1983/12/31 - 1984/01/01
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思い出の中南米(1983~1988) 第一章 「タボガ島 ゆく年くる年 1983」編
4トラの旅行記を始めた際、機会があれば、5年3か月過ごした赴任地の中南米・パナマの思い出・出来事を、備忘録として残したいと考えていました。
40年近くの昔の記憶や出来事の時代考証は曖昧です、まずは「当時の写真」の整理から始めています、お察しの通り、新型コロナによる外出自粛・Stay homeのため、あらためて昔の写真をながめることになりました。
(旅行記で紹介している写真は、昔の写真を直接デジカメで撮影しデータ化しています、大変見づらくご容赦願います)
赴任時の家族構成は、年令30代前半の私と家内、長男(小学生)&次男(幼稚園)の4人家族です、家内と子供たちは、約1年遅れの1984年に着任しました。
日本から遠く離れた文化・環境も異なる後進国の中米パナマでの生活は、家族にとって大きな不安があったと思います。住環境は、海岸近くの新市街エリアのマンションの5F、間取りは2LDK、シャワールーム&トイレは各2室、そして、お手伝いさん用の部屋もあり、計200平米以上だったと思います、また、マンションの付帯設備として、駐車スペース2台分/各室、共有プール、また、用務員さん、ガードマンもいたのでセキュリティ(後進国での絶対条件)は万全でした。
長男は、マンション近くの日本人学校、次男は、現地の幼稚園に通い、帰国時は、中学1年&小学4年をむかえていました。パナマの生活に慣れ親しんでいた家族に、「帰任」が決まった旨を伝えた際、家内から「もう少しユックリしていても良かった」、子供たちからは「ラケール(我が家の16才のお手伝いさん)は連れて帰るの?」との言葉に、感謝しホットしたことを、いまでも覚えています。
終わり良ければすべて良しではありませんが、家族の言葉・コメントがなければ、『思い出の中南米(1983~1988)』に至らなかったと思います。
『思い出の中南米(1983~1988)』の第一章は、着任した1983年の大晦日から新年を、訳あり独身(私を含む)メンバーで過ごしたパナマ市のタボガ島での「ゆく年くる年 1983」編です。タボガ島は、パナマ運河の太平洋側の出入口にかかるアメリカ橋近くのバルボア港から南に20Km、船で約1時間の庶民的な小さな島です。
当時のパナマ在住日本人のバカンスは、「カリブ海」が主流だったと思います、当家は、家内&子供達のリクエストが最優先でしたので、①ディズニー・ワールド(オーランド)、②カンクーン、③サントドミンゴ、④サンブラス諸島等だったと思います。
表紙写真:タボガ島の風景
当時の写真を、直接デジカメで写してデータ化しました、画像は見づらいですが雰囲気はわかると思います、一番楽な方法で費用も発生せず、良しとしています。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 3.5
- ホテル
- 3.5
- グルメ
- 3.5
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- 船 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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+++ タボガ島 +++
パナマ市から南に約20Kmのパナマ湾に位置する島です、バルボア港から船で1時間弱、手軽に海水浴が楽しむことができ、現地の方たちにも人気がありました。島内は、「古き良き時代」と「質素なリゾート」がミックスしており、ユッタリとした時が流れていました。
帰任してから知りましたが、「画家ゴーギャンが、1887年に3ヶ月ほど滞在」し、島内に住居跡があるとのことです。 -
島内の一番高い場所からの「船着き場・桟橋」の様子です、写真中央の小島は、干潮時に手前のタボガ島と陸続きになります。
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タボガ島はパナマ市内から船で約1時間、手軽に海水浴が楽しめ、我が家も何回か訪れました。
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海水浴エリア
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ホテルの敷地と隣接されている海水浴エリアの砂浜
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タボガ島ホテルの敷地内の様子 写真内の右側が海水浴エリア
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島内の別荘地
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島内の別荘地
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写真奥に桟橋と船が写っています。
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ノスタルジックな建物 古き良き時代の名残が残っています。
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ノスタルジックな建物 古き良き時代の名残が残っています。
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タボガ島の一番高い場所?(もっと高い場所・丘があったと思うのですが)、ホテルからのんびり歩いてきましたが、どの位かかったか?忘れました、後方に船着き場・桟橋&小島が見えます。
写真の彼は同じ会社の他部門の後輩(独身)、私より1~2年先に着任しており、生活面など色々とサポートしてもらいました、今回のショートトリップも、まだ家族が着任していない私への気遣いだったかもしれません、 勝手に解釈(笑)。 -
島内の街並みの風景
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島内の街並みの風景
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島内の街並みの風景
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停泊中のヨットは、タボガ島で新年を迎えます。
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この頃はスリムな体型の私(右)、後輩の友人(左)素敵な方です。
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1983年最後(大晦日)の夕景
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ショート・トリップの参加メンバー、後輩(後右)、後輩の友人(女性2名)、後輩の友人(次項の写真)、そして私の計5名でした。
タボガ島の砂浜から大晦日のパナマシティの夜景を眺め、カウントダウンで新年を迎え、「ゆく年くる年 1983」を楽しく過ごすことができました。 -
夜食のインスタント・ラーメンを食べているのは後輩の友人(銀行マン)、彼の家族は一時帰国中で私と同様に疑似独身でした。
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1984年元旦 タボガ島からパナマ市へ戻ります。
(薄いブルーのトレーナー&プルオーバーのシアサッカー地のシャツ 40年近い昔の様子です、いまの私の体型・髪型は大幅に変わりましたが、服装の好みは変わっていません) -
後輩の友人、パナマ国旗、そして、後方はタボガ島です。
★★パナマ共和国 一口メモ★★
首都:パナマシティ 公用語:スペイン語
人口:212万人(1983年) 最新データでは何と!急増の418万人
通貨:米国ドル&バルボア(硬貨のみ)
赴任時1983年の為替レートは240円、帰任時の為替レートは130円、「円ドル」の悲哀もありました。
パナマの代名詞は、太平洋とカリブ海(全長約80Km 車であれば約1時間)を結ぶ「パナマ運河」です、当時の経済状況は、「運河」「フリーゾーン」に細々と支えられていましたが、1999年12月31日に米国から運河が返還された後、新興発展国として急激な変貌を遂げたようです。
農林水産業は後進国のイメージは払拭されず、また、観光業は乏しかった思います。 -
+++ アメリカ橋 +++ 写真後方の橋
アメリカ橋はパナマ運河の太平洋口に位置し、パン・アメリカン・ハイウェイ (Pan-American Highway)の一つの橋として、2年半の建設期間と2,000万ドルの建設費が投入され、米国によって1962年に完成されました。 -
5年3か月過ごした中米パナマ、生活環境(衣食住)、教育、医療、余暇(日常&バカンス)、アフター5、日本人会コミュニティの裏事情、現地人との交流、また出張時の出来事など、思い出・出来事は広範多岐にわたりました。記憶が風化する前にアップできればと考えるのですが、第二章は、いつになるか?
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