![1967年5月3日 (昭和42年)<br />第5回日本グランプリで優勝したNo.20ニッサン・R381/競いあう2台のニッサン・R380とトヨタ7<br />No.20北野元(1位)、No.21 黒澤元治(3位)、No.22 横山達(4位)、No.2トヨタ7 福沢幸雄(14位)<br /> ───────────────────────────<br />はじめに<br />私が写真を撮り始めたのは高校3年のころ(1961年頃)で、高校時代のアルバムを元にまとめたのが下記である。<br />アーカイブ「高校生活3年間の思い出・記録」ARCHIVE:School life of Urawa High School in early sixties(2011年7月公開)<br />https://4travel.jp/travelogue/10583150<br />最も古い記録は高校3年秋の関西地方への修学旅行。<br />大学時代はオーケストラに所属していたため、いろいろな活動の記録がある。(昭和の記録No.3,No.4公開済み)<br />また将来はエンジニアを目指して理工系の大学に入り、モータースポーツに強い関心を抱き、各地のレースを見に行って流し撮りのテクニックを身に付けたりもした。<br /><br />モノクロ(白黒)フィルムは1971年まで使用し、それまでの10年間に撮った写真のネガフィルムはほとんどすべて保管しており、121本(約4200画像)になる。<br />しかし古いものはフィルムの材料である酢酸セルロースの経年劣化(加水分解)で損傷がひどく、変形や黒点発生で画像の復元が困難なものがある。<br />平均余命まで10年(平均寿命81.41歳までは5年)を切り、遺品の整理が簡単に済むようにと思い、2019年7月までに全てのモノクロのネガフィルムをスキャナーEPSON GT-F740で電子データ化した。<br />現代用語:終活(笑い)<br /> ───────────────────────────<br />昭和の記録公開について<br />令和2年になり、新型コロナウィルスの世界的大流行に伴って海外旅行のみならず旅行が難しい状況が続く。とりわけ東京都内への外出自粛を余儀なくされている現状に鑑み、昨年デジタルデータ化したモノクロ写真を元に旅行記に編集して公開することを思いついた。<br />1968年の九州一周卒業旅行を公開した例はあるが、それ以来の作業になる。<br />写真の説明資料はほとんど残っておらず、読者に興味を持って見てもらえる作品になるか予想はできないので、とりあえず試しにスタートしてみることにした。(2020年7月)<br />公開が主な目的ではなく、遺品として廃棄される前に、私自身だけではなく、共に昭和を過ごしてきた人々の記録をこの世に残しておきたいという願望が先に立つ。<br />もう一つの狙いは「写真を主体にした自分史」をウェブサイトに残すことである。<br />ここまではシリーズ共通の前文とする。<br />シリーズ昭和の記録 百選 総集編<br />https://4travel.jp/travelogue/11651747<br /> ───────────────────────────<br />シリーズ昭和の記録No.12 第5回日本グランプリ 1968.5.3<br /><br />写真以外の資料は残っていないので、ウェブサイトの記事を紹介・転記する。<br />写真は鑑賞が主目的ではないので、不良品以外は編集せずにすべて掲載する。したがって同じ番号の車が何度も登場する。<br /><br />■1968年日本グランプリ (4輪)<br />https://ja.wikipedia.org/wiki/1968%E5%B9%B4%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AA_(4%E8%BC%AA)#結果<br /><br />日程 1968年5月3日 富士スピードウェイ<br />8時 クラブマンレース・ツーリング(15周)<br />9時30分 クラブマンレース・グランドツーリング(15周)<br />11時 日本スピードカップ(30周)<br />14時 日本グランプリ(80周)<br /><br />概要<br />ビッグマシンの登場<br />過去2大会はプロトタイプ・スポーツカーを参加上限として行われたが、前回は決勝出場が9台のみとなり、出場台数不足が懸念されていた。日本自動車連盟は今回より参加枠を拡げ、二座席レーシングカーもエントリーを認めることになった。 <br /><br />スポーツカー (およびプロトタイプ・スポーツカー) は排気量クラス別の燃料最大容量ほか、最低地上高、最小回転半径、ウィンドシールドの最少寸度、公道走行用の灯火類やスペアタイヤの装備、ラゲッジトランクの設置などが定められているのに対し、二座席レーシングカーは並列2座席でスポーツカーと同様にホイールの上面がフェンダーで覆われてさえいれば、エンジンを含めほぼ自由であるのが特徴だった。カナディアンアメリカン・チャレンジカップの車両として日本でも関心が高まっており、専用に開発されたシャシを購入することが可能だった。 <br /><br />富士スピードウェイのハイスピードコースでは、車体の軽量化やエンジンの出力向上が勝敗を左右する要素となる。二座席レーシングカーの解禁は国内ワークスチームの選択にも影響を与え、軽量なオープンボディに3リットル以上の大排気量エンジンを搭載する「ビッグマシン」が日本GPの新たな主役となった。 <br /><br />TNT対決<br />事前の予想では、国内2大ワークスのトヨタ、日産に加え、新興プライベーターチームのタキレーシングも優勝候補に挙げられた。マスコミは3者の頭文字にちなんで「TNT対決」と銘打ち、本番に向けて対決ムードを煽った。 <br />トヨタ<br />前回不参加のトヨタは、ヤマハとの共同体制でトヨタ・7を開発。オープンボディの二座席レーシングカーに自社製3リットルV型8気筒エンジンを搭載し、排気マニフォールドの取り廻しが異なる2タイプが2台ずつ(計4台)出場した。<br />日産<br />前回優勝者の日産はシボレー製5.5リットルV型8気筒エンジンを搭載する3台のR381が主力。二座席レーシングカー解禁を受け、クローズドボディのプロトタイプ・スポーツカーをオープンボディの二座席レーシングカーに改めた。これまで主力であったのR380(プロトタイプ・スポーツカー、2リットル直列6気筒エンジン)も3台用意し、計6台体制で参戦した。<br />タキレーシング<br />滝進太郎率いるタキレーシングは手持ちのポルシェ・906 (スポーツカー) に加え、ローラ・T70マークIII (スポーツカー) を2台、ポルシェ・910 (プロトタイプ・スポーツカー) を1台、二座席レーシングカーのローラ・T70マークIを1台入手し、5台体制で参戦した。ローラ・T70にはシボレー製V型8気筒エンジンの3種類(5.5、5.8、6.3リットル) を搭載する。2台のポルシェは2リットルの水平対向6気筒エンジン。<br /><br />軽排気量のGP-Iクラスでは、ダイハツワークスのP-5が4台エントリー(2台はプロトタイプ・スポーツカー、2台は二座席レーシングカー)。ほか、デル・RSBやホンダ・S800を改造したマクランサといった国産マシンで参加するプライベーターも現われた。<br /><br />■第5回日本グランプリ決勝結果<br />順位 No. クラス ドライバー 車名 エントラント 周回数<br />1 20 GP-IV 北野元 ニッサン・R381 日産自動車 80 2:37'05.57<br />2 28 GP-II 生沢徹 ポルシェ・カレラ10 タキ・レーシング 79<br />3 21 GP-II 黒澤元治 ニッサン・R380 日産自動車 78<br />4 22 GP-II 横山達 ニッサン・R380 日産自動車 77<br />5 24 GP-II 大石秀夫 ニッサン・R380 日産自動車 77<br />6 19 GP-IV 砂子義一 ニッサン・R381 日産自動車 77 <br />7 29 GP-II 片平浩 ポルシェ・カレラ6 タキ・レーシング 76 <br />8 5 GP-III 大坪善男 トヨタ・7 TMSC 75<br />9 3 GP-III 鮒子田寛 トヨタ・7 TMSC 74<br />10 15 GP-I 吉田隆郎 ダイハツ・P-5 ダイハツ・クラブ 70<br />11 35 GP-IV 明珍和夫 デイトナ・コブラ 村上健治 66 <br />12 33 GP-I 鈴木八須男 マクランサ 鈴木八須男 63<br />13 31 GP-II 高木豊和 フェアレディ サナダ・レーシング 61 <br />14 2 GP-III 福沢幸雄 トヨタ・7 TMSC 58<br />15 14 GP-I 久木留博之 ダイハツ・P-5 ダイハツ・クラブ 57<br />16 16 GP-I 武智勇三 ダイハツ・P-5 ダイハツ・クラブ 56 <br />Ret 11 GP-IV 安田銀治 ローラ・T70 安田銀治 50 <br />Ret 1 GP-III 細谷四方洋 トヨタ・7 TMSC 44<br />Ret 30 GP-II 真田睦明 ェアレディ サナダ・レーシング 33<br />Ret 18 GP-IV 高橋国光 ニッサン・R381 日産自動車 31<br />Ret 12 GP-I 矢吹圭造 ダイハツ・P-5 ダイハツ・クラブ 30<br />Ret 26 GP-IV 田中健二郎 ローラ・T70マークIII タキ・レーシング 27 <br />Ret 6 GP-III 伊能祥光 ケロヨン号RSB 木馬座プロダクション 25 <br />Ret 25 GP-IV 長谷見昌弘 ローラ・T70マークIII タキ・レーシング 22 <br />Ret 27 GP-IV 酒井正 ローラ・T70マークII タキ・レーシング 18 <br />ns 7 GP-I 遠藤邦機 マクランサ 遠藤邦機 予選落ち <br />ns 17 GP-I 木下昇 キノシタ・スペシャル サナダ・レーシング 予選落ち <br />ns 10 GP-II 高野ルイ ロータス・47GT 積水化学 予選落ち <br />ns 34 GP-I 村田邦夫 マクランサ 村田邦夫 予選落ち <br />ns 8 GP-I 大久保力 Honda WM. 大久保力 予選落ち <br />ns:Did not start 出走せず<br />レース距離 80周 480Km<br /><br />■エピソード<br />注目のTNT対決は日産がトヨタとタキを制したが、実際のところは薄氷の勝利であった。3月の練習走行中、北野のR381がスピンしてピットレーンに飛び込み、ガードレールに激突して炎上。北野はすぐに脱出したが軽い火傷を負った。その後も悪天候やエンジン故障により準備が遅れ、本番用のR381をサーキットに持ち込んだのは予選当日の午前3時だった。また、レース終了後に工場で検査すると、北野のマシンのクランクシャフトにひびが入っており[1]、あと数周レースが長ければ結果は分からなかったという。 また、黒澤元治のR380はレース中のスピンでクラッチを踏んだ際、プッシュロッドを折ってクラッチが切れないトラブルに見舞われた。 しかし黒澤は一速にギアを入れたままセルモーターで発進。以降クラッチが働かない状態で回転合わせだけでシフトチェンジして生沢ポルシェを猛追、総合三位(クラス二位)に輝いた。レース後黒澤は「クラッチがまともだったら生沢を抜けた」と言い切った。またミッションは、ノークラッチで酷使されたとは思えないほど無傷だったと言う。<br /><br />■その他のレース結果<br />◆スピードカップ(30周)<br /> 1. 加藤爽平 コルトF2B<br /> 2. 益子 治 コルトF2B<br /> 3. 浅岡重輝 アロー・ベレット<br /> 4. 米山二郎 ブラバム・コスワース<br /><br />◆GT(15周)<br /> 1. 都平健二 フェアレディ2000<br /> 12. 武智俊憲 ホンダS800(クラスⅠ優勝)<br /><br />◆T(15周)<br /> 1. 大岩湛矣 トヨタ1600GT<br /> 3. 田村三夫 スカラインGT(クラスⅣ優勝)<br /> 21. 西川 順 ミニ・クーパーS(クラスⅡ優勝)<br /> 24. 矢島正則 ホンダS600<br />※『日本モーターレース史』より<br /><br />撮影・編集 <br />CANON FT FL50mm F1.4、FL200mm F3.5<br />フィルム NEOPAN SSS(FUJI FILM) ASA=ISO 200<br />FL200mmは1966年5月に発売された明るい望遠レンズで、高速走行するレーシングカーの流し撮りには重宝した。重量680g、価格29,500円<br />https://global.canon/ja/c-museum/product/fl114.html<br /><br />しかし当時のカメラはオートフォーカス(自動焦点)ではないため、あらかじめ車の通過位置を決めておき、タイミングを見計らってシャッターを切ることがテクニックとして必要であった。慣れると面白くなり、レースの撮影がやめられなくなってしまった。<br /><br />写真は鑑賞が主目的ではないので、不良品以外は編集せずにすべて掲載する。したがって同じ番号の車が何度も登場する。<br /><br />掲載画像にはアルバム写真をスキャンしたものと、ネガフィルムをスキャンしたものがあり、画像データの大きさは前者が約2800×1800、後者が約3000×2100です。<br />データはいずれも提供可能で、希望があればメール等で連絡してください。<br />─────────────────────────── <br />編集者自己紹介(シリーズ共通)<br />https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/19/67/06/src_19670641.jpg?1420067275<br />https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/22/38/50/src_22385032.jpg?1388882024 浦和高校同窓会 遺影用Yei !<br />シニア写真愛好家のyamada423です。<br />一眼レフの経歴はPENTAX、CANON FT、CANON AE-1P、CONTAX RX、EOS40D、EOS80Dなど50年以上です。<br /><br /><略歴> <br />大岡山の工学部の研究室では金属組織などの顕微鏡写真の処理は現像液の調合からガラス乾板・フィルムの現像、印画紙焼付けなどすべて自前で行っていたので、写真の処理技術は一通り身につけていました。<br />写真を撮ることについても風景写真のみならず、当時人気の高かったカーレース(日本グランプリ、CAN-AMなど)に出かけ、200ミリの望遠レンズで高速の被写体を流し撮りするのが好きでした。日本グランプリなど、レースの特集は9月中にはイベント毎に編集して投稿する予定です。<br />月額1~1万3千円の奨学金の大半はカメラや写真、旅行などに消えてしまいましたが、今の自分を育ててくれた大変ありがたい資金でありました。きちんと返済しました。<br />1980年頃から欧米主要国の自動車および自動車部品関連企業、研究機関への出張を繰り返し、その間仕事の合間を利用して撮影を続けました。1997年に財団法人へ出向を機会に出張がなくなり、個人旅行のみとなりました。<br />自動車会社の研究所(29年)と特許庁関連の財団法人工業所有権協力センター(IPCC)で11年、計40年勤務し、2008年3月退職<br />4トラベル会員登録 2010年5月21日<br /><br />ホームページ(長期休眠中)自己紹介、随想「設計技術者の心」など掲載。<br />http://www7b.biglobe.ne.jp/~yamada423/<br />素顔の本田宗一郎と社員たち/3代社長の3ショット (永久保存版)<br />https://4travel.jp/travelogue/10484193<br /><br />おねがい<br />50年以上前の写真ですが、なにかお気づきの情報がありましたら掲示板等でお知らせいただければ嬉しいです。<br /><br />yamada423<br /><br />投稿2020.8.29 10:00](https://cdn.4travel.jp/img/thumbnails/imk/travelogue_album/11/64/14/650x_11641485.jpg?updated_at=1685754681)
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1967年5月3日 (昭和42年)
第5回日本グランプリで優勝したNo.20ニッサン・R381/競いあう2台のニッサン・R380とトヨタ7
No.20北野元(1位)、No.21 黒澤元治(3位)、No.22 横山達(4位)、No.2トヨタ7 福沢幸雄(14位)
───────────────────────────
はじめに
私が写真を撮り始めたのは高校3年のころ(1961年頃)で、高校時代のアルバムを元にまとめたのが下記である。
アーカイブ「高校生活3年間の思い出・記録」ARCHIVE:School life of Urawa High School in early sixties(2011年7月公開)
https://4travel.jp/travelogue/10583150
最も古い記録は高校3年秋の関西地方への修学旅行。
大学時代はオーケストラに所属していたため、いろいろな活動の記録がある。(昭和の記録No.3,No.4公開済み)
また将来はエンジニアを目指して理工系の大学に入り、モータースポーツに強い関心を抱き、各地のレースを見に行って流し撮りのテクニックを身に付けたりもした。
モノクロ(白黒)フィルムは1971年まで使用し、それまでの10年間に撮った写真のネガフィルムはほとんどすべて保管しており、121本(約4200画像)になる。
しかし古いものはフィルムの材料である酢酸セルロースの経年劣化(加水分解)で損傷がひどく、変形や黒点発生で画像の復元が困難なものがある。
平均余命まで10年(平均寿命81.41歳までは5年)を切り、遺品の整理が簡単に済むようにと思い、2019年7月までに全てのモノクロのネガフィルムをスキャナーEPSON GT-F740で電子データ化した。
現代用語:終活(笑い)
───────────────────────────
昭和の記録公開について
令和2年になり、新型コロナウィルスの世界的大流行に伴って海外旅行のみならず旅行が難しい状況が続く。とりわけ東京都内への外出自粛を余儀なくされている現状に鑑み、昨年デジタルデータ化したモノクロ写真を元に旅行記に編集して公開することを思いついた。
1968年の九州一周卒業旅行を公開した例はあるが、それ以来の作業になる。
写真の説明資料はほとんど残っておらず、読者に興味を持って見てもらえる作品になるか予想はできないので、とりあえず試しにスタートしてみることにした。(2020年7月)
公開が主な目的ではなく、遺品として廃棄される前に、私自身だけではなく、共に昭和を過ごしてきた人々の記録をこの世に残しておきたいという願望が先に立つ。
もう一つの狙いは「写真を主体にした自分史」をウェブサイトに残すことである。
ここまではシリーズ共通の前文とする。
シリーズ昭和の記録 百選 総集編
https://4travel.jp/travelogue/11651747
───────────────────────────
シリーズ昭和の記録No.12 第5回日本グランプリ 1968.5.3
写真以外の資料は残っていないので、ウェブサイトの記事を紹介・転記する。
写真は鑑賞が主目的ではないので、不良品以外は編集せずにすべて掲載する。したがって同じ番号の車が何度も登場する。
■1968年日本グランプリ (4輪)
https://ja.wikipedia.org/wiki/1968%E5%B9%B4%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AA_(4%E8%BC%AA)#結果
日程 1968年5月3日 富士スピードウェイ
8時 クラブマンレース・ツーリング(15周)
9時30分 クラブマンレース・グランドツーリング(15周)
11時 日本スピードカップ(30周)
14時 日本グランプリ(80周)
概要
ビッグマシンの登場
過去2大会はプロトタイプ・スポーツカーを参加上限として行われたが、前回は決勝出場が9台のみとなり、出場台数不足が懸念されていた。日本自動車連盟は今回より参加枠を拡げ、二座席レーシングカーもエントリーを認めることになった。
スポーツカー (およびプロトタイプ・スポーツカー) は排気量クラス別の燃料最大容量ほか、最低地上高、最小回転半径、ウィンドシールドの最少寸度、公道走行用の灯火類やスペアタイヤの装備、ラゲッジトランクの設置などが定められているのに対し、二座席レーシングカーは並列2座席でスポーツカーと同様にホイールの上面がフェンダーで覆われてさえいれば、エンジンを含めほぼ自由であるのが特徴だった。カナディアンアメリカン・チャレンジカップの車両として日本でも関心が高まっており、専用に開発されたシャシを購入することが可能だった。
富士スピードウェイのハイスピードコースでは、車体の軽量化やエンジンの出力向上が勝敗を左右する要素となる。二座席レーシングカーの解禁は国内ワークスチームの選択にも影響を与え、軽量なオープンボディに3リットル以上の大排気量エンジンを搭載する「ビッグマシン」が日本GPの新たな主役となった。
TNT対決
事前の予想では、国内2大ワークスのトヨタ、日産に加え、新興プライベーターチームのタキレーシングも優勝候補に挙げられた。マスコミは3者の頭文字にちなんで「TNT対決」と銘打ち、本番に向けて対決ムードを煽った。
トヨタ
前回不参加のトヨタは、ヤマハとの共同体制でトヨタ・7を開発。オープンボディの二座席レーシングカーに自社製3リットルV型8気筒エンジンを搭載し、排気マニフォールドの取り廻しが異なる2タイプが2台ずつ(計4台)出場した。
日産
前回優勝者の日産はシボレー製5.5リットルV型8気筒エンジンを搭載する3台のR381が主力。二座席レーシングカー解禁を受け、クローズドボディのプロトタイプ・スポーツカーをオープンボディの二座席レーシングカーに改めた。これまで主力であったのR380(プロトタイプ・スポーツカー、2リットル直列6気筒エンジン)も3台用意し、計6台体制で参戦した。
タキレーシング
滝進太郎率いるタキレーシングは手持ちのポルシェ・906 (スポーツカー) に加え、ローラ・T70マークIII (スポーツカー) を2台、ポルシェ・910 (プロトタイプ・スポーツカー) を1台、二座席レーシングカーのローラ・T70マークIを1台入手し、5台体制で参戦した。ローラ・T70にはシボレー製V型8気筒エンジンの3種類(5.5、5.8、6.3リットル) を搭載する。2台のポルシェは2リットルの水平対向6気筒エンジン。
軽排気量のGP-Iクラスでは、ダイハツワークスのP-5が4台エントリー(2台はプロトタイプ・スポーツカー、2台は二座席レーシングカー)。ほか、デル・RSBやホンダ・S800を改造したマクランサといった国産マシンで参加するプライベーターも現われた。
■第5回日本グランプリ決勝結果
順位 No. クラス ドライバー 車名 エントラント 周回数
1 20 GP-IV 北野元 ニッサン・R381 日産自動車 80 2:37'05.57
2 28 GP-II 生沢徹 ポルシェ・カレラ10 タキ・レーシング 79
3 21 GP-II 黒澤元治 ニッサン・R380 日産自動車 78
4 22 GP-II 横山達 ニッサン・R380 日産自動車 77
5 24 GP-II 大石秀夫 ニッサン・R380 日産自動車 77
6 19 GP-IV 砂子義一 ニッサン・R381 日産自動車 77
7 29 GP-II 片平浩 ポルシェ・カレラ6 タキ・レーシング 76
8 5 GP-III 大坪善男 トヨタ・7 TMSC 75
9 3 GP-III 鮒子田寛 トヨタ・7 TMSC 74
10 15 GP-I 吉田隆郎 ダイハツ・P-5 ダイハツ・クラブ 70
11 35 GP-IV 明珍和夫 デイトナ・コブラ 村上健治 66
12 33 GP-I 鈴木八須男 マクランサ 鈴木八須男 63
13 31 GP-II 高木豊和 フェアレディ サナダ・レーシング 61
14 2 GP-III 福沢幸雄 トヨタ・7 TMSC 58
15 14 GP-I 久木留博之 ダイハツ・P-5 ダイハツ・クラブ 57
16 16 GP-I 武智勇三 ダイハツ・P-5 ダイハツ・クラブ 56
Ret 11 GP-IV 安田銀治 ローラ・T70 安田銀治 50
Ret 1 GP-III 細谷四方洋 トヨタ・7 TMSC 44
Ret 30 GP-II 真田睦明 ェアレディ サナダ・レーシング 33
Ret 18 GP-IV 高橋国光 ニッサン・R381 日産自動車 31
Ret 12 GP-I 矢吹圭造 ダイハツ・P-5 ダイハツ・クラブ 30
Ret 26 GP-IV 田中健二郎 ローラ・T70マークIII タキ・レーシング 27
Ret 6 GP-III 伊能祥光 ケロヨン号RSB 木馬座プロダクション 25
Ret 25 GP-IV 長谷見昌弘 ローラ・T70マークIII タキ・レーシング 22
Ret 27 GP-IV 酒井正 ローラ・T70マークII タキ・レーシング 18
ns 7 GP-I 遠藤邦機 マクランサ 遠藤邦機 予選落ち
ns 17 GP-I 木下昇 キノシタ・スペシャル サナダ・レーシング 予選落ち
ns 10 GP-II 高野ルイ ロータス・47GT 積水化学 予選落ち
ns 34 GP-I 村田邦夫 マクランサ 村田邦夫 予選落ち
ns 8 GP-I 大久保力 Honda WM. 大久保力 予選落ち
ns:Did not start 出走せず
レース距離 80周 480Km
■エピソード
注目のTNT対決は日産がトヨタとタキを制したが、実際のところは薄氷の勝利であった。3月の練習走行中、北野のR381がスピンしてピットレーンに飛び込み、ガードレールに激突して炎上。北野はすぐに脱出したが軽い火傷を負った。その後も悪天候やエンジン故障により準備が遅れ、本番用のR381をサーキットに持ち込んだのは予選当日の午前3時だった。また、レース終了後に工場で検査すると、北野のマシンのクランクシャフトにひびが入っており[1]、あと数周レースが長ければ結果は分からなかったという。 また、黒澤元治のR380はレース中のスピンでクラッチを踏んだ際、プッシュロッドを折ってクラッチが切れないトラブルに見舞われた。 しかし黒澤は一速にギアを入れたままセルモーターで発進。以降クラッチが働かない状態で回転合わせだけでシフトチェンジして生沢ポルシェを猛追、総合三位(クラス二位)に輝いた。レース後黒澤は「クラッチがまともだったら生沢を抜けた」と言い切った。またミッションは、ノークラッチで酷使されたとは思えないほど無傷だったと言う。
■その他のレース結果
◆スピードカップ(30周)
1. 加藤爽平 コルトF2B
2. 益子 治 コルトF2B
3. 浅岡重輝 アロー・ベレット
4. 米山二郎 ブラバム・コスワース
◆GT(15周)
1. 都平健二 フェアレディ2000
12. 武智俊憲 ホンダS800(クラスⅠ優勝)
◆T(15周)
1. 大岩湛矣 トヨタ1600GT
3. 田村三夫 スカラインGT(クラスⅣ優勝)
21. 西川 順 ミニ・クーパーS(クラスⅡ優勝)
24. 矢島正則 ホンダS600
※『日本モーターレース史』より
撮影・編集
CANON FT FL50mm F1.4、FL200mm F3.5
フィルム NEOPAN SSS(FUJI FILM) ASA=ISO 200
FL200mmは1966年5月に発売された明るい望遠レンズで、高速走行するレーシングカーの流し撮りには重宝した。重量680g、価格29,500円
https://global.canon/ja/c-museum/product/fl114.html
しかし当時のカメラはオートフォーカス(自動焦点)ではないため、あらかじめ車の通過位置を決めておき、タイミングを見計らってシャッターを切ることがテクニックとして必要であった。慣れると面白くなり、レースの撮影がやめられなくなってしまった。
写真は鑑賞が主目的ではないので、不良品以外は編集せずにすべて掲載する。したがって同じ番号の車が何度も登場する。
掲載画像にはアルバム写真をスキャンしたものと、ネガフィルムをスキャンしたものがあり、画像データの大きさは前者が約2800×1800、後者が約3000×2100です。
データはいずれも提供可能で、希望があればメール等で連絡してください。
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編集者自己紹介(シリーズ共通)
https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/19/67/06/src_19670641.jpg?1420067275
https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/22/38/50/src_22385032.jpg?1388882024 浦和高校同窓会 遺影用Yei !
シニア写真愛好家のyamada423です。
一眼レフの経歴はPENTAX、CANON FT、CANON AE-1P、CONTAX RX、EOS40D、EOS80Dなど50年以上です。
<略歴>
大岡山の工学部の研究室では金属組織などの顕微鏡写真の処理は現像液の調合からガラス乾板・フィルムの現像、印画紙焼付けなどすべて自前で行っていたので、写真の処理技術は一通り身につけていました。
写真を撮ることについても風景写真のみならず、当時人気の高かったカーレース(日本グランプリ、CAN-AMなど)に出かけ、200ミリの望遠レンズで高速の被写体を流し撮りするのが好きでした。日本グランプリなど、レースの特集は9月中にはイベント毎に編集して投稿する予定です。
月額1~1万3千円の奨学金の大半はカメラや写真、旅行などに消えてしまいましたが、今の自分を育ててくれた大変ありがたい資金でありました。きちんと返済しました。
1980年頃から欧米主要国の自動車および自動車部品関連企業、研究機関への出張を繰り返し、その間仕事の合間を利用して撮影を続けました。1997年に財団法人へ出向を機会に出張がなくなり、個人旅行のみとなりました。
自動車会社の研究所(29年)と特許庁関連の財団法人工業所有権協力センター(IPCC)で11年、計40年勤務し、2008年3月退職
4トラベル会員登録 2010年5月21日
ホームページ(長期休眠中)自己紹介、随想「設計技術者の心」など掲載。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~yamada423/
素顔の本田宗一郎と社員たち/3代社長の3ショット (永久保存版)
https://4travel.jp/travelogue/10484193
おねがい
50年以上前の写真ですが、なにかお気づきの情報がありましたら掲示板等でお知らせいただければ嬉しいです。
yamada423
投稿2020.8.29 10:00
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- JRローカル 私鉄
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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1968年5月3日 富士スピードウェイ
11時 日本スピードカップ(30周) -
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1968年5月3日
14時 日本グランプリ(80周)
No.21 黒澤元治 ニッサン・R380 -
No.16 武智勇三 ダイハツ・P-5
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No.28 生沢徹 ポルシェ・カレラ10
No.14 久木留博之 ダイハツ・P-5 -
No.35 吉田隆郎 ダイハツ・P-5
No.1 細谷四方洋 トヨタ・7 -
No.18 高橋国光 ニッサン・R381
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No.20 北野元 ニッサン・R381
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No.28 生沢徹 ポルシェ・カレラ10
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No.25 長谷見昌弘 ローラ・T70マークIII
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No.16 武智勇三 ダイハツ・P-5
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No.11 安田銀治 ローラ・T70
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No.18 高橋国光 ニッサン・R381
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No.3 鮒子田寛 トヨタ・7
No.35 明珍和夫 デイトナ・コブラ
No.28 生沢徹 ポルシェ・カレラ10 -
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No.1 細谷四方洋 トヨタ・7
No.22 横山達 ニッサン・R380 -
No.19 砂子義一 ニッサン・R381
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No.28 生沢徹 ポルシェ・カレラ10
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No.1 細谷四方洋 トヨタ・7
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No.25 長谷見昌弘 ローラ・T70マークIII
No.5 大坪善男 トヨタ・7 -
No.24 大石秀夫 ニッサン・R380
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No.29 片平浩 ポルシェ・カレラ6
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No.20 北野元 ニッサン・R381
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No.20 北野元 ニッサン・R381
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No.16 武智勇三 ダイハツ・P-5
No.22 横山達 ニッサン・R380 -
No.24 大石秀夫 ニッサン・R380
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No.2 福沢幸雄 トヨタ・7
No.6 伊能祥光 ケロヨン号RSB -
No.24 大石秀夫 ニッサン・R380
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No.26 田中健二郎 ローラ・T70マークIII
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No.22 横山達 ニッサン・R380
No.25 長谷見昌弘 ローラ・T70マークIII -
No.26
No.24 大石秀夫 ニッサン・R380
No.28 生沢徹 ポルシェ・カレラ10
No.11 安田銀治 ローラ・T70 -
No.18 高橋国光 ニッサン・R381
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コーナーで競うトヨタとニッサン 表紙写真
No.2 福沢幸雄 トヨタ・7
No.22 横山達 ニッサン・R380
No.21 黒澤元治 ニッサン・R380 -
No.33 鈴木八須男 マクランサ
No.15 吉田隆郎 ダイハツ・P-5 -
No.24 大石秀夫 ニッサン・R380
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No.5 大坪善男 トヨタ・7
No.14 久木留博之 ダイハツ・P-5 -
No.11 安田銀治 ローラ・T70
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No.27 酒井正 ローラ・T70マークII
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No.20 北野元 ニッサン・R381
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No.1 細谷四方洋 トヨタ・7
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No.29 片平浩 ポルシェ・カレラ6
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No.28 生沢徹 ポルシェ・カレラ10
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No.22 横山達 ニッサン・R380
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No.19 砂子義一 ニッサン・R381
No.1 細谷四方洋 トヨタ・7 -
No.20 北野元 ニッサン・R381
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No.28 生沢徹 ポルシェ・カレラ10
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No.21 黒澤元治 ニッサン・R380
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No.22 横山達 ニッサン・R380
No.5(手前) 大坪善男 トヨタ・7 -
No.24 大石秀夫 ニッサン・R380
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No.2 福沢幸雄 トヨタ・7
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No.28 生沢徹 ポルシェ・カレラ10
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No.21 黒澤元治 ニッサン・R380
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No.20 北野元 ニッサン・R381
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No.24 大石秀夫 ニッサン・R380
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No.19 砂子義一 ニッサン・R381
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No.20 北野元 ニッサン・R381
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No.28 生沢徹 ポルシェ・カレラ10
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No.5 大坪善男 トヨタ・7
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No.20 北野元 ニッサン・R381
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撮影に使用した一眼レフカメラ CANON FT FL50mm F1.4
ボディ本体重量750g
価格(レンズ付)(1966年発売当時)54,800円 -
レースの撮影に使用した望遠レンズ
CANON FL 200mm F3.5
口径が大きく明るいレンズでしたが、重量が680gあり、かなり重かったです。
価格 1966年5月発売時 29,500円
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