2017/08/13 - 2017/08/13
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でいめくと さん
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初めてのローマ!
これまで世界30か国以上を訪問、イタリアは過去6度訪れてきた私ですが、ローマ訪問はずっと長い間、我慢に我慢を重ねてきました。
それは、昔から塩野七生さんの「ローマ人の物語」が大好きで、きちんと読破した後に訪問する楽しみを取っておきたかったから。
「ローマ人の物語」は文庫本にして全43巻の超大作。
読み終わるころには冒頭あたりの記憶をなくしたりして。
やっと自分なりに納得できるところまで、何度かの読み直しを経て、この夏念願だったローマを訪れることができました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 鉄道 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
おはようございます。
午前6時ちょうど、ホテル・ミラニの部屋のバルコニーから駅方向を望んでいます。
右側に見えるのは、地図で見るとBasilica Del Sacro Cuoreという教会のようです。 -
ホテルの朝食をさっと済ませ、地下鉄B線に乗ってColosseo駅まで。
そして・・・コロッセオ到着!
実はオープン時刻を朝8時と思い込んでたので、着いたのが午前7時25分。
(正しいオープン時刻は8時30分)
人が少なくて拍子抜けしましたが、これ幸いにとあちこち写真を撮ることにしました。
この後、8時頃には人が溢れ出してましたので、結果朝焼けに染まるコロッセオをじっくり見ることができてよかった。 -
ネロの自死の後、ガルバ、オトー、ヴィテリウスと一年のうちに3代の皇帝が入れ替わった。
紀元70年、跡を継いだのが、ユダヤ方面司令官だったヴェスパシアヌス。
ユダヤ戦役を鎮圧、ヴィテリウスの後ろ盾だったライン軍団を撃破したのち、皇帝の座についた。 -
ヴェスパシアヌス帝は紀元72年からコロッセオの建築に着手し、その息子ティトゥス帝の治世の代に完成。
皇帝の家名を採って「フラヴィウス円形劇場」が正式名称。 -
そして、コロッセオのすぐ脇に建つのが「コンスタンティヌスの凱旋門」。
テヴェレ河、ローマの上流に位置するミルヴィウス橋での戦いで、マクセンティウスに勝利したことを記念して315年元老院により建てられコンスタンティヌスに贈られた。
ミルヴィウス橋の戦いまでの6年間、元老院はコンスタンティヌスの政敵であるマクセンティウスを支持し続けていた。
その罪の許しを請うかのように、造営の場所として最高の場所が選ばれた。 -
コンステンティヌス帝の在位10年記念式典に大急ぎで間に合わせるため、装飾の多くは他の建造物からの寄せ集めとなった。
中央はトラヤヌス帝時代の「ダキア人の捕虜の像」。
ダキアは今のルーマニアのあたりのことであり、コンステンティヌス帝とは全く関係ない。
さらに「捕虜の像」の左側はマルクス・アウレリウス帝時代のもの。 -
結婚おめでとう!
新郎がカジュアルな服装なのが逆にかっこいい。 -
陽が当たってきたコロッセオ。
柱は下の段から、重厚なドーリア式、すっきりしたイオニア式、花びらのように繊細なコリント式になっている。
ちなみにサン・ピエトロ大聖堂の正面外観はコリント式、広場の回廊はドーリア式でした。 -
イチオシ
濃い青空とコロッセオ。
朝の日差しが強くなってきた。 -
外装は大理石が一面貼られていたらしいが、すべて取り外し持ち去られていた。
構造体となる外壁や柱も半分近くが持ち去られた中、よくここまで残っていてくれたものだ。 -
石積み建築物の極み。
度重なる地震にも耐えたのは円形が力学的に安定していたからだと言われている。 -
午前8時10分ごろから人が並び始めたので、私も列に並ぶことにします。
入場料12ユーロ。 -
上の階に登る階段の場所が分かりにくいけど、ようやく目の前に現れた。
すごいな、こんなものが2000年前によく出来たものだ。 -
アリーナのレベルから観客席を見上げて
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想像力をたくましくして当時の観客たちの熱狂に思いをはせてみましょう。
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現代の野球場を少し小さくしたような感じかな。
でもその分アリーナを取り囲む感じが一層強くなり対面側の観客の盛り上がりがお互いに相乗効果をなって熱狂度が増幅されていったように思う。 -
長径188メートル、短径156メートル。高さ57メートル。そして収容5万人。
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コロッセオから見るフォロ・ロマーノ
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コロッセオの見学を終え外に出てきました。
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「コンスタンティヌスの凱旋門」
パッチワークのような継ぎはぎで出来たのに全体としての造形は美しい。
1960年のローマオリンピックではこの凱旋門がマラソン競技のゴールとなったそうだ。
アベベが裸足で走った時だね。 -
午前9時30分、では満を持してフォロ・ロマーノへ入場しましょう。
紀元66年に始まり77年マサダ要塞陥落で終結したユダヤ戦役。
「ティトゥスの凱旋門」は、その勝利を記念して建てられた。
イスラエルのマサダ要塞へも一度行ってみたいものだ。 -
下側のレリーフは戦利品としてユダヤ式燭台を掲げている場面。
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カエサルやアウグストゥスから続いたユダヤ人への寛容路線は、ユダヤ戦役を機に大きく転換された。
特に紀元130年五賢帝のひとりハドリアヌス帝がイェルサレムからユダヤ人を追放し以降の居住を禁止したことで、ユダヤ人は祖国を失い途方もなく長きに渡る離散(ディアスポラ)の歴史を辿ることとなる。 -
遙か奥に見える風景。
中央下に「セプティミウス・セヴェルスの凱旋門」。
左上に市庁舎。
右上奥に白亜のヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂。 -
五賢帝後の混乱を勝ち抜き、皇帝についたセプティミウス・セヴェルスが建てた凱旋門。
結果的にフォロ・ロマーノ内に皇帝が建てた最後の建造物となった。
彼の息子がその次の皇帝となったカラカラ帝。
カラカラ大浴場にその名を残すが着工したのはセプティミウス・セヴェルス治世の時代だそうだ。 -
「マクセンティウスのバジリカ(公会堂)」。
結構でかい。
マクセンティウスは、ディオクレティアヌスが東方皇帝であった時に西方皇帝であったマクシミアヌスの息子。
クーデターで権力を奪取したが、後にコンスタンティヌスとの「ミルヴィウス橋の戦い」に敗れ戦死。 -
「ロルムスの神殿」。
マクセンティウスのバジリカの奥にあるのが、その幼くして亡くなった息子ロルムスのために建てた神殿。
コンスタンティヌス帝にとって敵だった人が造った建物が現代まで残されているのが不思議。 -
「レジア(王宮)」。
ローマ王政時代、ロスムスに次ぐ2代目の王ヌマ・ポンビリウスが建てた王宮。 -
左端はヴェスタの神殿
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左上に見えるのはパラティーノの丘の展望台。
あとであそこに上ります。 -
双子神「カストルとポルックスの神殿」。
カストルとポルックスはスイス・マッターホルンに連なる双耳峰の名にも冠せられている。 -
「クーリア」。
共和国時代、元老院が決定を下す場所として、ディオクレティアヌス帝が再建した建物。
現在の姿はわずかに残ったその時代の遺跡をもとに今世紀復元されたもの。 -
「セプティミウス・セヴェルスの凱旋門」
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イチオシ
この凱旋門は第6次パルティア戦争での勝利を記念して紀元203年に建設された。
左手前は「フォカスの記念柱」。 -
カピトリーニ美術館コンセルヴァトーリ宮裏の高台。
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左に「サトゥルヌスの神殿」、右下に「ヴェスパシアヌスとティトゥスの神殿」。奥に市庁舎。
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「ユリウスのバシリカ」
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「セプティミウス・セヴェルスの凱旋門」越しのサンティ・ルカ・エ・マルティナ教会
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一旦戻って、次は左側に見えるパラティーノの丘を目指します。
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コロッセオふたたび。
赤レンガの壁に光が反射し、アーチが赤みを帯びていてかっこいい。 -
遠く遙か奥に「トライアヌスの記念柱」が見えた!
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さきほど前を通ったレジア(左)とロルムスの神殿(右)。
レジアの側面側にある3本の列柱のやや左下のレンガの塊は、「最高神祇官公邸」。
紀元63年、カエサルが最高神祇官に就任して以降、ここに住むようになった。 -
奥にヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂
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パラティーノの丘の展望台にやってきました。
展望台の部分だけ絶壁がせり出した感じになっていた。 -
ここからの眺めはローマならではの絶景。
中央左の3本柱がカストルとポルックスの神殿。 -
また、ここから見えるコロッセオがかっこいい。
手前中央にティトゥスの凱旋門、右側木の幹の後ろにコンスタンティヌスの凱旋門。 -
遠くに見えるサン・ピエトロ大聖堂
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ファルネジアーニ庭園を抜けた場所から
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少し歩いて「ドムス・フラヴィア」に到着。
コロッセオを造ったヴェスパシアヌス、その長男ティトゥスの後を継いで皇帝の座についた次男ドミティアヌスが造営した巨大宮殿の跡。
低木のあたりに「八角形の噴水」。 -
すぐ近くの場所から「チルコ・マッシモ」が一望できました。
戦車競走が繰り広げられたチルコ・マッシモは長さ620メートル、幅120メートル。
コースの中央に分離帯があり、そのに建てられていたオベリスクは現在ポポロ広場で見ることができる。 -
チルコ・マッシモは収容15万人。
コロッセオの収容5万人といい、ローマ時代ってスケールでかすぎる。 -
そしてここが「ドムス・アウグスターナ」。
ドミティアヌス帝以降の皇帝の私邸。
「ペリスティリウスの池」に置かれた紋様は伝説の女族アマゾネスの盾ペルタを指すらしい。 -
同じくドムス・アウグスターナ内の「スタディオ」は皇帝専用の競技場。
長さ140メートル、幅45メートル。 -
大満足でフォロ・ロマーノを後にしました。
コロッセオも完成したのはドミティアヌスの治世の時。
彼が建設した「ドミティアヌスの競技場」は現在のナヴォーナ広場となっている。
そのほかにも彼の時代に着工した公共建設物、道路、港湾施設は数多くある。
そんなドミティアヌスだが告発者を活用して元老院の反皇帝派を排除したことから強い反感を持たれるようになり、結果暗殺されてしまう。 -
午前11時30分「コンスタンティヌスの凱旋門」。
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朝は日陰になっていた南面をじっくり鑑賞。
周りにはすごい数の観光客。 -
前述のとおり、この凱旋門の装飾の多くは他の時代の建造物からの寄せ集めとなっています。
左端の円形の浮き彫りはハドリアヌス帝の時代のもので、これは「狩りに出発する皇帝」の場面。 -
門の最上段はマルクス・アウレリウス帝時代。
「蛮族の代表を謁見する皇帝」の場面。 -
同じく門の最上段に並ぶ四体はトライアヌス帝時代。
「ダキア人の捕虜の像」。 -
円形の浮き彫りのすぐ下の浮き彫りこそが、コンスタンティヌス帝時代、紀元315年頃のもの。
これは「ヴェローナ攻略の図」。
先帝たちの時代に比べ、造形能力が明らかに劣化し稚拙化してしまっている。
塩野七生さんによると「各時代の国力の差」とのこと。 -
フォロ・ロマーノの北側の道を北西に向かう途中、軍の装甲車。
おそらくテロを警戒中。 -
ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂
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アウグストゥスのフォロ
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そしてやってきました「トライアヌスの記念柱」。
さきほども遠くから見えてたやつ。 -
高さ40メートル。
五賢帝の一人であるトライアヌス帝はスペイン南部の生まれで、当時初の属州出身皇帝だった。 -
紀元101年、トライアヌスはドナウ川下流に住むダキア族との戦争に勝利する。
その後紀元105年の第二次ダキア戦役でも勝利、ダキアをローマの属州としローマ帝国の領土は史上最大となった。 -
記念柱にはらせん状にダキア戦役の様子が浮き彫りで表現されている。
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トライアヌス自身はこのレリーフに60回登場するそうだ。
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トライアヌスはパルティア遠征中に病没、その後この記念柱が建てられた。
1587年教皇シクストゥス五世により頂上の像は聖ペテロにすげ替えられ今に至る。 -
半円形の「トライアヌスのマーケット」
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ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂。
1911年、イタリア統一の立役者、初代国王ヴィットリオ・エマヌエーレ2世の偉業を記念して建てられた。
こんなにかっこいいのに建てられた当時は評判が悪かったそうだ。 -
ここらへんでフォーリ・インペリアーリを後にします。
-
中央にサンタ・マリア・イン・アラチェリ教会への大階段。
右奥は市庁舎。 -
市庁舎の手前、階段を上った場所に、ミケランジェロ設計のカンピドーリオ広場があります。
そちらに向かいましょう。 -
広場の中央にあるのが「マルクス・アウレリウスの騎馬像」。
本物は美術館内にあり、これはレプリカ。 -
ではカピトリーニ美術館に入ってみましょう。
向かって右側の「コンセルヴァトーリ宮」から入場。
まずは「皇帝の勝利」。
紀元66年パルティア戦役の勝利を祝うマルクス・アウレリウス帝の凱旋式のレリーフ。 -
ハドリアヌス帝。五賢帝の一人。
先帝トライアヌスと同じく属州スペインの出身。
在位21年のうち、本国イタリアにいたのが7年間。
それ以外は広大なローマ各地の視察に費やした。
以前ヨルダンを訪問した際、ジェラシュ遺跡の入口にハドリアヌス帝が訪れたことを記念した「ハドリアヌスの凱旋門」があり「こんな場所までローマ皇帝が訪れたのか」と驚きました。 -
「オラーツィとクリアーツィの戦い」
1613年作のフレスコ画。 -
「ウルバヌス8世の像」
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ルキウス・ユニウス・ブルータスの像。
カエサルやアウグストゥスが登場するずっと前、紀元前507年に横暴な七代目ローマタルクィニウスを追放し、王政時代を終わらせた。
市民集会で選出される二人の執政官が統治する体制を創設し、以後約500年続く共和制ローマの創始者となった。
その後、王政復古を企む前王の軍勢との戦いの中、大将同士の決闘で同時討ちとなり命を落とす。 -
窓から見えた「マルクス・アウレリウスの騎馬像」
-
「カピトリーノの雌狼」
ローマ建国の祖、ロムルスと双子の弟レムスが狼の乳を飲んでいる。
狼は紀元前6世紀の作、双子の兄弟は15世紀末に造られた。 -
コンスタンティウス帝。
キリスト教を公認したコンスタンティヌス大帝の次男。
大帝死後の帝位争いを勝ち抜いた後、父の遺志を継ぎキリスト教のさらなる振興に努めた。 -
ヘラスレスに扮した姿のコモドゥス帝。
獅子の皮を被り右手には棍棒を持っている。
彼は、騎馬像マルクス・アウレリウス帝の14人いた子供の中で成人できた唯一の息子。
自分の真の父は病弱だった先帝ではなくユピテル神だと信じ、自分はその息子ヘラクレスの生まれかわりだとして「ローマのヘラクレス」と称するようになり、この像を造らせた。
統治者としてやるべきことは何もせず、結局謀殺された。
死後元老院により満場一致で「記録抹殺刑」に処せられ、碑文や肖像は破壊された。(この像はよく残っていたものだ)
「記録抹殺刑」になったのは、ネロ、ドミティアヌスに続く3人目。 -
明るい太陽光の差し込む中庭に置かれた「マルクス・アウレリウスの騎馬像」。
こちらが本物。
至高の傑作とされる騎馬の姿は凜々しくも逞しい。 -
イチオシ
元々カンピドーリオ広場にあったわけではなく、1000年もの長い間、ローマ市内の南端に位置するラテラノ教会前の広場に放置されたままだった。
破壊されずに済んだのはこの像がキリスト教を公認したコンスタンティヌス帝に間違われたかららしい。
記録によるとアウグストゥスやトライアヌスなど他の皇帝の騎馬像もあったが、破壊されブロンズが溶解されて他に転用されたらしい。 -
ここからはカピトリーナ絵画館「仔牛を襲う虎」
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カラヴァッジョ初期の作品「女占い師」
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カラヴァッジョ「洗礼者ヨハネ」。
ヨハネの絵と考えられてきたが、最近では旧約聖書のイサクではないかとも考えられている。 -
ルーベンス「ロムルスとレムス」。
巨大な雌狼が横たわっている。 -
窓の外、遠くに見える「ティトゥスの凱旋門」
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コンセルヴァトーリ宮と新宮を結ぶ地下通路の途中から、フォロ・ロマーノの風景。
左側は「セプティミウス・セヴェルスの凱旋門」。 -
ここからは新宮の展示。
「マルフォーリオ」は、ローマ市内に残る「物を言う像」のひとつ。
かつては法王庁に対する悪口や非難の文がこの像に張られ庶民の告発の場となっていた。 -
そして、一番楽しみにしていた「皇帝の間」にやってきました。
ずらりと皇帝たちの胸像が並びます。 -
まずは第五代皇帝ネロ。在位紀元54年~68年。
先帝クラウディウスが年配者で堅実かつ地味な存在であったのに対し、16歳という若くて利発な皇帝の登場は当初元老院や市民に歓迎された。
哲学者セネカが補佐官であった治世前半は地方の反乱や周辺国との問題に果断に対応し一定の評価を受けた。
セネカ引退後は直言できる人物がいなくなり、失政を重ねる。
さらに「ローマの大火」「黄金宮殿建築計画」などにより悪評は一気に高まり、結局元老院による「国家の敵」宣告を受け自死に至る。 -
ヴェスパシアヌス帝。在位紀元69年~79年。
コロッセオを建てた皇帝。
包容力のある偉大なリーダーの面構え。
ネロの混乱の後、ガルバ、オトー、ヴィテリウスと3人の皇帝がいずれも数ヶ月の在位で次々に入れ替わった。
その間各地の軍団同士が争う内乱状態に突入。
また辺境の地でゲルマン系ガリア人やユダヤ人の反乱が勃発。
この帝国の苦境の中、帝位に上り詰めたヴェスパシアヌスは「健全な常識人」だったとされる。 -
トライアヌス帝。五賢帝の二番目。在位紀元98年~117年。
フォーリ・インペリアーリの記念柱やマーケットにその名を残す。
ところで五賢帝の一番目となるネルヴァ帝は、皇帝就任時既に70歳、在位期間も紀元96~98年と短いが、ドミティアヌス後の混乱をまとめ、後継者にトライアヌスを指名するなど、後の五賢帝時代の礎を築いた皇帝だが、胸像は見当たらなかった。 -
ふたたびハドリアヌス帝。五賢帝の三番目。在位紀元117~138年。
ティボリの別邸「ヴィラ・アドリアーナ」や現在のパンテオンを建てた。
またユダヤ戦役の後、ユダヤ人をイェルサレムから追放し、以後長きに渡る離散(ディアスポラ)の歴史を辿ることとなったのは前述のとおり。 -
アントニウス・ピウス帝。五賢帝の四番目。在位紀元138年~161年。
南仏ニーム出身の家系で祖先はカエサルに制圧されたガリア人。
先帝ハドリアヌスによりマルクス・アウレリウスとルキウスを養子に迎えることを条件に後継者に指名された。
彼の治世は帝国全体を平和な秩序が支配していたとされる。
“ピウス”は「慈悲深い」の意味。 -
マルクス・アウレリウス帝。五賢帝の五番目。在位紀元161年~180年。
騎馬像の人物。
平穏だった先帝から引き継いだ途端に難題が次々に起こる。
飢饉、テヴェレ川の氾濫、そして東方パルティア戦役の勃発などである。
軍事経験のない皇帝だったが、各地で起こった戦の対応に終始した治世となった。
ローマを遠く離れたドナウ河畔の前線基地で病没する。 -
マルクス・アウレリウス帝の弟で共同皇帝となったルキウス・ヴェルス。
紀元170年、脳溢血により39歳の若さで亡くなる。 -
ふたたびコモドゥス帝。在位紀元180年~192年。
五賢帝が六賢帝にならなかったのは彼のせい。
この呆けた面構えでは、さもありなんと思ってしまう。
自称ヘラクレスの生まれ変わり。 -
カラカラ帝。在位紀元211~217年。
フォロ・ロマーノの凱旋門にその名を残すセプティミウス・セヴェルス帝の長男。
父の死を受けて23歳で皇帝就任。
212年、「アントニウス勅令」によりローマ帝国内の自由な身の人々全員にローマ市民権を与えた。
それまで属州出身でもローマ軍の下で兵役に従事すれば25年後の満期除隊時に与えられた「特権」だったのが、この勅令により誰でも手に入る権利となった。
結果それまでローマ市民権保持者による「ローマを支える気概」を失わせ、属州民からは「向上心」を削いでしまったため、ローマ弱体化を早める遠因となったとされる。 -
その後は、カラカラ帝を含め73年間に22人の皇帝が短期間の在位で入れ替わる「三世紀の危機」と呼ばれる時代となる。
度重なる蛮族の侵入、同時多発する内戦、国内経済の疲弊、地方の過疎化など次々と未曾有の難題が持ち上がる中、22人のうち14人が謀殺された。
そのうちの一人、ヘラガバルス帝。在位紀元218年~222年。属州シリアの出身。
皇帝就任当時なんと14歳。
先々代の皇帝セプティミウス・セヴェルスの妻の妹ユリア・メサの孫にあたる。
面構えはそのへんのあんちゃんにしか見えない。 -
同じく「三世紀の危機」の皇帝の一人、在位3年、マクシミヌス・トラクス帝。在位紀元235年~238年。
ローマ史上では「トラキア人マクシミヌス」と呼ばれる。
父親は羊飼い。腕っぷしが強く、セプティミウス・セヴェルス帝に認められ軍団内で出世を遂げる。
ヘラガバルス、その弟のアレクサンデル・セヴェルス帝の後、兵士たちの推挙により皇帝となったが、家柄・教養・品格が問題となり元老院から嫌悪され「国家の敵」と宣告された。
首都ローマへの行軍の途中、部下により謀殺される。 -
同じく在位6年だったプロブス帝。在位紀元276年~282年。
シリアのアンティオキアで皇帝に推挙される。
工事進捗を見るために上った塔が部下により崩され、倒れたところを短剣で刺されて非業の死を遂げる。 -
この方は皇帝ではありません。古代ローマ随一の弁論家キケロ。
カエサルの好敵手として元老院体制護持を信条とした。
紀元前43年、カエサル暗殺後、元老院派の頭目としてマルクス・アントニウスの放った刺客により粛正され、遺体はフォロ・ロマーノの演壇の上にさらされた。 -
胸像がずらり。こうしてみると見逃した皇帝もいますね。
下段正面向きの一番左はアレクサンデル・セヴェルス帝、その右マクシミヌス・トラクス帝、白のプレートを挟んでさらに右隣にゴルディアヌス一世、さらにその右にパピエヌス帝、そして一回り小さいゴルディアヌス三世、ふたたび白のプレートを挟んでガリエヌス帝、その右がプロブス帝。
「皇帝の間」はここまで。 -
「瀕死のガリア人」
-
「カピトリーノのヴィーナス」
-
「赤い大理石の牧神ファウヌス」
-
締めは巨大なコンスタンティヌス帝。
紀元313年、当時共同皇帝だったリキニウス帝とともに「ミラノ勅令」を公布。
徐々にローマ帝国に浸透していったキリスト教の公認に踏み切った。
多様性と寛容さが特長であったローマ帝国の変容が決定的となる。
紀元324年、リキニウスとの争いに勝利したコンスタンティヌス帝は、自らの名を冠して建設した新しい首都コンスタンティノープルに本拠地を移し、新しい宗教による新生ローマ帝国の創成を進めていく。
「なぜコンスタンティヌス帝はキリスト教を公認したのか」について、塩野七生さんは「皇帝が短期間で入れ替わる「三世紀の危機」を経て、皇帝即位の正統性を確実にするため、「神の意志による」とするキリスト教の有効性に気づいたから」とする。 -
十分に堪能してカピトリーニ美術館を後にします。
-
パンテオンに向かう途中、ジェス教会。
ザビエルも眠るイエズス教会。
今は午後2時20分。オープン時間は午後4時~午後7時だったので、中には入れませんでした。 -
ミネルヴァ広場。
オベリスクを乗せた象。奥にはパンテオン。 -
そしてパンテオンに到着。
古代ローマ時代のままで現代に残る唯一の建築物。
一世紀末に初代皇帝アウグストゥスの側近として軍事面で支えたアグリッパが紀元27年に建てた神殿。
午後2時35分、少し並んで入場。 -
紀元80年、火災により焼失したが、紀元118年ハドリアヌス帝が土台からパンテオンを作り直したのが、今の姿。
アグリッパのパンテオンは円形ではなく角形だったことが考古学調査でわかっている。
しかし初代の建造者に敬意を払い、正面に「アグリッパ」の名が刻まれている。 -
中に入ると教会かのように静寂な空気に包まれる。
円形の建物だが、内部は球形になっていて直径43.3メートルの球体がすっぽり入るらしい。 -
天井の丸い天窓から差し込む太陽光が内部に様々な陰影を生み出す。
天窓の直径はおよそ9メートル。
天窓にはガラスなどはなく雨が降るとそのまま内部に降り込むのだが排水もきちんとできているらしい。 -
7世紀に法王ボニファテウス4世に献上され聖母と殉教者を祀る教会となったことで破壊や略奪から免れることができた。
柱はコリント式。 -
時刻により光線と影が移り変わり、内部の様々な表情を映し出します。
-
イチオシ
午後3時ちょうど、パンテオンから歩いてやってきました「トレビの泉」。
ど定番「これぞローマ」の観光ポイント。
周りは観光客でいっぱいです。
自分もですけど。 -
でもやっぱり、ローマに来たって感じになれる。
暑すぎるけどいい天気。青空も最高、水の色も想像以上にきれい。 -
中央は海神ネプチューン、その左右に2頭の海馬とそれを繰るトリトン。
1762年、若い建築家ニコラ・サルヴィの作。 -
午後3時22分、歩き続けてスペイン広場に到着。
「ローマの休日」で有名すぎる場所。
西向きに階段が伸びるため、この時間の光線状態が一番いい。
丘の上はトリニタ・ディ・モンティ教会。 -
イチオシ
手前の人影で多くの観光客が見上げてるのがわかるでしょ。
周辺は高級店の集まるショッピングゾーンとなっていた。 -
午後3時45分、スペイン広場からバブィーノ通りを北上、ポポロ広場に到着。
オベリスクの奥左にポポロ門、右にサンタ・マリア・デル・ポポロ教会。 -
北からのローマ巡礼者たちがこの広場で身分を確認され税を納めて市内への入場が認められた。
-
高さ36.5メートルのオベリスクは、紀元前1200年ごろエジプトで造られチルコ・マッシモに置かれていたもので、1589年シクストゥス5世により巡礼者の道標としてここに建てられた。
奥はピンチョの丘。 -
ここからカラヴァッジョ作品が展示されている教会を巡ります。
まずはサンタ・マリア・デル・ポポロ教会。
歩き方によると午後の休みの後「午後4時30分にオープン」となっていたが、午後4時に入場できた。
ラッキー。 -
カラヴァッジョの円熟期の作品「聖パオロの改宗」。
旅の途中で神の声を聞き、地面に倒れ目を閉じ、改心した場面が描かれている。 -
イチオシ
そして「聖ピエトロの逆さ磔」。
皇帝ネロがキリスト教を迫害して、聖ペテロは身の危険を感じて国を出て逃れようとしたときキリストとすれ違い、死を覚悟してローマに戻り、磔(はりつけ)の刑に処せられた。
「ローマの大火」の責任を押し付けられた使徒ペテロは、処刑に際して、「主イエスと同じ姿では畏れ多い」と言って自ら望んで「逆さ磔」になった。
カトリック教会の総本山、サン・ピエトロ大聖堂は初代教皇ペテロの墓の上にその名前をつけて建てられている。 -
他の観光客も少なく静かに鑑賞できました。
オープンの時間が最近変わったためかもしれません。 -
ふたたびポポロ広場の双子教会。
左にサンタ・マリア・イン・モンテサント教会、右に修復中のサンタ・マリア・デイ・ミラーコリ教会。 -
巡礼者の通り道を確保するため、この広場からリベッタ通り(右側)、コルソ通り(中央、オベリスクの奥)、バブィーノ通り(左側)の3本の通りが伸びている。
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カラヴァッジョの作品巡り、続いてはポポロ広場からリベッタ通りを南下、サンタゴスティーノ教会に到着。1483年完成。
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カラヴァッジョ作「ロレートの聖母」。
二人の巡礼中の農夫のが疲れ果ててロレートの聖なる家にたどり着いたとき、その目の前に裸足の聖母マリアと裸の幼児キリストの幻影が現れた情景を描いており、肖像における聖母マリアの象徴性を高めた作品ともいわれている。 -
最後はすぐ近くのサン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会。
左側の一番奥のコンタレッリ礼拝堂にカラヴァッジョ「聖マタイ3部作」が展示されている。 -
イチオシ
カラヴァッジョ作「聖マタイと天使」。
出現した天使を目撃し驚愕する、写実的に描かれた聖マタイの表情と渦を巻くような天使の衣服の表現が暗中に浮かび上がり、深い精神性と聖性をみせている。 -
カラヴァッジョの代表作ともされる「聖マタイの召命」。
徴税人であったマタイが収税所で机に向かっているところに、キリストが自分に付き添うよう呼びかける場面。
長らく中央の自らを指差す髭の男がマタイであると思われていたが、最新の説では左端のうつむいて金勘定している若者こそが聖マタイであると考えられている。 -
カラヴァッジョ作「聖マタイの殉教」。
聖マタイは「マタイによる福音書」の著者であり、エジプトで殉教したと言われる。
国王の恋を邪魔したことで憎まれ、刺客の手により暗殺された。 -
主祭壇
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主祭壇画はフランチェスコ・バッサーノ作「聖母被昇天」
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ドメニキーノ作の天井画。
十分にカラヴァッジョを堪能したところで、ナヴォーナ広場へ向かうことにします。 -
午後4時50分、ナヴォーナ広場に到着。
1世紀後半、ドミティアヌス帝が造った競技場の跡地が広場になった。
残念ながら、この時刻はベルニーニの大作「四大河の噴水」は日が陰っていた。
映画「天使と悪魔」でも有名な噴水。 -
一番北側にある「ネプチューンの噴水」
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夜もライトアップされて綺麗な広場。
改めて夜にも来ればよかったと後悔。 -
ナヴォーナ広場を北側から抜け、コロナーリ通りを西へ進み、途中右折してサンタンジェロ橋に到着。
奥にはサンタンジェロ城。 -
1450年サン・ピエトロ大聖堂に向かう巡礼者で混乱し200人の死者を出す惨事となった。
橋の欄干を天使像が飾られている。
左端はベルニーニ作。 -
イチオシ
サンタンジェロ城は、2世紀初めにハドリアヌス帝が自信とその後のローマ皇帝の霊廟として建立させたもの。
カラカラ帝までの皇帝がここに埋葬された。
その後改築され要塞や牢獄として使われたこともあった。 -
イチオシ
天使像が青空に映えます。
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テヴェレ川を渡り、さらに北上。
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西側を見やれば遠くには、昨日訪問したサン・ピエトロ大聖堂。
このまま地下鉄A線レパント駅まで歩き、ホテルに戻りました。 -
この日からホテルは、同じくテルミニ駅近くのスマートホテル305号室。
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