2019/06/10 - 2019/06/11
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frau.himmelさん
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皆様は捕虜収容所ときいて、どういうところを想像しますか?
私はドイツの強制収容所をいくつか見てきたせいか、どうも悲惨なイメージしかありません。
捕虜となった囚人は、鉄条網に囲まれた収容所の粗末なバラックにぎゅうぎゅうに押し込まれ、食事も満足に与えられないで強制労働させられる。もちろん自由な時間など全くない。脱走しようものなら問答無用で銃殺、それだけではなく、一人でも脱走者が出れば、仲間も一蓮托生、他の捕虜の前で、見せしめに一列に並べられ絞首刑。
なんて、私の中での収容所は、時代背景も、ユダヤ人収容所も、冷戦時代の東ドイツのシュタージも、なんもかもいっしょくたになっています。
今回鳴門の板東俘虜収容所を訪れて、私のひどい見識違いに赤面しました。
板東俘虜収容所では、ドイツ兵捕虜1000名ほどは、実に生き生きと自由に収容所生活を送ったのです。収容所内で新聞などの出版物を発行したり、様々なスポーツ活動をしたり、音楽や演劇活動をしたり、パン・菓子・肉・ビールなどを作って販売したり・・・。また、地域住民との交流も活発に行われました。
そんな中で、板東俘虜収容所では、アジア初となるベートーヴェン「第九交響曲」のコンサートが開催されました。100年前のことでした。
そこには偉大な収容所所長松江豊壽の「捕虜は犯罪者ではない。彼らも祖国のために必死に戦った勇士たちだ。武士の情けで遇したい。」という博愛精神がありました。
捕虜たちが収容所を去るときの別れの言葉が感動します。
「私たちは捕虜としてこの地に来ました。私たちはいま誇りをもってこの地を去ることができます。
世界のどこにバンドーのようなラーゲル(収容所)があったでしょうか。
世界のどこに、マツエ大佐のようなラーゲル・コマンダー(収容所所長)がいたでしょうか。」鳴門市ドイツ館のHPより
*「俘虜」と「捕虜」は同じ意味ですが、第二次世界大戦後は「捕虜」という言葉が一般的なので、この旅行記では「捕虜」を使います。
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー ANAグループ
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
雨の羽田空港。
徳島行のANAは沖止め。
久しぶりの国内旅行なのに残念!。
梅雨時だから仕方がないか。 -
徳島空港着。
私は2度目の四国。
前回は2011年秋に、私の旅行記でお馴染みのI女史と、お仲間のH氏の3人で美術館巡りのツアー旅をしたのでした。
あの時はH氏はまだお元気だった・・・。
思い出します。 -
徳島と言えば阿波踊り。
徳島空港のことは別名「阿波踊り空港」と呼ばれています。 -
ネットで予約をしておいたレンタカーの手続きをして、
それでは1泊2日の鳴門旅行に出発です。 -
嬉しいことに、羽田では雨だったのに、四国地方は雨は降っていません。
-
レンタカーは、旧吉野川沿いを走り、時には一面のハス畑を臨みながら進みます。
運転手は後期高齢者の夫、私はその横で写真係。 -
鳴門市ドイツ館。
空港から30分ほどで到着。
この地にかつて、第一次世界大戦時に日本軍の捕虜となったドイツ兵を収容した「板東俘虜収容所」がありました。
現在、「鳴門市ドイツ館」は、板東俘虜収容所でのドイツ兵たちの活動の様子などを展示した史料館となっています。 -
ドイツ館に行く前に道の駅「第九の里」でお昼をいただきます。
この建物は、実際に兵士たちを収容した兵舎(バラッケ)を移設したものです。国の登録有形文化財に指定されています。 -
中に入ると、目に入ったのは・・・。
ドイツビール!
ホーフブロイもあります。こちらにはケルシュビア。
ハリボーやリッターチョコなどドイツでよく見かけるお菓子も並んでいます。 -
本場のソーセージもあります。チューリンガーですって、懐かしい!
それに第九クーヘンなるものも。『鳴門とドイツの友好の物語』という副題つきです。
これはバウムクーヘンではなくクグロフのようです。 -
こちらでは、特別記念ラベルワインと。
説明には
『1918年6月1日、「板東俘虜収容所」において、アジアで初めてベートーヴェン第九交響曲(歓喜の歌)が全楽章演奏されました。これを記念して6月の第1日曜日を「鳴門第九の日」として、鳴門市文化会館で毎年盛大に第九演奏会を開催しています。』。
その演奏会の写真をラベルにして、ドイツのモーゼルワインに貼り、特製ワインを販売しているそうです。2500円。
いい記念になりますね。 -
これは、2006年に板東俘虜収容所のことが映画化された「バルトの楽園」の撮影現場の写真。
上はドイツ兵俘虜が板東を去るにあたり、松江所長に感謝の意を伝えているところ。
下は、収容所の酒保(酒屋)で、特製ジョッキでビールを楽しんでいるドイツ人捕虜たち。 -
店内を珍しそうに見ている私にイライラした夫から巻が入ります。
「どうするの!、お昼食べないの~!」。
壁に貼ってあるメニューは、うどん類に並んで、ドイツのB級グルメのカリーヴルストやシンケンブルストなどのソーセージ類も(★印)。 -
私たちは、3か月後にドイツ行きを控えていますのでそれらは本場でいただくことにして、やっぱり鳴門の名物ワカメですね。ワカメたっぷりのおうどんをいただきます。
-
道の駅を出るとそこには「第九の里なるとマップ」が。
私たちがこれから行きたい場所が地図で示されています。 -
石段を登るとそこには『「第九」交響曲アジア初演100周年』の大きなパネル。
そうなのです。ちょうど1年前、2018年6月1日は鳴門で第九が演奏されて100周年の記念の年でした。
その後にNHKで放映された「鳴門の第九 歌声がつなぐ日独100年」という番組を見て、私はどうしても鳴門を訪れたくなりました。
やっと願いが叶いました。 -
そしてここには板東俘虜収容所の所長だった「松江豊壽」の像。
映画「バルトの楽園」の主人公です。
これも同じく第九100周年の記念に併せて除幕式が行われました。 -
ここに松江を称える顕彰碑の文章があります。
概略すると、
「第一次大戦時、中国青島で捕虜となったドイツ兵を収容したのが「板東俘虜収容所」。
ここの所長だった松江豊壽は「捕虜は犯罪者ではない。彼らも祖国のために戦ったのだから武士の情けで遇したい」という人道的な信念の持ち主でいた。
捕虜の自治活動を認め、その中でアジア初演となるベートーヴェンの第九が演奏された。また地域住民との温かい交流も深まり、現在でもドイツ、特に姉妹都市であるリューネブルクと、また松江の郷里会津若松との交流の礎となっている」というものです。 -
鳴門ドイツ館に入る前にいろいろ見てきて、予習をすっかりやってしまったような気持ちです。
ではいよいよドイツ館に入ります。
やはりドイツ的な建物です。
鳴門市は、ドイツのリューネブルク市と姉妹都市と知り、2004年にかの地を訪れた写真を探し出してみました(下の写真はリューネブルク市の市役所)。
何となく二つの建物は似ていませんか? -
館内、特に2階は撮影禁止とあります。
でも許可申請をすればOKとも書いてあります。
齢をとると、写真に残っていないと何を見たかすっかり忘れてしまうので、私にとって写真は必須。
受付で談判します。
「私たちはドイツが好きで毎年ドイツに行っています。鳴門の姉妹都市のリューネブルクにも行きました。
また一昨年は第九の指揮者「ハンゼンさん」の生まれ故郷、グリュックスブルクとフレンスブルクにも行ってきました。」
そしたら受付の方が、「あ~~、ハンゼンの~」と言って気持ちよく首にかける撮影許可証を出してくださいました。
ありがとうございます。 -
せっかく撮影許可証を出していただいたのですから、私なりに鳴門ドイツ館の魅力をせいいっぱいレポートさせていただきます。
また長くなるかな~~(泣)。
まずはどうして俘虜収容所が造られることになったか。
私が拙い説明をする必要はありません。パネルの説明をそのまま写します。
第一次世界大戦下のドイツと日本。
「19世紀末から、欧米諸国は利権を求めてアジアへとなだれ込んだ。
ドイツも青島(チンタオ)などに拠点を築いた。
第一次大戦が始まると、同盟国イギリスは日本にドイツ艦隊の牽制を依頼してきた。
日本は、大陸進出の好機としてドイツに宣戦、3万の兵で青島を包囲した。ヨーロッパの激しい戦いに追われていたドイツに余力はなく、多くの義勇兵を含む5千の守備隊は3か月で降伏し、そのほとんどが俘虜として日本に送られた。」 -
第一次世界大戦と言えば、ハプスブルク帝国のフェルディナント大公夫妻がセルビア人学生によって暗殺されたことに端を発して始まった戦争ですね。フランツ・ヨーゼフ1世のころ。あのシシーの旦那さまです。
そのオーストリアに加え、ドイツ・イタリア・フランス・ロシア・イギリスなどヨーロッパで起った戦争とばかり思っていましたが、日本も関わっていたのですね。
(写真は2014年ウィーン軍事史博物館での写真 皇太子が暗殺された車) -
日本との戦争で捕虜となったドイツ兵約4,700名は、日本中の12の収容所に送られました。その中の1,000名は「板東俘虜収容所」に収容されました。
捕虜となったドイツ兵士たち、 -
板東俘虜収容所の所長は、明治維新の際に賊藩と虐げられた「会津藩」出身の松井豊壽。
彼は「捕虜は犯罪者ではない。彼らも祖国のために必死に戦ったのだから、武士の情けで遇したい」と人道的に接することを命じました。
副官は語学の天才と言われた高木大尉。ドイツ語はもとより7か国語に通じ、捕虜たちの相談役として、また松江大佐の良き片腕でした。 -
収容されたドイツ兵俘虜は職業も様々でした。
家具職人・時計職人、写真家、印刷工、製本工、床屋、靴職人、肉屋、パン屋、製菓など。
また彼らは、音楽・演劇・体操など幅広い「文化」をも持ちこみました。 -
収容所は、捕虜を収容する8棟の兵舎(バラッケ)を中心に、運動施設や、農園(酪農)、ウィスキー工場、パン焼き窯などが造られました。
また図書館やボーリング場なども次々に建てられました。 -
収容所には商店街あり、ボーリング場あり、ケーキやさんあり、理髪店あり、パン屋、喫茶室、写真屋・・・、なんでもあります。
下の絵は捕虜が描いた絵です。
収容所ではなく、まるでドイツのメルヘン物語の中の絵みたい。悲壮感は全く感じられません。 -
収容所内では「ディ・バラッケ」という新聞か週刊誌的なものが定期的に発行されていました。
ガリ版刷りで発行された「ディ・バラッケ」創刊号 -
「ディ・バラッケ」第Ⅱ巻第28号(1918年3月17日)~第53号(1918年.9.29)、
「ディ・バラッケ」第Ⅲ巻第54号(1918年10月6日)~第79号(1918年3.30)。
1年間で50号以上出版しています。かなりの頻度で出していたのですね。 -
写真右上:鉄筆でガリ版を切る収容者、下:印刷工場
収容所内の印刷所では様々なものが印刷されていました。
スポーツ大会プログラム、コンサート・演劇プログラム、クリスマスカード、カレンダー、絵葉書など、美しい多色刷りもありました。 -
上には、サンタから船をプレゼントされているクリスマスカードや新年カード。
下の中:目玉焼きを作っているイースターカード。
バラッケ(兵舎)や鉄条網などを描いた絵葉書も。 -
またこのようなガイドブックも印刷されました。
「日本国板東俘虜収容所案内ー久留米から板東に来た戦友のためにー」。
青島で捕虜となった4600名余のドイツ兵は国内12か所の収容所に振り分けられましたが、間もなく6か所に再編されました。
1918年8月、板東にも久留米から89名の捕虜が送られて来ることになりました。 -
久留米の収容所ではひどい環境の中、暴力的な扱いを受けていた捕虜たちは、板東に移送されると知っても、どうせ同じだろうと何の希望もなかった。
ところが彼らは信じられない歓迎を受けるのです。
収容所の門を入ると、板東のブラスバンド隊が「旧友」を演奏しながら彼らを待っていたのです。
さらに驚いたのは松江所長の慈愛溢れる歓迎の言葉でした。
また、彼らが板東の生活に早く馴染むようにと、上記のガイドブックまで作っていたのです。 -
所内では切手や通貨も発行されていました。
捕虜たちにとって郵便は故郷ドイツとの唯一の連絡手段。頻繁に手紙のやり取りはありました。 -
特に活発だったのは音楽活動。
ドイツで音楽隊に所属していた捕虜たちを中心に結成されたオーケストラが、収容所内には2つありました。
パウル・エンゲルスが率いるエンゲル・オーケストラ。 -
もう一つはヘルマン・ハンゼンが指揮する徳島オーケストラ(MAKオーケストラ)です。
-
オーケストラでは楽器もたくさん必要になります。
捕虜自身が肌身離さず持っていたものもありました。楽器職人の捕虜が作ったものもありました。また徳島市内の古物商などを周って探し回ったり・・・。
そのころ徳島市内の楽器店では、楽器や楽譜の注文が増えたそうです。
上:ドイツ兵が使っていた日本製のヴァイオリン。
下:楽器職人の捕虜が作ったマンドリン。 -
コンサートは週1回程、定期演奏会が開かれ、板東での約3年間に100回以上、約300の楽曲が演奏されたそうです。
コンサートに合わせてプログラムも印刷されました。 -
板東俘虜収容所をもっとも有名にした出来事と言えば、何と言っても1918年6月1日にベートーヴェンの交響曲第9番(第九)がヘルマン・ハンゼン指揮で全曲演奏されたことです。
鳴門が「第九の里」と言われている所以です。
合唱では、男性だけの収容所なので、女性パートはハンゼンが編曲して男性が歌ったそうです。
写真は上:演奏会が開かれた兵舎を改造した講堂。
下:徳島オーケストラ(MAKオーケストラ)と合唱団のメンバー。中央が指揮者のヘルマン・ハンゼン。 -
ヘルマン・ハンゼン(1886-1927)。
北ドイツのブリュックスブルク生まれで、退役後はフレンスブルク市の広報係・秘書官などを務めていたようです。
その間声楽クラブの指揮者などもしていたそうです。そして40歳の若さで亡くなりました。
長い間ハンゼンの消息はわからなかったそうですが、彼が所有していた「トクシマ・アンツァイガー(徳島新報)」がフレンスブルクで見つかったことより詳細が判明したそうです。 -
私は、そのことをネットかテレビで知り興味を持ち、ちょっと調べてみました。
ありました。
この写真は2008年6月28日にsh.z(シュレスヴィッヒ・ホルシュタイン新聞?)に掲載されていたハンゼンの写真。
見出しには「Ein Flensburger brachte Beethoven nach Japan. フレンズブルク人がベートーベンを日本に連れてきた。」とあります。 -
そして2017年秋、私と夫は北ドイツのフレンスブルクを訪れました。
市役所にトクシマ・アンツァイガー(徳島新報)があるという情報を見て、どうもそれは私たちも見ることができるらしいと。
2017年の写真。
写真上からハンゼンの生まれ故郷のグリュックスブルク城。
下左:フレンスブルクはバルト海に面する美しい港町。
**映画「バルトの楽園」は最初バルト海のことだと勘違いしていました。松江所長の見事なお髭のことだったのですね。
下右:ミュルヴィック海軍士官学校。第二次世界大戦末期、ヒトラー自殺でベルリンが陥落したあと、ナチス最後のドイツ新政府が置かれた。
ハンゼンは海軍に入隊したそうですからもしかしてここにも・・・。
結局時間がなくて市役所には行けませんでした。 -
当日第九を聴いた兵士のヘルマン・ハーケは、その感動をドイツにいる母親に手紙で書き送っています。
前略・・・先週の土曜日にはベートーヴェンの交響曲第九番の演奏会がありました。演奏は大成功でした。特に3楽章にはほれぼれしました。
何とも言えない安らぎ、慰めが流れ出て来るのです。
私は元気です。・・・後略
1918年6月10日
まさに収容所の生活を楽しんでいるような手紙ですね。 -
「第九」交響曲アジア初演のことは、2006年に松平健さん主演で映画化されましたので、ご覧になった方も多いと思います。
題名は「バルトの楽園」 -
演劇活動も活発でした。
「ラーべンシュタインの女」のプログラムと舞台背景画。
舞台も女性役は男性が演じます。
騎士の物語でしょうか、衣装を揃えるのも大変そう。 -
バラッケ(兵舎)の模型。
パン屋さんがあったり、お菓子やさんがあったり、コンサートが定期的に開催されたり、演劇活動も行われる。
一体どこのことかと思いますね。
これが捕虜収容所で行われていたことだなんて、驚きます。
でも、バラッケ(兵舎)自体は、ドイツでよく見た収容所のバラックと同じような造りです。 -
しかし部屋の中は違います。
ドイツの収容所は蚕棚のようなベットに大勢の捕虜が重なり合って暮らしていましたが、板東はどうです!この余裕。
寝巻の着物に着替えて、「おやすみなさい」。 -
こちらでは静かに故郷に手紙を書いている人、ベッドに寝そべって本を読んでいる人。
ヴァイオリンを練習している仲間の隣の部屋では、煩くて耳を抑えながら読書している捕虜。
こういう和やかな収容所生活も、松江所長の捕虜たちへの人道的な寛大な配慮があればこそでした。 -
地域住民との交流も活発でした。
ドイツ兵たちは住民から「ドイツさん」と親しみを込めてよばれていました。
ドイツ人捕虜からダンスを習ったり、日本人から三味線や民謡を習ったり、またドイツ料理や日本料理をお互いに教え合ったり、和気藹々と楽しい交流をしていました。 -
ドイツ人職人からパンやお菓子作りの講習を受けて終了したら、証明書も渡されました。
「修業證書 名前
右の者ドイツ国ハンブルク市の「アインリッヒ・ガーベル」氏に就き六カ月間純ドイツ式製菓及び製パン法の実地講習し之を修了したり●て之に證す。
大正八年九月拾日
板東俘虜収容所長●●●松江豊壽」 -
ドイツ人捕虜の作品。
直筆の墨筆 「忍耐」の文字。なんともほほえましい。
下は、捕虜が製作し、松江所長にプレゼントしたビールジョッキ。 -
地元はもとより、県外からの見物人も詰めかけた捕虜主催の「板東俘虜製作品展覧会」「和洋大音楽会」「俘虜演芸会」など、俘虜たちと地域の人々との交流は、多彩な催しを通じて深められた。
会場に集まった日本人にとっては、捕虜たちの文化活動を直に体験し、ドイツの文化に触れる絶好のチャンスでした。 -
そんなドイツ人捕虜と地域の人々との心温まる交流にも、終わりがきました。
1914年から4年半にかけて続いた第一次世界大戦でしたが、ベルサイユ条約締結により、ドイツ捕虜たちが本国に帰るときが来たのです。
板東を去るときに、トップのドイツ将校が挨拶をしました。
「私たちは捕虜としてこの地に来ました。私たちはいま誇りをもってこの地を去ることができます。
世界のどこにバンドーのようなラーゲル(収容所)があったでしょうか。
世界のどこに、マツエ大佐のようなラーゲル・コマンダー(収容所所長)がいたでしょうか。」
感動的な言葉です。 -
そして1919年末より1920年初めにかけて捕虜の本国送還が始まりました。
これは捕虜が描いた別れの日の収容所の絵。
ハンカチを振って収容所に別れを告げている捕虜に、犬も寂しそうな表情。
その横には昨夜のお別れ会のビール瓶が1本倒れています。
哀愁漂う絵です。 -
捕虜たちが乗った帰国船「豊福丸」は1919年12月30日に神戸港を離れ、ドイツのヴィルヘルムハーフェンに到着したのは2月24日のことでした。
驚くことにこの50日余りの船中でも「ディ・バラッケ」ならぬ「帰国航」と名前を変えての新聞発行は続けられました。
6回発行されその総ページは120ページにも及ぶそうです。
また船内ではミニコンサートなども開催され、帰国後の生活に不安を抱える捕虜たちの心を和ませました。 -
しかし帰国した捕虜たちを待っていたのは、ドイツ帝国からワイマール共和国へと政治体制が変わったドイツの姿でした。
長い戦争で廃墟と化した故郷、近親者の死、縮小された領土、膨大な賠償金を抱える祖国の悲しい姿でした。
これらは1929年の世界恐慌とも絡んで後のナチスの台頭の伏線となりました。 -
板東俘虜収容所の捕虜たちは全員帰国したわけではありません。日本に魅力を感じた63名は日本に残りました。
彼らはドイツの様々な技術、製法を日本に伝えました。
また肉屋・パン屋・酪農などを営みました。
代表的なところでは、収容所は違いますが、ロースハムのローマイヤー、バウムクーヘンのユーハイム、バン・ホーテンは明治屋に雇われてソーセージの製法を日本に伝えました。 -
日本の文化や古典に興味をもってドイツに帰らなかった人もいました。
写真上より。ヘルマン・ボーネン:日本の古典に魅せられて、弘法大師や「能」などの研究をした。大阪外国語大学でドイツ語教師を務めた。
中:ヨハネス・バート:歌舞伎・鎌倉・江戸など文化的価値を海外へ紹介した。
下:クルト・マイスナー:来日したドイツ人の紹介や60年に及ぶ体験を通じて日本の実情や民話などの面白さを伝えている。 -
資料展示室の外に出ると、そこにはタクトを振っているヘルマン・ハンゼンの姿が。
ここは「第九シアター」。
1918年6月1日、アジアで初めてベートーヴェンの交響曲第九番が、板東俘虜収容所で演奏されたエピソードが、映像とロボットで紹介されます。
今は残念ながら休憩中。 -
他にもドイツ人捕虜が松江所長に贈った洋服ダンスや、テーブルと椅子などが展示してありました。
-
ドイツ館の一番奥は企画展示室。
中央にはベートーヴェンの顔。その回りにたくさんの写真が貼りだしてあります。
ちょうど私たちが訪れた時には「第九アジア初演100周年記念演奏会の記録 舞台裏」という写真展が開催されていました。
2018年6月1日は「第九」が鳴門で演奏されて100年の記念の年になるのです。それにあわせて鳴門で盛大な演奏会が開かれました。
その時の写真展です。
NHK総合テレビで放映された「鳴門の第九 歌声が繋ぐ日独100年」という番組をご覧になられましたでしょうか。
私はこれを見て、ぜひ鳴門へ行きたいと思いました。 -
鳴門で開催された「第九」を聴くために、アメリカやドイツなど、海外から訪れた人も大勢いました。元捕虜の子孫たちです。
1920年、故郷に帰った捕虜たちは、松江所長のこと板東の人々のことを忘れてはいませんでした。
普通なら地獄の生活になるはずだった収容所生活が、松江所長や地域住民のお蔭で楽しく過ごせたことなどを子孫に語り継いでいました。
来日した一人の子孫は言いました。
「私は松江所長がいなかったらこの世に存在していなかった」と。
彼女はこの日、松江所長の孫との出会いという感動的な場面が待っていました。 -
ベートーヴェンの顔、随分画像が粗いな~と思っていました。よく見たら、大勢の人の顔が集合してできているのですね。
第九を歌っている合唱団の人々、演奏している人々、テレビに出ていたドイツ捕虜の子孫の女性の顔も見つけました。 -
鳴門市では、元捕虜や日本人関係者などから当時の貴重な資料の提供を受け、ドイツ館を発足させました。
ドイツとの交流も活発になり、鳴門市とリューネブルク市との間で姉妹都市が結ばれました。市の働きかけでさらに資料は増え、1993年には新しい(現在)のドイツ館が完成しました。 -
姉妹都市リューネブルクの市庁舎と、かわいいリューネブルグの龍(?)のイラスト。
ハンブルクに程近いリューネブルク市、大変美しい街です。 -
2004年にリューネブルクを旅した時のことを思い出し、写真を取り出してみました。
塩で有名なハンザ都市リューネブルク、運河沿いには塩を積み込んだクレーン、街中はハンザ都市らしいギザギザ屋根の建物、訪れた時はちょうどお祭りをやっていて、中世の服装をした市民達。
そして有名なリューネブルガーハイデ。
鳴門市と姉妹都市と知って、リューネブルクにまた行ってみたくなりました。 -
リューネブルク市より贈られたものでしょうか、ドイツ名産くるみわり人形と、ドイツらしい焼き物の水差し。
-
2階の窓から見える美しい小高い丘の広場。あの中心に立っているのは・・・?
後で行ってみましょう。 -
窓に飾ってあった写真には「ドイツ館開館・姉妹都市盟約締結20周年記念 第13回ベートーヴェン「第九交響曲」演奏会」とあります。
観覧客もさることながら、合唱団の人の多いこと。
日本では年末の定番となっている「第九」、その中でも大勢の合唱団によってドイツ語で歌われる「歓喜の歌」は感動しますね。
その第九の初演がこの鳴門で始まった・・・、凄いことですね。 -
さあて、館内を見終わりました。
階下に降りると、第九シアターの大きな写真が。
私たちは、この前で記念写真を撮って、係の人にお礼を言って、撮影許可証をお返ししました。ありがとうございました。 -
先ほど2階の窓から見えた丘に登ってみると、そこにはベートーヴェンの像が。
そしてその台座には・・・。
これを読めばドイツ館と「第九」のことがわかりますね。
そっくり写します。 -
ベートーヴェン「第九」交響曲は、1918年6月1日、ここ板東において日本で初めて演奏された。第1次世界大戦時、中国の青島で捕虜となったドイツ兵士約1000名が1917年から約3年間ここ板東の地で暮らした。
彼らは、板東俘虜収容所長松江大佐のヒューマニズムあふれる処遇のもとに、創意と自主性に満ちた集団生活を送った。
地域の人々とも交流を深め、俘虜生活の中で100回を超える演奏会を開催しているが、ヘルマン・ハンゼンが指揮するTokushimaオーケストラによって、その全曲が演奏された。
「第九」は、ベートーヴェンがシラーの詩を借りて、人間愛を描いたものである。鳴門の「第九」は、板東で生まれ、市民がはぐくんだ固有の財産であり、国境を越えて世界へ発信する平和のシンフォニーでもある。
このたび、鳴門市制施行50周年を記念して、友愛と平和を永遠に誓い、ここにベートーヴェン像を建立する。
1997年5月15日 鳴門市長 -
鳴門市では1918年6月1日に初めて「第九」が演奏されたのを記念して、毎年6月1日を「第九の日」としています。
そして6月の第1日曜日に演奏会が開催されています。
ベートーヴェン像の裏には記念の陶板が。
像の裏には、「第九」アジア初演80周年と95周年時の「第九」演奏会の記念陶板が飾られています。 -
そして2018年6月の第100周年記念の演奏会はこちら。
テレビ画像からとりました。
合唱隊の中には、ドイツから駆けつけたドイツ人捕虜の子孫の方も一緒に歌われています。
NHK「鳴門の第九 歌声がつなぐ日独100年」より。
感動的なテレビでした。 -
では、リューネブルクの市庁舎に似た(私の独断)鳴門ドイツ館を後にして、もう一つの感動の場所に行きましょう。
-
実際に俘虜収容所があった場所です。
ドイツ兵と地元住民との交流の史実を残すために、収容所の一部を「ドイツ村公園」として公開されています。 -
川の流れを利用して、ドイツ人捕虜が生活用水として使っていた給水施設。(第2給水施設)
-
製パン所跡。
ここに煉瓦造りのパン焼き窯が設置され、捕虜たちの日常食のパンが焼かれていました。 -
ここは下池。
徳島空港から板東に来る途中で見かけたハスがここにも。
ツユクサに似た可憐な花も咲いています。
この両側にはビリヤード場や、収容所で大活躍した印刷所があったようです。 -
さらに歩を進めます。
ここをかつて捕虜のドイツ人たちも歩いていたのだと思うと、不思議な感覚に襲われます。 -
目指すものがありました。
こここそが元捕虜たちと板東の人達の交流が再び始まるきっかけとなった場所なのです。
そこには11名の名前が刻まれた慰霊碑があります。
元捕虜たちが帰国前に、収容所で亡くなった11名の仲間を追悼するために造った慰霊碑でした。
正面には慰霊の言葉、残る3面には11名の名前・所属・生没年月日が刻まれています。
板東俘虜収容所が閉鎖されてから長い間、この慰霊碑は忘れ去られ放置されていました。
今はお花が手向けられています。 -
第二次大戦後、捕虜収容所の兵舎を利用して引揚げ者住宅が建てられました。
そこで生活していた高橋さんという女性が、1948年に薪拾いの最中に雑草に埋もれていた慰霊碑を発見しました。
彼女は、ソ連領に抑留されていた夫のことを思い他人事とは思えず、慰霊碑を掃除し、お花を手向け始めました。
復員してきた夫も抑留地で自分に親切にしてくれたドイツ兵のことを思い、共に慰霊碑を守るようになりました。 -
それから十数年の時は流れ、1960年にその活動が読売新聞で報道されました。
その直後、当時の駐日大使(当時は西ドイツ)ヴィルヘルム・ハースは慰霊碑の献花と高橋夫妻への感謝を伝えに板東を訪れました。
慰霊碑の話はドイツ本国にも伝わりました。
ドイツ国内でも年に1回程、元捕虜仲間が集まって、収容所時代の思い出話を語りあっていたそうです。
朗報は元捕虜たちにも伝わりました。
(写真はハース駐日大使夫妻と高橋春枝さん。左の新聞記事は高橋さんのドイツ兵慰霊碑清掃の記事) -
慰霊碑が地域住民の手で大事に守られていることを知った元捕虜たちは、日本への感謝の手紙や寄付金、さらには当時の写真や印刷物などを板東に送りました。
40年余の時を経て徳島とドイツの交流が復活したのです。
そして捕虜収容所の記録を後世に残すために、ドイツ館建設へと進むのです。
(写真:元ドイツ兵捕虜が長年の夢であった「板東俘虜収容所」の再訪を果たした。
写真下:元ドイツ兵捕虜たちからドイツ館に寄贈された収容所時代の思い出の記録) -
隣の新しい慰霊碑は、日本全国の、収容所で亡くなった87人のドイツ兵捕虜のための合同慰霊碑です。1976年に完成しました。
収容所の名前と没者の名前が。
習志野、板東、青野原、福岡、久留米、熊本など。 -
その先には、姉妹都市リューネブルク市と鳴門市の「姉妹都市盟約30周年記念植樹」
-
ここには、「ノルトライン・ヴェストファーレン州独日文化交流育英会」より 菩提樹30本を鳴門市に贈呈したという碑。
ノルトライン・ヴェストファーレン州は日本人が最も多く住んでいるデュッセルドルフ市や、日本人に有名なケルン市などが含まれます。 -
「赤十字ゆかりの地の碑」もここに建立されています。
副題は -国境を越えた博愛の心がここにあったー -
鳴門市・会津若松市親善交流都市締結十周年記念(アカマツ)と。
会津若松市は松江所長の故郷です。
松江所長は、明治維新期、反乱軍だった会津藩の出だったことより、敗者が味わう屈辱を痛いほど判っておりました。それで同じ立場のドイツ捕虜に対しても博愛の精神で、人権を尊重した人道的な処遇をしたといわれています。 -
しばらく上池・下池の小路を歩いていくと「酒保附属便所」の標識が。
酒保とは日用品や飲食物などの売店のこと。酒場の役目も果たしていました。日本製のビールも売られていたそうです。
写真下左:当時の酒保の様子。
右:酒保の建物。
下池のすぐ近くにありました。 -
トイレの跡。
煉瓦基礎部分が残っています。(国指定史跡)。
昔ながらの日本の汲み取り式だったのでしょうね。 -
道路を横断した先に見えるのは「友愛(Freundschaft)」の碑。
これもそっくり書き写します。
「この地は、第一次世界大戦に参加した953人のドイツ兵士が、大正6年から9年まで過ごしたところである。今もなお、青々と生い茂っているセンダンの大木や、兵舎の基礎に使われていた煉瓦積みが、そのまま残っている。
広場の中央にある石造りの橋は、当時、ドイツ兵士がつくったドイツ橋を模したものである。
丘の上には、日本各地で死亡した85名のドイツ兵士の合同慰霊碑が建立されている。
ここが、市民の憩いの場となり、あわせて日独友好の広場となるよう願っている。
昭和53年4月1日 鳴門市長 -
これが碑に書かれていたドイツ兵士がつくった「ドイツ橋」を模したものですね。
彼らはボランティア活動として地域住民のために石造りの橋を造ってくれました。この他に「眼鏡橋」も残っています。
100年経った今でもたわみもなく、ドイツの優れた技術を示す貴重な遺産です。 -
その近くには、兵舎第8棟(バラッケ)の標識が。
基礎土台は草むらに隠れてはっきりわかりません。
兵舎第7棟は煉瓦積みの基礎土台がはっきりわかります。 -
その近くにもあちこちにバラッケ(兵舎)の跡だったと思われる煉瓦積みが見えます。
今は全て兵舎は取り壊されていますが、その中の1棟は移設され、ドイツ館の近くにあった「道の駅 第九の里」で物産館として頑張っています。
この建物は国の登録有形文化財に指定されているそうです。 -
収容所にはバラッケ(兵舎)が8棟ありました。
1棟あたり捕虜が100~120名の捕虜が収容されていました。
先ほど内部の模型を見てきましたが、広さにしろ設備にしろ、今までドイツでいくつか見てきた強制収容所とは格段の差です。私は収容所と言うのはドイツ式の、全く人を人とも思わないあのホロコーストの収容所を想像していましたので、今回板東を訪れてその違いに驚いています。
地図で現在土台が残っているのは右側の4棟の兵舎の部分です。
左側は第二次世界大戦が終わった後、引揚げ者用の住宅として使われて、今は立て替えられています。 -
基礎の石積みがところどころに見える先には苔むした休憩所。
-
私たち以外誰もいないドイツ村公園。
捕虜の身とは言え、板東に送られてきた捕虜たちは、きっと日本の素晴らしい思い出を胸に故郷ドイツに帰ったに違いない、と思いました。 -
ここが捕虜収容所入り口です。
柱の片方には『板東俘虜収容所跡』、もう片方には『「第九」日本初演の地』と。
木立に同化して見えにくいですが、柱と柱の間の鉄細工の飾りと電灯(?)のアーチが何となくドイツらしいなー。
アウシュヴィッツではこの間には「Arbeit macht Frei.(働けば自由になる)」という文字がありましたね。
それと比較することはできませんが、こんなに素晴らしい自由な捕虜収容所なんて世界どこを探してもなかったでしょう。
日本に板東俘虜収容所があったことを私は誇りに思います。 -
奥のほうに兵舎左半分を利用して建てられた引揚げ者住宅、現在は集合住宅に建て替えられた団地が見えます。
あそこに住んでいた高橋春枝さんが、長年放置されていた慰霊碑の供養を続けてくださったお蔭で、元捕虜との交流の輪が大きく広がりました。
今、鳴門市では、「板東捕虜収容所関係資料」のユネスコ「世界の記憶」としての登録運動が進められています。
さて、私たちは入り口から出て、次へ向かいます。
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この旅行記へのコメント (18)
-
- ベームさん 2021/02/03 11:16:02
- しばらく鳴りを潜めていらっしゃると思っていたら
- Frau himmel さん、
お久しぶりです。たしか昨年の12月のプラハ旅行記いらい、大人しくなさっておられると心配していたら、国内鳴門方面の記録をアップなさっていたのですか。国内編は余り見ないので気が付きませんでした。お元気そうで良かったです。
私と言えば昨年2月の旅行記を最後に、お上の要請に忠実に応えひたすらステイホームを実行しています。コロナ禍が済んでも足腰の衰えで街歩きが再開できるかどうか分かりません。ひたすらよそ様の旅行記を拝見して無聊を慰めています。
himmelさんは過去の材料をまだまだお持ちですから羨ましいです。これからも楽しませてください。
ベーム
- frau.himmelさん からの返信 2021/02/03 20:23:05
- RE: しばらく鳴りを潜めていらっしゃると思っていたら
- ベームさん、こんばんは。
お久しぶりです。
コロナ感染はなかなか終わりが見えませんね。
そんな中、前にも申し上げたかも知れませんが、潔く海外旅行引退宣言をなさったベームさん、まるで先見の明がおありになったかのようでした。
それからしばらくしてあのコロナ騒動が勃発、今は海外なんて行きたくても行けない状況下です。ベームさんと違って、まだまだ未練たっぷりの私は、コロナが長引くと行く機会が無くなるじゃない!、って足掻いています。
そんな状況の中で書く旅行記ですから、いろいろ材料はあっても、なかなか落ち着けず、あっちふらふらこっちふらふら。集中して取り組めない、というのが今の私です。
せっかくお上の要請で時間がたっぷりできたというのに。
しばらくは落ち着いて、大塚国際美術館のルネッサンスやバロック絵画の勉強をしたいという目標ができましたので、またベームさんの旅行記にお邪魔させてくださいね。
何と言ってもベームさんのご専門ですし、私にはお門違いの部分ですので。
コロナに加えて、またまたベームさんの嫌な季節が到来しますね。
どうかお身体にお気を付けください。
コメントありがとうございました。
himmel
-
- rsさん 2021/01/23 09:37:59
- 収容所の件
- >frau.himmelさま
おはようございます&先日は自身の旅行記にお越し頂きまして、
誠にありがとうございます。
収容所の件ですが、『板東俘虜収容所』の様に極めて人道的な所も
あれば、アウシュビッツの様な、人を人とも思わない場所も
ありますよね。恐らく前者の様な場所って世界的に見ても極めて
稀な収容所であると推測致します。
(下手に捕虜に対して人道的な態度を取ると、場合によっては監視官自身の
命だって危ないと思います。)
『バルトの楽園』ですが、まだ観ていないのですよ。今度時間に余裕が
できた時にでも観たいと思います。
では、お邪魔しました。
失礼言あします。
- frau.himmelさん からの返信 2021/01/23 23:02:20
- RE: 収容所の件
- rsさん、こんばんは。
コメントありがとうございます。
rsさんのプロフィールに「行ってみたいところ」で東ドイツと書いていらっしゃったので、ドイツがお好きな方なのだろうな〜と思っておりました。
そうですね。ドイツなどの特にナチスの収容所と、日本の俘虜収容所とはとても一緒にはできませんね。
第一次大戦の収容所は○○条約とかで保護されていて、捕虜であっても粗末に扱うことはできなかったようですから。
私もこの旅行記を書いて知ったのですが、日本にある俘虜収容所はほとんど人道的なところばかりだったようですね。これが日本だったことに誇りに思います。
映画「バルトの楽園」は、ドイツでワールドカップが開催された年の2006年制作の古いものです。
お時間がありましたらぜひご覧になってください。
rsさんの旅行記の方にもまたお邪魔させていただきますね。
himmel
-
- salsaladyさん 2021/01/18 09:50:06
- 津田沼でも年に一度ドイツ祭が~
- ☆今年も、春から精力的なレポートが始まり、楽しみです。
☆ドイツーゲシュタポー捕虜収容所と来ると、何故か恐いドイツ人を想像しますが、千葉にも心ある日本人とドイツとの民間交流があったことを数年前に知りました。
☆音楽に関してはヨーロッパでもドイツ源流?とされるクラシック!だから、ドイツの民は根底に音楽を愛する気持ちが強いのですね。(良く判らないけど?)
☆クラシックを囓ってた頃、「ドイツ祭に指揮を降るので来てみないか?」とレッスン老教師(私とは余り気が合わなかった)が誘ってくれたので、電車で30分の津田沼まで足を運びました処、びっくりするくらいの人出が~歌の方は閑散として、折角持参したプチ花束を無造作に受け取る老ピアニストでしたが~
☆驚いたのは、先月訪れた「宮古島」でも"花とドイツの文化村”の存在でした。
☆昔の日本人の気概と世界との交流(難破船の漂流民を助ける漁村の人々)にいたく感激しました。和歌山や沖縄でも聞く話ですが、人種を越え利害抜きで人助けをする心意気を持った日本人って嬉しい限りです。今もそうありたいよね~
- frau.himmelさん からの返信 2021/01/18 21:30:02
- RE: 津田沼でも年に一度ドイツ祭が?
- salsaさん、こんばんは。
えっ津田沼でもドイツ祭り!?
驚いて検索してみました。
ホントに毎年津田沼公園で開催されているのですね。それもドイツのビール祭り、オクトーバーフェストに合わせて10月に。
知らなかった〜〜。
ネットで見て、ビールとソーセージが美味しそうでした。
そしてsalsaさんのコメントで思い出したことが。
salsaさんの老教師(失礼!ママ)が津田沼でコンサートの指揮をなさったと聞いて、そう言えば私も前に友人に誘われて津田沼のホールにコンサートを聴きに行ったことがあったなーと。
今回検索しているうちにそれがモルシアという会場だったことを思い出しました。
千葉では何度かコンサートを聴きに行ってますので、あるいはsalsaさんにもお会いしているかも(笑)。
それにしても日本とドイツって結構いろいろと縁があるのですね。
私が知っていたのは、マザー牧場のドイツ村だけ。だけどあれってテーマパークみたいで食指が動かず、まだ行ったことはありません。
宮古島の人道的な話もそう言えば、きいたことがあったような。
salsaさん、いろいろよくご存知ですね。
本当にいつもコメントありがとうございます。
himmel
-
- mistralさん 2021/01/14 16:30:32
- 素晴らしい活動があった収容所。
- himmel さん
本年最初の旅行記のアップになるのでしょうか。
最初を飾る、素晴らしい旅行記ですね。
今年もどうぞよろしくお願い致します。
さて、坂東俘虜収容所、名前も存じ上げませんし、そこで行われていた
活動?!の事も知る由もありませんでした。
まだ日本の国力も充分にあった時代なんでしょうね。
himmelさんがテレビ番組をご覧になって、そこを訪問されることを決心され
こうして旅行記をアップされるに至って、更に多くの人も共有出来たこと、
意義が大きかったと思います。
一泊のご予定で鳴門まで、
普通でしたらうず潮などの見学で終わってしまいそうな旅程ですね。
私も収容所という言葉から連想されるイメージは悲惨なものばかりでした。
ところが坂東での収容所生活では、収容された方々が活気に満ちていて
色々な物を生産し日本人とも交流されている、
そしてなによりも感動的だったのは、日本で初めて演奏されたという
ベートーベンの第九ですね。
その後もこのイベントは続けられ、当時の俘虜だったかたのご子孫も参加
される一大イベントとなっているとか。
その番組を私も見たかった、と思いました。
世界の情勢は、日々ウィルスによって揺れ動いていますが
いつの日か安心して旅立てる日が来ることと思います。
その日まで、お互いに健康に気をつけて過ごしましょう。
mistral
- frau.himmelさん からの返信 2021/01/15 11:55:41
- RE: 素晴らしい活動があった収容所。
- mistralさん。
おはようございますと書きそうになって、もうこんな時間!?と。
今日は昨日と一転してまた寒さがぶり返してまいりましたね。
こんな日は、コロナ籠もり生活の散歩も億劫で、さあどうしようかと。
いつもコメントありがとうございます。
私の読みにくい文章を、いつも丁寧に読んだくださり、恐縮しております。
私も四国に収容所があったことは何となく知っていましたが、たぶん全国にどこにでもある娯楽的なものとばかり思っていました。
映画「バルトの楽園」を見てから、ちょっと違うかなと、大好きなドイツ関係ですから興味をもって調べはじめました。
2018年のNHKテレビ、あれは面白かったですね。あれを見て、これはドイツファンだったら絶対行かなければと。
で、やっとあの時行くことができました。
しかしせっかく行っても、旅行記として陽の目をみるのは1年半以上も後ですから、本当に私のノロさ加減といったら・・・(泣)。
あの時は3か月後にドイツ旅行を控えていましたので、そんなに長く日程をとることができず、1泊2日になりました。たぶんそれ以上でしたら、運転手(笑)の夫が黙っていないでしょう。mistralさんと違って私は運転できませんから。
それに私たちの旅はいつもスポット観光ですから、結構満足できた旅でした。
第1次世界大戦後の俘虜収容所って、なんとか条約で保護されていて、捕虜と言えども粗末に扱うことはできなかったのですね。
それにしても私の認識と大きく隔たりがあったので、驚きました。
あの時の捕虜たちがバウムクーヘンやローマイヤ、またはソーセージの製法を持ちこんでくれたのですから。
鳴門ドイツ館、見ごたえがあります。四国方面にいらっしゃるときは、是非ご予定に入れてください。
mistralさんは運転をなさいますから、ウチのように険悪な関係にはならないでしょう(笑)。
旅行記、2日目は徳島と言えばあそこ!
に、行ってまいりました。
私の好きな分野ですから、きっとまた長くなるだろうな〜と。
良かったらみてください。
ほんとにこのままだと海外どころか国内旅行もままなりませんね。
早く終息してほしいです。
himmel
-
- ねもさん 2021/01/13 13:17:51
- 素晴らしい旅行記
- himmelさん
私のいい加減な旅行記とは正反対のヒューマニズム、思わずもらい泣きしそうです。撮影禁止を乗り越えたバイタリティーもさすが!
こんなドツボな時期にもぴったりの前向きなメッセージと思いました。例のウイルス感染拡大がなければ、昨年のベートーベン生誕250年はもっと盛り上がったでしょうね。
昨春の緊急事態宣言下で、N響の桂冠名誉指揮者ヘルベルト・ブロムシュテットが「こういうときはベートーベンが特にお薦め」と仰ってました。
- frau.himmelさん からの返信 2021/01/13 22:06:15
- Re: 素晴らしい旅行記
- ねもさん、ご挨拶が遅くなりましたが、本年もよろしくお願いいたします。
ねもさんの山の旅行記、いつも楽しみながら拝見しています。
雪山の美しさもさることながら、それに彩を添えてくれるのが、息子さんやお嬢様を含めた家族愛。いいですね~~。それとほっと心が温かくなるのが、お食事の写真。贅沢ではないけれど(それがいいのです)、ほんとに美味しそう。
コメントありがとうございます。
お褒めに与りまして、お恥かしい。
実は今回の旅行記はほとんど説明付きの写真資料でしたし、それと調べるのも日本語ですから、そんなに褒めていただくことでも・・・。なんて照れ隠しです。確かに時間はかかりましたので、素直にうれしいです。
そうですね。ボンやウィーンではベートーヴェン生誕250年で、いろいろな企画を立てていたようですが、全滅でしたね。
私もあんなことさえなければ、今年もヨーロッパに行ってその中の一つくらいは見ることができたのにと残念です。
ヘルベルト・ブロムシュテットさん、いいことを仰いますね。
ヨーロッパには行けなかったけれど、テレビでもベートーヴェンの特集をいろいろやっていて、今年ほどベートーヴェンを聴いた年はなかったのではないかしらと思いました。
それにしても、このコロナ禍、いつまで続くのでしょうね。
早くマスクを外して外出したい思いに駆られます。
himmel
- ねもさん からの返信 2021/01/14 22:19:01
- Re: 素晴らしい旅行記
- himmelさん ご返信ありがとうございます。
また過分なお言葉ありがとうございます。私は好きなことをしているだけで、妻や子どもたちは迷惑してるかも!?
そんな細かいところまでご覧いただいて(^^) しょっちゅう遊び歩いているので豪華なディナーでは身が持ちません(笑)
ブロムシュテット指揮のN響は第7交響曲をやってました。私が大好きな曲です。第5や第9は言いようがないほどの傑作ですが、寝転がって聴く音楽ではないような気がします。
いつになったら海外を歩けるのでしょうね。こんなことなら一昨年、無理しても行っておけば良かったと後悔(><)
- frau.himmelさん からの返信 2021/01/16 11:44:45
- RE: Re: 素晴らしい旅行記
- ねもさん、おはようございます。
前回のコメントで、ベートヴェンの生誕250年のことで、今年今年と2度書いていますが昨年の間違いです。どうもコロナのせいで、年が改まったという意識にかけていますね。
それからすみません。私も海外旅行記の写真は、食事は質素なものばかりなもので。
皆様の豪華なコース料理など見せていただきますと、凄いなー、あれみんな完食なさるのかしら?とそれが心配で・・(笑)。
私も7番好きです!。あの旋律がたまりません。
私がかな〜〜り若い10代のころ、音楽好きの仲間と、ベートーヴェンでは何が好き?って話になり、皆それぞれに運命だの英雄だの田園だのと言っていましたが、私が「7番」というと、何それ、題名は?って言われたことを思い出しました。
田舎の乙女たちですから、すべて題名が付いていると思っていたのですね。
ねもさんのコメントで遠い昔を思い出しました。
本当に早く海外に行けるようになって欲しいですね。
himmel
- ねもさん からの返信 2021/01/16 21:29:59
- Re: 素晴らしい旅行記
- himmelさん 再返信ありがとうございます。
ほぼ同感! 貧乏性なもので、そんなに食事にお金をかけなくて良いから、もう1回旅行に行こうよ(笑)と思ってしまいます。
himmelさんはベートーベンの交響曲をすべて聴いたのは何歳くらいですか? 私はもう20歳代なかばだったと思います。
大人になって初めて聴いた名曲ってホントに感激します(単純すぎ?、笑) ベートーベンの第7とかドボルザークの第8とかブラームスの第2とか……
- frau.himmelさん からの返信 2021/01/17 20:51:45
- RE: Re: 素晴らしい旅行記
- ねもさん、こんばんは。
>himmelさんはベートーベンの交響曲をすべて聴いたのは何歳くらいですか?
えっベートーベンの交響曲全曲?
果たして全曲聴いているのかしら。
有名どころは判りますが、2番はどんなだった?8番は?
なんて、お恥ずかしながら私の音楽歴ってそんなものです。
高校のころ音楽部に入っていまして、音楽室に行けばいつも名曲のレコードがかかっていました。そのころはよく聴きました。
また、授業でも先生が名曲のさわりだけ数秒聴かせて、誰が早く曲名を答えられるか、ということもやっていました。
テレビでもやっていましたね、クイズ番組「ドレミファドン!」でしたか。負けず嫌いの私は最初だけ覚えて、人より早く答えて、喜んでいたものでした。クイズで音楽をおぼえたようなものですね。(笑)
今はゆっくり優雅に音楽を聴く時間も少なくなりました。
このコロナ禍、ステイホームですからベートーヴェン、久しぶりに聴いてみようかな。
ねもさん、ほんとにお詳しいですね。
また教えてください。
himmel
-
- jijidarumaさん 2021/01/13 01:27:05
- ドイツさんと板東俘虜収容所について
- himmelさん、
今晩は。いつもありがとうございます。
本年も宜しくお願いします。
ドイツさんと板東俘虜収容所の事や会津人松江大佐などについては、(NHKやバルトの映画を知りませんが)以前より認識していました。その認識以上に今回のたいへん詳細な旅行記を拝読し、さすがhimmelさんならではのものと感心した次第です。
やや第九とか、ベートーヴェンに乗っかり過ぎな鳴門市は気に入りませんが、ともあれ松江大佐の収容所所長としての対処は人道的で嬉しい話、むしろ会津の武士道精神(私は会津好き)を感じさせてくれました。
こうした良い事績は高橋さんという女性の事も含めて、日本人の良さをもっと多くの方々や、国々に知って頂きたいものです。
第一次大戦では勝者側にいた事もあり、国としても余裕があった時期でもあり、こうした事が可能であったのでしょう。残念ながら、第二次大戦では敗者となり、戦時下では経済的にも余裕はなかったから、米兵捕虜への対応で問題も生じたようです。
それもあって、様々な施設や記念碑も新しく、それまで良い事績も時代の陰に隠れていたように思います。
さて、第九の本邦初演については週刊「ドイツさんと久留米」(全8回)をお読み頂くと、別の面もあるようです。久留米は遠慮がちですが、高等女学校での出来事なので、もっと世に知らしめても良さそうに思います。
http://www.city.kurume.fukuoka.jp/1080kankou/2015bunkazai/3030shuuzoukan/2019-1024-1155-280.html
ではまた。
jijidaruma
- frau.himmelさん からの返信 2021/01/13 21:31:28
- Re: ドイツさんと板東俘虜収容所について
- jijidarumaさん、ご挨拶が遅くなりましたが、本年もよろしくお願いいたします。
コメントありがとうございます。
>・・・その認識以上に今回のたいへん詳細な旅行記を拝読し、さすがhimmelさんならではのものと感心した次第です。
とんでもありません、私の認識の低さはどうしようもないくらい低いもの、お恥ずかしいです。
収容所と言ったら、過酷な労働、虐待、劣悪な環境、人体実験などの、あのドイツの収容所のことを思い出しますし、
いつぞやjjijidarumaさんからコメントいただいた、ブーヘンバルトのゲーテの樫の木、あれもたしか虐待のために囚人を吊るした木ではなかったかしら(記憶がアヤフヤです)なんてそんな残酷な想像しかしていませんでした(笑)。その程度です。
しかし、今回の収容所はほっと心に灯がともる温かい収容所でした。やはり会津の武士道精神ですね。
貼り付けてくださった久留米俘虜収容所をさきほどざっと拾い読みしました。
久留米でも同じようなことがあったのですね。
そして久留米でも「日本初の第九」が演奏された。
えっ!?
なるほど納得しました。状況が違う日本初ですね。
久留米は1919年12月3日、日本で初めて『市民向け』に演奏された。
板東の場合はそれより1年半前の1918年6月1日でしたが、第九が全曲演奏されたのは、『収容所内』のことでした。
>久留米は遠慮がちですが、高等女学校での出来事なので・・・
板東では成しえなかった第4楽章の女性合唱の部分を女学生たちがドイツ語で歌ったのかしら、凄いな~と思いました。ちょっと勘違いでした。
でも、久留米の演奏会は写真を見る限り大演奏会ですね。
あの当時、収容所(笑)で、あんなことがあった、と言うことに驚きました。
板東俘虜収容所の第九の指揮者ヘルマン・ハンゼンは、jijidarumaさんもよくご存知のフレンスブルク(グリュックスブルク)出身なのですね。
第1次大戦が終わった後、フレンスブルクやシュレスヴィッヒ地方のドイツ領だった付近は、ドイツに残るか、デンマークに復帰するか、どちらの国民になるかの大事な住民投票が行われるということで、彼は他の捕虜たちより早く1919年8月に帰国したのだそうです。
旅してきた中で、歴史的に知っている事実に出合うとうれしくなります。
「ドイツさんと久留米」、面白そうですね。ゆっくり拝見させていただきます。
コロナ感染の拡大は全く目も当てられませんね。
jijidarumaさんは、今年のドイツのご旅行は中止なさったのですね。本当に何時になったら終息するのでしょうか。
お互いに若くはない身、気を付けましょう。
himmel
- jijidarumaさん からの返信 2021/01/15 14:00:27
- Re: ドイツさんと板東俘虜収容所について=>久留米=>習志野俘虜収容所長
- himmelさん、追加です。
「習志野・ドイツ兵捕虜がオーケストラ活動について」、てくてくさんが口コミに本日掲載されておられたので、拝見しました。
以下は習志野市のHPからの引用です。勿論、その他の地区でも似たような事があった事でしょうね。
他の地区は知りませんが、板東にしても習志野にしても、収容所長には然るべき方を選んだようですね。
・・・・
習志野俘虜収容所長は、西郷寅太郎(さいごうとらたろう)大佐でした。彼は西郷隆盛の嫡子(ちゃくし)であり、父が反逆者として敗死した後、明治天皇の思召(おぼしめ)しでドイツの士官学校に留学していた経験を持ち、ドイツに深い理解を持っていました。そればかりでなく、戦争の悲惨さや敗れた者のみじめさも、身をもってよく知っていたのです。
大正8年(1919年)6月22日 演奏会プログラム ◇
単調な捕虜生活を彩ったのは、音楽をはじめとする文化活動とスポーツでした。習志野捕虜オーケストラは、所内でたびたび演奏会を開き、ベートーヴェン、モーツァルト、シューベルトそれにヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」までが演奏されていました。(右の演奏会プログラムの7曲目に「美しく青きドナウ」があります。)草深い習志野原に、望郷(ぼうきょう)の思いを乗せてウィンナ・ワルツが流れていたのです。
<第一次世界大戦と習志野―大正8年の青きドナウ―>
https://www.city.narashino.lg.jp/smph/citysales/kanko/bunkahistory/rekishi/Narashino_POW_camp_1915.html
以上ご参考に。
jijidaruma
- frau.himmelさん からの返信 2021/01/16 13:46:50
- RE: Re: ドイツさんと板東俘虜収容所について=>久留米=>習志野俘虜収容所長
- jijidarumaさん、コメント再度ありがとうございます。
前回コメントをいただいた後に習志野のことも調べた折、貼り付けてくださったサイトを見ました。
驚きました。板東と同じことがあったのですね。
そしてもっと驚くことが。
夫に「習志野にも俘虜収容所があったのね?」と訊ねましたら、「なに言っているんだ。昨年講演会を聞きにいったでしょう!?」と。
ちょうど1年前、コロナが問題になる前でしたが、習志野市役所で「ドイツ捕虜解放100周年」という展示会と講演会をやると、NHKのテレビで案内していたので、実は講演会を聞きに行ったのでした。
あの時は説明もよく理解できず、それに展示も板東の比ではなく、私の記憶からすっかり抜け落ちていました。齢ですね〜。
しかも西郷隆盛の長男が所長をしていた?
そんな展示があったかな?あれば前年鹿児島で西郷隆盛の追っかけをして、旅行記も何冊か出していますので、覚えているはず。
そしてオーケストラのことも。???。
恥ずかしいです。その時はその程度の興味だったのですね。
それにしても第1次大戦の日本での俘虜収容所は全国にあったのに、なぜ板東だけが特に取り上げられるのか?
やはり、もと捕虜たちや関係者が資料を提供して立派なドイツ館ができたことと、その後の地元民と元捕虜たちの交流の輪が広がったこともあるのでしょうね。
たしか、習志野の展示会では写真を取ったはずなので(笑)、探したらもう少し勉強してみたいと思います。
ドイツに行くことが儘ならない今、面白い案件を教示してくださってありがとうございます。
himmel
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