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1966年10月9日(昭和41年)<br />「日本インディ200マイルレース」優勝したジャッキー・スチュアート<br />No.43   Lola / Ford<br /><br />今回から3回にわたり、日本グランプリ以外の富士スピードウェイでのレースの記録です。No.15~No.17<br />───────────────────────────<br />はじめに<br />私が写真を撮り始めたのは高校3年のころ(1961年頃)で、高校時代のアルバムを元にまとめたのが下記である。<br />アーカイブ「高校生活3年間の思い出・記録」ARCHIVE:School life of Urawa High School in early sixties(2011年7月公開)<br />https://4travel.jp/travelogue/10583150<br />最も古い記録は高校3年秋の関西地方への修学旅行。<br />大学時代はオーケストラに所属していたため、いろいろな活動の記録がある。(昭和の記録No.3,No.4公開済み)<br />また将来はエンジニアを目指して理工系の大学に入り、モータースポーツに強い関心を抱き、各地のレースを見に行って流し撮りのテクニックを身に付けたりもした。<br /><br />モノクロ(白黒)フィルムは1971年まで使用し、それまでの10年間に撮った写真のネガフィルムはほとんどすべて保管しており、121本(約4200画像)になる。<br />しかし古いものはフィルムの材料である酢酸セルロースの経年劣化(加水分解)で損傷がひどく、変形や黒点発生で画像の復元が困難なものがある。<br />平均余命まで10年(平均寿命81.41歳までは5年)を切り、遺品の整理が簡単に済むようにと思い、2019年7月までに全てのモノクロのネガフィルムをスキャナーEPSON GT-F740で電子データ化した。<br />現代用語:終活(笑い)<br />  ───────────────────────────<br />昭和の記録公開について<br />令和2年になり、新型コロナウィルスの世界的大流行に伴って海外旅行のみならず旅行が難しい状況が続く。とりわけ東京都内への外出自粛を余儀なくされている現状に鑑み、昨年デジタルデータ化したモノクロ写真を元に旅行記に編集して公開することを思いついた。<br />1968年の九州一周卒業旅行を公開した例はあるが、それ以来の作業になる。<br />写真の説明資料はほとんど残っておらず、読者に興味を持って見てもらえる作品になるか予想はできないので、とりあえず試しにスタートしてみることにした。(2020年7月)<br />公開が主な目的ではなく、遺品として廃棄される前に、私自身だけではなく、共に昭和を過ごしてきた人々の記録をこの世に残しておきたいという願望が先に立つ。<br />もう一つの狙いは「写真を主体にした自分史」をウェブサイトに残すことである。<br />ここまではシリーズ共通の前文とする。<br />シリーズ昭和の記録 百選 総集編<br />https://4travel.jp/travelogue/11651747<br /><br /> ───────────────────────────<br />シリーズ昭和の記録No.15 富士スピードウェイ その1 Fuji speedway part 1<br />クラブマンレース富士大会3.27/インディーカーレース10.9<br /><br />■自動車レース写真の始め<br />1966年3月27日に「第4回クラブマンレース富士大会」が年初にオープンしたばかりの富士スピードウェイで開催されることをCARグラで知り、買ったばかりのCANON FTを持って初めての自動車レースを見に行った。<br />このレースはツーリングカーレースで、市販の車をベースにチューンアップ(性能向上)を施した車のよるものだ。<br />レースは見ると同時に迫力あるレースの撮影に興味が湧き、次第に撮影に力を入れるようになった。<br />1966年には5月3日の第3回日本グランプリ、10月9日にインディカーレースをいずれも富士スピードウェイへ見に行った。<br />第3回日本グランプリはすでにこのシリーズの第10回で公開済みで、今回は他の2つのレースの写真をまとめた。<br />写真以外の資料は残っていないので、ウェブサイトの記事を紹介・転記する。<br />写真は鑑賞が主目的ではないので、不良品以外は削除(廃棄)せずにすべて掲載する。したがって同じ番号の車が何度も登場する。<br /><br />■1966年「日本インディ200マイルレース」<br />(1966年10月9日)富士スピードウェイ(左回り4.3kmコース)<br />http://www.ne.jp/asahi/60srace/models/Indy500.html<br /><br />レース結果(上位3位まで)    <br />順位  No. ドライバー    マシン     時間     周回 <br />優勝  43 J.スチュワート ローラ・フォード 2”03’59”35  80 <br />2位    5 B.アンサー イーグル・フォード 2”04’45”52  80 <br />3位  37 A.クニッパー セシル・フォード        77<br /><br />レース結果詳細<br />https://www.racing-reference.info/race/1966-04/X<br /><br />予選で思わぬ事態が発生したのでした。優勝候補のジム・クラークがエンジントラブル、マリオ・アンドレッティがギヤトラブルのため、なんと決勝出場を断念せざるをえなくなったのでした。<br />レースは、富士の名物である30度バンクを使わない左回り4.3kmコースを使用し、80周で争います。  <br />しかし、インディ独特の右よりのサスペンション設定そのままの状態で臨んだマシンなどは、右コーナーはまったくスピードが出せず大変苦労していたように思われました。グラハム・ヒルはまさにそうでありました。いっせいにスタートしたあと、トップに立っていたジャッキー・スチュワートを激しく追っていたヒルは、右コーナーで極端に遅れ、ストレートで追いつくといった状態がしばらく続き、2周目に1度ヒルはトップに立つがその後L.ルビーに抜かれついに76周目のヘアピンで電気系トラブルでストップしてしまう。L.ルビー、B.フォスターとトップが入れ替わる中、その両車が共にリタイヤすることになるのです。これによって、再びスチュワートがトップに立ち、結局そのままチェッカーを受けることになるのでした。 <br /> レースとしては、なんとも退屈なレースであり、野球であれば過去のショー的要素の多かった時代の日米野球のような内容であったと思われてなりません。しかし、グラハム・ヒルの来日は、これが最初で最後となったのでした。このレースに勝ったジャッキー・スチュワートは3年後F-1チャンピオンとなるのですが、日本での2度目のレースとなる1970年のJAFグランプリにおいても優勝し、日本では無敗を誇ることになるのでした。名実ともに、ジム・クラークの後継者の称号「フライング・スコット・ジュニア」の誕生でありました。  <br /><br />■ジョーホンダの原点“1966年日本インディ200マイルレース” <br />秘蔵写真初公開 !!  <br />http://www.mmjp.or.jp/60srace/JoeHondaMyLife2.html<br /><br />■富士スピードウェイについて。<br />1966年(昭和41年)1月3日にオープン。最初のレースイベントは3月12日に開催された、アマチュアライダーによる2輪レースである「第7回全日本モーターサイクルクラブマンレース」だった。この時、まだ一部の観客席が建設中であったにもかかわらず、1万人の観客を集めた。3月27日に行われた4輪の開業イベント「第4回クラブマンレース富士大会」にはF1世界チャンピオンのジム・クラークが来場し、F3マシンで展示走行を行った。<br />さらに5月3日に開催された第3回日本グランプリ決勝には9万5千人の観客を集め、サーキット周辺には大渋滞が発生したが、レースは日産、トヨタ、プリンス、いすゞのワークス対決で盛り上がった。<br />出典<br />https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A4#オープン<br /><br />■富士スピードウェイの思い出(前編)<br />https://gazoo.com/article/car_history/150724_2.html<br />自動車の歴史 第1話ー第121話までのタイトルが紹介され内容(本文)にリンクしています。とても貴重な資料です。<br /><br />撮影・編集 <br />CANON FT FL50mm F1.4、FL200mm F3.5<br />フィルム NEOPAN SSS(FUJI FILM) ASA=ISO 200<br />FL200mmは前年(1966)5月に発売された明るい望遠レンズで、高速走行するレーシングカーの流し撮りには重宝した。重量680g、価格29,500円<br />https://global.canon/ja/c-museum/product/fl114.html<br /><br />しかし当時のカメラはオートフォーカス(自動焦点)ではないため、あらかじめ車の通過位置を決めておき、タイミングを見計らってシャッターを切ることがテクニックとして必要であった。慣れると面白くなり、レースの撮影がやめられなくなってしまった。<br /><br />掲載画像はネガフィルムをスキャンしたもので、画像データの大きさは約2800×2000です。<br />───────────────────────────  <br />編集者自己紹介(シリーズ共通)<br />https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/19/67/06/src_19670641.jpg?1420067275<br />https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/22/38/50/src_22385032.jpg?1388882024 浦和高校同窓会 遺影用Yei !<br />シニア写真愛好家のyamada423です。<br />一眼レフの経歴はPENTAX、CANON FT、CANON AE-1P、CONTAX RX、EOS40D、EOS80Dなど50年以上です。<br /><br /><略歴>  <br />大岡山の工学部の研究室では金属組織などの顕微鏡写真の処理は現像液の調合からガラス乾板・フィルムの現像、印画紙焼付けなどすべて自前で行っていたので、写真の処理技術は一通り身につけていました。<br />写真を撮ることについても風景写真のみならず、当時人気の高かったカーレース(日本グランプリ、CAN-AMなど)に出かけ、200ミリの望遠レンズで高速の被写体を流し撮りするのが好きでした。日本グランプリなど、レースの特集は9月中にはイベント毎に編集して投稿する予定です。<br />月額1~1万3千円の奨学金の大半はカメラや写真、旅行などに消えてしまいましたが、今の自分を育ててくれた大変ありがたい資金でありました。きちんと返済しました。<br />1980年頃から欧米主要国の自動車および自動車部品関連企業、研究機関への出張を繰り返し、その間仕事の合間を利用して撮影を続けました。1997年に財団法人へ出向を機会に出張がなくなり、個人旅行のみとなりました。<br />自動車会社の研究所(29年)と特許庁関連の財団法人工業所有権協力センター(IPCC)で11年、計40年勤務し、2008年3月退職<br />4トラベル会員登録 2010年5月21日<br /><br />ホームページ(長期休眠中)自己紹介、随想「設計技術者の心」など掲載。<br />http://www7b.biglobe.ne.jp/~yamada423/<br />素顔の本田宗一郎と社員たち/3代社長の3ショット (永久保存版)<br />https://4travel.jp/travelogue/10484193<br /><br />おねがい<br />50年以上前の写真ですが、なにかお気づきの情報がありましたら掲示板等でお知らせいただければ嬉しいです。<br /><br />yamada423<br /><br />投稿2020.9.10  10:00<br /><br /><br /><br /><br /><br />

シリーズ昭和の記録No.15 富士スピードウェイ その1 Fuji speedway part 1

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1966/03/27 - 1966/10/09

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yamada423

yamada423さん

1966年10月9日(昭和41年)
「日本インディ200マイルレース」優勝したジャッキー・スチュアート
No.43 Lola / Ford

今回から3回にわたり、日本グランプリ以外の富士スピードウェイでのレースの記録です。No.15~No.17
───────────────────────────
はじめに
私が写真を撮り始めたのは高校3年のころ(1961年頃)で、高校時代のアルバムを元にまとめたのが下記である。
アーカイブ「高校生活3年間の思い出・記録」ARCHIVE:School life of Urawa High School in early sixties(2011年7月公開)
https://4travel.jp/travelogue/10583150
最も古い記録は高校3年秋の関西地方への修学旅行。
大学時代はオーケストラに所属していたため、いろいろな活動の記録がある。(昭和の記録No.3,No.4公開済み)
また将来はエンジニアを目指して理工系の大学に入り、モータースポーツに強い関心を抱き、各地のレースを見に行って流し撮りのテクニックを身に付けたりもした。

モノクロ(白黒)フィルムは1971年まで使用し、それまでの10年間に撮った写真のネガフィルムはほとんどすべて保管しており、121本(約4200画像)になる。
しかし古いものはフィルムの材料である酢酸セルロースの経年劣化(加水分解)で損傷がひどく、変形や黒点発生で画像の復元が困難なものがある。
平均余命まで10年(平均寿命81.41歳までは5年)を切り、遺品の整理が簡単に済むようにと思い、2019年7月までに全てのモノクロのネガフィルムをスキャナーEPSON GT-F740で電子データ化した。
現代用語:終活(笑い)
  ───────────────────────────
昭和の記録公開について
令和2年になり、新型コロナウィルスの世界的大流行に伴って海外旅行のみならず旅行が難しい状況が続く。とりわけ東京都内への外出自粛を余儀なくされている現状に鑑み、昨年デジタルデータ化したモノクロ写真を元に旅行記に編集して公開することを思いついた。
1968年の九州一周卒業旅行を公開した例はあるが、それ以来の作業になる。
写真の説明資料はほとんど残っておらず、読者に興味を持って見てもらえる作品になるか予想はできないので、とりあえず試しにスタートしてみることにした。(2020年7月)
公開が主な目的ではなく、遺品として廃棄される前に、私自身だけではなく、共に昭和を過ごしてきた人々の記録をこの世に残しておきたいという願望が先に立つ。
もう一つの狙いは「写真を主体にした自分史」をウェブサイトに残すことである。
ここまではシリーズ共通の前文とする。
シリーズ昭和の記録 百選 総集編
https://4travel.jp/travelogue/11651747

 ───────────────────────────
シリーズ昭和の記録No.15 富士スピードウェイ その1 Fuji speedway part 1
クラブマンレース富士大会3.27/インディーカーレース10.9

■自動車レース写真の始め
1966年3月27日に「第4回クラブマンレース富士大会」が年初にオープンしたばかりの富士スピードウェイで開催されることをCARグラで知り、買ったばかりのCANON FTを持って初めての自動車レースを見に行った。
このレースはツーリングカーレースで、市販の車をベースにチューンアップ(性能向上)を施した車のよるものだ。
レースは見ると同時に迫力あるレースの撮影に興味が湧き、次第に撮影に力を入れるようになった。
1966年には5月3日の第3回日本グランプリ、10月9日にインディカーレースをいずれも富士スピードウェイへ見に行った。
第3回日本グランプリはすでにこのシリーズの第10回で公開済みで、今回は他の2つのレースの写真をまとめた。
写真以外の資料は残っていないので、ウェブサイトの記事を紹介・転記する。
写真は鑑賞が主目的ではないので、不良品以外は削除(廃棄)せずにすべて掲載する。したがって同じ番号の車が何度も登場する。

■1966年「日本インディ200マイルレース」
(1966年10月9日)富士スピードウェイ(左回り4.3kmコース)
http://www.ne.jp/asahi/60srace/models/Indy500.html

レース結果(上位3位まで)
順位 No. ドライバー    マシン     時間     周回
優勝 43 J.スチュワート ローラ・フォード 2”03’59”35 80
2位 5 B.アンサー イーグル・フォード 2”04’45”52  80
3位 37 A.クニッパー セシル・フォード        77

レース結果詳細
https://www.racing-reference.info/race/1966-04/X

予選で思わぬ事態が発生したのでした。優勝候補のジム・クラークがエンジントラブル、マリオ・アンドレッティがギヤトラブルのため、なんと決勝出場を断念せざるをえなくなったのでした。
レースは、富士の名物である30度バンクを使わない左回り4.3kmコースを使用し、80周で争います。
しかし、インディ独特の右よりのサスペンション設定そのままの状態で臨んだマシンなどは、右コーナーはまったくスピードが出せず大変苦労していたように思われました。グラハム・ヒルはまさにそうでありました。いっせいにスタートしたあと、トップに立っていたジャッキー・スチュワートを激しく追っていたヒルは、右コーナーで極端に遅れ、ストレートで追いつくといった状態がしばらく続き、2周目に1度ヒルはトップに立つがその後L.ルビーに抜かれついに76周目のヘアピンで電気系トラブルでストップしてしまう。L.ルビー、B.フォスターとトップが入れ替わる中、その両車が共にリタイヤすることになるのです。これによって、再びスチュワートがトップに立ち、結局そのままチェッカーを受けることになるのでした。
 レースとしては、なんとも退屈なレースであり、野球であれば過去のショー的要素の多かった時代の日米野球のような内容であったと思われてなりません。しかし、グラハム・ヒルの来日は、これが最初で最後となったのでした。このレースに勝ったジャッキー・スチュワートは3年後F-1チャンピオンとなるのですが、日本での2度目のレースとなる1970年のJAFグランプリにおいても優勝し、日本では無敗を誇ることになるのでした。名実ともに、ジム・クラークの後継者の称号「フライング・スコット・ジュニア」の誕生でありました。

■ジョーホンダの原点“1966年日本インディ200マイルレース”
秘蔵写真初公開 !!
http://www.mmjp.or.jp/60srace/JoeHondaMyLife2.html

■富士スピードウェイについて。
1966年(昭和41年)1月3日にオープン。最初のレースイベントは3月12日に開催された、アマチュアライダーによる2輪レースである「第7回全日本モーターサイクルクラブマンレース」だった。この時、まだ一部の観客席が建設中であったにもかかわらず、1万人の観客を集めた。3月27日に行われた4輪の開業イベント「第4回クラブマンレース富士大会」にはF1世界チャンピオンのジム・クラークが来場し、F3マシンで展示走行を行った。
さらに5月3日に開催された第3回日本グランプリ決勝には9万5千人の観客を集め、サーキット周辺には大渋滞が発生したが、レースは日産、トヨタ、プリンス、いすゞのワークス対決で盛り上がった。
出典
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A4#オープン

■富士スピードウェイの思い出(前編)
https://gazoo.com/article/car_history/150724_2.html
自動車の歴史 第1話ー第121話までのタイトルが紹介され内容(本文)にリンクしています。とても貴重な資料です。

撮影・編集 
CANON FT FL50mm F1.4、FL200mm F3.5
フィルム NEOPAN SSS(FUJI FILM) ASA=ISO 200
FL200mmは前年(1966)5月に発売された明るい望遠レンズで、高速走行するレーシングカーの流し撮りには重宝した。重量680g、価格29,500円
https://global.canon/ja/c-museum/product/fl114.html

しかし当時のカメラはオートフォーカス(自動焦点)ではないため、あらかじめ車の通過位置を決めておき、タイミングを見計らってシャッターを切ることがテクニックとして必要であった。慣れると面白くなり、レースの撮影がやめられなくなってしまった。

掲載画像はネガフィルムをスキャンしたもので、画像データの大きさは約2800×2000です。
───────────────────────────  
編集者自己紹介(シリーズ共通)
https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/19/67/06/src_19670641.jpg?1420067275
https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/22/38/50/src_22385032.jpg?1388882024 浦和高校同窓会 遺影用Yei !
シニア写真愛好家のyamada423です。
一眼レフの経歴はPENTAX、CANON FT、CANON AE-1P、CONTAX RX、EOS40D、EOS80Dなど50年以上です。

<略歴>  
大岡山の工学部の研究室では金属組織などの顕微鏡写真の処理は現像液の調合からガラス乾板・フィルムの現像、印画紙焼付けなどすべて自前で行っていたので、写真の処理技術は一通り身につけていました。
写真を撮ることについても風景写真のみならず、当時人気の高かったカーレース(日本グランプリ、CAN-AMなど)に出かけ、200ミリの望遠レンズで高速の被写体を流し撮りするのが好きでした。日本グランプリなど、レースの特集は9月中にはイベント毎に編集して投稿する予定です。
月額1~1万3千円の奨学金の大半はカメラや写真、旅行などに消えてしまいましたが、今の自分を育ててくれた大変ありがたい資金でありました。きちんと返済しました。
1980年頃から欧米主要国の自動車および自動車部品関連企業、研究機関への出張を繰り返し、その間仕事の合間を利用して撮影を続けました。1997年に財団法人へ出向を機会に出張がなくなり、個人旅行のみとなりました。
自動車会社の研究所(29年)と特許庁関連の財団法人工業所有権協力センター(IPCC)で11年、計40年勤務し、2008年3月退職
4トラベル会員登録 2010年5月21日

ホームページ(長期休眠中)自己紹介、随想「設計技術者の心」など掲載。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~yamada423/
素顔の本田宗一郎と社員たち/3代社長の3ショット (永久保存版)
https://4travel.jp/travelogue/10484193

おねがい
50年以上前の写真ですが、なにかお気づきの情報がありましたら掲示板等でお知らせいただければ嬉しいです。

yamada423

投稿2020.9.10  10:00





旅行の満足度
4.0
同行者
一人旅
交通手段
高速・路線バス JRローカル 私鉄 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
  • インディ500で2度目の優勝を果たした佐藤琢磨<br /><br />2020.8.23(米国 EDT  東部夏時間)<br />佐藤琢磨(レイホール・レターマン・ラニガン・レーシング/ホンダ)が2017年以来3年ぶりとなる2度目の優勝を達成した。<br />https://news.yahoo.co.jp/byline/tsujinohiroshi/20200824-00194817/<br />ホンダ出身者としてはこの上ない喜びで、この場を使って祝意を表します。<br /><br />横長の画像をクリックすると約2倍に拡大します。

    インディ500で2度目の優勝を果たした佐藤琢磨

    2020.8.23(米国 EDT 東部夏時間)
    佐藤琢磨(レイホール・レターマン・ラニガン・レーシング/ホンダ)が2017年以来3年ぶりとなる2度目の優勝を達成した。
    https://news.yahoo.co.jp/byline/tsujinohiroshi/20200824-00194817/
    ホンダ出身者としてはこの上ない喜びで、この場を使って祝意を表します。

    横長の画像をクリックすると約2倍に拡大します。

  • 佐藤選手が優勝した「インディ500」って?<br /><br />世界3大レースの一つ。<br />1911年にインディアナポリス(アメリカ)で第1回が行われ、1923年に始まったフランスのルマン24時間耐久レースと、1929年スタートのF1モナコ・グランプリを合わせて3大レース。

    佐藤選手が優勝した「インディ500」って?

    世界3大レースの一つ。
    1911年にインディアナポリス(アメリカ)で第1回が行われ、1923年に始まったフランスのルマン24時間耐久レースと、1929年スタートのF1モナコ・グランプリを合わせて3大レース。

  • 1966年3月27日<br /><br />クラブマンレース富士大会3.27<br />ツーリングカーレース<br /><br />富士スピードウェイの開業イベントとしてF1世界チャンピオンのジム・クラークが来場し、F3マシンで展示走行を行った。

    1966年3月27日

    クラブマンレース富士大会3.27
    ツーリングカーレース

    富士スピードウェイの開業イベントとしてF1世界チャンピオンのジム・クラークが来場し、F3マシンで展示走行を行った。

  • 自動車レースを見に行ったのはこれが初めてで、撮影も標準レンズつきの一眼レフでした。<br /><br />したがって個々の車を撮影するのは困難で、望遠レンズの必要性を痛感した。<br />まだズームレンズが普及していなかったので、複数のレンズを用途に応じて付け替えて撮影するのが一般的でした。

    自動車レースを見に行ったのはこれが初めてで、撮影も標準レンズつきの一眼レフでした。

    したがって個々の車を撮影するのは困難で、望遠レンズの必要性を痛感した。
    まだズームレンズが普及していなかったので、複数のレンズを用途に応じて付け替えて撮影するのが一般的でした。

  • チェッカードフラグ(白と黒のチェックの模様の旗)を受ける優勝車(者)

    チェッカードフラグ(白と黒のチェックの模様の旗)を受ける優勝車(者)

  • 2回目のレースの準備中<br /><br />どのようなクラス分けがされていたのか、分かりません。

    2回目のレースの準備中

    どのようなクラス分けがされていたのか、分かりません。

  • スタート直後

    スタート直後

  • 3回目のレースの準備中

    3回目のレースの準備中

  • 「第4回クラブマンレース富士大会」にはF1世界チャンピオンのジム・クラークが来場し、F3マシンで展示走行を行った。

    「第4回クラブマンレース富士大会」にはF1世界チャンピオンのジム・クラークが来場し、F3マシンで展示走行を行った。

  • ジム・クラークを囲む取材陣

    ジム・クラークを囲む取材陣

  • ジム・クラークが乗ったフォーミュラカー

    ジム・クラークが乗ったフォーミュラカー

  • ジム・クラークが乗ったフォーミュラカー<br /><br />200ミリの望遠レンズがあればよかったですが、購入できたのは半年後でした。

    ジム・クラークが乗ったフォーミュラカー

    200ミリの望遠レンズがあればよかったですが、購入できたのは半年後でした。

  • 「日本インディ200マイルレース」<br /><br />(1966年10月9日)富士スピードウェイ(左回り4.3kmコース)<br />http://www.ne.jp/asahi/60srace/models/Indy500.html<br />

    「日本インディ200マイルレース」

    (1966年10月9日)富士スピードウェイ(左回り4.3kmコース)
    http://www.ne.jp/asahi/60srace/models/Indy500.html

  • 左回りのヘアピンカーブ<br /><br />左回りとはコース全体においての左回りで、個別のコーナーによっては右回りになる。

    左回りのヘアピンカーブ

    左回りとはコース全体においての左回りで、個別のコーナーによっては右回りになる。

  • No.96   Greg Weld    Eisert / Ford<br /><br />シャッターのタイミングが遅れ、前部が欠けてしまいました。

    No.96 Greg Weld Eisert / Ford

    シャッターのタイミングが遅れ、前部が欠けてしまいました。

  • No.42    John Hollansworth	  Epperly / Offy<br /><br />後部しか写っていませんが、現像しないと気付きません。

    No.42 John Hollansworth Epperly / Offy

    後部しか写っていませんが、現像しないと気付きません。

  • No.43 ジャッキー・スチュアート Jackie Stewart  Lola / Ford<br /><br />No.24 グラハム・ヒル    Graham Hill  Lola / Ford

    No.43 ジャッキー・スチュアート Jackie Stewart Lola / Ford

    No.24 グラハム・ヒル Graham Hill Lola / Ford

  • No.22   Bud Tingelstad   Gerhardt / Offy<br /><br />No.43 ジャッキー・スチュアート Jackie Stewart  Lola / Ford<br /><br />No.24 グラハム・ヒル    Graham Hill  Lola / Ford

    No.22 Bud Tingelstad Gerhardt / Offy

    No.43 ジャッキー・スチュアート Jackie Stewart Lola / Ford

    No.24 グラハム・ヒル Graham Hill Lola / Ford

  • No.37    Arnie Knepper  Cecil / Ford

    No.37 Arnie Knepper Cecil / Ford

  • No.27    Billy Foster  Vollstedt / Ford

    No.27 Billy Foster Vollstedt / Ford

  • No.43 ジャッキー・スチュアート Jackie Stewart  Lola / Ford<br /><br />No.24 グラハム・ヒル    Graham Hill  Lola / Ford

    No.43 ジャッキー・スチュアート Jackie Stewart Lola / Ford

    No.24 グラハム・ヒル Graham Hill Lola / Ford

  • No.43  Jackie Stewart  Lola / Ford

    No.43 Jackie Stewart Lola / Ford

  • No.43  Jackie Stewart    Lola / Ford

    No.43 Jackie Stewart Lola / Ford

  • No.29    Lloyd Ruby    Lotus / Ford<br /><br />No.66     Chris Amon    Vollstedt / Ford

    No.29 Lloyd Ruby Lotus / Ford

    No.66 Chris Amon Vollstedt / Ford

  • No.42  John Hollansworth  Epperly / Offy<br /><br />No.29    Lloyd Ruby   Lotus / Ford

    No.42 John Hollansworth Epperly / Offy

    No.29 Lloyd Ruby Lotus / Ford

  • No.53    Gary Congdon  Huffaker / Offy

    No.53 Gary Congdon Huffaker / Offy

  • No.43 J.スチュワート  ローラ・フォード <br />             Jackie Stewart  Lola / Ford

    No.43 J.スチュワート ローラ・フォード
    Jackie Stewart Lola / Ford

  • No.24 グラハム・ヒル ローラT90<br /> Graham Hill  Lola / Ford

    No.24 グラハム・ヒル ローラT90
    Graham Hill Lola / Ford

  • No.5  Bobby Unser   Eagle / Ford

    No.5 Bobby Unser Eagle / Ford

  • 昔はドライバーへの情報伝達はこのようなボードに書いて見せました。<br /><br />現在は通信による交信で常時行えます。

    昔はドライバーへの情報伝達はこのようなボードに書いて見せました。

    現在は通信による交信で常時行えます。

  • No.5  Bobby Unser   Eagle / Ford

    No.5 Bobby Unser Eagle / Ford

  • No.43 ジャッキー・スチュアート

    No.43 ジャッキー・スチュアート

  • No.43 ジャッキー・スチュアート

    No.43 ジャッキー・スチュアート

  • 何も写っていないのは車が速すぎて間に合わなかったのです。

    何も写っていないのは車が速すぎて間に合わなかったのです。

  • No.24 グラハム・ヒル

    No.24 グラハム・ヒル

  • No.43 ジャッキー・スチュアート

    No.43 ジャッキー・スチュアート

  • No.43 車から降りるジャッキー・スチュアート

    No.43 車から降りるジャッキー・スチュアート

  • 撮影に使用した一眼レフカメラ CANON FT FL50mm F1.4<br /><br />ボディ本体重量750g<br />価格(レンズ付)(1966年発売時)54,800円

    撮影に使用した一眼レフカメラ CANON FT FL50mm F1.4

    ボディ本体重量750g
    価格(レンズ付)(1966年発売時)54,800円

  • レースの撮影に使用した望遠レンズ<br /><br />CANON FL 200mm F3.5<br />口径が大きく明るいレンズでしたが、重量が680gあり、かなり重かったです。<br />価格 1966年5月発売時 29,500円

    レースの撮影に使用した望遠レンズ

    CANON FL 200mm F3.5
    口径が大きく明るいレンズでしたが、重量が680gあり、かなり重かったです。
    価格 1966年5月発売時 29,500円

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