2020/06/18 - 2020/06/25
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mistralさん
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今回、城壁をそなえた街、という切り口で、過去の旅を振り返ってみたわけですが、
だんだん旅行記を作成しながら城壁という言葉に混乱していきました。
城壁、、、お城を取り囲む壁なわけで、ではお城がなかったらなんて言うのか?
などなど、わからなくなってしまったのです。
そこで数々のお城を巡られ、旅行記にされている方 (知っておられる方も多いと
思いますが、ここでは匿名で) に伺ってみました。
「城塞都市なんて言い方する場所もあり、その場合は街=城になるので、
街の周りの壁はイコール城の壁という認識でいいのでは。
日本は城の周り(下)に街を作るケースが多く、街の周りではなく城の周りに
壁をめぐらせてそれが城壁となるわけですが、
昨年の秋に訪れたドイツのトリーアも街の入口の門 ポルタ・ニグラに
横に建つ壁を城壁と呼んでいるみたいですし、
日本とヨーロッパの城の造り方の違いと捉えておけばよいのでは。」
「とあるサイトには、陸続きで他国から攻められるヨーロッパと、あくまで
国内の戦いを行っている日本の違いから来ていると書いてあるところも
ありましたよ。
日本も江戸城などは街の周囲を城壁が囲んでいたみたいです。虎ノ門の駅に
城壁跡があるのを見て、こんなところまで城壁がと驚いた記憶があります。」
との明解なお応えを頂きました。
日本では城の中に一般市民は住まないけれど、西欧、アジアでも、では住民
も取り込んで街を造り、いざとなったら城門を閉め切りそこに全員でたて籠る、
という城主と一体化したシステム。
それが良いことか、そうでないか?
いざとなったら城主と運命を共にするわけだし、、、
そういえば、城門を閉める前夜に、街から逃げ出す人もいたようなので
一緒に滅びていかなくても、選択の自由は残されていたのかも、
或いは城主がいないとしても、権力者がその街の防御の必要性から
城壁を築かせたり、などの事情もあったようだし、
と色々なことを想いながらの第二篇の旅行記作成となりました。
今回は実際に城壁を見た、歩いた、との
具体的な旅に絞っての旅行記となりました。
(表紙写真は各市の紋章
上左より カルカソンヌ、アヴィニョン、ヴァレッタ
下 カルカソンヌのリス、プラハ)
-
2012年9~10月
チェコ、プラハに念願かなって6日間滞在した。
写真はカレル橋にて撮影。
背後に聳えているのがプラハ旧城で
今回調べてみてわかったのは、いわゆるプラハ城という名称は
いくつかの建物が集まった複合体であり、城壁に囲まれた
エリアすべてをプラハ城と呼ぶそう。 -
デジカメで撮影した写真ファイルはパソコンに取り込み、
その後時間の経過とともに
初期はCDへ、その後はUSBに保存するようになった。
今回、古い写真を探すため、その一つ
丁度この旅の前後3年分の写真が保存されているはずのUSB
から写真を取り出そうとしたが、内部が壊れてしまったのか、
画像を読み取ることができなかった。
その為このあたりは過去の旅行記からコピーしています。
写真はプラハ城南西にあるフラッチャニ広場に面する
正門。 -
聖ヴィート大聖堂内部にある
ミュシャが手掛けた有名なステンドグラス。
「聖キリルと聖メトディウス」
4万枚のガラス片を使用、下方の四角の枠内には
Banka Slavie とスポンサーの銀行名が書かれて
いるそう。 -
聖イジー教会 (聖ゲオルギウス教会)内部
920年に完成したプラハ城内最古の教会で
火事の後1142年に再建されたもの。
ファサードは17世紀のバロック様式で赤の鮮やかなもの
だが、内部にはロマネスク様式が残っている。 -
城内にある沢山の建造物を見学後
最後は黄金の小路を通り抜け
城門(東口?)から城外へとぬけ -
かつては登城の為の道だったらしい道をカレル橋に向かって
降りていった。 -
灯りのともり始めたカレル橋周辺にて
https://4travel.jp/travelogue/10718769
上記URLはプラハ城訪問の折の旅行記です。 -
このような城内マップを
ネット上で見つけたので載せておきます。 -
2013年4~5月にかけて
フランス、アビニョンへ。
城門からでなくても、こんなくぐり戸のような
出入口があった。
(ここを通ったのは、前回の旅の折)
調べてみたら、城壁には13か所に門があり、
その中には人しか通行できない門も含まれるとの
記述を見つけた。 -
城壁沿いの道の
すぐそばをローヌ川が流れている。
この写真は同じ年、2013年1月にもアビニョンを
訪問していた折のもの。
更に1973年にも南仏を旅し、アヴィニョンを訪問している。
遥か遠い昔のこと、、、 -
14~15世紀の約100年間この街にローマ法王庁が置かれた。
修道士出身というベネディクト12世により築かれた旧宮殿
は地味な雰囲気、貴族出身というクレメンス6世により
築かれた新宮殿は贅を尽くされたものだったそう。
(フランス革命時、それらは破壊されてしまったようです)
約15,000平方メートルの敷地には巨大な宮殿が今も残る。
その中の約20か所が公開されているそうだ。
現在ではタブレットが貸し出されていて、GPS対応のため
現在地にそっての案内ができるようだ。
街には12世紀に築造されたという古い城壁跡も残り、
その後法王庁が置かれ、人口も増えたため
更に外側に城壁が巡らされたようだ。(全周4.3キロに及ぶ) -
教皇庁の窓ごしに街を眺めた
当時の教皇の持っていた力を想い
イギリス、フランス、イタリア諸国の国王を
破門するほどの勢力、更には財力をも誇っていたことを
考えると
これほどの宮殿の周囲を城壁で囲む必要があったのか?
と想像。 -
この折の滞在したホテルは
教皇庁の出口のすぐ前にある La Mirande。
かつての枢機卿の館が、ホテルとして改装されて
営業されていて
内装はとても趣のあるものだった。
当日はレストランがお休みということで
代わりにターブル・ドットという催しがあった。
キッチンでシェフがお料理を作り
その前のテーブルを囲んで、出来立てのお料理を
4か国からなる参加者8名で頂いた。
シェフのJean-Claude Altmayer氏
かなりのエンタテイナーで参加者を楽しませてくれた。
https://4travel.jp/travelogue/10779136
その折の旅行記です。 -
城壁内にあるプティ・パレ。
現在では美術館として公開されている。
かつては教皇個人の邸宅だったそう。
あのチェーザレ・ボルジアも(というのは塩野七生ファンへ向けて?)
滞在したとの話は、前の旅で聞いた情報。
本の中で、ルイ12世への対面の折、アビニョンに滞在した
との記述があるので、その時だったのか?
14世紀に教皇庁がアヴィニョンに置かれた際、内部の装飾の
為、イタリアから多くの芸術家が招かれ、その影響から
多くの画家も生まれたとのこと。
ボッティチェリ作の「聖母子」、クリヴェッリ作の「四聖人」
他多数収蔵されているが、あいにくの閉館で入場はかなわず。
4度目のリベンジが必要なのかも。 -
レピュブリック門を出てすぐにある
アヴィニョン・サントル駅へ向かう。
城門内部はすべて徒歩圏にあり
ホテルからスーツケースを転がして駅まで
やってきた。 -
2013年4月~5月
そのまま、アヴィニョンからカルカソンヌまで電車に
乗ってやってきた。
写真は、ホテルに落ち着き窓を開けたら
見えてきた城壁などの連なり。 -
カルカッソンヌでの滞在は
Maison d'Hotesとある小ぶりな民宿的なホテルへ。
そこから徒歩でシテまでやって来た。
シテ「Cite」とは城塞都市のこと。
ナルボンヌ門が見えてきた。
街の名前の由来は、カール大帝が7年間に及ぶ街の攻略を諦め
退散する折、当時街を治めていた女傑カルカス (Carcas、城門右手の像)
が勝利を喜び鐘を鳴らした (sonner) ことによる。 -
ローマ時代の要塞跡に、3~4世紀に内部の城壁が
造られていった。
1082~1209年
トランカヴェル家統治時代に繁栄の頂点を迎えた。
(写真は翌日丁度待っていた petit train に乗って
まず城壁を一周した。3kmの道のりを約30分かけて
廻った。) -
2重になった城壁の間の Lices(リス)
なだれ込んできた敵をいったんとどめ
そこで狙い撃ちをする戦略的な目的もあったようだ。 -
このあたり一帯はカタリ派の里 「Pay Cathare」と呼ばれる。
カタリ派とは11~13世紀にかけて南フランスのラングドック地方で
信者を集め、その人気ゆえに脅威をかんじたカトリック教会から
は異端派として弾圧をうけた一派。
わかりやすい教義から民衆の心を掴んでいった。
「1209年、教皇インノケンティウス3世によりアルビジョワ十字軍が
結成され、15日間の攻防戦でカルカソンヌは陥落。
カタリ派を擁護して戦ったトランカヴェル家は十字軍に敗北し
城を追われた。
一時的にシテと子爵領は十字軍総指揮官シモン・ド・モンフォール
に明け渡され、後1224年フランス国王領となった。」 -
カタリ派の信者は、約50年間で100万人もの人々が犠牲と
なっていったそうだ。
「国王領となったことから、ルイ9世、フィリップ3世・4世らの
治世下に二重の城壁を持つ今のシテの形となっていき
軍事要塞としての役割を果たすようになっていった。 -
軍事技術が進歩し(火薬、大砲等)1659年のピレネー条約により
スペインとの国境が南下しシテの軍事要塞としての役割が失なわれ
てくるに従って、内部の荒廃がすすんでいった。」
(以上「」 ユネスコ世界遺産、カルカソンヌより)
https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/10772214/
https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/10772315/
(上記はその折りの旅行記です) -
2014年1月
かねてから行きたかったマルタへ。
バレッタのバスターミナルそばのホテルに5泊した。
塩野七生氏の海の三部作を読み
2作目の「ロードス島攻防紀」次の「レパントの海戦」で
オスマントルコのスレイマン大帝に敗れた聖ヨハネ騎士団が
1522年、聖遺物を持ってロードス島を後にし、
次なる本拠地を求めてあちこちを彷徨った結果
スペイン王、カルロス一世から、鷹一羽の年貢でマルタを与えられ、
その島を城塞都市として造り上げていった。
その後、1571年、レパントの海戦でオスマントルコはキリスト教国
連合軍に敗れていった。
その騎士団の因縁の舞台となったのがマルタだったのです。 -
アッパーバラッカガーデンよりの眺め。
17世紀半ば、騎士団員だったバルビアニ(イタリア人)によって
イタリアの騎士団の為に築かれた庭園。
下方には礼砲隊の大砲が見える。こちらも500年の歴史があるそう。
毎日正午とあと16時(?)に空砲がハーバーに向かって発射
されるそうだが、滞在時には見学できなかった。 -
同様にアッパー・バラッカ・ガーデンのテラスから
良港と言われるグランドハーバーを挟み対岸の眺め。
(このガーデンからエレベーターでハーバーまで無料で
降りることができるようです。(上りは有料)
そうしたら対岸に聳える城塞の姿を間近で見ることが
出来たかもしれません。) -
対岸にはThree Cities(ヴィットリオーザ、セングレア、
コスピークワ)が見られる。
その中で、ハーバー内へと突き出た半島周囲を城壁に囲まれた城塞都市の
「ヴィットリオーザ」と「セングレア」、
特に、ヴィットリオーザの先端に築かれた「聖アンジェロ砦」の姿は
ずっと見ていても飽きることがない。
夕陽に染まり始めた姿は特に。 -
夕方になって灯りがともり始めた
下方のハーバーの様子。
https://4travel.jp/travelogue/10851382
(その折りの騎士団関連の旅行記です。) -
聖エルモ砦の城壁は
ヴァレッタの街の突端にある。
冬にはバロックフェスティバルが開催され
寒さを逃れてヨーロッパ各地からファンが集まるとのこと。
その折、ヘンデルの「メサイア」全曲を初めて
古い教会で聞いた。 -
ヴァレッタの街の道路は
碁盤の目のように整備されている。
中央をまっすぐ伸びるリパブリック通りが
丁度尾根のようになっていて
交差する道路は海にむかって下っていく。
アップダウンがもっと急な所も多々あり
街歩きで結構息切れがしていた。 -
google earth で上空からヴァレッタの街を
見てみると面白い。
下の丸い部分がバスターミナル近くにあるトリトンの噴水広場。
この近くのホテルに滞在した。
噴水の上部に見えるシティ・ゲートから
街のメインストリートのリパブリック通りがまっすぐ伸びる。
ゲートの手前に、いく手を阻むように築かれている巨大な堡塁。
(巨大な壁状の建造物で、16世紀に奴隷を使って、最大60m
の深さまで岩盤を掘りこんで造られた。)
地上からも敵の侵入を防いだ様が良くわかる。
現在では底の部分は駐車場になっているそう。 -
マルタが城塞都市であることが
海から近づいていくと良くわかるそうだが
ヴァレッタの街を歩いているだけでは解りにくい。
そんな景観は?と探し
Wikiのマルタの記述のなかで
「港から見たヴァレッタ城塞都市」という写真が
まさにそれだった。
欧州の上流階級の間で、ヴァレッタの街を称して
Superbissima (最も高貴な)とか
1830年に訪問したイギリス首相ディズレーリによって
「紳士が紳士のために建てた宮殿都市」と称されたとか、
wikiの記述を読むと、なるほどなあと改めて思ったことです。
次の訪問の機会があるとするならば、こんな景観に出会うため
海からヴァレッタへ入っていってみたい。 -
2015年、5月
やっとイスタンブールの地に降り立つことができた。
友人とホテルで待ち合わせていた。
ホテルからも徒歩圏にあった
小山のように聳えるアヤソフィア。
歴史上でも数々の舞台となった地。
今回の最大の目的は、
コンスタンティノープルの陥落の舞台となった
城壁を間近に見るためだった。 -
トラムのパザルテッケで下車、
トプカプの城壁を見学した。
この一帯は一部の城壁は綺麗に修復されている。
カフェも幾つかあった。
城壁を眺めながらチャイで一休み。 -
城壁からタクシーをつかまえ
カーリエ博物館へやってきた。
ビザンティン時代にはコーラ修道院と呼ばれていた。
5世紀、東ローマ帝国時代に礼拝堂が建設され
1316年から5年かけて大々的な修復工事が行われた。
内部に残るモザイクやフレスコ画はその折のもの。
写真はドーム中央部の聖母子像。 -
1511年、モスクとして改修される。
アヤソフィア同様漆喰で覆われたが
その結果、より良い環境で保存されることとなった。
内部には50点以上ものすばらしいモザイク画が
今に遺っている。
残っていた写真の中に、こんな柱頭彫刻を見つけた。 -
カーリエ博物館から城壁を目指して坂を上がり
立ちはだかる城壁にぶつかったら左折すると
その目指す門があるはずと歩き始め
その辺にいる人に、「モハメッド2世が入場した門」は
どこかと聞き、やって来た。
間には交通の激しい信号もない大通りがあり、
そこを強行突破してのことだった。 -
エディルネカプと呼ばれる
一番高い地にたっている門についての説明板が。
エディルネ門、ビザンティン時代はカリシウス門
或いはアドリアーノポリ門とも呼ばれた。
その門からコンスタンティノープルを奪還した
モハメッド2世が入場したとある。 -
東ローマ帝国最期の皇帝、コンスタンティヌス11世と
マホメッド2世によるこの城壁を巡る攻防戦。
マルマラ海から金角湾まで全長6.5キロに及ぶ城壁は
5世紀前半、テオドシウス2世の時代に築かれた。
当初は一重だったが、後の補修により一千年余にわたって
コンスタンティノープルを守り続けることとなった。 -
当時、地中海世界で最も堅固だとの評判だったこの城壁を
大砲で破壊できるという、ハンガリー人ウルバンの話しに
興味を抱いたスルタンにより、
この街の奪還計画が具体化されていった。 -
軍事博物館を見学し
コンスタンティノープルの攻防戦関連の
展示を見ていった。
1453年、陥落前夜の5月28日
冒頭のアヤソフィア教会に人々は集まり
奇跡を求めて一晩中祈り続けたそうだ。
ウルバン製作の大砲は、陥落の日まで
7週間にわたって轟音をとどろかせていたという。
翌5月29日、トルコ軍の総攻撃が開始。
まもなく塔の上に翻っていた
帝国旗とベネティア旗が落ち
代わりに赤字に白の半月の旗が翻った。 -
入場するモハメット二世は
愛用していた黒馬から
ビザンティン皇帝にならって白馬にまたがり
入場したそうだ。
そんな攻防戦の様子を
塩野七生作「コンスタンティノープルの陥落」を
思い出しながら見ていった。
https://4travel.jp/travelogue/11021001
上記はその攻防をめぐる旅行記です。 -
別の一日には、
エジプシャン・バザールの中から
苦労して探してやっと辿り着いた、
リュステムパシャ・ジャーミーへ。
ミマール・シナンの最高傑作の一つとされるジャーミー。
イズニックの最盛期(1555~1620)のタイルが
ふんだんに使われているそう。
タイルに 描かれているチューリップの赤色は
いまだにその再現が難しいそうだ。
この翌日、アジアサイドにあるザビハ空港から
パリへ向かった。
(城壁だけでなく寄り道ばかりしてしまいました。
とりあえず続く、とします。)
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この旅行記へのコメント (8)
-
- jijidarumaさん 2022/06/30 01:39:29
- 城壁やら市壁(市城壁)やら!
- mistralさん、
今晩は。
日本語は城壁と皆書きますから、掲題は拘ってみると、様々です。
私は市壁(市外壁)という言葉も旅行記では使用しています。
此処では長年ドイツの古城・宮殿を巡ったので、ドイツの事に限定して、以下の事を述べています。
Berliner Mauer(ベルリーナ―マウアー)ベルリンの壁は特殊で、東西のベルリンを政治的に分断し、東から西側に市民が逃亡するのを防いだ壁です。
普通はその壁は外から内に入りこむのを防ぐものですが、これは逆でしたね。
ドイツ各地を巡ると、Wehrmauer(ヴェールマウアー)防御壁、 Stadtmauer(シュッタトマウアー)市壁(市外壁)、 Festungsmauer(フェスツングスマウアー)要塞の壁、Burgmauer(ブルクマウアー)城壁、Ringmauer(リンクマウアー)周壁といった言葉を目にします。
Wehrmauer防御壁が総称的な言葉だろうと認識していますが。
山城的なBurg(ブルク)=城や、平城的なSchloss(シュロス)=城 若しくは宮殿として、度々併用されているのを見る事があります。
これらの城郭を防御している壁をBurgmauer(ブルクマウアー)城壁と呼んでいるようです。
また、ドイツの各地に(皇帝・王や大司教から)帝国自由都市(都市権)として認められた都市(例えば、ローテンブルク)が、自らを他都市から(もしくは第三者的な力から)防御するべく、壁を築いたのがStadtmauer市壁(市外壁)と呼んでいるようですね。ドイツの旅は都市を巡る事が多く、それでStadtmauer市壁という言葉を目にすることが多いのです。
要塞都市、城塞都市といった言葉が使用されている町では、ウンターフランケン地方のDettelbachデッテルバッハ、ロマンチック街道のNoerdlingenネルトリンゲン、Rothenburg ob der Tauber ローテンブルク・オプ・デア・タウバー、Dinkelsbuehlディンケルスビュールなどを挙げることができます。いずれも町の周囲を市壁で囲んでいます。
「Rothenburg im Norden北のローテンブルク」と云われたNeubrandenburgノイブランデンブルクの町は「Stadt der Vier Tore4つの門のある町」との異名があり、中世のゴシック風の門とほぼ完璧に残る14世紀の市壁(2300mの距離で高さ7m)が円形の町を囲んでいる。市壁上は歩く事も出来る。これなどはRingmauer(リンクマウアー)周壁と言えますね。
以上、こんな感想を書いてみました。
それではまた。
jijidaruma
- mistralさん からの返信 2022/06/30 14:05:44
- Re: 城壁やら市壁(市城壁)やら!
- jijidarumaさん
こんにちは。
古い旅行記をご覧いただき、詳しいコメントまでありがとうございます。
コロナ禍で海外へ出かけられなくなって、古い旅行記を見てみたら
壁が巡らされた街に滞在する事が多かったなあ、と思い
ひとり、城壁って?お城をとりかこんでなくても城壁?!
などブツブツつぶやく気持もありながら作った旅行記でした。
次編用にも題材はあったのですが、
今まであまり取り上げなかった地元へ、国内へと目が向いて
いくうちに、そのままになっていました。
himmelさんからもコメントをいただいたり、
国内でお城めぐりをされている方からのコメントもいただき、
今回は、himmelさんと同じ、ドイツについての権威ある
jijidarumaさんからは大変お詳しい解説を頂戴し、感謝しています。
ドイツでは壁の成り立ち、用途、どこを巡っているか、などによって
名前が変わっているのに、どうやら日本語に置き換わると
一律に城壁となってしまう不思議さがありますね。
ひつひとつの壁にまつわる数々の歴史を想うと、
そこに組み込まれた石の一個一個が愛おしくなってきます。
そろそろ海外へと飛び立たれる4トラの方が旅行記を
載せられるようになって参りました。
それを拝見しながら、落ち着かない気分になっております。
詳しく解説をいただき、ありがとうございました。
mistral
-
- milkさん 2020/08/17 20:59:01
- 城壁のある都市巡り
- mistralさん、こんばんは☆
城壁のある都市巡り、楽しく拝見させて頂きました。
「城壁」とはなんぞや??
なかなか難しい定義ですね。
でも、日本はお城を囲むように城壁があって、外国ではお城とその周りの街を囲むように城壁があるという違いは「確かに!」と思いました。
アヴィニヨンで泊まられていた枢機卿の館だったホテルは素敵でしたね。
皆さんでテーブルを囲んで召し上がっていた夕食も美味しそうでした。
イースタンブールにはまだ行った事がないので、いつか行ってみたいです!
milk
- mistralさん からの返信 2020/08/18 14:59:50
- Re: 城壁のある都市巡り
- milkさん
酷暑の毎日ですね。
milkさんのベトナムの旅行記
美味しそうな食事、素敵なホテル
インスタ映えするスポットなどなど
私の旅を思い出しつつ、楽しませていただいてます。
コメントも残さず、拝見しっぱなしでごめんなさい。
城壁巡り、
こうして旅行記にまとめてみたら
結構城壁のことが好きだったんだなあ、と改めて思いました。
城壁にまつわる歴史を振り返ると
特にヨーロッパでは栄枯盛衰が感じられてきてワクワクします。
アヴィニョンのホテルでの滞在は思い出深いものでした。
きっとmilkさんも気に入られることと想像しています。
イスタンブール、
喧騒の街、良いこと、悪いこと、織り交ぜて起こり、
不思議に再訪してみたい街でもあります。
朝晩が涼しくなる秋が待ち遠しいですね。
mistral
-
- cookieさん 2020/06/28 13:20:55
- ありがとうございまーす
- おはようございます mistralさn
いつも いいね ありがとうございます!
まとめて 大好きな歴史にのっとって かかれた 多国籍?の旅行記
楽しく読ませていただきました。
カタリ派って いつも フランスの中部 南部にいくと でてくるので
フランス歴史 その辺り 全くわからなくて 勉強になりあんした!!
マルタもいずれは 行きたいんと思うんですけど 片割れが なかなか
聞く耳持たなくてね。。
早く コロナも消えて いろんな国に歴史をたずねてーーーの旅行が できたらいいのにね。。
それでは
cookie
- mistralさん からの返信 2020/06/28 15:37:23
- Re: ありがとうございまーす
- cookieさん
こちらこそ、いつも有難うございます。
寄せ集め、多国籍旅行記
こんな折でないとできないですね。
過去の旅を振り返り、デトックスできればと思いました。
フランス南西部を旅すると出てくる「カタリ派」
私は「聖杯の暗号」という箒木さんの本で最初に出会いました。
急速に信者さんが増え、それ故に弾圧されるように
なっていった背景を知って旅した
2度目のカルカソンヌは印象がひと味もふた味も変わりました。
マルタ島しかり。
そうは言っても、旅の楽しみは、美味しい食事と
普段の生活からは味わえない非日常の空気感、
そんな体験が、マルタでは出来ることと思います。
片割れさんが、そうだ、マルタへ!と言ってくださることを
願ってます。
mistral
-
- frau.himmelさん 2020/06/26 23:29:16
- 城壁・・・、難しいですね。
- mistralさん、こんばんは。
城壁編その2を見せていただきました。
いつもながらの理路整然としたご旅行記、とても判り易かったです。
その中でmistralさんが投げかけていらっしゃる「城壁の定義」、私も考えてしまいました。
お城がなくても城壁・・・?
いえその場合は市壁って言うのじゃないのかしらとか。
例えばローテンブルク、あれは城壁ではなくて市壁じゃないかしら、「Stadt mauer:市の壁」って言うし・・・、と思って調べました。ところがみごとに日本語では「城壁」になっているんですね。
ニュルンベルクもそう、あそこもシュタットマウアーだけど日本語では城壁でした。
私的にはカイザーブルクを囲む壁は城壁だけど、お堀にそって造られていた壁は市壁と言う風に考えていましたが、どうも城壁らしい。
今回のmistralさんの問いかけで、今まで私は城壁と市壁、ごっちゃまぜにしていたことに気が付きました。
でもベルリンの壁はどう考えても市壁、じゃなくて国境壁ですね。
と言いつつ、ベルリンにも城壁があるのを思い出しました。
USBが壊れてしまったら悲劇ですね。旅行記のお写真が使えてよかったです。
その3もあるのですね。
楽しみにしています。
(やはりフォロー制度はいいですね、新しい旅行記がすぐ発見できるから)
himmel
- mistralさん からの返信 2020/06/27 08:46:07
- Re: 城壁・・・、難しいですね。
- himmelさん
おはようございます。
私の呟きを拾ってくださり、ありがとうございます。
私も、全てを城壁と呼ぶには抵抗がありました。
himmel さんはさすがです。
早速検証してくださったんですね。
カルカソンヌなどは、領主はいなくなったけど
その後の防御の為に城壁を強化した、、、
仮にスペインが攻めてきたとしても
領主がいない街を攻め落とすのかしら?
などなど、疑問は次々に湧いてきましたが(笑)
ドイツ語では「市壁」だったのに、日本語に訳すときには
城壁になってしまう、、、
面白い現象ですね。
まだまだ悩ましいタイトルです。
また、何かヒントになるような情報がありましたら
お教え下さい。
ベルリンにも城壁があるんですね!
mistral
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