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2020年9月15日(火)お昼1時、お昼の時間だが先に朝霧橋東詰から右岸を遡った辺りを先に歩く。200mほど先にあるのが観流橋。この橋は関西電力の宇治発電所の水が宇治川に流れ込むところに架かっている。「響け!ユーフォニアム」では第2作で、高坂麗奈が中学時代に滝先生と出会い、楽譜をもらうシーンの舞台となっている。<br /><br />川の流れは結構多くて速い(下の写真1)が、この水は元々は瀬田川洗堰のやや上流の大津市南郷で取水され、約11㎞の導水路を通って発電所の上の大吉山(仏徳山)の裏まで導びかれ、落差62mの水管で発電所に送水されている。この発電所は大正2年(1913年)に宇治川電気が設立したもので、国内最大規模の発電量の水路式水力発電施設。宇治川電気は戦前の五大電力の一つで、1942年の国家総動員法により関西電力に再編された。発電所へ続く道は門が閉まっており進めず、橋から建物を見ることも出来ないが、発電所の建物は赤レンガの近代化遺産。<br /><br />橋の少し手前に田中順二先生の歌碑と云うのがある(下の写真2)。「何釣ると言せばもろこと言う子らに 宇治塔の島日はまだくれず」。全く知らないが、田中順二先生は明治45年(1912年)東京生まれの歌人、国文学者。京都帝大を卒業後、同志社女子大学教授を長く務められ、定年後は奈良大学でも教授をされたが、宇治で短歌を指導されていた縁でこの歌碑があるそうだ。1997年に亡くなられた。享年84歳。<br /><br />橋を渡ってそのまま少し先に進むと、130年の歴史を持つと云う旅館、亀石楼の駐車場下の川岸に亀石がある。文字通り亀のようなかたちをした大きい石。宇治川には古くから奇石怪石が多くあり、亀石はその一つで、江戸時代の地誌に宇治川一の名石と紹介されている。天ケ瀬ダムの完成によりこの石だけが残っている。第11代垂仁天皇が刺した大亀が石になったと云う伝説があったり、豊臣秀吉が伏見城に引き込んだ地下水道の取込み口のカモフラージュだとか云われる。ジュラ紀古世の放散虫を含んだ貴重な石らしい。<br /><br />亀石から少し戻ると山側に興聖寺の総門がある。仏徳山興聖寺は日本で最初の曹洞宗のお寺。ご本尊は釈迦牟尼佛で、木造、寄木造り。1650年の作。攝津の国にあったものを開基永井尚政公が譲り受けたもので、寺伝では道元禅師の自作とされている。<br /><br />道元禅師は鎌倉初期の禅僧で、日本における曹洞宗の開祖。1227年に宋から帰国、しばらく建仁寺に身を寄せた後、藤原氏ゆかりの大寺院極楽寺の跡地と考えられる深草の安養院に閑居した。その後、1233年に深草に興聖寺を開創、観音導利院興聖宝林寺と号する。日本最初の僧侶の教育・育生を目指す修行道場であり、このことから曹洞宗初開道場とは興聖寺のことを指すようになった。しかし、興聖寺は比叡山延暦寺の弾圧を受け、1243年に道元が越前に下向して以降荒廃し、住持4代で廃絶した。<br /><br />それから400年、江戸時代に入り、1645年、淀城主の永井尚政公が、万安英種禅師を中興開山に請じ、この地に再興したのがここ。この地は室町時代に将軍家や管領家が設けた宇治茶の七名園の一つ、朝日茶園があったところ。<br /><br />総門は珍しい石造りで1648年に建てられたもの。総門から200mほど続く琴坂には、カエデ、ヤマブキ、竹などが植えられ、春は新緑、夏は緑陰、秋は紅葉に映える。坂道に沿って流れる谷水は、本堂脇の貯水槽に一旦貯められた朝日山の山水で、その水の流れがあたかも琴の音色に聞こえ、長い参道が琴の形状に似ていることから、琴坂と呼ばれるようになった。紅葉の季節にまた見に来たい。「春岸山吹」は宇治十二景の一つ。<br /><br />琴坂を登り詰めると天保年間の改築で、楼上に釈迦三尊像と十六羅漢像を安置する大きな龍宮造りの山門があり、「曹洞宗興聖寺専門僧堂」の木札が掛かる。山門の手前の自動販売機でチケット購入。1人500円。パンフレットも置いてあるが、誰もいないし、その先もぎりもない。これもコロナ禍の影響だな。<br /><br />山門をくぐると正面に中門にあたる薬医門。1846年に改築されたもので、門の奥に法堂が見える(下の写真3)。山門と薬医門の間の庭園も見事。右手には江戸時代の儒学者である林羅山の銘が打たれている1651年築の鐘楼があり、今も時を刻む音色を奏で「興聖晩鐘」と呼ばれ、宇治十二景の一つになっている。反対側には朱塗りの鎮守社(下の写真4)。<br /><br />薬医門を抜けると、庫裏、大書院、法堂、僧堂に囲まれた石組の中庭が広がるが、これが素晴らしい。実はこのお寺、これまで聞いたこともなく全然知らなかった。この日の朝、予習をしててたまたま見つけて寄ったのだが、この日行ったところで一番良かったかも。調べてみたら、歴史ある有名なお寺と知ったのだが、この中庭には感激した。行って良かった~<br /><br />中庭に置かれている相倫はここに来る前に通った宇治公園の塔の島に建っていた浮島十三重石塔が、明治41年(1908年)に再建された時に破損のために使用されなかったオリジナルのもので、同じく使われなかった九重目の笠石と一緒にここに置かれている。ここに置かれた理由はこの地に興聖寺を再興した永井尚政公が江戸時代初期にこの石塔を修理していたから。<br /><br />誰もいないが、薬医門を入って右手の庫裏から回廊に入り、ぐるっと一回りする。庫裏に入ったところが受付になっており、かつては時を告げるのに使われたであろう魚の形をした開ぱんが吊るされている。御朱印はここでもらえるようだ。<br /><br />見事な中庭を眺めながら庫裏を奥に進むと大正元年(1912年)建立で大正8年の貞明皇后行啓の際に使われた大書院があるが、ここと方丈の間との間の内庭も見事。こちらは小滝が池に流れ込んでおり、とても涼しげ。大書院の縁側では有料でお茶を戴けるそうだが、価値ありやな。<br /><br />薬医門の正面に建つ法堂(はっとう)は1648年に建立されたもの。鶯張りの廊下からの中庭もまた違う趣でいい。この廊下の天井は1600年の関ヶ原の戦いの前哨戦(落城が1週間前)として行われた伏見城の戦いで西軍に攻められて落城し建物の大半が焼失した伏見桃山城の床板が使われていると伝えられる。家康の家臣鳥居元忠率いる徳川勢2300人は、押し寄せる4万人の西軍の攻撃に10日以上耐えるが、最後は全滅し、床板には血塗られた足型、手型が残り、死者を供養する為に足で踏まないよう天井に利用したそうだ。ただし、徳川家家臣らが自刃した建物が焼失を免れた記録や移築を裏付ける資料はなく、信憑性は定かではないそうだ。<br /><br />法堂の左手奥に建つのが開山堂。1750年に改築されたもので、道元禅師が梅の花を好まれた事から老梅庵とも呼ばれ、禅師が竹椅子の座った等身大の木像が安置されている。体内には御霊骨が納められているそうだ。<br /><br />中庭の西側には1648年建立、1702年に改修された坐禅道場の僧堂が建つが、その手前(北側)に三面大黒天が置かれている。正面に大黒天、右面に毘沙門天、左面に弁才天の三つの顔をもつ大黒天。<br />https://www.facebook.com/media/set/?set=a.4590920817644573&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />上に書いたように、この日、家を出る1時間くらい前まで知らなかったお寺だったのだが、行って良かった。お勧め!<br /><br />ついでだが、春岸山吹、興聖晩鐘が入っている宇治十二景の他の10個は以下のもの。<br />清湍蛍火(宇治川の蛍)<br />三室紅楓(三室戸寺の紅葉)<br />長橋暁雪(宇治橋に積もった朝日に照らされる雪)<br />朝日靄暉(朝日山をバックにした宇治川の朝霧)<br />薄暮柴舟(宇治川を下る夕暮れの柴を積んだ船)<br />橋姫水社(宇治橋の三の間にあった橋姫神社)<br />釣殿夜月(平等院にあった釣殿からの月)<br />扇芝孤松(平等院の中にある平家追討に失敗して切腹した源頼政終焉の地)<br />槙島曝布(槙島地区の宇治川で晒されている麻布)<br />浮船古祠(街道沿いにあった浮舟社の古い祠)<br />今は見ることが出来ないものも多い。宇治十境と云うのもあり、興聖寺の2つは含まれているそうだが、あとの8つが何かは調べたが不明。<br /><br /><br />と云うことで、遅めのお昼ご飯に続く

京都 宇治 興聖寺(Koshouji Temple, Uji, Kyoto, JP)

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2020/09/15 - 2020/09/15

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ちふゆ

ちふゆさん

2020年9月15日(火)お昼1時、お昼の時間だが先に朝霧橋東詰から右岸を遡った辺りを先に歩く。200mほど先にあるのが観流橋。この橋は関西電力の宇治発電所の水が宇治川に流れ込むところに架かっている。「響け!ユーフォニアム」では第2作で、高坂麗奈が中学時代に滝先生と出会い、楽譜をもらうシーンの舞台となっている。

川の流れは結構多くて速い(下の写真1)が、この水は元々は瀬田川洗堰のやや上流の大津市南郷で取水され、約11㎞の導水路を通って発電所の上の大吉山(仏徳山)の裏まで導びかれ、落差62mの水管で発電所に送水されている。この発電所は大正2年(1913年)に宇治川電気が設立したもので、国内最大規模の発電量の水路式水力発電施設。宇治川電気は戦前の五大電力の一つで、1942年の国家総動員法により関西電力に再編された。発電所へ続く道は門が閉まっており進めず、橋から建物を見ることも出来ないが、発電所の建物は赤レンガの近代化遺産。

橋の少し手前に田中順二先生の歌碑と云うのがある(下の写真2)。「何釣ると言せばもろこと言う子らに 宇治塔の島日はまだくれず」。全く知らないが、田中順二先生は明治45年(1912年)東京生まれの歌人、国文学者。京都帝大を卒業後、同志社女子大学教授を長く務められ、定年後は奈良大学でも教授をされたが、宇治で短歌を指導されていた縁でこの歌碑があるそうだ。1997年に亡くなられた。享年84歳。

橋を渡ってそのまま少し先に進むと、130年の歴史を持つと云う旅館、亀石楼の駐車場下の川岸に亀石がある。文字通り亀のようなかたちをした大きい石。宇治川には古くから奇石怪石が多くあり、亀石はその一つで、江戸時代の地誌に宇治川一の名石と紹介されている。天ケ瀬ダムの完成によりこの石だけが残っている。第11代垂仁天皇が刺した大亀が石になったと云う伝説があったり、豊臣秀吉が伏見城に引き込んだ地下水道の取込み口のカモフラージュだとか云われる。ジュラ紀古世の放散虫を含んだ貴重な石らしい。

亀石から少し戻ると山側に興聖寺の総門がある。仏徳山興聖寺は日本で最初の曹洞宗のお寺。ご本尊は釈迦牟尼佛で、木造、寄木造り。1650年の作。攝津の国にあったものを開基永井尚政公が譲り受けたもので、寺伝では道元禅師の自作とされている。

道元禅師は鎌倉初期の禅僧で、日本における曹洞宗の開祖。1227年に宋から帰国、しばらく建仁寺に身を寄せた後、藤原氏ゆかりの大寺院極楽寺の跡地と考えられる深草の安養院に閑居した。その後、1233年に深草に興聖寺を開創、観音導利院興聖宝林寺と号する。日本最初の僧侶の教育・育生を目指す修行道場であり、このことから曹洞宗初開道場とは興聖寺のことを指すようになった。しかし、興聖寺は比叡山延暦寺の弾圧を受け、1243年に道元が越前に下向して以降荒廃し、住持4代で廃絶した。

それから400年、江戸時代に入り、1645年、淀城主の永井尚政公が、万安英種禅師を中興開山に請じ、この地に再興したのがここ。この地は室町時代に将軍家や管領家が設けた宇治茶の七名園の一つ、朝日茶園があったところ。

総門は珍しい石造りで1648年に建てられたもの。総門から200mほど続く琴坂には、カエデ、ヤマブキ、竹などが植えられ、春は新緑、夏は緑陰、秋は紅葉に映える。坂道に沿って流れる谷水は、本堂脇の貯水槽に一旦貯められた朝日山の山水で、その水の流れがあたかも琴の音色に聞こえ、長い参道が琴の形状に似ていることから、琴坂と呼ばれるようになった。紅葉の季節にまた見に来たい。「春岸山吹」は宇治十二景の一つ。

琴坂を登り詰めると天保年間の改築で、楼上に釈迦三尊像と十六羅漢像を安置する大きな龍宮造りの山門があり、「曹洞宗興聖寺専門僧堂」の木札が掛かる。山門の手前の自動販売機でチケット購入。1人500円。パンフレットも置いてあるが、誰もいないし、その先もぎりもない。これもコロナ禍の影響だな。

山門をくぐると正面に中門にあたる薬医門。1846年に改築されたもので、門の奥に法堂が見える(下の写真3)。山門と薬医門の間の庭園も見事。右手には江戸時代の儒学者である林羅山の銘が打たれている1651年築の鐘楼があり、今も時を刻む音色を奏で「興聖晩鐘」と呼ばれ、宇治十二景の一つになっている。反対側には朱塗りの鎮守社(下の写真4)。

薬医門を抜けると、庫裏、大書院、法堂、僧堂に囲まれた石組の中庭が広がるが、これが素晴らしい。実はこのお寺、これまで聞いたこともなく全然知らなかった。この日の朝、予習をしててたまたま見つけて寄ったのだが、この日行ったところで一番良かったかも。調べてみたら、歴史ある有名なお寺と知ったのだが、この中庭には感激した。行って良かった~

中庭に置かれている相倫はここに来る前に通った宇治公園の塔の島に建っていた浮島十三重石塔が、明治41年(1908年)に再建された時に破損のために使用されなかったオリジナルのもので、同じく使われなかった九重目の笠石と一緒にここに置かれている。ここに置かれた理由はこの地に興聖寺を再興した永井尚政公が江戸時代初期にこの石塔を修理していたから。

誰もいないが、薬医門を入って右手の庫裏から回廊に入り、ぐるっと一回りする。庫裏に入ったところが受付になっており、かつては時を告げるのに使われたであろう魚の形をした開ぱんが吊るされている。御朱印はここでもらえるようだ。

見事な中庭を眺めながら庫裏を奥に進むと大正元年(1912年)建立で大正8年の貞明皇后行啓の際に使われた大書院があるが、ここと方丈の間との間の内庭も見事。こちらは小滝が池に流れ込んでおり、とても涼しげ。大書院の縁側では有料でお茶を戴けるそうだが、価値ありやな。

薬医門の正面に建つ法堂(はっとう)は1648年に建立されたもの。鶯張りの廊下からの中庭もまた違う趣でいい。この廊下の天井は1600年の関ヶ原の戦いの前哨戦(落城が1週間前)として行われた伏見城の戦いで西軍に攻められて落城し建物の大半が焼失した伏見桃山城の床板が使われていると伝えられる。家康の家臣鳥居元忠率いる徳川勢2300人は、押し寄せる4万人の西軍の攻撃に10日以上耐えるが、最後は全滅し、床板には血塗られた足型、手型が残り、死者を供養する為に足で踏まないよう天井に利用したそうだ。ただし、徳川家家臣らが自刃した建物が焼失を免れた記録や移築を裏付ける資料はなく、信憑性は定かではないそうだ。

法堂の左手奥に建つのが開山堂。1750年に改築されたもので、道元禅師が梅の花を好まれた事から老梅庵とも呼ばれ、禅師が竹椅子の座った等身大の木像が安置されている。体内には御霊骨が納められているそうだ。

中庭の西側には1648年建立、1702年に改修された坐禅道場の僧堂が建つが、その手前(北側)に三面大黒天が置かれている。正面に大黒天、右面に毘沙門天、左面に弁才天の三つの顔をもつ大黒天。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.4590920817644573&type=1&l=223fe1adec

上に書いたように、この日、家を出る1時間くらい前まで知らなかったお寺だったのだが、行って良かった。お勧め!

ついでだが、春岸山吹、興聖晩鐘が入っている宇治十二景の他の10個は以下のもの。
清湍蛍火(宇治川の蛍)
三室紅楓(三室戸寺の紅葉)
長橋暁雪(宇治橋に積もった朝日に照らされる雪)
朝日靄暉(朝日山をバックにした宇治川の朝霧)
薄暮柴舟(宇治川を下る夕暮れの柴を積んだ船)
橋姫水社(宇治橋の三の間にあった橋姫神社)
釣殿夜月(平等院にあった釣殿からの月)
扇芝孤松(平等院の中にある平家追討に失敗して切腹した源頼政終焉の地)
槙島曝布(槙島地区の宇治川で晒されている麻布)
浮船古祠(街道沿いにあった浮舟社の古い祠)
今は見ることが出来ないものも多い。宇治十境と云うのもあり、興聖寺の2つは含まれているそうだが、あとの8つが何かは調べたが不明。


と云うことで、遅めのお昼ご飯に続く

  • 写真1 観流橋下の流れ

    写真1 観流橋下の流れ

  • 写真2 田中順二先生の歌碑

    写真2 田中順二先生の歌碑

  • 写真3 興聖寺 薬医門

    写真3 興聖寺 薬医門

  • 写真4 興聖寺 鎮守社

    写真4 興聖寺 鎮守社

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