1966/05/03 - 1966/05/03
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yamada423さん
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日本グランプリが開催された富士スピードウェイ 1966.5.3(昭和41年)
静岡県駿東郡小山町中日向694
1966年1月3日オープン
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はじめに
私が写真を撮り始めたのは高校3年のころ(1961年頃)で、高校時代のアルバムを元にまとめたのが下記である。
アーカイブ「高校生活3年間の思い出・記録」ARCHIVE:School life of Urawa High School in early sixties(2011年7月公開)
https://4travel.jp/travelogue/10583150
最も古い記録は高校3年秋の関西地方への修学旅行。
大学時代はオーケストラに所属していたため、いろいろな活動の記録がある。(昭和の記録No.3,No.4公開済み)
また将来はエンジニアを目指して理工系の大学に入り、モータースポーツに強い関心を抱き、各地のレースを見に行って流し撮りのテクニックを身に付けたりもした。
モノクロ(白黒)フィルムは1971年まで使用し、それまでの10年間に撮った写真のネガフィルムはほとんどすべて保管しており、121本(約4200画像)になる。
しかし古いものはフィルムの材料である酢酸セルロースの経年劣化(加水分解)で損傷がひどく、変形や黒点発生で画像の復元が困難なものがある。
平均余命まで10年(平均寿命81.41歳までは5年)を切り、遺品の整理が簡単に済むようにと思い、2019年7月までに全てのモノクロのネガフィルムをスキャナーEPSON GT-F740で電子データ化した。
現代用語:終活(笑い)
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昭和の記録公開について
令和2年になり、新型コロナウィルスの世界的大流行に伴って海外旅行のみならず旅行が難しい状況が続く。とりわけ東京都内への外出自粛を余儀なくされている現状に鑑み、昨年デジタルデータ化したモノクロ写真を元に旅行記に編集して公開することを思いついた。
1968年の九州一周卒業旅行を公開した例はあるが、それ以来の作業になる。
写真の説明資料はほとんど残っておらず、読者に興味を持って見てもらえる作品になるか予想はできないので、とりあえず試しにスタートしてみることにした。(2020年7月)
公開が主な目的ではなく、遺品として廃棄される前に、私自身だけではなく、共に昭和を過ごしてきた人々の記録をこの世に残しておきたいという願望が先に立つ。
もう一つの狙いは「写真を主体にした自分史」をウェブサイトに残すことである。
ここまではシリーズ共通の前文とする。
シリーズ昭和の記録 百選 総集編
https://4travel.jp/travelogue/11651747
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シリーズ昭和の記録No.10 第3回日本グランプリ 1966.5.3
今回から6回の予定で、1960年代後半の自動車レースの画像記録です。
日本国内の最高位の日本グランプリを始め、各地で行われたツーリングカーレース、フォーミュラカーレース、Can-Am(無制限スポーツカーレース)などをイベント毎にまとめて編集しました。
レースの記録はわずかしか残していないので、わかる範囲で記録したサイトを紹介します。
■自動車レース写真の始め。
大学2年に機会工学科に進路が決まった頃に興味を持ち始めた自動車に関して、1962年4月の創刊された自動車総合雑誌「CARグラフィック」の21号から毎月の購読を始めた。
(この雑誌はその後40年近読み続いた。)
1966年3月に「第4回クラブマンレース富士大会」が、年初にオープンしたばかりの富士スピードウェイで開催されることをCARグラで知り、買ったばかりの一眼レフCANON FTを持って初めての自動車レースを見に行った。
このレースはツーリングカーレースで、市販の車をベースにチューンアップ(性能向上)を施した車のよるものだ。
写真を撮るためには観覧スタンドで見るのではなく、写真が撮れる場所を探しながらコース沿いのフェンス近くで見るため、甲高いエンジン音と視覚による迫力はものすごく、言葉にできない感動を味わった。
しかし撮った写真を現像してみると、標準レンズでは車は小さく写るだけで、望遠レンズの必要性を痛感した。その後しばらくして200ミリ望遠レンズFL 200mmを買った。
https://global.canon/ja/c-museum/product/fl114.html
2度目のレースは1ヶ月ちょっと後の5月3日の第3回日本グランプリだった。
メインのレースはグランプリの名の通り、レーシングカーによる最高峰のレースで、プリンス自動車、トヨタ、ポルシェの対決で盛り上がりを感じた。
■第3回日本グランプリ結果
順位 No. クラス ドライバー 車名 エントラント 周回数
1 11 GP-II 砂子義一 プリンス・R380 PMCS 60
2 10 GP-II 大石秀夫 プリンス・R380 PMCS 57
3 15 GP-II 細谷四方洋 トヨタ・2000GT TMSC 57
4 9 GP-II 横山達 プリンス・R380 PBSC 56
5 19 GP-III 安田銀治 ジャガー 安田銀治 55
6 20 GP-III 横山精一郎 ジャガー・XK-E 横山精一郎 54
7 5 GP-I 吉田隆郎 ダイハツ・P-3 ダイハツ工業(株)52
8 2 GP-I 佐藤清人 アバルトシムカ・1300 金原達郎 52
9 1 GP-I 波嵯栄菩王武 ロータス・エリート 波嵯栄菩王武 50
nc 7 GP-II 山口良夫 フェアレディ 山口良夫 42
Ret 21 GP-III 酒井正 デイトナ・コブラ 酒井正 46
Ret 8 GP-II 生沢徹 プリンス・R380 PMCS 46
Ret 6 GP-II 滝進太郎 ポルシェ・カレラ6 滝進太郎 42
Ret 12 GP-II 北野元 フェアレディS 田原源一郎 36
Ret 3 GP-I 久木留博之 ダイハツ・P-3 ダイハツ工業(株) 22
Ret 17 GP-II 田村三夫 トヨタ・2000GT TMSC 5
■エピソード
決勝日には9万5千人の観客が1万6千台のマイカーで来場したが、前日の大雨で未舗装の連絡道路がぬかるみ、立往生する車が続出。駐車場への誘導も混乱してサーキット周辺には大渋滞が発生した。大会名誉総裁の高松宮宣仁親王は開会式に遅れないよう途中で車を降り、3kmの道のりを歩いて来場した[8]。帰路の渋滞も激しく、深夜になっても場内から出られない観客が怒り出し、トラブルの頻発で整理員が逃げ出してしまうこともあった。富士スピードウェイにおける悪天候時の観客移動トラブルは、40年後の2007年日本グランプリでも発生した。
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/1966%E5%B9%B4%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AA_(4%E8%BC%AA)
■富士スピードウェイについて。
1966年(昭和41年)1月3日にオープン。最初のレースイベントは3月12日に開催された、アマチュアライダーによる2輪レースである「第7回全日本モーターサイクルクラブマンレース」だった。この時、まだ一部の観客席が建設中であったにもかかわらず、1万人の観客を集めた。3月27日に行われた4輪の開業イベント「第4回クラブマンレース富士大会」にはF1世界チャンピオンのジム・クラークが来場し、F3マシンで展示走行を行った。
さらに5月3日に開催された第3回日本グランプリ決勝には9万5千人の観客を集め、サーキット周辺には大渋滞が発生したが、レースは日産、トヨタ、プリンス、いすゞのワークス対決で盛り上がった。
出典 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A4#オープン
撮影 CANON FT FL50mm F1.4
フィルム NEOPAN SS(FUJI FILM) ASA=ISO 100
アルバムの写真(Lサイズ)をスキャンしたものの画像サイズは約2700×1700です。(1から36番目の画像)
ネガフィルムをEPSON GT-F740でデジタル化した画像サイズは約3000×2100です。(37から59番目)
いずれも画像データ提供は可能です。
ネガフィルムには黒点(画像では白点)が多数発生し、大粒のボタン雪が舞う悪天候でのレースのようです。(笑い)
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編集者自己紹介(シリーズ共通)
https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/19/67/06/src_19670641.jpg?1420067275
https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/22/38/50/src_22385032.jpg?1388882024 浦和高校同窓会 遺影用Yei !
シニア写真愛好家のyamada423です。
一眼レフの経歴はPENTAX、CANON FT、CANON AE-1P、CONTAX RX、EOS40D、EOS80Dなど50年以上です。
<略歴>
大岡山の工学部の研究室では金属組織などの顕微鏡写真の処理は現像液の調合からガラス乾板・フィルムの現像、印画紙焼付けなどすべて自前で行っていたので、写真の処理技術は一通り身につけていました。
写真を撮ることについても風景写真のみならず、当時人気の高かったカーレース(日本グランプリ、CAN-AMなど)に出かけ、200ミリの望遠レンズで高速の被写体を流し撮りするのが好きでした。日本グランプリなど、レースの特集は9月中にはイベント毎に編集して投稿する予定です。
月額1~1万3千円の奨学金の大半はカメラや写真、旅行などに消えてしまいましたが、今の自分を育ててくれた大変ありがたい資金でありました。きちんと返済しました。
1980年頃から欧米主要国の自動車および自動車部品関連企業、研究機関への出張を繰り返し、その間仕事の合間を利用して撮影を続けました。1997年に財団法人へ出向を機会に出張がなくなり、個人旅行のみとなりました。
自動車会社の研究所(29年)と特許庁関連の財団法人工業所有権協力センター(IPCC)で11年、計40年勤務し、2008年3月退職
4トラベル会員登録 2010年5月21日
ホームページ(長期休眠中)自己紹介、随想「設計技術者の心」など掲載。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~yamada423/
素顔の本田宗一郎と社員たち/3代社長の3ショット (永久保存版)
https://4travel.jp/travelogue/10484193
おねがい
50年以上前の写真ですが、なにかお気づきの情報がありましたら掲示板等でお知らせいただければ嬉しいです。
写真掲載にあたり、写っている方の承諾は得ておりませんので、不都合があればお知らせください。即対応いたします。
yamada423
投稿2020.8.21 11:10
-
1966年5月3日
第3回日本グランプリが開催された富士スピードウェイの西ゲート
当時のアクセスは新宿から小田急線で大井松田で乗り換え、国鉄御殿場線駿河小山駅からバスでした。
最初から36番目までの画像はアルバムをスキャンしたものです。 -
富士スピードウェイのメインスタンドとコース
静岡県駿東郡小山町の富士スピードウェイから富士山まで約18キロで、雪をかぶった富士山がよく見えました。
富士スピードウェイ株式会社 Fuji International Speedway Co.,Ltd.
本社(サーキット)〒410-1307 静岡県駿東郡小山町中日向694
tel.0550-78-1234(代) fax.0550-78-0205 -
ポールに翻る日の丸等の旗
5月3日スケジュール(参考資料)
9時 特殊ツーリングカーレース(20周)
10時40分 グランドツーリングカーレース(20周)
13時30分 日本グランプリ(60周)
16時30分 エキシビジョンレース(10周) -
最初に観たのはグランドツーリングカーレース 20ラップ 120Km
優勝 No.20 日産フェアレディ 高橋国光 -
No.19 フェアレディ
No.35 ポルシェ 911 -
No.34 ポルシェ 911
No.36 トライアンフ TR4 -
No.2 マツダ ファミリア クーペ
No.10 トヨタ S800 -
3位 No.37 ポルシェ 911 Kimio Yamanishi
-
No.9 トヨタ S800
-
日本グランプリ
アルバムの写真はこのようにLサイズの写真が3枚貼ってあります。
このままスキャンして1枚ずつトリミングして切り分けました。
レースの順位、車種、ドライバー名などが書いてあるので役立ちます。
スキャナーの読み込み範囲はA4(297×210ミリ)で、解像度600dpiでスキャンした画像の大きさは7019×5100、サイズ5.98MBです。
dpi:dot per inch=1インチあたりの画素数
これをトリミングして1個の画像にすると次の写真のようになり、大きさは約2700×1700となります。 -
日本グランプリ
1位(優勝) No.11 PRINCE R380 砂子義一(すなこ よしかず)60周
元画像サイズ 2703×1731 -
2位 No.10 PRINCE R380 大石秀夫(おおいし ひでお)57周
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3位 No.15トヨタ・2000GT 細谷四方洋(ほそや しほみ)57周
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4位 No.9 PRINCE R380 横山達(よこやま たつ)56周
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5位 No.19 ジャガー Eタイプ 安田銀治(やすだ ぎんじ)55周
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7位 No. 5 ダイハツ・P-3 吉田隆郎 (よしだ たかお) 52周
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8位 No.2 アバルトシムカ・1300 佐藤清人 (さとう きよひと)52周
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12位(46周リタイア)No.8 PRINCE R380 生沢徹(いくさわ とおる)
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11位(46周リタイア)No.21 ディトナ・コブラ 酒井正(さかい ただし)
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13位(42周リタイア)No.6 ポルシェ・カレラ6
滝進太郎(たき しんたろう) -
優勝したNo.11 R380のうしろ姿
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ピットインしたNo.8 PRINCE R380 生沢徹とNo.6ポルシェ・カレラ6
滝進太郎 -
思い思いの場所で観戦する来場者
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No.11 PRINCE R380 砂子義一
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No.11 , No.10 2台のR380が結果的に1,2フィニッシュした。
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No.2 アバルト1300
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No.21 ディトナ・コブラ 酒井正
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メインスタンドと直線コース
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コントロールタワーとピット(整備場)全景
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メインスタンドと富士山
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ヘアピンカーブ(R30アドバンコーナー)でのNo.11 PRINCE R380 とNo.6 PORSCHE CARRERA 6
コース図
https://www.fsw.tv/file/guide.pdf#search=%27%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A4+%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%B9%E5%9B%B3%27 -
No.6 PORSCHE CARRERA 6滝進太郎(左)とNo.11 PRINCE R380砂子義一(右)
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37番目の画像
これ以降はネガフィルムをスキャンしたもので、フィルムの劣化で白点が多数できていますが、コントラスト補正などはしていないので諧調のディテールはオリジナルです。
その多くはアルバムに載っている画像ですが、アルバム写真はトリミングして比較的コントラストを強く(白黒をはっきりさせて)焼付けしたので車体番号が白飛びして見づらいものがありますので比較してご覧ください。
ネガフィルムの劣化により多数の白点ができていますが、大粒のぼたん雪と思って見てください。(笑い)
5月3日10時40分 グランドツーリングカーレース(20周)
ローリングスタートの先導車(PACECAR)
ローリングスタート Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%88 -
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メインスタンド
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メインスタンドと富士山
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No.6(左)とNo.11(右)
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No.21
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No.8
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No.5
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No.21
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No.2
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No.9
-
No.15
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No.11
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No.6
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撮影に使用したカメラ
CANON FT FL50mm F1.4
キヤノン FT QL
調べてみたところ1966年発売当時の価格は54,800円(レンズ共)だそうです。
現在の価値では30万円、...或いはもっとするのかもしれません。
1968年に修士で入社した自動車会社の初任給が3万2千円でした。
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