2019/10/21 - 2019/10/21
72位(同エリア325件中)
RAINDANCEさん
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長崎県南東部、島原半島の東部および南部に広がる市である、島原および南島原を訪れました。キリシタン弾圧という背景も含めた日本の歴史上最大の一揆「島原の乱」の舞台であり、島原城下に発展した城下町と”水の都”として知られ、そして野生のイルカにいつでも出会え、さらに隣には活火山の名湯雲仙と、歴史と自然の恵み溢れるエリアです。
★南島原ではイルカウォッチングと、世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産となった原城跡へ。
★島原では、城下の「武家屋敷町」や「鯉の泳ぐまち」を散策。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦
- 一人あたり費用
- 5万円 - 10万円
- 交通手段
- レンタカー ANAグループ
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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島原半島の海沿いに、反時計回りにレンタカーを走らせます。雲仙市から南島原市に入りました。まず向かうのは加津佐(かづさ)町。
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加津佐町に入るとすぐに、ちょっとした奇岩らしきものが見えてきました。
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人面の様な両子岩(ふたごいわ)、かつては2つの同じような奇岩があったそうですが、松の木が立つ大きい方の岩が大正11年の大地震や浸食によって崩壊してしまったそうです。
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加津佐漁港に着きました。
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長崎の島原、熊本の天草の間の早崎海峡は、ある動物が多く生息することで知られる海域です。
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それは、イルカ。ここ加津佐漁港を拠点にイルカウォッチングを運営する「かづさイルカウォッチング」にまずは立ち寄り。
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受付を済ませて、この船でクルージング開始。
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連休ということもあり、かなり盛況ですね。事前予約しておいてよかった。
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漁港から数キロ沖合の海峡、イルカ出現スポットへ。イルカウォッチングの船が集まってきました。
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船のタイプ・大きさは色々。
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漁船を転用あるいは改造したような感じですかね。
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この船は少し大きめです。私たちの乗っている船もこれくらいの大きさかと。
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船の上からイルカの出現を監視。
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イルカの群れが現れたら各船一斉にその方向へ。
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生息するのはミナミバンドウイルカ。群れは、数十秒海面に浮上しては…
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…数分海中へ、という動きを繰り返しています。
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どこに浮上するかは予測がつかないので、浮上したらそこへ向かう…を繰り返すのです。
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遠くに浮上した場合には、群れに追いついた時には既に海中への潜航を開始。
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近くに浮上した場合は、すぐに接近して近くで見ることができます。20頭くらいの群れですかね~。
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そんなウォッチングを繰り返します。1時間くらいは沖に居ましたかね。
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これは近かった。
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この早崎海峡は、イルカ遭遇率99.9%を誇るそうです。
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なぜならば…島原半島南部沿岸は起伏の激しい岩礁底が広がり、有明海の入口に位置することから、全国的に見ても潮流が早いそうで…
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…日本三大潮流のひとつに数えられ、水深最大150mでプランクトンが多く発生し、多くの魚が集まる…
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…その魚を目当てに野生のイルカたちも集まるらしい。
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遠くに浮上した群れが船に近寄ってきました。
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今年産まれたらしき小さめの個体も数頭いますね。かわいい。
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これはもう船のそば。思っていたよりも長い時間、イルカの群れを見ることができました。
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予定時間を少しオーバーし、漁港へ戻りました。
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加津佐漁港をあとにし、南島原市の観光を継続。南有馬町の原城跡へ。
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”長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産”として世界遺産に登録された「原城跡」に到着。
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明応5年(1496年)に、肥前の戦国大名だった有馬氏によって築かれ、寛永元年(1624年)の島原城築城の際に廃城となったそうです。
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その後、寛永14~15年(1637~38年)の島原・天草一揆(島原の乱)の際には、天草四郎率いる一揆の群集が88日間籠城したことで知られます。ここは本丸門跡。
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「本丸跡」。
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長崎県知事のコメントが刻まれた原城跡の碑。一揆に参画した島原の人々はほぼ皆殺し、無人となった地に周辺の諸藩から移民が募られたといいます。
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天草四郎の像。キリスト禁教令の下、神父の予言どおりに現れたとされる16歳の天童。
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天草四郎(本名:益田四郎時貞)の墓碑。四郎はこの本丸で首を斬られ、長崎でさらし首にされました。
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墓碑の横には十字架。
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天守跡のビューポイント。本当に”跡”なので、見応えのある建造物はほぼありませんが、ここも世界中の例に違わず、階級と宗教がもたらす血なまぐさい歴史が刻まれた場所です。
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原城跡をあとにし、島原市方面へ向かいます。南島原市の西有家町はそうめんの町。
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全国2位の生産量を誇る島原そうめんは、島原の乱後の移住者による伝来説と、中国伝来説の2通りの説があるらしいです。
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「かまだすロード」に乗り、島原市に入りました。ロードから望む雲仙普賢岳。
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島原市に入り、まず向かうのは島原城跡。
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「島原城跡」に着きました。堀に囲まれ、高く立派な石垣を持つ内郭です。
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天守のすぐ傍まで車で入れます。
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「島原城天守」、寛永元年(1624年)に大和の武将で肥前に配置替えとなった松倉重政によって築かれ、その後4氏19代253年間の居城を経て、1874年に廃城となり荒れ果てたのち昭和39年(1964年)に復元されたとのこと。現在はキリシタン史料館になってます。
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「丑寅の櫓」も復元です。民具資料館になってます。
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「巽の櫓」は、代表作に”長崎平和記念像”などがある長崎出身の彫刻家である北村西望氏の記念館になってます。
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島原城にレンタカーを置き、南側にある新町方面へ。城の堀ではレンコンが採れるみたいです。
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島原市役所の脇から南へ延びる「サンシャイン中央街(万町商店街)」。
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古くから、萬(万=よろず)商いの城下町として栄えてきたそうです。
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商店街を過ぎると、新町に入ります。
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新町一帯は湧水が豊富で、町の水路に鯉が放流され「鯉の泳ぐまち」として見どころになっています。島原が”水の都”とされる由縁です。その観光交流センター「清流亭」へ。
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市内観光の拠点として観光情報の提供や地元産品が展示されています。
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豊富な湧水を利用した池には色とりどりの錦鯉。
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水路を泳ぐ錦鯉。
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新町の中でも際立つ建物が、この「四明荘」。
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明治後期の開業医だった伊東氏が、1日に3000トンもの水が湧く場所に建てたという別邸。
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お茶をいただきながら。
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周囲を湧水地に囲まれた木造日本瓦葺2階建の主屋は、まるで水に浮いているよう。池はナミナミと湧く水で流れができています。
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”水屋敷”と呼ばれたその湧水庭園と屋敷は、国の登録有形文化財となっています。
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こちらは「しまばら湧水館(旧三村邸)」。
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昭和初期の建物が整され、現在は湧水資料館となってます。
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何気ない道端の水路にも鯉。地域住民の方々によって維持されているそうです。
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新町を後にし、最後に島原城の西にある武家屋敷町へ。
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島原城を築いた松倉重政が、下士をまとめて住まわせたという屋敷群です。武家屋敷保存地区となっている「下ノ丁」の通りは、昔ながらの「道の真ん中に水路」。
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まずは「旧山本邸」に入ってみましょう。山本家は、三河藩から配置換えで島原藩初代藩主となった松平忠房の先代の頃から、家臣として仕えていたとのこと。
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屋敷内の様子。
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山本家は、幕末まで13代の城主に仕え、屋敷の門構えは最後の城主である松平忠和から特別に許可されて築いたものだそうです。
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無料休憩所横の「水神祠」。島原城築城工事の際に水が湧き出て難工事となったため、水を治めるために城下に築かれたのち、明治になって島原城が廃城になる際にその用材を使ってここに移築されたそうです。
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こちらは「篠塚邸」。篠塚家も、先の山本家と同様に松平忠房の配置換えで付いてきた家臣とのこと。
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屋敷内の様子。
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このような「島原藩士屋敷図」なる看板も立ってました。どこに何家の邸宅があったか、これでわかりますね。
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こちらは「鳥田邸」。ここも松平氏の草創以来の古い家柄らしい。
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屋敷内の様子。
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…ということで、南島原/島原市をスコープとした島原半島の南部/東部を巡る旅でした。キリシタン弾圧という背景も含めた日本の歴史上最大の一揆、島原城下に発展した城下町と”水の都”、そして今や野生のイルカにいつでも出会える…歴史と自然の恵みが溢れるエリアでした。この後は、さらに自然の恵みを享受すべく、お隣の雲仙へ向かいます。
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