2019/12/28 - 2020/01/03
193位(同エリア253件中)
ミズ旅撮る人さん
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愛媛県の観光地というと、松山の道後温泉がまず頭に浮かびます。
しかし、その後に続く有名観光地があまりないのが残念です。
今回、愛媛県を東から西へ、更に南へとほぼ全域を通るので、
地名だけは知っていた大洲(おおず)に立ち寄ることにしました。
大洲は肱川に沿って、大洲城の城下町として栄え、「伊予の小京都」と呼ばれた町です。
明治・大正・昭和の建築が残り、それらを歩いて見て回ることが出来ます。
その町歩きの延長で、大洲城に立ち寄りました。
大洲城は明治時代に解体されましたが、2004(平成16)年に復元されました。
最近建てられた城なんて、コンクリート造の張りぼてじゃないのかと思っていたら、
なんと木造建築の天守で、4層あるのは戦後復元されたものとしては
日本一なんだそうです。
真新しいのに本物と同じ。
天守からの眺めも良くて、JR予讃線の線路も見えます。
肱川の鉄橋を列車が渡るのを見るのが結構楽しいです。
城の石垣の上で観光列車「伊予灘ものがたり」に幟旗を振ろうという
イベントもあります。
予想以上に興味深かった大洲城を紹介します。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- 交通手段
- 自家用車
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
松山から松山自動車道で南下し、大洲ICから大洲道路に入り、
肘南ICで出ます。
国道441号線で大洲の町はすぐです。
町の中心にある観光総合案内所の駐車場に車を停めて、散策開始です。
ここの駐車場は乗用車35台と案内されていますが既に満杯で、
ちょうど1台が出たので奇跡的に停められました。大洲まちの駅あさもや 道の駅
-
大洲観光総合案内所のある「大洲まちの駅あさもや」の脇から
肱川に向かって続く「煉瓦舗装の道」を歩きます。 -
大洲の鵜飼は、1,300年の歴史があると言われています。
岐阜県長良川・大分県日田市三隈川とともに、
日本三大鵜飼いに数えられています。
6月1日~9月20日の期間中は毎日行われます。 -
本町2丁目の通りを西に曲がって行くと、
「七福堂」という古い和菓子屋さんがありました。
元日なので、商店街はお休みです。五百原七福堂 グルメ・レストラン
-
伊予銀行大洲本町支店の前には、
かつて大洲銀行本店だった頃の瓦が点在しています。 -
「明治の風景そのままに、古い看板や昔ながらのお店が立ち並ぶ」と
紹介される界隈。
「植田食品本舗」の木の味わい深い看板には、
「肱川名産 焼あゆ・かじか・川魚珍味」と書かれています。 -
お正月飾りにはみかん。さすが愛媛みかんで有名な土地柄。
2週間前に行ったドイツ旅行で、静岡県から参加した人が
「三ケ日みかんは美味しいよ」と言い、
和歌山からの参加者は「有田みかんが一番」と言っていました。
四国からの参加者がいたら「愛媛みかんが一番」と
言っていたのでしょうか。
日本人はみかんが好きですね。
余談ですが、私はみかんより高知の土佐文旦が大好きです。
年末には温室文旦が出回ります。
露地ものは2月に入ってから。こちらの方が甘みが強くて好きですが、
もちろん車のトランクは温室文旦でいっぱいになっています。 -
こういう商店街は初めて見るなあ。
2階は古い木造の旅館のような造りなのに、1階の屋根はなんだか洋風?
一応舗道があるけど狭くて雨が避けられるのかなあ? -
郵便局のある交差点を渡って更に行くと、大洲市民会館があります。
会館の肩の上に、ちょこんと大洲城が見えています。
もうここは、城の敷地の中なのです。 -
現在地が示す場所が市民会館の真ん前です。
そこはかつては内堀があり、橋を渡った所にある
櫓下御門の場所になります。
「櫓下(やぐらした)御門(二の丸大手門)跡。
この門は、二の丸の表門にあたる櫓門で、
門前の石垣で囲まれた部分だけでなく、
堀に架かる土橋の先まで、塀で囲った桝形を持つ点が特徴です。
東向きの門の上には渡櫓がのり、門の南側と北側の石垣上にも
それぞれ櫓が建っていました。(次ページへ続く) -
現在でも南側の石垣が残っており、当時の面影を偲ぶことができます」
-
市民会館の脇の城山公園です。
左側の土塀に沿って上って行きます。 -
大洲城は1331年に伊予宇都宮氏の宇都宮豊房によって
築城されました。
明治維新後は、城内のほとんどの建築物が壊され、
1888(明治21)年老朽化により、天守は解体されました。
しかし、市民からの要望と寄付により、
2004(平成16)年に復元されました。
戦後復元された木造天守としての四層四階は日本初で、
19.15mの高さは日本一だそうです。 -
真新しい土塀に沿って、なだらかな坂を上って行きます。
-
工事現場の奥に大量の石が積まれています。
-
ここは二の丸御殿跡。
図の中の「表御殿」と書かれた区域です。 -
石垣解体工事に伴う埋蔵文化財調査が行われています。
(令和元年10月~2年1月) -
大洲城の石垣は、大きな真っ平の石の上にやや粗い少し小振りの石が
垂直に据えられ、一番上は復元時に追加されたのか、
コンクリートで固めた部分があります。 -
二の丸からは肱川と予讃線の鉄橋が見えます。
-
この辺りは「男はつらいよ 寅次郎と殿様」のロケ地だそうです。
-
青空に日本の城は、よく映えます。
多くの城は昭和の後半になって、
外観だけ似せて復元したものが主流ですが、
大洲城は、晩年の写真や雛型が残っていたこともあって、
ほぼ忠実に再現されています。
本当の意味での復元なので、築城当時の臨場感が味わえます。 -
この桜が咲いていたら、素晴らしく美しいことでしょう。
国宝級の城は大きくて、天守に辿り着くまでが大変ですが、
大洲城は外堀・内堀が埋められてしまっているので、
楽に近づくことが出来ます。 -
天守の手前が高欄櫓(こうらんやぐら)です。
大洲城の中で唯一2階に縁と高欄のある櫓です。
現在の高欄櫓は、台所櫓同様、1857年の地震で大破し、
1860年に再建されたものです。
1970(昭和45)年に台所櫓とともに解体修理が行われました。
現存する4つの櫓(台所櫓、高欄櫓、苧綿櫓、三の丸南隅櫓)は、
いずれも国の重要文化財に指定されています -
「井戸丸と石垣の修復
大洲城の本丸は、上段と下段とに分かれ、
井戸のある下段の曲輪を井戸丸と称しています。
井戸丸の西側には本丸下段の門と、
それに付属する多聞櫓が建っていました。
さらに南側には独立した二層の櫓が一棟ありました。
この井戸は、本丸にある唯一の井戸で、直径約3.8mあり、
国内でも最大級の本丸井戸として知られています。
天守台の石垣は、過去の地震で何度か修理した記録が残っています。
工事着手手前の発掘調査では、石垣の内側にさらにもう一列
石垣が検出されており、現存する天守台の複雑な築造過程の一端が
明らかになりました。
天守解体後に天守台上部の石が取り除かれており、
天守の復元工事に合わせて石垣を部分的に修復し、
元の高さまで積み直しています。」(井戸端の説明文)
このため、石垣の色が変わっているのですね。 -
「暗(くらが)り門跡
この門は、天守に至る最後の城門で城内でも最も大きい櫓門です。
現在とは異なり、かつては門の正面に石垣が立ちはだかり、
左に折れて石段を登ると台所櫓の前に出るようになっていました。
通常の櫓門とは異なり、折れ曲がり部分の上に渡櫓が覆いかぶさり、
文字通り内部は「暗がり」になっていました。
仮に門を破られても、突き進んで来た敵兵の勢いを削ぎ、
暗がりの中で混乱しているところを攻撃する仕掛けになっていたと
思われます。
発掘調査では、正面の石垣の一部と石段およびその側溝が
確認されました。」
他の城に比べて随分と天守に至る道程が単純なのだなと思ったら、
櫓門が失われて、曲輪が直線に作り変えられていたんですね。 -
大洲城天守です。
城は権威の象徴であり、威光を表現するものなので、
とにかく町中から見て威厳を感じられるような外観になっています。
なので、お膝元から城の威容に感じ入りながら登って来るのですが、
天守に辿り着くと、あれ?という感じがします。
意外に小さい気がするのです。
外の石垣や櫓が、とても大きな建造物に見せているのですね。
手前が台所櫓(だいどころやぐら)です。
大洲城の櫓の中では最大級のもので、内部に土間を配し
煙出し用の格子窓が開けられています。
現在の台所櫓は1857年の大地震で大破し、
1859年に再建されたものです。
1970(昭和45)年に解体修理を行いました。大洲城 名所・史跡
-
台所櫓の脇から肱川を見下ろせます。
JRの観光列車「伊予灘ものがたり」が鉄橋を渡る時に、
ここから幟旗を振って歓迎しています。参加費は無料です。
・開催日:毎週土・日、祝日
・時間:午後3:16頃と午後4:25頃
但し、「伊予灘ものがたり」は年末年始は3週間ほどお休みです。
令和元年初日にはSLやまぐち号に日の丸を振ったので、
令和2年の元日にここで幟旗を振れたら嬉しかったのにな・・・
走っていないんじゃ仕方ない。 -
ちょうど1両だけの列車が鉄橋に差し掛かりました。
JR予讃線は伊予大洲で分岐して向井原まで新旧二つのルートに
分かれています。
2014年3月15日のダイヤ改正で、海側を通る旧線の方に
『愛ある伊予灘線』の愛称が付けられました。
「愛ある伊予灘線」にある下灘駅が「海に一番近い駅」として
有名になりました。 -
では、台所櫓にある登城口から城内に入ります。
大人550円で、共通観覧料(大洲城-臥龍山荘)は880円です。大洲城 名所・史跡
-
早速、鎧兜のお出迎えです。
背後にあるのが「伊予灘ものがたり」に振る幟旗(のぼりばた)です。 -
「元禄5年大洲城絵図
この絵図は、1692(元禄5)年に天守・櫓・城門・土塀・土蔵などを
姿絵として描いたものです。
本丸天守台には、4層4階天守と小天守の役割を果たす台所櫓と高欄櫓が
2層2階で表わされています。
正保年間(1644~48)に幕府に提出された絵図では、
天守を3層に描いていますが、これに先立つ1627(寛永4)年に
当地を偵察した隠密の記録には、天守が4層と記されていることから、
元禄5年大洲城絵図のとおり、
天守は当初から4層で作られていたと考えられます。」
大きな城を造ると幕府に翻意ありと目を付けられてしまうので、
ごまかしたものの、とっくにスパイに報告されていた訳ですね。 -
「復元天守の木組雛形
この雛形は、復元した天守の木組を10分の1に縮小して
製作したものです。
天守の骨組みにあたる柱や壁の組み合わせが忠実に作られており、
土壁や屋根に隠れて実物では見えない天守の構造がよくわかります。」 -
台所櫓から天守に続く廊下。左手の階段は上れません。
左に掲示されているたくさんの写真は、火縄銃の公開練習の様子です。
大洲城天守木造復元10周年記念として、
2014(平成26)年に結成された大洲藩鉄砲隊。隊員数は17名。
毎月第3土曜日午後2時から大洲城本丸にて、
大洲藩鉄砲隊の公開練習を開催しています。 -
一旦、天守に行き掛けたものの、汽笛が聞こえたので
慌てて窓に戻りました。
愛媛県の松山と宇和島を結ぶ特急「宇和海」です。
先頭がアンパンマン列車でした。
アンパンマン3輌編成は一日4往復ありますが、
これは特別編成なのかな?全部異なる車両です。
最後尾は2000系特急気動車の試作車であるTSE(Trans Shikoku Experimental)?
曲線区間を高速で通過できる振子式装置を装備しています。 -
築城時の石を切り出したり、材木を運ぶ様子が再現されています。
石切り場で、人夫が網に入って吊り下げられているのがおもしろいです。 -
天守部分に来ました。ガランと広い空間があります。
-
素晴らしい太い梁が並びます。
天守で99本、多聞櫓で12本の計111本の梁が使用されました。 -
壁には大洲城の年表などが展示されています。
1331年宇都宮豊房により築城。
1585年以降、戸田氏・藤堂氏・脇坂氏・加藤氏・などが
城主となります。
1722年に三の丸南隅櫓が焼失。1766年に再建され、
これが大洲城現存最古の建物となります。
1857年地震により台所櫓・高欄櫓大破。
それぞれ1859年・1860年に再建。
国の重要文化財に指定されています。
1888(明治21)年天守老朽化のため取り壊し。
昭和30年代には各櫓の解体修理が行われ、
2002(平成14)年天守の復元工事が始まり、
2004年に完成しました。 -
大洲城築城の様子を再現した模型があります。
-
石材を運んでいる人ですが、なんともユーモラスですね。
通り一遍の再現模型ではなく、ちょっと遊び心のある展示がいいです。 -
おじさん達の表情がとても豊かなので、覗き込んで見てください。
-
城の屋根の構造の模型です。
なんて細かい構造になっているんでしょう!
金属や化学合成物が何もない時代に、
何百年も木造建築物を保たせる技術は素晴らしいです。
日本には古来の卓越した技術や知恵があるのに、
それらを活かせていない気がします。
「屋根本瓦葺き。平瓦と丸瓦を主体に各種の役物瓦を用いて葺く
日本の伝統的な工法で、
城郭や社寺などに用いられる葺き方です。瓦は岐阜県産の耐寒瓦で、
1,100度を超える高温で焼成されています。
吸水率が低く、凍害に強いという特徴があります。
軒丸瓦や軒平瓦の紋様は、発掘調査で出土した瓦を参考にしています。
屋根下地はサワラの薄板を竹釘で打ち付けたトントン葺きで、
その上に瓦桟を打ち、瓦を葺いています。」 -
壁なんて、こんなに違う塗りが何層も重ねられているのです。
「土壁漆喰仕上げ。
日本古来の壁の工法で、下地の竹小舞の上に土壁を塗り、
漆喰で仕上げます。
竹小舞とは、丸竹や割竹を縦横に藁縄で編んで組み立てたもので、
土壁の骨組みになります。
土壁には、山土に水と藁すさを混ぜ半年以上寝かせて発酵させた荒土を
使用します。
荒土の手打ち作業から始まり、目潰し、大直し、斑直し、中塗りと
何度も土を塗り重ねて壁を厚くします。
漆喰は、銀杏草を煮込んだ上に麻すさ、石灰を混ぜて練り上げ、
長期間寝かせたものを使用しています。
また、外部の漆喰には、なたね油を混ぜて水に強い仕上げに
しています。」 -
壁を何層も塗り重ねているから、こんなに窓枠が厚いんですね。
桜の木越しに見えるのは、登城口のあった台所櫓です。 -
天守に登る前に、高欄櫓に来ました。
角の壁が外に膨らんでいます。「石落とし」です。
「石垣を上がって来る敵を攻撃するための仕掛けを言います。
外壁の一部を石垣上に張り出して、
下に向けた開口部から攻撃出来るように造られています。
外部は下見板張りになっています。」 -
外から見ると、この左の角の板張りの部分です。
-
太い梁が大きく湾曲しています。
古い木造建築に用いられている木材は、
現在の画一的な角材とは違い、様々な形を取り入れています。
それがまた建築物の美しさを形成しています。 -
それらの梁には、こうした墨書がところどころに見られます。
-
イチオシ
高欄櫓の上層階からは、天守を間近に見ることが出来ます。
大洲城天守は破風(はふ)が多く屋根を葺くのが難しいそうです。
天守の第4層にある丸みを帯びた唐(から)破風が珍しいです。
屋根瓦は、寒さに強い岐阜県産の燻し瓦を使用しています。 -
のどかな大洲の眺め。鉄道の汽笛がよく聞こえます。
では、天守に行きましょう。 -
大洲城の天守の大きな特徴が、この吹き抜けです。
お陰で、中まで光が入って大層明るいです。
元々こういう構造だったのかなあ?
「心柱(しんばしら)
心柱を有する天守は姫路城が有名ですが、他の天守では
あまり使われておらず、一般的な構造ではありません。
大洲城天守の場合、心柱の位置も建物の中心ではなく、
半間(約1m)北寄りにあり、他に例を見ない構造です。
心柱は3階の床下で上下2本に分かれています。」 -
「黒漆塗胸薫韋綴二枚胴具足
(くろうるしぬりむねふすべかわとじにまいどうぐそく)」
江戸時代中期。
当具足は黒塗漆の横?板を薫韋で綴じた二枚胴の鎧で、前立、?盾、
兜には大洲藩加藤家の家紋である蛇目紋が金の蒔絵で施されている。
左右籠手を1つつなぎにした指貫籠手が珍しく、
大洲藩加藤家に伝来した具足である。
愛媛県歴史文化博物館所蔵品を参考に製作したもの。」 -
火縄銃
大洲藩お抱え鉄砲鍛冶である井上家13代関右衛門寿次の作。
井上関右衛門の火縄銃は美麗で装飾過多な一般的な堺筒と一線を画し、
シンプルで廉価のものになっており、四国地方に数多く流通している。
井上家は初代八兵衛が大洲藩二代泰興公に丸亀城に在番
(大名が改易の際、他の大名が無主となった城を守ること)
の際にお供を命じられ、
その後も五人扶持の俸禄米を与えられるなど重用されるようになった。
また、泰興公より八兵衛の子の為徳を関右衛門と改名するように
仰せつかったことから、井上家は代々「関右衛門」を名乗り、
明治まで約200年17代にわたって、この襲名は続いた。
その後、井上家は大岡越前守・三宅土佐守・京極甲斐守等の全国の
御用を勤めるなど堺鉄砲鍛冶の名家として発展し、
拡張した家屋は現在も江戸時代の鉄砲鍛冶の工場と住居の遺構を示す
我が国唯一の建築物(堺市有形文化財)として現存している。
大洲市立博物館所蔵品を複製したもの」 -
「天守の特徴
大洲城天守の特徴の一つは、その外観にあります。
天守1階の大きさは11.8m×13.8mで、
規模からは3層の天守が一般的ですが、
大洲城は例の少ない4層の天守です。
各層の屋根に配された千鳥破風や唐破風の数も多く、
5層の天守と似た外観です。
外部は土壁保護のため下見板張りとし、
2階に連続してある火灯(かとう)窓とともに、
天守の外観を特徴づけています。
高欄櫓と西多聞櫓も古絵図では下見板張りでしたが、
復元では明治の古写真にならい白壁にしています。
内部の構造では、心柱の存在が挙げられます。
また、天守1階の階段周りの吹き抜け空間なども、
他の城郭の天守にはない特徴です。」
吹き抜けは元々あったんですね。こんな城見たことない。
すごく現代風です。 -
吹き抜け部分です。城に付き物の、急傾斜の階段があります。
-
更にすごい階段が。
危ないのでここでスリッパを脱いで上がれるように、
青い籠が置かれています。
こういう階段が忠実に再現されていて良かったです。
最近は上りやすいようにとか、ケガをしないようにとか、
果てはバリアフリーとかで、
緩やかな階段に変えたり、エレベーターまで設置してしまいます。
城本来の形を変えてしまったら再現の意味がありません。
城は展望台ではないのだと理解して欲しいものです。
その点で、大洲城は素晴らしい再現をしています。
階段は急ですが、何故かとても上りやすいです。 -
隣の高欄櫓が真横に見えます。
さっきは、あの窓から天守を撮りました。
「大洲城は、1873(明治6)年の廃城後、国による土地の払い下げが行われ、内堀の内側の全てが個人(士族)の所有になった。
この大洲城跡が一個人の所有になっていることを憂い、
明治25年元喜多郡長下井小太郎(旧大洲藩士)によって、
大洲城跡を庶民の遺跡として後世に残すために、
公園化する活動が推進されはじめた。
この時、本丸を中心に植栽されたのが桃の木である。」
その後「大洲城山の桃林」として有名になりました。 -
柱材(天守2階)
「柱材は、市民手作りの復元を目指し、
市民の皆さんから提供された木材を使用しています。
全ての柱材は、調達先を記録に残しています。
柱材には、伝統工法に倣い背割りを入れていません。」
柱の1本1本が、誰からの提供なのかを明示しているのです。
天晴れ、公明正大。 -
第3層。板の間だけで、特に何もありません。
-
柱材(天守3階)の図。ちょうどいい見取り図です。
-
階段を真下から見ると、そそり立つようですね。
あの上に辿り着けば最上階です。 -
最上階4層には、鯱が待っていました。
結構ひょうきんな顔をしています。
「この鯱は、天守の屋根に取り付けられているものと同じ瓦製の鯱です。
市立博物館に残る寛文5(1665)年製の鯱を参考に製作しました。
鯱は空想上の生き物で、水や雨と関係することから、
火除けのまじないとして建物の最上部に取り付けられています。」 -
柱材(天守4階)の図。
階段が一つになりました。もうこの上はありません。 -
急な階段というものは、下りる時の方が危険です。
自信がなかったら、潔く後ろ向きで降りましょう。 -
下りる時には、目の前の梁に「ちょんまげ」をぶつけないよう、
ご注意ください。 -
梁
「大洲城に使用した梁は、天守で99本、多聞櫓で12本の
合計111本です。
木曳き式に使用したこの梁は、その中で3番目に大きな梁です。
樹齢は約350年の木曽桧です。
梁の断面は、丸太の大きさを生かして、八角形に仕上げました。」 -
天守大きさくらべ
「この図は大洲城天守と他の天守を同じ縮尺にした物です。
天下人の天守に、現存天守の代表として姫路城天守と
四国に現存する木造天守を並べて示しています。
関ヶ原の合戦までは織田信長の安土城と、豊臣秀吉の大阪城の天守が
もっとも大きな天守でした。
しかし、関ヶ原の合戦後、徳川家康の江戸城天守をはじめ、
各地に大型の天守が造られるようになりました。
現存する姫路城天守もその中の一つです。
一方、四国では高松城を除いて比較的小型の天守が造られました。
大洲城天守は現存する四国の木造天守と比較しても一番の高さです。」 -
「城の縄張り
大洲城は、肱川のほとりの小高い丘(地蔵ケ丘)を中心に
造られています。
丘の北東斜面は急峻で直下を肱川が流れており、
天然の要害を成しています。
丘の上を本丸とし、中腹から麓に掛けて本丸を半ば囲うように
城主の御殿のある二の丸があります。
二の丸の南と西側には重臣たちの屋敷が並んだ三の丸があります。
三の丸の東端には大手門を、南端には搦手(からめて)門を設け、
これらが主な出入り口となっています。
それ以外は、二重の堀と山でなわばりを構成しています。
城下町は、城の東に造られました。
その南にも堀で囲われた武家屋敷があり、山の谷筋にいくつもの寺が
並び、いざという時の防御拠点となるように考慮されています。」 -
こうして見て来ると、この城は確かに近年の建築物ではありますが、
実像を忠実に再現していて、正に「新品の本物」でした。
床はつるつるで気持ちよく、在りし日の姿をそのまま感じることの出来る素晴らしい城でした。
構造もおもしろいし、何と言っても「新品」。
明るくてきれいで、新築のお宅にお邪魔したみたいに楽しかったです。 -
では、城山から降りて行きましょう。
これから、大洲の町歩きをします。 -
新聞店の看板がレトロ感満点。
こちらが朝日新聞で、あちらが日本経済新聞。 -
お向かいの店頭には、和菓子の押し型。どんなお菓子が出来たのかな?
古いものを展示するのはいいのですが、
ただ並べて置くだけでは魅力半減です。
もっと見てワクワクするような、ディスプレイに出来ないかなあ。
「昭和レトロ」を売りにしているようですが、
単に古いまま放置されていて、見ても楽しい雰囲気はありません。 -
そんな中、ゲストハウスを発見しました。
町の中には古民家を利用したゲストハウスやイベント用のリビングなどが点在しています。
大洲を訪れる外人さんが多くなったのでしょう。
ゲストハウスは同性の相部屋なので、ちょっと敷居が高いですが、
中には、その部屋を貸し切ることで個室にすることの出来る宿も
あります。 -
一昨日泊まった愛媛県西条市にある「源泉かけ流しの湯 いよ西条
湯之谷温泉」がそうでした。
1部屋にベッドが2つ。それぞれが左右の壁際に着けて置かれており、
間仕切りがあります。
荷物を入れるロッカーまでありました。おもしろい体験でした。
但し、元々がドミトリーなので、隣の部屋との壁もただあるだけで、
会話はもちろん物音が全部筒抜けです。
夜更かしする人には向かないですね。
写真右側の建物がゲストハウスで、左が温泉です。
日帰り温泉をやっているので、地元の人がたくさん来ます。
結構うるさいので、夜9時過ぎくらいに入るといいです。
早朝は宿泊者だけなので、ゆったり浸かれます。源泉かけ流しの宿 湯之谷温泉 宿・ホテル
-
おおず赤煉瓦館。1901(明治34)年に建築。
イギリス積みの赤煉瓦壁に、和瓦葺き寄棟造屋根という
和洋折衷の洋館です。おおず赤煉瓦館 名所・史跡
-
手書きですが、建物の構造がわかります。
ここも街歩きのメインの一つですが、なんだかパッとしません。
古くて珍しい建物があればそれでいい訳ではないんですよね。おおず赤煉瓦館 名所・史跡
-
肱川に出ました。架け替え工事中の肱川橋が見えます。
その奥に大洲城も見えます。この辺りでは、鵜飼も行われています。 -
「おおず赤煉瓦館」の奥から隣の「思ひ出倉庫」に行かれます。
-
奥の白壁の土蔵が「思ひ出倉庫」です。
昭和30年頃の再現のようです。
もうこの年代を懐かしむ人はかなり少ないと思います。
却って、平成生まれの方が珍しいと思うのかな? -
地続きの「ポコペン横丁」は、冬季(12~2月)は
第3日曜のみなのだそうです。
3月の第3日曜日以降は、毎日曜日10~15時半に行われるそうです。ポコペン横丁 名所・史跡
-
ブリキの看板がやたら貼ってあります。
-
見てわかるのは「オロナミンC」だけだなあ。
-
意外なものを発見。アルフォンス・ミュシャ の
『ゾディアック(黄道十二宮)』です。
「まぼろし探偵団本舗」って何? -
こうした古いブリキ看板だけしかないので、
冬は来ても仕方のない場所です。 -
古い車なので「スバル360」かと思ったら、
「MAZDA」とありました。
暖かい時期は、どうなっているんだろう。 -
「ポコペン横丁」から、石張舗装の道を歩きます。
角の家は、角部分にもう一面あります。おもしろい造りです。 -
この郵便ポストは、ロケ地です。
1991年に放送された「東京ラブストーリー」が撮影されました。
「完治が買ってきたジュースをリカが受け取った場所。
リカが完治に気づかれないよう、密かに完治のマンション宛に
別れの手紙を投函したポスト」
どんな話だったんだろう? -
古過ぎて崩壊寸前の家が多く見られます。
-
今から修繕して使うのかな?ほとんど「ビフォーアフター」だね。
でも、うまくやれば外国人受けするのかも。 -
「明治の家並み」を歩いていると、道の先に妙な形の塔が建っています。
-
大洲神社でした。城の階段も急だったけど、ここのは更に長いなあ。
今日は元日。行くしかないか。大洲神社 寺・神社・教会
-
大洲神社は、初詣の人が長蛇の列を作っていました。
先程の直線の階段の先に曲がりくねった階段が続くのですが、
そこが既に並んでいる!
お参りは諦めて、社殿だけ見て戻ります。大洲神社 寺・神社・教会
-
大洲神社からまっすぐ国道沿いに歩けば、まちの駅に戻れるのですが、
ここを省いてはいけません。
「おはなはん通り」NHK連続テレビ小説のロケ地なんだそうです。
と言われても、見たことないもんなあ。
道幅が7.2mと広いのは、江戸時代の道が残っているからです。
北側(右)が商家、南側(左)が武家屋敷でした。 -
道の脇の水路には、こんな花壇がありました。
竹を使うなんて、風流ですね。 -
「おはなはん通り」を振り返ります。
馴染みのないロケ地より、街並みを整備して、
街歩きが楽しいようにした方がいいと思います。
去年訪れた津和野は、すっかり垢ぬけて綺麗な町になっていました。
観光客が多くてびっくりしました。
大洲まちの駅の脇の「れんが舗装の道」も、舗装だけで、
え?これだけと思いました。
松山から宿毛へ南下する途中、たまたま思い付いて立ち寄った大洲の町。
目当ては大洲の町歩きだったのに、大洲城には感激したけれど、
町並みは「う~ん、もう来ないね」でした。
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