け、6枚の陶板絵図が設置されています。
美しい陶板を鑑賞しながら天王山の歴史ハイキングを楽しんだら、戦国時代にタイムスリップした気分になることができます。 -
天王山に登ると、登頂証明書が発行してもらえるようです。
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大山崎町公共下水道マンホール
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天王山に登るには、アサヒビール大山崎山荘美術館経由か
https://www.asahibeer-oyamazaki.com/ -
陶板絵図“秀吉の道”「本能寺の変」
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043:宝積寺経由で登ります(両方同時には通れませんので、登りと下りを別ルートにするといいでしょう)。
宝積寺は、聖武天皇の勅願により行基により開祖され、通称「宝寺」、商売繁盛のお寺として知られています。
https://takaradera.net/ -
宝積寺は、山崎の戦いで秀吉が本陣を置いた寺で、この三重塔は秀吉が一夜にして建てたといわれています。
墨俣城も一夜で建てたといわれていますし、秀吉は一夜で建てるのが好きですね(笑い)。 -
宝積寺
一寸法師伝説の寺とも呼ばれ、日本一の閻魔王像は必見です。 -
本堂横のこの小さな石に秀吉が腰かけていたといわれ、出世石と呼ばれています。
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ここから天王山登山が始まります。
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陶板絵図「秀吉の中国大返し」
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山崎合戦の地石碑
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旗立松
ここに秀吉が千成瓢箪の旗印を掲げて、士気を鼓舞したといわれています。
現在ある松は7代目です。 -
この展望台から山崎合戦場が一望できます。
天王山の戦いといいますが、実際にはこの山での戦闘はなく、麓にて戦いが繰り広げられたようです。
大山崎町観光アプリをインストールしておくと、合戦の動画が見られるそうです。 -
もう少し上にある酒解神社の鳥居
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陶板絵図「明智光秀の誤算」
盟友と信じ、娘玉が嫁いでいた細川藤孝、筒井順慶が裏切って秀吉方についてしまいました。 -
陶板絵図「山崎の合戦」
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天王山の十七烈士の墓
禁門の変(1864年)の時、戦いに敗れて天王山中で自刃した真木和泉守以下十七名の墓 -
陶板絵図「明智光秀の最期」
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酒解神社
本殿は江戸時代後期の建築で、国の登録文化財に指定されています。
本殿横にある神輿庫は、板倉形式という珍しい形式で、鎌倉時代前期の建築で、重要文化財に指定されています。 -
陶板絵図「秀吉の覇権」
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山崎城本丸跡
現在残っている城跡は、山崎合戦後に秀吉が築城したもので、天下統一の出発点になった城です。山頂付近一帯には、天守台跡、門跡、井戸跡、土塁跡、礎石等が残されています。
先の観光アプリを起動してスマートフォンをかざすと…秀吉が築城した山崎城が目の前に! -
山崎城井戸跡
山頂付近なので地下水が湧き出るわけもなく、雨水を溜めて利用していたと思われます。 -
天王山頂
山崎の戦い前夜、主戦場になると予想された大山崎に、秀吉と光秀は軍を派遣。一歩先んじた秀吉軍が天王山の確保に成功した。このことから、勝負の分かれ目となる決戦を「天王山」と呼びます。 -
帰りは、観音寺(山崎聖天)へ降りてきました。
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平安時代の昌泰2年(899)に宇多法皇が御願寺として創建されたと伝えられます。
桜と紅葉の名所で、金銅製の燈籠に触れると金運向上のご利益があるそうです。 -
東黒門跡
古くから幹線道路として使われた西国街道の東の端に東黒門を設けて、集落の治安維持を図った。
山崎の合戦の際には、秀吉軍の先鋒高山右近の軍と明智軍が、この東黒門をめぐって戦いが始まったといわれています。 -
山崎の合戦は天王山の麓のこの円明寺川(現在の小泉川)を挟んで、左に秀吉軍、右に明智軍が対峙したようです。
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山崎合戦古戦場碑
天王山夢ほたる公園(京都縦貫道の下、大山崎中学校隣)に「天下分け目の天王山 山崎合戦古戦場」と記された碑が建っています。
6月13日夕刻、戦いが始まったが、秀吉軍4万対光秀軍1万5000で、秀吉軍の一方的な勝利に終わり、敗勢となった光秀軍は勝龍寺城に退去しました。 -
向こうにはサントリービール工場が見えます。工場見学へ行ってビールを飲みたかったのですが、コロナが蔓延している現在は工場見学は休止中です。
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明智光秀本陣跡(境野1号墳)
山崎の合戦で明智光秀が本陣を置いたとされる「御坊塚」はここと推定されていました。
住宅地の中にひっそりと石碑と説明板があります。 -
恵解山(いげのやま)古墳
5世紀前半に造られた前方後円墳で、全長128mで乙訓地域最大の規模の古墳です。古墳の周囲には25mの浅い周堀があります。 -
平らなところには埴輪が並べられていて、公園になっています。
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2011年の調査でこの古墳に大規模な堀跡が見つかり、現在ではここが光秀の本陣だったとされています。
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勝龍寺城
明智光秀最後の城/明智光秀の娘たま(後の細川ガラシャ)の城
元亀2年(1571)に細川藤孝が、臨時的な砦を当時最先端の城郭に造り変えました。 -
明智光秀の娘お玉は、この城で藤高の嫡男忠興と結婚し新婚時代を過ごしました。
http://www.city.nagaokakyo.lg.jp/0000001138.html -
模擬櫓と虎口跡
展示室では、細川藤孝・忠興・玉・明智光秀ら4人のパネル展示や映像、瓦などの出土遺物が展示されています。 -
玉が忠興に輿入れした史実にちなんだ「長岡京ガラシャ祭」が、毎年11月に開催され、当時の様子を模した行列巡行が行われています。
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本丸跡は公園になっています。
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勝龍寺城石垣
下半分が当時の石垣です。 -
西辺土塁
この土塁の南側は本丸内で一番高く、また本来は、もう少し南へ張り出していて「殿主」と呼ばれた。天守はこの土塁上にあったと指摘されています。 -
主郭の西側にあった「沼田丸」という曲輪跡
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北門跡と桝形虎口
本丸の北西隅に位置し、石垣や礎石が良好に残っています。石垣の高さは2m以上ありました。
光秀は、この北門から脱出し坂本城へ向かいましたが、小栗栖の竹藪にて農民に殺され無念の最期を遂げました。 -
神足神社入り口にある土塁・空堀跡
低地にある城の守りを堅固にするために、城の北側に高さ6mを超える大規模な土塁・空堀を築きました。この城の北東に位置する神足神社境内に復元されています。 -
JR長岡京駅まで歩いてきました。
かっては神足駅という名前でしたが、1995年今の駅名に改称されました。 -
こちらも大河ドラマで盛り上がったんでしょうね。
以上で旅行記は終了です。
私が旅したコースを、現在サライで特集しています。
https://serai.jp/hobby/1017244
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