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2020年7月16日(木)、1ヶ月半ぶりに自転車で2時間ほど走る。走ったのは、私の住んでいる京田辺市の南に続く精華町の旧狛田(こまだ)村地域の東部、木津川に近いエリア。木津川サイクリングロード(CR)を京田辺から木津まで走った時に、CRの横にもいくつかスポットがあるじゃないと気付いたので、まずはこの地域から攻めることにした。<br /><br />狛田村は明治22年(1889年)に菱田村と下狛(しもこま)村が合併して誕生した村で、昭和6年(1931年)に稲田村、祝園(ほうその)村と合併して川西村となり消滅したが、今も近鉄京都線に狛田駅に名が残る。なお、川西村も昭和26年(1951年)に山田荘村と合併して精華村となり消滅した。現在の精華町の北部を占め、東の木津川と西の生駒山地に挟まれ、煤谷川(すすたにがわ)の北側が菱田で南側が下狛。<br /><br />菱田は室町時代の記録に残る地名だが、名前の由来は不明。下狛はもっと古く平安時代の記録にあるが、こちらは朝鮮半島の北部、現在の北朝鮮から中国吉林省にかけてあった高句麗(こうくり)から移住した渡来人の狛(こま)氏に由来している。東京の狛江(こまえ)市や、埼玉の高麗川(こまがわ)、神奈川大磯の高麗(こま)などの由来も同じ。木津川を遡った祝園菅井の対岸の木津川市山城町には上狛(かみこま)と云う地名も残る。上狛駅、下狛駅は共にJRの駅だが、奈良線と片町線に分かれており、また隣り合った駅でもないのでややこしい。<br /><br />まずは菱田地区から回る。CRを京田辺市から精華町に入ったところ、堤防の下にこんもりした森が見えるが、それが春日神社の鎮守の森。実はこの辺りには煤谷川を挟んで3つも春日神社がある。いずれも奈良の春日大社に由来する神社。この縄添地区にある春日神社は奈良春日大社から分祀されたことを示す巻物があったと伝えられるが洪水で流失したそうで、鎮座の年代は不明。<br /><br />内陣床下から発見された棟札の中に天和3年(1683年)と書かれたものがあったそうなので330年以上昔であることは間違いないが、木津川に近く、往古よりたびたび水害を被っているので、巻物だけでなく、それ以上の歴史を示すものは残ってない。本殿前の杉は幹廻りが3mあり、樹齢400年と推定されている。<br /><br />御祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)、武甕槌命(たけみかづちのみこと)と経津主命(ふつぬしのみこと)で、本殿の横には八幡宮、稲荷社、天満宮の末社がある。明治44年(1911年)に本殿を始め各社殿を造替した際に、神占いにより、南面であった本殿を東面に変更した。この本殿には知恩院の霊厳上人により賜った鏡があったと伝えられている。<br /><br />小さな神社だが、趣はある。ただ、5分余りしかいなかったが、思い切り蚊に刺されて参った・・・<br />https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.4326221687447822&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />次は、縄添の春日神社から1㎞足らず南西、煤谷川北岸の宮川原地区に2つ目の春日神社。平安時代前期の807年(大同2年)、現在は奈良市の北にある蛭子神社の介添により、南都春日大社の四所大神を勧請して氏神としたと伝わる。具体的にその介添が何を意味するかは分かっていないが、この神社とこの蛭子神社には深い関係があったようだ。以後、鎌倉時代から室町時代に掛けては非常に栄えたらしい。<br /><br />御祭神は縄添の春日神社と同じ天児屋根命、武甕槌命と経津主命に加えて比賣神(ひめのかみ)の4柱で、多賀神社、西宮神社、祈雨神社、龍田神社の4つの末社がある。<br /><br />本殿は室町時代初めの建立で、春日大社の旧殿(若宮本殿とも云われる)を拝領して移築したものと伝えられる。ただし、春日大社の本殿の春日造りとは異なる入母屋造り。室町初期の入母屋造り社殿は京都府下には類例がなく、甚だ貴重な存在として国の重文に指定されている。斗きょうの間にある蟇股は、この時代の基準的な作例。<br /><br />社前の横に立てられている石灯籠は春日大社の御間形(おあいがた)灯籠と同形で、しかも南北朝時代の古式を存し旧重要美術品に指定されている。拝殿内の絵馬には元和6年(1620年)の銘が残されているものもある。また所有の鉄釜には慶長9年(1604年)の銘があり、それぞれ文化的価値は高い。鳥居前にある神武天皇の碑は終戦前の1945年4月に建てられたもの。<br /><br />この日訪ねた3つの春日神社の中では、一番立派な神社で、境内は広い。<br />https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.4326231817446809&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br />3つ目の春日神社は、煤谷川を渡った下狛地区の本庄にある。江戸中期の享保年間に奈良の春日大社より龍の足を持ち帰り祀ったと伝えられる。本殿の西側御造営が元禄15年(1702年)、東側御造営が正徳3年(1713年)の棟札があり、若干年代のずれはあるが、今からおよそ300年程前に造営されたものと思われる。また、安永2年(1773年)の絵馬もある。<br /><br />御祭神は縄添の春日神社と同じ天児屋根命、武甕槌命と経津主命。表側が唐獅子で、裏側に仏像が描かれた神鏡を持つ。現代の本殿、拝殿、屋根は、1979年に修復された。<br /><br />3つの春日神社の中では、一番小さく、住宅地の中に公園のようなオープンな空間が開けている。<br />https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.4326240570779267&amp;type=1&amp;l=223fe1adec<br /><br /><br />郡山街道の話に続く

精華 狛田 3つの春日神社(3 Kasuga Shirines, Komada, Seika, Kyoto, JP)

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2020/07/16 - 2020/07/16

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ちふゆ

ちふゆさん

2020年7月16日(木)、1ヶ月半ぶりに自転車で2時間ほど走る。走ったのは、私の住んでいる京田辺市の南に続く精華町の旧狛田(こまだ)村地域の東部、木津川に近いエリア。木津川サイクリングロード(CR)を京田辺から木津まで走った時に、CRの横にもいくつかスポットがあるじゃないと気付いたので、まずはこの地域から攻めることにした。

狛田村は明治22年(1889年)に菱田村と下狛(しもこま)村が合併して誕生した村で、昭和6年(1931年)に稲田村、祝園(ほうその)村と合併して川西村となり消滅したが、今も近鉄京都線に狛田駅に名が残る。なお、川西村も昭和26年(1951年)に山田荘村と合併して精華村となり消滅した。現在の精華町の北部を占め、東の木津川と西の生駒山地に挟まれ、煤谷川(すすたにがわ)の北側が菱田で南側が下狛。

菱田は室町時代の記録に残る地名だが、名前の由来は不明。下狛はもっと古く平安時代の記録にあるが、こちらは朝鮮半島の北部、現在の北朝鮮から中国吉林省にかけてあった高句麗(こうくり)から移住した渡来人の狛(こま)氏に由来している。東京の狛江(こまえ)市や、埼玉の高麗川(こまがわ)、神奈川大磯の高麗(こま)などの由来も同じ。木津川を遡った祝園菅井の対岸の木津川市山城町には上狛(かみこま)と云う地名も残る。上狛駅、下狛駅は共にJRの駅だが、奈良線と片町線に分かれており、また隣り合った駅でもないのでややこしい。

まずは菱田地区から回る。CRを京田辺市から精華町に入ったところ、堤防の下にこんもりした森が見えるが、それが春日神社の鎮守の森。実はこの辺りには煤谷川を挟んで3つも春日神社がある。いずれも奈良の春日大社に由来する神社。この縄添地区にある春日神社は奈良春日大社から分祀されたことを示す巻物があったと伝えられるが洪水で流失したそうで、鎮座の年代は不明。

内陣床下から発見された棟札の中に天和3年(1683年)と書かれたものがあったそうなので330年以上昔であることは間違いないが、木津川に近く、往古よりたびたび水害を被っているので、巻物だけでなく、それ以上の歴史を示すものは残ってない。本殿前の杉は幹廻りが3mあり、樹齢400年と推定されている。

御祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)、武甕槌命(たけみかづちのみこと)と経津主命(ふつぬしのみこと)で、本殿の横には八幡宮、稲荷社、天満宮の末社がある。明治44年(1911年)に本殿を始め各社殿を造替した際に、神占いにより、南面であった本殿を東面に変更した。この本殿には知恩院の霊厳上人により賜った鏡があったと伝えられている。

小さな神社だが、趣はある。ただ、5分余りしかいなかったが、思い切り蚊に刺されて参った・・・
https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.4326221687447822&type=1&l=223fe1adec

次は、縄添の春日神社から1㎞足らず南西、煤谷川北岸の宮川原地区に2つ目の春日神社。平安時代前期の807年(大同2年)、現在は奈良市の北にある蛭子神社の介添により、南都春日大社の四所大神を勧請して氏神としたと伝わる。具体的にその介添が何を意味するかは分かっていないが、この神社とこの蛭子神社には深い関係があったようだ。以後、鎌倉時代から室町時代に掛けては非常に栄えたらしい。

御祭神は縄添の春日神社と同じ天児屋根命、武甕槌命と経津主命に加えて比賣神(ひめのかみ)の4柱で、多賀神社、西宮神社、祈雨神社、龍田神社の4つの末社がある。

本殿は室町時代初めの建立で、春日大社の旧殿(若宮本殿とも云われる)を拝領して移築したものと伝えられる。ただし、春日大社の本殿の春日造りとは異なる入母屋造り。室町初期の入母屋造り社殿は京都府下には類例がなく、甚だ貴重な存在として国の重文に指定されている。斗きょうの間にある蟇股は、この時代の基準的な作例。

社前の横に立てられている石灯籠は春日大社の御間形(おあいがた)灯籠と同形で、しかも南北朝時代の古式を存し旧重要美術品に指定されている。拝殿内の絵馬には元和6年(1620年)の銘が残されているものもある。また所有の鉄釜には慶長9年(1604年)の銘があり、それぞれ文化的価値は高い。鳥居前にある神武天皇の碑は終戦前の1945年4月に建てられたもの。

この日訪ねた3つの春日神社の中では、一番立派な神社で、境内は広い。
https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.4326231817446809&type=1&l=223fe1adec

3つ目の春日神社は、煤谷川を渡った下狛地区の本庄にある。江戸中期の享保年間に奈良の春日大社より龍の足を持ち帰り祀ったと伝えられる。本殿の西側御造営が元禄15年(1702年)、東側御造営が正徳3年(1713年)の棟札があり、若干年代のずれはあるが、今からおよそ300年程前に造営されたものと思われる。また、安永2年(1773年)の絵馬もある。

御祭神は縄添の春日神社と同じ天児屋根命、武甕槌命と経津主命。表側が唐獅子で、裏側に仏像が描かれた神鏡を持つ。現代の本殿、拝殿、屋根は、1979年に修復された。

3つの春日神社の中では、一番小さく、住宅地の中に公園のようなオープンな空間が開けている。
https://www.facebook.com/chifuyu.kuribayashi/media_set?set=a.4326240570779267&type=1&l=223fe1adec


郡山街道の話に続く

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