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道の駅で岩ガキを食べ、雨滝で遊び、仁風閣で鳥取についての新しい知識を得、鳥取城跡を攻めました。鳴き砂体験をするために訪れた井出が浜では全く鳴き砂がならなくてしょぼん。

滝と城跡と名産品

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2019/08/18 - 2019/08/18

2135位(同エリア4831件中)

旅行記グループ 2019 8

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su3

su3さん

この旅行記スケジュールを元に

道の駅で岩ガキを食べ、雨滝で遊び、仁風閣で鳥取についての新しい知識を得、鳥取城跡を攻めました。鳴き砂体験をするために訪れた井出が浜では全く鳴き砂がならなくてしょぼん。

旅行の満足度
4.5
交通手段
自家用車 徒歩

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  • 砂丘での食事後は車を走らせて道の駅きなんせ岩美へ。

    砂丘での食事後は車を走らせて道の駅きなんせ岩美へ。

    道の駅 きなんせ岩美 道の駅

    生牡蠣が食べれる道の駅 by su3さん
  • 入り口には松葉ガニとマンホールと岩美を舞台にしたアニメのボード。

    入り口には松葉ガニとマンホールと岩美を舞台にしたアニメのボード。

  • 松葉ガニの産地ですものね。

    松葉ガニの産地ですものね。

  • マンホールはやはり海岸。

    マンホールはやはり海岸。

  • 入り口近くで不思議なボードを発見。

    入り口近くで不思議なボードを発見。

  • こちらでメッセージを書いて、

    こちらでメッセージを書いて、

  • このボードに貼ることができます。<br /><br />どうやら2019年7月18日あった京都アニメーション放火殺人事件へのメッセージボードのようです。岩見を舞台にしたfree!というアニメーションを作っている会社だったので、このような企画が出されている模様。京都アニメーションへの応援メッセージがずらりと並んでいました。

    このボードに貼ることができます。

    どうやら2019年7月18日あった京都アニメーション放火殺人事件へのメッセージボードのようです。岩見を舞台にしたfree!というアニメーションを作っている会社だったので、このような企画が出されている模様。京都アニメーションへの応援メッセージがずらりと並んでいました。

  • こちらはきなんせ岩美内のフードコート。<br />千貫松カレー、もさえび天、さばたつバーガーなど結構魅力的なラインナップ。

    こちらはきなんせ岩美内のフードコート。
    千貫松カレー、もさえび天、さばたつバーガーなど結構魅力的なラインナップ。

  • まだ一度もいただいたことのないふろしきまんじゅうの幟を過ぎてさてお買い物です。

    まだ一度もいただいたことのないふろしきまんじゅうの幟を過ぎてさてお買い物です。

  • お安くておいしそうな海の幸がどっさり。乾物や野菜や果物などもたくさんあって思わずいろいろ買ってしまいます。

    お安くておいしそうな海の幸がどっさり。乾物や野菜や果物などもたくさんあって思わずいろいろ買ってしまいます。

  • 昼食後だったのですが、せっかくですから岩ガキ食べちゃいましょう。

    昼食後だったのですが、せっかくですから岩ガキ食べちゃいましょう。

  • 牡蠣の殻を開けるとぎっしり詰まった一口では食べることが難しいサイズの身がお目見え。頬張ると海の香りが口の中いっぱいに広がって幸せでした。

    牡蠣の殻を開けるとぎっしり詰まった一口では食べることが難しいサイズの身がお目見え。頬張ると海の香りが口の中いっぱいに広がって幸せでした。

  • きなんせ岩美の館内にあるベルフルという店で、あご天焼きという気になる商品がありましたが、もうおなかいっぱいだー、ということで断念。またいつか来よう。そして次はこれを食べよう、と心に誓いました。

    きなんせ岩美の館内にあるベルフルという店で、あご天焼きという気になる商品がありましたが、もうおなかいっぱいだー、ということで断念。またいつか来よう。そして次はこれを食べよう、と心に誓いました。

  • お隣のフレッシュライフいわみにもよって脱水症状を防ぐために2リットルのペットボトルをを購入。

    お隣のフレッシュライフいわみにもよって脱水症状を防ぐために2リットルのペットボトルをを購入。

  • 中に入るといたって普通のスーパーでした。

    中に入るといたって普通のスーパーでした。

  • 雨滝に到着しました。<br />いろいろな滝がありますね。この周辺は大小48の滝があると言われているそうですが、実際には48あるわけではなく、数が多いという意味で 「雨滝四十八滝」という言い方をしているんだとか。

    雨滝に到着しました。
    いろいろな滝がありますね。この周辺は大小48の滝があると言われているそうですが、実際には48あるわけではなく、数が多いという意味で 「雨滝四十八滝」という言い方をしているんだとか。

    雨滝 自然・景勝地

    古代からの霊場 by su3さん
  • 雨滝に向かう途中にあった幕。<br />雨滝は平成2年に日本の滝100選に選ばれています。

    雨滝に向かう途中にあった幕。
    雨滝は平成2年に日本の滝100選に選ばれています。

  • 最初に見えたのは布引きの滝。<br />山の中腹より湧き出る地下水のため、長期の日照りや豪雨にも水量の変わることはないそうです。絹布を懸け流したような美しさからこの名がついています。

    最初に見えたのは布引きの滝。
    山の中腹より湧き出る地下水のため、長期の日照りや豪雨にも水量の変わることはないそうです。絹布を懸け流したような美しさからこの名がついています。

  • 見えてきました、雨滝。<br />この辺りは雨滝渓谷というんですね。

    見えてきました、雨滝。
    この辺りは雨滝渓谷というんですね。

  • さらに奥に進みます。

    さらに奥に進みます。

  • 渓流がすがすがしい。

    渓流がすがすがしい。

  • 東屋がありました。

    東屋がありました。

  • 東屋に入ってふと天井を見あげると、滝やこのあたりのことについての説明がありました。

    東屋に入ってふと天井を見あげると、滝やこのあたりのことについての説明がありました。

  • さっき見た布引の滝について。

    さっき見た布引の滝について。

  • 雨滝の先には筥滝という三段の滝もあるんですね。

    雨滝の先には筥滝という三段の滝もあるんですね。

  • 筥滝の滝壺には、意地の悪い養父母に育てられた亀という男の子が滝にナタを落とし、無情にも拾ってくるよう言いつけられ、滝に入った亀は二度と浮かんで来なかったという伝説があって亀が渕と言うそうです。<br />救いのない悲しいお話ですね。

    筥滝の滝壺には、意地の悪い養父母に育てられた亀という男の子が滝にナタを落とし、無情にも拾ってくるよう言いつけられ、滝に入った亀は二度と浮かんで来なかったという伝説があって亀が渕と言うそうです。
    救いのない悲しいお話ですね。

  • 宿で見た傘を使った踊りはこの地が発祥だそうで「因幡の傘踊り」と言います。鳥取県東部を中心に伝わる雨乞いと初盆供養の民俗芸能で県の無形民俗文化財に指定されています。<br /><br />傘踊りの由来は鳥取市国府町、鳥取市横枕にそれぞれ別の話が伝わっています。<br />鳥取市国府町では、江戸時代末期に大干ばつになった年に、五郎作という老爺が笠を持って雨乞をしたところ、数日後に雨が降り大飢饉を免れたましたが、五郎作は雨乞の疲れがもとで亡くなったため、その霊を慰めようと五郎作の初盆から笠を手に踊るようになり、その後、山本徳次郎が昔から伝わる踊りを冠笠から長柄の傘に替え、剣舞の型を取り入れた踊りを考案したのが現在の傘踊りとされています。<br />鳥取市横枕では、1786年の飢饉の際に、大干ばつに見舞われ、仁平という若者が雨傘に幣をつけ、神楽歌にあわせて踊ったところ、雨が降って干害を免れたので、以来毎年豊穣を祈る奉納行事として仁平の雨乞踊が行われるようになり、この雨乞踊が工夫されて現在の傘踊りになったとされています。<br />どちらも雨乞いがもとというのは一緒ですね。<br /><br />今では誰でも簡単に踊れるように横枕の傘踊りを元にアレンジして大衆化した「鳥取しゃんしゃん傘踊り」というものもあり、鳥取しゃんしゃん祭で広く踊られているんだとか。

    宿で見た傘を使った踊りはこの地が発祥だそうで「因幡の傘踊り」と言います。鳥取県東部を中心に伝わる雨乞いと初盆供養の民俗芸能で県の無形民俗文化財に指定されています。

    傘踊りの由来は鳥取市国府町、鳥取市横枕にそれぞれ別の話が伝わっています。
    鳥取市国府町では、江戸時代末期に大干ばつになった年に、五郎作という老爺が笠を持って雨乞をしたところ、数日後に雨が降り大飢饉を免れたましたが、五郎作は雨乞の疲れがもとで亡くなったため、その霊を慰めようと五郎作の初盆から笠を手に踊るようになり、その後、山本徳次郎が昔から伝わる踊りを冠笠から長柄の傘に替え、剣舞の型を取り入れた踊りを考案したのが現在の傘踊りとされています。
    鳥取市横枕では、1786年の飢饉の際に、大干ばつに見舞われ、仁平という若者が雨傘に幣をつけ、神楽歌にあわせて踊ったところ、雨が降って干害を免れたので、以来毎年豊穣を祈る奉納行事として仁平の雨乞踊が行われるようになり、この雨乞踊が工夫されて現在の傘踊りになったとされています。
    どちらも雨乞いがもとというのは一緒ですね。

    今では誰でも簡単に踊れるように横枕の傘踊りを元にアレンジして大衆化した「鳥取しゃんしゃん傘踊り」というものもあり、鳥取しゃんしゃん祭で広く踊られているんだとか。

  • 標高1310mの扇ノ山は山頂が扇を広げているような形をしていることからこの名前がつけられました。河合谷高原を通って扇ノ山まで登ると鳥取平野や日本海、中国山地をながめることができるそうです。

    標高1310mの扇ノ山は山頂が扇を広げているような形をしていることからこの名前がつけられました。河合谷高原を通って扇ノ山まで登ると鳥取平野や日本海、中国山地をながめることができるそうです。

  • 一息ついたら東屋からさらに先に進みます。

    一息ついたら東屋からさらに先に進みます。

  • 大きなクスノキの先に橋がありました。その先にはクマ注意の看板。<br />真ん中あたりまで行ってみると…

    大きなクスノキの先に橋がありました。その先にはクマ注意の看板。
    真ん中あたりまで行ってみると…

  • 雨滝が見えました。<br />今日は水量が少なくなっているとは聞いていたのですがそれでもそこそこ水量がありますね。

    雨滝が見えました。
    今日は水量が少なくなっているとは聞いていたのですがそれでもそこそこ水量がありますね。

  • 雨滝は古来より有数の霊場として、善男善女の修行の場、お遍路さんの信仰の場として活用されました。滝のふもとにある不動明王さまにお参りすると、精神病が治ったり商売が繁盛する、という言い伝えがあるとか。せっかくですから、もっと近くまで行きましょうか。

    雨滝は古来より有数の霊場として、善男善女の修行の場、お遍路さんの信仰の場として活用されました。滝のふもとにある不動明王さまにお参りすると、精神病が治ったり商売が繁盛する、という言い伝えがあるとか。せっかくですから、もっと近くまで行きましょうか。

  • 岩場を上って不動尊の近くまで行くと、より飛沫が散ってきて気持ちがいいー。滝の霊水は肌を守り、美人になるとも言われているそうです。

    岩場を上って不動尊の近くまで行くと、より飛沫が散ってきて気持ちがいいー。滝の霊水は肌を守り、美人になるとも言われているそうです。

  • 多くの方がいらっしゃったので、再度、橋まで戻ります。

    多くの方がいらっしゃったので、再度、橋まで戻ります。

  • 暑い日でしたが、橋の上にいるだけでも涼しい。

    暑い日でしたが、橋の上にいるだけでも涼しい。

  • 滝から落ちた水は桂の大木の横をさわさわと流れていきます。

    滝から落ちた水は桂の大木の横をさわさわと流れていきます。

  • 不思議な形をした桂の大木ですね。<br />雷が落ちて幹が空洞化し、根元から生えた数本が存在している状態だそうです。樹齢数百年の桂で江戸時代には日本銘木320本の一つに数えられていたとか。

    不思議な形をした桂の大木ですね。
    雷が落ちて幹が空洞化し、根元から生えた数本が存在している状態だそうです。樹齢数百年の桂で江戸時代には日本銘木320本の一つに数えられていたとか。

  • 東屋の方に戻りましょうか。

    東屋の方に戻りましょうか。

  • 東屋で一休み。<br />横にはきれいな沢が流れていて涼しいです。

    東屋で一休み。
    横にはきれいな沢が流れていて涼しいです。

  • 川の近くではベンチなどがたくさんあり、たくさんの家族がバーベキューやピクニックなどをしていました。また、子供たちは川に入って遊んでいました。今日は暑いから気持ちがいいだろうな。

    川の近くではベンチなどがたくさんあり、たくさんの家族がバーベキューやピクニックなどをしていました。また、子供たちは川に入って遊んでいました。今日は暑いから気持ちがいいだろうな。

  • 布引の滝を見ながら来た道を戻ります。

    布引の滝を見ながら来た道を戻ります。

  • 車道に出るための階段から見上げた景色の緑が美しい。

    車道に出るための階段から見上げた景色の緑が美しい。

  • このあたりから扇ノ山まで登ることもできるんですね。

    このあたりから扇ノ山まで登ることもできるんですね。

  • 雨滝の第一駐車場で見えた建物。<br />何の店かなと思ってみてみたら瀧の傘という地元雨滝集落運営のお休み処でした。

    雨滝の第一駐車場で見えた建物。
    何の店かなと思ってみてみたら瀧の傘という地元雨滝集落運営のお休み処でした。

  • 雨滝で癒された後は鳥取市内に戻ります。<br />前回の旅行で鳥取と言えばこちらとおすすめされていた仁風閣に今回の旅行で初めて訪れることになりました。

    雨滝で癒された後は鳥取市内に戻ります。
    前回の旅行で鳥取と言えばこちらとおすすめされていた仁風閣に今回の旅行で初めて訪れることになりました。

    鳥取城跡 久松公園 名所・史跡

    巻石垣 by su3さん
  • 広い庭園にまっすぐのびる砂利道を歩いていきます。<br />こちらの庭園は関東大震災後の帝都復興事業の公園・緑化の総括や新宿御苑の園芸整備、明治神宮外苑を造園した折下吉延という方が設計された洋風庭園。仁風閣を挟んで反対側は宝隆院庭園という日本庭園なんだそうです。

    広い庭園にまっすぐのびる砂利道を歩いていきます。
    こちらの庭園は関東大震災後の帝都復興事業の公園・緑化の総括や新宿御苑の園芸整備、明治神宮外苑を造園した折下吉延という方が設計された洋風庭園。仁風閣を挟んで反対側は宝隆院庭園という日本庭園なんだそうです。

  • 庭園の先にはフレンチ型ルネッサンス様式を基調とした白亜の木造瓦葺の2階建ての建物が構えていました。凛とした佇まいに品すら感じる建物ですね。国指定重要文化財で設計は旧赤坂離宮など宮廷建築に多く関わっていた片山東熊。玄関の前に松が植えられているのは、玄関の目隠しのためでしょうか。

    庭園の先にはフレンチ型ルネッサンス様式を基調とした白亜の木造瓦葺の2階建ての建物が構えていました。凛とした佇まいに品すら感じる建物ですね。国指定重要文化財で設計は旧赤坂離宮など宮廷建築に多く関わっていた片山東熊。玄関の前に松が植えられているのは、玄関の目隠しのためでしょうか。

    仁風閣 名所・史跡

    鳥取の文明開化のきっかけになった場所 by su3さん
  • 玄関に進んでいくと、ファサードにある櫛形破風には、六芒星とその中心に池田家の家紋の揚羽蝶。これって魔除けとかの意味もあるんでしょうかね。

    玄関に進んでいくと、ファサードにある櫛形破風には、六芒星とその中心に池田家の家紋の揚羽蝶。これって魔除けとかの意味もあるんでしょうかね。

  • 館内に入って靴を脱いで少し進むと人力車。<br />イベントなどでこの人力車に乗ることもあるそうです。

    館内に入って靴を脱いで少し進むと人力車。
    イベントなどでこの人力車に乗ることもあるそうです。

  • まずは一階を見ていきましょう。御服に入ると、ようこそという説明書きがありました。<br />仁風閣は徳川慶喜の五男でもあり鳥取池田家の第14代当主である池田仲博侯爵が、建築費約44000円(当時の市役所の予算が5万円)を出して、時の皇太子殿下の山陰地方の宿舎として建てられました。工期はなんと8ヶ月。日本海側の気候での冬場の工事だったことを考えると、その工期の短さに驚きますね。

    まずは一階を見ていきましょう。御服に入ると、ようこそという説明書きがありました。
    仁風閣は徳川慶喜の五男でもあり鳥取池田家の第14代当主である池田仲博侯爵が、建築費約44000円(当時の市役所の予算が5万円)を出して、時の皇太子殿下の山陰地方の宿舎として建てられました。工期はなんと8ヶ月。日本海側の気候での冬場の工事だったことを考えると、その工期の短さに驚きますね。

  • 次の御道具置場に足を踏み入れると、建設当時に使用していた道具や暖炉の焚き口の上部、周辺に設けられるマントルピースなどが展示されていました。マントルピースはイギリス製のタイルが用いられていたとか。<br />鳥取県では明治40年5月に仁風閣が完成し、その後に山陰電気株式会社ができて電気が通るようになったので、それ以前は蝋燭が主だったんだなと蝋燭の展示を見て納得しました。

    次の御道具置場に足を踏み入れると、建設当時に使用していた道具や暖炉の焚き口の上部、周辺に設けられるマントルピースなどが展示されていました。マントルピースはイギリス製のタイルが用いられていたとか。
    鳥取県では明治40年5月に仁風閣が完成し、その後に山陰電気株式会社ができて電気が通るようになったので、それ以前は蝋燭が主だったんだなと蝋燭の展示を見て納得しました。

  • 屋根裏からこちらの2枚の棟札が発見され、創建年月日や建築に携わった工匠の浜田芳造以下24名が判明し、保護運動の活発化につながったそうです。余談ですがこちらの棟札に設計者として片山東熊の名はついていませんでした。<br />また、元はこの仁風閣は扇御殿の跡地に立ったので扇邸と呼ばれていたようです。「仁風閣」は皇太子殿下に随行の東郷平八郎が命名したとか。

    屋根裏からこちらの2枚の棟札が発見され、創建年月日や建築に携わった工匠の浜田芳造以下24名が判明し、保護運動の活発化につながったそうです。余談ですがこちらの棟札に設計者として片山東熊の名はついていませんでした。
    また、元はこの仁風閣は扇御殿の跡地に立ったので扇邸と呼ばれていたようです。「仁風閣」は皇太子殿下に随行の東郷平八郎が命名したとか。

  • 仁風閣は皇太子の宿舎として使われた2年後は池田家から鳥取市に管理が委託され、県の迎賓館や市の公会堂、県立科学博物館などに転用されていたそうです。経年による老朽化に加え、鳥取地震の被害により荒廃が進むなど手入れが行き届かない時もあり、昭和40年には解体される計画もあったそうですが、熱心な仁風閣保護運動もあり今の状態に復元修理をされて現在に至ります。

    仁風閣は皇太子の宿舎として使われた2年後は池田家から鳥取市に管理が委託され、県の迎賓館や市の公会堂、県立科学博物館などに転用されていたそうです。経年による老朽化に加え、鳥取地震の被害により荒廃が進むなど手入れが行き届かない時もあり、昭和40年には解体される計画もあったそうですが、熱心な仁風閣保護運動もあり今の状態に復元修理をされて現在に至ります。

  • 仁風閣には6本の煙突に対して8つの暖炉がありますが、その他にも施工されず漆喰の中に埋められている暖炉が7つ存在するのだとか。ちなみに1階には3つ、皇太子が使用する2階には5つあるわけなんですが、寒いから暖炉たくさん造ろうぜ!となったけれどいろいろ大変でやめたとかだったんでしょうね。<br />説明板には明治洋風建築系統図が描いてあって、これがなかなかに面白かったのですが、鳥取県の洋風建築の中では仁風閣が全体的に見ても遅い方だったというのはこの建物の完成度をあげるための重要な要素だったんだろうなと思ってみたり。

    仁風閣には6本の煙突に対して8つの暖炉がありますが、その他にも施工されず漆喰の中に埋められている暖炉が7つ存在するのだとか。ちなみに1階には3つ、皇太子が使用する2階には5つあるわけなんですが、寒いから暖炉たくさん造ろうぜ!となったけれどいろいろ大変でやめたとかだったんでしょうね。
    説明板には明治洋風建築系統図が描いてあって、これがなかなかに面白かったのですが、鳥取県の洋風建築の中では仁風閣が全体的に見ても遅い方だったというのはこの建物の完成度をあげるための重要な要素だったんだろうなと思ってみたり。

  • 鳥取城の御城印。<br />「鳥取城」の文字は地元の書家・柴山抱海による揮毫で、鳥取城の印は有田抱光氏が製作と監修を担当しているそうです。因州和紙を使用しているのがとっても鳥取。

    鳥取城の御城印。
    「鳥取城」の文字は地元の書家・柴山抱海による揮毫で、鳥取城の印は有田抱光氏が製作と監修を担当しているそうです。因州和紙を使用しているのがとっても鳥取。

  • 皇太子のお伴をされていた方々の部屋である随員控室には暖炉がありました。ソファーや書斎机は、池田仲博が東京の屋敷で使用していたものが置いてあるそうです。

    皇太子のお伴をされていた方々の部屋である随員控室には暖炉がありました。ソファーや書斎机は、池田仲博が東京の屋敷で使用していたものが置いてあるそうです。

  • 随員控室にはちょっと外に出っ張った部分があったのですが、これがなかなかに素敵でした。ここからは宝隆院庭園が見え眺めはかなり良かったです。<br />ちなみに家具や調度品の多くは往時の状態で残されているだけでなく、クロスや天井等の内装は後世に張り替えられたものですが、創建当初の状態を参考に忠実に再現しているんだとか。

    随員控室にはちょっと外に出っ張った部分があったのですが、これがなかなかに素敵でした。ここからは宝隆院庭園が見え眺めはかなり良かったです。
    ちなみに家具や調度品の多くは往時の状態で残されているだけでなく、クロスや天井等の内装は後世に張り替えられたものですが、創建当初の状態を参考に忠実に再現しているんだとか。

  • テラスに出ることができるようですね。

    テラスに出ることができるようですね。

  • 随員控室の展示のまず最初は、最後の鳥取藩主である池田仲博に焦点を当てた内容でした。<br />徳川慶喜の五男として生まれた池田仲博は、12歳の時に従兄にあたる侯爵池田輝知が嗣子なくして死去したのに伴い、その次女である亨子と結婚(結婚自体は22歳の頃)し婿養子として池田侯爵家を相続・襲爵しました。陸軍士官学校を卒業後、陸軍歩兵少尉に任官され、1902年に貴族院議員となっています。後に山陰行啓時の宿泊施設として旧鳥取城内の扇御殿跡に仁風閣を建てたのですが、仁風閣の完成時はまだ29歳という若さだったそうです。<br />池田仲博は、徳川慶喜と同様に俳句を好み、近代俳句の様式を築いた正岡子規の弟子、高浜虚子に指導を受けていたそうです。池田仲博は高浜虚子を食事に招き、俳句好きな徳川慶喜とも対面させています。このとき徳川慶喜が、「先生、お酌いたしましょう」と言って、恐縮する高浜虚子に酒を注いだという逸話も残っているそうです。

    随員控室の展示のまず最初は、最後の鳥取藩主である池田仲博に焦点を当てた内容でした。
    徳川慶喜の五男として生まれた池田仲博は、12歳の時に従兄にあたる侯爵池田輝知が嗣子なくして死去したのに伴い、その次女である亨子と結婚(結婚自体は22歳の頃)し婿養子として池田侯爵家を相続・襲爵しました。陸軍士官学校を卒業後、陸軍歩兵少尉に任官され、1902年に貴族院議員となっています。後に山陰行啓時の宿泊施設として旧鳥取城内の扇御殿跡に仁風閣を建てたのですが、仁風閣の完成時はまだ29歳という若さだったそうです。
    池田仲博は、徳川慶喜と同様に俳句を好み、近代俳句の様式を築いた正岡子規の弟子、高浜虚子に指導を受けていたそうです。池田仲博は高浜虚子を食事に招き、俳句好きな徳川慶喜とも対面させています。このとき徳川慶喜が、「先生、お酌いたしましょう」と言って、恐縮する高浜虚子に酒を注いだという逸話も残っているそうです。

  • 池田仲博が家督を継いだのは12歳。幼少期ということもありまだまだ支えが必要な年齢だったので、成人するまでは東京の精養軒で月に2~4回程、池田家協議会が執り行われていました。協議員は初代鳥取県権令であった河田景与や琵琶湖疏水を計画した北垣国道など、激動の時代に重きをなした人物たちで構成されていたようです。<br />1896年に現在の北海道池田町のあたりに300万坪の原野の無償払い下げを受け池田農場を開設した折にも、福井や鳥取から開拓民を招致したり、管理人を決め派遣するなどのために協議会が行われたとか。

    池田仲博が家督を継いだのは12歳。幼少期ということもありまだまだ支えが必要な年齢だったので、成人するまでは東京の精養軒で月に2~4回程、池田家協議会が執り行われていました。協議員は初代鳥取県権令であった河田景与や琵琶湖疏水を計画した北垣国道など、激動の時代に重きをなした人物たちで構成されていたようです。
    1896年に現在の北海道池田町のあたりに300万坪の原野の無償払い下げを受け池田農場を開設した折にも、福井や鳥取から開拓民を招致したり、管理人を決め派遣するなどのために協議会が行われたとか。

  • 1862年に池田慶徳は石見国津和野藩亀井家の抱屋敷を手に入れ、原宿にお屋敷を持ちました。初めは別邸として、大正4年からは本宅として使用していました。中でも慶徳が作らせた池田家の鴨池はよく知られている場所だったそうです。<br />昭和10年代には3万8000坪ほどあったらしく、その中にある邸宅は600坪。外観は和風だけれど、400坪が和風、200坪が洋館の大豪邸が立っている上、200軒の貸家もあったそうです。それゆえに、大正から昭和初期までの間の原宿は「お屋敷町」と呼ばれていたというのスケールが大きすぎて吃驚。邸宅は池田仲博の設計プランで建てられ、庭園は近代を代表する庭師である長岡安平。<br />ちなみに邸宅は戦災で焼失し、現在の敷地跡には東郷神社、東郷記念館、渋谷区立施設などが建っているのですが、お屋敷町と呼ばれるほどの土地ならば納得です。

    1862年に池田慶徳は石見国津和野藩亀井家の抱屋敷を手に入れ、原宿にお屋敷を持ちました。初めは別邸として、大正4年からは本宅として使用していました。中でも慶徳が作らせた池田家の鴨池はよく知られている場所だったそうです。
    昭和10年代には3万8000坪ほどあったらしく、その中にある邸宅は600坪。外観は和風だけれど、400坪が和風、200坪が洋館の大豪邸が立っている上、200軒の貸家もあったそうです。それゆえに、大正から昭和初期までの間の原宿は「お屋敷町」と呼ばれていたというのスケールが大きすぎて吃驚。邸宅は池田仲博の設計プランで建てられ、庭園は近代を代表する庭師である長岡安平。
    ちなみに邸宅は戦災で焼失し、現在の敷地跡には東郷神社、東郷記念館、渋谷区立施設などが建っているのですが、お屋敷町と呼ばれるほどの土地ならば納得です。

  • 事務室に入ると池田家についての展示がありました。<br />池田家の先祖について。<br />先祖である池田恒興は元々美濃の出で、織田信長の乳兄弟です。池田恒利と信長の乳母だった養徳院の間に生まれ、幼いころから小姓として織田氏に仕えていました。信長が討たれ、豊臣側に付いて長久手の戦いで戦死した恒興の次男である輝政が家督を継ぎ、輝政が家康のである督姫を側室に向かえことで、池田家は徳川と縁を結びます。後に輝政は関ケ原の戦いで戦功をあげて播磨姫路藩初代藩主に、三男の長吉が因幡鳥取藩初代藩主になりました。長吉は元々羽柴秀吉の猶子になっていたので羽柴姓でしたが、この時に池田姓に復したそうです。

    事務室に入ると池田家についての展示がありました。
    池田家の先祖について。
    先祖である池田恒興は元々美濃の出で、織田信長の乳兄弟です。池田恒利と信長の乳母だった養徳院の間に生まれ、幼いころから小姓として織田氏に仕えていました。信長が討たれ、豊臣側に付いて長久手の戦いで戦死した恒興の次男である輝政が家督を継ぎ、輝政が家康のである督姫を側室に向かえことで、池田家は徳川と縁を結びます。後に輝政は関ケ原の戦いで戦功をあげて播磨姫路藩初代藩主に、三男の長吉が因幡鳥取藩初代藩主になりました。長吉は元々羽柴秀吉の猶子になっていたので羽柴姓でしたが、この時に池田姓に復したそうです。

  • 大坂夏の陣で豊臣家は滅亡し、姫路城主であった池田輝政の孫にあたる池田光政は幼少を理由に42万石から32万石への減転封を命じられて鳥取城主になります。ちなみに初代因幡鳥取藩主池田長吉の跡を継いだ子の長幸は6万8千石に加増の上、備中松山藩に転封されて備中国松山藩初代藩主となりました。<br />池田光政が藩主として赴いたころには、因幡は小領主が割拠して係争していた地域だったため思うようにできず、生産力も年貢収納量もかなり低かったそうです。しかも10万石を減封されたのに姫路時代の42万石の家臣を抱えていたため、財政難や領地の分配にも苦慮したとか。光政は在封16年の間に手狭だった鳥取城下町の基盤を整備し、今日の区画の基礎を作り上げました。また、光政は鳥取の藩主であった頃に論語を読み、民に教育を施すことがいかに重要であるかを知ったといわれています。<br />ちなみに光政は5歳の折に徳川家康と対面した折に、神が撫でられるほど近くに招かれ「三左衛門の孫よ。早く立派に成長されよ」と言葉をかけられた上、脇差を与えられました。その時、光政は家康の前で脇差を抜き、じっと見つめながら「これは本物じゃ」と語り、それを家康が笑いながら鞘に収めたそうです。光政が退出した後、「眼光の凄まじさ、唯人ならず」と感嘆したという記述が率章録にあります。岡山城に行った時も、岡山の名君と言われていた池田光政ならあり得るなと思えるエピソードですよね。

    大坂夏の陣で豊臣家は滅亡し、姫路城主であった池田輝政の孫にあたる池田光政は幼少を理由に42万石から32万石への減転封を命じられて鳥取城主になります。ちなみに初代因幡鳥取藩主池田長吉の跡を継いだ子の長幸は6万8千石に加増の上、備中松山藩に転封されて備中国松山藩初代藩主となりました。
    池田光政が藩主として赴いたころには、因幡は小領主が割拠して係争していた地域だったため思うようにできず、生産力も年貢収納量もかなり低かったそうです。しかも10万石を減封されたのに姫路時代の42万石の家臣を抱えていたため、財政難や領地の分配にも苦慮したとか。光政は在封16年の間に手狭だった鳥取城下町の基盤を整備し、今日の区画の基礎を作り上げました。また、光政は鳥取の藩主であった頃に論語を読み、民に教育を施すことがいかに重要であるかを知ったといわれています。
    ちなみに光政は5歳の折に徳川家康と対面した折に、神が撫でられるほど近くに招かれ「三左衛門の孫よ。早く立派に成長されよ」と言葉をかけられた上、脇差を与えられました。その時、光政は家康の前で脇差を抜き、じっと見つめながら「これは本物じゃ」と語り、それを家康が笑いながら鞘に収めたそうです。光政が退出した後、「眼光の凄まじさ、唯人ならず」と感嘆したという記述が率章録にあります。岡山城に行った時も、岡山の名君と言われていた池田光政ならあり得るなと思えるエピソードですよね。

  • 光政の叔父である備前岡山藩主の池田忠雄が死去すると、家督を継いだ嫡男光仲の幼少を理由に、鳥取の光政と封地を取り替え、宗家の光政が備前31万5千石、分家筋の光仲が因幡・伯耆32万5千石を治めることとなりました。<br />光仲がまだ3歳だったこともあり、元播磨国山崎藩主であった叔父の松平(池田)石見守輝澄、元播磨国赤穂藩主であった叔父の右近太夫輝興、更に池田光政が後見人として充てられています。光仲は19歳まで江戸藩邸に在住し、領国経営は荒尾氏を筆頭とする家老を中心とした側近に委ねられ、それを監視する国見付が頻繁に派遣されました。<br />光仲は1649年3月に鳥取へ初入国すると、同年4月には直ちに鳥取長寿院で東照宮三十三御神忌を実施して徳川家に忠節を示し、同年12月には、幕府に東照宮を鳥取に勧請することを願い出て、王寺谷に因幡東照宮(旧樗谿神社、現鳥取東照宮)を建立し、徳川家との血縁を領民に示しました。また、藩の実力者で米子城代・筆頭家老の荒尾成利に責問十余条を突き付けて罷免し、藩主の権力を強化したそうです。<br />光仲は学問よりも武芸を好み、性格的には厳正寡黙な人であったらしく、寵臣であった和田三信でも光仲の前に出ると「厳冬でも背に汗した」という程。家臣と衝突することもあったようですが、常に政治には熱心で、藩主の座を2代綱清に譲って隠居した後も藩政の舵取りに携わっていたといわれています。<br />以降、光仲を藩祖とする鳥取池田家は12代に亘って約240年間鳥取城を居城とし、国内で12番目となる32万5千石を誇る大藩として栄えました。

    光政の叔父である備前岡山藩主の池田忠雄が死去すると、家督を継いだ嫡男光仲の幼少を理由に、鳥取の光政と封地を取り替え、宗家の光政が備前31万5千石、分家筋の光仲が因幡・伯耆32万5千石を治めることとなりました。
    光仲がまだ3歳だったこともあり、元播磨国山崎藩主であった叔父の松平(池田)石見守輝澄、元播磨国赤穂藩主であった叔父の右近太夫輝興、更に池田光政が後見人として充てられています。光仲は19歳まで江戸藩邸に在住し、領国経営は荒尾氏を筆頭とする家老を中心とした側近に委ねられ、それを監視する国見付が頻繁に派遣されました。
    光仲は1649年3月に鳥取へ初入国すると、同年4月には直ちに鳥取長寿院で東照宮三十三御神忌を実施して徳川家に忠節を示し、同年12月には、幕府に東照宮を鳥取に勧請することを願い出て、王寺谷に因幡東照宮(旧樗谿神社、現鳥取東照宮)を建立し、徳川家との血縁を領民に示しました。また、藩の実力者で米子城代・筆頭家老の荒尾成利に責問十余条を突き付けて罷免し、藩主の権力を強化したそうです。
    光仲は学問よりも武芸を好み、性格的には厳正寡黙な人であったらしく、寵臣であった和田三信でも光仲の前に出ると「厳冬でも背に汗した」という程。家臣と衝突することもあったようですが、常に政治には熱心で、藩主の座を2代綱清に譲って隠居した後も藩政の舵取りに携わっていたといわれています。
    以降、光仲を藩祖とする鳥取池田家は12代に亘って約240年間鳥取城を居城とし、国内で12番目となる32万5千石を誇る大藩として栄えました。

  • 最後の鳥取藩主である12代池田慶徳について。<br />池田慶徳は水戸藩徳川斉昭の五男で、藤田東吾の言によれば美男で品がよく少しおっとりしていたそうです。同い年の異母弟に14代の池田仲博の実父でもあり、江戸幕府最後の将軍かつ日本最後の征夷大将軍の徳川慶喜がいます。鳥取藩主池田慶栄が嗣子なくして急死したことから、幕命によりその養子となり、学問を奨励し民意を汲むことに努め、軍制改革にも力を入れ国力の増強を図った藩政改革では斉昭の教えを請いつつ実施したそうです。

    最後の鳥取藩主である12代池田慶徳について。
    池田慶徳は水戸藩徳川斉昭の五男で、藤田東吾の言によれば美男で品がよく少しおっとりしていたそうです。同い年の異母弟に14代の池田仲博の実父でもあり、江戸幕府最後の将軍かつ日本最後の征夷大将軍の徳川慶喜がいます。鳥取藩主池田慶栄が嗣子なくして急死したことから、幕命によりその養子となり、学問を奨励し民意を汲むことに努め、軍制改革にも力を入れ国力の増強を図った藩政改革では斉昭の教えを請いつつ実施したそうです。

  • 仁風閣の奥にある螺旋階段。<br />高さ4mの階段には支柱が無く、硬いケヤキを6枚重ねたささら桁で全体を支えています。工匠の浜田芳造が提灯の骨組みからヒントを得て構想し、施工は伊藤金蔵が担ったとか。職人技が光るこの階段は往時は1階の戸外にあった水屋と2階の御食堂の間を使用人が昇降するために用いていたそうです。

    仁風閣の奥にある螺旋階段。
    高さ4mの階段には支柱が無く、硬いケヤキを6枚重ねたささら桁で全体を支えています。工匠の浜田芳造が提灯の骨組みからヒントを得て構想し、施工は伊藤金蔵が担ったとか。職人技が光るこの階段は往時は1階の戸外にあった水屋と2階の御食堂の間を使用人が昇降するために用いていたそうです。

  • 二階に上がってみましょう。<br />こちらの階段にも支柱がないですね。中央に絨毯が敷かれた広い階段を登っていきます。

    二階に上がってみましょう。
    こちらの階段にも支柱がないですね。中央に絨毯が敷かれた広い階段を登っていきます。

  • 見上げると大きな窓からの光が良い感じに室内を照らしていて明るかったです。階段の踊り場には明り取りが設けられていたため階段の足元が暗くならず歩きやすいのもポイント高いな。この階段を登ると東郷平八郎直筆での「仁風閣」という書が飾られていました。

    見上げると大きな窓からの光が良い感じに室内を照らしていて明るかったです。階段の踊り場には明り取りが設けられていたため階段の足元が暗くならず歩きやすいのもポイント高いな。この階段を登ると東郷平八郎直筆での「仁風閣」という書が飾られていました。

  • 皇太子が宿舎として使われた御座所。<br />椅子やソファ、テーブルも当時のものだそうです。椅子などの黒漆塗りに菊花の金蒔絵を施していたり、カーテンボックスに彫刻が施されているところとか凄いですね。シャンデリアもほかの部屋より電球の数が多くて豪華。という感じですが全体的に気品があって落ち着いていて素敵な空間でした。奥のカウチソファーでゴロゴロしながら本が読めたら楽しいだろうな。

    皇太子が宿舎として使われた御座所。
    椅子やソファ、テーブルも当時のものだそうです。椅子などの黒漆塗りに菊花の金蒔絵を施していたり、カーテンボックスに彫刻が施されているところとか凄いですね。シャンデリアもほかの部屋より電球の数が多くて豪華。という感じですが全体的に気品があって落ち着いていて素敵な空間でした。奥のカウチソファーでゴロゴロしながら本が読めたら楽しいだろうな。

  • こちらは御寝室。<br />畳敷きでございますね。以前訪れたことのある松山城内にある興雲閣https://4travel.jp/travelogue/11539694も同じように畳敷きだったな、と思い出してみたり。ライトのデザインが和を感じさせる落ち着きがあって素敵です。

    こちらは御寝室。
    畳敷きでございますね。以前訪れたことのある松山城内にある興雲閣https://4travel.jp/travelogue/11539694も同じように畳敷きだったな、と思い出してみたり。ライトのデザインが和を感じさせる落ち着きがあって素敵です。

  • こちらはトイレ。箱の中には砂を入れて使用するそうです。所謂オマル。水洗トイレがない時代的に二回にトイレを造るとなると…そうなるよね。<br />余談ですが昭和天皇の時代までは、天皇陛下に対して侍医が毎日検便、週1検尿、週1回、30分から1時間ほどの定期健診をすることで健康管理を行っていたそうです。

    こちらはトイレ。箱の中には砂を入れて使用するそうです。所謂オマル。水洗トイレがない時代的に二回にトイレを造るとなると…そうなるよね。
    余談ですが昭和天皇の時代までは、天皇陛下に対して侍医が毎日検便、週1検尿、週1回、30分から1時間ほどの定期健診をすることで健康管理を行っていたそうです。

  • こちらは御物置ですが、現在はテーブルと椅子が配されていました。

    こちらは御物置ですが、現在はテーブルと椅子が配されていました。

  • 物置…なのか?と思ってしまう程、立派な部屋。暖炉もあるので、初めは物置以外の使い方も考えて設計されていたのではないでしょうか。

    物置…なのか?と思ってしまう程、立派な部屋。暖炉もあるので、初めは物置以外の使い方も考えて設計されていたのではないでしょうか。

  • 謁見所は客人が皇太子と面会されるときに使った部屋で、2階ではいちばん広い部屋。天井が高いのでより広さも相まって開放感がありますね。<br />ちなみに仁風閣は1時間900円、午前9時~午後5時までで7200円で貸出しており、細心の注意と節度あるマナーを守れるんだったら撮影OKなんだそうです。この雰囲気ならば色々な撮影に仕えそうですね。

    謁見所は客人が皇太子と面会されるときに使った部屋で、2階ではいちばん広い部屋。天井が高いのでより広さも相まって開放感がありますね。
    ちなみに仁風閣は1時間900円、午前9時~午後5時までで7200円で貸出しており、細心の注意と節度あるマナーを守れるんだったら撮影OKなんだそうです。この雰囲気ならば色々な撮影に仕えそうですね。

  • 御食堂に行ってみましょうか。<br />展示されている座椅子は、殿下が食事の際に実際に使用したものだとか。ひじ掛けの部分が破れていて、使っていたものなんだなと実感しました。

    御食堂に行ってみましょうか。
    展示されている座椅子は、殿下が食事の際に実際に使用したものだとか。ひじ掛けの部分が破れていて、使っていたものなんだなと実感しました。

  • かつてはこの建物の南側にある調理室から、件の螺旋階段を使ってお隣の供進所まで食事を運び、こちらの席に皇太子が座られる見計らって供されていたそうです。

    かつてはこの建物の南側にある調理室から、件の螺旋階段を使ってお隣の供進所まで食事を運び、こちらの席に皇太子が座られる見計らって供されていたそうです。

  • 硝子窓がついている2階のベランダに出てみましょうか。<br />ガラス窓に使用されている手吹きで制作された往時のギヤマンは、1943年の鳥取地震でも割れることはなかったそうです。

    硝子窓がついている2階のベランダに出てみましょうか。
    ガラス窓に使用されている手吹きで制作された往時のギヤマンは、1943年の鳥取地震でも割れることはなかったそうです。

  • ライトの形がクラゲの足のようだ…なんて思いながら、ふとドアノブの位置を見て低いなと気が付きました。昔の人は平均的に今より小さかったからなんですよね。

    ライトの形がクラゲの足のようだ…なんて思いながら、ふとドアノブの位置を見て低いなと気が付きました。昔の人は平均的に今より小さかったからなんですよね。

  • 竣工当時はベランダも1・2階ともに吹き放しだったそうですが、1年後に山陰地方の気候も踏まえて2階ベランダにはガラス戸がつけられサンルームに改装されたとか。日本海側の冬は雪が多くて寒くて大変ですからねぇ。

    竣工当時はベランダも1・2階ともに吹き放しだったそうですが、1年後に山陰地方の気候も踏まえて2階ベランダにはガラス戸がつけられサンルームに改装されたとか。日本海側の冬は雪が多くて寒くて大変ですからねぇ。

  • ここから見える奥の庭園は和風庭園の宝隆院庭園。<br />久松山を背景とする山裾の台地に設けられた池庭で鳥取市指定名勝だそうです。この庭が映画「るろうに剣心」のクライマックスの撮影に使われた場所だとか。

    ここから見える奥の庭園は和風庭園の宝隆院庭園。
    久松山を背景とする山裾の台地に設けられた池庭で鳥取市指定名勝だそうです。この庭が映画「るろうに剣心」のクライマックスの撮影に使われた場所だとか。

  • あちらでは石垣の工事してますね。

    あちらでは石垣の工事してますね。

  • 供進所にはLEGOで作られた仁風閣もありました。

    供進所にはLEGOで作られた仁風閣もありました。

  • 反対側にはこんな展示。こちらで映画「るろうに剣心」のロケがあったんですよね。庭がクライマックスの撮影に使われたんだそうです。

    反対側にはこんな展示。こちらで映画「るろうに剣心」のロケがあったんですよね。庭がクライマックスの撮影に使われたんだそうです。

  • るろうに剣心以外でも、数々の映画やドラマ、CMなどにも仁風閣は起用されているとか。こういう場所は、とても映えるから選ばれやすいんでしょうね。

    るろうに剣心以外でも、数々の映画やドラマ、CMなどにも仁風閣は起用されているとか。こういう場所は、とても映えるから選ばれやすいんでしょうね。

  • 先ほどの螺旋階段を上から見てみました。<br />八角形の壁に沿って取り付けられた螺旋階段。やっぱり美しいラインですね。

    先ほどの螺旋階段を上から見てみました。
    八角形の壁に沿って取り付けられた螺旋階段。やっぱり美しいラインですね。

  • 螺旋階段のある位置から、二階ホールまで戻ります。

    螺旋階段のある位置から、二階ホールまで戻ります。

  • 階段横の二階にある陳列所の部屋から見た風景。<br />陳列所や御物置からは前庭が一望できました。

    階段横の二階にある陳列所の部屋から見た風景。
    陳列所や御物置からは前庭が一望できました。

  • さて1階に戻りましょうかね。

    さて1階に戻りましょうかね。

  • あら、ライトが一つ切れてる。<br />館内にはクラシックなアール・ヌーヴォーを彷彿とさせる舶来品シャンデリアがたくさんあったのですが、鳥取県で初めて電灯を取り入れたのも仁風閣で、タングステン電球を復元して使用しているそうです。

    あら、ライトが一つ切れてる。
    館内にはクラシックなアール・ヌーヴォーを彷彿とさせる舶来品シャンデリアがたくさんあったのですが、鳥取県で初めて電灯を取り入れたのも仁風閣で、タングステン電球を復元して使用しているそうです。

  • 館内を堪能したので出ましょうか。<br />何気にモダンなデザインの玄関床。

    館内を堪能したので出ましょうか。
    何気にモダンなデザインの玄関床。

  • 丸の内であった庭園内から見た二の丸の三階櫓跡が見えますね。<br />背後の山は標高263mの久松山で、山頂には山上ノ丸があります。近世城郭として整備される前の鳥取城は、この久松山を縄張りとする山城でした。

    丸の内であった庭園内から見た二の丸の三階櫓跡が見えますね。
    背後の山は標高263mの久松山で、山頂には山上ノ丸があります。近世城郭として整備される前の鳥取城は、この久松山を縄張りとする山城でした。

  • お次は鳥取城跡に登ります。<br />鳥取城といえば1581年にあった羽柴秀吉による鳥取城の兵糧攻めですが、「城郭の博物館」とも称され、戦国時代から江戸時代にかけて様々な時期の遺構が残る場所でもあります。

    お次は鳥取城跡に登ります。
    鳥取城といえば1581年にあった羽柴秀吉による鳥取城の兵糧攻めですが、「城郭の博物館」とも称され、戦国時代から江戸時代にかけて様々な時期の遺構が残る場所でもあります。

  • 西坂下御門をくぐりましょう。<br />1867年に築かれた潜り門付で八双金具や乳頭金具が貼り付く扉がある高麗門で、1975年の台風により倒壊破損したことにより、現在の門が復元されたそうです。取城跡の中で唯一の城郭建築物になります。

    西坂下御門をくぐりましょう。
    1867年に築かれた潜り門付で八双金具や乳頭金具が貼り付く扉がある高麗門で、1975年の台風により倒壊破損したことにより、現在の門が復元されたそうです。取城跡の中で唯一の城郭建築物になります。

    鳥取城跡 久松公園 名所・史跡

    巻石垣 by su3さん
  • 門をくぐった先に続く階段を登っていきます。石垣が崩落の恐れがあるためか、ところどころに金網が張られていました。

    門をくぐった先に続く階段を登っていきます。石垣が崩落の恐れがあるためか、ところどころに金網が張られていました。

  • 二の丸西半の下段に増設された曲輪である右膳の丸への階段を登っていきます。

    二の丸西半の下段に増設された曲輪である右膳の丸への階段を登っていきます。

  • 右膳の丸から見た二の丸石垣。石垣が良い感じで積まれています。<br />石垣造りの鳥取城は、1582年から1849年までの約270年間かけて段階的に整備されてきました。特に大きな整備を行ったのは、1617年に鳥取城主となった池田光政で、それまで5~6万石規模であった鳥取城を、32万石の居城として一新しました。<br />しかし鳥取城内の建物は明治時代に大半が壊され、天守台など残った石垣も1943年の鳥取大地震で崩壊しました。昭和の半ば頃から石垣を中心とした復元整備がおこなわれ今に至っています。

    右膳の丸から見た二の丸石垣。石垣が良い感じで積まれています。
    石垣造りの鳥取城は、1582年から1849年までの約270年間かけて段階的に整備されてきました。特に大きな整備を行ったのは、1617年に鳥取城主となった池田光政で、それまで5~6万石規模であった鳥取城を、32万石の居城として一新しました。
    しかし鳥取城内の建物は明治時代に大半が壊され、天守台など残った石垣も1943年の鳥取大地震で崩壊しました。昭和の半ば頃から石垣を中心とした復元整備がおこなわれ今に至っています。

  • 右膳の丸に到着。<br />思っていたより広いですね。

    右膳の丸に到着。
    思っていたより広いですね。

  • 右膳の丸から見えた角櫓の石垣。反りが綺麗ですね。算木積にされた石が新しいので復原されたものでしょうね。<br />石垣の奥に見える階段を更に登ります。

    右膳の丸から見えた角櫓の石垣。反りが綺麗ですね。算木積にされた石が新しいので復原されたものでしょうね。
    石垣の奥に見える階段を更に登ります。

  • 先ほどの階段を登って右にも階段。更に上に登ります。

    先ほどの階段を登って右にも階段。更に上に登ります。

  • 二の丸に到着。

    二の丸に到着。

  • 麓から山上まで石垣で城壁を築く登石垣がありました。<br />珍しい石垣手法で、豊臣秀吉の朝鮮出兵時に倭城で導入された手法を日本に持ち帰って、松山城、彦根城、洲本城、米子城等ごく僅かなお城に導入されています。1849年の幕末に拡張された物としては国内唯一ということです。

    麓から山上まで石垣で城壁を築く登石垣がありました。
    珍しい石垣手法で、豊臣秀吉の朝鮮出兵時に倭城で導入された手法を日本に持ち帰って、松山城、彦根城、洲本城、米子城等ごく僅かなお城に導入されています。1849年の幕末に拡張された物としては国内唯一ということです。

  • 良い眺め。<br />のんびり散歩している方が何人かいらっしゃいました。ちょっとした憩いの場のようですね。桜の木もたくさんありますし、「日本さくら名所100選」にも選ばれた桜の名所でもあるようです。

    良い眺め。
    のんびり散歩している方が何人かいらっしゃいました。ちょっとした憩いの場のようですね。桜の木もたくさんありますし、「日本さくら名所100選」にも選ばれた桜の名所でもあるようです。

  • 4つの櫓を前面にして、二ノ丸はかなり強固な防衛線になっていたようです。二の丸は藩主の住む場所で、江戸時代末期には三階櫓、走櫓、菱櫓、隅櫓、表(鉄)御門、二ノ丸御殿、裏御門が建てられていました。

    4つの櫓を前面にして、二ノ丸はかなり強固な防衛線になっていたようです。二の丸は藩主の住む場所で、江戸時代末期には三階櫓、走櫓、菱櫓、隅櫓、表(鉄)御門、二ノ丸御殿、裏御門が建てられていました。

  • 裏御門跡。<br />手前にある階段が裏御門に繋がっている道です。ここに大きな門が建っていたのでしょうね。奥には三階櫓跡の石垣。

    裏御門跡。
    手前にある階段が裏御門に繋がっている道です。ここに大きな門が建っていたのでしょうね。奥には三階櫓跡の石垣。

  • 二ノ丸には露出岩盤があり、1619年頃から始まった城の大改修の際に石垣の石材を調達場として使用され、その石切場跡が残されています。崖の表面には、矢穴と言われる長方形の穴があり、この穴にクサビを入れ大きなハンマーで叩いて岩を割り、石を切り出したそうです。

    二ノ丸には露出岩盤があり、1619年頃から始まった城の大改修の際に石垣の石材を調達場として使用され、その石切場跡が残されています。崖の表面には、矢穴と言われる長方形の穴があり、この穴にクサビを入れ大きなハンマーで叩いて岩を割り、石を切り出したそうです。

  • 鳥取城を最初に築城したのは誰かは、はっきりしてないようです。<br />戦国時代中期の天文年間に因幡の守護である山名誠道が久松山の自然地形を利用した山城として築城したといわれてきましたが、近年の研究では山名誠道の因幡山名氏と対立する山名祐豊の但馬山名氏の付城として成立した可能性の方が支持されているとか。

    鳥取城を最初に築城したのは誰かは、はっきりしてないようです。
    戦国時代中期の天文年間に因幡の守護である山名誠道が久松山の自然地形を利用した山城として築城したといわれてきましたが、近年の研究では山名誠道の因幡山名氏と対立する山名祐豊の但馬山名氏の付城として成立した可能性の方が支持されているとか。

  • 更に進んでみましょうか。<br />あ、奥に鳥居がある。

    更に進んでみましょうか。
    あ、奥に鳥居がある。

  • こちらの神社は中坂神社という稲荷社です。ここにはこんな言い伝えがあります。<br />鳥取城には桂蔵坊という名のキツネが仕えていたそうです。桂蔵坊は人間に化けるのが得意で、人間離れした走力と敏捷性を兼ね備えており、殿様に大いに気に入られていました。ある日、城の近くの村で大好きな焼きネズミが、罠として仕掛けられており、一時は殿様からの大事な用事で江戸に向かう途中だったため、我慢をして道を急いだのですが、仕事を終えて同じ場所を歩いていた時、同じ匂いに遭遇し匂いに我慢できず食らいついて死んでしまいます。<br />それを知った殿様はとても悲しみ、久松山に祠を設けて桂蔵坊を城の守護神として祀りました。こちらはその桂蔵坊を祀った神社だそうです。<br /><br />ちなみにこの神社の脇から山上ノ丸への登城道入口がありました。

    こちらの神社は中坂神社という稲荷社です。ここにはこんな言い伝えがあります。
    鳥取城には桂蔵坊という名のキツネが仕えていたそうです。桂蔵坊は人間に化けるのが得意で、人間離れした走力と敏捷性を兼ね備えており、殿様に大いに気に入られていました。ある日、城の近くの村で大好きな焼きネズミが、罠として仕掛けられており、一時は殿様からの大事な用事で江戸に向かう途中だったため、我慢をして道を急いだのですが、仕事を終えて同じ場所を歩いていた時、同じ匂いに遭遇し匂いに我慢できず食らいついて死んでしまいます。
    それを知った殿様はとても悲しみ、久松山に祠を設けて桂蔵坊を城の守護神として祀りました。こちらはその桂蔵坊を祀った神社だそうです。

    ちなみにこの神社の脇から山上ノ丸への登城道入口がありました。

  • 三階櫓跡。<br />山上の天守が焼失した後に天守代用となった櫓で、山上ノ丸天守焼失後は実質的な天守であり、その規模も規模は三重天守の宇和島城天守、丸亀城天守をしのぐものだったようです。ほぼ同じ高さの城は犬山城天守なんだとか。

    三階櫓跡。
    山上の天守が焼失した後に天守代用となった櫓で、山上ノ丸天守焼失後は実質的な天守であり、その規模も規模は三重天守の宇和島城天守、丸亀城天守をしのぐものだったようです。ほぼ同じ高さの城は犬山城天守なんだとか。

  • 石垣の上に登ってみるとベンチが備え付けられて広場になっていました。<br />ここには正方形の櫓台に上階を下階より規則的に小さくして積み上げた層塔型の三階櫓があったそうです。一階は八間四方、二階は六間四方、三階は四間四方で、山陰地方で初めて建てられたものだったとか。

    石垣の上に登ってみるとベンチが備え付けられて広場になっていました。
    ここには正方形の櫓台に上階を下階より規則的に小さくして積み上げた層塔型の三階櫓があったそうです。一階は八間四方、二階は六間四方、三階は四間四方で、山陰地方で初めて建てられたものだったとか。

  • 眺めが良いですね。鳥取市内を一望できます。<br />天守閣代わりの三階櫓があったというのも納得の景色。

    眺めが良いですね。鳥取市内を一望できます。
    天守閣代わりの三階櫓があったというのも納得の景色。

  • 山上ノ丸の天守が焼失してからは、こちらにあった三階櫓が鳥取城の象徴となっており、石黒大火で焼失したの折にも8年後に再建されましたが、明治20年に解体撤去され、現在その姿は残っていません。<br />明治に入ると、軍事的な必要性が認められた鳥取城は、二ノ丸三階櫓やぐらや三ノ丸御殿などが軍の施設として再利用されましたが、西南戦争の終結後は、国内の治安が安定して軍事上の必要性が無くなったため、残された建造物のほとんどが解体されました。

    山上ノ丸の天守が焼失してからは、こちらにあった三階櫓が鳥取城の象徴となっており、石黒大火で焼失したの折にも8年後に再建されましたが、明治20年に解体撤去され、現在その姿は残っていません。
    明治に入ると、軍事的な必要性が認められた鳥取城は、二ノ丸三階櫓やぐらや三ノ丸御殿などが軍の施設として再利用されましたが、西南戦争の終結後は、国内の治安が安定して軍事上の必要性が無くなったため、残された建造物のほとんどが解体されました。

  • 三階櫓跡から見た丸の内。<br />お堀や復元工事の中ノ御門跡がみえますね。先ほど訪れた仁風閣の煙突もよく見えます。二の丸の下、西側の曲輪は丸の内と呼ばれ、中ノ御門や米蔵、武器庫が建てられていました。

    三階櫓跡から見た丸の内。
    お堀や復元工事の中ノ御門跡がみえますね。先ほど訪れた仁風閣の煙突もよく見えます。二の丸の下、西側の曲輪は丸の内と呼ばれ、中ノ御門や米蔵、武器庫が建てられていました。

  • 三階櫓跡から見た裏御門跡への階段。

    三階櫓跡から見た裏御門跡への階段。

  • 三階櫓から降りて菱櫓の方に向かいます。<br />昔の写真で見る限りではこの辺りは塀で囲まれていたんですよね。

    三階櫓から降りて菱櫓の方に向かいます。
    昔の写真で見る限りではこの辺りは塀で囲まれていたんですよね。

  • 広い二の丸跡。<br />二ノ丸の中央には二ノ丸御殿の礎石が残されていました。

    広い二の丸跡。
    二ノ丸の中央には二ノ丸御殿の礎石が残されていました。

  • この辺りには走櫓があったようです。<br />走櫓は城の防御のための櫓で、弓・鉄砲などを射る際、内部で移動できるように横に長くつくってあり、多聞櫓の原型ともいわれています。

    この辺りには走櫓があったようです。
    走櫓は城の防御のための櫓で、弓・鉄砲などを射る際、内部で移動できるように横に長くつくってあり、多聞櫓の原型ともいわれています。

  • 二の丸に御殿があった頃は、御櫓評定と呼ばれる家老衆の政務がこちらにある走櫓の中で行われたそうです。

    二の丸に御殿があった頃は、御櫓評定と呼ばれる家老衆の政務がこちらにある走櫓の中で行われたそうです。

  • 裏から見た立ち入り禁止になっている表御門跡の石垣。階段がありますね。こちら側から登れるようです。

    裏から見た立ち入り禁止になっている表御門跡の石垣。階段がありますね。こちら側から登れるようです。

  • 菱櫓跡。<br />土地と建物が共に菱型であり、西南隈の三階櫓と東南隅のこの菱櫓の対比で鳥取城の風格を現していたそうです。

    菱櫓跡。
    土地と建物が共に菱型であり、西南隈の三階櫓と東南隅のこの菱櫓の対比で鳥取城の風格を現していたそうです。

  • 登ってみました。櫓とはいえ意外と狭いですね。

    登ってみました。櫓とはいえ意外と狭いですね。

  • 明治維新まで建物はあったそうですが、現在は跡地だけとなっています。

    明治維新まで建物はあったそうですが、現在は跡地だけとなっています。

  • 曲輪の一角に木がたくさん生えていますね。このもっと下に木が生えている斜面があったのですが、かっての三ノ丸庭園跡なんだそうです。ここも庭園みたいになっていたんでしょうか。

    曲輪の一角に木がたくさん生えていますね。このもっと下に木が生えている斜面があったのですが、かっての三ノ丸庭園跡なんだそうです。ここも庭園みたいになっていたんでしょうか。

  • 菱櫓跡から見た天球丸の石垣。<br />手前の石段は登雁木。そういえば雁木で斜めに登っているものはあまり見ませんね。珍しい。

    菱櫓跡から見た天球丸の石垣。
    手前の石段は登雁木。そういえば雁木で斜めに登っているものはあまり見ませんね。珍しい。

  • 菱櫓跡から、表御門跡と石垣群がばっちり見えます。

    菱櫓跡から、表御門跡と石垣群がばっちり見えます。

  • まだ工事中の箇所もたくさんありますね。

    まだ工事中の箇所もたくさんありますね。

  • 菱櫓は2層2階の櫓だったそうです。<br />階段を挟んだこちら側は一段高くなっていました。

    菱櫓は2層2階の櫓だったそうです。
    階段を挟んだこちら側は一段高くなっていました。

  • 菱櫓から降りましょうか。

    菱櫓から降りましょうか。

  • 表御門跡を抜けて右に向かいます。<br />まっすぐは通行止めになっていました。

    表御門跡を抜けて右に向かいます。
    まっすぐは通行止めになっていました。

  • 天球丸・巻石垣の看板についている矢印に沿って進みます。

    天球丸・巻石垣の看板についている矢印に沿って進みます。

  • 物見御殿もあった天球丸の一段下にある小郭に到着。<br />物見御殿は藩主のみが入ることを許されていた建物で、二の丸や天球丸下の楓園などを楽しんだそうです。現在、発掘調査の成果や古絵図に基づいて庭園の復元が図られており、ところどころにカエデも植栽されていました。

    物見御殿もあった天球丸の一段下にある小郭に到着。
    物見御殿は藩主のみが入ることを許されていた建物で、二の丸や天球丸下の楓園などを楽しんだそうです。現在、発掘調査の成果や古絵図に基づいて庭園の復元が図られており、ところどころにカエデも植栽されていました。

  • 石垣からぽこっと丸く出ているところがありますね。

    石垣からぽこっと丸く出ているところがありますね。

  • 鳥取城以外では見られない巻石垣。別名「まんじゅう石垣」ともよばれているそうです。ちょっと納得。<br />1807年に崩壊しそうになった石垣を保護する目的で、護岸工事や湊の突堤に利用された積み方ができる職人が普請したそうです。こちらは30年ほどかけて復元したものになります。角を持たない球面の石垣は確認事例がなく、全国唯一の大変珍しいものです。

    鳥取城以外では見られない巻石垣。別名「まんじゅう石垣」ともよばれているそうです。ちょっと納得。
    1807年に崩壊しそうになった石垣を保護する目的で、護岸工事や湊の突堤に利用された積み方ができる職人が普請したそうです。こちらは30年ほどかけて復元したものになります。角を持たない球面の石垣は確認事例がなく、全国唯一の大変珍しいものです。

  • 楯蔵跡にやってきました。

    楯蔵跡にやってきました。

  • 楯蔵跡から見た、天球丸と巻石垣の眺め。<br />この巻石垣の上には天球丸という曲輪があります。関ケ原の戦い後に城主となった池田長吉の姉である天球院が居住したことから命名された曲輪だそうで、1617年には三階櫓が建てられていたようですが1720年の石黒大火で焼けてしまっています。三階櫓焼失後の1839年には武具蔵が建てられていたそうです。

    楯蔵跡から見た、天球丸と巻石垣の眺め。
    この巻石垣の上には天球丸という曲輪があります。関ケ原の戦い後に城主となった池田長吉の姉である天球院が居住したことから命名された曲輪だそうで、1617年には三階櫓が建てられていたようですが1720年の石黒大火で焼けてしまっています。三階櫓焼失後の1839年には武具蔵が建てられていたそうです。

  • 天球丸跡下にある曲輪には城山である久松山の湧水が集められ、カエデが植えられた庭園になっており、楓亭とよばれる風雅な建物もあったとか。現在はその湧水が集められているところから、水を水路に流しているようです。

    天球丸跡下にある曲輪には城山である久松山の湧水が集められ、カエデが植えられた庭園になっており、楓亭とよばれる風雅な建物もあったとか。現在はその湧水が集められているところから、水を水路に流しているようです。

  • もと来た道を戻りましょうか。<br />天球丸跡にも登れるようでしたが、体力的にきつかったので断念。

    もと来た道を戻りましょうか。
    天球丸跡にも登れるようでしたが、体力的にきつかったので断念。

  • 大手登城路に戻りました。

    大手登城路に戻りました。

  • 天球丸の打込接の石垣からニョキッと出ている二本の木が、こちらか見ると角みたいに見えますね。

    天球丸の打込接の石垣からニョキッと出ている二本の木が、こちらか見ると角みたいに見えますね。

  • 大手登城路を下って行きます。

    大手登城路を下って行きます。

  • 二の丸の石垣を横目に進みます。

    二の丸の石垣を横目に進みます。

  • ふと振り返ってみた景色。<br />本来だったらこの方向で登城するんでしょうね。石垣だけでも迫力がある場所なので建物があったら結構すごい景色になりそう。

    ふと振り返ってみた景色。
    本来だったらこの方向で登城するんでしょうね。石垣だけでも迫力がある場所なので建物があったら結構すごい景色になりそう。

  • 三ノ丸跡に到着。<br />三ノ丸跡にあった城郭は、池田長吉の時代に鳥取城大改造によって築造されました。江戸時代中頃以降には藩主の御殿が建てられ、城内の最も重要な場所として発展したそうです。

    三ノ丸跡に到着。
    三ノ丸跡にあった城郭は、池田長吉の時代に鳥取城大改造によって築造されました。江戸時代中頃以降には藩主の御殿が建てられ、城内の最も重要な場所として発展したそうです。

  • 三ノ丸跡から見上げた鳥取城跡。<br />二ノ丸跡の石垣群が見えますね。右側の一番高い石垣の上は菱櫓跡。

    三ノ丸跡から見上げた鳥取城跡。
    二ノ丸跡の石垣群が見えますね。右側の一番高い石垣の上は菱櫓跡。

  • 三ノ丸跡には鳥取県立鳥取西高等学校が立っていました。<br />体育館近くには太鼓御門の石垣が見えますね。<br />

    三ノ丸跡には鳥取県立鳥取西高等学校が立っていました。
    体育館近くには太鼓御門の石垣が見えますね。

  • 太鼓御門跡。<br />太鼓御門は幅約5.9mで1階部分が門、2階部分が左右の石垣をまたぐ渡りやぐらの構造で、時刻を知らせる太鼓があったそうです。また、下馬場にもなっておりここからは徒歩で登城することになっていました。槍の所持も禁止されていたので、石垣に槍を立掛け、籠や馬から降りての登城だったそうです。

    太鼓御門跡。
    太鼓御門は幅約5.9mで1階部分が門、2階部分が左右の石垣をまたぐ渡りやぐらの構造で、時刻を知らせる太鼓があったそうです。また、下馬場にもなっておりここからは徒歩で登城することになっていました。槍の所持も禁止されていたので、石垣に槍を立掛け、籠や馬から降りての登城だったそうです。

  • 仁風閣の裏入口に到着。

    仁風閣の裏入口に到着。

  • 中に入ってみましょう。<br />宝隆院庭園の裏に出ました。<br />

    中に入ってみましょう。
    宝隆院庭園の裏に出ました。

  • 久松山を背景とする山裾の台地に造られた宝隆院庭園は、1863年に池田慶徳が若くして未亡人となった先代の慶栄夫人、宝隆院を慰めるために扇御殿と共に造営したものだそうで、江戸時代に発達した順路を定めて歩きながら鑑賞する方式の池泉回遊式日本庭園です。小石川後楽園や六義園と同じ形式の日本庭園ですね。<br />鶴をかたどったとされる池には亀島や中島を浮かべ、段落ちの滝と名が付いた自然林を活かした渓流の滝石組など、完全に日本庭園なのにフレンチ型ルネッサンス様式を基調とした洋館とあまりギャップはないのが不思議です。

    久松山を背景とする山裾の台地に造られた宝隆院庭園は、1863年に池田慶徳が若くして未亡人となった先代の慶栄夫人、宝隆院を慰めるために扇御殿と共に造営したものだそうで、江戸時代に発達した順路を定めて歩きながら鑑賞する方式の池泉回遊式日本庭園です。小石川後楽園や六義園と同じ形式の日本庭園ですね。
    鶴をかたどったとされる池には亀島や中島を浮かべ、段落ちの滝と名が付いた自然林を活かした渓流の滝石組など、完全に日本庭園なのにフレンチ型ルネッサンス様式を基調とした洋館とあまりギャップはないのが不思議です。

    宝隆院庭園 寺・神社・教会

    宝隆院のための庭園 by su3さん
  • 宝扇庵が見えてきました。<br />宝隆院庭園の南隅に残る扇御殿の一部だったそうで、完成後ほどなく文明開化の世になり、扇御殿は化粧の間を残して取り壊されました。化粧の間は修復を施され、宝扇庵として残り、現在に至ります。扇御殿には襖や欄間に扇模様が多く取り入れられていたそうです。<br />こちらでは不定期ですが、茶道体験などが催されていたりするそうです。

    宝扇庵が見えてきました。
    宝隆院庭園の南隅に残る扇御殿の一部だったそうで、完成後ほどなく文明開化の世になり、扇御殿は化粧の間を残して取り壊されました。化粧の間は修復を施され、宝扇庵として残り、現在に至ります。扇御殿には襖や欄間に扇模様が多く取り入れられていたそうです。
    こちらでは不定期ですが、茶道体験などが催されていたりするそうです。

  • 仁風閣も貸し出しをしていましたが、宝扇庵も1時間350円、午前9時~午後5時までで2800円で使用できるんだとか。

    仁風閣も貸し出しをしていましたが、宝扇庵も1時間350円、午前9時~午後5時までで2800円で使用できるんだとか。

  • 庭園内をちょっとだけ歩きます。植えられている植物の配置を考えると紅葉の季節はまた違った美しさだろうなという感じがしました。

    庭園内をちょっとだけ歩きます。植えられている植物の配置を考えると紅葉の季節はまた違った美しさだろうなという感じがしました。

  • 小道を通って仁風閣の方に向かいましょうか。

    小道を通って仁風閣の方に向かいましょうか。

  • 白亜の洋館がくっきり見えてきましたね。

    白亜の洋館がくっきり見えてきましたね。

  • 仁風閣の裏側。<br />当に洋館といった感じの構え。螺旋階段用の八角尖塔も西洋らしさを彷彿とさせ華を添えていますね。八角尖塔の緑青銅板葺き屋根部分の円形は換気窓だそうです。

    仁風閣の裏側。
    当に洋館といった感じの構え。螺旋階段用の八角尖塔も西洋らしさを彷彿とさせ華を添えていますね。八角尖塔の緑青銅板葺き屋根部分の円形は換気窓だそうです。

  • 仁風閣横を通ります。<br />やっぱり綺麗。

    仁風閣横を通ります。
    やっぱり綺麗。

  • せっかくだから今度は端の道を通ってみましょうか。<br />ここからの眺めもなかなか良いですね。

    せっかくだから今度は端の道を通ってみましょうか。
    ここからの眺めもなかなか良いですね。

  • 久松公園を出て駐車場に向かいます。<br />車に乗り込んだ頃にはたくさん歩いたので汗だく状態。宿に戻るにしてもちょっと時間がありますね。博物館などに入って鑑賞をする体力はないし…ということでドライブがてら気になっていた場所に行ってみることにしました。

    久松公園を出て駐車場に向かいます。
    車に乗り込んだ頃にはたくさん歩いたので汗だく状態。宿に戻るにしてもちょっと時間がありますね。博物館などに入って鑑賞をする体力はないし…ということでドライブがてら気になっていた場所に行ってみることにしました。

  • 道の駅神話の里白うさぎでトイレ休憩。

    道の駅神話の里白うさぎでトイレ休憩。

    道の駅 神話の里 白うさぎ 道の駅

    モサバーガー by su3さん
  • せっかくだから館内ものぞいてみましょうか。

    せっかくだから館内ものぞいてみましょうか。

  • ペットボトルの蓋を使って作られた作品。

    ペットボトルの蓋を使って作られた作品。

  • もうほとんど売り切れてましたが、地元製品や野菜などが売られています。

    もうほとんど売り切れてましたが、地元製品や野菜などが売られています。

  • お酒コーナーもありました。

    お酒コーナーもありました。

  • すなば珈琲で数量限定で提供しているもさバーガー。<br />もさエビを使った具にイカ墨パンやらっきょ入りタルタルソースなど気になる要素がいっぱいです。

    すなば珈琲で数量限定で提供しているもさバーガー。
    もさエビを使った具にイカ墨パンやらっきょ入りタルタルソースなど気になる要素がいっぱいです。

  • 鳥取のスーパーではよく見るとうふちくわを売っているお店もありました。とうふちくわは鳥取県東部の伝統食品で、7割が木綿豆腐のちくわなので思っていたよりも軽い口当たりでおいしいです。

    鳥取のスーパーではよく見るとうふちくわを売っているお店もありました。とうふちくわは鳥取県東部の伝統食品で、7割が木綿豆腐のちくわなので思っていたよりも軽い口当たりでおいしいです。

  • このTシャツが気になってしまって足を止めた店だったのですが、もうほとんど商品がありませんでした。残念。

    このTシャツが気になってしまって足を止めた店だったのですが、もうほとんど商品がありませんでした。残念。

  • 命駅長ものんびりとお務めをしていました。<br />耳が黒いのは帽子の代わりですかね。

    命駅長ものんびりとお務めをしていました。
    耳が黒いのは帽子の代わりですかね。

  • さらに車を走らせ目的地に到着。<br />平成8年に「日本一いい音」として評価された有名な白い鳴り砂の浜です。

    さらに車を走らせ目的地に到着。
    平成8年に「日本一いい音」として評価された有名な白い鳴り砂の浜です。

    井手ケ浜海水浴場(鳴り砂の浜) ビーチ

    鳴り砂があると言われていますが by su3さん
  • ボロボロになってところどころわからなくなっている案内板。なんとなくこのあたりのことがわかります。

    ボロボロになってところどころわからなくなっている案内板。なんとなくこのあたりのことがわかります。

  • 山陰海岸ジオパーク海と大地の自然館でも軽く鳴り砂を体験しましたが、せっかくなので足で踏んでなり砂を体験したいということで訪れました。

    山陰海岸ジオパーク海と大地の自然館でも軽く鳴り砂を体験しましたが、せっかくなので足で踏んでなり砂を体験したいということで訪れました。

  • さーて、鳴らすぞ!

    さーて、鳴らすぞ!

  • あれ?全然、音が鳴らない。<br />砂は割と乾燥していましたが、全く鳴らない。もっと晴れて乾燥している日の砂じゃないと鳴らないのかな…。

    あれ?全然、音が鳴らない。
    砂は割と乾燥していましたが、全く鳴らない。もっと晴れて乾燥している日の砂じゃないと鳴らないのかな…。

  • 浜では幾人かのサーファーの方々がいらっしゃって、波乗りを楽しんでいらっしゃいました。

    浜では幾人かのサーファーの方々がいらっしゃって、波乗りを楽しんでいらっしゃいました。

  • 鳥取市内に戻り、夕食のため、ホテル近くにあったご馳家ぐらっちぇ本店へ。<br />まずは日置桜の冷酒で乾杯。

    鳥取市内に戻り、夕食のため、ホテル近くにあったご馳家ぐらっちぇ本店へ。
    まずは日置桜の冷酒で乾杯。

    ご馳家 ぐらっちぇ 本店 グルメ・レストラン

    ご当地物もあります by su3さん
  • 暑かったからさっぱりしたものが食べたいと大根サラダ。<br />水分量が多い野菜が体にしみわたります。

    暑かったからさっぱりしたものが食べたいと大根サラダ。
    水分量が多い野菜が体にしみわたります。

  • 今日は焼いたもさエビ。

    今日は焼いたもさエビ。

  • せっかくだからお刺身も食べましょう。<br />高杯に盛り付けられたお刺身を見て昔の貴族を思い浮かべてしまったのは、平城宮出土の土師器の高杯を思い出したから。

    せっかくだからお刺身も食べましょう。
    高杯に盛り付けられたお刺身を見て昔の貴族を思い浮かべてしまったのは、平城宮出土の土師器の高杯を思い出したから。

  • 白いかの天ぷら。<br />このほかに岩ガキやご飯ものも食して鳥取を満喫しました。<br /><br />宿に帰って明日の支度をしたら即就寝。

    白いかの天ぷら。
    このほかに岩ガキやご飯ものも食して鳥取を満喫しました。

    宿に帰って明日の支度をしたら即就寝。

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